JAHIGEO

地質学史懇話会



 

地学史勉強会 

 

会合の記録

21回〜第30

 

 

 

 

30回 地学史勉強会 記録

 

日 時2008 322 午後時〜

会 場青学会館 校友会室C

参加者:14

    石山 洋、猪俣道也、大沢眞澄、大矢啓子、長田敏明、風間 敏、榊原雄太郎、菅谷 暁、鈴木尉元、立澤富朗、矢島道子、八耳俊文、山田俊弘、吉岡 学 敬称略、五十音順

内 容:

1.自己紹介・近況報告

 

2.話題提供

長田敏明氏「多田文男(19001978)の生涯と学問」

没後30年となる地理学者の一生が、晩年を知る長田氏によって振り返られました。レジュメ3ページと資料34ページ(業績目録10ページを含む)がその概要を伝えています。石山氏より、登呂遺跡発掘の手伝いをしたエピソードが紹介され、「自然環境の変貌」という今日的なテーマに取り組んだ地学者に改めて光が当てられたと思います。

風間敏氏「ラドウィック『化石の意味』を読み直す」

風間氏がこの間心血を注いできた名著『化石の意味』の読み直し作業を、3ページの要旨と総計74ページに及ぶ翻訳点検表によって披露しました。今後同書を「読み直す」際の貴重な導きとなると思われます。なお菅谷氏より、“Scenes from Deep Time:” の翻訳が進行中であることが紹介されました。

 長田・風間両氏ともたいへん力の入った講演内容でした。各要約は別紙をご覧ください。

 

3.開催場所・会の名称の変更について

 青学会館が4月以降使用できなくなるのにともない今後の開催場所をどうするか、またしばらく前から話題となっていた会の名称をどうするか、事務局より提案を行ないました。開催場所は当面いくつかの候補地を使用してみること(次回に関しては早稲田奉仕園)、かかった費用は参加者がそのつど清算すること、名称はとりあえず「地学史研究会」で行くことが合意されました。名称については、「寺子屋地学史」といった新たな提案もありました。会合の趣旨は従来通りですが、最近サイエンス・カフェなども各地で開かれており、オープンで親しみやすいよりよい名称があればまた検討して行きたいと思います。

 

4.その他――報告・案内・紹介

・榎本武揚に関する地学史研究が近く出版される予定。(吉岡氏)

  ⇒ 出版されました:榎本隆充・高成田亨 編『近代日本の万能人 榎本武揚 1836-1908』、藤原書店、20084月、338頁、3300円(本体)。吉岡氏の論考は「日本地質学界の先達―学理と技芸の狭間で」、215-233頁。他に「オランダ留学時代」、「蘭学から洋学へ」、「隕石研究への貢献」のコラムを執筆。

・佐倉での医史学会で江戸時代の鉱物研究について発表予定。(大沢氏)

109回日本医史学会総会会長講演「江戸時代、鉱物に関する諸問題―田村藍水、平賀源内、シーボルト、ビュルガー、ポンペの事績を中心に」(621日(土)、佐倉市民音楽ホール(佐倉市王子台1-16))

・リチャード・フォーティ来日、科学博物館のダーウィン展について、また以下の論文紹介。(矢島氏)

M. Yajima, “Franz Hilgendorf (1839–1904): introducer of evolutionary theory to Japan around 1873,” Geological Society, London, Special Publications; 287, 2007, pp. 389-393; 矢島道子「日本に創造説が?」, 『生物科学』, 593, 2008, 182-183.

 

 終了後、会館1階のレストランにて懇親会を持ちました。

 

 

多田文男 (1900-1978) の生涯と学問の特徴

 

長田 敏明(元杉並区立西宮中学校)

 

  日本の地理学の草創期に,山崎直方,小川琢治,辻村太郎らによって導入された地形学は,ヨーロッパとは異なるアメリカ流のデービスの輪廻論的地形学の土壌の中で独自の発展を遂げた.山崎直方の後を継いだのは辻村と多田である.山崎は地質学科出身であるが,多田は地理学科の出身である.いわば,多田は,典型的な地形学者であるといえる.

 多田は発達史学派の総帥のように言われている.むろんそれは事実であるが,多田の論文や著書を見ると至る所に洪水・堆積・地震・火山・地形改変などといった営力に関連する言葉が多く出てくる.それがもっとも顕著なのは「自然環境の変貌」である.多田のことを知るためには営力論も意識して検討しなければならいであろう.多田を貫いていたもう一つの立場は,基本的には「地形の説明的記載」であり,ものに即して考えることであった.つまり現地主義・現物主義である.

 多田文男が逝去 (1978315) されてから今年2008年で30年になる.筆者は,日本の地形発達史の研究及び第四紀研究に大きな足跡を残された多田文男について,再度,注目し地学史研究の一環として,ここに取り上げることとする.

 

生涯のあらまし.

 多田文男は,1900 (明治33) 73日に当時の東京市日暮里に生れ,1912 (大正元) 3月に台東区立根岸小学校を卒業する際に「地図について」と称する小文を残している.旧制第八高等学校に入学し,19203月に同校を卒業している.多田は,19204月に東京帝国大学理学部地理学科に入学,山崎直方 (1870-1929) や辻村太郎 (1890-1983) らの指導の下に地理学を専攻し,19243月に卒業した (岡山: 1978).多田の卒業論文は,「讃岐山脈の地形」と題したものであった.

 卒業後,直ちに東京帝国大学理学部地理学教室の助手となった.この時,同時に地震研究所所員を兼ねた.1924 (大正13) 年秋に,外務省の海外派遣で中国との文化交流のため,華中・華北・蒙古巡検を行っている.この時の巡検の結果は,創刊間もない地理学評論に「漢満蒙交界地方の地形について」と題して発表された.この時,得られた成果を元にして,後の調査結果を併せて,多田の博士論文が書かれた.当時,地震研には,地質学科出身の大塚弥之助や地球物理学科出身の宮部直巳がおり,大塚弥之助からは第四紀学的観点を宮部直巳からは地球物理学的特に地震学的観点を学んだ (多田: 1974)

  多田は,1932 (昭和7) 3月に欧米より帰朝し,地理学教室へ戻った (地理学評論消息欄より).同年918日をもって地震研究所所員の職を免ぜられ,理学部勤務を命じられている.1939年には,当時の脇水鉄五郎・綿貫勇彦両教授に招かれ駒沢大学の地歴科で地形学を講じた.これが縁で多田は終生,駒沢大学との関わりを持つこととなった.多田は逝去するまで駒沢大学との関わりを絶やさなかった (駒沢大学地理学教室: 1978)1941128日に文部省に付置された資源科学研究所の設立に伴い所員を兼務し,同所に地理学部を設置し地理学部長となった.

 戦後,財団法人として再発足した資源科学研究所の所員 (地理学部部長) を兼務し,後に法政大学を担った市瀬由自や三井嘉都夫らを育てた.1953 (昭和28) 6月には,東京大学教授に昇任し,地理学講座を担当し,数物系大学院地理学コース主任となった (駒沢大学地理学教室: 1978)

 1956 (昭和31) 429日に第四紀学会が設立されることになり,設立総会が国立科学博物館において開催された.多田は日本地理学会から指名され第四紀学会設立小委員会のメンバーとして初期の第四紀学会を支えたが,日本第四紀学会の設立とともに評議員となった.同年には,外務省の要請で南米 Amazon 川流域学術調査に参加したり,東大 Andes 調査の先遣隊として,彼の地で予備調査を行ったりして活躍した (駒沢大学地理学教室: 1978)

  1958 (昭和33) 年には,東京大学教授の傍ら,駒沢大学の大和英成教授を補佐した.1958年から3年間,日本地理学会の会長を務められた.その後は同会の名誉会員となった.1954年から1960年には日本学術会議会員,同地理学研究連絡会議委員長でもあり,また,第四紀研究連絡会委員会の設立に尽くされた (駒沢大学地理学教室: 1978)

 1961 (昭和36) 3月に東京大学を定年退官し,同大学の名誉教授となった.同年4月からは,法政大学の地理学科主任教授となった.1956年〜1965年,国際地理学連合の副会長を務めた.1961年には,矢部長克の後を受け第2代の第四紀学会の会長となり1964年までその職にあった (地評消息より)

 1966 (昭和41) 4月からは,駒沢大学の専任教授となった.そして,駒沢大学の大学院の主任となり,大学院の地理学コースを設置した.

 1978 (昭和53) 315日,駒沢大学地理学科の52年度最後の教授会が開かれたが,多田には,この教授会が最後の教授会であった.この教授会の席上,心臓発作を起こされ,救急救命措置を施したが間に合わなかった.

 

多田の地形学研究史

  多田の地形学研究の歴史を総括するにあたって,多田自身が「自然環境の変貌」の中で,1961年の定年退官までの研究史の時代区分を,興味の所在の変遷とともに語っている点が重要である (多田: 1964)

 それを参照して,第1 (19201930),第2 (19301945),第3 (19451961),第4 (19611978) 4期に区分した.第1期は,多田のネオテクトニクス研究の時期である.第2期は砂丘研究の時期である.第3期は洪水地形を中心とする河川営力の研究の時期である.第4期は自然災害の特性把握と軽減または防止技術研究の時期である.むろんこれらの時代区分を縦糸とすれば,多田の研究の大きな特徴である発達史的観点は,横糸と言えよう.

 

研究の特徴

(1) 営力の研究

  多田は,還暦記念の書「自然環境の変貌」の冒頭で,「自然の形態を変化せしめる原因」として,「第一にはその原因が地球内部にある内力」,「第二にはその原因が地球の外側にある外力」に加え,「近頃では第三のものとして人力によるものが考察されるようになった」として3つをあげている.多田の関心は一貫してこの営力を縦糸として,発達史的観点を横糸とした考え方で地形をとらえるということであるように思われる.多田は,若い頃,デービス流の地形輪廻説的観点を辻村から摂取し,ドイツに留学したとき A. Penck からは,分析的に地形をとらえる方法を学んだ.

 個人史的に見ると,学生時代から震研時代 (1920年代〜1930年代前半) 多田は,地震予知の地形学的研究に従事し,いやがうえでも,内的営力を意識せざるを得ない立場に置かれた.当時,多田は琵琶湖北部から敦賀湾地域の地形学的断層構造,奥丹後地震の郷村断層の横ずれとその配列その他,新しい時代の地盤の変動地形上に表現に関する研究を主に行っていた.この研究は活断層研究の先駆的な例にあたる.

 1930年代から1940代前半には,海外調査で乾燥地形調査に都合8回に亘って従事し外的営力の重要性を認識した.当時の地理学徒の研究題目としては,珍しい東アジアの乾燥地帯の内陸流域から外洋流域への移り変わりの問題に興味を持たれ,研究された (岡山: 1978).それと同時に国内では砂丘・河岸段丘などの研究に従事し上述の点を再確認した.戦後は,風水害・地震などの自然災害の頻発に対して,その自然現象の把握と対策の基礎となる河川営力の研究や沖積平野の形成過程の解明に従事した.従って,1930年代から1960年代はじめまでは外的営力把握の時代と言える.1960年代以降は,これまでの経験を生かした防災技術への地形学的アプローチの時期である.いわば営力論の総括と応用地形学の登場への道筋をつけた.災害地図の概念を提出し,ハザードマップへの先鞭をつけた.

 

(2) 発達史的研究

  多田は,海外学術調査,地震調査や火山噴火調査などで徳永重康や大塚弥之助などの地質学者と接することで,形態のみでなく構成物質を把握することの重要性を学び,「地形は地史の一部分である」という大塚 (1931) の認識が正しいことを,身をもって示した.

 

(3) 学際的研究

  多田の学際的共同研究の契機は,他動的とはいえ1925年の外務省の支那地理学視察団に参加したことによる.多田の学際的共同研究が本格化するのは,1941 (昭和16) 12月の資源科学研究所の開設である.ここの地理部長であった多田は,小笠原善勝・川田三郎・中野尊正などとともに資源開発のための基礎研究に携わった.

  多田は,坂口 (1978) が言うように「自然全体を複合体」として捉え、その時間的変化を追求した.そのためには,地学諸野との連携が必要であると考えていた.多田の学際的研究態度が醸成されたのは,1920年代の2回の海外研究と地震研に於ける他分野の研究者との共同研究であった (吉川他: 1973, 1978, 酒井: 2000).それは,地理学の狭い分野にこだわっていたのでは複雑な自然現象の把握ができないことを示していた.そして,他分野の研究者と接することによって,自らの研究方法論と認識論を点検する機会を得た (吉川ほか: 1973, 酒井: 2000)

 

文献

石田龍次郎 (1969): 日本人の海外調査の展望−戦前・戦中の地理学者の業績−. 雑誌地理, 14, 37-47.

駒沢大学地理学教室 (1978): 多田文男先生略歴および著作目録. 駒沢地理, 14, 263-271.

三野与吉・町田貞 (1953): 砂礫, グループ座談会記録B. 地理学評論, 26, 84.

中野尊正 (1970): 日本の地形. 築地書館, 362p.

岡山俊雄 (1978): 多田文男先生を悼む. 地質学雑誌, 84, 280-281.

酒井 啓 (2000): 大正期〜昭和中期における多田文男の自然地理学的研究とその物理学 上の意義. 新地理, 48, 12-27.

多田文男 (1926): 南洋諸島の海蝕段丘. 地理学評論, 2, 399-417.

多田文男 (1927): 活断層の二種類. 地理学評論, 3, 980-983.

多田文男 (1937): 独逸の植民地理学的研究. 地理教育, 26, 858-866.

多田文男・嘉山英二 (1947): 関東低地に於けるローム層堆積前の地形二・三. 地理学評論, 21, 61-62.

多田文男 (1954): 関東ローム考. 地球科学, 37, 5-7.

多田文男 (1955): 水資源に伴う諸問題 (公開講演会記録). 地理学評論, 28, 46.

多田文男 (1955): 堆積に関する自然地理学的研究−文部省科学研究費総合研究−. 地理学評論, 28, 204-206.

多田文男 (1964): 自然環境の変貌. 東京大学出版会, 282.

多田文男 (1969): 戦前の海外調査. 地理, 14, 33-36.

多田文男 (1974): 宮部直巳先生の逝去を悼む. 駒沢地理, 10, 81-82.

多田文男 (1975): 日本の地理学者による中国に関する学術調査. 駒沢地理, 11, 1-9.

地形営力談話会 (1956): 自然地理学文献目録 (邦文 1940-1953). 三省堂, 1-145.

吉川虎雄 (1953): 地形学 地理学に於ける最近の傾向. 地理学評論, 26, 620-629.

吉川虎雄 (1978): 多田文男先生の逝去を悼む. 地理学評論, 51, 431-432.

 

 

 

ラドウィック『化石の意味』を読み直す

 

風間 敏 (長野県立長野西高等学校)

 

M. J. S. Rudwick “The Meaning of Fossils: Episodes in the History of Palaeontology” (1972, Second Edition 1976) も、原書第2版出版から30年が過ぎ、古生物学史に一時代を画した最重要な著作という評価は定着している。邦訳は長らく利用困難になっていたが、今回、全文の新訳原稿を作成する中で再確認された点について、著者の科学史記述における企図等を中心に述べてみたい。

原著初版は、1972年に New York Science History Publications から History of Science シリーズの一冊として出版された。1976年には小規模な修正に基づく第2版が出版され、1985年以降は版元を University of Chicago Press に移した上で、ペーパーバックとして版を重ねている。この版が事実上の決定稿といえるものであり、今回の検討においてもこれを底本とした。〔今回、初版本を入手し照らし合わせた結果、第2版における変更点は、ラドウィックが第2版への序文で述べているとおり、ほとんどが誤植の訂正に止まり、内容にかかわる変更は少ない (2、3箇所) ことが確認できた。紙型も初版のものをそのまま用いているに違いない。ただし、誤植 (ミスタイプ) はかなり多く (30箇所ほど)、2版以降もまだ残っている (おそらく数箇所) と思われる。〕

著者 Rudwick (カナ表記は、ここではラドウィックとする) が、古生物学から転身した科学史家であることはよく知られているが、それは、「若い頃は古生物学もやっていた」というような程度のものでは決してない。腕足動物の専門家として、その論文は広く引用され続けており、とりわけ、機能形態学の手法を駆使した先駆的研究は、かの S. J. Gould を始めとする「古生物科学者 (paleobiologists)」からも高い評価を受けてきた。

本書は、歴史家 (=科学史家) ラドウィックとしての最初のまとまった著作であるが、今回読み返してみて実感したことがある。本書は、単なる古生物学の通史ではない。本書は、古生物学史 (地質学史) における歴史記述の方法論を示した重大な問題提起の書であり、その位置付けは、物理的科学史におけるクーンの『科学革命の構造』に匹敵するといっても過言ではないのではないだろうか。

『化石の意味』におけるラドウィックの記述方針、あるいは自らに課した制約は、序文や第2版への序文中でも確認されているとおりであるが、当初から一貫したものであった。本書は、もちろん、科学史の落穂拾いなどでないことは言うまでもないが、古生物学史における網羅的な大著を意図したものでもない。未公開の秘蔵資料が開かれた、などというものでもない。あえて「化石の意味」という一点に絞った「視野狭窄的通史(トンネル・ヒストリー) (初版序文) を書くことにより、人間の歴史におけるいくつかの「場面(エピソーズ)」(*) において、同じ「化石」という物体が当時の人々の目にはどのように映っていたのかを追体験しながら、現在古生物学と呼ばれている科学が、まだ科学も科学者も存在しなかった時代の中から生まれ、一人前に成長してきた姿を描き出すとともに、それぞれの時代の人々がその中で生きた「自然」、あるいは「宇宙」を明らかにすることに成功したのである。誰でも (その気になれば!) 近付くことができる公表資料に基づき、ただし、二次資料には拠らないという制約の中で、これだけの仕事ができるとは、常に地の利が得られない我々には、実に教訓的でもある。 (*本書の副題に用いられている「挿話(エピソーズ)」の語は、ラドウィックも第2版への序文中で釈明しているとおり、やはり誤解を招きやすい。Episodes の語に含まれる「時階」といった意味が薄れる日本語においては、なおさらである。本書が単なる古生物学史逸話集のようなものでないことは当然として、ラドウィックが敢えて episodes の語を用いた意図に最も近いのは、劇中に挿入された一「場面」といったところではないだろうかと思っている。)

本書で提示された方法論に基づき、それをさらに拡げた、あるいは深めた新たな研究が生まれてくることは、序文中でも期待されていた。 (それは、必ずしも、他の誰かの手によりということではなかったと思うが、) ラドウィック自身は、その後、それを実体化させるかたちで、いくつかの重要な著作を完成させている。中でも、最も満足いくかたちでの結実といえるものは、やはり、The Great Devonian Controversy: The Shaping of Scientific Knowledge among Gentlemanly Specialists (University of Chicago Press, 1985) であろう。1830年代のわずか10年程の期間における、たかだか一地質時代の名称にまつわる論争というきわめて限定的なテーマを扱いながら、その時代の科学と、それをめぐる人物の姿が、なぜかくもいきいきと描き出されるのか。(クーンが『構造以来の道』所収のインタビュー (1995年、於アテネ) 中で、「私が読んだものの中でそれら〔内的および外的アプローチ〕を一緒にした最良の事例と思われるものは非常に特別でもあります。それは、『大 [デヴォン紀] 論争』についての本で、すばらしいと思います。」 (佐々木力訳、みすず書房、2008年、p. 391) と述べているのは、この本のことである。)

『大論争』以外の著作のうち、Scenes from Deep Time: Early Pictorial Representations of the Prehistoric World (1992)Bursting the Limits of Time: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Revolution (2005) など、主要なものは、いずれも University of Chicago Press から出版されている。また、地質学史関係の論文リプリント集が次の2冊にまとめられており、利用しやすくなっている。The New Science of Geology: Studies in the Earth Sciences in the Age of Revolution” (2004) および Lyell and Darwin, Geologists: Studies in the Earth Sciences in the Age of Reform. (2005) いずれも、出版は Ashgate Publishing

*          *          *

今回は、もとより不十分な内容にもかかわらず、敢えて発表の機会を与えていただいたことに感謝します。当日は、「翻訳とは何か」といった内容も含め、貴重なご意見をお聞かせいただき、改めて、翻訳という行為に伴う責任といったものを痛感しました。古生物学史における基本文献の翻訳など筆者の任に過ぎることは承知の上ですが、ラドウィックが『化石の意味』を通じて何を言おうとしていたのか、その真意を一人でも多くの読者に伝えたいという思いはますます強まり、現在は、意を奮って、再度 (再々度)、訳文を練磨しているところです。関係する資料については、筆者に直接お問い合わせください。

(地学史勉強会〈青学会館〉にて2008322日)

 

 

29回 地学史勉強会 記録

 

日 時20071215 午後時〜

会 場青学会館 校友会室C

参加者:17

    赤松 陽、足立久男、石山 洋、市村充章、大沢眞澄、大森昌衛、長田敏明、風間 敏、加藤茂生、金 光男、榊原雄太郎、澤田 操、鈴木尉元、立澤富朗、浜崎健児、矢島道子、

山田俊弘 敬称略、五十音順

 

内 容:

1.自己紹介・近況報告

 

2.話題提供

鈴木尉元氏「20世紀における造構運動論の展開」

20世紀前半の島弧海溝系における地球物理学発見とそのグローバルテクトニクスへの影響を論ずるきわめて興味深く重要な講演でした。現代の研究解釈に結びつけるのはやや強引と思われました。詳細は別紙を参照ください。

 

3.その他

 以下の報告・案内・紹介がありました。

2007年度洋学史学会秋季大会(200711月、長崎)での発表「ポンペの地学への関心」報告。

温泉科学会の文献目録4冊目『日本温泉文献目録第W集』が出版予定。(以上、大沢氏)

・池袋で開催中の第16回東京ミネラルショー(12/14-17)の特別展示として、滋賀県田名上山の中沢晶洞中の巨大トパーズが見られます。(沢田氏)

・昔の地学読み物『石炭を生む山』(大宮昇、学習社文庫、1942年、206頁)などの紹介。(榊原氏)

・ジオサイト本の紹介(矢島氏):

 K. Eriksson et al., 100 Geosites in South Iceland, PJAXI, 2005, 126p. (ISBN 9979-783-10-9)

  全国地質調査業協会連合会・GUPI共編『日本列島ジオサイト地質百選』、2007年、オーム社、181頁。

 

 終了後、近くの居酒屋で懇親会を行ないました。

 

 

20世紀における造構運動論の展開

                                   

鈴木 尉元

 

地質の時代

 20世紀初頭には、ヨーロッパではその地質の大要が明らかにされ、造構論は造山帯の複雑な構造を中心に展開された。造山帯の中でもとくにくわしく調べられたアルプスについて、低角の衝上断層や横臥褶曲が幾重にも重なった地質断面図が描かれ、造山帯の典型とみなされた。そして世界各地で同種の構造の発見の報告が行われたが、わが国においても秋吉台や関東山地での横臥褶曲の発見が知られている(小沢,1923Huzimoto,1937)。

 このような造山帯の構造は、19世紀後半から20世紀初頭にはElie de Beaumont (1852) の提唱になる収縮説により、造山帯の両側の古い硬化地塊からなるクラトーゲンにより万力のように締め付けられて形成されるとする考え方が広く支持された。

 しかし19世紀末の放射能の発見などにより地球収縮の考え方に疑問が呈せられ、20世紀初頭から30年代にかけて様々な学説が提唱された。これらの内後のちまで大きな影響を与えたものは対流説と大陸移動説である。Ampferer (1906)Schwinner (1919)Holmes (1930) らは、マントル中の対流によって造山帯の前身の地向斜が形成され、対流の停止に伴って地向斜は隆起に転じ造山帯が形成されると考えた。Wegener (1915) は、地向斜造山帯は大陸移動にともなってその前縁に形成されるものと考えた。

 この時代の地質構造は、もっぱら地表での観察事実を深部へ外挿することによって描かれたものであることから、その深さはせいぜい数km程度のものであり、アイソスタシー説 (Airy, 1855; Pratt, 1855) にしたがって120ないし130kmよりも深いところは力学的に安定していて、造構運動はそれより浅い所の現象と考えられた。

 

地球物理学的発見

 1930年代になると、当時の蘭領東インド諸島(現インドネシア)の海溝沿いの地域 (Vening Meinesz, 1932)、次いで日本海溝沿いの地域でそれぞれ200mgal150mgalに達する重力の負の異常が発見された (松山, 1936)Vening Meinesz (1934) は、この重力の負の異常帯は造山帯の前身の地向斜に相当するもので、マントル対流による挫屈部に相当するものと解釈した。その後マントル対流による地向斜造山論は、Kuenen (1936) Griggs (1939) による実験もあって、広く支持された。

 Turner (1922) は、南米ペルーの300km前後の深さに地震が発生していることを報じた。次いで和達 (1927) は、日本列島の本州中部に300km余の深さに地震が多数発生していることを示した。和達に先立って深発地震の発見を口頭で報じた志田 (1935) は、この発見を地震や火山、さらに造構運動が300km余の深さにまで及ぶことを示すものであると主張した。

 Wadati (1935) は、日本列島付近の深発地震の震源深度の等深線を描き、深発地震が日本列島外側の海溝付近から北西方のアジア大陸、西方のフィリピン海に向かって次第に深くなるような面付近に分布することを示した。同様な面が Visser (1936) によって南米で、また Berlage (1937) によってフィリピンからインドネシア地域で見いだされた。

 Honda (1934) は、深発地震のP波初動の分布から求められる主圧力軸の水平成分の方向が、深発地震の震源深度の等深線の方向と直交する傾向を示すことを明らかにした。本多・正務 (1940) は、日本列島付近の起震歪力は、アジア大陸側の深部を押し上げるような力、太平洋側の深部を押し下げるような力が働いているものと解釈した。  

Benioff (1954) は、Gutenberg and Richter (1949) の資料によって環太平洋諸地域の深発地震の震源分布を調べ、それらが一つの傾いた面付近に分布するものと、二つあるいは三つの面付近に乗るものとに区分し、前者を海洋型、後者を縁辺及び大陸型と名付けた。Benioff は深発地震の乗る面を衝上断層と考えた。これに対して Richter (1958) は、深発地震にともなうP波初動分布から求められる断層は大部分正断層であることから、深発地震面の衝上断層悦を批判した。

 Dietz (1961) Hess (1962) は、大洋中央海嶺がマントル対流の上昇部にあたり、ここで数10kmの厚さのプレートが形成され、対流に乗って水平に移動していき、海溝で下降に転じ、マントルに吸収されるとする大洋拡大説を提唱した。この説は後にプレートテクトニクスに発展し一世を風靡することはよく知られていることである。ただしこの説は、深発地震面を逆断層としていることから、上記の Richter の批判が当てはまることになる。

 

深部への探究

 Beloussov (1959) は、褶曲は地塊化した地殻の垂直運動に伴う被覆層の変形であり、地塊化した地殻を動かす力はより深部にあるとする考え方を提出した。さらにBeloussov (1962) は、低角の衝上断層や幾重にも重なる横臥褶曲からなるアルプスの構造を十中八九出鱈目であると批判した。Rutten (1969) は、アルプスを特徴づける横臥褶曲が水平方向に普通の褶曲に移化することから、これまでのアルプスの地質断面図を描く際の基本原理となってきたナップの層序という考え方は成り立たないと述べた。

 鈴木(1975)は、アルプスの地震の震源 (深さ20km未満) 分布を調べ、それらがジュラ山脈、モラッセ帯、ヘルベチア帯、ペンニン帯などの地質構造単元の境界付近に線状に配列する傾向があることから、地質構造単元の境界に発達する低角の衝上断層は深部に向かって高角になり、アルプスの基盤は地塊構造を持つと主張した。

 Bemmelen (1972) は、地球上の様々な規模の波動運動をその水平的拡がりによって区分し、そのもっとも大きな水平的な広がりが10,000kmにも達する mega-undation は、その根がマントル基底にまで達するものであると考えた。日本列島付近では、東アジア下のマントル深部に Tibet-Mongolia mega-undation を想定し、深発地震面はそのような大規模な運動の側方の衝上断層に伴うものと考えた。衝上断層説は発震機構資料と矛盾するので採用できないが、東アジアの深部に大規模な隆起域を想定する考え方は評価すべきであると考える。

 鈴木 (1975) は、深発地震の震源分布の研究から、グリーンタフ造山帯に属する本州東北部の先新第三系の基盤岩分布域が、深発地震の発生する100ないし200km台の深さにまで垂直に根をおろしていることを主張した。

 小原ら (1986) は、地震波トモグラフィによって本州東北部の第一級の地質構造単元が100km以上もの根をもっていることを明らかにした。

 Suzuki et al. (1978) は、コア・マントル境界にアジア大陸側を隆起させ太平洋側を沈降させるような階段状の変位を与えるシミュレーション実験を行い、階段状の変位部の深部ではほぼ垂直、浅部では大陸側から太平洋側へ傾く歪みの集中帯が形成され、この歪みの集中帯の応力場が深発地震の起震歪力と平行し、アジア大陸側のマントルから地殻には水平方向に引っ張り状態で圧力が減少する領域が形成されることを示した。前者は深発地震面に相当し、後者は中生代・新生代の活発な火成活動や陥没盆地形成の基本的な条件を満足するものであることを主張した。

 Suzuki and Kobayashi (2005) は、日本列島内の深発地震の震源分布とそれらに伴う断層が、中生代の花崗岩類・珪長質火山岩類の分布と関係をもって活動していることを示した。このことは、これら火成岩類が100ないし300km台にも及ぶ深部断裂に規制されていることを示唆するもので、今後造山帯の構造や火成活動の場を三次元的に明らかにする方向に展開する必要を示すものと考えた。

 なお1980年頃から地震波トモグラフィ技術によってマントル基底にまで及ぶ地震波速度の地域性が明らかにされ (Woodhouse and Dziewonski, 1984; Fukao, 1992)、造構運動を全地球規模で展開する機運を助勢し、プリューム説が喧伝されている (Maruyama, 1994)。筆者は、この説が地震波速度の地域的差異を温度差によるものとし、それを元にマントル対流を想定する過程に疑問を感じている。造構運動モデルは、地質学的に明らかにされた地表付近の運動を満足するものでなければならないが、例えばプリュームが想定されている南太平洋は、ダーウイン海膨の示す沈降運動を説明しないからである。このことは、地震波速度の遅速は温度とともに鉱物組成、化学組成によっても変わるものであることを考えなければならないことを示すものでもある。

 Jatskevich et al. (2000) は、陸域と海域を同じ凡例で示した世界地質図を発表した。この図により、海域はプレートテクトニクスが想定しているような場ではなく、台地的な性格の沈降運動の場であることを示しているように思われる。

 造構運動論は、今後地質を基本にしてその深部構造を明らかにし、マントル、さらにコアをも含めた地球全体に及ぶ大きな運動体系へ発展させる必要がある。この際、深部からより密度の小さい物質が浮上してくる火成活動と造構運動との関係の分析が重視されなければならないであろう。

 

文献

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Beloussov, V. V. (1959) Types of folding and their origin. Intern. Geol. Rev., 1, no.2, 1-21.

Beloussov, V. V. (1962) Basic problems in geodynamics. McGraw Hill.

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鈴木尉元(1975) 日本の地震.築地書館.

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28回 地学史勉強会 記録

 

日 時:2007 929日(土) 午後2時〜5時

会 場:青学会館 校友会室B

参加者:18名

    会田信行、石山 洋、市村充章、猪俣道也、大沢眞澄、大森昌衛、金 光男、榊原雄太郎、

柴田松太郎、鈴木尉元、首藤郁夫、中陣隆夫、浜崎健児、水野浩雄、矢島道子、八耳俊文、

藪 玲子、山田俊弘                      (敬称略、五十音順)

 

内 容:

1.自己紹介・近況報告

 八耳氏より会場の件で報告がありました。

 

2.話題提供

(1)柴田松太郎氏「ケンペルの描いた2枚のイチョウのスケッチについて」

シーボルト「フロラ ヤポニカ」のイチョウのスケッチを含む図版3点の検討を通して、当時の自然誌家のイチョウ認識と図版作成の経緯について議論が行われました。別紙を参照ください。

(2)市村充章氏「足尾山地チャート層とマンガン鉱床の考察史――マンガン鉱床成因論、地質図及びマンガン標本・地質標本」

44ページに及ぶ冊子が配布され、適宜、歴史的な地質図数枚と各種の実物標本を参照しながら研究史が追跡されました。市村氏は法学の専門家ですが、おそらくこの道のプロ顔負けの内容で、ライエルやライマンが法律家でもあったことが指摘されるほど、法学と地質学の相性について再考させられるところがありました。内容の詳細は別紙をご覧ください。

(3)矢島道子氏「メアリ・アニング地質学史の旅の2年間」

パワーポイントを用いて、2006年・2007年夏に行われたイングランド科学史をめぐるエクスカーションの報告が行われました。フックやニュートンの事績も含まれ興味深いものでした。別紙を参照ください。

 

3.その他

 以下の案内・紹介がありました。

2007年度洋学史学会秋季大会(200711月、長崎)発表予定要旨

大沢眞澄・塚原東吾・財城真寿美「ポンペの地学への関心―日本産出鉱物コレクションを中心に―」旧ライデン国立地質学鉱物学博物館にあったポンペの日本産地質標本について。(大沢氏)

・金 光男「小坂鉱山を巡る明治の科学者たち (9)」、『あかしあ便(秋田県小坂町ふるさと小坂会会報)』、第10号、2007910日。久原房之助 (1869-1965) について。(金氏)

・中陣隆夫『地球の体温をはかる―サイラス・ベント号の太平洋航海記』、丸源書店、20074月、226頁。東海大学海洋学部在学中に米国の観測船に同乗して地殻熱流量を測定した中陣氏の個人史。時代の証言でもある。上田誠也氏の前書きあり。(中陣氏)

 

 終了後青学会館1階で懇親会を行ないました。

 

 

 

廻国奇観のイチョウの記載およびスケッチの評価

ケンペルが描いた二枚のスケッチの関係について

 

柴田松太郎

 

まえがき

 廻国奇観 (Kaempfer, 1712) に載せられたイチョウの記載とスケッチを今日の知識で見直してみた。また、Moule (1937) によって引用されているケンペルの遺稿集のなかのイチョウのスケッチ (Sl. 2914, fol. 80) と廻国奇観のイチョウのスケッチ (Kaempfer, 1712, 813) との両者の関係について検討してみた。

 

廻国奇観のイチョウの記載とスケッチの評価

 当時の日本では見られない詳細な記載であり、正確かつ忠実なスケッチである。しかし、今日の知識で検討すると次のような欠陥が認められる。

 (1) イチョウの重要な特徴である葉脈の二又分枝が11本の條線としか描かれていなくて、記載にも二又分枝の記載がない。

 (2) 短枝と長枝の区別がまったくない。

 (3) 雄花およびギンナンの記載はあるが、雄花や雌花のスケッチがないし、雌花の記載がない。

 

廻国奇観のスケッチ (Kaempfer, 1712, 813) および大英図書館収蔵の

ケンペルの遺稿集 (Sl. 2914) にあるスケッチ (Moule, 1937, Pl. VI) との比較

 Pl. 1, Aと図Bを比較すると、両図は明らかに対称である。すなわち、両図は同一の標本をそれぞれ表および裏からスケッチしたものであろうと考えられる。

 

参考文献

Kaempfer, Engelbert (1712) Amoenitatum Exoticarum, Henrici Wilhermi Meyeri, Lemgoviae, 912p.

Moule, A. C. (1937) The name Ginkgo biloba and other names of the tree. T’oung Pao, 33, 193-219.

大英図書館収蔵の E. Kaempfer 自筆遺稿集: Sl. 2914, Kaempfer Plantarus Japonicarum Delineations.

 

図の説明【図版は省略】

Pl. 1

A・・・廻国奇観のイチョウのスケッチ (Kaempfer, 1712, p. 813)

B・・・Sl. 2914, fol. 80 のイチョウのスケッチ (Moule, 1937, Pl. VI)

Aのおよび図Bの はそれぞれ対応する葉またはギンナン (Gの記号) につけた数字および記号

 

 

 

足尾山地のチャート層とマンガン鉱床の研究略史

 

市村 充章

 

 足尾山地のチャート研究と層状マンガン鉱床研究は強い関連があるので、地質図を通じて整理し概観したい。

 明治21年、奈佐忠行による日光図幅地質図(20万分の1、農商務省地質局)では、足尾山地は「小仏古生層」として一色で表記され、初期段階にあったマンガン鉱山の記載は6ヶ所に過ぎない。

 大正6年、加藤武夫は「鉱床地質学」(富山房)を著し、マンガン鉱床の成因について深海沈殿説を述べた。昭和12年の「新編鉱床地質学」ではこの「深海沈殿説」と「鉱層」の表記は削られ、成因については吉村豊文の研究を受けて、足尾山地の加蘇鉱山等について、 同鉱山等は「岩漿から絞り出された高温溶液又は瓦斯体溶液が珪岩の成層面に沿うて上昇し、交代作用を逞しうして先づ種種の珪酸満俺鉱物をスカルンとして生成し、相次いで熱水液によって効果作用が行われたものである。」と部分的に述べた。

 昭和26年、吉村は「日本のマンガン鉱床」を著し、加蘇鉱山などの膨大な鉱床研究の成果に基づき、マンガン鉱床の成因について岩漿分化・鉱液説・交代鉱床説を提唱した。

 昭和28年、栃木県は、産業振興のため、地質調査所に依頼、東教育大・宇都宮大の協力を得て栃木県地質図(20万分の1)を作った。まだ未調査地が多くあり、藤本治義等が現地調査を行った。地層は石炭紀から二畳紀にわたる整合的層序関係であるとし、マンガン鉱山は63ヶ所記載し、吉村の交代鉱床説で成因を説明した。

 昭和32年、渡辺武男等は、足尾山地地質図(5万分の 1)(栃木県)を作成した。これは、マンガン鉱床の成因を知るため足尾山地全域を調査したことの成果物である。地層は石灰岩との層序関係から二畳紀内で整合的に位置づけた。マンガン鉱山の成因は、母岩のチャート層の沈殿と同時代に秩父地向斜地帯の海底において、おそらく主に海底火山活動に関連した温泉作用によって海水中にもたらされ沈殿したものであろうと記した。

 吉村と渡辺は、鉱床の成因について昭和34年の日本地質学会・鉱山地質学会共催シンポジウム及び同35年の三鉱学会討論会で有名な論争を行った。一般には同成説が有利と感じられたという(広渡・昭和55ほか)。その後幾つかの論文が発表されたものの成因研究は下火になった。

 昭和36年、前出藤本は地質図「栃木」(5万分の1)(地調)を著した。この地域の地質は整合的関係にあり、年代は一応石炭紀ないし初期二畳紀から中期二畳紀末か後期二畳紀初めとした。

 昭和37年、渡辺は、層状マンガン鉱床は同成的海底噴気性熱水性の堆積鉱床であると結論づけた。

 昭和38年、栃木県は地調に依頼し県地質図の改訂版を刊行した。チャート層の分布は前回とは異なり渡辺等の足尾山地地質図と酷似している。

 昭和40年、大間々高校の林信吾がチャート岩からコノドントと放散虫を抽出するHF法等を確立し、チャートの年代決定上の革命を起こした。コノドント団体研究グループが年代を調査し、さらに葛生地方の鍋山層石灰岩と接する地層が整合的ではなく衝上断層で分断されていることを報告した。そうしてチャートの年代は石灰岩が生成した古生代ではなく、コノドントの研究で中生代三畳紀に、さらに放散虫の研究でジュラ紀に若返った。

 昭和43年以降、世界は深海探査の時代に突入し、深海底の放散虫粘土とマンガン・ノジュールの様子が解明され、プレートテクトニクスが急速に受容されていった。

 昭和52年、栃木県は戦後3度目の地質図改訂版を作成し、層序論の諸説変遷をまとめた。マンガン鉱山の記載は新発光路鉱山一つとなり、これを最後にマンガン鉱山は消滅し、県地質図もその後改訂されていない。

 昭和61年以降、栃木県博の荒川竜一は、足尾山地の各地のマンガン・スフェリュール中の放散虫を調査し、三畳紀からジュラ紀にわたる年代決定を行った。

 昭和62年、Hin. et al.は、アメリカ西海岸地方のマンガン鉱床の炭素と酸素の同位体比を分析し、大部分の炭素はメタンの酸化によるもので20100の生成温度を示しているとし、マンガンは海洋底ではなく大陸辺縁部の珪質の半遠洋性堆積物が埋没する時の続成作用によって濃縮されたものとした。

平成3年、須藤等による地質図「宇都宮」(20万分の1)(地調)は、地学の大変革を踏まえ、全体をジュラ紀の堆積岩コンプレックスと捉え、チャート・石灰岩等は石炭紀〜ジュラ紀の異地性岩体であるとし、チャートの描画を大胆に簡略化した。

このような環境変化により、足尾山地のチャート層分布には再び調査検討の余地が生じている。また、マンガン・ノジュールやコバルトリッチクラスト起源と思われるものが所々にみられ、今後の解明が期待される。

 

 

         表1 地学史勉強会で回覧した足尾山地関係地質図 

1(1889)奈佐忠行 20万分の1日光図幅地質図(農商務省地質局)

2(1953)鈴木達夫・藤本治義他 20万分の1栃木県地質図(栃木県)

3(1957)渡辺武男・向山広・兼平慶一郎・浜田隆士他 足尾山地地質図(栃木県)

4(1961)藤本治義 5万分の1地質図幅「栃木」(地質調査所)

5(1968)河田学夫・礒見博 20万分の1栃木県地質図(改訂版)(栃木県)

6(1991)須藤定久他 20万分の1地質図「宇都宮」(地質調査所)

 

         表2 地学史勉強会で回覧した関連する典型的標本

1 マンガン・ノジュール

a. ハワイ南東沖水深5,000m b. 中部太平洋海山水深1,500m付近)

2 赤色チャート(足尾山地南部)

3 団塊状マンガン鉱(足尾山地南西部)

4 炭酸・水酸マンガン鉱(足尾山地南西部)

5 珪酸マンガン鉱(足尾山地南西部)

6 二酸化マンガン鉱(足尾山地南部)

 

 

 

メアリー・アニングと地質学史の旅の2年間

 

矢島 道子

1. 企画のはじめ

2003年に吉川惣司氏と私は、朝日選書『メアリー・アニングの冒険』を出版した。出版直後から、メアリー・アニングの故郷ライム・リージスを訪ねてみたいと熱心な読者から言われた。ジオプランニング社の立澤富朗氏からも勧められた。もともと、吉川氏との共著も、メアリー・アニングの秘かな研究者である吉川氏を現地にご案内しようとしたところから始まったので、ツアーを組んでもよいと思った。そして、1997年にチャールズ・ダーウィンのダウンハウス保存運動に関わっていた頃、ダーウィン研究者からダウンハウス・ツアーをしてほしいと声をかけられていたことも、原初的な理由として存在していた。2005年に最初のツアーの計画をジオプランニング社から発表した。参加希望者が1名だったため、中止となった。2006年は13名の応募があり、続いて2007年にも12名の参加者をえて、催行された。

2. いつ、どこへ、何を、どうやって、、、

まずは、メアリーの生きた町ライム・リージスへ行こう、「ドーセットの真珠」と呼ばれるくらい美しい町である。宿泊できるホテルがないという問題があったが、近隣の町に泊まることにした。そして、メアリーに関係するロンドン自然史博物館、ロンドン地質学会、オクスフォード自然史博物館に行くと計画がたった。ジオプランニング社の提案で観光地であるワイト島とストーンヘンジを入れることにした。ワイト島の手前のブライトンにはマンテルの家がある。ここまでは、すべて、私がすでに調査した場所である。ワイト島にはフックとミルンがいた。これは私自身もが初めて訪れる場所である。参加者の希望でダーウィンのダウンハウスとニュートンの生家も旅程に入ることになった。ワイト島の恐竜の足跡も訪問予定地となった。

ツアーの時期は私自身の夏の研究発表計画の合間に入れたので、参加者は添乗員無しでロンドンのヒースロー空港集合となった。見学場所はフィックスされているが、それ以外の行程はフレキシブルにしたため参加者に自由時間が提供できた。ツアー終了後は現地に延泊する方や更に旅行を続ける方もいらした。今後フィックス&フレックス型の旅行形態が検討されてもよいと思った。

3. 実際の旅

 イギリスの夏は寒いことが多い。イギリスの食事はお世辞にもうまいといえないことが多い。旅が暗くなる要素はいくらでもある。幸いに、天候に恵まれ、食べ物に恵まれ、50人乗りのボルボの新車に13人で乗るという贅沢な旅を行った。単に名勝地を訪ねるだけでなく、化石堀りをし、ロンドンの夜はミュージカルを楽しみ、参加者に言わせると面白いものがいっぱい詰まった旅行だったようである。添乗員の私はいろいろな失敗もあったが、参加者に助けられて、無事終えることができた。今は、さて、来年はどうしようかと思っている。

 

 

 

 

27回 地学史勉強会 記録

 

日 時2007 623 午後時〜

会 場青学会館 校友会室

参加者:15

    石山 洋、市村充章、猪俣道也、大沢眞澄、長田敏明、風間 敏、金 光男、榊原雄太郎、高橋直樹、立沢富朗、泊 次郎、浜崎健児、矢島道子、八耳俊文、山田俊弘 敬称略、五十音順

 

内 容:

1.自己紹介・近況報告

 

2.泊 次郎 氏による話題提供「日本の地球物理学分野でのプレートテクトニクス (PT) の受容

標記の題名のA3のレジュメ(両面)と「プレートテクトニクス関係年表」 (A3) が配布され、パワーポイントによる資料提示を含めた講演が行なわれました。泊 氏は3月に東京大学に博士学位論文「日本におけるプレートテクトニクスの受容」 (20073月、206) を提出しており、今回の発表はその一部に基づいたものです。まず @海外での反対論 A欧米での地向斜論とPT B欧米でのPTの受容 C旧ソ連でのPTの受容 D中国でのPTの受容 と比較受容史的に展開され、さらに E日本でのPTの紹介 F地球物理学分野でのPTの受容 G地球物理学分野と地質学分野との受容時期の差 H地球物理学分野で受容がスムースに進んだ要因 と日本の事例が検討されました。

 討論も活発に行われ、日本の大学における地球物理学科(講座)の成り立ち、1970年代初頭の地質学の大学院生の動き、工学部の資源関係学科での扱い、中国の事情、台湾での経過、理論依存かフィールド依存か、地震予知計画との関係、竹内  氏の役割と評価、1970年代以降の対応、付加体仮説の登場、等々の話題が続き途切れることがありませんでした。泊 氏には機会があればもう一度お話いただくことをお願いして終了しました。

 

3.その他

 以下の案内・紹介がありました。

・「数理科学史サマーセミナー:きっと見つかる「わたしの科学史」」 数学史研究会有志、立教大学、830日〜91日(初日に地学史についても扱われる)

・「化石が語る熱帯の海」千葉県立中央博物館、630日〜92

・「箱根火山たんけんマップ」日本地質学会、300

 

 終了後青学会館1階で懇親会を行ないました。

 

 

 

日本の地球物理学分野でのプレートテクトニクスの受容

 

元東京大学総合文化研究科博士課程

泊 次郎

                                                        

地震や火山、造山運動などの原因を、地球の表面を覆う厚さ100km程度の十数枚のプレートの運動によって説明するプレートテクトニクス(以下、PTと略)は、1960年代後半に確立し、欧米では70年代初めには多くの地質学者、地球物理学者に受け入れられ、地球科学に革命を起こしました。日本でも、(固体)地球物理学分野では欧米と同様の時期に受け入れられましたが、地質学の分野では、PTとそれにもとづいた日本列島論が受け入れるようになったのは、1980年代半ばを過ぎてからでした。日本の地球物理学分野ではなぜ、PTの受容がこのようにスムースに進んだかについて考えてみたいと思います。

初めに、海外での先行研究をもとに、各国ではPTはいつごろ受容されたのかを紹介しておきます。海外でもPTに対する反対はありましたが、それは主に@地球収縮論(英国のジェフリーズや米国のマイヤーホフ父子ら)A地球膨張論(オーストラリアのケアリーら)B垂直振動テクトニクス(旧ソ連のベロウソフら)の既存の地球論にもとづいたものでした。しかしながら、こうした反対論は大きな広がりは見せませんでした。PTという新たな地球論は、地球上のさまざまな地質現象について、そうした地球論を上回る説明力をもっていたからでしょう。

もう1つ、海外では日本のような“地向斜造山論”にもとづいた反対はなかったのも特徴です。PTの基礎になった海洋底拡大説を唱えたディーツをはじめ多くの研究者によって、1960年代初めから70年代前半にかけて、海洋底拡大説のもとで地向斜をどのように解釈するかについて数多くの論文が書かれています。地向斜論と海洋底拡大説は対立する関係にはなかったのです。

1966年に米国のピットマンらによって、地磁気異常の縞模様に関するテープレコーダーモデルが検証されると、米国では海洋底拡大説への支持が急速に広がりました。北米ではPTは1975年までには地球科学の標準的な見解になった、とされています。英国でも同様です。陸上の地質学者は海洋の地質学者や地球物理学者に比べると、PTを受け入れるのに多少時間がかかりましたが、それも2年程度の差に過ぎなかった、ということです。

旧ソ連ではベロウソフらが反対したために、PTの受け入れが1980年代半ばまで遅れました。しかし、反対が一枚岩的なものであったわけではありません。科学アカデミーの幹部たちはPTを取り入れて、それをソ連独自のものとして発展させることを意図していたようです。中国でも文化大革命があったために、PTが入ってくるのは遅れましたが、PTが紹介されてから受け入れるまでは早かった。中国地質学会は1982年に創立60周年を迎えましたが、会長の黄汲清は記念講演でPTの果たす役割を高く評価しました。

日本には1967年まで本格的な海洋研究船がなかったこともあって、1960年代初頭には海洋底について本格的に研究する人はほとんどいませんでした。しかし、欧米では海洋底の観測が進み、海洋底に関する知識が飛躍的に増加し、新しい海洋底像が描かれ始めていることについては、少なからぬ研究者が注目していたようです。地震学会の発行する『地震』には1960年にマントル対流に関する研究論文が掲載されていますし、1962年の春季大会では、「海域の地球物理に関するシンポジウム」が開催されています。

1963年からは日米科学協力が始まり、海洋底拡大説の当否を検証するために、米国と共同で西太平洋域での深海地震探査や地殻熱流量の測定、地磁気異常の縞模様の観測などが行われ、日本列島周辺にみられるさまざまな地質現象を海洋底拡大説を使って説明しようとする研究が、地球物理学分野では盛んになりました。そして1970年代初めには、太平洋沿いに起きる巨大地震の発生のメカニズムを海洋底(プレート)の沈み込みと結び付けて論じることが、一般的になりました。

日本では固体地球物理学の研究者は多かれ少なかれ、地震の研究にも関係していましたから、地震のメカニズムをうまく説明できるということで、PTは急速に受け入れられた、と考えられます。東京大学の地震学の教授であった浅田敏は1972年に大学生向けの参考書『地震』を出版しましたが、これはPTの考え方を全面的に採用しています。浅田はこの本の「あとがき」で、「PTを知るのが遅れたことを後悔している」と書いています。

地震学会の毎年春と秋にある大会での講演要旨や『地震』に掲載された論文のうち、プレートや沈み込み、トランスフォーム断層などの「プレート語」を含んだものの数を調べてみますと、1970年代前半からほぼ直線的に増加しています。一方、日本地質学会の学術大会では「プレート語」を含んだ講演が急増するのは1984年ごろからです。『地質学雑誌』『地学雑誌』『地球科学』などの論文も、同様な傾向が見られます。

このように、日本の地球物理学分野では1970年代前半にPTが受け入れられたことが分かります。科学の国際性という観点からすれば、こうしたことは特異な事態とはいえませんが、地質学分野と比較した場合には、地球物理学分野ではなぜPTの受容がスムースに進んだのかが問題となり得ます。その要因として、@地球物理学分野の研究の多くも、日本列島の地震や火山噴火などの現象の記述に向けられていたが、その中から世界レベルの研究が誕生し、早くから世界を意識して研究が進められていた、A国際地球観測年を契機にして、国際化も早い段階から進んでいた、ことなどがあげられます。

また、日本の地球物理学は地震学を中核として発展したという事情も関係しています。1960年代半ばには地震の原因は2組の偶力によるという断層地震説が確立しました。ところが、この2組の偶力を発生する力はどこからくるのか、その説明が存在しませんでした。PTはこの力の源について明確な説明を与えたことが大きかった、と思います。

固体地球物理学の分野では、地質学分野との交流がほとんどなかったために、戦後の日本の地質学界に見られた「反米親ソ」のイデオロギー的な影響をほとんど受けなかった、ことも関係しているかもしれません。

 

 

 

26回 地学史勉強会 記録


日 時2007 324 午後時〜
会 場青学会館 校友会室

参加者:20
    井川苗香、猪俣道也、大石雅之、大沢眞澄、大森昌衛、長田敏明、風間 敏、金 光男、

榊原雄太郎、澤田 操、宍戸 章、鈴木尉元、立沢富朗、浜崎健児、浜田絢子、水野浩雄、

矢島道子、八耳俊文、山田俊弘、山田直利            敬称略、五十音順

 

内 容(司会は山田(俊)):

1.前回の八耳氏の提案に沿って、今井功先生の生涯と業績を振り返る勉強会の趣旨説明がありました。

 

2.宍戸 章氏による話題提供「今井功先生の生涯を振り返って」

標記の題名のA4のレジュメ(両面)とA3の詳細を極めた年表「今井功氏業績等一覧表」8頁が配布され、参考としてルートマップやフィールドの写真図版等が回覧されて、エピソードに富んだ講演が行なわれました。宍戸氏は今井先生の生涯を6つの時期(1925-1952/ 1953-1961/ 1962-1967/ 1968-1976/ 1977-1989/ 1990-2006)に分けて概観しました。特に今井先生と「どういうわけかウマがあっちゃった」宍戸氏による宮崎県での地質調査の話題は、他に知る人のない内容で興味深いものでした。

 

3.「今井先生の業績を読み直す」

4名の担当者が地学史に関する著作の概要とその意義について話題提供しました。

金氏からは『黎明期の日本地質学』 (1966)、八耳氏からは『雲根志』 (1969)、風間氏からは『地球科学の歩み』 (1978)、矢島氏からは『地質調査所百年史』 (1982) についてそれぞれA4版のレジュメをもとに説明がありました。金氏からはパワーポイントを用いた一次資料の紹介もあり、「今井功先生資料」として別に6枚の関連資料が配られました。大森氏から『雲根志』出版に関して築地書館の土井庄一郎氏の書簡の紹介がありました。

 

4.座談会「今井先生と私」

参加者の自己紹介と今井先生の思い出や著作との出会いについて語っていただきました。特に大森氏からは、地学史勉強会を始める契機や、地質学史の編年に関する手紙(1990.6.4付)が紹介されました。岩手県博物館の大石氏から岩手県地学教育研究会での活動、榊原氏からは地学教育学会での講演について()また鈴木氏と山田(直)氏からは地質調査所時代のエピソードについて披露されました。(山田(直)氏から「いかにして“構造地質学”に接近するか」(坂本亨氏と共著、『太平洋(後アルプス綜研機関誌)』、5号、19612月)、「故今井功氏の研究業績リスト(1953-1982)」が配布されました。)5時を過ぎても語りきれないほどでした。

 () 後日、次の資料を送って頂きました。

  今井 功「地質学史からの教訓」、日本地学教育学会第52回全国大会実行委員会『平成10年度全国地学教育研究大会 日本地学教育学会第52回全国大会 岩手大会要項』、19987月、13-14ページ。

 

 終了後行なわれた懇親会も盛会で、さまざまな側面から故人を偲ぶことができました。

 

 

 

 

25回 地学史勉強会 記録


日 時200612 9 午後時〜
会 場青学会館 校友会室

参加者:13名
    猪俣道也、大橋由紀夫、長田敏明、風間 敏、金 光男、榊原雄太郎、竹原ゆかり、栃内文彦、  

泊 次郎、水野浩雄、矢島道子、八耳俊文、山田俊弘

(敬称略、五十音順)

内 容:
1.「会の名称について(アンケートのお願い)」

 前回の会合後の懇親会の席上、複数の参加者から「勉強会」の名称は実態にそぐわない面もあるので検討する時期になっているとの指摘を受けて、簡単なアンケートをお願いしました。不手際で回収が十分でなかったため、その後、電子メールや手紙でもお願いをしました。本会の意義をあらためて見直し潜在的な欲求に応えられるようにする契機となればと思います。

 

2.参加者自己紹介・現状報告

 

3.栃内文彦氏による話題提供「技術者倫理と地球科学史」 

A3のレジュメが2枚配布され、参考として教材『科学技術者倫理講義ノート』(金沢工業大学、200611月)が示されて、講演が行なわれました。最初に、2002713日付の今井功氏の栃内氏宛ての手紙が紹介されました。台風6号による被害に触れて、「地質学に携わるものとして、日頃の怠慢に責任」を感じる旨書かれていたのが印象的でした。講演の概要については別紙をご覧ください。

 

4.次回の会合について、「今井功先生追悼勉強会の提案」が八耳氏からあり、了承されました。

 325日の一周忌にあわせ、「日本の地学史の研究に大きな功績を残された今井先生の業績を偲び」、「先生の業績を読み直し、先生との直接・間接の思い出を語る」場を設けようというものです。地学史上の業績4件を、担当者を決めて紹介してもらい、「今井功先生と私」という座談会で、「今井先生との出会い」「今井先生の著作をめぐって」「今井先生の学問観、人柄」などについて語り合います。簡単な記録として残すことも考慮します。

また、今井氏の蔵書を保存するのに尽力されている宮崎の宍戸氏に連絡を取ることも話し合われました。

 

5.その他

・次の資料の紹介がありました。(金氏)

  西山正吾「北島炭業の創始――ライマン氏の功績」、『石炭時報』、1巻、1926年、157-160頁。

・恒星社厚生閣から出版されている「天文学への興味を引き出す」シリースの紹介がありました。(榊原氏)

   このなかには、作花一志・福江 編『歴史を揺るがした星々――天文歴史の世界』という興味深い本が含まれています。

 

 

 

技術者倫理と地球科学史

 

彦/金沢工業大学基礎教育部・

同科学技術応用倫理研究所

はじめに

筆者は現在,金沢工業大学で技術者倫理教育に携わっている.しかしながら,同大学に赴任する前は,科学史(日本地質学史)の研究を行っていた.その筆者が技術者倫理の分野に足を踏み入れるきっかけの一つは,地学史勉強会などの場における地質学に関わる人たちとの邂逅だった.

近年,科学技術が社会を変える,その変化の規模と速さが加速度的に増大している.その中で,科学技術が社会にもたらす負の影響が深刻化しつつある.このことは,科学技術に関わる倫理の重要性が近年広く認識されるようになった大きな要因の一つだろう.このような社会的背景を顧みるとき,科学技術に携わる人々(科学者・技術者)の倫理観と価値観が時代とともにどう変化してきたかを検討することの意義は大きい.そして,この点において,地質学に関わる人たちの倫理観・価値観の歴史的検討・分析は科学者・技術者倫理の興味深い研究対象となり得ると考える.

以上を踏まえ,本稿では,技術者倫理の紹介,および,同分野に地質学史の知見をどのように活かせるかの検討を行う.なお,本稿は,筆者が第25回地学史勉強会(200612月)にて行った発表をまとめたものである.

 

技術者倫理とは何か

科学者・技術者倫理については,様々な考え方があり,様々な教育が行われている.金沢工業大学で必修科目「科学技術者倫理」を担当している教員は筆者を含めて6名(同科目を直接担当する教員数)いるが,細部では異なった考えを持ちつつも,枠組みとなる考え方は共有している.本節では,筆者らが共有している枠組みを紹介したい.なお,科学と技術は(区分が明確ではなくなりつつあるとはいえ)別の営みである.本節で以下に述べることは,技術者倫理に限定される.

我々は「倫理」と聞くと,しばしば規範の遵守を求める「お堅い」何かをイメージする.しかし,筆者らは,倫理は「お堅い」ものでは決してなく,価値のバランスを取りながら「自らがなすべき行動を設計する」という極めて創造的で知的な営みであると考える.すなわち,筆者らは,(「倫理」や「技術業(とそれに携わる技術者)」に関する各種定義を踏まえつつ)技術者倫理を以下のように定義する.

技術者倫理とは,技術者が,研学・経験・実務を通して獲得した数学的・科学的知識を駆使して,人類の利益のために自然の力を経済的に活用する上で必要な行為の善悪、正不正や,その他の関連する価値に対する判断を下すための規範体系の総体,ならびに,その体系の継続的・批判的検討.さらに,この規範体系に基づいて判断を下すことのできる能力である(札野による定義.札野は「科学技術者倫理」担当教員の一人で同科目の主設計者).

ここで,定義そのものを批判的に検討することや,(一先ず定義した)技術者倫理に基づいて判断を下すことも,定義の中で求めていることに留意されたい.

上記の定義のような技術者倫理が目指すことは,技術者や組織が,様々な価値(例えば,「公衆の安全・健康・福利」「顧客への忠誠」など)のバランスを取りながら技術に関連する問題を発見し解決する総合的な問題解決能力を向上させていくことである.しかし,科学技術に関わる価値判断を適切に行うことは特に難しい.なぜならば,科学技術の発展に伴い常に新しい価値が生み出され,それらの間に新しい関係が産まれるからである.

 

技術者倫理と地質学史

筆者は,地質学史研究において地質学に関わる人たちへの聞き取り調査を複数回行ったことがある.その経験から,地質調査などを通して社会と密接に関わることの多い彼らは,自分たちの社会的責任を強く意識しているのでは,と考えるようになった.そのような人物の一例として,地質調査所で日本各地の図幅調査に従事した今井功(1925-2006)を挙げることができよう.

今井は,自身の研究・調査活動に,地質学に関わる者としての社会的責任が課せられていることを意識していた.そのことは,例えば,筆者宛の手紙の中で今井が次のように述べていることからも窺える.

台風[2002年の台風6号]一過と言いたいところですが,その爪痕は[略]広く刻まれました.洪水,山崩れなどが多発して,地学に携わる者として,日頃の怠慢に責任を感じさせられました.

この引用は,今井が研究・調査の一線を退いて長い年月が経ってから,しかも,一般的な手紙の「時候の挨拶」として書かれたものである.このことから,今井が責任感を強く感じていたことが分かる.さらに,当時明示的に意識していたかどうかはともかく,公衆の安全・健康・福利を重要な価値としていたことが読み取れる.

地質学史の資料からこのように価値観を抽出することは,特に,前節で紹介した筆者らが指向している技術者倫理の観点から意義深い.筆者らの目指す技術者倫理では,価値共有を如何に図るかが肝となる.そのためには,価値観の明確化をしなければならない.科学技術に関わる倫理を主導しているのは,欧米の考え方である.しかし,社会のグローバル化が進み,日本人科学者・技術者が世界各地で活動している現状を見れば,日本やアジア各国の倫理観や価値観も等しく考慮されるべきことは間違いない.今井の例に見て取ることが出来るように,地質学に関わる事柄には,地域性が比較的強く現れる.従って,日本の地質学に携わる人たちに着目して調査を行うことで,日本に特徴的な価値観を抽出できる可能性がある.

 

結びにかえて

筆者は,2006年度から2年間,地質学に関わる人たちの倫理観・価値観を,聞き取り調査という手法で彼らの発言の中から抽出し,歴史的に検討分析を行う機会を持つこととなった.本稿が科学技術倫理への関心を深めるきっかけとなり,さらには,筆者が進めている調査研究への助言を得られれば幸いである.

 

注記

紙面の都合により,本稿では注を省略した.疑問があれば,お手数ながら筆者までお問い合わせいただきたい.筆者のE-メールアドレスは<[email protected]>.本節の記述の多くは,筆者が200611月に科学技術社会論学会第5回年次研究大会で行った発表の予稿を改めたものである.栃内文彦2006:「日本人地質学者の倫理観・価値観の変遷に関する体系的聞き取り調査を行うにあたって」『科学技術社会論学会第5回年次研究大会予稿集』,pp. 87-88.科学技術倫理に関しては,以下の文献を一読されることをお勧めする.C. ウィットベック2000:『技術倫理1』;札野順2004:『技術者倫理』;黒田光太郎2004:『誇り高い技術者になろう』;村上陽一郎1994:『科学者とは何か』;C. ハリス2002:『第2版 科学技術者の倫理』(丸善)

 

 

 

 

24回 地学史勉強会 記録


日 時:20061014日(土) 午後2時〜5時
会 場:青学会館 校友会室C

参加者:11名
    猪俣道也、岩崎秀夫、大沢眞澄、金 光男、高橋直樹、立澤富朗、浜崎健児、水野浩雄、矢島道子、八耳俊文、山田俊弘

(敬称略、五十音順)

内 容:
1.参加者自己紹介・現状報告

 

2.岩崎秀夫氏による話題提供「結晶成長学史――水晶:G. Spezia (1842-1912) から現代まで」

 1669年から2003年までの結晶成長学史年表と、19世紀半ばから20世紀半ばまでの水晶生成の実験記録の一覧表 (Kerr and Armstrong, 1943) が配布され、多くの興味深い写真を含んだパワーポイントのスライドによって講演が行われました。最後に、結晶成長のコンピュータシミュレーションが演示され、天然水晶の結晶とともに、実際に作られたいくつかの人工水晶を手に取ることができました。講演の概要は別掲の通りです。

 また、次のような関連する文献が回覧され、希望者には郵送で配布されました。

   Fumiko Iwasaki, Hideo Iwasaki, “Historical review of quartz crystal growth,” Journal of Crystal Growth,

237-239 (2002), 820-827.

   岩崎文子・岩崎秀夫「『人工水晶の源流』を訪ねる――Giorgio Spezia の業績」, 日本結晶成長学会誌, 25 (1998), 66-69; 126-129; 178-181; 247-250.

 さらに、ブックレット『天然水晶から人工水晶へ――科学と技術の流れ』(岩崎文子氏との共著)が紹介されました。この内容は、以下のサイトで見ることができるとのことです。

   「水晶・圧電仮想博物館」(尾上守夫氏の WebSite “ACADEMIA” のなか):

         http://www.ricoh.co.jp/net-messena/VM/index.html

   「天然水晶から人工水晶へ」:http://www.ricoh.co.jp/net-messena/VM/QUARTZ/

 

3.その他

・以下の論文の紹介がありました。(猪俣氏、金氏)

  猪俣道也「四年ぶりのピョンヤン訪問」、『農大学報』、122号、平成18720日、236-240頁。

金 光男「明治三年五月小坂銀山之図」、『地球科学』、593号、20055月、223-232頁。

  

 終了後、新装開店された青学会館のレストランで懇親会を行いました。

 

 

 

23回 地学史勉強会 記録


日 時:2006610日(土) 午後2時〜5時
会 場:青学会館 校友会室C

参加者:16名会田信行、猪俣道也、岩崎秀夫、大沢眞澄、大森昌衛、金 光男、榊原雄太郎、澤田 操、鈴木尉元、首藤郁夫、栃内文彦、浜崎健児、水野浩雄、矢島道子、八耳俊文、山田俊弘 (敬称略、五十音順)

 

内 容:
1.今井 功氏の追悼

 最初に、地学史勉強会の発足に際して力強い後押しをされた今井 功氏が去る325日逝去されたのを追悼するため黙祷をささげ、大森氏より今井氏の略歴、『雲根志』の訳業を含む地質学史研究上の業績や思い出が紹介されました。また鈴木氏より追悼文「今井 功さんを悼む」(『そくほう』、612号、200661日、6ページ)が配布されました。

 

2.参加者自己紹介・現状報告

 八耳氏より、今井先生の思い出として、科学史研究に進む際に地質学史の分野でどのような研究をしたらよいか、1981年に渋谷の喫茶店でアドバイスを受けたことが紹介されました。

 

3.榊原雄太郎氏による話題提供「貝殻をつくる方解石のはなし」

19ページに及ぶ資料が配布され、方解石と榊原氏のかかわりが語られました。その研究史は化学史、結晶学史、光学史等の絡む興味深い分野であることが分かりました。(詳細な年表あり。)話の概要は別紙の通りです。方解石が学校教育でどのような用いられ方をしてきたのか、偏光顕微鏡の歴史とも合わせてさらに面白い展開が期待できそうです。なお、大森氏より生体中の霰石に関わって、生体鉱物についての詳しいコメントがありました。

4.浜崎健児氏による話題提供「トパーズは帝国の宝石?」

12ページの資料をもとに、各国で珍重され宝石の中でも特異な位置を占めるトパーズについて、コレクターやナチュラリスト、研究者らの足跡がたどられました。18世紀後半にドイツで出版されたモノグラフが印象的でした(Johann Gottlieb Kern, Vom Schneckensteine oder dem sächsisch Topasfelsen, Prague, W. Gerle, 1776, 49p., 7pl.)。また無名会の澤田 操氏より和田標本の里帰りしたものが数点披露され(「鑑定団」によるとラベルだけで10万円の値打ちがあるとのこと)、時間を超過して「鑑賞」と議論に花が咲くこととなりました。鉱物をめぐる歴史の意外な面白さと実物標本の持つ力をあらためて見せつけられた一日となりました。

 

3.その他

・以下の書物の恵贈を受けました。(榊原氏より)

  榊原雄太郎・猪郷久治・鈴木和博・畑野和子『鉱物の顕微鏡観察』(顕微鏡観察シリーズ4)、地人書館、1981年、251頁。

・以下の資料の紹介がありました。「西澤金山」は栃木県の鉱山。(矢島氏)

  登根浩貴・興野喜宣・井上真治「西澤金山の絵葉書 日本の鉱山絵葉書 第3集」、『地学研究』、54巻、3号(改訂別刷り・増補版)、2006530日、40頁。

・次は『地学浅釈』 (1873) の翻訳に関わった D. J. Macgowan (1814-1893) の事跡を寧浪に訪ねた報告。

八耳俊文「愛華堂址訪問紀」、『青山学院女子短期大学同窓会会報』、第32―春号、2006425日、2-3頁。

  

 終了後行われた懇親会では鉱物趣味を話題に盛り上がりました。

 

 

 

方解石について

 

 

 方解石は CaCO3 の炭酸塩鉱物で日本での産出量は少なくない。その化学的性質と形と硬度などの物理的特性により、医薬品、食料品、日常生活用品、建築材料などやそれらの添加物として身近に多方面に広く使用されている。

 方解石は晶相の多い鉱物であり、菱面体晶系、三方晶系、六方晶系として記載されていることもある。透明な方解石(アイスランド・スパ−(氷州石))を用いて E. Bartholin (1669) は複屈折を示すことを発見した。1600年代に入ると、光が波であることが提唱されるようになり、C. Huygens (1678) は光の波動論について説明し出版を行っている。光の屈折については1700年代中頃から Euler (1746) 等によって明らかにされたり、光に関するいくつかの発見が方解石を用いて行われたりした。1800年代に入ると光の回折や干渉などの現象も明らかにされ、E. I. Malus (1808) により偏光という用語が導入され、D. B. Brewster (1812) は偏光に関する屈折・反射などの法則を明らかにした。光が横波であることが実験によって明らかになったのは J. BiotT. YoungA. J. Fresnel (18161818) らによるものである。

 R. Hooke (1665) はコルクから植物が細胞から構成されていることを述べたが、その 116年後に R. Haüy (1781) は偶然のことから、方解石も単位格子に相当するような細かい同形の分子の規則正しい集合からなっていることを明らかにした。植物の細胞説が M. J. Schleiden (1839) により明らかにされたのはそれより57年後のことである。

 X線が発明され、M. T. F. Laue 及び W. H. Bragg W. L. Bragg 父子 (1912) による結晶構造の研究が原子のレベルで行われるようになった。方解石のような軽い原子とイオンから成り立っている鉱物の屈折率の大きいことは、結晶をつくる Ca CO3 の規則正しい配列が、偏光板の分子のように、結晶の中を通過する光の振動方向を制御している構造であることが明らかになった。方解石の結晶主軸 c と直角の方向では屈折率の最大と最小の値の2つ差がある。つまりこの方向では透過したものが二重に見える割合が最も大きい複屈折を示す、その一方の光(偏光)を全反射させて外へ出し、一つの光(偏光)のみを通過させるものがニコルプリズム(偏光装置)で、一方向に振動する光のみが得られる。このニコルプリズムは偏光顕微鏡の心臓部に相当するもので1台に2つ装着されている。

 方解石群として菱亜鉛鉱・菱鉄鉱・菱マンガン鉱・菱苦土鉱・苦灰石などが知られているが、これらの総ての鉱物の屈折率は方解石よりも高い。苦灰石は方解石との共存が知られており、その割合が生成の時の温度を現しているので地質温度計としても知られている。

 方解石は霰石、バテライトの3つの鉱物の多形であり、方解石と霰石の温度・圧力の安定関係は、霰石の方が高圧・高温の鉱物である。しかし方解石群の Mg, Ni, Fe, Caの陽イオンの半径は Ca が最も大きく他のものはそれよりも小さいが霰石群の鉱物では、Sr, Pb, Ba などのイオン半径は Ca のものよりも大きいものであり、高圧鉱物の方がイオン半径の大きいものである。

 方解石や霰石にも他の鉱物と同じように双晶が見られる。とくに霰石の双晶の外形は六角形状であるが、普通の双晶とは異なり、双晶面を境にしてイオンの構造がすべるように移動したような配列といった方が分かり易い特徴的なものであることが知られている。

 方解石の成因には火成岩、堆積岩、変成岩のものが知られている。火成岩起源のものはカーボナタイトといわれてアルカリ岩に分類されており、アフリカの産地が知られている。堆積物中の珊瑚、海草類、貝殻などには霰石が存在する。それらが時間の経過で方解石に転移していくことも知られているが、その中に含まれている水の行方については明らかにされていない。また、貝殻には霰石や方解石からつくられているものもあるが、1枚の貝殻の中に方解石と霰石の両者の存在が見られる場合もある。生物体中の炭酸石灰には非結晶質のものもありその外形だけでは判別できない場合もある。変成岩としては石灰岩が弱い熱や圧力の作用によって再結晶し不透明の白色の方解石特有の劈開が見られる場合があったり、細かい方解石の結晶の集合した結晶質石灰岩となっていたりする場合もある。また、霰石から方解石への転移については、海草、珊瑚、貝殻のような有機物にはアミノ酸が伴っており、圧力と温度だけではなく電場や酵素の働きなどの要素も考えられているようである。

 結晶成長については Kossel (1927) の層成長モデルがある。それは1つの面(完全面)の上に、まず最初のイオンが付着する、これを核としてその周りにイオンがキンク及びステップの形で付着して不完全面を徐々に延ばして完全面へと広げていく見方が結晶エネルギーで説明されている。貝殻ではこの階段状のステップは完全平面上の欠陥に生じたすべり面の奥ではイオンや分子は付着しにくいので直線状でなくらせん形を取りらせん転移の成長となる。この様子は、アコヤガイの真珠層を電子顕微鏡で観察され、面に垂直な切断面ではあたかも煉瓦をセメントで固定し積み上げて塀を作るように、方解石の結晶の間をアミノ酸が配置されている様子が観察できる。

 方解石の複屈折の実験は、白紙の上に1つの点を描きその上に方解石の劈開片を置き、劈開片を通して点が2つに見えるのが複屈折である。もう1枚の劈開片をその上に重ねる。その上の劈開片を紙面と平行にゆっくりと回転させると2つに見えていた点は、4つになって見え、さらに回転させて最初から 180になると点は1つになって見える。このような実験から、方解石を通る光は振動方向が 90異なる2つの横波の偏光であることを考察したのであろう。

 方解石は、1669年の複屈折の発見から、1912年のX線による結晶構造の研究、さらに1932年にポーラロイドが発明されその実用化されるまでのおよそ250年以上の長い間、光学及び結晶学の発展に尽くしてきた鉱物である。しかし、最近中学校での岩石や石の名前の調査では方解石の名前は30位以内には見当たらないという報告がある(廣木, 2004)。また、偏光も高校では現行物理で扱われるので方解石は扱われることも少なくなるのではないかと思う。

 方解石の晶相の図は、森本信男他 (1975)、及び 須藤俊男 (1948) の本に、双晶の図は 望月勝海 (1948) のものに多く掲載されている。

  方解石の晶相及び双晶の写真は、工業技術院地質調査所 (1970) : Introduction to Japanese Minerals、及び J. KOURIMSKY & F. TVRZ (1978) : Encyclopedie des mineraux にいくつか掲載されている。(2006610日地学史勉強会で発表)

 

 

 

22回 地学史勉強会 記録


日 時:2006318日(土) 午後2時〜5時
会 場:青学会館 校友会室C

参加者:14名
    猪俣道也、風戸良仁、風間 敏、榊原雄太郎、白井裕章、首藤郁夫、立澤富朗、谷本 勉、泊 次郎、浜崎健児、松本秀士、水野浩雄、矢島道子、山田俊弘  (敬称略、五十音順)

 

内 容:
1.参加者自己紹介・現状報告

   千葉県から参加された風戸さんヘ、千葉大学地球科学科に入学直前の若者で、おそらくこれまでの本会参加者では最年少です。

 

2.風間 敏 氏による話題提供「大陸、移動説〜プレートテクトニクス受容史をめぐって」

8ページのプリント資料に基づく発表。ヴェーゲナーによる大陸移動説が、19世紀の陸橋説やアイソスタシー説との関係でどのように組立てられていったか、当時の資料や最近の研究書を参照しつつ 検討されました。陸橋説の図などは興味深いものでした。また、風間氏が分担執筆した『はじめての地学・天文学史』(ベレ出版、2004年)の訂正箇所も正誤表として示されました。

科学史上の重要テーマでもあり、質疑応答が旺盛に交わされました。新しいヴェーゲナーの人物像、科学方法論(帰納的か演繹的か)から、受容史のうえでの諸問題(アメリカの状況、地殻熱流量、古地磁気研究、ソ連における研究、資源調査との絡み、マイヤーホフ父子の反対論、付加体仮説)や理科教育上の扱い、さらにはパラダイム論や科学革命論による科学史叙述の問題まで幅広く論じられ、有意義でした。

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3.その他

・以下の貴重な書物が出版されました。(矢島氏)

  鈴木尭士『日本で初めて公害を解�ノ導いた男――角 彌太郎の生涯』、西宮謄写堂印刷(高知)、2006221日、95頁、1890円。角 彌太郎(かど・やたろう、1870-1967)氏は日立鉱山所長で日立の煙害問題に取り組んだ人物。出版社の連絡先は、780-8037高知市城山町36(電話:088-831-6820FAX088-833-9826)。

・牛来正夫氏の業績に関して次のよう、な記事があります。(猪俣氏)

  K. Shuto, H. Kagami, T. Yoshimura, M. Inomata and M. Yoshida, OBITUARY: Memorial Assembly of Late Professor Masao Gorai,Gondwana Research (Gondwana Newsletter Section) V. 6, No. 4 (2003), pp. 938-939. このなかに、「牛来正夫はヴェーゲナーの大陸移動説に同意していたが、それをより早い時代に拡張することには異議をとなえた。」とあります。

・千葉県立中央博物館の春の展示「結居サとガラス」が311日から始まりました。ステノの結晶学における業績の紹介もあります。64日(日)まで。(山田)

 

 終了後懇親会を実施しました。引き続き熱心な討論が行われました。

 

 

 

 

21回 地学史勉強会 記録


日 時:20051217日(土) 午後2時〜5時
会 場:青学会館 校友会室B

参加者:10名
    風間 敏、金 光男、榊原雄太郎、鈴木尉元、首藤郁夫、浜崎健児、水野浩雄、矢島道子、八耳俊文、山田俊弘 (敬称略、五十音順)

 

内 容:
1.参加者自己紹介・現状報告

 

2.水野浩雄 氏による話題提供「地球から太陽までの距離を測る――宇宙150億光年への第一歩」

4ページのレジュメとOHPによる発表。惑星空間の認識の歴史が測量方法の変遷とともに語られました。教材としても興味深く思われました。概要は別紙の通りです。

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3.その他

・前回案内があった1126日(土)・27日(日)の滋賀県地学史見学ツアーは無事終了しました。参加者は12名でした。(八耳氏)

 

 終了後懇親会を実施しました。

 

 

地球から太陽までの距離を測る ― 宇宙150億光年への第一歩

 

水野 浩雄

 

Estimation of the Earth-Sun Distance: The first step toward 15 billion light-years of Universe

Hiroo Mizuno

 

1. はじめに

 地球から見える最も遠い銀河は150億光年くらいであろう。どのようにして150億光年が決まるのであろうか。その第一歩は太陽の周りを公転する地球の軌道半径を決めることにある。つまり、地球から太陽までの距離(天文単位)を測ることである。それが決まると、近くの恒星までの距離は三角測量に類似の方法で測ることができる。

 オランダのスネリウスは1617年に、アルクマ−ルとベルゲンの間の三角測量を行った。地上に適宜、三角点を設置して三角点網をつくる。一つの三角点から隣接する三角点を望む辺の間の角度を測定する。網内の総ての角度が分かれば、紙の上に相似な三角形を描くことができる。三角点網の実際の大きさを決めるには、少なくとも一つの辺の長さ(基線長)を測らなくてはならない。スネリウスは、フランスのトアズ尺と比較した尺を用いた。上記二点間の三角鎖の辺長を子午線に投影して、スネリウスは地球の子午線長を求めている。

 「恒星の距離は三角測量の原理で測る」と説明されているが、それは地上の三角測量とは異なる。地球は太陽の周りを公転している。地球から恒星を望む方向は、一年を周期として変化する。その変化の大きさを年周視差という。地球の軌道半径が既知ならば、年周視差の観測から恒星までの距離を求めることができる。それは太陽のごく近傍の星に限られる。しかし宇宙の広がりの認識の第一歩は地球から太陽までの距離を知ることにあった。

2. カッシニ:太陽までの距離をはじめて決める

 月も太陽も、その他の惑星も、有限の距離にあることは、地動説はもちろん、天動説でも前提であった。しかしそれがどれほどの距離であるかは、漠としてつかみようがなかった。地球から他の天体までの距離の測定に初めて成功したのはカッシニであった。

 カッシニ(仏)は4代にわたる学者一族として知られている。地球−太陽間の距離測定に成功したのはカッシニI世であった。カッシニが実際に測定したのは火星までの距離であった。カッシニはパリで、リシェは南米北東海岸のカイエンヌで、火星の同時観測をした。両点で火星の見える方向は異なる。その違いを地心視差という。約1kmを隔てる2点からの視差により、地球−火星の距離を求めた(これも地上の三角測量とは異なる)。

 重要なことは、カッシニがさらにケプラ−の第三法則に基づいて、地球−太陽間の距離を求めたところにある。ケプラ−はチコ・ブラ−ヘの観測資料を解析して、惑星の運動に関する三つの法則を発見した。第一、第二法則は1609年に、第三法則は1619年に発表された。この第三法則を用いれば、火星までの距離が与えられたときに、太陽までの距離を算出することができる。カッシニは火星までの距離を測定したときに、すでにそのことを知っていた。

 チコ・ブラ−ヘは望遠鏡の発明以前の最大の観測天文学者であった。1576年、デンマ−ク王フレデリック2世が、エ−レンス海峡に浮かぶヴィ−ン島に天文台を建設して、この島の領主としてブラ−ヘを住まわせた。ここで21年間の長きにわたり、ブラ−ヘは天体観測に打ち込んだ。火星の運行の詳しい観測資料はケプラ−の研究に委ねられた。チコ・ブラ−ヘがなければ、ケプラ−の第三法則はなかった。それがなければ、太陽系の大きさ、さらには宇宙の広がりに関する認識には至らなかった。重要なことはブラ−ヘの観測が、望遠鏡抜きの前近代的な器械によるものであったところにある。ブラ−ヘをして長年の弛みない観測を続けさせたものは何であったのか。また、ケプラ−はブラ−ヘの観測資料から、いかにして三つの法則、とりわけ第三法則を導き出したのか。歴史の研究課題がここにある。

 

3. ハレ−の着想

 天文単位は天文学にとっては最も基礎的な量である。その精度の向上が求められた。金星の太陽面通過の観測からそれを決める方法をハレ−が提唱した。

 ハレ−といえばハレ−彗星で知られる。ニュ−トンの万有引力の理論を彗星の運動に適用して軌道を計算し、彗星の観測記録と比較した。しかしそれだけではない。ハレ−は才能に恵まれ、多方面に活躍し業績をのこした。ニュ−トンのプリンシピアが世に出る上で、ハレ−の力があった。

 当時、南半球から見える恒星については未知に近かった。その観察と記録のために21才の若さでハレ−は、アフリカ大陸西岸沖のセント・ヘレナ島に滞在した。ハレ−はそこで、1677年の水星の太陽面通過を観測した。それがヒントで、金星の太陽面通過の観測から天文単位を決定する方法を考えついた。1716年にハレ−は論文を発表し、金星の太陽面通過の観測から地球−太陽間の距離を決定する理論を公にした。そして次回の金星の太陽面通過の時に、国際的な共同観測隊を組織するように天文関係の団体へ呼びかけた。一昨年の68日、122年ぶりに金星の太陽面通過が起こるというので、日本でも天文ショ−として賑わった。それは122年ごとに巡ってくる。そしてその都度、8年を隔てて対になって起こる。それで次回は2012年に見ることができる。

 月が太陽の前を通過する日食と同じで、金星が太陽面上を通過する。地球上で遠く離れた2点で同時刻にそれを観測すると、太陽面上に見える金星の位置が異なるであろう。すなわち、火星の場合と同じく地心視差が認められるのである。時の経過とともに金星は太陽面上を通過するが、その経路は観測点により異なる。それを観測で決めるのである。それから求められるのは金星の地心視差である。こうして金星までの距離を求めることができる。地球から金星までの距離が決まれば、カッシニと同じく、ケプラ−の第三法則により太陽までの距離も決まるのである。これがハレ−が提唱した方法であった。

 ハレ−は1742年に亡くなったが、1761年と1769年の金星の太陽面通過の観測には各国が総力をあげた。そして、ハレ−の方法により天文単位が求められた。

 キャプテン・クックは科学的探検の先駆者である。彼は軍艦エンデヴァ−号で、中部太平洋、南極圏、北太平洋を含む3回の大航海をおこない、多くの島々を発見した。第一回の航海は、1768年〜1771年に行われたが、176963日の金星の太陽面通過を南太平洋で観測することも、その目的の一つであった。クックらは、いまタヒチ島の Point Venus と名付けられている所と、その付近の2カ所で観測に成功した。しかしクックはやっかいな問題を報告した。それは、金星と太陽の接触の時間を決めようとすると、両者の縁は数秒間くっつくように見えるという。金星と太陽の接触時刻は、明確には決まらない。ハレ−の方法は期待されたほどには精度が上がらなかったのである。

 

4. ニュ−カム:新しい道を求める

 それでも、18世紀、19世紀の金星の太陽面通過(4回)に際しては、精力的に観測が行われ、それに基づいて幾人もの天文学者による天文単位の決定値が出揃った。有力な天文学者ニュ−カム(米)はしかし、この方法にはかなり否定的であった。彼は1874年、1882年の金星の太陽面通過の観測を組織したし、18世紀以来の観測結果から天文単位を求めてもいる。それとともに彼は、恒星の光行差の観測と光速度の測定から、地球−太陽間の距離を求める方法を考えた。星の光行差は、垂直に降り注ぐ雨の中を電車が走るときに、窓にのこる雨滴の跡が斜めになるのと同じである。電車の速度が速いほど飛跡は垂直から離れるであろう。地球の軌道の真上からくる星の光は、地球の公転にともない僅かではあるが斜めに入射する。その方向は一年を周期として規則的に変わる。光行差と光速度から軌道上の地球の速度が分かる。それにより軌道半径が求められる。当時すでに光速度は実験室における測定が可能になっていた。ニュ−カムは光速度測定で名高いマイケルソンとも会っている。この方法はデ−タを出すことは少なかったが、ケプラ−の第三法則に依存することなく、天文単位を直接に求められるという点で、原理的に独自の方法であった。

 

5. レ−ダ−で金星までの距離を測る

第二次世界大戦中、レ−ダ−の開発は交戦各国の急務であった。戦後それは一般の利用するところとなった。レ−ダ−から発振した電波が金星で反射して帰ってくるのを観測して、その距離を決められるようになった。簡単には、電波の往復に要する時間を測り、光速度を掛ければ距離が決まると理解される。現代技術の最高度の到達の一つといえるであろう。

しかしそれは単に、個別の技術の発展だけではない。それは計測の体系の変革を物語る。物体の空間的位置関係の決定は、歴史的な年月にわたり、角度と長さの測定に依っていた。速度は長さと時間の測定により決まる。長さの単位はメ−トル原器で、時間の単位は天文観測で保持されていた。新しい計測体系では、光速度は宇宙常数で、あらかじめ決まっている。時間は原子時計で測られる。長さの測定は時間の測定に置き換えられた。原子時計の出現がもたらした時間の測定の精度の飛躍的向上により、新しい計測体系の実現をみた。

 

6. チコ・ブラ−ヘ、ケプラ−の達成の意義

 ハレ−が知恵を絞った金星までの距離の測定は、レ−ダ−で解決した。かつてはケプラ−の第三法則の単純な適用により太陽までの距離を算出していたが、いまでは天体の軌道論が体系化されている。しかしその基礎となる万有引力の法則は、ケプラ−の第三法則に導かれた発見であった。ケプラ−の三つの法則は二体問題に限られる。ニュ−トンの万有引力の法則は、自然界全体を貫く普遍的な法則である。普遍的な法則の認識は、個別の事象の法則を認識してはじめて可能であった。このようにして、高度に発達した技術を駆使する現代においても、依然としてケプラ−、そして遡ってチコ・ブラ−ヘの土台の上に成り立っているのを見なければならない。(本稿は地学史勉強会(20051217日)における報告である。)

 

 

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