![]() 作者が赴任したパナマの魅力を求めて |
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パナマの歴史 ![]() スペインの中南米探検の拠点パナマの歴史は、先住民インデイヘナの住んでいたパナマの地をスペイン人ロドリゴが1501年にヨーロッパ人として初めて訪れたことから始まります。 1502年にはコロンブスが第4次航海の折に、パナマ地峡のカリブ沿岸を探検し、同地域の植民を開始しました。 さらに1513年にはスペイン人バスコ・ヌニェス・バルボアがパナマ地峡を横断し大平洋を発見して以来、パナマはスペイン人による中南米探検の拠点となり、またパナマを通じてスペイン・中南米間の交易が行われました。1519年にはスペイン国王に総督として任命された ペドラリアス・ダビラによってパナマ・シティが建設されました。 フランシスコ・ピサロとディエゴ・デ・アルマグロによるペルーやチリの征服は、パナマで準備されましたし、そしてミシシッピ川を発見したエルナンド・デ・ソトも、パナマを拠点として出発しています。![]() スペインからの独立とコロンビアからの独立1821年11月、パナマはスペインから独立した大コロンビア(現在のコロンビア、ベネズエラ、エクアドル、パナマ)の一州となり、40年にはトマス・エレラ将軍がパナマの分離を宣言し地峡国を建てましたが、わずか13ケ月後に再びパナマ州としてコロンビアに復帰しました。 その後、1903年コロンビアに対する反乱が起こり、パナマ運河建設の計画を持つアメリカの援助によって、パナマは1903年にコロンビアから分離独立を果たしました。 独立後は、地主をはじめとする一部裕福階級の間で政権が持ち回られることとなりました。その間、1881〜89年までフランス人レセップスがパナマ地峡の運河建設に従事しましたが、失敗に終わりました。 アメリカは、独立直後のパナマと締結した条約に基づき1903年より運河建設を継続し、1914年に世界中から集めた労働力を大量に投入してこれを完成しました。 パナマ運河完成後、その重要性に気付いたパナマは、再三アメリカに返還を要求しましたが、すでにアメリカのパナマ運河流域の無期限な領土権限について署名をしてしまっていました。
米国の運河返還と、パナマの歴史的自立![]()
パナマの実権回復に成功したことで国の英雄となったトリホス将軍は、国政を指導していましたが81年7月謎の航空機事故で死亡しました。
1983年ノリエガ将軍が軍の最高司令官に就任し、国防軍の力を強化しました。84年5月16年ぶりで直接投票による大統領選挙で選ばれたバルレッタ大統領が軍と対立し、辞任。 87年から軍幹部およびノリエガ将軍の批判が公然と行われ、また88年2月、アメリカのフロリダ大陪審がノリエガ将軍を麻薬密輸容疑で起訴するに及んで、国内の秩序は混迷し、アメリカとの関係は悪化の一途をたどり、ついに1989年12月、米軍がパナマを侵攻し、ノリエガ将軍を逮捕するとともに国防軍の解体を進め、エンダラ政権の誕生をみることとなりました。
![]() 写真:1999年度パナマ大統領選挙での候補者たち。 中央のミレージャ女史が当選。 1999年5月に、歴史的パナマ運河返還の主役と、測りしれない規模の利権をかけての大統領選挙があり、第1野党ミレイヤ・モスコッソ女史が勝利し、パナマ初の女性大統領の誕生となりました。 ミレイヤ大統領は現在53歳、23歳の時にアルヌルフォ・アリアス元大統領と亡命先の米国で結婚、亡命中の1977年に自分たちをクーデターで追い出したトリホス将軍が運河返還交渉を成功させ、カーター大統領と運河返還条約に調印し英雄と賞賛されています。 今回の大統領選挙では最大のライバルは故トリホス将軍の息子のマルティン・トリホスでした。(写真のみぎ) 12月14日の運河返還式![]() 1999年12月31日-パナマ運河返還期限終了日![]() 参考情報:「1999年から2000年へ」-パナマ運河返還式典と2000年へのカウントダウン- <次に進みます/ 文化と伝統> <一つ前に戻ります/ パナマ運河> <ホームへ> |