目 次

ユートピア概論
  ユートピアとは
  トーマス・モアのユートピア
  ユートピア実現事業

ユートピア実現の試み事例

 1.ピューリタンの民主主義社会
 2.クエーカーたちの理想都市
 3.シェーカーズ教徒村
 4.イエズス会のミッション
 5.ユートピア社会主義者の夢
 6.オーウェンの協同組合
 7.フリエの生産・消費協同社会
 8.ロシアの農民ユートピア国
 9.トルストイの「イワン王国」
 10.ガンジーの「インド独立国家」
 11.武者小路実篤の「新しき村」
 12.毛沢東の「人民公社」
 13.伊藤勇雄の人類文化学園
 14.農大生たちの「杉野農場」
 15.ブラジルの弓場農場
 16.シュタイナー「ひびきの村」
 17.ヤマギシ会「ヤマギシの村」
 18.脱日本運動の「ノアの方舟」
 19.パラグアイのメノニータ社会
 20.モルモンの理想郷ユタ
 21.アドベンチストの学園村
 22.イスラエルのキブツ
 23.エホバの証人の地上天国
 24.デンマークの共同体
 25.ヒッピーの生活共同体
 26.マレーシアのイスラム村
 27.ドイツの学生生活共同体
 28.宮沢賢治のイーハトーブ
 29.宮崎駿のユートピア文学
 30.南米の理想郷「インカ都市」
 31.国宝美術作品の理想郷図
 32.未来都市ブラジリア
 33.都市工学のユートピア「海市」
 34.宇宙空間のユートピア計画
 35.ユートピア的企業例:トヨタ
 36.ユートピア社会造り企業:松下
 37.ユートピアを模索する産業
 38.ユートピア商売のリゾート産業
 39.フィンドホーン共同体
 40.生産勤労共同体「共働学舎」
 41.共生共存企業「わっぱの会」
 42.無所有奉仕共同体「一燈園」
 43.小さな共同社会「癒しの郷」
 44.宗教的社会福祉企業の大倭教
 45.理想的社会造りのNPO

ユートピアの条件:自給自足

 1.自給自足の生活と概念
 2.自然農法、有機、無農薬他
 3.自給自足を目指した試み
 4.本サイトの結論


作者の他のサイト

ラテンアメリカはいかがですか
ブラジル  パナマ
国際サバイバル道場


2003年2月25日より









関連サイト

1.ユートピア社会主義者たちの理想と現実

2.ロバート=オーウェン 

3.ロバート=オーウェン(ROBERT OWEN)

4.社会主義観の変遷

5.人間観の歴史と関係力

6.ユートピア主義者や社会主義者

7.ユートピア社会主義者達の夢

 ロバート・オーウェンのニューハーモニー計画
「協同村」という計画された庭園都市


 ローバート・オーウェンはイギリスにおける最初の社会主義思想家であり実践家でもありました。19世紀のイギリス産業革命のまっただ中に理想社会の実現をめざした勇気あるユートピアンです。

 彼は、協同組合、労働組合、労働交換所、工場厚生福利施設、工場立法、世界最初の幼稚園、労働者新教育、性格形成論、環境社会学、新結婚観、既成宗教の否定、都市と農村の結合、協同社会、夏時間、グリーン・ベルトなど労働者のための様々な構想を発案し、産業界に革命を持ち込みました。


 彼は若くしてスコットランドのニュー・ラナーク村の紡績工場の支配人になり、経営を成功させ、労働者の過酷な生活と精神の不健全さをみて、労働時間や生活改善に努力しました。

 1813年に「新しい社会観」を著わし、{人間の性格は環境の産物であるからなによりも環境の改善によって労働者の性格を変えねばならない}と訴えています。そのために彼は「性格形成学院」を創設し、誉めたり叱ったりする賞罰をすべて否定するという独自のカリキュラムにもとづいて幼稚園や小学校のみならず夜間の成人学級をも経営していました。これは暗記教育が一般的だった当時の教育界では画期的なものでした。

 さらに、彼は1825年からアメリカのインディアナ州に自給自足を原則とした私有財産のない共同生活村(ニュー=ハーモニー村)を多額の資産を投入して創設しました。彼はここで、
1. スクウェア・パレスという壮麗な建築物をニュー=ハーモニーの丘に建築する。
2. アメリカ独立運動の発祥の地であり文化の中心であったフィラデルフィアの「フィラデルフィア自然アカデミー」の科学者たちをコミュニティに参加させる。
3. 完全平等のコミュニティ実現のための新憲法を制定する。
という3つの大計画を行いました。しかし、結局実現できたのは3番目の新憲法の制定だけで、ニュー=ハーモニー村は1827年に内部分裂と経済的な行き詰まりから失敗してしまいました。
 その後失意のうちに帰国しましたが、彼の名声と影響力は国内で高まり、 私的利潤の撤廃を目指すロンドン協同組合の発足、ついで、100万人以上の加入者からなる全国労働組合大連合の議長も務めました。オーウェンの名はイギリス労働組合運動の父として不動のものになりました。
 工場法の制定や,労働組合・協同組合の育成にも貢献し、さらに世界で初めて幼稚園を創設するなど革新的な事業を企てました。

 オーウェンは「根絶さるべき社会の3悪」として、「私有財産」、「既成宗教」、「愛なき結婚」をあげています。

  
 オーウェンの生涯

 オーウェンが,ウェールズのニュータウンという町に生まれたのは,1771年であった。18世紀なかばごろから紡績業を中心に始まった産業革命が次第にそのスピードを速めながら,イギリス全土に広がりつつあった時期である。馬具や金物を扱う商人の家庭であった。
 オーウェンが両親と一緒に暮らしたのはわずか10年である。10歳のときに,みずからの意志で(!)ロンドンに出て徒弟修業にはいる。最初に勤めたのはスタンフォードのジェイムズ・マクガフォッグの店であった。高級生地を扱う店で,顧客は上流階級の人々である。マクガフォッグは,正直な商人として彼らの信用を得ていた。この店でオーウェンは上流階級の人々との接し方を学んだという。彼は自叙伝に次のような思い出を挿入している。

 ある日,大金持ちの未亡人が,高級織物を買いに来た。主人のマクガフォッグは,そのときたまたま店に置いてあった最高級の織物を未亡人に差し出した。必要以上の利益を得ず,どんな客にも掛値(かけね)なしで売ることを信条としていたマクガフォッグは,その値段が1ヤール(織物の単位)8シリングであると正直に告げた。すると未亡人は,「もっと上等なものが欲しいわ」と言う。もちろんこれ以上の織物は世界中どこを探してもない。しかしマクガフォッグは,上流階級の人々の性格を熟知していた。彼は「それでは」と言って倉に行き,同じ織物を持って戻ってきた。「ございました。ただお値段は10シリングになります」と言って未亡人に差し出しすと,未亡人はそれを手にとって調べ,「これこそ私が求めていたものです」と答えた。マクガフォッグは勘定書に値段を書き入れ,未亡人に手渡した。その勘定書には,1ヤール8シリングと記してあった。

 マクガフォッグは,相手の無知や無経験に乗じて利益を得るような商人ではなかった,という逸話である。まるで,短編小説か童話にでもなりそうな話だが,利益最優先の資本主義における拝金主義は,このような商人の良心(人間の良心と言ったほうがよいか)を駆逐してしまった,とオーウェンは言いたかったのかもしれない。

 このマクガフォッグの店で3年間修業したあと,オーウェンはフリント・パーマー商会に就職する。14歳であった。この店はマクガフォッグの店とは正反対に,下層階級の人々を顧客としていた。朝から晩まで働き,睡眠時間はわずか5時間という過酷な労働の中で,今度は下層階級の生活を知ることになる。
 次に移ったマンチェスターのサタフィールドの店で,オーウェンはある若い職人と出会い,ふたりで工場を設立して経営者への道を歩み始める。この工場は長くは続かなかったものの,その後ドリンクウォーター紡績工場支配人等を経て,1996年にコールトン撚糸(ねんし:よりあわせた糸)会社を設立,このころにはすでに有能な経営者としてその名をはせていたという。99年にアン=カロライン=デイルという名の女性と結婚,彼女の父からスコットランドのニューラナーク工場を買い取り,支配人となる。これがオーウェンの名を歴史に刻むことになった工場である。


 何度も繰り返すようだが,当時イギリスは産業革命がリアルタイムで進行していた。農地を失った貧しい農民や工場の出現で職を失った職人たちの多くは,炭坑で働くか都会に出て工場労働者となった。しかし,坑夫や工場労働者には技術はさほど必要ではない。結果的に,賃金の安い女性や子どもたちがそれらの労働を主に担うようになっていった。その労働は技術は必要とはしないものの,劣悪な環境のもとで単調な仕事を長時間続けることを強いられるという,従来の労働とは異なった過酷さをもつものであった。一方で,成人男性は失業状態となる。こうして,労働者街はしだいにスラム化していき,犯罪も増加した。マルクス・エンゲルスが後に指摘したとおり,資本主義は,その誕生のときからすでにさまざまな矛盾や問題点を内包していたのである。

 それらの矛盾や問題点を,オーウェンはニューラナーク工場で解決しようと試みた。  彼は,諸悪の根元は労働環境の悪さにある,人間の性格を形作るのは環境であるから,環境を整えない限り問題解決ははかれない,と考えた。そのために,労働者が住む住宅を用意し,生活に必要な品物をまとめて仕入れて原価で販売するシステムを作り,生活全般の面倒をみることのできる環境を作ろうと考え,それを実行した。なかでも,もっとも重要視したのは教育で,とりわけ幼児教育に力を注いだ(オーウェンは幼稚園の父ともよばれる)。
 もはや工場を中心とするひとつの町づくりであった。ニューラナークは,社会改良のメッカとして世界中から注目された。一方で,労働者たちは意欲的に働くようになり,結果的に効率が上がって工場経営的にも大成功をおさめる。これらの経験に基づき,1913年から14年にかけて,オーウェンは主著『社会にかんする新見解』(『新社会観』ともいう)を出版する。これによって,彼の理論は「性格形成論」として広く知れわたることになった。このニューラナークの成功は,のちのニューハーモニーの実験へと発展していく。


 さて,この時点でオーウェンは40代前半である。彼の人生は87年であるから,まだその半分を語ったに過ぎない。これだけでも「波瀾万丈」に3回ぐらい出演できそうなほど十分波乱に富んだ人生であるが,こののちも前半生に劣らず波乱の人生が続く。詳細に触れる余裕はないので,概略だけをたどってみる。

 1815年 工場労働時間規制法の提唱(33年の「工場法」の原案となる)
  17年 協同コミュニティ構想を提唱
  25年 アメリカで理想社会ニューハーモニー=コミュニティの建設を開始
  28年 全財産をつぎ込んだニューハーモニー計画が失敗に終わる
  29年 イギリスで協同知識普及協会創立
  31年 妻カロライン死去
  32年 雑誌「クライシス」発刊。労働公正交換所開設
  34年 全国労働組合大連合結成
  35年 万国全階級協会創立

 このように,オーウェンの後半生は,ひたすら理想社会の実現と労働者の生活・権利向上のために捧げられた。それは,右肩上がりの前半生とは違って,苦心して資金を集めては新しいコミュニティ建設に乗り出すものの,そのことごとくが短期間で失敗する,という繰り返しでもあったが,とにかく,そのすさまじい執念と行動力にはただただ脱帽するばかりである。  こうして社会変革の先頭を走り続けたオーウェンも,30年代後半あたりから次第にその影響力を失っていき,過去の人となっていく。それでもオーウェンは,生涯,社会変革への意欲を失うことはなかったという。晩年には心霊の世界にのめり込んでいたというオーウェンがこの世を去ったのは,1858年,87歳であった。


 工場経営者から「共産主義へ前進」

ロバート・オーウェン
●多面的なその活動
 労働者のための様々な構想を発案し、かつ実践した人としてロバート・オーウェン(1771〜1858年)の右に並ぶ人は少ないだろう。「協同組合、労働組合、労働交換所、工場厚生福利施設、工場立法、世界最初の幼稚園、労働者新教育、性格形成論、環境社会学、新結婚観、既成宗教の否定、都市と農村の結合、協同社会、夏時間、グリーン・ベルト等々――、今なお世界的関心をひくこれらのアイディアはみなオウエンの泉に回帰する」とオーウェン研究家で『オーウェン自叙伝』(岩波文庫)の訳者、五島茂氏が指摘するとおりである。

●工場経営者として
 7歳で小学校を卒業すると同時に、成績優秀を買われてその学校の助手兼教師となったオーウェンであったが、早くも10歳の時にロンドンに出て繊維関係の様々な商店に奉公する。この時に厳しい労働体験を通じて商品知識や簿記・在庫管理、経営管理を学んだことが後の工場経営者としての手腕やニュー・ラナークの実験に活かされる。
 オーウェンは当時発明されたばかりのミュール紡績機を購入して小企業を開業した後、マンチェスターに最新の紡績工場を擁する業界の大物、P・ドリンクウォーターに支配人として採用される。オーウェンは、青年男女労働者に子供も加え5百人ほどが働く新鋭工場を管理し、工程や機械の改良に没頭して目覚ましい業績を挙げる。さらに、この時期、彼はマンチェスターの知識人たちと交流し、旺盛な知識欲と向上心から自らの思想を形成していく。
 オーウェンはその後、ドリンクウォーターと袂を分かち、紡績会社を設立してその支配人になるが、グラスゴーで知り合った女性と結婚し、スコットランドの木綿王と言われた彼女の父の工場を買い取って「ニュー・ラナーク紡績会社」を設立、その総支配人となる。

●ニュー・ラナークの実験
 オーウェンが紡績工場経営者として出発した1780年代、90年代のイギリスでは、産業革命が疾風怒濤の勢いで進行していた。蒸気機関や新しい機械が次々に登場し、工場制手工業を近代的大工業に変え、ブルジョア社会を根底から変革しつつあった。大資本家とプロレタリアートへの社会の分裂が恐るべき勢いで進行し、かつての「中流階級」は急速に没落し不安定な生活を強いられた。都市には農村から流入した貧民たちが溢れ、家族制度など伝統的紐帯は弛み、犯罪が横行し、労働者大衆の堕落が深刻になっていた。
 エンゲルスはこうした時代に登場したオーウェンについて次のように書いている。
 「この時、29歳の一工場主が改革者としてあらわれた。彼は崇高なまでに子供らしくて素朴な性格の持ち主であり、同時に、稀にみる天性の人間指導者であった。彼ロバート・オーウェンは人間の性質は一方ではもって生まれた体質の産物であり、他方ではその生涯、特に発育期の個人の環境の産物であるという、唯物論に立つ啓蒙主義者の学説を信奉していた。彼と同じ階層の人々にとっては、産業革命とは混乱に乗じて漁夫の利を占め、一挙に成金になるに適した混乱と混沌に過ぎぬものであったのに、彼にとっては、それは、彼のモットーとするところのものを社会に提起して、混沌の中に秩序をつくりだすべき機会であった」(『空想より科学へ』)
 ニュー・ラナークでの実験については、オーウェン自身が自らの「性格形成論」を展開した文献、『社会に関する新見解』(1813〜14年公刊)で詳しく論じている(ニュー・ラナークでの実践は彼にとって人間は環境の産物であり、したがって環境を変えることによって人間を変えることができるという理論を実証する活動でもあった)が、ここではエンゲルスの巧みな要約を紹介しよう。
 「彼(=オーウェン)は、後にはしだいに増加して2千5百人になったが、はじめは種々雑多な著しく堕落した分子からなっていた住民を、完全な模範コロニーにつくりかえた。そこでは泥酔、警察沙汰、裁判沙汰、訴訟沙汰、救貧、慈善の必要が全くなくなった。そしてそうなったのは、ただ彼が人間を人間らしい状態におき、特に青少年を注意深く教育したというだけのためであった。彼は幼稚園の発案者であって、はじめてそれをこの地に開設した。児童は二歳になると幼稚園に入れられたが、幼稚園があまり楽しいところであったので、子供たちは家にかえるのをいやがった、ということであった。彼の競争者が毎日13時間―14時間もその職工を働かせているのに、ニュー・ラナークでは十時間半しか働かなかった。棉花恐慌のために4カ月間の休業をよぎなくされた時でも、休業労働者に対して賃金全額が払われた。それでいてこの会社は価値を倍以上に増加し、所有者には最後までゆたかな利益が配当された」(同)

●「共産主義に前進」
 ニュー・ラナークの実験により、オーウェンは一躍博愛家、慈善家としてブルジョア社会でもてはやされるようになり、ニュー・ラナークはやがて「社会改良者のメッカ」と言われるようになった。
 しかし、彼はこの成功だけでは満足しなかった。ニュー・ラナークでできたことは社会全体でできるはずだし、また社会全体で採用しない限り、本当の意義は明らかにならないと考えたのである。
 「オーウェンにとっては、この〔産業革命が生み出した――引用者〕新しい巨大な生産力は、社会改造の基礎となすべきものであって、それは当然万人の共有財産として、万人の協同福利のためにのみ使用さるべきものであった。
 オーウェンの共産主義とは、こうした純然たる事務的方法のもので、いわば商人的打算の結果であった」(エンゲルス、同)
 オーウェンの共産主義プランは、1820年のイギリス全土を襲った恐慌後、徐々に具体的な形を取るが、それがある程度まとまった形を取ったのは、ニュー・ラナーク州庁に依頼されて失業の原因を分析し報告した文書、『ラナーク州への報告』(1821年公刊)だとされている。
 五島茂氏によれば、その内容は次のようなものである。「リカードゥの経済理論、とくに労働価値説を素朴ではあるが階級的にとり入れ」、「貨幣はあらゆる害悪の根」と論難し、「人間労働本位制労働紙幣を主張し、十数年後の全国衡平労働交換所開設への発展の根底をつくった」。また新しい農業技術を取り入れ、「農工連帯の協同体建設を主張」した(中央公論社『世界の名著42』解説から)。
 オーウェンはこうしたプランを抱いて1824年にアメリカに渡り、「ニュー・ハーモニー協同体」の建設に乗り出すが、意見の対立や金銭上のトラブルから28年には退村を余儀なくされ、イギリスに戻る。
 彼がアメリカ滞在中の1826年7月4日、アメリカ建国五十年記念の日におこなった演説、「精神的独立宣言」はこの頃の彼の思想的到達点を示していて興味深い。彼はその中で、「悪の三位一体」として「私有財産、矛盾と不合理な宗教、それらいずれか一つとした結合した不合理な結婚制度」を挙げ、それらの「奴隷」として生きてきた人類の解放を謳った。
 エンゲルスはオーウェンにとってのこの“共産党宣言”によって彼の生涯は激変したと書いている。
 「共産主義への前進によってオーウェンの生涯は転換した。彼がただの博愛家としてふるまっていた間は、彼の得たものは富と称賛と栄誉と名声であった。ただ彼と同じ身分の人たちばかりでなく、政治家にも王侯にも彼のいうところを傾聴したものがあった。だが、共産主義理論をひっさげて出現すると、形勢はたちまち一変した。なかんずく彼の社会改良の道を塞ぐように思われた大きい障碍が三つあった、私有財産、宗教、現在の結婚形式、その三つであった。これらのものを攻撃するならば、どんな目にあわされるか、それを知らされた。それはいうまでもなく、公的社会による一般的追放、全社会的地位の喪失であった。けれども彼は断乎としてこれらのものを攻撃することをやめなかった。結果は予期していたとおりであった。すなわち、彼は公の社会からは追放され、新聞からは黙殺され、全財産を投げ出してやったアメリカにおける共産主義的実験の失敗のために零落した」(同)
 しかし、エンゲルスはまた、オーウェンはいささかもひるむことなく、「まっしぐらに労働者階級の方に身を寄せ、その後なお30年、彼らのうちで活動を続けた。イギリスで労働者の利益のために行われた一切の社会運動、一切の現実の進歩はすべてオーウェンの名前に結びついている」として彼の活動を称えている。
 エンゲルスがオーウェンの功績として挙げているのは、「工場における婦人及び児童労働の制限に関する最初の法律を実現した」こと(1819年)、イギリス最初の単一労働組合連合体を組織しその第一回大会議長となったこと(1833年)、「協同組合(消費組合及び生産組合)を始め」て、「商人も工場主もかならずしもいなくてもいい人物であるという証拠」を作ったこと、「労働バザー、すなわち労働時間を単位とする労働貨幣によって労働生産物を交換する施設をつくった」こと等々である。最後の点についていえば、この施設は「後のプルードンの交換銀行の完全な先駆」となったが、プルードンと違ってオーウェンにあっては「これは一切の社会的害悪の万能薬ではなく、単に一層根本的な社会改造へのほんの第一歩にすぎないものと考えられていた」。

●社会改良家としてのオーウェン
 しかし、我々はオーウェンが「共産主義へ前進した」としても決して革命家にはならなかったことも確認しておくべきであろう。彼の立場は、アメリカで行った例の「精神的独立宣言」に端的に現れている。この時の演説内容は、後1839年4月に雑誌『新道徳世界』に「結婚・宗教・私有財産」と題して掲載されたが、そこで彼は次のように述べている。
 「達成されなければならない仕事は、平和裡に、すべての人びとの益になるように、神秘的な宗教――自然の諸法に逆らう人為的な法律――私有財産――愛情なき結婚――売淫――貧困――または貧困の恐怖――および暴力と不正な手段による統治――などを根絶することであります。そして、これらの諸変革は、宗教的または精神的な自由の制限、あるいは暴力による政府の変革なしに行われなければなりません」(訳文は前掲『名著』より)
 ここにはオーウェンの思想的到達点と限界が明確に現れている。彼にとって、宗教が他のあらゆる宗派に対する排他的態度によって人間同士の対立をあおり、あらゆる「非合理的な行為の原因」となっていることは明らかだった。
 私有財産も排除すべき悪しき遺産の一つである。それは「貧困の原因」であり、「きわめて少数の人々による、人類の大多数の人々に対する最も悲惨な圧迫の原因」であり、「戦争と殺人の原因」であり、「人々の間に愛といつくしみをもたらすことへの強い阻害要因」であり、「最も重大な利益を失うような社会状態にすべての人が服することを強要する手段」であった。
 また、不自然で半野蛮で「人為的でしかも解消不可能な結婚」は「多数の人々を少数者の特権と優位性のもとに、無知と服従の状態のもとにおくものであり、圧制者たちの横暴をほしいままにさせるものであり」、「私有財産制――この制度が支持されている間は、人と人との心を割かずにはおかないし、世界のすべての国々の統治権力者が頭脳と精神を邪悪にし、横暴にする――をつくり、かつそれを奨励するものであり、男と女をきわめて複雑な欺瞞の体系におしこむことになる」。
 そして、オーウェンはすべて正当なこれらの論拠の上に「実行しうる限り早く、すべての私有財産を廃止しなさい。そうすれば、あなた方は……合理的な結婚を採用することができます」と説く。
 ところが、彼がこのように主張するのは、実は革命を避けるためなのである。
 彼は言う、「このような状態は長続きしません。――賢明で先見の明のある道徳的な変革か、あるいは、はてしのない、予知することができない罪悪をともなった、愚かで不消化な物理的な力による革命が、まもなくおこるでありましょう。そして、後者が、大多数の人々の状態を悪化させることがあっても、きわめて短期間は別として、実現することはほとんどないものと思われます」。
 オーウェンが共産主義に接近しながら、あくまでも社会改良家の域を出なかった所以である。革命は暴力であり破壊であり、「大多数の人々の状態を悪化させる」が故にどうしても避けなければならない――このような牢固とした観念を生涯払拭できなかったオーウェンは、労働者の友として資本主義のもとで可能なありとあらゆる有益な活動を展開しながら、結局は改良主義者にとどまった。そして彼の後継者たちは、協同組合運動を絶対化するなどして、客観的には労働者の闘いを資本主義のもとでの改良運動に押し込める役割を果たすことになったのである。


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