10月6日、いよいよ小笠原を離れる日がやってきた。出発の2時までには時間がある。土産物を見物しに街をぶらつくことにした。おがさわら丸の出港日は観光客にとって土産物の購入日と決まっているらしく、街には名残惜しそうな観光客があちらこちらと店を覗いている。観光客の行動パターンは決まっているし、小笠原の街は狭い。しばらく滞在しているうちに、見たことのあるような顔が多くなっていることに気づく。別の宿に泊まっていてもツアーなどでいっしょになるのだ。
とりあえず、土産物を買ったので、おが丸の中で食べるパンを買いにいくことにした。なんでも丘の上に有名なパン屋さんがあるのだそうだ。午前中といえども、きつい日差しの中を、のったり、のったりと、また歩いて登っていく。小笠原に来てからというもの、この上り下りの繰り返しばかりだ。途中で人に道を尋ねながら、パン屋さんまで辿り着いた。このパン屋さんは朝8時にオープンするのだが、そのときには行列ができるほどの人気なのだそうだ。狭い店内には焼き立てのパンがいろいろと並んでいる。適当にひょいひょいと詰める。後に、船内でこの包みを開けたとき、すべてのパンが小さくなっていたような気がしたのは、気のせいだろうか。焼き立てのパンは縮むらしい。
出船の時間が近づく。桟橋には村中の人が集まったかのような賑わいだ。それぞれのグループで固まって別れを惜しんでいる。やがて、出船間際になると、人々は船に乗り込み始める。船は汽笛を鳴らし、動き始める。桟橋の人々と船の人々はお互いに手を振り合っている。海に赤いハイビスカスのレイが投げ込まれた。レイは海面に漂い、船はレイからも遠ざかる。桟橋に残った人々は手を振り、宿屋の人はそれぞれのフラッグを振り続けている。

急に音楽が聞こえてきた。一隻の船が音楽を鳴らしながら登場した。ドルフィンスイムに連れていってくれた船だ。同様の他のレジャー船たちも集まってきた。観光客の思い出を載せた船たちが、別れを告げにやってきたのだ。小笠原での楽しい思い出たちが走馬灯のように蘇る。嬉しくて感情が込み上げてくる。別れがどうして、こんなに感動的なのだろう。今までにこんな感動的な別れがあっただろうか。人々は出会い、別れていく。今、ここを去る多くの人々が、次にいつこの地に戻ってこれるかを知らない。あるいは、もう戻って来れないかも知れないことを知っているのだ。船たちは、やがて、おがさわら丸を追いかけるかのように、伴走を始める。船の上には、滞在中に知り合った面々が見える。お互いの船から手を振り合いながら、人々は別れを惜しむ。そして、一隻、また一隻と伴走をやめてゆく。一隻の船から全員が海に飛び込んだ。波間に浮かびながら、彼らはまだ手を振っている。


行きは果てしなく長く感じられた航路も、帰りは楽勝だ。もう25時間も当たり前に感じられる。島で知り合った人々と話し合ったりすることもできる。内地に向かうという島の人におがさわら丸のコックピットへ案内してもらった。精密な機器がずらりと並んでいる。何にもない海を1000kmも航海し、寸部違わず目的地に辿り着ける技術というのはすごいものだ。明治時代には小笠原諸島まで片道8日間かかったという。我々には長く感じられるが、1日あまりで行けるというのは、実は格段の進歩なのだ。精密な機器の上には神棚が祭ってある。その奇妙な取り合わせは面白いが、これが文化というものなのだろう。

わたしは2等船室に戻り、自分の定位置に寝転んだ。隣では女の子が頭まで毛布を被って寝ている。父島の印象が自然と思い起こされる。父島の印象をメモしてみよう。
島の人口は約2000人程度。小笠原諸島で最大の島。といっても東西、南北、数km程度だろう。街には人通りもまばらだが、茶褐色に日焼けした観光客が、両手両足を出した格好で、気ままに闊歩している。島の人々も特に気にとめる様子はない。村にはきれいな舗装道路が敷かれ、商店が並び、飲み屋もある。島の物価は内地より2割程度高そうだ。20年前には舗装道路など無かったと誰かが言っていた。30年前にアメリカから返してもらった土地だ。
浜辺では、子供たちが遊んでいる。若い母親が井戸端会議をしながら、それを眺めていることもある。小さな子供たちは裸で遊んでいる。キラキラと輝く海の照り返しの中に響く子供たちの声。そんな風景に出会ったことがあるはずもないのだが、遠い昔に忘れてしまったような、何故か懐かしい風景だ。
村に溢れる商品は決して多くはないが、必要最低限のものはすべて揃っている。逆に言えば、必要以上のものはない。そう考えると、都会に商品が溢れている理由は何だろうという考えに至る。都会で、人々はさまざまなストレスを背負い込む。多くの人々は自分のやっていることを愛していない。マネーとの交換がストレスということもあるだろう。人々は、ストレスを解消しようと、常に新しい商品を求め、経済を動かす。いや、本当は市場に操られているだけなのだろう。
人々は新しい商品を求めるが、新しい自分を求めようとはしない。人々は空虚を恐れ、他人を恐れ、自分が何者かである振りをするために、着飾って歩き、自分を隠しているように見える。そうやって、本当のことから遠ざかっているのではないだろうか。幻想の世界を追いかければ、幻想はいつも現実の振りをして現れる。自然はいつも、TVの中の素敵な画像でしかなく、身近に感じることも少ない。そして、自然の一部である自分のこともまた同様なのではないだろうか。

島民は旧島民、新島民、新々島民に区分されるという。旧島民とは戦前から住んでいる人々であり、新島民とは戦後に移り住んできた人々、新々島民とは、ここ数年のうちに、主に自然を求めて、移り住んできたか、バイトなどをしながら滞在している若者たち。観光客の目には、なかなかわからないが、それぞれの島民の間には、かなりの確執があるらしい。
今回も、いや、おそらく、村を訪れれば、いつも、小耳に挟むのが空港建設問題だ。小笠原諸島に空港を作ろうという話がある。東京から1000kmの距離もジェットで飛べば1.5時間くらいだ。船で行く25.5時間とは隔世の観がある。しかし、誰もが賛成というわけではない。問題は山積みということらしいのだ。空港建設予定地には固有種を含む豊富な自然が残されている。工事に伴い赤土が海へ流出すれば、美しい珊瑚の海はどうなるだろう。現状の予想乗客人数では採算は取れない。乗客人数を増やすために大規模なリゾート開発を行なえば、島の唯一の魅力である自然は破壊される。そもそも、リゾート開発を行なったところで、内地の人々は安価で気楽な海外を選ばないだろうか。観光客が増えたところで、自然は増えない。現状の人数以上に観光客を増やせば、現状の自然は維持できないだろう。空港建設に関して、一般に、旧島民は賛成、新島民、新々島民は反対ということらしい。観光客も、島の状況を良く知っているリピータ程、反対のようだ。それでも、空港建設は島の悲願であると言う人々もいる。東京都の硬直的な公共事業計画が問題を更にややこしくしている。この問題を軽々に論じることはできない。
内地から25.5時間、人々は何故、このような不便な土地に住むのだろうか。生まれた場所だから、自然が好きだから、理由はいろいろあるだろう。島には自然がある。自然を愛する人々にとっては、それで十分なのだ。他には何もいらない。しかし、そうでない人は、隣の人と同じものが欲しいと思う。隣の人と同じ便利さが欲しいと思う。不便な場所に住みながら、便利さを求めるのは、いかがなものだろうか。内地の人々は手軽なビーチリゾートに出かける。都会の喧騒を抜け出し、自然を満喫するのだと言うが、実際に求めているのは手軽さという便利さなのだ。最近、島には自然を愛する人々が移り住んできているという。人口は増えているらしい。日本には人口の減り続けている過疎の村がいくらでもある。本当に便利さを求めるならば、便利な土地はいくらでもあるのだ。

東京港が近づいてきた。両岸のコンテナやドッグが通り過ぎてゆく。小雨が降っている。東京は相変わらず、薄暗く汚れた灰色に包まれている。何故、都会では光がこんなにも力を失ってしまうのだろう。小笠原は海も空も、すべてが光に溢れていた。
お台場が見えてきた。そういえば、お台場の海岸で、キラキラと輝く波を見つめながら語らったこともあったな。あれは、どこの海岸になるのだろう。目で追いかけて探してみるがわからない。我々はいろいろな場面を通り過ぎてゆく。そのときは、いつも、これがすべてだと思うのに、記憶は少しづつ薄れ、忘却の彼方に葬り去られる。小笠原諸島で体験したことも、やがて忘れ去ることだろう。そう考えると、それらの体験には意味がなかったように思えてきたりもする。だが、おそらく、すべてのことには、きちんとした理由もあるし、意味もあるのだろう。たぶん、我々はそれに気づいていないだけなのだ。そんなことをぼんやり考えながら、流れる東京湾の景色を眺めるともなく眺めた。
竹芝桟橋に着いた。浜町町まで、みんなでぞろぞろと歩く。島で知り合った人々といっしょに行動するのも、これが最後になるだろう。金木犀の優しい香りが我々を出迎えてくれた。もう、内地は秋だった。