- 国際協力の最前線 -
作者が赴任したパナマでの専門家業務とボランティア活動
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パナマ航海学校の学生パレード           空手部の2000年度合宿


  日本は、世界商船の総隻数の約13%にあたる2,039隻、6,913万総トンの外航船をもっているが、このうち日本籍船(日本の海運会社所有)となっているものは、134隻(1,009万総トン)に過ぎず、実に1,905隻(5,904万総トン)が外国籍船となっている。 そしてこのうち1,261隻はパナマ船籍で、パナマは日本の商船を最も多く預かっている国である。
 
 パナマは、北海道ほどの小さい国土面積でありながらも太平洋と大西洋を繋ぐパナマ運河によって世界の貿易運輸に大きな貢献をしてきた。 この立地条件を利用した貿易業や海運関連サービス業などを土台としてさらに銀行業が栄え、ラテンアメリカにおける貿易拠点及び金融拠点として発達した国となった。 また一方では、パナマの優遇税制を利用するための外国船主による船籍登録が進み、その結果、1991年からパナマは世界一の船舶所有数を誇り、世界最大の海運国となっている。 (1994年船舶数は約11,000隻、7千万トン)
 

写真:パナマ市のオーシャンサイド

 またパナマ運河の利用に関しても、日本は米国について2番目の貨物通貨量を誇る利用国である。 因みに1997年にパナマ運河を通過した日本の貨物の総量は往復で35百万トンに上がっているが、これは当年に運河を通過した商業貨物全体の総量(約189百万トン)の18%に相当しており、アメリカ東海岸や中南米及びヨーロッパまで、日本から大西洋岸の港に向けて輸送される海上貨物の非常に大きな部分がパナマ運河を経由している。

 このようなパナマと日本の面白い関係が判り始めたのは、1997年に、パナマ航海学校を近代化し、船員教育の水準を向上させるための技術協力プロジェクトに、プロジェクト管理の専門家としてJICA(国際協力機構)より派遣されて、このプロジェクトに関わる海運業界の人たちを少しでも理解しようと努めてからのことである。 私はパナマにはすでに森林保全に関するプロジェクトで3年を過ごしていたが、運河や海運に縁が遠かったためか、こんな関係にはまったく無知でいた。

 パナマ航海学校への日本の協力

 パナマが世界一の海運国となったところで、この分野に必要となる人材の訓練が国際海事機構(IMO)が義務付ける基準をクリアしていなければ、海運業界におけるサービスを提供することは無理である。
 そのため、船員訓練や資格に関する国際条約(STCW)にそった訓練体制の整備や訓練水準の改善を進めていかなければならず、便宜置籍船登録とパナマ運河のサービスの大利用国である日本に協力を要請してきた。

 この要請に対して日本は、1993年10月から2000年3月まで、6年5ヶ月に渡って「パナマ航海学校」の近代化に関わるプロジェクト方式技術協力を実施した。その間、9名の長期専門家と23名の短期専門家が、運輸省航海訓練所、民間船会社、造船業界などより派遣された。


老朽化していたパナマ航海学校


日本から派遣された専門家チームと関係者たち       米軍施設跡に移転したパナマ航海学校

そして黒板に机とイスしかなかったパナマ航海学校に、航海技術や船舶機械の訓練機材(レーダーシミュレーターから、本物のエンジンを丸ごと組込んだディーゼル・エンジン・トレーニングルームまで)など日本の船員教育では基本である体制を、パナマ航海学校に整備したのである。 その上で教官たちに扱い法や指導方法の技術移転を行った。その結果、これはラテンアメリカでは一番整った船員訓練の専門大学となった。


日本の協力で作った訓練用オペレーションルームとディーゼルエンジンプラント

 さらに、2000年の技術協力終了後にはパナマ航海学校は、国際海事機構(IMO)よりSTCWの基準をクリアしている認定を受けることができたが、ラテンアメリカでは初めてのことであった。因みに日本は、タイ、フィリッピンなどでも船員教育に同じようなプロジェクトを実施し、そこで養成された航海士、機関士そして部員たちが日本船及び世界中の船に乗船している。
 日本の協力を良く評価し、親日的になった海運関係者が増えていくことは、外国からの資源調達や、工業製品の輸出など海運を通して国の産業を維持している日本にとっては重要な援助効果といえるであろう。


 専門家業務とボランティア活動

  私は1997年の5月から2000年の3月までの3年、このプロジェクトのコーディネーター(業務調整員)として、運営管理(会計から渉外、工事の現場監督他なんでも)を担当していたが、もともと教師志望だった上に、小さい頃は船乗りにあこがれた時もあったため、この仕事には結構はまってしまった。

 初めてだった海運業界の内容も、専門書や業界紙を読み、朝から晩まで日本とパナマの船長や機関士の人間たちと仕事をしていくうちに学生たちから勝手に「カピタン・イトー」(キャプテン)と呼ばれるようになったりした。

 パナマ航海学校は、船乗り特有の軍隊的ともいえる厳しい階級制があり、今ではほとんど廃れてしまった、全寮制で先輩後輩の厳しい規律がある学校だったが、学生たちは授業が終われば勉強以外にする活動は限れられており、バスケットボールやサッカーなどを遊ぶ程度で、後は上級生が下級生を集めて行進の訓練や、点呼整列などをやたらとやっていた。
 
上級生の新入生しごきは伝統的なものがあり、時には退学処分となる暴力ざたにまで進展することも多かったので、このエネルギーをなんとかもっと健全に生かせないかと学校に部活を組織することを提案し、私は学生時代夢中になっていた空手部の設立を担当した。

 本業より夢中になった空手部「海援隊」の指導

 当時パナマでは、柔道や空手などの武道への関心は高く、パナマ市内には町道場やスポーツクラブなどが多く散在し、子供たちに武道を習わせるのを自慢にしている親は多かった。
  米軍から返還された古い体育館を使って空手部を作り、日本で初めての航海訓練所となった「海援隊」の名前をつけた。そして航海学校の生徒を中心に近所の一般人や子供にも無料開放した。

  士気の高い航海学校の学生たち

パナマでは、公務員や政治家になるためには血統や家系のコネが重要であるのに対し、パナマ運河の技術職はパナマ航海学校か、外国の商船学校を卒業して乗船実績を積んで航海士か機関士となれば誰にでもチャンスがあるわけで、根性と実力の世界でもある。そういう訳で、パナマ航海学校の入学競争率は他の大学よりも高いし、入ってからも卒業までに3〜4割は落とされるので、貧しい家庭のハングリー根性のある青年たちが集っていた。

 特に海運国パナマでは運河関係者と海運関係者が社会のエリートとして様々なところで影響力をもっており、そのためにパナマ航海学校はこの国のエリートを育てる重要な教育機関といった存在であった。 こういったことから航海学校の学生たちの士気は高く、気合の入りようが他の大学生たちと格段にちがうのである。


 その中で空手部を作り、私が「やる気のないやつは来なくてもいい」と厳しく仕込んだところ、生徒の中には有段者もいれば、初心者もいたが、みんな熱心に私の指導についてきてくれ、私の想像をはるかに上回る上達が見られた。
 始まって6ヶ月後にパナマ空手道連盟より全国大学空手選手権大会への招待が来たのでいい経験になるとばかり張り切って参加したところ、初参加にも関わらず、さまざまなカテゴリーにおいて勝ち抜き、上位争いをうちの部員同士でやってしまうのが続出した。その試合後にいろいろな団体から大会への招待を受け、1年目にして大会出場4箇所で全部上位に食い込みトロフィーやカップなどが私の仕事部屋に10個以上も並んだ結果となった。
 
 武士道精神と社会への使命感

 しかし、特に満足を感じたのは空手を通して彼らに、武士道精神と職業人間の使命などについて話すことができたことである。

 私は、自然界の中で全ての生き物が自然のバランスに一役かっており、虫から草木まで無駄な存在はない以上、人間も生まれた以上それぞれ何かの役割があり、なんらかのエキスパートになれるはずだという教育信念をもっている。
   そのため、「自分の仕事に全力を尽くし、人と社会に喜んでもらえる人間になることを心掛けることで、自分の仕事が確立されていく。そして、武道を通して身につけた集中力、根気、忍耐力、礼儀、謙虚心、向上心などを自分の職業に生かせば、一流の人間となることができ、そう簡単に仕事からあぶれるようなことにはならない。」と指導し、さらに、「そうすることによって自分の夢を実現させる力を身に付け、さらに外敵にまけない人間となることができる。」ということを吹き込んできた。
 
 ここの学生たちは純粋に私の指導を受け入れ、その結果、彼らの勉強や仕事に対する意欲は高まり、私の教え子たちが各クラスの成績上位に並ぶ模範学生になったりした。そして卒業して航海士として外航船に乗船中の生徒から「世界を渡りあるきながら自分はサムライだという誇りをもってがんばっています。そして先生が教えてくれたことが自分にとっては本当に役にたっています。」といったメールをもらったりした時は目頭が熱くなった。

 ボランティア活動によって獲たもの

 国際協力専門家のパナマにおける社会的地位や立場は、現地の人間にとって雲の上の人であり、そのため特に外国人への警戒心が強いパナマ人たちから本音などはなかなか聞けないし、外国人にもパナマの実状がよく見えない大きな壁があった。
 私には言語に強い利点もあるが、自分の趣味を生かしたボランティア活動をすることによってパナマ人に溶け込むことができたのではないかと思う。

 一方では日本の専門家として、パナマ運河国際会議や、パナマ海運庁との会議や、関係省庁とのやりとりにより公式な情報や意見を得る事ができた一方、個人的に米軍関係者とも家族付き合いなどを通していろいろな情報を得ることができ、さらに学生たちをつれて安い食堂に飯を食いに行ったり、田舎の大学から招待を受けて学生たちと遠征試合に行ったりする機会や、イベントなどへの空手のデモストレーション参加に招かれたりする機会も多くあったので、幅広くパナマ人と付き合うことができた。
 そして様々な角度からパナマの状況が見えるようになったのは予期しなかった収穫でもあった。 このボランティア活動を通してパナマへの理解と愛着が深まった部分は大変大きい。

 1999年は米国がパナマに運河を返還する期限年となっていたので、米国運河管理当局と米軍基地の撤退が始まる中、アメリカや日本から返還後跡地再開発計画や、運河関係の調査団や視察団が増え、世界中からマスコミが殺到した。独立して以来、米国に依存してきた面が大きいパナマにとって1999年の運河返還は本当の意味での独立となった。 そしてこの運河を自分で管理する責任を負って、海運を中心とするサービス業に大部分を依存するパナマは経済的自立の大きな試練の道を歩み始めた。

 私は生徒たちに自分たちの祖国と国際社会に役立つ人間になる志を植え付けた。 後は彼らがパナマの自立発展のために活躍してくれるのを楽しみにするものである。
写真: 指導の締めくくりとして実施した新年合宿の終了後



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