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放浪記

【ブラジル編】>>>


Chapter 3 南米編 2 [Ecuador] 副題 《おもいきり沈没》

INDEX
2002年 1月31日『さよならキト』
2001年 1月30日『この頃キトで』
・・・・・特別企画【21世紀初日の出をコトパクシ山頂で!】・・・・・
2001年12月31日『ベースキャンプ』
2002年 1月 1日『第二キャンプ』
2002年 1月 1日『頂上目指して Vamonos!』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2001年12月22日『温泉地 バーニョス』
2001年11月24日『レイブパーティー』
2001年11月 4日『ラタクンガの祭り“ママ ネグラ”』
2001年10月23日『ペデルナレスへ臨海学校』
2001年 9月16日『ついにキトまでやって来た』




Ecuador
Sep 16 2000 - Jan 31 2001


Sep 16 2000 - Jan 31 2001 [ Quito ] Ecuador

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2001年 1月 31日(水) 『さよならキト』
ブラジルのカーニバルに間に合わせるためにはギリギリタイムリミットともいえるこの日、ぼくは大陸横断の引越しを開始した。キトでの暮らしはこの旅最長の5ヶ月間におよび、ぼくの所有物も相当な量になっていた。コロンビアを後にして以来大して弾きもしないヴァイオリンはハードケースと合わせてもたいした重さではないもののただでさえ重装備のぼくにとってはとても厄介な旅の相棒だった。それでも不思議なもので楽器をもっていると心がすごく軽くなった気分がするのだ。楽器も旅行も贅沢な道楽でしかない、ということをヴァイオリンの重さがぼくに意識させる、そんな気がしていた。
腰の悪いぼくは日本を出るときから大きなバックパックを放棄していたけど、ごついウェストストラップのついた最近のバックパックはかえって腰への負担が少ないように思えたのでエクアドル製にしては高級品といえるモデルを見つけてから悩みぬいた挙げ句にそれを購入した。 これで放浪者のぼくも移動中の間だけは少しバックパッカーらしく見えるようになったかもしれないな。

平均的に10人以上の日本人を抱えていたオスタル スークレも古株のサカモッチャン、マコチャンが出ていって以来、閑古鳥がなくように寂しくなり、今日ぼくが出て行くと4、5人しかいなくなってしまう。でもきっとまた長逗留する日本人放浪者が一人、また一人と現れて次の時代が到来するのだろうな、と思う。ぼくのいた5ヶ月間も長い歴史をもつスークレの『日本人会』ともいうべき一つの時代だったんだろう。
毎夜深夜まで語り明かした日々のいつだったか、ぼくが冗談半分で「十年後にスークレに集まって再会しよう!」といった同窓会案も、もしかしたらそれぞれの『時代』の旅人、放浪者たちの間で同じように語られたり、想われたりしてきたことなのかもしれない、そんな気がする。

自称、見送り業の世界放浪ギタリストの中村 薫が今まで見送ってきた多くの旅人たちに歌ってきた名曲『名残雪』でこの日ぼくを送りだしてくれた。
今まで見送るときはいつも大勢の日本人が集まって賑やかだったけれど今日ぼくを見送ってくれるのは薫とオギシュウ、ノリゾーの三人だけだった。
そのかわり『名残雪』でスウィート ホーム、スークレを名残り惜しみながら後にしてバスターミナルまでの道のりをその三人が皆ついてきてくれた。

最後まで馬鹿話をしながらコロンビア国境の街に向かうバスが出るのを待った。
一月に入って加速してきた農民のエクアドル政府に対する怒りはバスの運行を妨害するという行動に走らせていた。それはあまり意味のあるものとはぼくには考え難かったが、きっとエクアドルいや、ラテンアメリカではこのようなレジスタンスがもうずっと以前から続いてきているのだろう。一放浪者のぼくがトヤカク言う問題ではない。でもそのためにレギュラーのバスは全面運行を取りやめていたので旅行者のぼくたちは少々面倒な状況になっていた。
臨時便のためかバスのカラーも運転手も正式なそれには見えないがだれがどう決めたのかわからない時間にバスは出発した。薫とオギシュウが立ち入り禁止の構内まで入ってきて走りだしたバスに全速力でついてきた。バスはスピードをあげて構内のトンネルに入ると彼らは見えなくなってホッとした。ところが公道にでて信号につかまると薫とオギシュウは先回りしていてまだ手を振っていた。(グラスィアス、アディオス!)と心でつぶやいた。

バスはキトの街をでるとやがて定期運行路からはずれて石畳の農道をガタガタと進んだ。その辺りの農民はあえてバスの運行を妨害しようとは考えていないようだった。
なぜこの農道をバスが走っているのかを知ってか知らずかその珍しい光景を観察していた。 アンデスの山並みが青空の下で特に真っ白な雪を輝かせていた。一面の畑にはところどころに美しい花が咲き乱れていた。ブラジルの夢をみたかったけれどその日みたのはキトでの楽しい生活シーンだった。



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Jan 30 2001 Quito 『この頃キトで』
スークレに到着した日、挨拶も早々に「今夜、飯どうします?」ときかれた。 グアテマラのポーサダ レフヒオで古株になっていたぼくがよく到着した旅行者にきいていたのと同じ質問だったので、それがその日の晩飯のお誘いだということはすぐにわかった。
「よろしくお願いします!」と即答した。
以来、この四ヶ月すでにここでも古株になったぼくはその同じ質問を新しく仲間入りする日本人旅行者たちにするようになっている。
今スークレでは料理好きな人が多く、一週間に一度くらい食事当番をしていればあとは毎日晩御飯の時間まで遊んでいてもちゃんと美味い飯が食える。
実際はそんな人たちにインスパイアーされて最近では(自分で作ってみたい)と思うことも多くなってきた。
でもぼくのご飯はイマイチ評判がよろしくないのでみんなの顔色を伺って名乗りを揚げることにしている。
地球の裏側に位置する南米エクアドルの安宿で毎日こんなに日本家庭的な料理をしかも格安で食べているということを知ったら、世の一人暮らしの人たちがここに殺到しやしないかと心配にもなるけどせっかくだからこの驚異的な食生活の日々を ここ に書き留めておこうと思う。



photo: our principal cheff



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2000年 12月 30日(火) 『ベースキャンプ』
ハードだったコトパクシ登山から帰ってから尻が痛む。あまりにハードだったからかとにかく痔になったようだ。
海外で怪我や病気になることは何よりも避けたいことだけど非日常の連続なればこういうこともあるだろう。
それにしてもエクアドルの医者に大事なところを見せるのはどうも気が進まない。今回の登山は一生の宝といっても過言でないほどのすばらしい思い出になったが、こんなお土産はいらなかった。

 活火山としてエクアドルでは二番目の標高をもつというCotopaxi山(5,897M)にはLatacungaという街にいくつかあるAgencia de viaje(旅行代理店)で気軽にツアーの申し込みができた。
スークレに四ヶ月間も沈没している間に次の目的地が見えてきた。ブラジルだ。しかもアマゾン川を下っていこうと思う。久しぶりの旅、しかも大きな南米を横断するのだ。
 完全になまってしまった体に喝をいれるつもりでBanos(バーニョス)という温泉町へ一人でかけた。温泉に浸かってシャワー付きのホテルに泊まって美味いものを食ってまず気分をかえた。
レンタルのマウンテンバイクで60Km離れた街まで軽く下ったりもした。
だんだん気力と体力がみなぎってきた。
 Banosの町中にも旅行代理店がひしめき合っていてそこでCotopaxiツアーのことを知った。ジャングルツアーというのもあってインディオの霊媒師に怪しいものを飲ませてもらってトリップするようなのがあってかなり心惹かれた。でも初日の出をコトパクシの頂上で拝むというアイディアが浮かんでからは、ジャングルはブラジルでも行けるさと思うようになった。

 バーニョスでツアーを申し込むと車でそこまで行く事になる。それならコトパクシに近いラタクンガのツアー会社で申し込んでそこに一泊したほうが良さそうだと思いラタクンガへ向かった。
国道沿いに見つけた安宿は最低に属するランクでこれならバーニョスのホテルに一泊したほうがマシだった。ともかくチェックイン後すぐエージェンシーを見つけて料金や登山道具のレンタル、スケジュールなど細かく相談して翌日第一泊目を麓の山小屋で過ごすための手はずを整えた。

翌朝ラタクンガの安宿 Hotel Turismo($US1)をチェックアウトしてエージェンシーに迎えに来たポンコツトラックに乗って出発した。 キトへ向かう国道からやがてコトパクシ国定公園に入ってゆくと未舗装の道は美しいアンデスの自然のなかを通る。ちょっとした急流やアップダウンを慎重にクリアしながら仲の良さそうなエクドル人夫婦の旦那が操るそのポンコツはきっと彼の言う事しか聞かない気難し屋に違いないと思われる。微妙なアクセルワークとクラッチの操作で難所を次々とクリアしていく。
コトパクシ山がすぐそこに見えるところまで来るとトラックは左の原に折れるとそこには戸も窓もない山小屋というよりは廃屋というべきものが建っていた。その周囲には二人用サイズほどのテントがいくつか低木の影に見えた。ぼくはテントを貸してもらっていなかったので山小屋で寝る事になりそうだ。ぼく一人のためだけにここまで送ってくれた気の良い夫婦にGracias!を言って別れると、山小屋に荷物を置いて辺りを散歩した。雄大なコトパクシが目の前にそびえ、その中腹から蒸気が立ち昇りそのまま雲になってゆくのが見えた。雲が生まれるところを生まれて初めて見た感動でしばらく動くことすらできなかった。

 高山特有の低木が所々に生えるその辺りを歩いているとなにかの動物の頭蓋骨を見つけた。神秘的に見えたそれをお土産にしようと思い山小屋まで持ち帰った。ただの骨とはいえ国定公園内の物を持ち出して良いはずないとは考えたけどどうしてもそれが気に入ってしまったのだ。

 やがて日が山の陰に隠れると、ほどなくして、スーと辺りが暗くなりはじめた。 朽ち果てたその山小屋(というよりは山小屋跡)にはドアも窓もなく床も天井も抜けていた。
テントを持ってこなかったぼくはそこに寝袋をひいて早々と潜り込んだ。日が落ちると急激に気温が下がっていく。普段着の上から登山用のウェアーを着ているにもかかわらず、ガタガタ震えて眠れないほどに寒い。
辺りにテントを張っている欧米人たちは皆自前のキャンプ道具で完全装備しているし、皆小さなテントに二人づつペアになっているのでさぞ暖かいだろうと思われる。
(俺ってほんとに一人が好きだなあ)
子供の頃からそうだった。決して人間ぎらいなわけではないし、むしろ寂しがり屋な性格でもある。でも集団に属しているとふと自分を顧みたくなって一人になる。そしてまた『群れ』へ戻っていく。一生こんな感じの繰り返しかもしれない。

 昔、戸のあったところから冷たい夜風が吹き込む。そこから空を見上げると満天の星明かりが見える。(明日はコトパクシだ!) いつの間にか眠っていた。




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2000年 12月 31日(水) 『第二キャンプ』
寒さのために何度も目が覚めて寝不足にもかかわらずぼくの気力は充実していた。
(登頂したい!)という思いがぼくを奮い立たせた。
他の山男、山女たちもムクムクと芋虫のようにシュラフやテントから這い出して来た。 まだ朝霧が地面ちかくを風に流されている。寒いけど気分は悪くない。近くにあるという湖を見に歩いていったけれどいつまでたっても着きそうにないので山小屋へ引き返して昼に迎えに来ることになっているガイドを待つことにした。
ガイドのジープが三十分遅れてやって来た時はすでに南米流ビジネスの染み込んだはずのぼくだけど少しイライラしていた。それだけやる気がみなぎっていたということかもしれない。
一言も誤らずに『Hola! 調子はどうだい?』なんてはじめたから呆気に取られた。ぼくと他に二人のノルウェー人アルピニストを乗せて走り出したそのポンコツジープは昨日のジープに負けず劣らずのじゃじゃ馬だったから、途中でガイドの一人が押しながら進むというありさまだった。それを見て僕たちはガイドたちが遅れた理由がわかった。
アンデスの雄大な景色の中を小さなジープがぼく達を乗せて進む。ラテンの明るい二人のガイドと北欧から来たおとなしめ二人組み。そして一人、レンタルのダサくて少し大き目サイズの装備に身を包んだチーノ(東洋人)のぼく。これがそのまま登山のチームになる。ぼくは皆の足を引っ張らないようにしなければいけないと感じていた。

ようやく駐車場に到着し、斜めになったその場所から車が走り出さないように大きな石を拾って来てタイヤに噛ませると、一キロほど上方に見える山小屋まで登りはじめた。 少し登っただけで息が切れる。ここがすでに標高3千メートル以上の高地だということを思い知る。履きなれない登山靴は重くて形も足に合わない。大した装備も持って来ていないのにそのバックパックは肩に食い込む。山小屋の遥か彼方には雲を戴いたコトパクシの頂上が霞んでみえる。なのにすぐそこに見えている山小屋さえ近づいてこない。早くも弱気の虫が疼きはじめた。(これじゃ、無理か。。。)
それでも45分かけてなんとか山小屋にたどり着くことができた。 そこにはすでにノルウェー人コンビだけでなく100人近い人々が装備を解いて寛いでいた。
キッチンを取り合ってそれぞれのチーム毎で食事の支度に余念がない。

日本人数名のチームを見つけた。ぼくよりも年配の人たちだけど装備や話の内容を聴く限り経験豊富なアルピニストらしい。話し掛けてみると二日ほど前に日本からキトに着いたばかりだという。いくら登山に慣れているとはいってもジェットラグも治らないうちに標高3千メートル以上の街からでてきて5,897メートルの山に登るなんて無茶もよいところだと思った。
年末年始の休暇を利用して、よい思い出をつくりたいという気持ちもわかるけど、果たして彼らと山頂で喜びを分かち合えるのだろうか?

ぼくのチームはガイドがローストビーフ、ポテトサラダにパンのご馳走を用意してくれた。食事が終わってしばらくすると、各自二階へ上がって簡易ベッドで十二時まで仮眠を取る。つまり正式な年越しはベッドの上ということになりそうだ。そしてアタックも真夜中に開始することになるのだ。しばらくは興奮して眠れなかったが、程よい疲れ、そして昨夜もよく眠れなかったことが幸いして何時の間にか眠ってしまったようだった。




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2000年 1月 1日(木) 『頂上目指して Vamonos!』
目が覚めた時は少しも眠った気がしなかった。が、寝ぼけることもなく時計を見て冷静に今自分がいる場所とこれからするべきことが理解できた。短い時間で去年一年を振り返りながら登山の準備をはじめた。そして今年の抱負は山頂で考えるぞと思っていた。失敗することは考えなかった。登山用のウェアーを着ていなかったらとてもこの寒さには耐えられないだろうと思われるほど山小屋の外は、(しん)と凍てついていた。西暦二〇〇一年一月一日深夜一時二十分、アタック開始。何段か階段を登ると、あとはもう人工物のない雪の山肌が星明かりの下に広がっていた。98年に登った富士山とはずいぶん違う。

 1998年夏、一人の女性と三年越しの恋に終止符を打って富士山に登った。新五号目に車を停めてほとんど小走りで約3時間。夏の富士は登山家よりも素人のほうが多いようだったけど登頂するまで何十人も抜いた。(たった一人だけぼくよりも数段早いペースで登る超人を見たが。)そのことがぼくがたったひとつ自分を励ます材料だった。
ところがこの山はまるで(そんな物はお遊びだ)、とぼくに言っているようだ。 雪のせいだけでなく、その斜面があまりにも急であるためにピッケルなしで登るのは不可能といえた。そして一歩一歩を確認しながら登るという超ローペースにもかかわらずぼくだけでなく月に五回も六回も登るというガイドたちですら息を切らしている。

満天の星、眼下に見えるキトの明かり、初めての雪山、そして深夜の登山。ウキウキする気持ちも、やがて(おれは何のためにこんなことしてるんだ?)というやるせなさに変わっていった。
ただ、ぼくの足を動かしていたのは、(頂上にはきっとすばらしい何かが待っている)という空想だけだった。それですら一体何なのか、いやそんなものがあるっていう保証すらどこにもなかった。なのにぼくは登り続けた。

ぼくが休憩を求める回数が増えてくると二人のヨーロピアンアルピニストたちはガイドを一人つけて先行しはじめた。ぼくはもう一人のガイドを専有することになった。『ゆっくりでいい。駄目なら無理はするな。一緒に下りてやる。』というガイドと100メートルに一回は休むぼくはいろいろ話をすることができた。彼はコトパクシには数え切れないくらい登っているけどいつかヨーロッパのアルプスに登ってみたいと言っていた。エクアドル人の雪山ガイドには夢のようなはなしだろうに、ぼくも彼が夢を叶えることを願った。

空が白みはじめ山の向こうに太陽が登った頃には眩しい銀世界が現れた。肉体的疲労は限界を超えたように感じていたけど、目の前に広がった白銀の道行きはぼくの心を完全にリフレッシュしてくれた。心持ちペースもあがった。ひたすら壁のような急斜面を登って来たが、たまに下りも現れるようになった。どうやら富士山のようにまっすぐ頂上までいけないらしい。
(あそこが頂上か)、と思ったところに着くとその先にまた別の頂上が見えてくるという繰り返しだった。そのかわりクレバスや張り出した段やらなにやらが次々に現れて目を楽しませてくれる。暗闇の中をおでこにつけた小さなサーチライトで進んでいた時の気の小ささが嘘のように、眩しいほどの雪中行は、もうぼくを惑わせることはなかった。頂上目指して、ただ、ただ登るだけだ。

そう思いながら、また一山越えると突然ものすごい急斜面が目の前に現れた。ほとんど閉口するほどの斜面だった。でもすでに数十人に及ぶ他のチームたちがその壁に張り付いていて、新雪の斜面に足場を作ってくれている。ぼくは彼らの足跡を辿っていけばいいのだ。毎日新雪に覆われるコトパクシのその斜面をその日最初に登るのはきっとベテランのガイドに違いないけれど、同じ登るのでも一番目の彼と二番目以降のぼくたちではその難易度は比較にならないだろう。
足場があるからといっても、それは実に頼りのないものでちょうど足のサイズしかないのだからみんなでそこを踏んでいるとたまにどさっと崩れ落ちることもある。ピッケルなしでは到底登ることはできない。素人のぼくにはガイドと連結されたザイルも心強い。だけどそれはあくまで命綱であって転落は絶対に避けなければならないからぼくも必死だ。
あたりはすっかり明るくなって雪は光り輝いているけど、太陽はまだ頂きの向こうに隠れている。 今年の初日の出は太陽が昇るのを待つのではなくて、自分で山を登ってゲットするという感じになった。

 そして目の前の壁がなくなったところは、今度こそ、間違いなく、標高5,897Mのコトパクシ山頂だった! 欧米のアルピニストたち、エクアドルのガイドたちと一緒に、一人、日本人のぼくがいた。感動を言葉で伝えたかったけど、なんといってよいかわからない。
朝8時。西暦2001年1月1日、その日はじめて見た太陽はもう天に向かう途中まで登っていた。360度のパノラマは銀世界の山頂と不気味なほど青い空とその下に広がる雲海、その雲海の下には大きいはずのキトの街が米粒のように小さく見える。
 (俺はやったんだ!)この光景を見るためだけに高い金を払い、命の危険を冒し、何時間もかけて険しい雪山を黙々と登ってきたんだ。ほんの二、三日前まで葉っぱ漬けで、『キツイことはしない、やりたいことだけやる』を身上に生きていたこのぼくが。 あのキトの安宿の屋上から、コトパクシをボーと眺めて暮らしていたぼくが、今はその山の頂きからキトを見下ろしている。時間と空間は変わったけれど、その瞬間二人のぼくが存在してお互いに見つめ合っていた。どちらが本当の自分ということではなかった。またどちらが理想というのでもなかった。いろいろ経験したくて旅にでた。そしてぼくはこのとき、最高に満足していた。






photo:New years day of 2001 in Quito




photo:En la cumbre del Cotopaxi




photo: Quito esta abajo




photo:Nosotros com Jazmin en el Fuji




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2000年 12月 22日〜30日 『温泉地 バーニョス』
キトからバスで数時間の温泉地バーニョスへやってきた。マコチャンから聞いていた『モントヤ』というホテルへチェックインするとシャワーを浴び、エアコンとテレビをつけた。キトの安宿ではそのどれも部屋にはついていなかったので久しぶりに文明人を満喫した。
窓からは緑の山が見え、静かなその町にはどこからか滝の落ちる音が聞こえてくる。
町へ出てみやげ物屋や旅行代理店を横目に歩きながら滝の方へ向かった。途中でレストランに入りピザを食べた。美味かった。この町は欧米人旅行者が多いのでレストランなどは彼ら向けの味付けにしている店が少なくない。ただその分割高ではあったけど、長いことキトにいたぼくには新鮮でよかった。
ホテル『モントヤ』はきれいだし設備も文句ないものだったけれど、ぼくはどうしても部屋から滝の見えるホテルに移動したくなった。
ヤスが滝の目の前の高級ホテルで何日間もこもっていたという話をきいて以前から(いいな)と思っていたからだ。
そのホテルはぼくには高すぎたし、ぼくはどちらかといえば公園前のホテルでテラスから通行人などを眺めるのが好きだったのでそちらのホテルにした。滝も見えるし、夜中も間断なく響きつづける滝の音を聞くに堪える程よい距離に位置していた。町の中心で買い物にも便利だった。コンセントにウォークマンと小型スピーカーをセットして音楽をかけながら葉っぱを吸った。腹が減ったらキマったまま降りていってレストランで飯を食い、菓子を買って部屋に戻りまたキメた。女がいたら文句なかったけどいなくても問題なかった。
温泉は10日間の滞在中たったの二回しかいかなかった。ひとつは滝ノ下のプールみたいなやつで滝を見上げながら入る湯は少しぬるかったけどオツではあった。
もうひとつは町外れのほうまで下っていったところにあって地元の子供の遊び場という感じのところだった。飛び込んだり、泳いだり潜ったりしてこどもと一緒に遊んだ。

スークレで知り合った中西夫妻と町でばったり出会った。夜サルサバーにご一緒して踊った。夫妻のぴたりと息の合ったダンスはカッコよくて注目の的だった。ちょっと結婚したいなと思ってしまった。

マウンテンバイクをレンタルして60キロ離れた隣町まで山間を下った。途中大雨に降られたり、悪魔の口という名の迫力ある滝を見たり、籠に毛の生えたようなロープウェイに乗ったりしてそこまで行き、地元料理を食べて帰りはバスに自転車を積んで帰った。

動物園にも行った。標高三千メートル以上のアンデスの上だというのにガラパゴスゾウガメやアマゾンにいる珍しい動物がたくさん見れた。エクアドル人の親子連れで賑わっていた。
観光地であるガラパゴスに行けるエクアドル人はほんの一握りだけだろうなと思った。
たまたまそこの館長と会って話を聞くことができた。
こんな高地にエクアドル中の動物を集めて飼育するのは大変なんだ、と言っていた。どう見ても普通のおじさんにしか見えないけど大した行動力だと感心した。ガラパゴスゾウガメをどうやって運んできたのかは聞かなかったけど果たして高山病にはならなかったのだろうか?

スークレの人間関係に疲れてクリスマスではあったけど一人になるためこの温泉地に逃げてきた。が、一週間が過ぎた頃もう寂しくなってきた。まだ楽しみたいという気持ちともう帰りたいという思いが拮抗していた。旅行代理店には『ジャングルツアー』『ラフティング』『コトパクシ登山』などのアトラクションが宣伝されていた。ジャングルに入ってシャーマン(祈祷師)に 除霊してもらうのも悪くないと思ったけど、ふとある考えが心に浮かんだ。(初日の出をコトパクシの山頂で見られないだろうか?)というものだった。

次の日ぼくは荷物をまとめるとキト行きのバスに飛び乗った。キトに帰るためではなく、その途中にあるラタクンガという町に行くためだった。そこはコトパクシ山登山のベース基地となる場所だったからだ。
バーニョスというこの愛すべき温泉町をこの次訪れるのはいつの日になるだろう。




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Nov 24 2000 Quito 『レイブパーティー』
先日グアプロという場所でレイブパーティーがあるときいて出かけたときはその谷あいの町を探し回ったけれどついに見つけることができなかった。フルムーンパーティーでもあったので満月が山間に隠れて行くのを見て悔しかった。
次の満月までオアズケか、とがっかりしていたらそれから数日後にヤスが新しいレイブ情報を仕入れてきた。同じグアプロなのでまた見つからなかったらどうしようと思っていたけど今回は見つけることができた。そこは山に囲まれた谷の中腹に張り付いた高給住宅街で(なんでこんなところで?)と不思議になるような場所だった。高いフェンスで囲まれた駐車場の中にテント屋根が設置してあって、その下に大型スピーカーやその他の電子機器が置かれていたのはそのあたりにでる霧を避けるためだということに今更気がついた。

スークレに住んでいるヒッピー家族の若妻カリーナが旦那と小さな息子アンパロを放って遊びにきていた。ぼくたち日本人宿泊者は皆アンパロを愛していたので最近不仲に見えるその夫婦が心配だった。子供のときに両親の離婚というものを経験しているぼくにはなおさらだった。

カリーナはマリファナを吸いながら気持ちよさそうに踊っていた。彼女が連れてきたエクアドル人の女の子は可愛かったけど少し様子がおかしかったのであまり話し掛けなかった。
皆でトリップしながら踊っているといつの間にかカリーナがヤスの唇に吸い付いていたので驚いた。若いのに子供連れでヒッピーの旦那と一緒にアクセサリーを作って路上で売りながら放浪生活を送る彼女の気持ちもわからなくはないけどぼくにはまだ小さいアンパロが気になってしょうがなかった。そんなわけで今回のレイブはなんとなくブルーだった。
そして数日後ヤスがスークレから出ていった。



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Nov 4 2000 Latacunga 『ラタクンガの祭り“ママ ネグラ”』
スペイン語学校のエクスカージョンでキトからバスで1時間ほどの町ラタクンガへ行くことになっていた。前夜も目いっぱい吸ってぐっすり安眠していたので寝過ごしてしまった。集合場所の学校はホテルの目の前だったので呼びにきた。
生徒、教師総勢11人のグループになった。『ママネグラ』(黒人のお母さん)という名の高さ3メートルほどの人形が町を回っているのを観た。若者たちの喧嘩も観た。祭りと喧嘩は密接な関係を持っていることを地球の反対側で学んだ。
なにより愛しのエリーと遠足にこれてうれしかった。

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Teachers of the San Francisco Spanish School
Secibel, Paul, Janeth, Elyzabeth, Silvia

Students
Miguel, Katia, Sonya, Cristo, Marco and I
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photo:I made Sushi dish



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Oct 23-27 2000 Pedernales 『ペデルナレスへ臨海学校』
キトからバスで6時間もかかるペデルナレスへの臨海学校に参加した。サンフランシスコスペイン語学校の連中とはアミーゴ感覚の付き合いだったのでこれは楽しそうだと思ったから参加することにしたのだ。
少しも洗練されていない小さな町。カリブ海側と違って日本と変わらない太平洋の黒い海。おまけに着いたときは曇り空だったので記念写真を撮りながら4日分の着替えなどが詰まったバッグを抱えてバスを降りた町中からかなり離れたカバーニャまで歩きながら来ないほうが良かったかな、と少し後悔していた。
パティエの椰子葺き屋根にハンモック、といえば結構リゾートっぽいけれど、小さくてきれいとは言いがたい部屋には二段ベッドが二つ入りその奥には便座のないトイレと水しかでないシャワーがあったのを見ると(もっとマシなとこはなかったのか?)と思わざるをえなかった。

とにかく一応勉強という名目も引っさげてきたので教師、生徒それぞれ1対2のグループになり海風のそよぐ中庭で結構難しい動詞を教わったりした。

宿の飯は欧米人と日本人のぼくにとっては高級とはいえないまでも魚などでてぼくにとってはなかなかのご馳走だった。
とまろうとするハエをはらいながら食べる甘く熟したフルーツもうまかった。

車高の高いバスのさらにその屋根の上に立って舗装していない道で滝を見に行ったり、岬の先にある『愛の洞窟』を見に行ったり、無人島へ上陸しに行ったりと人を遊ばせるのが上手いパウロたちによってすっかり子供の感覚を取り戻させてもらった。ドイツの看護婦コンビカティアとソニアもすごく楽しんでいたようだ。ぱっとしないアメリカの消防士マイケルもきっと楽しんだに違いない。

最後の晩に地元の見たこともない魚を使ってチラシ寿司モドキを作って皆に振舞った。宿のおばちゃんも含めてみんなに大好評だったのでとてもうれしかった。
とても良い思い出ができ学校の皆にお礼を言いたい。 ムーチャ グラスィアス!

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Teachers and staffs of the San Francisco Spanish School
Paul,Fredy, Gissera

Students
Miguel, Katia, Sonya and I
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photo:En la playa de Atacame con mis amigos



photo:En el techo de chivas


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Sep 16 2000 Quito 『ついにキトまでやって来た』
ついにキトまでやってきた。4ヶ月前、グアテマラの古都アンティグア グアテマラのポウサダ (宿)レフヒオに沈没していた頃に南米から北上してきた日本人パッカーにその噂を聞いて以来 この日を楽しみにしていた。グアテマラ3ヶ月間の滞在をほとんど同じそのホテルで過ごしたぼくは出発前2週間でグアテマラ国内を小旅行して、中米とは比べ物にならない大きな南米への旅の準備運動とした。
途中コロンビアの魅力に取り憑かれてもはや脱出不可能かとも思ったけどそこから脱して今日ようやくこのエクアドルの首都であるキトに着いた。

アンデスの美しい山並みを縫って走るバスは標高3千メートルに近いこの高地で酸素の薄い空気を思い切り吸い込みながらガソリンエンジンを激しく燃焼させつつ走る爆音バスだった。
途中通り過ぎた街は地図によるとオタバロだろうか?
キトはどんな街かと思っているとほどなくしてこれに違いないという大都市にバスは滑り込みその街の端からバスターミナルまでは30分ほどもかかった。
南に向かうバスの両脇、東西は山が迫っているけどその間の広大な平野にキトの街は広がっていた。

グアテマラできいた噂。朝起きて葉っぱを吸って一日三食美味い飯を食い、スペイン語学校はそこかしこにあり、しかも低料金。遊びたければボーリング場、カート場、ディスコ、サルサバー。サルサ教室にテコンドーの道場。ショッピングモールに行けばなんでも手に入る。
女が欲しければわずか2、3ドルで抱ける娼婦街は旧市街の安宿オスタル スークレの目と鼻の先にある。もっと上等なのもいくらでもある。温泉地も近く気が向けばガラパゴス諸島へのショートトリップもできる。旅行代理店はキトの新市街にいくらでもある。
ちょっと思い出すだけでもまさに天国だ。ぼくにこの情報をくれたあの日本人パッカーはきっと天国を宣伝しにきた天使だったのかもしれない。

バスターミナルからその安宿スークレまでは徒歩でもほんの15分ほどだから荷物は重かったけど歩いて上り坂を登って向かった。大きなプラサ(広場)をもつサンフランシスコ教会の隣にその天国の門スークレはあった。一階のテナントは玩具屋で脇の階段を登ると踊り場のミラーに鉄格子の門が映り、その向こうで「Hola! Como esta!?」と必要以上に大きな声のエクアドル人の男が言って近づいてくるのが見えた。鉄格子のところまで階段を登り
「Tiene・・・・・?」(部屋ある?)と聞いている最中に「Hoy no hay habitacion・・・・・」(今日は満室だ。・・・・)と予想外の返答にあっけに取られているとすかさず「Hasta manana!」(また明日おいで!)とヒステリックに叫んでいる。声は馬鹿みたいにデカイのに眼鏡をかけたその顔は優しくどこまで本気でどこから冗談だかわからない男だ。
圧倒されっぱなしでそこを出て、日の暮れだしたキトの旧市街でホテル探しをしなければならなかった。バスターミナルからすぐのところに手頃な宿を見つけて一泊申し込んだ。薄暗いけどテレビ、エアコン、シャワー付きで悪くない。スークレではそれらは全て共同と思われるけど、料金は4分の1だ。明日は空室がでると良いけど、と思いながらコロンビアから国境を越え、入国時に管理官の警官たちと揉めてなんとか潜り抜けてきた今日を振り返り(疲れたな)とつぶやきながらやがて寝入った。天国を夢みながら。



photo:En el cerro de la Libertad


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