JAHIGEO

地質学史懇話会



 

地学史勉強会 

 

会合の記録

1120

 

 

20回 地学史勉強会 記録


日 時:200510 1日(土) 午後2時〜5時
会 場:青学会館 校友会室C

参加者:17名
    会田信行、猪俣道也、大沢眞澄、大森昌衛、岡田朋子、長田敏明、風間 敏、

金 光男、榊原雄太郎、鈴木尉元、首藤郁夫、浜崎健児、藤原 靖、水野浩雄、

矢島道子、八耳俊文、山田俊弘             (敬称略、五十音順)

 

内 容:
1.参加者自己紹介・現状報告

 

2.長田 敏明 氏による話題提供「戦前に於ける台湾地学研究史の概略」

大部の報告書『戦前に於ける台湾地学研究略史(未定稿)』(140+34pp.)に加え、レジュメ3枚、台湾地図、台湾地質図 (1974)、”Stratigraphy of Taiwan with probable correlatives in the adjacent areas (Chang, 1957)” が配布されて講演が行なわれました。概要は別紙の通りです。

 

3.個人情報の取り扱いについて

   本勉強会の記録にある参加者名簿をJAHIGEOホームページ上に載せることについてご意見をいただき、会合の時に了解を得るということで問題なかろうということになりました。

 

4.「滋賀県地学史見学ツアーのご案内(企画者:八耳俊文)」について

 八耳氏より概要の説明と参加のお誘いがありました。大津市の西教寺を宿泊場所として1126日(土)・27日(日)に実施予定。

 

5.その他

 以下のような紹介がありました。

・京大地鉱教室にある地学史関係資料について(鈴木氏&矢島氏)

・松永俊男「チェンバーズ『インフォメーション』と文部省『百科全書』について」、2005年、31ページ(Chamberss Information for the People 別冊日本語解説、Eureka Press)(矢島氏)

・ライマンの地質調査法に関する新資料 Donald L. Ziegler, Straight Forward Procedures: Structure Contour Map Born in India,AAPG Explorer, March 2005, pp. 42, 44.(金氏)

・猪俣道也「食料と地球規模での物質循環」、『農大学報』、120号、平成17720日、280-282ページ(猪俣氏)

・六本木ヒルズの森アーツセンターギャラリーでダ・ヴィンチ展が開催中。地質学的な内容のノートを含む「レスター手稿」日本初公開。1113日まで。(八耳氏)

 

 懇親会は12名の参加で盛況でした。

 

 

 

19回 地学史勉強会 記録


日 時:2005 611日(土) 午後2時〜5時
会 場:青学会館 校友会室C

参加者:16名
    荒尾美代、石山 洋、猪俣道也、大沢眞澄、河内洋佑、金 光男、榊原雄太郎、鈴木尉元、竹原ゆかり、栃内文彦、浜崎健児、藤原 靖、水  野浩雄、矢島道子、八耳俊文、山田俊弘 (敬称略、五十音順)

 

内 容:
1.参加者自己紹介・現状報告

 

2.大沢 眞澄 氏による話題提供「地球化学から文化財科学・科学史へ――遍歴の跡」

SCIENCE (1970130日号)、日本温泉科学会 (1994年、石川県辰口町)、『日蘭学会通信』 (No. 69, 19954)、日本科学史学会 (1991年、1997年、2004)、日本文化財科学会 (1996年、1999年、2000年、2001年、2002)、『The First International Symposium on X-ray Archaeometry (2002718-20) などB411枚の資料が用意され、240枚に及ぶ大量のスライドや写真類を用いた講演が行なわれました。

大学時代に受けた浜口教授らによる化学の教育と地球化学史のおさらいから始められ、東京湾や日本海溝・日本海の海洋調査や、温泉水の放射化分析、玄武岩研究、1968年の「安山岩会議」、アポロ1112号の持ち帰った月の岩石の分析などの諸研究の経緯が振り返られました。話はさまざまな同世代の科学者の素顔やエピソードから、歴史的な著名人の諸業績、さらには江戸時代の蘭学研究まで連綿と連なり、おおせいな探究心と驚くべき関心の広さが感じられました。当初予定されていた文化財科学や洋学史・化学史など科学史研究の歴史まで話が及ばないのが残念でしたが、それも止むを得ないと思わせるほどの充実振りでした。大沢氏には是非もう一度お話してほしいと思った人も多かったと推察されます。

 

3.その他

   以下の展覧会と講演会の紹介がありました。(矢島氏)

・「生誕150周年記念 エドムント・ナウマン展−フォッサマグナの発見と日本の地質学への貢献」、フォッサマグナミュージアム、平成17716日〜1030

・記念講演会 87日、13:3017:00、フォッサマグナミュージアムホール

  矢島道子氏「日本の地質学の父、ナウマン」

  立石雅昭氏「フォッサマグナの過去と現在−日本列島研究の最先端」

  懇親会は13名の参加で盛況でした。

 

 

 

 

18回 地学史勉強会 記録


日 時2005 3 25 午後時〜
会 場青学会館 校友会室

参加者:17
会田信行、猪俣道也、大沢真澄、大竹多門、大森昌衛、長田敏明、金 光男、首藤郁夫、白井裕章、鈴木尉元、立澤富朗、浜崎健児、藤原 靖、矢島道子、八耳俊文、山田俊弘、吉岡 学 敬称略、五十音順

 

内 容:
1.参加者自己紹介・現状報告

 

2.立澤 富朗 氏による話題提供「ヒマラヤの巡り」

レジュメ(A3、1頁)、地図や地質図(A3、5頁、A4、2頁)のほかに、印象的なスライドと写真の紹介がありました。内容の詳細は別紙の通りです。今回は通常より多くの参加者がありました。タイトルに引かれてきたという方もおられました。地球上の特殊な場所への旅行とそれをコーディネートする仕事の魅力と大変さ、その歴史的変遷(河口恵海からの)も分かる講演でした。

 

3.その他

以下の鉱物書の紹介がありました。浜崎氏

Georg Kandutsch - Michael Wachtler, Die Kristallsucher: Ein Gang durch Jahrmillionen, Band 2, München, Christian Weise Verlag, 2000, 160pp.

また、以下の興味深い見学旅行の案内がありました。(問い合わせはジオプラニング)

・「英国ウェールズ地方の地質見学 古生層の模式地とコーンウィー城見学」 6月20日〜27日、案内者  大森昌衛 氏

・「近代ヨーロッパの地質学・古生物学の発展に貢献した女化石屋メアリー・アニングの足跡」 9月5日〜12日、案内者 矢島道子 氏

 

 

ヒマラヤ巡り
                        

立澤 富朗 (ジオ プランニング)

 

はじめに
 旅行会社「有限会社ジオプランニング」設立から8年。いろいろな旅行を企画してきたが、ヒマラヤを巡ることを一つのテーマ (研究テーマではない) として考え実行しきたように思う。世界の第三極と言われるヒマラヤをネパール側から3回、さらに、パキスタン (フンザ)、インド (スピティ渓谷)、中国 (雲南省、横断山脈)、中国 (チベット) と、4方面から8回見学する機会を持つことができた。それぞれが思い出多いが、そのハイライトを紹介したい。

ネパールの旅
 19998月、ネパールのペニからカリカンダキ川を、かつてのムスタン国の町だったジョムソンまで歩ききったことは、思い出に残る旅となった。荷物はポーターが持っていってくれて、旅行者は手ぶらで歩いた。途中、多くの吊り橋があり、危険なことも多かった。それでも世界で1番高い山西洋人はエヴェレスト (8848m) と呼び、中国ではチョモランマと呼び、ネパールではサガルマータと呼ぶ−を遊覧飛行では頂をくっきり見ることができた。
 ジョムソンのちょっと手前にあるマルファ (マルパ) では、河口慧海が2ヶ月間逗留した館 (現在はアップルワインを製造) の中にはいり、彼が座ったであろう仏間を見学することができた。とにかく一週間歩き続けなければならないが、移動中は途中のティーハウスでとるインスタントラーメンが毎日の昼食であった。

 

河口慧海
 明治30 (1897) 6月、32歳の河口慧海は神戸を出航した。黄檗宗で得度した慧海は従来日本にある仏典に満足できず、真の仏教典はチベットにあると聞き、それを求める旅に出たのである。もちろん、当時チベットは日本と国交はない。まずインドのブータン国境に近いダージリンで3年間チベット語を学ぶ。その後カルカッタに戻り、ネパールのカトマンズに向かう。カトマンズを訪れた最初の日本人である。その後ポカラを経てツァラン (ツァーラン) 1年間を過ごす。明治33 (1900) 3月、親しくなったマルファの村長を頼って、マルファに着き、2ヶ月ほど逗留する。6月、ついにダウラギリの山を越えて、チベット入りをめざす。河口慧海は日本のほこる冒険家といえよう。
 旅の案内をしてくれた元ジャイカ職員が当地の人々と親しかったおかげで、慧海の逗留したマルファの元村長の家の仏堂に入ることができた。そこには今も仏像、仏典が安置されていた。同じ仏堂に入って床に座ると、慧海と少しだけ時間を共有したように感じられた。部屋の窓からはカリカンダキ川と桃園が見える。慧海もこの風景に心が癒されただろうと思えた。

 

パキスタン (フンザ) の旅
 20008月、イスラマバードからカラコルムハイウェイを車で、中国国境近くのカリマバードまで北上した12日間の旅をした。インドプレート−コヒスタン島弧−カラコルムプレートを一望のもとで見ることができた。プレートが動いていると実感できるようであった。車は猛スピードで飛ばし、怖い思いもした。泊まったホテルではまあまあの食事が出たが。帰りはギルギットから飛行機に乗る予定であったが、パキスタン事情 (飛行機は不定期で、ずっと待っている人から乗せていく) で乗れず、ほとんど宿泊せずに戻ってこなければならなかったこともあった。イスラマバードの南にあるソルトレンジでは、岩塩鉱山を見学、アレキサンダー大王が遠征中に掘った跡が長大な洞窟になっているのを見ることもできた。

インド (スピティ渓谷) の旅
 20037月、マナリからチャンドラ川を北上し、その後スピティ川沿いに西へ進んだ。露出は非常によくて、岩相の違いは色の違いとしてくっきり表れる。露出はものすごくよくて、保存のよいアンモナイトをハンマーなしで拾うことができた。あたかも白亜紀の海底にいるような錯覚にとらわれた。
 このルートは最近、高山植物が見られることで有名になり、特にブルーポピーが人気である。ロータンパス峠 (3978m) の日当たりのよくない岩陰にひっそりと咲いているために、よけい花の美しさが際立っているように思える。河床にテントを張って宿泊するキャンプ生活が数日続く旅行だったが、是非とも行ってみる価値のあるところだ。

中国 (チベット) の旅
 20048月、飛行機を乗りついでラサに入る。ブダラ宮は壮大で内部の昇降が多いので、遠くから見ることで満足する。ヤンパジャン (羊八井) は地熱発電所があり地熱量の多いところでかつ有望な鉱床でもある。ヨウブ寺から更に馬に揺られてチョモランマのベースキャンプ (中国語で大本営) まで行ってみたが残念ながら氷河も山頂も望むことができなかった。

その他
 デュボアの人類化石現場であるジャワ島トリニール、或いはハワイのマウナケア、バヌアツ、タンナ島の火山、済州島の熔岩トンネルなどの見学も行ってきた。

まとめ
 ジオロジストの旅は露頭との出会いでもあるが、旅行社としての旅は、いろいろな人との出会いも忘れ難いものがある。おかげさまで大きな事故もなしに8年間をすごすことができた。また、ジオプランニングだけしか企画できない旅行を続けていきたいと思っている。

 

 

 

17回 地学史勉強会 記録


日 時200412 25 午後時〜
会 場東京大学総合研究博物館、階第演習室
参加者:14

猪俣道也、大沢眞澄、風間 敏、金 光男、榊原雄太郎、澤田 操、首藤郁夫、竹原ゆかり、浜崎健児、水野浩雄、矢島道子、八耳俊文、山田俊弘、吉岡 学 (敬称略、五十音順)

内 容:
1.参加者自己紹介


2.浜崎 健児氏 による話題提供「桜井欽一博士と無名会について」
 鉱物愛好家、無名会会員である浜崎氏の、敬愛やまぬ桜井欽一博士へのオマージュが語られた。資料は10頁のレジュメ、6種類のコピー、そして、鉱物標本、多数の書籍原本にわたる。桜井博士(1912-1993)は、一般には、アマチュアの鉱物愛好家、膨大な桜井標本で知られるが、日本鉱物誌第3版 (昭和23年、上巻のみ) 作成の原動力となったことが第1の業績である。どのような日本産鉱物種に関しても即座に、まるで古事記の太野安万呂のごとき驚くべき語り部能力を発揮した桜井博士であった。学界の記録という意味でもその記載能力が発揮された。「日本地質学会史」 (60周年記念、1953) には、鉱物学界の故人追悼とその周辺の鉱物収集家、標本商、篤志家の列伝、新産鉱物など興味深い記事を執筆している。コンピュータのない時代に、アマチュア育成と情報ネットワーク構築に関して力を注いだ博士の努力は計り知れないものがある。日本の鉱物学、分析化学の発展は桜井博士あってこそのものだったかもしれない。桜井博士が心血を注いだ鉱物愛好家のクラブである無名会は現在も活動を続けている。また、家名「ぼたん」の由来も初めて伺うことができた。

3.その他
 懇親会は、浜崎氏のはからいにより、桜井博士ゆかりの神田の老舗「ぼたん」で行なわれた。会の途中、桜井博士のご子息の表敬があった。おいしい鳥すきに話はますますはずんだ。一帯は奇跡的に戦火を免れ、東京の古い街並の保存されるところである。とくに「ぼたん」のある神田須田町は仕立町だった。ラシャや釦などの服飾の素材店が多数あったという。「ぼたん」の屋号は、実は洋服の「釦」に由来するという説明が浜崎氏により披露され、鳥料理なのにいのししの別名「牡丹」を名乗る謎が明らかとされた。2次会は近くの老舗甘味所「竹むら」が選ばれた。無名会の堀秀道さんが偶然にも「ぼたん」にいらして、ご挨拶にこられた。東京大学総合研究博物館では「『Systema naturae』〜標本は語る〜」展を開催中で、美しい鉱物標本や分類の楽しさを見学することもできた。 (文責:矢島道子、金 光男)

 

 

 

16回 地学史勉強会 記録

 

日時:200410 2日(土) 午後2時〜5時

 

会場:青学会館、校友会室B

 

参加者:14名

猪俣道也、大沢眞澄、大森昌衛、金 光男、鈴木豊雄、鈴木尉元、竹原ゆかり、立澤富朗、浜崎健児、水野浩雄、矢島道子、八耳俊文、山田俊弘、吉岡 学 (敬称略、五十音順)

 

内容:

1.参加者自己紹介

 

2.吉岡 学  による話題提供「榎本武揚の流星刀と「流星刀記事」に関する一考察」
吉岡氏がこの数年間進めてきた表記の研究の全貌が、「研究史」、「流星刀、「流星刀記事」に関する基礎的なデータの集積と考察」、「殖産興業と流星刀」、「隕鉄の鍛造性に関する考察」の順に、明らかにされた(14頁のレジュメ、8頁の写真などの資料)。このなかで榎本の「流星刀記事」を改めて手稿から起こし(7頁分を紹介)、時代背景を説明している(年表1頁)。榎本が記述にあたって利用したソースや当時の地質学者らとの関係を検討した結果、榎本がアグリコラらのラテン語原典まで読んで書いたという従来の説は修正される必要があることが指摘された。加えて、本研究を特徴づけるのは、隕鉄から作られた刀が5振りであることを確定し、刀鍛冶の歴史を調査したうえで、実際に小屋を建てて隕鉄からの作刀を行っている点であろう。このような観点から、榎本の文章が、文化史的視点を考慮した独自の科学的「報文」の性格を持つと結論する。さらに、明治31年東宮に献上したという史実の背後にある、伝統文化にからめた、農商務大臣としての殖産興業への指向性が議論された。

  榎本武揚という魅力ある人物と地学との接点を、いくつかのコンテクストから描き出す興味深い試みであり、探求の醍醐味が感じられた。参加者の方々からも是非きちんとまとめて欲しいという期待が寄せられた。

   

3.その他

 以下のような資料の紹介がありました。

・以前、本会で発表された 高橋幸紀 氏の論文「明治初期における日本人科学者による重力測定」 (杉山滋郎 氏と共著) が『科学史研究』 (43巻、2004年秋、138-149) 誌上に発表されました。 (矢島氏)

・黒田吉益氏の『中国と JAICA と私』が出版されました (20047月、326)。(猪俣氏)

・ステノ (Nicolaus Steno, 1638-1686) の伝記が英語で聞ける以下のCDが発売されています。Alan Cutler, The Seashell on the Moutaintop: A Story of Science, Sainthood, and the Humble Genius who Discovered a New History of the Earth, read by Grover Gardner, Minneapolis: HighBridge Company, 2003, 5 Compact Discs, 5h45m.  (鈴木豊氏)

 

 

 

榎本武揚の流星刀と「流星刀記事」に関する一考察

 

吉岡 学

 

T 研究目的
 箱館戦争の首魁、千島樺太交換条約の締結者、軍人あるいは政治家として想起される榎本武揚が白萩隕鉄から刀を作り皇太子に献上したことは一定の知名度を得ているとはいえ、伝説が多く不明確な点を残している。筆者はかねてより榎本の科学者としての側面に焦点を当て研究を行なってきたが、むしろ技術者、実学者として解釈することが妥当である。榎本にとって鉄は最も力を注いだ分野だが、その中にあって特異な例である流星刀に着目し、その実態や献上することの意義について考察を行なった。また鍛冶屋を取材し、自身でも鍛冶を試みて流星刀の作り方を推定し、ひいては隕鉄の鍛錬性についても言及した。

U 流星刀、「流星刀記事」とは
 榎本は明治初年公使としてロシアにあった時隕鉄刀を見る機会を得た。明治234月富山県上新川郡稲川村大字白萩村(現在上市町)にて発見された鉄塊は28年地質調査所分析課の近藤会治郎により隕鉄であるとされた。榎本は農商務大臣を務めていた縁によりこのことを聞き、数千円の代価をもって後に白萩隕鉄と呼称される鉄塊を手に入れた。その後明治312月に至りこの隕鉄により日本刀を作り皇太子に献上することを企て、1貫目を切り取り刀匠岡吉国宗に依頼し作刀させた。これが流星刀で無論日本では初めてのことだった。最終的には5振り作られ、出来の良い長刀1を同年12月献上した。この時その来歴等を記した「流星刀記事」を著し、明治35年『地学雑誌』157に抄録される。なお佐藤伝蔵明治3410月東京地学協会にて講演を行った時流星刀が展覧されている。武揚の死後短刀1本が東京帝室博物館に寄贈されたが昭和6年前後行方不明となり、他の3本についても伝世経路を把握することは困難である。

V 「流星刀記事」の検証
1
参考文献 
QuenstedtFriedrich August (1855,1877): Handbuch der Mineralogie
Edward Divers (1882): On Two Japanese Meteorites
Transactions of the Asiatic Society of Japan.10
Ludwig Beck (1884): Die Geschichite des Eisens in technischer und kulturgeschichtlicher beziehung..1
Dana, System of minearaogy

等洋書が主であり卓越した語学能力を示しており、またベックの『鉄の歴史』を引用しているあたりには隕鉄をまず鉄−即ち製鉄材料−として捉えようという技術者としての指向が如実に現れ興味深いものがある。
2
地質調査所の協力
 高山甚太郎分析課長はデーナーの著作を紹介した。高山はダイバースに師事した日本化学界草分けの一人で、八幡製鉄所建設においても榎本をバックアップしている。
 隕鉄購入を仲介した近藤会治郎技師は気仙隕石分析の経験があり、論文を『地学雑誌』に発表している。近藤の論文には「流星刀記事」と一致する部分があり、近藤も文献を紹介したことが知れる。また高山が榎本に紹介したデーナーの表も掲載されており、3者の協力関係を示している。 
 榎本は明治34年巨智部忠承所長に草野良明(幕末〜明治、月山 の弟子)の剣を送っており、所の協力に対するお礼と考えられる。日本において国産の隕鉄を分析するのは初めてで、彼らにとっても非常に有意義な仕事であったことがその後の経歴を見ても分かる。いわばgive and takeで、榎本は貴重なサンプルを提供し地質調査所は分析や文献紹介で「流星刀記事」をバックアップした。榎本と地質学者とのつながりは急に形成されたものではなく、既に大臣就任以前から砂鉄調査等で、そして就任以後八幡製鉄所建造を通して公私にわたる交流があった。即ち榎本が実学者として生きてきたことが−流星刀という対象が実学的でないにしろ−「流星刀記事」を執筆するにあたり有用に作用したことが伺える。

Y 流星刀に関する技術的問題点
 流星刀は地肌に独特の杢目を見せる奇異な外観を有し、また5本目即ち最後に作製された短刀は他と異なり無銘にてなかご茎(柄に入れる部分)仕立ても雑である等その性格 に差異が認められる。作刀に供された隕鉄は僅かに1(3.7kg)であり、「流星刀記事」にある刃鉄の比率、即ち隕鉄:玉鋼=7:3という値は首肯しがたい。これは文中の「卸す」という言葉を玉鋼と隕鉄との混合という意味で捉え、実際は隕鉄の比率はより低かったと考えるのが妥当であろう。また沸、匂(焼入れに伴い現出する組織)が見られないことから焼きが入っていない可能性が高い。それは文中に「火力減ヲ淡ク」とあることからも察せられる。
 作者の岡良国宗については明治29-31年の年紀が確認できる以外明らかでないが、東京砲兵工廠の軍刀用職工ではないかと推察される。
 隕鉄の鍛造性を支配する要因としては@相A鍛錬温度B化学組成等が想定される。

X 流星刀に見る実学とナショナリズム
 明治日本の目標はこの国を列強と肩を並べることの出来る国に育てる、即ち殖産興業にあった。実学者榎本の最大の事跡と言ってよい八幡製鉄所はその好例だが、榎本は製鉄所建造の目的を帝国議会で以下のように述べている。 
「欧米普通の原料によらずして最も廉価なる本邦特産の原料を適用し、以って同質にして廉価なる鋼材を製するにあり」
 そして「流星刀記事」には「予ガ所蔵ノ星鉄ハ我ガ国内ニ隕下セシ者ナレバ之ヲ以テ本邦特有ノ鍛錬法ニテ一刀造ラシメ」とある。この後ロシアで隕鉄刀を見たという記述が続き、流星刀献上がロシア皇室を意識した行為であることは明確です。即ちツアーリが隕鉄刀を有しているのであれば、皇室へ日本に落下した隕鉄をもって「本邦特有ノ鍛錬法」にて作った流星刀を献上しようというナショナリズムに基づいている。そして製鉄所建造も、高価な輸入鉄を排し国産鉄により国を富ませようという同様の思想により成り立っている。
 即ち実学とナショナリズムは表裏一体の関係にあり、流星刀は榎本の実学指向の精神的基調を象徴していると言える。

(16回地学史勉強会 200410 2日、青学会館)

 

 

 

 

15回 地学史勉強会 記録

 

日時2004 613 午後時〜

 

会場青学会館、校友会室

 

参加者:14

猪俣道也、大沢眞澄、大森昌衛、長田敏明、金 光男、榊原雄太郎、柴田松太郎、鈴木尉元、栃内文彦、水野浩雄、矢島道子、八耳俊文、山田俊弘、吉岡 学 敬称略、五十音順

 

内容

1.参加者自己紹介

 

2.長田 敏明  氏 による話題提供「早坂一郎博士の生涯と学問」

   金 光男氏による長田氏の略歴紹介の後、5頁のレジュメ、独自に製本された『早坂一郎博士の生涯と学問 (未定稿) (20046月、88)、及び写真や略年譜などの資料7枚をもとにした大河小説のような発表が行われました。その内容に関しては、別紙の報告エッセー「日本の生痕学の創始者−早坂一郎」を参照下さい。なお、長田氏の発表に関して、早坂一郎に関心のある台湾の研究者より問い合わせがありました。本研究の国際的な広がりの可能性を示唆するものと考えられます。

 

3.その他

以下のような資料や催しの紹介がありました。

・「文部科学省構内で発見された江戸城外堀跡の石垣」 (平成1661213日:現場見学会資料、文部科学省構内遺跡調査会)4頁 (大森氏)

・「文明交流史からみた科学と宗教−「江戸のモノづくり」第5回国際シンポジウム」 (2004711日、京都大学) のちらし (八耳氏)

 〈八耳俊文氏の発表は「中国宣教師と幕末明治期の科学技術」〉

・金 光男「ネットー小坂鉱山への道」、「小坂鉱山明治三年古地図」、『郷土研究 (小坂町立総合博物館郷土館研究報告)』、第10 (2004)19-2930-41頁 (金氏)

 

 

                       

日本の生痕学の創始者−早坂一郎−

 

長田 敏明

(品川区立荏原第三中学校)

 

1.はじめに

 生痕化石について調べていると,各種の文献のなかに早坂一郎という名を散見する.早坂の生痕学に関連する文献で,たいていどの文献にも引用されるのは,朝倉書店刊 (1957) の『古生物学−下巻』 (「痕跡化石」の項) と,『地学雑誌』の「潮間帯における生態学と堆積学」 (1964) とである.

 「痕跡化石」は,生痕化石について解説したものであり,文末には生痕化石に関する文献リストが掲げられている.このリストは,1957年までの生痕学の現状を知るのにはたいへん便利である.また,アベル (1930) を参考にしながら生痕化石の行動学的分類を試みている.「潮間帯における……」は,ライエルによる斉一説に基づく現在主義の立場から書かれたもので,台湾や日本における現生干潟の生物観察に基づいている.いずれも,今から40年以上前に書かれたものであるが,いまだに,その斬新性は失われていない.

 ちなみに,早坂の処女論文は「Tertiary Forest-Floor with Erect Stump lately exposed in Sendai」であり,この論文は東北帝国大学理科報告に載せられた.広瀬川に露出する埋もれ木について書かれたもので,早坂が大学生の時に書かれたものである.

 早坂は日本の古生物学の確立・発展期 (大正期〜昭和中期) に日本の古生物学の発展に尽くされ,活躍されたが,その評価は必ずしも正確であるとはいえない.そこで,ここでは,早坂の斬新性や独創性の一端などについて,紹介してみたい.なお,僭越ながら敬称は省略させていただく.拙文は,地学史勉強会で発表した内容を加除訂正を加えたものでる.発表に際しては,早坂祥三氏・大森昌衛氏・鈴木尉元氏・矢島道子氏・山田俊弘氏にはたいへんお世話になった.ここに記して感謝の意を表する.

 

2.早坂一郎の生い立ち

  早坂は,明治24 (1891) 128日に,宮城県仙台市東三番丁でお生まれになった.父親の哲朗は,ミッションスクールの宮城女学校 (現宮城学院女子大学) の数学の教師であり,同校幹事であった.母親の柳子も敬虔なクリスチャンで,兄弟には裁判所勤めの兄がいた.しばしば,早坂家には英語教師の外国人や二高の教師が出入りしていた.早坂は,このように,明治時代にしては,学問に触れやすい環境に育ったといえる.

  明治30 (1897) 年に,東二番丁尋常高等小学校に入学し,明治36 (1903) 年にミッションスクールの東北学院普通部に入学している.旧制第二高等学校理科を経て,明治42 (1909) 年には,東北帝国大学理科大学地質学古生物学教室に第一期生として入学した.早坂が古生物学を志したのは,直接的には,二高の中嶋が早坂を東北帝国大学の矢部長克に推挙したことによる.しかし,『角礫岩のこころ』に書かれているように,幼時に三陸沖地震を体験したことや泳いでいた広瀬川の埋もれ木などの地学的事象が潜在的に作用していたのかもしれない.東北帝国大学では,佐川栄二郎から地質学を,神津淑佑から岩石学を,矢部長克から古生物学を学んでいる.

 

3.生層序学的 (記載的) 古生物学−日本の古生界の化石−

  矢部長克の指導のもとで日本や中国産の古生界の化石に取りかかった.とくに,北上山地や新潟県青海村や美濃赤坂などの珊瑚類・腕足類・紡錘虫類などの分類・記載を行った.

 早坂の学位論文は,「新潟県青海石灰岩の地史学的研究」 (大正8 (1919) )28才の時である.当時,いわゆる秩父古生層の年代は古くても石炭紀後期で,石炭紀前期までには及ばないと考えられていた.早坂は青海石灰岩から石炭系下部を示す腕足類化石を発見し,石炭系下部の存在を日本で初めて証明したのである.

 早坂は『日本地史の研究』 (1925) で,日本各地から産出する各種の化石時間軸の中で位置づけ,代表的な化石の図版をふんだんに示している.そして,執筆姿勢としてはなるべく植民地は除いて,日本固有の領土である地域のサンプルで構成しようと努力している.この本は,当時外国偏重で,このような教科書の場合は,翻訳調の論文・著作が多い中で画期的なことであった.

  早坂はその後も,ほぼ一生の間,主として古生界に含まれる化石について分類・記載を行っている.早坂によって分類・記載されたタクサの主なものは,軟体動物・頭足類・珊瑚類・腕足類などの多岐に及んでいる.

 早坂は1928年に東北大学を退いて,台北帝国大学に赴任するが,その理由として,「長い間,同じ人間がその地位にとどまると学問が停滞する」としている (角礫岩のこころ)

 

4.生物学的古生物学−干潟の生物観察−

 早坂は,1928年に台北帝国大学へ転任するが,転任に先立ち,1926年に台北帝国大学の設立委員として,欧米に出張している.その折りに,ドイツのリヒター夫妻のもとを訪ねている.リヒターは,当時生痕化石の成因をめぐって行き詰まっていたが,これを解決するには現在の海岸で,詳細に海岸過程や生物を観察することが大切であるということである.このリヒターの現在主義の古生物学に強く触発された.

 早坂は,台湾西部の干潟で,このことを実践し,蟹の巣穴の石膏型どり・貝殻への穿孔の観察・魚の凍死の観察などの成果となって表れた.

 早坂は,台北帝国大学へ赴任するにあたって,図書や標本などが揃っている大学へ行くわけではないので,いままでの研究の継続は困難であると考えた.そして、「これまで,割と閑却されてきた台湾の人々の教育に大いに尽くそう」と考えた.そのために,雑誌としては『台湾地学記事』を発行して,大いに啓蒙に努めた.1940年には『化石の世界』,1943年には『随筆地質学』を発行して,少年少女への普及にも努めた.当時の大学というアカデミーにいた学者としては,たいへんめずらしく,学問の普及にも努力をしていた.

 

5.早坂のソフトな古生物学

 ややもすると宗教を信じていなくとも,因習や常識にとらわれて,発想が貧困になってしまい勝ちである.早坂は,すでに戦前に化石のX線写真を撮影しており「応用物理誌」に成果の一端を乗せている.また,蟹の巣穴については,石膏を流し込んでその形態を観察するという方法をいち早く取り入れている.また,当時の古生物学者が見向きもしなかった古生代巻貝のカラーマークについても述べている.

 記載古生物学が全盛期であったころ,いち早くリヒターを参考にして,現在主義の古生物学を展開したことは特筆に値する.早坂は記載を軽んじているわけではなく,古生代の化石の分類・記載も地道にやっていたのである.当時は,教授の権威が絶対的な時代であったので,自由な考え方を持つ早坂がいた,台湾以外では生物学的な古生物学は育ちようがなかったといえるのではあるまいか.

 早坂は,ほとんど弟子を作らなかったことで有名であるが,もっとも長くいた台湾でも、弟子といえるのは有孔虫の石崎和彦と海胆の森下  晶くらいのものであった.研究においては皆同じ立場であるので先生も弟子もないというように考えていたのかもしれない.

 

6.早坂のしなやかさはどこからくるのか

  早坂は,コスモポリタンな考え方を持っている人で,学問に限らず不合理に対して,不屈の闘志も持って戦われた.戦時中でありながら,後進的な地域社会や学内の派閥・官僚臭・学会ボスなどに勇敢にも反対された.戦時中,軍事教練が講義の時間に食い込んだとき,早坂は立腹し,学生に対して教練への参加を禁止してはばからなかった.軍に対して反抗するなどということは,だれもできなかったころの話である.

 また,戦時中の官僚主義の強い台湾で植民地官吏の制服着用拒否をして背広で通した.のちに早坂が述べるところよると,「日本の植民地支配に対するささやかな抵抗であった.」と述べている.また,終戦に関連して,当時の日本の軍部を日本人自身で倒すことができなかったが,ひとまず,アメリカによって倒してもらってよかったとすべしであろう」と述べている.

 科学方面の早坂の人となりを示すエピソードとして,早坂は,ベリンガー事件のことを取り上げ,「他人の失敗を笑うの簡単だが,同時に自らが悩むことは難しい」と自らの失敗を律することの難しさを説かれた.

 

おわりに

  拙文の目的は,早坂一郎という日本古生物学の発展期において孤高な存在であった学者が,日本の古生物学研究にどのような影響を与えたかについて,検討したものである.早坂の研究の原点は,実物主義・原典主義である.その基礎を与えたのは,卓越した語学力であった.とりわけ生育の過程でネイティブスピーカーとの交流で身につつけた英語力は抜群であった.早坂は,学生時代には,フィールドに出かけた以外は,「いささか熱を入れてやったのは読書ぐらいであった」としている.自分を誇示せず,謙遜な態度で諸事に接していた早坂ならではの言葉である.この読書量と実物主義とがあったればこそ,敬虔なクリスチャンであった早坂が,観察・採集という実物主義を徹底し「自然に即して物事を考える」ということを基礎において観察できたのではあるまいか.クリスチャンでありながら,観念論にとらわれなかったことは特筆に値する.

 

 

 

   第14回 地学史勉強会 記録

 

日時:2004 320日(土) 午後2時〜5時

 

会場:青学会館、校友会室C

 

参加者:13名

会田信行、井本美子、内田正夫、大沢眞澄、大森昌衛、金 光男、鈴木尉元、立澤富朗、浜崎健児、矢島道子、八耳俊文、山田俊弘、吉岡 学 (敬称略、五十音順)

 

内容:

1.参加者自己紹介

 

2.矢島 道子  (東京成徳学園) による話題提供

  「『メアリー・アニングの冒険』を執筆して」

 矢島氏が、吉川氏と共著で朝日新聞社から出版したメアリー・アニング (1799-1847) の評伝ができ上がるまでの経緯を中心に、本に書ききれなかったことや、本に載せられなかった写真や著作、コピーの現物など多くの資料を紹介された。吉川氏が千葉県立中央博物館の図録に載せた文章から始まり、ヒュー・トレンズやアラン・ロードとの出会い、1999年にライム・リージスで開催されたアニング生誕200年記念国際会議でジョン・ファウル

ズやグールド、ラドウィックらの研究者と交流したこと、資料を求めて自然史博物館のリチャード・オーウェン文庫を調査したことなど、尽きない話題や挿話が続いた。特に印象深かったのは、メアリーの手書きの手紙やメモのコピーや、彼女のフィールドであったライム・リージスの写真である。後者にはコッブ岬で「翔んだ女」のまねをする観光客の少女たちのスナップもあった。矢島氏が描きたかったことの一つがこの時代のメアリーをめぐる「女性同盟」であったことも強調された。日本での出版を追うように、アメリカのグッドヒューによるアニング伝が200412月に出版されるようであるが、今から読み比べてみるのが楽しみである。なお以下に一部を示すように、八耳氏が、メアリー・アニングの子ども向けの伝記をいくつか持参して紹介された。

 

 参考資料:

--- George Roberts, History and Antiquities of the Borough of Lyme Regis, London: Samuel Bagster, 1834 (Lyme Regis: Landray and Bennet & Dunster), 385+9pp.

--- Christopher McGowan, The Dragon Seekers: How an Extraordinary Circle of Fossilists Discovered the Dinosaurs and Paved the Way for Darwin, Cambridge, Mass.: Persens Publishing, 2001, 254pp.

--- Thomas W. Goodhue, Curious Bones: Mary Anning and the Birth of Paleontology, Greensboro (North Carolina): Morgan Reynolds, 2002, 112pp. 

(以上矢島氏より)

 

--- Jeannine Atkins, Mary Anning and the Sea Dragon, Pictured by Michael Dooling, New York: Farrar Straus Giroux, 1999, 32pp.

--- Brooke Hartzog, Ichthyosaurus and Little Mary Anning, New York: The Rosen Publishing Group's Power Kids Press, 1999, 24pp.

--- Catherine Brighton, The Fossil Girl: Mary Anning's Dinosaur Discovery, Brookfield, Connecticut: The Mill Brook Press, 1999, 28pp. (ブライトン『化石をみつけた少女:メアリー・アニ  ング物語』, 評論社, 2001, 28).          

(以上八耳氏より)

                                                                    以上

 

                                                               (文責:山田)

 

 

13回 地学史勉強会 記録

 

日時:20031220日(土) 午後2時〜5時

 

会場:青学会館、校友会室B

参加者:12名

     猪俣道也、長田敏明、金 光男、金 凡性、鈴木尉元、高橋幸紀、栃内文彦、     

浜崎健児、端山好和、矢島道子、八耳俊文、山田俊弘 (敬称略、五十音順)

     

内容:

1.参加者自己紹介

 

2.高橋  幸紀  (北海道大学大学院 科学史研究室)による話題提供

  「田中舘愛橘と重力測定」

  調査の行き届いた報告で、勉強になりました。詳細は別紙の通りです。

 

3.その他

  以下の紹介がありました。

   (1) Comptes Rendus, Palevol, tome 1, Fascicule, 6, 7, Octobre 2002, Novembre 2002.

              フランスの古生物学者でナチュラリスト Alcide d'Orbigny (1802-1857) 生誕200年を

              記念する特集号。2分冊。 (矢島氏)

   (2) 『糸西タイムス』 (上越タイムス社、上越市)20031015 () 号。

前回紹介のあったナウマンの1887年の著作が「フォッサマグナミュージアム」

1018日から公開されるというニュース記事。同館学芸員の宮島 氏の

コメントと、ヨルグ・リーベ博士による購入の経緯が報告されている。 (浜崎氏)

 

 

 

12回 地学史勉強会 記録

 

日時200310 4 午後時〜

会場青学会館、校友会室C

参加者:15

会田信行、今井功、大沢眞澄、大森昌衛、長田敏明、風間 敏、金 光男、金凡性、

加藤茂生、榊原雄太郎、鈴木尉元、浜崎健児、端山好和、矢島道子、山田俊弘

(敬称略、五十音順

     

内容

1.参加者自己紹介

 

2.加藤 茂生 氏 (日本大学)による話題提供

 

上海自然科学研究所における地質学研究

 

 1931年に開所した上海自然科学研究所は、本来日中共同の研究施設として構想されたものであり、その発想の源は後藤新平の「文装的武備」論や「東西文明融合論」に求めることができる。義和団事件の賠償金による「対支文化事業特別会計法」が1923年に成立し、翌年には学術研究会議代表者による研究所の具体案が提出された。研究の分野は、地球物理、化学、地質、生物、医学であり、地質分野には、地質、鉱物、土壌、自然地理の研究が含まれる。なお、立案の過程で地質学地理学副部長として山崎直方が名を連ねていた。ところが、中国国内ではこの事業が中国に対する「文化侵略」であるという批判が起こり、1927年からの準備研究段階では中国人研究者の参加も見られたものの、最終的に日本人研究者主体の研究所となった。地質学関係の準備研究としては、「天然無機化合物の相律的研究」や「山東省方面の地質水質の研究」があり、前者は岡田家武らによって、後者のうち古生物学部門は矢部長克ら、鉱物学部門は加藤武夫らによって遂行された。

  研究所開所以降、地質学科の研究を担った人々には、清水三郎、尾崎金右衛門、小幡忠宏、冨田 達、佐藤捨三、島倉巳三郎、中野嶽三、渡邊新六らがいる。東北帝大出身者が目立つ。たとえば、アンモナイトによる白亜紀層の分帯で学位を得た清水は、東北帝大講師から研究所に移り、尾崎や小幡とともに調査研究を行っている。彼は1933年には満蒙学術調査団地質部長として熱河省の調査も実施した。一方、東京高師から移った岩石学の冨田 達は、環日本海新生代アルカリ岩石区の性質を解明した。戦争の進展とともに、全般に、純粋科学の研究内容から、たとえば炭田調査など実用的な研究が目につくようになる。19378月に日華事変が勃発し、翌年には治安状態悪化のため野外調査が困難になる一方、軍への協力が強まっていった。なお、19391月に研究所の所管は外務省から興亜院へ移った。また研究所の予算の変遷を見ると、1931年の30万円から始まり、33年から39年まで40万円前後で推移し、40年には70万円となっている。

 上海自然科学研究所については、すでに佐伯 修氏の成書 (宝島社、1995) があるが、加藤氏の今回の講演は、外交資料館の資料等を用いて、人事や予算の変遷を跡づけたうえで、研究内容の詳細な分析を試みたもので、豊富な材料が提供されて(当日配布のレジュメ7ページ、『十周年記念誌』 (1937) からのコピー4枚)、議論が深められた。とりわけ、今日ではほとんど知られていない研究者の業績に関して、出席された地質学界の大先輩方から丁寧な解説やコメントが得られた点は貴重と思われた。われわれがこの過去の経験から学ぶべきことは多いと言えそうである。

 

3.その他

 以下の諸文献の紹介があった。

 (1) E. Naumann. Die japanische Inselwelt. Eine geographisch-geologischen Skizze Mit 2. Karten. Mittheilungen der Kais. Konigl. Geographischen Gesellschaft in Wien, XXX. Band (der neuen Folge XX), 1887, 129-138, 201-212. (浜崎氏) このナウマンの有名な著作は、横浜開港資料館にも所蔵されているものだが、今回浜崎氏の知人のドイツ人リーベ氏の手を介して糸魚川のフォッサマグナミュージアムに納入されたもの。多色刷りの地質図 (Geologische Karte von Japan, 1:5760000) が印象的。

 (2) 早坂一郎先生喜寿記念事業会 編『早坂一郎先生喜寿記念論文集』, 1967, 396. (長田氏) 日本地学史上の稀覯本。台北帝大地質学科第1回卒業生林朝啓氏の論文を含む。

   

                                    以上

 

                                 (文責:山田)

 

 

11回 地学史勉強会 記録

 

 

日  時  2003 621 午後時〜

場  所  青学会館 校友会室

参加者:13

     猪俣道也、大森昌衛、金 凡性、加藤茂生、久保輝幸、榊原雄太郎、陳 力衛、栃内文彦、浜崎健児、

松本秀士、矢島道子、八耳俊文、山田俊弘 敬称略、五十音順

内容

1.参加者自己紹介

2.八耳 俊文 氏 (青山学院短期大学)による話題提供

   「ベンジャミン・ホブソン (合信) と東アジア社会」 (概要は以下)

3.その他

   以下の諸文献の紹介があった。

   (1) J. Dodick and N. Orion, "Geology as an Historical Science: Its Perception within Science and the Education

              System," Science & Education, 12 (2003), pp. 197-211.(栃内氏による紹介)

   (2)クローディーヌ・コーエン (Claudine Cohen) 『マンモスの運命化石ゾウが語る古生物学の歴史』

菅谷 (新評論、2003)380頁。仏語原典 (1994); 英訳 (2002) (山田氏による紹介)

   (3) 牛来正夫先生追悼文集刊行会 『牛来正夫先生追悼文集「地球の進化」を求めて』 (新潟, 2003)

731. (猪俣氏による紹介) ※猪俣氏による紹介は会終了後の懇親会の席上でなされましたが、

興味深い本ですので掲載しておきます。

 

 

ベンジャミン・ホブソン(合信)と東アジア

 

八耳俊文

(青山学院短期大学)

 

 

 幕末から明治初期にかけて日本で最も読まれた科学入門書は『博物新編』であろう。新家浪雄による『日本教育資料』を用いた調査によれば、藩校等で使用された自然科学の教科書は『博物新編』が第一位であったという(『図書』198311月号)。明治5年の小学教則では『博物新編』が教科書に指定され、本書はより一層、広範囲に読まれることになった。この事態をさし、演者はかつて、幕末から明治初期の20年間に近い期間を「博物新編の時代」と名づけたことがある(『青山学院女子短期大学総合文化研究所年報』第4号)。この『博物新編』は、中国で医療宣教師として1840年代から50年代にかけ活躍したロンドン伝道会のベンジャミン・ホブソン(Benjamin Hobson、中国名「合信」、18161873)の中国語による著作で、ホブソンはこのほか『全体新論』『西医略論』『婦嬰新説』『内科新説』といった中国語による西洋医学の概論書を著し、中国に西洋医学や科学を伝えることに寄与した。これらの書物は幕末の日本に伝わり、注目を受け、リプリント版が作成された。日本で読まれたのは主にこのリプリント本あるいはその読み下し本である。ホブソン書は、朝鮮でも読まれ、近代化を迎えつつあった漢字文化圏に与えた影響は著しいものがあった。

 

 さてこの著者であるホブソンについてであるが、これまでその生涯はよく知られているとは言い難かった。もっぱら利用されてきたのは、Alexander Wylie Memorials of Protestant Missionaries to the ChineseShanghae: 1867)にあるホブソンの項の説明で、これに若干の情報を加えて、語られてきたに過ぎなかった。ホブソンの人生は57年に及んだが、大雑把に言えば、はじめの3分の1はイギリスで過ごし、次の3分の1は中国で活躍し、あとの3分の1はイギリスに戻って過ごすとの人生を送った。中国を離れたのは、健康を損ねたためで、帰英後は体調不良から社会的活動ができず、表舞台に出ることなく亡くなった。中国での活動を自ら活字にすることもなかったためか、イギリスでは注目されず、Wylie の記述を超えて説明されることはなかった。

 

 演者もホブソンに関心をもったものの、その生涯を詳しく知るのは不可能と諦めていた。ところが最近、インターネットを通じて、さまざまな情報が発信されるようになり、その中に、ホブソン関係の情報も現れるようになった。演者が注目したのは、ホブソンの妻が中国への最初のプロテスタント宣教師であったロバート・モリソンの娘で(ここまでは知られていた)、父モリソンと夫ホブソンの関係資料を収集・保管しており、これが子孫に引き継がれ、ホブソンにとっては孫にあたるアーチボルド・ホブソン氏が1962年から65年にかけイギリスのウェルカム財団の図書館に寄贈したとの情報であった。資料はすでに整理、目録化されており、同財団図書館のウェッブサイト(http://library.wellcome.ac.uk/)で公開されていた。資料そのものの公開ではなかったが、資料目録だけでも情報量は多かった。

 

 この他、RootsWeb.comhttp://worldconnect.rootsweb.com/)といったルーツ探しのウェブサイトを使うことにより、ホブソンの両親から子供や孫について、氏名や生誕情報を知ることができた。例えば、父親は同じくベンジャミン・ホブソンといい、聖職者で、1779年にイングランドのサウス・ヨークシャ州のシェフィールドに生まれ、1848年に英国ガーンジー島で亡くなった、という具合いである。Wylie の説明では、父親や少年時代のことは言及されておらず、彼が宗教的環境の中で育ったということも想像できるようになった。

 

  インターネット情報だけでなく、勤務校に昨年、ロンドン大学の東洋・アフリカ学院(SOAS)図書館所蔵のコレクション「Western Books on China published up to 1850」のマイクロ版が納入され、ここからもホブソン関係の資料を収集することができた。中でも「広州金利埠・恵愛医館報告:1848年4月から184911月」と題する英文レポートは、51ページの分量をもち、当該期間のみだけでなく、ホブソンが中国に来てからの活動が回顧され、また、伝道活動は一般にさまざまなネットワークのもとで実行されていたが、これらのネットワークに関わる人名も記されていて、きわめて有益な資料であることがわかった。地学史勉強会では、これらに、演者がここ数年にわたって収集してきた資料を加え、ホブソンの生涯を中心に発表をおこなった。

 

 以下はその生涯の概要である。

 

 ホブソンは1816年1月2日、イングランド中部ウェルフォードに生まれた。父は組合教会派の牧師で、兄弟は女性ばかりで男性はホブソン1人だけであった。初等教育を終えたのち、1830年代前半、バーミンガム総合病院で見習生として医学を学んだ。当時、病院には附属医学校が設置されており、そこで医学と医療の基礎を習ったのである。1835年、University College London に移り、1838年まで、同大および同大病院で医学を専門的に学んだ。1838年には Royal College of Surgeonsの会員となり、ロンドン伝道会の宣教医に選ばれている。1839年には、University of London より、M.B. の学士号を取得した。5月には Jane Abbay と結婚、7月28日には Eliza Stewart 号に乗り、中国へと向かった。このときの同行者に、ロンドン伝道会宣教師 James Legge 夫妻、W.C.Milne がいた。18391218日、マカオに到着した。同地にて医療活動を開始したのち、1843年よりは香港に移り、香港にあった中国医療伝道会病院の経営にあたった。1845年7月22日、妻の健康が優れなかったため一時帰国を決め、香港を離れた。妻はイギリス到着を目前にした1222日、船上で死亡。この一時帰国中、ロバート・モリソンの娘Mary Rebecca Morrison と知り合い、1847年2月10日、バースにて結婚した。3月12日、ロンドンを出発、再び中国へと向かった。7月29日、香港に到着。1848年4月、広州西関の金利埠に恵愛医館を設立、広州で医療活動を展開した(金利埠は現在、広州地下鉄の黄沙駅付近にあたる)。18541217日、Ganges号に乗り、香港を出発、21日、上海に到り、5週間、同地で過ごした。この恵愛医館時代にホブソンは『天文略論』(1849)、『全体新論』(1851)、『博物新編』(1854)を刊行している。185610月、第二次アヘン戦争が勃発、恵愛医館も焼かれたため、ホブソンは香港に避難した。1857年になると2月に上海に移り、上海方言を学習したのち、『西医略論』(1857)、『婦嬰新説』(1858)、『内科新説』(1858)をまとめ、上海仁済医館より出版した。185812月、上海を離れ、翌年2月15日、香港からPekin 号に乗り、家族揃って、イギリスへと帰った。イギリスに戻ってからは、イングランド南西部ブリストルのクリフトンやイングランド西部のチェルトナムに住み、晩年はロンドン南東郊のフォレスト・ヒルで過ごした。1873年2月16日死亡。享年57歳であった。

 

 晩年の地フォレスト・ヒルは、水晶宮で多くの観光客を集めたシデナムの隣にあたる。1872年9月19日、岩倉使節団は水晶宮を訪れ、半日を、園内で楽しんだ。これに同行し、詳細な記録を残した久米邦武は、ホブソン書を所蔵しており、西洋の科学技術を知るのに中国書を積極的に利用した久米にとって、ホブソンは身近な存在であったはずである。そのホブソンがすぐ近くで暮らしていたのである。久米がそのことを知っていた形跡はない。

 

 

付記:演者はこの発表後、ロンドンに行く機会があった。そこでウェルカム財団図書館を訪れ、ホブソン資料も閲覧することができた。そこにはホブソン自筆の手紙から、ホブソンの中国活動報告、ホブソン家に残されていた中国書など、数多くの貴重な資料が含まれており、150年前のホブソンに出会えた思いがした。ホブソンが晩年、過ごしたフォレスト・ヒルにも出かけ、彼の住所が水晶宮まで直線距離でわずか2kmの近さであることを知った。成果は後日、発表したい。

 

 


 
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