JAHIGEO
地質学史懇話会
地学史勉強会
会合の記録
第1回〜第10回
第10回 地学史勉強会 記録
日時:2003年 3月22日(土) 午後2時〜5時
会場:青学会館、校友会室B
参加者:18名
会田信行、青木 斌、猪俣道也、大沢眞澄、大森昌衛、長田敏明、金 光男、小嶋理佳菜、榊原雄太郎、
渋谷芳洋、鈴木尉元、立澤富朗、泊 次郎、浜崎健児、端山好和、矢島道子、八耳俊文、山田俊弘
(敬称略、五十音順)
内容:
1.参加者自己紹介
2.猪俣道也 氏(東京農業大学)による話題提供
「中国・朝鮮・日本−20年間の地質学の学術交流で考えたこと」
猪俣氏は、オフィオライト研究を中心とする自らの岩石学研究の経緯を紹介した後、1982年以降中国、ソ連・ブリヤート共和国、朝鮮、韓国、フィリピンなどで現地調査をしてきたことを、スライドを交え報告した。レジュメ、資料2枚に加え詳細な年表「近代日本と中国・朝鮮・韓国の地学関係略年表」(1868年戊辰戦争/リヒトホーフェン中国調査〜2002年日朝平壌宣言発表まで)が配布され、写真や地質図などの地図類が回覧された。話題は多岐にわたり、氏が石だけでなく人にも非常な関心を持っている方であることがよくわかる講演であった。
最初の国外調査地域は、1982年のチベット高原であった。−これは中国地質学会60周年記念大会の時に当たり、氏はその時撮影されたたいへん横長(約120cm)の大会参加者の記念写真を持参された。その後チベットについては、佐藤信次氏と共同研究をまとめられた。また1991年から数年、大別山脈や福建省での日中共同研究に参画した。前者は超高圧変成帯で、ちょうどこの時期にエクロジャイトからダイヤモンドが発見された。福建省は、日本の中生代の花崗岩や濃飛流紋岩等との関連で研究対象地域とされた。この過程で中国の学界の内情も分かってきた。
1992年以降は、新しい地質情報を求めて北朝鮮に渡航すること数回に及んでいる。この地域は、日本や中国の地質との関連で無視し得ないが、調査にはさまざまな障碍がある。栄養状態が悪いためか、知り合った地質学者が50代・60代で亡くなってしまい、継続的な交流に支障をきたすこともある。官僚的な事務処理で空港に留め置かれたり不愉快なことも多い。それでも出かけて行く気にさせるのは、人徳のある地質学者に接したいと思うから
で、そうした交流の中で信頼を得て、普通は入ることのできない38度線の非武装地帯でサンプルを採取できたことがある。
日本では90年代に大学の地質学関係の研究室の再編成が進んできた。中国や朝鮮の実態を見聞して感じるのは、資源開発や環境問題で、日本の歴史の断面を見ているような状況があること。地質学者の養成は社会基盤整備と関係があり、教育機関や学会の整備はそれに連動する。ある段階が一段落すると変動が起きる。たとえば中国では二十万分の一地質図幅の完成とともに地質屋のリストラが起こっている。北朝鮮における蒸気機関車廃止政策はそうした段階を追うことを無視した面が伺える。
国際交流の上で大事であるのは、相手の立場や背景をまず受け入れて理解するようつとめること。チベットで印象に残ったことの一つに、1982年の時点で、すでに英仏の若い地質学者が入って調査をしていたことがある。植民地主義の後処理の問題を日本人として考える必要を感じる。人工衛星から夜の東アジアを見ると、人が住んでいるのに異様に暗い地域が朝鮮半島の北半分にあって無言の問いかけをしている。
第9回 地学史勉強会 記録
日時:2003年12月22日(土) 午後2時〜5時
会場:青学会館、校友会室C
参加者:12名
猪俣道也、大沢眞澄、長田敏明、金光男、金凡性、鈴木尉元、栃内文彦、浜崎健児、矢島道子、
八耳俊文、山田俊弘、吉岡学(敬称略、五十音順)
内容:
1.参加者自己紹介
2.金 光男 氏(株式会社 協栄)による話題提供
「Lyman
の Field
Note にみられる幾つかの特徴」
すでに4ページにわたる「講演要旨」が配布されていたが、今回さらに詳細な年表が用意され、9月に訪米した折に収集された資料に基づく研究が紹介された。概要は、1. はじめに、2.
Lyman 小史、3. Amherst 2002 訪問、4. Field Note 三種の判型、5. Y series、6. L3 series
(特に測量技術)、7.
L10 series (L66-67 特に地質調査技術と経営哲学)、
8. まとめ、である。ライマンの野帳をもとに当時の野外調査(測量・地質調査)を復元するだけでなく、ライマンの思想、地質学史上の位置を再検討しようという意気込みに満ちたものであった。多くの画像によって現在のアメリカにおけるライマンとライマン・コレクションの様子が参加者の目に焼きついた。またアメリカ在住でライマン・コレクショ
ンの維持に功績のある副見恭子氏から初めて野帳のコピーが送られてきたときのことから、今回自分の目でその保存状況や規模について確かめることができたこと、また野帳には多くの日本語(方言)を交えた記載があり、特に東北地方の記述では東北弁がそのままに記録されていて、それを読み解く苦労と楽しさがあることなどが印象的に語られた。野帳には三つの判型があり、またそこには地図などの貴重な資料が挟み込まれている場合があり、今後の注意深い調査が必要であることが強調された。
興味深い発表に、驚きと興奮を加えたのが、浜崎健児氏のもたらした資料で、ライマンがその弟子の一人島田純一に贈った John C. Trautwine, "The Civil Engineer's
Pocket-Book", Philadelphia, 1874, 649p. そのものであった。確かに1877年1月1日付で
"J. Shimada" に宛てたライマンの書き込みがある。氏からはまた島田純一の子孫にあたる安部譲二氏の著作における島田についての記述も紹介された(安部譲二『秋は滲んで見えた』、PHP研究所、1998年)。
3.その他
浜崎氏より、前回のクランツ標本に関係して、リーベ博士の所蔵する次の二点のカタログが紹介された。当時の地質標本の流通を知る上で貴重な資料と思われる。
Dr. F.
Krantz, Rheinisches Mineralien- Kontor,
Katalog Nr.18, Dritte
Auflage: Allgemeiner Lehrmittel Katalog Mineralogie+Geologie Mit zahlreichen
Illustrationen (鉱物学・地質学一般教材図録), Bonn Am
Rhein, Gegrundet 1833, 303p. (n.d.?)
Katalog Nr.20:
Mineralogisch-geologischer Schul-Katalog (鉱物・地質学校用目録),
Fabrik und Verlag Mineralogischen und Geologischen Lehrmittel in Bonn A. Rh.,
Geschaftsgrundung 1833, 71p. (n.d.?)
第8回 地学史勉強会 記録
日時:2002年9月21日(土)午後2時から5時
会場:東京大学総合研究博物館
・午後2時から3時まで,同博物館展示の「クランツ鉱物化石標本展」と「貝と博物誌展」を,前者については田賀井篤平氏の案内で,後者については佐々木猛智氏の案内で見学した。両氏に感謝いたします。
・午後3時から5時までは,同館内のゼミ室をお借りして,勉強会を開催した。以下は,この勉強会の記録である。
参加者:14名
會田信行,大森昌衛,金凡性,金光男,渋谷芳洋,鈴木尉元,立澤富朗,栃内文彦,浜崎健児,矢島道子,八耳俊文,山口直樹,山田俊弘,リーベ(敬称略,五十音順)
内容:
1.参加者の自己紹介
2.浜崎健児氏による前回講演の,追加
前回の講演で Kurr の Das Mineralreich in Bildern(1858)の図版が欧米のみならず日本でも歓迎されたこと,本書の影響を受け,Kenngott により Naturgeschichte
des Mineralreichs(1880)が著されたことを述べた。後者を Kurr の第2世代というなら,第3世代ともいうべき鉱物学教科書として Bastian
Schmid の Lehrbuch
der Mineralogie und Geologie (Esslingen: Schreiber, 1908) を挙げることができる。この出版元である Schreiber は,Kurr
書の出版元であり,鉱物図譜の発展に同社が果たした役割は大きかった。この説明のあと持参された同 Schmid 書の回覧もなされた。
3.リーベ氏の参加
浜崎氏の紹介でリーベ氏 (Dr. J. Liebe, BASF) が参加してくださった。リーベ氏は現在,勤務のため日本に在住されているドイツ人で,ドイツのみならずヨーロッパの鉱物文化全般に詳しく,鉱物関係の書籍と標本の収集家でもあるとのことであった。今回の見学にあわせ,モスクワの鉱物雑誌 “World of Stones” の
No.7(1995) 掲載の Irina A. Przhiyalgovskaya, The Krantz's
Firm - a Short Historical Review, pp.34-37 の存在も教えていただいた。同記事が載る同号も回覧された。
4.金 凡性 氏 (東京大学大学院博士課程 科学技術論研究室) による話題提供
地震はいつ起るのか――大森房吉 (1868-1923) と「気象学的地震学」
金 凡性 (東京大学大学院博士課程 科学技術論研究室)
日本地震学の基礎を築いた明治・大正期の地震学は地震計の設計や地震観測網の整備,地震及び火山の調査,地震の分布研究などで知られており,一般に「統計的地震学」と評価されている。ところが,その「統計的地震学」の一部とも言えるであろうが,「地震はいつ起るのか」という問いから出発した「気象学的な地震学」はあまり知られていないと考えられる。実は,日本の地震学者たちは草創期から「地震予知の端緒」としての気象現象,そして「予知の模範」としての気象学に関心を見せていた。一方,当時地震常時観測は気象官署の業務であり,地震研究者も気象研究者もともに帝国大学の「物理学科」で教育を受けた。地震学は気象学と緊密な関係にあったのである。
帝国大学物理学科を卒業し大学院で地震学と気象学を学んだ大森房吉は,上記のような「問い」と「背景」の下で所謂「気象学的地震学」を展開させていった。膨大な観測データ及び歴史文献を調べ,大森が到達した結論は「気圧が高い時地震が頻発する」ということであった。そして,このような関係を説明するために彼が提示したのは「副因」という概念であった。銃の引き金のように,気圧は真の地震の原因ではないがその発生に直接影響を及ぼしているということである。
このような大森のテーゼは,様々な研究者によって発展されていった。寺田寅彦は「高気圧」の代わりに「気圧の勾配」と地震発生頻度との関係を論じ,長谷川謙は「断層の方向と気圧傾度の方向は大体垂直である」と主張した。一方,「気圧」は地震のみならず火山や脈動とも関係があるとされた。当時このような研究プログラムはかなり信頼されていたようで,脈動観測を天気予報に利用しようとする提案さえあった。つまり「地震学」と「気象学」は曖昧な境界をもって区分されていただけで,1914年桜島噴火の予知問題を巡る今村明恒と藤原咲平との論争,そして所謂「震源地争い」もこの両分野の関係の深さを語ってくれると思われる。
周知の通り,1923年の関東大震災と大森の死去は所謂「大森地震学」に対する批判の契機となり,日本の地震学は「統計的地震学」から「物理的地震学」へと変貌していった。にもかかわらず,「地震はいつ起るのか」という問いは問われ続け,「副因論」は更に信じられるようになっていった。「地球物理学としての地震学」が要求される中,「気象学的地震学」は相変わらず研究され,拡大され,説明・応用されていったのである。
ところが,一時期多くの研究者たちの研究トピックであったこのプログラムは,1940年を前後して,「反駁」というよりは「忘却」されていったと思われる。「地震予知」への情熱や信頼は薄まりつつ,「地震はいつ起るのか」という問題は「非現実的」とされていったのである。
主要参考文献
石本巳四雄「地震発生の機巧に就いて」『東京帝国大学地震研究所彙報』第6巻 (1929年),127-147項。
大森房吉「地震ト天気トノ関係に就キテ」『東洋学芸雑誌』第303号(1906年),520-524項。
――――「噴火ト天気」『気象集誌』第29巻第3号(1910年),87-91項。
田中館愛橘,中村精男,長岡半太郎,大森房吉「地震学研究ニ関スル意見」『東洋学芸雑誌』第139号(1893年),206-213項。
寺田寅彦「地震ノ頻度ト句配トノ関係ニ就テ」『気象集誌』第28第1号(1909年),1-11項。
長谷川謙「地震の副因としての気圧傾度に就て」『気象集誌』第32巻 第11号(1913年),397-405項。
Inoue, Win and Keisuke
Hasegawa, "On the Barometric Gradients at the epochs of the Earthquakes in
Japan," Bulletin of the Earthquake Research Institute, University
of Tokyo,10-1(1932): 55-82.
Nakamura, Saemontaro,
"Barometric and Tidal Effects on the Occurrence of earthquakes in Kwanto
District," Japanese Journal of Astronomy and Geophysics,3-2 (1925): 115-165.
Omori, F., "Annual and
Diurnal Variations of Seismic Frequency in
――――, "Note on the Relation Between Earthquake and the
Atmospheric Pressure," Tokyo Sugaku-Butsurigakkwai kiji-gaiyo,ser. 2-2(1904): 113-117.
Yamaguti, Seiti,
"Relations between Earthquakes and Precipitation, Barometric Pressure, and
Temperature," Bulletin of the Earthquake Research Institute, University
of Tokyo,13-3(1935): 569-575.
池上良平「大森地震学の残したもの−地震の活動性に関する研究−」『地震』第34巻 第99号(1981年),37‐72項。
日本地学史編纂委員会「日本地学の形成(明治25年―大正12年)<その4>」『地学雑誌』第107巻第5号(1998年),735‐761項。
萩原尊礼『地震学百年』東京大学出版会,1982年。
藤井陽一郎『日本の地震学』紀伊国屋書店,1967年。
第7回 地学史勉強会 記録
日時:2002年6月29日(土)午後2時から5時
会場:青学会館 校友会室C
参加者:8名
大沢眞澄,大森昌衛,金凡性,金光男,浜崎健児,矢島道子,八耳俊文,
山田俊弘 (敬称略,五十音順)
1.浜崎健児氏の話題提供
「明治の鉱物学教科書(和本)に影響をあたえたドイツ鉱物学書について」
講演に関する現物資料を多く持参され,それらを具体的に示しながら講演された。近刊の雑誌『htwi(ヒッティ)』No.11(2002.3)「鉱物王国」号も話題になった。
[以下は八耳による講演要約]
明治14年(1881),小学校教則綱領が制定され,小学中等科・高等科に「博物」が置かれ,その一科として金石(鉱物)が選ばれた。教科書は明治19年の小学校令で文部大臣の検定したるものに限ると定められたが,それ以前は自由採用の時代であり,金石に関する教科書が和装本で次々と刊行された。これらの書誌についてはすでに,堀秀道「明治期和本小学鉱物書解題」『地学研究』(1960)pp.227-235 が11点をとりあげ詳しい。
博物学に図は欠くことができない。これらの教科書でも鉱物結晶の説明に図を加えるものが多く,中には彩色を施した印象的な教科書も作成された。島田庸一編『小学博物金石学 附金石一覧図』(明治15)や大坪源造訳『金石一覧図解』(明治16)はその代表例である。両者の彩色図に注目するなら,鉱物の配列こそ異なるが類似しており,共通の源流となる原本の存在を指摘することができる。
その共通の原本は J.G.v.Kurr(1798-1870)の Das Mineralreich in Bildern(1858)と考えられる。博物学がアマチュアの学問であったにふさわしく美しい図を備える,ヨーロッパ初の鉱物図鑑であった。本書は刊行されるや欧米で話題となり,翌年には英国版 Mineral Kingdom が,このほか米国,フランス,ロシア,チェコ,ハンガリーでも出版された。1871年には第2版もつくられた。
日本にも伝わり,鳥居正敏『普通小学博物書 金石部』(明治16)の奥付広告には,独逸クルル氏原著,上田勝行抄訳『小学金石図』という教授用掛図が紹介されている。そこでは「文部省出版金石図ニ倣ヒ其原図ニ遡リ抄訳セシ図」との説明があり,クルルを原図とした文部省出版の「金石図」があったことをうかがわせる(演者はその所在を未確認)。堀七蔵『理科教育史』(1961)には,明治19年の文部省訓令で示された師範学校で採用する図書書目を列挙しており,そこに和田維四郎訳『金石一覧図』があるため,和田維四郎が原著を翻訳したことも考えられる。演者はクルル書第2版を所有するが,土佐藩主・山内豊範の長男,山内豊景氏(明治8生,昭和32没)旧蔵書であった。
クルルはベルンの薬剤師学校を卒業,はじめ薬剤師となったが,在学中に出会った鉱物学に興味をもった。その後,チュービンゲン大学にまなび,科学と医学を専攻,後半生は教員と医師として活躍した。ヨーロッパをたびたびまわり多くの標本を採集した。生層序学の父といわれるドイツの古生物学者オッペル(1831-1865)は彼の教え子である。
クルル書の図版はその後,G.A.Kenngott(1818-1897)の Naturgeschichte des Mineralreichs(1880)に継承された。この書物は鉱物編と古生物編から成り,鉱物編ではクルル書をもとにした図を使い,古生物編では恐竜が徘徊する図などを掲載し,読者に岩石・鉱物や古代生物に興味を抱かせるに十分なつくりとなっていた。ケンゴットはドイツ,オーストリア,スイスを活動の場に,鉱物博物館の管理者や大学教授を務め,多くの著作を残した。一般向けの鉱物学・岩石学の教科書も執筆し,本書はその一冊であった。
鉱物図鑑はさまざまな文化要素と結びついており,その歴史は興味深い。今回の発表ではクルル書を中心にとりあげ,その広がりが欧米のみならず,日本の明治初期の教科書にまで及んだことを述べた。
第6回 地学史勉強会 記録
日時:2002年3月16日(土)午後2時〜5時
会場:青学会館 校友会室C
参加者:15名。
今井功,大森昌衛,金光男,菅谷暁,鈴木尉元,谷本勉,栃内文彦,浜崎健児,林衛,
端山好和,矢島道子,柳本武美,山田俊弘,吉岡学,吉田昭彦(敬称略,五十音順)
会に先立ち,今回の発表内容にも深く関係する午来正夫氏が去る2月4日に亡くなられ
たとの報告があり,大森昌衛氏より,生い立ち,業績,その他について紹介があった。
1. 栃内文彦氏(北大院)の話題提供
2.
「地質学における歴史主義者と物理化学主義者―都城秋穂氏にインタビューして―」
以下は演者による要約(※)。
<概要>
日本地質学界では,戦後すぐから1970年頃にかけて,“歴史性論争”が盛んに行われたと言われている.これまでは,一連のこの“論争”の構図として“歴史主義 対 物理化学主義”という図式が示されてきた.都城秋穂氏(以下,敬称略)は,これらの“論争”の当事者の一人であり,“物理化学主義者”の筆頭の一人と目されている.そもそも,上述の対立図式を提示したのが都城である.都城は,変成岩岩石学で国際的に第一線の研究者である一方,地質学史や地質学の方法論に関する著作も多く発表している.それらの著作は『自然』や『科学』に連載されたり,岩波書店から単行本として出版されたりした.その読者層は幅広く,地質学の専門家にとどまらない.それ故,都城が彼の著作で示した図式は,地質学の外にいる人々が地質学をどのように捉えるかに,かなりの影響を与えていると思われる.
発表者は,2001年11月末に都城にインタビューを行うことができた.そして,都城が“歴史主義”や“物理化学主義”をどのように考えているかを,直接聞くことができた.そのインタビューの内容に即して,“歴史性論争”に関する“歴史主義 対 物理化学主義”という対立の構図を考察したのが本発表である.
“歴史性論争”については,地学団体研究会(地団研)メンバーと非地団研メンバーの間で行われた論争で,戦後の社会情勢を反映した政治的・思想的対立だったと,これまでは見られている.上述の図式は,一見,この見方を裏付けているようにも思われる.しかし,発表者がこれまで調べてきたかぎりでは,一連の“論争”は,政治的・思想的な対立だけによるものではなく,(政治的・思想的な対立はあったけれども)地質学の方法論に関する対立にもよっていることが強く伺われる.都城とのインタビューは,この点(“論争”が単なる政治的・思想的対立ではなく,方法論的対立でもあったこと)を裏付けてくれた.
“歴史性論争”における“歴史主義(者)”と“物理化学主義(者)”はどういうものであったのだろうか.この定義づけは困難である.なぜならば,結論を言ってしまえば,“論争”の当事者たちは“歴史主義(者)”や“物理化学主義(者)”ではなかったからである.困難ではあるけれども,都城らの記述から,“論争”におけるそれぞれの立場(として批判することになったもの)を次のように整理してみよう.
“歴史主義(者)”は‘地質学で物理化学的手法を用いることに反対し,また,物理化学的手法から得られた結果を地質学的事実として認めない立場(に立つ研究者)’である.舟橋三男や牛来正夫らが“歴史主義者”の代表的人物としてみられている.一方,“物理化学主義(者)”は‘地質学(の研究対象)の持つ歴史性を認めず,物理化学的手法から得られた結果(のみ)を客観的データとして認めるという立場(に立つ研究者)’である.都城,坂野昇平,久野久らが“物理化学主義者”の代表的人物ということになっている.
しかし,彼らは“歴史主義(者)”や“物理化学主義(者)”ではなかった.舟橋や牛来の具体的研究を見れば明らかなように,彼らは物理化学的手法(岩石の溶融実験や放射年代測定など)とそこから得られた結果を拒否することはなかった.一方,都城らが歴史性を認めずに物理化学的手法を用いる(舟橋の言葉を借りれば,地質学を物理学・化学に従属させる)ということもなかった.インタビューで都城は,地質学の研究対象に歴史性があるのは当然のことだ,と語っている.さらに,舟橋や牛来の研究を高く評価してもいる.都城は,歴史性があることを当然のこととしたうえで,研究に応じて歴史性を捨象するような手法を取っても良いと考えていた.都城はインタビューで,月の研究を例にこの点について発表者に次のように説明してくれた.月も地球と同様に歴史性を持っている.が,その公転運動を論ずる場合,歴史性を含めた様々な性質を捨象して,月を質点として取り扱うことができる.都城はこのように述べた.
こうしてみると,“歴史性論争”は,‘歴史性を常に考慮した研究(手法)でなければならない’という考え方(舟橋ら)と‘研究によっては,歴史性を捨象した研究(手法)でもよい’とする考え方(都城ら)の対立だったことが分かる.ではなぜ,都城は“歴史主義 対 物理化学主義”という図式を“論争”示したのか.それは,舟橋らが“物理化学主義者”がいると思い込み,都城らがそうであると結論したところにあるように思われる.ところが実際は,都城らは“歴史性”を当然のことと認識しており,“物理化学主義者”ではなかった.にもかかわらず,そうだと決めつけられてしまった都城らとしては,‘そういうことを言う舟橋らこそ,むしろ“歴史主義者”ではないのか’と応じることになった.
つまり,‘都城は“物理化学主義者”ではなかった.また,“歴史主義者”と目される人々も(少なくとも彼らの大多数は)“主義者”ではなかった’というのが本発表の結論である.
以上の発表に対し行われた活発な質疑応答には,発表者にとって有意義なものもあった.
※以上概要はすでに『地質学史懇話会会報』第18号に掲載されました(pp.21-22)。
第5回 地学史勉強会 記録
日時:2001年12月22日(土)午後2時〜5時
会場:青学会館 校友会室C
参加者:17名。
石山洋,今井功,大沢眞澄,大森昌衛,風間敏,金凡性,金光男,宍戸章,鈴木尉元,
高橋幸紀,谷本勉,浜崎健児,栃内文彦,矢島道子,八耳俊文,山田俊弘,吉岡学
(敬称略,五十音順)
1.参加者の自己紹介
2.谷本勉氏の話題提供
「『地球の科学史―地質学と地球科学の戦い』(R.M.ウッド著)
(朝倉書店,科学史ライブラリー,2001.9.15, 278p.)を翻訳して」
このたび R.M.ウッド の The Dark Side of the Earth (1986版)を『地球の科学史―地質学と地球科学の戦い―』として翻訳出版された谷本氏が,ウッドの著作リスト,原著書評リスト,本書の目次および原著の目次からなる3枚のプリントを準備・配布の上,本書翻訳の経緯,本書の内容等を説明された。そこでは,(1)原著には1985年のハードバック版と1986年のソフトバック版が
あり,後者で前者が一部修正されているため,翻訳には後者のソフトバック版を底本に用いたこと,(2)演者は1992年から1993年にかけインペリアルカレッジに留学したが,参考文献にあげられたことから,留学以前に読んでいたものの,再度注目したこと,(3)はじめ翻訳に別の本を考えたが,1998年半ばすぎに著者の了解が得られ,2000年9月に翻訳が終わり,今回の刊行になったこと,(4)いくつかの訳語に苦労したこと(例,3.1 の題 a mental geography など),(5)原著は「地質学の没落」で終わっているが,著者は最近,地質学の啓蒙書を著していること,などが述べられた。これに対し,プレートテクトニクス成立に地球物理学の役割のみ強調されるが,古生物学や地質学の寄与もあったのではないか,原題にある the battle for the earth を「地質学と地球科学の戦い」と訳するのは誤解を与えるのではないか,との意見が出た。また原著にあるいくつかの言葉についてもこのように考えられるのではないかとの見解も参加者間からでた。
話題提供にあたっては金凡性氏が(別の会のため準備されたという)本書の要約プリント(6枚)を配布され,内容の理解を助けられた。またある参加者氏が本書の紹介原稿をある雑誌に書かれたことも明らかにされた。
3.吉岡学氏の話題提供
「榎本武揚は日本地質学史上に如何なる位置を占めるや
―その1 オランダ留学以前―」
『東京学芸大学紀要 第4部門 数学・自然科学』第53集(2001.8)に「榎本武揚の日本地質学史上に占める位置―その1 科学者としての出発―」を発表された氏に,同演題で発表していただいた。氏は11枚からなるレジュメを準備され,レジュメに沿って報告をされた。発表は榎本と地質学の接触を中心に話をすすめられた。氏によれば,榎本と地質学の関係については,若い頃,殖産的志向を持った堀織部正に従い蝦夷樺太を探検し,鉱山資源に触れ,鉱物が役立つとの認識をもったこと,長崎海軍伝習時代には海軍技術習得と平行に地質学の伝習を受けた可能性があること,オランダ留学中に当時,全盛の英国の地質学に英語を通じてふれたこと,が指摘できるという。以上を人物,地政学的背景,学問,のちの榎本の活動との関係に即して,豊富な史料をあげ論じられた。あわせて「榎本武揚の流星刀及び『流星刀記事』に関する多角的考察」と題する原稿も配布された。今後はこの方面の研究も進めるとのことであった。 発表内容また今回,活字となった論文が,多くの文献の博捜のうえに成り立っていたため,質問・意見は多岐にわたった。一方,標題の榎本の日本地質学史上の意義については,果してどの程度であったのか,との根本的な疑問も出た。なお話題提供にあたって,参加者からある企業広報紙に載った東京農大学長の文章(1枚)も配布された。東京農大は創立者に榎本武揚をもつことから,大学関係者として武揚の夢を述べたもの。進士五十八「トータル・マン榎本武揚」『K-Scope』 Vol.53, No.535(2001.11)。
<補足情報>
谷本氏の発表に関連して,最近,Naomi Oreskes 編 Plate Tectonics: An Insider's History of the
Modern Theory of the Earth (Westview Press, 2001)ISBN 0-8133-3981-2 という本が出版されています。プレートテクトニクス成立に関わった科学者が成立の内部史を語ったものです。著者は N.Oreskes, R.Mason, F.J.Vine, L.W.Morley,
W.Pitman, N.D.Opdyke, G.J.MacDonald, J.G.Sclater, B.A.Bolt, J.Oliver,
D.McKenzie, R.L.Parker, X.Le Pichon, J.F.Dewey, T.Atwater, W.R.Dickinson,
P.Molnar, D.T.Sandwell の計14名。編者 Naomi Oreskes には The Rejection of Continental Drift: Theory and Method in American
Earth Science(New York and Oxford: Oxford University Press, 1999) ISBN
0-19-511732-8; 0-19-511733-6(pbk) という興味深い書物も あります。大陸移動説がアメリカで拒絶されたのは,大陸移動の原動力に欠いて
いたからでなく,アメリカ地質学の実践の根本基準(the basic standards of practice in American geology)に衝突したから,というのが本書の主張です。
第4回 地学史勉強会 記録
日時:2001年9月29日(土)午後1時20分〜4時10分
会場:青学会館 校友会室C
参加者:13名。
大沢眞澄,大森昌衛,梶雅範,加藤茂生,金凡性,金光男,菅谷暁,鈴木尉元,浜崎健児,栃内文彦,八耳俊文,山田俊弘,吉岡学(敬称略,五十音順) |
1.参加者の自己紹介
2.山田俊弘氏の話題提供
「17世紀西洋地球論の一断面:キルヒャーとステノを結ぶ線」
『地下世界』が見逃せない理由,キルヒャーという人,『地下世界』(1665)の構成,ステノとの関係,暫定的な結論と課題,文献からなるレジュメ2枚と『地下世界』第8書にある石の分類図を配布され,レジュメに沿っての講演があった。石の分類図表ほかをめぐって活発な質疑応答が交わされた。講演概要は,山田俊弘氏が『地質学史懇話会会報』に寄稿された報告記事を以下に転載する。転載にあたっては『同会報』の許可を得た。なお同原稿は『同会報』第17号(2001年11月)pp.26-27 に掲載されている。
<概要>
地学史上におけるキルヒャー (Athanasius Kircher,
1602/01-1680) は,火山噴火の実地聞やヴェスビオス火口の観測を行う一方,化石の成因については形成的な力 (vis plastica) による説明をした人物として知られる。その著作『地下世界』(1665)所収の,火道系と水脈系の地球断面図は,今日でも印象的である。メキシコ湾流などが描かれた海流図や海底山脈の考えは初期の注目すべき例とされる。こうした「業績」の背景にあるキルヒャーの地球観は,「ゲオコスモス」という言葉で表される。これはミクロコスモス
(身体)−マクロコスモス (宇宙) 照応関係の一種の変奏と考えられ,たとえば人体内の血液循環と地球内の水循環が類比的に把握されて現象の説明原理とされたりする。デカルトの機械論的地球論とは対照的な生気論的な地球論というべきものであり,近代的地質学の祖とされるフックやステノはこれを批判していた。
『地下世界』には3つの版があり,それぞれ1664-1665年,1665年,1678年
(増補版) にアムステルダムで出版された。原典はラテン語で書かれている。私の発表は1665年版によった。他言語への翻訳は,1669年に火山噴火に関する部分だけが英訳され,1682年に大部の蘭訳が出た。地学史的に注意すべきキルヒャーのその他の書としては,地下世界論の前駆をなす『忘我の旅』第二部(1657),創世記の物語を叙述した『ノアの方舟』(1675) があるが,多くの海外からの情報とりわけイエズス会士らの通信をもとに編纂された『中国図説』(1667) に見られる自然誌などの情報も見逃すことができない。
『地下世界』全二巻 (Kircher, 1665) は,1638年に南イタリアの旅行中に体験した火山噴火と地震についての記述からなる長い序文 (16頁相当)
から始まっている。キルヒャーの地下世界論は,このような自然現象とそれが引き起こした災害に対する深い衝撃から発していることがわかる。本文は12の書 (Liber) に分かたれ,多くの図版に満ちている。第1書 (第1巻,1-54頁) は「中心誌」(Centro graphicus) と題され,アルキメデスやアリストテレスなどが引かれて地球の中心部に関わる幾何学的,運動学的議論と解説が行われてい る。第2書(55-120頁)「ゲオコスモスの技術学」(Technicus
Geocosmus) において,本書で用いられる基本的な考え方が20章にわたって述べられる。太陽,月,地球の大きさや,山地の連鎖,火山,大地の変容,海をつなぐ隠された導管,山の高さと海の深さ,地球磁気などが説明されている。第3書 (121-167頁) から具体的な自然現象の解説に入る。まず「水誌」(Hydro graphicus) では,大洋の本性,由来,地球内部や外部での運動,大洋の周環流
(pencyclosis) などが扱われ,次の第4書 (168-225頁)
の「火誌」(Pyrographicus) では地下の火や風の正体が議論される。続いて第5書(226-294頁) で,湖,河川,泉の本性と特性およびそれらの地下からの由来について付け加えられる。ここでは「温泉についての探求」(Disquisitio de Thermis) も行われていて,水系と火系の相互作用が論じられている。第6書 (295-325頁) では四元素の考え方に基づいて地球を形づくる物質について述べ,第7書 (326-345頁) で大地の元素に近しいとされる鉱物 (mineralis) または発掘物 (fossilis) の本性,特性,用途について概説する。発掘物については第8書 (第2巻,1-103頁) で詳細に記述される。すなわち,最初に石
(lapis) の分類表と5つの分類基準が提示された後,石化汁による石の変容,石の効能,地下の動物について説明されている。図版はアルドロヴァンディ
(1522-1605) の鉱物誌 (1648) からも多数借用されており,基本的にルネサンスの博物学的自然誌の伝統を色濃く残していると言ってよいだろう。第9書 (104-161頁) は地下からもたらされる有毒物質を,第10書 (162-230頁) の金属学 (Metallurgia)
は金属の母岩もしくは鉱山の本性,特性,原理,原因を論じている。化学技術学 (Chymiotechnicus) の名のある第11書 (231-325頁) は,キルヒャーの錬金術への傾倒を示しており,金属学の書でも見られたようにさまざまな器具が取りあげられ解説されている。しかしその態度は慎重であって,「哲学者の石」の存在は否定され,疑似化学
(Pseudo-chymia) の排斥が説かれている。最後の非常に長い第12書
(326-487頁) では,キルヒャーの自然の種子についての学説が披瀝されている。それは,ゲオコスモスの力能や効力を受ける地球上の動物や植物,鉱物などの諸事物は,普遍的な種子
(panspermia) の作用のもとに生成するというもので,このような文脈で形成的な力による化石の生成も理解できることになる。
ステノ (1638-1686) は1666年にローマでキルヒャーに会ったと推定され,その後手紙のやりとりをしている。現在残っているのはステノ発の5通 (1669.5.12付から1676.9.29付まで)
で,これらは『往復書簡集』(1952) に収められているが,いずれも短いもので自然学的議論は見られない。他方,ステノの同僚で友人のレディ
(1626-1698) は自然発生の実験をめぐってキルヒャーを批判していた。ステノはレディと親しく思想上の立場も非常に近かった。実際,ステノは『プロドロムス(固体論)』(1669)でキルヒャー的ゲオコスモス論を批判している。すなわち「山地の岩石は,堅さにおけるある相似を除くと,動物の骨とは何の共通性も持たず,物質も生成の方法も構造も機能も相互に一致することはないこと。」あるいは「大地のある定まった方向性を持つ地帯に沿った山地の冠部
(corona),あるいは一部の人々が好んで呼ぶ仕方では連鎖 (catena),というものは,理性にも経験にも合致することはないこと」(p. 34)。ステノとキルヒャーの立場の相違は明らかであろう。同時にステノの地球論がキルヒャーのゲオコスモス論を十分に意識して書かれたことも確かであろう。
キルヒャーの『地下世界』は,当時までのさまざまな考えと観察や実験事項が詰め込まれた百科全書的地球論の側面を持っている。そのいわば「タイムカ
プセル」には当時の西欧人の地球観を知る手がかりがたくさんつまっていると考えられる。
【文献】
Kircher, Athanasius (1665): Mundus Subterraneus, In XII Libros
digestus; Qvo Divinum Subterrestris Mundi Opificium, mira Ergasteriorum Naturae
in eo distributio, verbo πανταμοσφονProtei Regnum, Universae denique Naturae
Majestas & divitiae summa rerum varietate exponuntur. Abditorum effectuum
causae acri indagine inquisitae demonstrantur; cognitae per Artis & Naturae
conjugium ad humanae vitae necessarium usum vario experimentorum apparatu,
necnon novo modo, & ratione applicantur. (地下世界,12の書に分かたれる;そこにおいて地下世界の神の御業,地下世界のなかでの驚くべき自然の秩序,パンタモスフォンというプローテウスの王国,のみならず普遍的自然の卓越と事物の豊穣な総体がさまざまに陳開される。諸結果の隠された諸原因が透徹した研究によって探究されて証明される;技芸や自然が人生に不可欠な用途と結びつくことを通して知られたことが,さまざまな実験器具によってもしくは新たな方法と推論によって付け加えられる。) Amstelodami, Apud Joannem
Janssonium & Elizeum Weyerstraten, 2vols, 346+487pp.
YAMADA Toshihiro,
Kircher and Steno: An
aspect of seventeenth-century Western theories of the Earth
3.出席者の最近の発行物から(会場で配付されたもの)
--- 金光男・亀沢修・高瀬士郎「小坂鉱山を巡る明治の科学者たち(3)」『あかしあ便』2001年6月15日号,pp.6-7. ※ネットーと仙石亮を紹介する。
--- 吉岡学・本間久英「榎本武揚の日本地質学史上に占める位置 ―
その一 科学者としての出発―」『東京学芸大学紀要 第4部門 数学・自然科学』第53集(2001年8月),pp.75-134.
第3回 地学史勉強会 記録
日時:2001年5月27日(日)午後4時-6時
会場:早稲田奉仕園内 キリスト教会館6階 7C室
参加者:11名。
会田信行,今井功,大沢眞澄,加藤茂生,金凡性,鈴木尉元,谷本勉,栃内文彦,浜崎健児,八耳俊文,山田俊弘(敬称略,五十音順) |
1.参加者の自己紹介
2.鈴木尉元氏の話題提供「中・深発地震面発見への道」
International Union of Geological Sciences (IUGS) の季刊誌 Episodes に ‘Kiyoo Wadati and the path to the discovery of the intermediate
- deep earthquake zone’を寄稿され黷ス鈴木尉元氏(地熱技術開発)に,和達清夫が深発地震面の存在を発表した1935年論文の,成立過程および当時の反響について,志田順と本多弘吉の先駆的業績とともに,OHP機器を使い講演して頂いた。
3.講演概要
(1) 和達清夫の深発地震の存在と分布に関する,世界的に知られる1935年の論文 ‘On the activity of deep-focus
earthquakes in the Japan Islands and neighbourhoods’は,中央気象台の欧文論文集 Geophysical Magazine に発表された。これ以前に和達は,邦文にて「深層地震の存在と其の研究」を『気象集誌』第2輯第5巻(1927)に発表しており,以降,これを第1報に全3報の深発地震の存在と研究についての論文を『気象集誌』に発表している(1927-28)。英文にてもこれらの内容を Geophysical Magazine に全3回にわたり掲載している(1928, 1929, 1931)。
(2) 深発地震の存在は H.H.Turner(1922)の議論にさかのぼる。しかし彼の議論は全く不十分で多くの人を納得させるものではなかった。当時,地殻とマントルについてはアイソスタシーの考えで理解されており,マントルは粘性が大きい物質からなり,地下数百km というこのマントル中で地震が発生するなどあり得ないというのが一般的な考えであった。
(3) 日本では関東地震を契機に地震の観測網が整備され,地震に関する多くのデータが集められるようになった。和達が東大を卒業し,中央気象台に入台した1925年というのはまさにこのあとの時期にあたる。1925年から1927年にかけて被害地震として北但馬地震(1925.5.23)と北丹後地震(1927.3.7)が発生したが,この間の地震のデータを分析した和達は浅い地震と深い地震が存在するとの結論に達し,上記の論文を書いた。
(4) 日本における深発地震の研究としては志田順と本多弘吉の業績も無視できない。志田は京大にあって観測と研究をはじめ,震源が300km に近い深発地震が存在することを,和達以前に認めた。本多弘吉は和達が深発地震の研究にたずさわっている時期,中央気象台に入り,1934年には日本の深発地震には二つの地震帯があると発表,深発地震面に接近した。本多はその後,発震機構の研究をすすめ,『地震波動』(岩波書店,1942年)を刊行している。
(5) 和達の英文による一連の深発地震の論文は
R.Stoneley (1931)や F.J.Scrase (1931)とも一致しており,欧米の地震学者の注目を受けた。リヒターが1935年にマグニチュードを定義したとき,地震の距離と規模に関する和達の1931年論文の手法を試行したことはよく知られている。
(6) 和達は1935年の論文を執筆したのち,中央気象台大阪支台長となり,災害科学研究所の第一部長を兼任,西大阪の地盤沈下の原因究明に向かうことになった。その後,和達はさまざまな分野で活躍したが,今回の演題に関連するなら,関東地震の体験が彼に地震学を目ざめさせたこと,また彼の職場であった中央気象台が現業の最前線で多くのデータを入手できる機会に恵まれていたこと,学的研究を奨励する雰囲気が岡田武松台長下に育成されていたことは指摘しておかねばならないであろう。また和達の論文の周辺には世界中の地震学論文が顕在したが,言うまでもないが,和達の意義も含め,原著にあたらなければこれらの論文の位置づけや評価はわからないことも述べておきたい。
第2回 地学史勉強会 記録
日時:2001年3月17日(土)午後1時-午後4時
会場:青学会館 校友会室B
参加者:14名。
会田信行,石山洋,今井功,大場利康,大森昌衛,金光男,沓掛俊夫,鈴木尉元,矢島道子,栃内文彦,八耳俊文,山口直樹,山田俊弘,吉岡学(敬称略,五十音順) |
1.自己紹介
2.山口直樹氏の話題提供 「満州帝国国立中央博物館の活動をめぐって」
(1)<はじめに>
広重徹や L.パイエンソンに刺激され,植民地科学に関心をもった。現在,慎蒼健氏が提起されたように,植民地における科学教育や社会教育の問題を論じる必要性を感じており,今回は,1939年に創設された満州帝国国立中央博物館の活動を取り上げる。
(2)<満州にはどのような博物館があったか>
南満州地域には日本による旅順博物館と満州資源館があったが教育と研究を担うものではなかった。これに対し,北満州地域にはロシア人が創設したハルピン博物館があり,独自の人員と部局を擁し,研究機能も備えていた。
(3)<満州帝国国立中央博物館設立の経緯>
奉天に1935年,美術工芸品を収める満州国国立博物館と,自然科学系の満鉄教育研究所附属教育参考館が設立されていたが,これらを統合するかたちで,満州帝国国立中央博物館が新京(現,長春)に設立された。同館は博士クラスの学芸員を擁し,また博物館エキステンションと称される博物館運動を活発におこない,研究と教育双方の機能を果たした。
(4)<満州帝国国立中央博物館の学芸員とその活動>
副館長に行政官の藤山一雄が就任,学芸員には動物学の木場一夫,地質学の遠藤隆次,野田光雄などがいた。1942年に満州国における科学技術動員組織,満州帝国協和会科学技術連合部会が結成されると,学芸員は自然科学研究部会を担い,同部会は遠藤隆次を団長に長白山総合学術調査を実施した。また博物館エキシテンションとしては,移動講演会,現地入所科学研究生の制度,博物館の夕べ,科学ハイキング,雑誌図書の発行,満州科学同好会の結成などをおこなった。
(5)<「内地」と満州帝国国立中央博物館との関連>
これに関し指摘できるのは斉藤報恩会とのつながりと,東北大学人脈の存在である。斉藤報恩会の雑誌は同館の雑誌のモデルになったと考えられ,学芸員には満州教育専門学校,東北大学理学部地質学・古生物学教室のルートをたどった人が少なくない。
(6)<科学史は植民地の科学博物館をどうとらえるのか>
2000年12月に植民地教育国際シンポジウムが東京で開かれたが,「宗主国の研究者と被植民地国の研究者の記憶はなぜ食い違うのか」が主要テーマであった。現在,満州帝国国立中央博物館の活動については,博物館活動としての先駆的な試みをめぐって,日本側と中国側との評価は一致していない。同館の歴史は近代日本史の一部であるとともに近代中国史の一部でもあることを踏まえ,両者での学的蓄積が望まれる。
3.(補足)山口氏による満州研究の現況説明
日本では満鉄中央試験所関係者による『満鉄中試会々報』が発行されており,すでに2000年12月で第26号を数えている。満鉄中試が消滅し半世紀以上がたち,同誌では中試を歴史的研究対象とする人にも紙面を提供しようとしている。中国では日本から予想される以上に文献資料の整理がすすめられており,中国東北部の図書館の総合目録である『東北地方文献聯合目録』(大連,1984年)も発行されている。中国側でも若手の研究者が植民地科学に関心を寄せており,まだ中国東北部の植民地科学の研究ははじまったばかりであるが,演者としては,日中両国で共同研究体制ができることを期待している。
→参考,当日配布された資料『満鉄中試会々報』第26号の一部コピー(梁波「『植民地科学』の研究に関する考察」,山口直樹「21世紀における中国東北部の植民地科学研究のために―満鉄中央試験所の日中共同研究体制の整備にむけて―」を収む)と『東北地方文献聯合目録』第二輯日文図書部分の一部コピー(うち天文・地質の部)。
4.話題提供の内容についての質疑応答(午後2時30分-4時)
さまざまな質問が出されたが,それらは省くとして,満州国国立中央博物館を科学史的に研究するなら,この博物館設立の大きな流れと,その博物館の内部で学芸員たちがおこなった具体的な調査研究の双方に目を向けることが大切との意見が出された。戦後日本の地質学は,戦時中での「外地」での研究の存在を切捨て,現在に至ってきたきらいがあった。今後,日本の地質学の活動を考えるとき,これら戦中・戦前期における地学研究の政治性を明らかにする一方,学問的意義についても検討する必要性を痛感させられた。
補記:上の2と3についても,当日,山口氏が配布されたレジュメをもとに八耳がまとめたものである。
第1回 地学史勉強会(旧称,地質学史勉強会) 記録
日時:2000年12月2日(土)午前10時-午後2時
会場:青山学院女子短期大学 八耳研究室
参加者:11名。
会田信行,大森昌衛,金光男,鈴木尉元,栃内文彦,中井睦美,矢島道子,八耳俊文,山口直樹,山田俊弘,吉岡学(敬称略,五十音順) |
1.自己紹介
はじめて顔をあわす人も多かったので,自己紹介をまずおこなった。
2.勉強会発足の経緯の説明(八耳)
2000年10月28日,地質学史懇話会事務局会議が開かれ,この会議終了後,別のメンバーも加わり計7名で,地学史に関して,気楽に研究発表できる場と勉強会を兼ねた会の必要性が議論され,「地質学史勉強会」(仮称)を発足させることになった。同日,第1回目の勉強会の日程と会場,概要を決め,この決定にしたがい,11月4日に八耳が案内状を発送した。同8日,北海道大学の杉山滋郎氏の尽力により,氏の管理する科学史MLに会発足のニューズが流れた。なお大森先生の補足によれば,今井功先生との間でこのような会の必要性がかねがね話題になっていた,とのことであった。
3.会田氏の話題提供 「古地磁気学とプレートテクトニクス」
19世紀から2000年までに刊行された古地磁気学に関する欧語文献や図書,日本語図書の一覧をもとに,地磁気研究のはじまりから,古地磁気学の現在までを概観された。ともすればプレートテクトニクス成立史と関連づけてとりあげられる古地磁気学であるが,これは別に地球の性質と歴史の解明に独自に貢献してきた蓄積があることを示された。氏が地磁気研究に先駆的貢献をした挙げられた4人の研究者
(W.Gilbert, C.F.Gauss, B.Brunhes, 松山基範) をめぐってほか,参加者の間といろいろな質疑応答がかわされた。
4.栃内氏より修論要旨の発表
同氏が北海道大学理学部科学史研究室に提出される修士論文「『新しい岩石学』の第二次大戦後の日本岩石学界への導入過程―坪井誠太郎による Bowen 火成岩成因論の研究―」の要旨を発表された。坪井は Bowen の火成岩成因論を日本に持ち込んだことで知られるが,彼自身,のちに自然界を単純にとらえすぎていると批判されたこの論の仮定部分を,十分に意識しており,むしろ逆に絶対的なものでないから論理性にこだわった,との結論を示された。Bowen の反応原理は岩石学の基本理論としてなじみ深く参加者の間からさまざまな意見が出た。
5.会の運営についての議事
(1) 会の名称について。地質学にこだわらず,人間が地球に関心を寄せてきた歴史を対象にするということで,広く「地学史勉強会」とすることにした(ただ
しこれも仮称)。
(2) 事務局について。会の運営が安定するまで,八耳が担当することになった。場所については人数や内容が安定するまで,変更もありうることが了承された。
(3) 運営方法について。会費は徴収しない(会計業務をつくらないため)。ただし案内状実費分は当日,参加者が発送者(事務局)に支払うことにした。
(4) 会の開催頻度について。3ケ月に1度ぐらいの間隔でおこなうことにした。
6.その他
吉岡氏が,ご自分の研究の概要と課題を記したプリント「蘭学の範疇における地質学伝習―幕末長崎における蘭人医師の動向―」を配布された。