目 次

ユートピア概論
  ユートピアとは
  トーマス・モアのユートピア
  ユートピア実現事業

ユートピア実現の試み事例

 1.ピューリタンの民主主義社会
 2.クエーカーたちの理想都市
 3.シェーカーズ教徒村
 4.イエズス会のミッション
 5.ユートピア社会主義者の夢
 6.オーウェンの協同組合
 7.フリエの生産・消費協同社会
 8.ロシアの農民ユートピア国
 9.トルストイの「イワン王国」
 10.ガンジーの「インド独立国家」
 11.武者小路実篤の「新しき村」
 12.毛沢東の「人民公社」
 13.伊藤勇雄の人類文化学園
 14.農大生たちの「杉野農場」
 15.ブラジルの弓場農場
 16.シュタイナー「ひびきの村」
 17.ヤマギシ会「ヤマギシの村」
 18.脱日本運動の「ノアの方舟」
 19.パラグアイのメノニータ社会
 20.モルモンの理想郷ユタ
 21.アドベンチストの学園村
 22.イスラエルのキブツ
 23.エホバの証人の地上天国
 24.デンマークの共同体
 25.ヒッピーの生活共同体
 26.マレーシアのイスラム村
 27.ドイツの学生生活共同体
 28.宮沢賢治のイーハトーブ
 29.宮崎駿のユートピア文学
 30.南米の理想郷「インカ都市」
 31.国宝美術作品の理想郷図
 32.未来都市ブラジリア
 33.都市工学のユートピア「海市」
 34.宇宙空間のユートピア計画
 35.ユートピア的企業例:トヨタ
 36.ユートピア社会造りの企業
 37.ユートピアを模索する産業
 38.ユートピア商売のリゾート産業
 39.フィンドホーン共同体
 40.生産勤労共同体「共働学舎」
 41.共生共存企業「わっぱの会」
 42.無所有奉仕共同体「一燈園」
 43.小さな共同社会「癒しの郷」
 44.宗教的社会福祉企業の大倭教
 45.理想的社会造りのNPO

ユートピアの条件:自給自足

 1.自給自足の生活と概念
 2.自然農法、有機、無農薬他
 3.自給自足を目指した試み
 4.本サイトの結論


作者の他のサイト

ラテンアメリカはいかがですか
ブラジル  パナマ
国際サバイバル道場


2003年2月25日より








関連サイト


1.コ・ハウジング(co-housing)、
 エコ・ヴィレッジ(eco-village)


 マレーシアの「イスラーム村」
〜イスラーム復興運動を担ってきたイスラム団体アルカムの生活共同体〜

マレーシアでは、イスラーム復興運動は特にマレー語で「布教、伝道」を意味する宗教用語ダッワー(dakwah/da'wah)*2を用いて、ダッワー運動(gerakan dakwah)と一般に呼ばれている。この運動の主体は、主として大学生、都市中間層といったマレーシアの国家政策、開発政策が施行される過程で形成されてきた新しい階層の人々であることが観察されている(e.g. Chandra 1987, 1988; Nagata 1984)。都市部を中心とする新興マレー人社会の宗教活動の一部がダッワー運動なのであり、これは極めて今日的な現象といえる。

 興味深いのはこの団体のもつ2面性である。一方で、現代のダッワー団体として、近代的マスメディアを利用し、特定の地域に密着しない全国的規模でのメンバー募集をおこなってきた。共同生活やムスリム啓蒙活動に要する資金を得るための経済活動も活発である。

 他方、アルカムは神秘主義教団(tariqat)でもある。そのイスラーム信仰の中核にはマレー世界に起源をもつとされる旧来の地方的なイスラーム神秘主義思想を採り入れている。これはムハマディア派神秘主義(Aurad Muhammadiah)*5と称するもので、ジャワ出身のシェイク・スハイミ*6と呼ばれる人物を始祖としている。アルカムはこの思想を現代的に改変し、さらに独自の終末論を発展させ、神秘主義思想の再活性化を成し遂げてきた。

 このマレー土着のイスラーム信仰を発展させたアルカムの思想は非常に興味深い領域であるが、この問題について論ずるのは別の機会に譲りたい。本稿においては、アルカムによるダッワー運動の活動面、組織面に焦点を当てることとする。「イスラーム復興」を目指して彼らが展開してきた活動について、そしてその活動を担う人々という基本的な事項について、一次的、二次的資料から考察をおこないたい。
 尚、現在アルカムは宗教上の理由その他により政府から活動が制限されている。1994年8月には結社法(Akta Pertubuhan)の適用により、指導者とメンバー数人が当局に拘束されるなどし、以後その活動形態は縮小ないし変化したものと考えられる。本稿で用いられる資料は1993年時点のものであることをことわっておく。
 次節に移る前に、この団体の発展の概略に簡単に触れておきたい。まず、他の主要なダッワー団体は既存の組織やネットワークを下地に発展してきた*7のに対し、アルカムは自然発生的なイスラーム同好会から始まった。1968年、当時公立学校の宗教教師であった Ustaz Ashaari bin Muhammad(ustazは敬称*8、ウスタス・アシャーリー・ビン・ムハマッド、以下 Ustaz Ashaari と略す)がイスラーム勉強会を提唱した。クアラルンプルのマレー人居住区内に10人程度の有志が集まり、聖典の学習、真夜中の礼拝(qiyamullail)をおこない、その他、ムスリムの魂を鍛えるため、悪い欲望と闘う(mujahadah)、アッラーの恩寵を求める(muraqabah)等の精神的活動を重視していた(Yayasan Al Arqam 1993)。
 組織として急成長したのは70年代〜80年代前半のことである。アルカムの活動の最大の特徴は、メンバーの生活共同体であるイスラーム村(Perkampungan Darul Arqam)の存在であるが、これらの大半の建設はこの時期に行われている。知名度も上がり、70年代末にはアルカムの名とその本部スンガイプンチャラ村(Kg. Sungai Penchala, K.L.)はマレーシアの一般家庭にも知られるようになった(Hussin 1990, p.62)。
 80年代に入るとUstaz Ashaariのイスラーム信仰内容、特にその神秘主義的手法の是非*9やリーダーシップを巡り、団体内部で数次の内紛が起きている。結局はUstaz Ashaariがメンバーの大多数の支持を得て運動を続行するのだが、内紛の際に露になった彼のムハマディア派神秘主義思想を政府イスラーム局(Pusat Islam)は、シャリーアから「逸脱した」ものと判断した。Ustaz Ashaariは一度はこれ以上その教えを広めないことを当局に言明したものの、1988年にはアルカムの副称として「ムハマディア派神秘主義教団(Tariqat Aurad Muhammadiah)」を正式に採用している。
 当局からの規制を経験しはじめた頃と前後して、アルカムの活動は国境を越えるようになる。Ustaz Ashaariを筆頭にメンバーで構成されるミッションを世界各地に送り、交流活動、文化活動をおこなったり、アルカムの拠点や事務所を置くなどしている。1992年時点で、東南アジア諸国、中東、西欧諸国に15の支局を開設している。これらの支局は海外のアルカムのメンバーが共同で暮らす場にもなっているという。


2.ダルル・アルカムのダッワー活動

2−1 イスラーム村の設営

【生活:イスラーム村】
 アルカムはマレーシア各地に43*10のイスラーム村と、約400余りのマルカス(markaz、支所)*11を所有している。これらの居住地はメンバー達の生活共同体であり、ダッワー活動本部である。
 村の建設は運動のかなり早い時期から実現されている。第1号は、1971年にクアラルンプル郊外のスンガイプンチャラ村に4エーカー(1エーカーは4,047u)の土地を、Ustaz Ashaariと近しい友人達で共同購入したという。ゴム林を開墾し、自力で家屋を建て、人が住めるようになったのは1973年のことであった。この頃はまだ電気も水道も舗装された道路もなかったが、ここにアルカムの最初のイスラーム村が完成し、以降このスンガイプンチャラ村はマレーシアにおけるアルカムの活動本部となった。

 アルカムが組織として成長すると共にイスラーム村の数も増えた。ある村(Batu Hampar, Bruas, Perak)では試験的に農業がおこなわれ、パハン州の村(Kg. Sempadan, Pahang)にはアルカムの教育施設が集中して置かれるなど、村の設営は全体として統制されている。広さや居住人数は、10数人の村から600人近くが集住する22エーカーの村(Kg. Sempadan)まで様々である。土地の取得方法は、メンバーまたは支持者からの寄付、メンバーによる共同購入、アルカムによる購入が主な手段で、わずかながら政府から間接的に譲渡された土地もある*12。
 各村には、住居、礼拝所(surau)、病院(産院)、教育施設、学生寮、雑貨店、外来者のための宿泊所等が整備され、メンバーの日常生活は外部に依存する必要のない、ほぼ自己完結的な空間となっている。

 生活は徹底的なシャリーアの実践が要求され、厳密な戒律主義が基本となっている。個人の行為あるいは集団の行為双方を、イスラームの5つの行動規範(ahkamullah)に沿わせるのである。ムスリム個人、集団のあらゆる行為は@義務(wajib)、Aしたほうがよい(sunnat)、Bどちらでもよい(mubah)、Cしないほうがよい(makruh)、D禁止(haram)に分類される。一般のマレーシアのムスリムは@義務とD禁止の事項を最低限守っているが、アルカムではその規制の範囲を広げ、@、Aを義務として課し、同様にC、Dとも禁止事項として共同生活を送るメンバーに課している*13。それら以外にも、預言者ムハンマドが行っていたといわれる行動も模倣される*14。言うまでもないことだが、これらの実践を完璧に行うためにこそ外界の影響を排除したイスラーム村が必要とされているのである。
 メンバーは各地のイスラーム村に居住したり、村の外に自宅があればそこから毎日通う。住居は村の敷地内、あるいはその近隣にアルカムが所有する家屋や借り上げたものが提供される。基本的に独身メンバーは寮で共同生活を営み、結婚後は独立した家屋が与えられる。村の外に職業を持つ者は、給料の一定割合をアルカムに寄付(contribution)*15し、残りの給料で生活をする。村外に職業を持たない者はアルカムの様々な経済活動、ダッワー活動に尽力するという形態で働く。
 生活に必要な費用は、経済活動や寄付から得た資金が分配されるが、その際、仕事の量や組織への貢献度、地位、資格といったものは考慮されず、家族の大きさや生活コストといった個人の必要に応じて金銭を分配する方法(ma-ash system)を採っているという(Muhammad Syukri 1992, p.209)。基本食料は家族の大きさに準じて支給され、足りない分については各自が購入する。大口の出費、例えば長期旅行費用、その間の家族の生活費、学費等が必要なときには、組織としてのアルカムが面倒を看る場合が多い。村において宗教活動に関わる限り、本人とその家族の基本的生活ニーズは保障されるのである。

 メンバーの日々の生活は大体次のようなものである。朝5時から5時半の間に起床する。沐浴後、6時前後にsembahyang Subuh、そのあと8時前後の朝食*16まで庭掃き、家事などの軽労働をする。礼拝場所は、男性の場合全員が共同礼拝所(surau)で集団礼拝を行い、女性はそれぞれの家屋や寮で数人単位で行う。食事後は各々の仕事に出かける。午後1時半前後にsembahyang Zuhurをおこない、その後大体2時頃昼食である。昼食後はまた仕事に戻り、4時半頃sembahyang Asar、7時半頃のsembahyang Maghribの前まで仕事は続けられる。途中疲れたら仮眠をとったり沐浴したり、客を迎えることもある。また月曜日と木曜日には断食月でなくとも日中断食をすることがスンナ(sunnat)の行いとして奨励される。夕食をとり、夜8時半頃のsembahyang Isyakのあとが自由時間であるが、大抵の場合、村で何らかのイベントが開かれる。共同礼拝所にメンバーが集まり、ビデオを見ながらの学習会、講演会、討論会等がよく開かれている。当然、肉親の場合以外は男女の交流は厳しく制限されている。男女の生活の場所は明確に分けられ、用件はインターホンを通じて互いに伝える。異性や一般の人々と会うときは男女とも正装*17をしていなければならない。
 週2回、集団儀礼がメンバーに義務付けられている。これはタッリル、マウリド(tahlil, maulid)と呼ばれるもので、信仰を強め兄弟愛を育むことが目的と説明される。曜日はイスラームで神聖とされる、日曜の夜(malam Isnin「月曜の夜」と呼ばれる)と木曜の夜(malam Jumaat「金曜の夜」と呼ばれる)である。村の外に住むメンバーも参加し、男女別々に開催され、女性の場合50〜60人位が集まっている。皆、礼拝時の白い装束を着て、広間に輪を作って座り、夜9時半頃から10時半頃の約1時間が費やされる。内容は、まず神の唯一性を唱え、やがて現れるであろうマフディーやシェイク・スハイミの名を冠した文句(doa)がつけ加えられる(tahlil)。その後、預言者ムハンマドが生まれる以前のイスラームの暗黒時代、預言者生誕以後、その一生を描いたムハンマド頌歌を唱う(maulid)。全てはアラビア語で唱えられ、唱和に合わせて体を揺すり、内容に合わせて立ったり座ったりする。
 イスラーム村に暮らすメンバーと一般のマレー人との交流はそれほど多くない。対外ダッワー活動以外だと、アルカムが週に1回、定期的に催す市(pasar minggu)*18、あるいはアルカムが経営する学校、病院*19に一般の人々が利便を求めて訪れる場合に限られる。対照的に、各地のイスラーム村に散住するメンバー同士の交流は盛んである。エクスペディシ(ekspedisi)と呼ばれる集団訪問が頻繁に組まれ、数十人単位のグループでのバスツアーがある。これによりメンバーが互いに顔見知りになり、知識の交換がおこなわれ、村の経営について互いの良いところを学ぶといった形で各地の村の均質化が進んでいく。

【生産:経済活動】
  イスラーム村の経営や啓蒙活動に要する資金を得、またメンバーの雇用を確保するため*20に、1977年から経済活動を開始している。経済的な自立は、アルカムにとって精神的な活動の次に重要なこととされている。
 経済活動の主なものは小売業と製造業(食品、雑貨、衣服等)である*21。大規模なものは組織としてのアルカムが実行するが、小規模なものは各々の村単位で企画・実行される。

 最も簡単で頻繁に行われるのは小売業である。大量購入した米や砂糖、塩、スナック類を小さいパッケージに分けて売り、差額が儲けとなる。製造業としては、女性達が造ったケーキや菓子類、麺類などを販売することから、大規模なものでは(家内)工場でのチリソース、トマトソース他を製造している。40種以上の製品を供給しており、製品には必ずアルカムのロゴ・マークが貼られており、一種のブランド的役割を果たしている。

 縫製もまたポピュラーな経済活動である。多くの村にはミシンが数台置かれ、ここで女性メンバーが働いている。布地を仕入れ、ローブ(jubah)、女性のベール(tudung)、レース編みのイスラーム帽(kopiah)等が手作りされる。他にも民芸品や造花などの装飾品が売られている。

 これらの製品の流通手段であるが、まず優先的にアルカムの村の中で供給、販売される。他、村で定期的に開かれる市や、各地で催しの際にも販売される。都市部(クアラルンプル、ペナン、イポなど)にはアルカムの直営店が数軒ある。海外支所へも留学生などの人脈を通じて、またはダッワー活動の際に携帯するなどして製品を供給する。

 これらの製品の実際の売れ行きに関しては、イスラームを意識した製品は値段が多少高くとも比較的売れ行きはよいといわれる(Nagata 1984, p.108)。ただ、一般の人々がアルカムの村を来訪したり、催し物の際にアルカム製品が無料で配られることも多々見受けられ、果たして利益率は幾らなのかは定かではない。また、金銭的な利益よりもこのような活動を通じてアルカムの知名度が上がること、人々がよりイスラーム経済に興味を持ってくれるようになることが重要な利益であるとされる。

【再生産:教育】
 この項ではメンバーの再生産手段としての教育について述べたい。アルカムは保育園から高等学校までの教育施設を保有しており、メンバーは子弟をアルカムの学校で一貫して教育することが可能である。その教育システムは、学問(academic)教育、宗教教育、実践教育の3つの柱からなっている(Al Arqam Dept.of Information 1992)。
 幼稚園あるいは保育園はほとんどの村に設置されており、1992年時点でその数は国内で120といわれる。小中高等学校は55校、主要な村にあり、親が近隣に居住していない生徒には寮が当てがわれたり、または他のメンバーが面倒を看ることもある。生徒数は全土で約1万人、教師、職員は約1,200人である(Al Arqam Dept. of Information 1992)。生徒の中には非メンバーの子供も含まれ、Muhammad Syukri(1992)によると、25の村に置かれた学校の生徒数の6割程度は非メンバーの子弟であるという(p.248)。また120人程度の子弟が、アルカムの援助でヨルダン、パキスタン、トルコ、シンガポール、タイ、インドネシア他の大学に留学中である。

 さて、実際にはどのように教育がなされているのであろうか。スンガイプンチャラ村の小学校の例を挙げると、ここでは1992ー93年度に1−5年生、225人が在籍しており、内68人が非アルカムの生徒である。専任教師は21人でこのほかにもパートタイムで有識者が教鞭をとることもある。教師の資格はイスラームを理解し実践するムスリム、つまりアルカムのメンバーである。学歴は必要ではなく高校卒(standard 6以上)であればよい。生徒の月謝は月25$、寮生活をすると60$と安価である。1クラス25人の生徒を担任教師(guru kelas)と教科教師(guru subjek)の2人が担当し、担任教師は宗教教育、アラビア語、コーラン学習等を、教科教師は数学、英語等を受け持つ。ここの女性教師の弁によると、教育の目的は第1にあらゆる生徒達に正しい知識を与えること、第2に生徒を単に給料が稼げる大人に成長させることではなく、将来のイスラーム共同体を背負って立つようなムスリムを生み出すこと、である。従って宗教教育にかなりの重点を置いている。
 知識と同程度強調されるのが実践科目である。知識を得たらそれを実践しなけれならない。これは宗教に関してはシャリーアの実践を指し、それ以外にも実践教科として家庭科、文化活動、農業、大工仕事といった科目が1週間に2時間生徒全員に割り当てられている。宗教実践については家庭でおこなうとともに、4、5年生は2年間の寮生活が義務付けられている。この2年間は生徒は起床から学校生活、就寝まで教師と生活を共にし、生活宗教としてのイスラームを体で学ぶ。卒業後は多くはアルカムの中等高等学校へ進み、そのあとは働くもの、さらに勉強を望む者には国外へ留学をさせている。

 第2例として、専門学校的な教育を行っている学校を挙げる。ここは前例と異なり、政府の教育カリキュラムに従っていない。アルカム・イスラーム文化・芸術学院(Madrasah Kebudayaan dan Islam Al Arqam)は、セランゴール州の農村地域(Sungai Surai, Sungai Way, Selangor)に在る。この学院は1992年に、西欧文化へ対抗してイスラーム文化の復興を願って創設された。スローガンは「宗教の中の芸術(Seni dalam Agama)」「生活の中の芸術(Seni dalam Hidup Seharian)」である。13〜18歳の100人近くの生徒は芸術専攻(書道、手工芸品等)、文化専攻(声楽、音楽、詩等)に分かれ、イスラーム文化芸術を学び、その成果を国内外でのアルカムのコンサートや展示会で発表する。アルカムのイスラーム音楽(nasyid)のレベルの高さには定評があり、これまでアルバム28枚を出し、一時はマレーシア国営テレビ・ラジオ放送(R.T.M.)で放送されるイスラーム音楽を担当したこともあったという。

 さらに、独自の高等教育も行っている。このコースの正式名称はダッワー要員・幹部(Qismu Dakwah dan Kepimpinan)コースである。アルカムの教育を幼少時から受けてきた者あるいは途中からアルカムに入会した者のうち中等、高等学校をでた者(SPM、SPTM受験のあと)の、18歳から25歳の男女がこのコースに参加する。彼らは日中は村で労働し、夜間に学校が開かれる。コースの時間割からは、イスラーム学習、特に神秘主義関係の授業が多いことが見てとれる。同時に特別授業の多さも特徴である。これはジャーナリストや有識者を招いて現在の社会問題について論じたり、街中に出て社会見学をおこなうなど、実際のダッワー活動において必要な知識が学ばれる。このコースは基本的に3年制であるが優秀であれば飛び級もある。授業の内容からすれば、ここで将来の幹部が養成されていると思われる。

2−2 啓蒙活動
 ダッワー活動のもう一つの側面、一般ムスリムへ信仰回帰を働きかける活動も不断に続けられている。アルカムの資金のかなりの部分は対外活動に費やされ、質素なイスラーム村での共同生活とは対照的でさえある。と同時に、この対外活動とは新規メンバー獲得の手段でもあり、アルカムに集う人々がどのような経路でリクルートされてきたのかを示すものでもある。その活動内容は、出版活動、文化活動、伝道に分類できる。

【出版活動】
 初期には、モスクや学校での説法、講義などが対外活動の主要な手段であったが、運動が軌道に乗り始めた頃から独自の新聞、雑誌、書物の発行などメディアを利用した活動が顕著になる。出版物の執筆、編集、印刷、販売の一連の作業は全てアルカムのメンバーの手によってなされる。これまで70冊以上の本、17種類の新聞、雑誌類を一般向けに発行しており、他にもビデオ、パンフレット、メンバー間通信誌が制作される。他の一般の雑誌に記事を投稿することもある。これまで5冊の本を英語に、1冊をタイ語に翻訳している。

 内容は、信仰やムスリム社会のあるべき姿について、そしてアルカムの思想や活動を説明するものが大半である。これらは、諸聖典からの抜粋、引用が多いものの、比較的平易な文章で書かれ、読み易いとの評である。ただし、80年代後半から雑誌や本に関しては、政府の発行許可が下りなかったり、発行されても途中で販売が禁止されるなどしており、全体の発行部数は減少気味である。

 娯楽用のマレー語、アラビア語、英語のイスラーム音楽(nasyid)のカセットテープやビデオも制作している。作詞はほとんどUstaz Ashaariが行い、作曲、演奏はメンバーの手でなされる。ビデオの内容はイスラーム音楽や子供向け教育ビデオもあるが、多いのはアルカムがどこでどんな活動をしているかの記録(特に国外での活動)である。これらの出版物類は一般の流通経路に乗せて本屋で販売されたり、アルカムの直営店で扱う、通信販売、あるいはダッワー活動で配布、販売される。
 同時に、他のメディアでアルカムが如何様に扱われているか、についてはかなり敏感である。1985年には Apa Orang Lain Kata 『他人は何を語るか』で、マレーシアの新聞、雑誌に掲載されたアルカムに関する記事を集めたコレクション本を発行しており、以後も誌上でアルカムを扱った記事の紹介、または反論を頻繁におこなっている。また、自分達の活動を記事にするため、イベントや幹部層の言動等も写真、ビデオ、テレビカメラ、録音機器を利用して記録される。

【文化活動】
 イスラーム文化の良さを知ってもらうため、コンサート、ショー、展覧会等をしばしば国内外で催す。イベントを独自に企画する場合と、他から招待されて出向く場合とがある。会場は各地の公民館、ホテルといった具合である。
 一例として、1993年4月24・25日にペナン島の住宅街、Bukit Jambulで開かれたフェスタを紹介する。ここの住宅アパートの1階にアルカムの直営店がオープンして2ヶ月であるが、このたび政府から公式に営業認可を得たことを記念してフェスタを開くこととなった。催し物を開く際は、その地域の統一マレー国民組織(UMNO)から許可を得なければならない場合が多く、今回はアルカムとUMNOの共同イベントということで許可を得た。直営店の近くに広場があり、ここにテントを張り会場を作る。広場の一角にはアルカムの活動を写真で紹介したパネル展示、その隣には本や雑誌といったイスラーム関係商品、食料品を売るミニ・マーケットが開かれる。子供向けの無料健康診断もアルカムの医者によっておこなわれ、昼には食事が無料で提供される。料理、手伝いをするのはアルカムのメンバーや支援者たちである。午後にはマレーシア理科大学(Universiti Sains Malaysia)の教授、UMNO関係者そしてアルカムのメンバーでシンポジウムが開かれる。圧巻は夜9時からの特設会場でのイスラームコンサートである。ここでイスラーム音楽が披露され、子供向けの劇等が催される。会場設営をしたり、照明・音響機器を操るスタッフは全てアルカムのメンバーであり、このときは2日間で総勢100人前後のメンバーが動員された。客は近隣の子供連れの住民であり、マレー人が大多数であるがインド人ムスリムも少数、鑑賞に来ている。コンサートが終わったあとも、メンバーと客が話し込んでいる光景がしばしば見受けられた。
 アルカムはこのような催しをこれまで何万回も開いてきたという。ここで驚かされるのは、イベントを企画、実行できるほどの豊富な資金力である。イスラーム村での清貧な生活とは全くといっていいほど対照的な光景である。

【伝道】
 このような華やかな活動の他に、地道な伝道も行われている。小規模なものでは学校、教育施設、モスク、礼拝所(surau)等に場所を借り、そこでイスラーム講演*22を開く。

 バスや車を何台も仕立てて農村地帯や辺境地域に住むムスリムを訪れるミッション(misi)と呼ばれる活動もある。その地域の人々と共同礼拝をする、イスラームの正しい知識を教えるといった形で交流をもつ。時には、地域開発の手助け、例えばコーラン学習塾を開いて教師を派遣する等、に関わることもあるという。ただ、ミッションは大部分が一過性のものであり、当該地域にアルカムの運動を浸透させるというよりは、そこに住む人でアルカムに興味を持つ人をピックアップする、というような側面が大きいように見受けられる。

 以上の活動から、アルカムに興味を持った人が簡単にイスラーム村の生活を体験できるのが、イスラーム学習コース(Kursus Kefahaman Islam)またはダッワーコース(Kursus Dakwah)である。これは期間は1週間から1ヶ月と長短あるが、どれもアルカムの勉強会、討論会に参加しながら、イスラーム村に寝泊まりし、メンバーと共に「生活のなかのイスラーム(Agama di dalam Kehidupan)」を体験することができる機会を提供している。



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