企業統治(コーポレート・ガバナンス)の在り方が問い直される中で、あまりにも無自覚である。近年、これだけ社会問題化しているにもかかわらずだ。問われているのは、社会的責任を視野に入れた企業活動である。社会に何も貢献しないどころか迷惑しかかけていない企業を支持する消費者はいない。
余りに閉鎖的で秘密主義的な東急リバブル及び東急不動産の体質は、利益優先を二の次にしても良質な企業を目指しCSR・コーポレートガバナンスに取組む企業と比し、企業理念や資質に大きな開きがある。これでは早晩、社会や投資家から見放されるであろうことは明白である。
企業が利潤を追及するのは当然であり、わざわざ言うまでもないことである。ポイントは、その利潤をいかに得るか、にある。不正、犯罪、非合法、虚偽情報などで利潤を得るか、社会に貢献し、人々に利便、快適、幸福などを提供して利潤を得るか、それでその企業の価値が決まる。
企業は社会貢献や環境対策などの面でも一定の責任を果たさないと地域社会から孤立し、存続すら危うくなる。「企業は利潤と成長を第一に考えるが、それよりももっと大事なのは共に暮らす人々だ」(金辰明著、琴玲夏訳、バイ・コリア、ダイヤモンド社、2003年、353頁)。
消費者・利用者あっての経営である。地球が企業を乗せて勝手に回っているのであって、企業が地球を回しているのでない。市民は会社に資金を提供している株主であったり、預金者であったり、労働者であったり、購買者であったりする。これからの企業は、市民的な要素を取り入れざるを得なくなる。
企業には社会的責任があり、現在では消費者や地域住民ないし一般公衆に対しても経営責任を負担する(山下知志「“反社会的企業”は死滅する!」財界展望2004年12月号)。「社会的責任を全うし消費者に支持されて初めて、企業は成長していける」(「企業不祥事 倫理確立へ課題を残し」信濃毎日新聞2004年12月28日)。企業には社会の一員としての覚悟と時代の変化を読み取り、機敏に対応できる能力が求められている。
社会的責任を果たそうとしないばかりか、環境を破壊してまで、営利を追求しようとしようとするのは、許されるものではない。「宅地建物取引業者は、取引の関係者に対し、信義を旨とし、誠実にその業務を行なわなければならない」(宅地建物取引業法31条)。自己の利益のみを先行させる悪徳業者に住宅を販売する資格はない。制度以上に重要なことが各企業が制度の不備にもかかわらずモラルを重視する姿勢を持つことである。
企業倫理の確立なくして、企業の発展はあり得ない。正しい倫理的価値観を持つことが重要である。物事を判断する基準は「法律に触れないか」「儲かるか」ではなく、「それをすることが社会正義に照らして正しいかどうか」であるべきである。
社会に対し無責任な行為を繰り返す企業に未来はない。脱法行為を繰り返し、低コストのみを追求するとどこかで必ず壁にぶち当たる。違法な商行為や商道徳に反するような商売のやり方は、消費者の支持を失う。顧客やパートナー企業からの信頼を失えば、受注機会は減少し、市場競争力はなくなる。結局、自分の首を絞めるだけである。モラルを失った企業は命運を断たれる。「企業の利益のためなら不正工作もやむなし」といった企業の滅亡は不可避である。CSRに反した雪印乳業や雪印食品の例を出すまでもなく、社会的制裁を受ければ会社は消滅する。
世界中の貧しい人々に対して、企業は何をしてきたのだろうか。優れた技術や経営のノウハウや投資力を持ちながら、世界中に広がる貧困や公民権剥奪の問題に貢献できないのは何故か。何故、あらゆる人々に恩恵をもたらす資本主義を作り出せないのか。巨万の富を抱えながら文化にも社会にも還元しようとしない、税金すらまともに納めようとしない日本の財界の体質は軽蔑に値する。外国の土地を買い漁って現地人民に反感をもたれるような企業は尊敬に値しない。
「経済活動とモラルのかかわりが今日の社会にあって重大な問題となっていることは間違いない」(時田英之「経済活動とモラル問う」読売新聞夕刊2006年1月26日)。
「自分の会社の利潤だけを追求する会社というのは長続きしませんから。世のため人のために貢献してきたことの代償としてお金がもらえるシステムが会社です」(門井大介「お客様へのサービスが先、利益は後からついてくる」ベンチャー通信13号、2005年、53頁)。
「もうけ一辺倒の経済人が幅をきかせているが、社会での役割に誇りを持つ職業人としての倫理を磨くことの大切さを、会社も経営者も、そこで働く人々も忘れてはならない」(「「職業人」の倫理を磨こう」朝日新聞2005年12月31日)。
在日米国商業会議所のチャールズ・D・レイク会頭は「企業は株主への利益の還元だけでなく、社会に信頼される存在として社会への責任を果たすべき」とする(「企業は社会的責任も大事」読売新聞2006年3月14日)。
例えばダイエーは「よい品をどんどん安く」とした創業以来の企業理念を見直し、企業の社会的責任(CSR)といった視点を盛り込むなど時代に即した内容に改める方針を示している(「創業以来の理念を見直し ダイエー、中内イズム決別」共同通信2005年6月15日)。
「わが国にもようやく市場メカニズムにもとづいたコーポレート・ガバナンスの動きが出てきたようである」(二上季代司「コーポレート・ガバナンスの新たな展開」財団法人日本証券経済研究所大阪研究所・証研レポート1630号、2005年、1頁)。
「コンプライアンスや企業統治が不十分だと融資を受けられない時代がいずれ来るかもしれない」(磯道真「CSR評価を基に金利優遇」日経ビジネス2005年8月29日18頁)。
経営者は法令順守を怠ることの怖さをしっかり胸に刻むべきである。不祥事は企業・組織にとって社会的・経済的に大きなリスクであり、場合によっては数億円、数十億円もの損失を発生させる。ブランドと社会的信用の失墜、営業自粛による機会損失や被害者への対応等、収益に大きく影響しかねない。既存顧客は離れ、新規顧客の開拓は難しくなる。投資家の株投げ売りを誘い、株価も急落する。牛肉偽装の雪印食品が消費者の買い控えで一気に解散まで追い込まれたのが好例である。
産業界・企業は存続を賭けて消費者重視に本腰を入れざるを得なくなっている。組織・企業を取り巻く環境は、日々変化している。消費者と企業の関係は大きく変わった。「住民と共存する企業、消費者と共存する企業にならなければ、これからの時代に存在する場所を見つけられない」(中島洋・小泉明正、勝者のIT戦略、日経BP企画、2005年、168頁)。
企業の発展を望むなら、消費者との対話に力を注ぐしかない。経営者から従業員に至るまでいかに消費者重視に頭を転換できるかにかかっている。消費者の声を真摯に受け止め、それに的確に応えていくことが、求められている。企業は消費者について「彼らは力を秘めた創造的な起業家であり、価値を重視する市民である」と認識を改める必要がある。
消費者の理解と信頼を最優先すべきである。消費者感情の理解と活用が社会の共通基盤をつくり、明日の発展を確かなものにする。消費者軽視を続ける限り、企業不祥事が再発するのは目に見えている。消費者の声を聞き、じっくり考える時期にきている。
企業の在り方、評価にもっと消費者の意見を取り込むのも一つの方策である。広報担当者は広報プロセスで得た社会の声を組織内部にフィードバックする循環作用を担うべきである。「企業のブランドイメージを傷つけるかもしれない事態」を想定し、その芽を見つけ出し、顧客と情報をやりとりしながら解決していく。
国際市場で活動するメーカーは、顧客のクレーム処理の重要性を嫌というほど認識している。そのようにしなければ厳しい国際競争を生き残ることができない。信頼できる企業は顧客に誠意ある対応をするし、そのクレームを商品開発に的確にフィードバックする。駄目な企業はクレームを担当する部門から的確に情報が製造現場や開発部門に流れない。
企業再生は業績不振となった要因を正しく把握することから始まる。その要因を解決・対処していく。多くの場合、要因は一つではなく複数からなる。通常は全要因をリストアップした後、それらを財務的な体質強化などの短期的な改善課題、収益構造の見直し等の長期的な改善課題に分け、優先順位をつけて解決・対処する。
身勝手な隠蔽体質がどんな結果を招くかは言うまでもない。雪印食品や日本ハムの牛肉偽装問題に対しては、偽装そのもの以上にその後の対応の不手際が槍玉にあがった。逃げ回れば逃げ回るほど、関係者の怒りは強くなり、マスメディアの報道は長期化・深耕し、会社は窮地に追い込まれていく。
まずは謙虚に謝罪する、それが商売人としての基本である。客商売である以上、消費者感情に火をつけてしまった時点で負けである。消費者と業者との関係は、常に信頼を大前提にして成り立っている。信頼が裏切られれば怒りとなり、不買運動となって、業者らにハネ返るのは、至極当然の成り行きである。真摯で誠実な対応こそが消費者の怒りを静める一番の術である。
東急不動産や東急リバブルのように消費者を馬鹿にした不誠実な対応を続けていれば、やがては消費者にそっぽを向かれ、消え去ることは必定である。今のように消費者を疎外し続けるならば、その反動は必ず大きくやってくる。消費者の不満は、いつ火を噴いてもおかしくない状況にある。消費者への対応が不誠実な企業が消費者から背を向けられるということは、今までも何度となく起こったことである。
社会は悪徳業者が考えるほど甘くはない。不遜な言動を永久に続けることができると思っているならば大間違いである。いつまでも続けられるものではない。不正をしてでも利益を得ようとするような卑しい連中に幸福な未来が待っているはずなどない。自己の行動は自己に帰結する。「人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。A person will reap only what he sows.」(ガラテア人への手紙)。
破局は栄華の極みに突然襲いかかる。月夜の晩だけではない。気付いた時にはとっくに夏が終わって冬になっている。悪徳不動産業者にとって不買運動は雷のようなものである。落ちてからハッと気付くものである。その時に後悔しても遅い。身から出た錆である。世間を舐めてかかった償ないをしなければならない。自らの社会性や順法精神の信じられない欠如が招いた危機は甘んじて受けるほかない。
悪徳不動産業者の現在の繁栄はタイタニック号船上の舞踏会と変わらない。巨大な氷山が近づいていることも知らず、歌とダンスに酔いしれる。ハイヒールを履いてタップダンスを踊るようなものである。すぐに転倒して骨折する。あのエクセレント・カンパニーが、あっという間にピンチに陥り、外国人がトップになるという事態を予見できた人はほとんどいない。
殴った人間はすぐに忘れても、殴られた方はいつまで経っても忘れない。「すぐに忘れるから」と思っているのは加害者だけである。被害者の悲しみや怒りは時間の経過による薄まるものではない。むしろ、時の流れとともに、益々強く深くなっていく。一度燃え始めたものは余程のことがない限り燃え続けるものである。
徹底的にやっつけても何ら構わない。二度と立ち上げられないほど踏みつけて、全てを奪ったとしても甘過ぎるくらいである。神の雷が落ちないならば、人間の作った雷で吹き飛ばすまでのことである。
建物から出てきたところを、ズドンと一発で仕留めてしまおうか。それとも数人がかりで仰向けに押さえつけ、上からナイフで喉を切り裂いてやろうか。あるいは角材を持ち出し、顔の肉が飛び散るまで殴り続けてやろうか。カミソリで全身の皮膚を0.5ミリずつ削ってしまおうか。腐った腸を引きずり出し、塩焼きにして人面魚の餌にしてしまおうか。血管を切り開いて全身の血を悪魔に飲ませてしまおうか。
悪徳不動産営業のまぶたを切り取って鏡の前に座らせてしまおうか。目を閉じられないから、自分の姿を見ながら気が狂う。舌をチョン切り、その舌で汚い顔を撫でてやろうか。脳ミソを物理的に分析してしまおうか。簀巻きにして淀川に捨ててしまおうか。六甲の山に埋めてしまおうか。すり鉢に入れた穀物のように粉々にしてしまおうか。影も形もなくしてしまおうか。生かしておいて傷が治ったら、また痛めつけてやろうか。その方が一人で何度も楽しめる。
それくらいの目にあったところで悪徳不動産業者が文句を言える筋合いではない。悪徳不動産業者の悪質さを考えれば、当然である。悪徳不動産業者も、まともな感覚があれば、自己の悪事に対する報復を全く予想していないわけではないだろうから、あまり長く待たせては気の毒というものである。悪徳不動産業者は随分多くの人を破滅させてきた。そろそろ悪徳不動産業者の番である。
正義のために泣き寝入りではなく、告発していくべきである。苦しいことであろうとも真相は明らかにしければならない。それができない限り、いつまでたっても傷は癒えない。どこまで真相究明できるかが、どう改善するかということに繋がる。犯罪者の割合が多くなると日本では「当たり前」となって悪いとは言えなくなってしまう風潮がある。東急不動産や東急リバブルの騙し売りが多くなると「騙されるほうが悪い」となってしまう。
「騙される奴が悪い」と言わんばかりのあまりにも問題の多い不動産業界のあり方を野放しにしてはならない。暗闇が訪れれば明るさが消え、明るさが訪れれば暗闇は去っていく。悪徳不動産業者と消費者の関係がまさにこれである。企業の不祥事はあちこちで起きている。国民が厳しい目で注視することが必要である。
悪徳不動産業者は反省して改心したり、行動パターンやものの考え方を変えたりすることはない。いつまでも悪行が続くとは思わないことが賢明な人間のすることだが、悪徳不動産業者には無理な話である。自分が悪いことをしたことにも、自分の値うちを下げていることにも気が付かないため、何度でも悪事を繰り返す。せいぜい「今度こそ、ばれないようにうまくやろう」とするだけである。腐りきった豚肉は元には戻らない。洗っても落ちないシミがある。決して消えないシミというものがある。
これまで長く消費者を欺き続けてきた悪徳不動産営業が数日間の教育を受けたくらいで心変わりすることはあり得ないし、心変わりしたならしたで気持ちが悪い。異常性格の殺人犯に「お前は人を殺したのだから死刑になって当然だ」と説教するくらいの効き目しかない。脳味噌の歪んだ殺人犯が死刑判決を納得するとは思わない。
自浄作用が著しく鈍っている人や組織には常識的な判断は通じない。自浄作用を失った会社に未来はない。内部浄化能力が破綻して悪癖が蔓延し、社会的な害悪の側面が勝ってしまった組織は滅ぼされるまで止まらない。たとえ存続が延びたとしても、一時的な先延ばしにすぎない。特に日本の組織はチェック体制が機能していないため、バブルを見れば分かるように、問題があっても大混乱になるまで放置される傾向にある。調子の悪い機械は油を差せばいいが、壊れた機械は廃棄するか専門家に任せるしかない。
悪徳不動産業者に情け容赦は無用である。「まず鉄槌を!理由は後だ!」(バルザック)。悪徳不動産業者を相手に遠慮するのは天道に背く。憐憫の感情は無益である。憐れみを持たない悪徳不動産業者に憐れみをかける必要はない。
東急リバブルや東急不動産のような悪い企業には悪いと主張すべきである。礼節は礼儀正しい相手に対して守っていればいい。上品なことばかり言っていても、埒が明かない。「徹底的にどうしようもなく道を踏みはずした悪人に対しては、怒りをあらわにすべきである」(プラトン「法律」『プラトン全集第十三巻』所収、岩波書店)。
魯迅の名言に「打落水狗」(水に落ちた犬は打て)とある。「もし人を咬む犬なら、たとい岸にいようとも、あるいは水中にいようとも、すべて打つべき部類だと私は考える」(竹内好編訳、魯迅評論集、岩波文庫、76頁)。
東急リバブルや東急不動産のような悪徳不動産業者を放置すると、不動産取引市場全体の公正性が喪失しかねない。悪貨は良貨を駆逐する。腐ったリンゴが一個あると籠の中のリンゴは全て腐ってしまう。一匹の死んだハエによって香水の容器が悪臭を放ってしまう。
悪徳不動産業者は、知らぬ間に徐々に体を蝕む癌と同じである。体の中で命を脅かす細胞が成長している時には、それを完全に排除しなくてはならない。伝染性の病は完全に根絶やしにする必要がある。放置すれば、やがては社会を滅ぼす。
東急リバブル及び東急不動産の闇はあまりにも深刻で、醜怪で遠くにまで及んでいる。このままでは、あらゆる光が姿を消してしまう。今日輝いている光も明日は隠されてしまうかもしれない。腐敗ガスを発する悪徳の沼地が全てを呑み込み、残るのは首まで泥沼につかって温泉気分で鼻歌を歌うような悪徳不動産業者だけとなる。
過去の真実を究明し、心から謝罪し、賠償することがあれば賠償しなければならない。被害者らに対し心身のケアや補償の面などで、具体的に誠実さを示し、不祥事に関する情報は自社に不都合なことでも開示することである。えりを正し、何故不祥事が相次ぐのか、謙虚に反省しなければならない。
消費者の信頼は言葉だけで回復するものでない。悪しき企業体質を洗い出し、過去と現在に厳しく向き合う必要がある。本音と建前が分離され、形式ばかり重視する「大企業病」「日本病」を治さない限り、抜本的解決はない。膿を一滴も出さずに薬を塗っても効果はない。膿を出し切ってから薬を塗らなければ意味がない。腐敗した食べ物は洗っても食べられない。腐った部分を取り除く必要がある。信頼回復への道はそこから始まる。
自社の不正から目を背け、過去を歪曲し塗りこめようとする悪徳不動産業者に未来はない。消費者は最早三歩歩くと記憶がなくなってしまう鶏のように愚かではない。消費者に損害を与えてしまった場合は、嘘をついたり、騙したりせずに、事実に基づき社会通念に照らした処置をとらなければならない。悪い情報があっても、公開した上で信頼を取り戻す努力をしなければならない。
過去の清算が終わらないことには、新たな出発はありえない。人間の頭の原子や分子は何年も、それこそ何年も前に起こったことでも思い出すことができる。その後に新しい考えや思い出がどんどん積み重なっていったとしても、である。
日本人は過去を水に流してしまう非歴史的な民族と軽蔑されてきた。過去を忘れる(なかったものとする)ことが日本人の愚かな習性とよく指摘される。この点は大いに反省する必要がある。リメンバーパールハーバーという美しい言葉もある。戦争中は鬼畜と罵った敵国を戦争が終わった途端、同盟国と呼ぶような無節操な政府の真似をしてはならない。
「自国・自国民が他国・多民族が受けた痛みはいつまでも覚えているが、他国・他国民に対して与えた痛みは忘れてしまう」(佐藤優、国家の罠、新潮社、2005年、119頁)。「日本人は加害者でありながら被害者に向かって「すんだことをいつまでもガタガタいうな」と言ってのけることができる民族なのだ」(田中芳樹、創竜伝4四兄弟脱出行、講談社、1994年、138頁)。
「「過去にこだわるよりもこれからどうするかが大切だ」というような考え方はいかにも前向きに聞こえるが、過去を引きずらない現在はない。歴史を無視したのでは、現状に至る本質の認知が半端だから、将来への正しい路線・目標を設定できなくなる。外国からいちゃもんがつくとか何とかの問題ではない。国民性、資質の問題である」(奥井禮喜、労働組合とは何か、ライフビジョン、2005年、33頁)。
政治学者・丸山真男の呼ぶ「無責任の体系」を許してはならない。もともと日本は個人の責任というものが厳格に追及されることのない社会である。第二次大戦の指導者から、いじめの首謀者に至るまで、皆が決めたことに自分は従っただけで自分に責任がないと主張する。その結果、「皆が平等に悪かった。皆で反省しよう」と言い出す者が出てきて、責任の所在は不明になり、まともな反省はなされず、事態も何ら変わらず、誰も罰せられずに終わってしまう。
マイケル・ジャクソンの裁判では、過去にマイケルと数億円で和解した被害少年も証人として出廷する。和解したとはいえ、その事実は消えない。アメリカのこの姿勢は高く評価できる。おかしいのはあくまでも日本なのだ。そこに目を向けない限り、問題はけっして解決しない。
不動産は購入者の人生に大きな影響を与えるものであり、悪質な業者は厳しく摘発する必要がある。市場を混乱させ、信頼を損なわせた悪徳不動産業者の行為は決して許されない。厳しい措置は当然である。被害を拡大させないためにも積極的な処分に踏み切るべきである。
東急リバブルや東急不動産のような悪徳不動産業者は不動産取引の免許取り消しにしなければ消費者は安心して不動産を購入することができない。三菱自動車(クレーム隠し)の対応を想起すれば容易に理解できるが、悪徳業者は裁判で判決が出た場合に免許取り消しにするくらいでないと少しも反省しない。悪徳不動産業者に免許を保持させたままにすることは国家への信頼を貶める、許されざる冒涜である。
前科が明らかになった企業には三菱自動車や雪印乳業(集団食中毒事件)、東芝(クレーマー暴言事件)、日本ハム(牛肉偽装事件)のような断固たる制裁が必要である。空が晴れ渡るのは台風が通過した後である。悪徳不動産業者への処罰は峻厳とならざるを得ない。
関係機関は事件の真相を徹底解明し、不正責任を徹底追及すべきである。長期間隠蔽されてきた違法行為に捜査のメスをさらに入れ、疑惑の全容解明を急ぐ必要がある。徹底捜査で奥深く切り込む必要がある。取り締まりの手を抜いてもらっては困る。都道府県や市町村も手をこまねいてはなるまい。さらに監視の目を注ごう。
事実関係をはっきりさせる必要がある。霧のかかった部分が解明されない限り、問題の解決にはならない。直接の原因にとどまらず、それをつくり出した人の問題にも立ち入って究明すべきである。「何故不正が行われたのか」という細かな分析は、「どうすれば不正を防げるか」という対策につながる。
個々の従業員の不正へのかかわりなど、はっきりさせなければならない点は多い。消費者を裏切るごまかしはいつ、どのような経緯で始まり、続けられてきたのか。どのような意図で誰が指示・命令したのか、どうして誰も止められなかったのか。
供給者保護では、物価が高くなり、サービスも改善されず、消費者の方が我慢させられてしまう。また、経済発展も完了した状態での企業・業界保護は、ついには企業、供給者自体の国際競争力も衰退させてしまう。今後は、より一般消費者優先の原則を確立していくべきである。
「監督官庁の指導に従えば業者は保護してもらえるために、消費者との間で適正な契約を締結しようとする努力が損なわれることになり、事業者の無責任を助長することになります。現実に、こうした業法に偏った業界保護の姿勢は、監督官庁と事業者との癒着を生み、銀行スキャンダルなどの形で大きな問題となったものです」(村千鶴子、Q&Aケースでわかる市民のための消費者契約法、2001年、17頁)。
従来の事前規制を中心とした行政による保護政策では十分な対応ができない。日本で戦後長い間継続的にとられてきた成長優先、企業・生産・供給側優先の政策、国民一般に植えつけられた社会正義よりも組織内の調和を優先する意識・風潮は全て廃棄しなければならない。
現実を前に、政治が何を為すべきかは明白である。手をこまねいた不作為は許されない。悪徳不動産業者は政治家には政治献金し、役人には天下りポストを提供する。政官財のトライアングルが日本における悪の枢軸と言える。「不正をなくすためには、厳罰しかない。そのためには厳正な捜査と、監督官庁の厳しい姿勢が必要だ」(「職業倫理の退廃」紀伊民報2005年11月30日)。
企業が自社の都合の悪いことを隠すために権力と結びついて守るべきことを守らない国には未来はない。愚かな指導者は無関心な大衆から生み出されることが多い。国が正当な権利を有する消費者をないがしろにするならば、世界中から「ならず者国家」と侮蔑されても仕方がない。政府は国民に愛国心を押し付ける前に愛国民心を身につける方が先である。
度重なる交通機関の大型事故、地震・津波などの自然災害の多発、食への信頼性低下、個人情報漏洩による世界的な詐欺事件など、今ほど「安全」「安心」「セキュリティ」が脅かされている時代はない。しかも、その範囲は仕事と生活の両面に及んでいる。国民の権利を守るシステムさえ作れなければ、宇宙開発や核融合に予算を割り振る資格はない。
「官の保護が厚かった規制業種や天下りが多い国内型業種の高齢経営者に、倫理的進化への対応を求めるだけでは十分でない」(刈屋武昭「リスク管理の理念明確に」日本経済新聞2005年6月12日)。
社内や仲間内の論理だけでの経営は最早成り立たない。風通しの悪い組織は内部から腐食して崩壊する。臭い物に蓋をするという、隠蔽主義は許されない。思考停止や沈黙は消極的な共犯者と同じである。隠蔽行為で目前の利益は得られたとしても、高度情報社会の現在、いつまでも都合の悪い情報が隠し通せるわけがない。
大きな組織では複数の階層を経て情報が上層部に伝えられ、報告の過程で、都合の悪い情報は報告から除外される傾向にある。たとえ組織は組織内の不正を把握していたとしても隠蔽しようとする傾向にある。特に日本の組織は大本営発表、更に遡れば記紀の記述に見られるように都合の悪い事実を隠す傾向が強い。昔は「よらしむべき知らしむべからず」で誤魔化せたかもしれない。
しかし、今や企業を批判する者の声は大きく、消費者・ジャーナリスト・従業員は互いに交信を続けている。蓋をしても、そのうち噴きこぼれる。インターネット時代においては個人レベルで情報を発信することが可能である。情報がいったん漏れると、あっという間に広がってしまう(e.g. 東芝クレーマー事件)。情報があっちでも、こっちでも取れるようになったことが企業活動に影響を与えていることは否定できない。
タイムリーにかつ適切に公開しなければ、損害の拡大を招くことになる。「すぐに事実を公表することが鉄則です。想定している以上に問題の根が深かった場合にも、迅速に公表することで、上手く作用するケースが少なくありません」(「セキュリティ・ソリューション」日経Windowsプロ200年4月号44頁)。背景やいきさつを明らかにすることである。隠蔽は必ずしもセキュリティを強化するわけではない。
ミスや障害は一定レベルで発生し得るものであり、モニタリングやリカバリに注力するという意識転換が必要である。日本の組織では障害を発生させてはならないことと捉える風潮がある。障害を起こさないよう努めることは結構なことであるが、100%安全ということはあり得ない。
むしろ絶対安全であるべきという歪んだ意識が問題を解決するのではなく、問題を把握しながらも隠蔽してしまう企業不祥事の底流にあると思われる。例えば雪印食中毒事件や三菱自動車クレーム隠しである(「原料の粉乳から毒素 雪印食中毒、大阪市発表」読売新聞2000年8月19日、「三菱自クレーム隠し30年」読売新聞2000年8月16日)。
「ミス自体より、「ミスがあり得る」という危機意識を持っていないことの方が、より重大な問題だ」(紺谷典子「ミスへの備え危機感欠如」朝日新聞2005年12月17日)。
日本中で欠陥を把握できたにもかかわらず、実際に事件として発覚するまで何もしようとしない風潮が蔓延している。事件や事故が起こる前には数十倍もの小さな事故が起きるものである。その情報が会社のトップに伝わらないことが大きな事件や事故の火種となる。あるいは知ってはいても責任逃れのために知らなかった振りをする。
大抵の事故は以下の人為的要因により、発生する。
●
危険を危険と気付かない(感受性の欠如)。
●
つい、うっかり、ぼんやり(注意力の欠如)。
●
危険を避けることへの意欲に欠ける。
有名なものにタイタニック号の沈没がある。タイタニック号は氷山に衝突するまでの間、別の船から何度となく「氷山に注意せよ」という警告が出されていた。にもかかわらず、タイタニック号はそのまま進み続け、氷山に衝突した。警告が無視された最大の要因は「沈むはずがない」という、船長以下の思いこみであった。
緊急事態が発生した際の業務の復旧や継続についての対応方針、対応要領を予めコンティンジェンシープラン(緊急時対応計画)として定めておく必要がある。リスクを回避するだけでなく、事故が発生した時にどうするかの対策を立てる。計画は一度定めたら終わりではなく、適度に見直しを行い、状況に合わせて改善することが重要である。
事故が起きた際は、事故に至るまでのプロセスを解明し、再発を防ぐ。事後処理として、原因を究明することは非常に重要な作業である。原因つまり「何故?」を追求することにより、どのようにしたら、その事件や事故を未然に防ぐことが出来たのかを考えられるようになる。
企業名の公表は不正の抑止にも効果的である。不誠実な対応は、どんどん情報公開し、悪徳不動産業者を市場から追放していきたい。悪徳不動産業者のヤリ得とならないように、不正は必ず暴かれるとの認識が広がることを期待する。
自分の権利を主張することは当たり前のことである。日本はもっともっと様々な弱い立場の人の人権を高めていかなければならない。納得できるまでどんどん行動していこう。信念を貫き通すためには妥協したり、引いてしまったりしてはいけない。シンプルかつ当たり前のこと、とはいえ、深くて終わりのない追求を、淡々と、楽しみながら進めていくことが自分自身、ひいては世の中全体を幸福にし、楽しく暮らしやすい社会を創る一翼を担うことになる。
「法、その目的は、平和であるが、その手段は、闘争である」(イエーリング「権利のための闘争)。
「悪を罰しない者は悪をなせと命じているのだ」(レオナルド・ダ・ヴィンチ 『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』杉浦明平訳 岩波文庫)。
「悪を仕方ないと受け入れる人は、悪の一部となる。悪に抵抗しない人は、実は悪に協力しているのだ」(アメリカ公民権運動の指導者マーチン・ルーサー・キング)。
豊かな社会は誰かが創ってくれるものではない。一人一人の手で創りあげていくものである。行動を起こさなければ何も起こらない。ガンジーは「世界に変化を望むのなら、まず自分達がそれを体現しなければならない」と言った。
時代のうねりに翻弄されるのでなく、力強くリードしていくためには、各人が教育、仕事、生き方において、価値観を主体的に転換しなければならない。一人一人が自分の生き方を大切にし、社会的存在としての個性を育てる基本に立って、時代を精一杯生きるようにしたい。
もしも人類が右へ倣えの人ばかりであったら、文明は進歩しなかったであろう。アルキメデスは、入浴中に湯船から溢れる湯を見ても、体積を発見しなかっただろう。ニュートンは、林檎が木から落ちるのを見ても、万有引力を発見しなかっただろう。ジェームス・ワットは、薬缶から蒸気が出るのを見ても、蒸気機関を発明しなかっただろう。
内部告発は組織を良くするためのものである。告発は組織に対する裏切りではない。法律を守る正しい姿へと組織を変える絶好の機会である。資本家の立場で、いかにして経営者を管理するかと考えれば、労働者に監視させる、問題があれば、内部告発させることが最善の方法であろうとする見解さえある(唐澤豊「これからの労働組合のあり方――情報技術(IT)と組織論(1)」日経IT Business & News 2004年7月9日)。
告発者の存在がなかったら、多くの悪事は闇の中に葬られただろう。不祥事が組織ぐるみ、会社ぐるみで行なわれていたとすれば、簡単には発覚しない。仮に問題意識を持った人がいたとしても、上司に訴えて解決する問題ではなくなっている可能性が高い。不正は益々巧妙化し外部の監査機関との癒着もあって、外部が発見し摘発することが困難になっている。
加えて企業の行動に高い社会性が求められるようになっている。商品の欠陥を隠すなど、社会倫理に反する仕事を上司から命令された場合、トップは「できるだけしないようにする」39%で、「はっきり断る」29%を合わせた社命不服従派は七割弱になった(「社会倫理に反する社命"不服従派"7割弱」読売新聞2005年7月28日)。
かつて多くの日本企業では「おらが村」的な共同幻想が存在していた。教師に与えられた課題をこなし、社会に出てからは与えられた仕事をまじめにコツコツとやっていれば、安泰な人生を歩むことができると言われてきた。秘密を守るためには自殺までする人もいる。歪んだ忠誠心の持主が日本には多かった。
組織第一主義の日本人は外国人からは以下のように揶揄されている。「周りの目を気にする日本人は常に、枠からはみ出した行動は何事も慎まなければならないと自分を縛る。たとえそれが理に適ってなくても…納得のいかないことでも建前、形式である以上、そこからはみ出すことはしない」(「「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)23 日本の「クールビズ狂想曲」」情報紙「ストレイ・ドッグ」(山岡俊介取材メモ)2005.06.13)。
しかし共同幻想は崩壊し、多くの従業員は、どうすればいいか迷っているのが現状である。ホリエモンが堕ち、働く意義は一段と揺れ動く。自分の頭で考え、自分の責任において行動することが求められている。命令されてしたことでも、責任は免れない。会社のためにも自分のためにも事実をきちんと報告することが最低限の常識である。社内の違法・不正行為をかばったり、見てみぬ振りをしたりすれば失業や更迭のリスクが高まる。
「たとえ命ぜられたことであっても、私がやったことは私がやったことなのだ。私の責任は、単に私の個人的な行為についてのみ当てはまるのではなくて、「私がやったこと」である限り、すべての行為についてあてはまるのだ」(1945年8月6日、広島上空を偵察して、「広島への爆撃を勧める」と報告した米軍パイロット、イーザリーの発言)。
法曹界では1970年代から「口笛を吹く権利」という概念が形成された。ベトナム戦争反対運動やWater Gate事件などを通じて、公的部門、金融・証券など個別分野毎に不正告発者を保護する連邦法や州法が制定された。自分の所属組織の行った不正や法違反を告発した場合、告発を理由として不利益を受けないだけでなく、それに対する報償まで認めている(福島瑞穂「ホイッスル・ブロワー」部落解放2002年04月号)。
企業に対してもコンプライアンスに対して飴と鞭の法制を採る。1991年に制定された連邦量刑ガイドラインでは社内不正を抑止する仕組みを構築している企業であれば、不正を犯しても刑法上の量刑が減刑されるが、取り組みを怠れば課徴される。1995年に発覚した大和銀行ニューヨーク支店を舞台にした不正取引事件は量刑ガイドラインが適用された。大和銀は不正を組織ぐるみで隠蔽したとして、ニューヨーク連邦地裁から当時としては最高の罰金を科された。