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     Chapter 4 アジア編[Japan]
副題 《日本とはアジア編の第一章也》



INDEX
2005年 8月 25日 更新 『放浪者の SLOW WORK』
2005年 7月 1日 『え!坂もっチャンまで?』
2003年 6月 1日 『外人ハウス卒業?』
2003年 3月23日 『アメリカ大使館前抗議デモに参加』
2003年 1月30日 『海の向こうで戦争が始る』
2003年 1月21日 『千早赤坂村へ』
2002年12月 1日 『また一人ギタリストの友を・・・』
2002年 3月 4日 『薫が死んだ?』
2002年 2月18日 『マジックマッシュルーム』
2001年12月14日 『アミーゴ』
2001年12月13日 『社会人復帰』
2001年10月17日 『大阪で』
2001年10月11日 『帰ってきた!』


Japan
Oct 11 - Now On



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Jul 20 2005 『え?坂もっチャンまで!』
マコちゃんからメールが来た。坂もっちゃんが死んだという噂が坂もっちゃんのホームページの掲示板に載っているというのだ。誰かが死んだという類の噂は海外放浪者たちにとっては珍しくもないことだ。その反面、誰かが死んだというのもたまにあることだ。安全な日本にいるよりも非先進国の安宿で暮らしているほうが死ぬ確立が高いのはある意味で当然のことだろう。
だけど、ボクはその噂を聞いた段階では全く信じていなかった。なぜなら、人にはそれぞれ持って生まれた生命力の違いがあり、それは単純に健康な体と強い意志を持っているというだけのことではなく、何か、運命付けられた各人の『命の期限』とでもいうようなものであり、ボクにはそれがある程度見えるのだと思っていた。
もう二回忌を重ねた中村 薫や、ヒデも天才肌という意味においては坂もっちゃんと同様だけど、(こんなことを言っても良いものかは疑問だが)、あの二君は浮世に対する未練よりも三途の川の向こう岸へ対する興味のほうが強いという御仁だったように、今になってみれば思うのである。
ところが、坂もっちゃんといえば、遊んでも遊んでもこの世が楽しいというような男だったので、ボクにとって『坂もっちゃん死亡説』はまったくもって信じがたいデマにしか思えなかったのだ。
だけど、皆に愛された彼の大事なホームページのその掲示板に、そのような性質の悪い噂を書く奴なんているはずもなく、つまり、坂もっちゃんは本当にあの世へ行ってしまったらしいのだ。

急性膵炎なるものがどのような病気なのか、あるいは病気ではないのかということさえわからないまま、ボクは坂もっちゃんと同じ時期をキトのHOSTAL SUCREで過ごした共通の旅友達である、マコっちゃん、坪ちゃん、キヨシくんと本庄で執り行われた坂もっちゃんの告別式に参列してきた。現地ではやはりスークレつながりのユージくん、ヒロコちゃんとも会った。死因についてはスッキリしないものの、大学を出てから一度も就職せずに、海外で思う存分遊び過ごしてから逝った坂もっちゃんの生き様は残された旅好きたちには気持ちの良い後味を残してくれた。
たとえ日本にいて、日々仕事に追われていたとしても、ボクたち放浪者にとっては人生そのものが旅なのであり、それはきっと死んでも終わらない長い長いものなのだ。
坂もっちゃんのことを思い出すたびにそんなことを考える。





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Jun 2 2003 『外人ハウス卒業?』
マッサージ屋を首になり、その後仕事を探す気がなくなった。
別に落ち込んだからでも、ましてやフテ腐れているいるわけでもない。
35歳になってみて気がついた、求人誌の『年齢:〜35歳』という仕事の多さ。それもプレッシャーになり、(俺はこのままでいいのか?)と、あらためて考え直した。
中途半端にフリーターをしている間にずいぶんと貯金も減ってきた。
ここいらで一発勝負にでるべきか?

この2週間、中央線沿線の不動産屋、賃貸物件を回り歩いた。
新宿から八王子まであらゆる可能性を模索してみた。
一番やりたいのは外人ハウス。
理想は元会社の寮のような大きな建物だけど、それを賃貸できるほどの資金はない。 せいぜい自分の家賃が浮く程度の規模なら4LDKほどの一軒家を借りて一部屋を5〜6万で又貸しすればいい。だけど一軒家を借りるには「ちゃんとしたところにお勤め」で「ご家族の方とのご同居」で「その親族が保証人になっていただく」ことが条件ということはどこの不動産屋でも言われた。
金を払えば良いという問題じゃないらしい。

外人ハウスの建物の一階でカフェバーなんてできればさらに収益が見込めると思っていたこともあって、それとは別に純粋な『店舗物件』も見てみた。
荻窪に賃料10万で居抜きの喫茶店を見つけた。
さらに偶然、その至近に8万のスケルトンを見つけた。そこは『はじめ6ヶ月の賃料が無料!!』という信じられない好条件だ。こちらは飲食店には向かないのでやるとしたら第3候補のリサイクルショップか。

この2件が他では見られない群を抜いた好条件だったために、それ以上、物件を探す気がなくなったしまった。どこを見たってその2件とは比較にならないのだ。
今借りている部屋の退去期限がすぐそこまで迫っているというのに、ぼくは2週間の疲労が溜まり、脳の動きが止まってしまった。まるで狂牛病にでもなって脳がスポンジ状になってしまったような気がする。

今のぼくは1年半前、あの南米の小国で陥ったトラブルと同じくらいに取り乱している。
あの時はロストバゲージされたまま出国を命じられ、自分の思い通りにならなかったという意味でヤバかったが、今回はいろいろな選択肢があるにも拘わらず、気力が萎え、思考力が『0』と言ってよいほど低下しているのだから、やっぱりヤバイ。

何もかも放っぽりだしてどこかへ逃げたくなってきた。
周囲の友達は「とりあえず喫茶店やりなよ」という奴や「バンコク3万5千円だよ」とか「ローマ5万5千円だって!」とかそれぞれ好き勝手言ってくれるので余計にフラフラしてくる。 食欲までなくなって、ここ最近太った4kg分の体重も元に戻りそうだ。

そもそも仕事がうまくいかないから外人ハウスを出て自営しようなんて考えだしたのだ。 退室のカウントダウンが聞こえてきそうな今日、(いっそ社員寮のある仕事でも探すか?)という新たな選択肢も見つけた。

それと同時にトランクルームやマンスリーマンション、はたまた、自動車を買って涼しい地方へでも行こうか?なんて突拍子もないものまで思いつき、思考もできないのにアイディアばかりが頭の中をグルグルと回り始めた。

オレの頭は本当にどうかしてしまったみたいだ。もともとIQが低い上にさらに悪化してしまったのか。これは病気だ。このまま退室日まで無気力のまま部屋にこもり、最終的には『篭城』して機動隊に発煙筒を打ち込まれて踏み込まれ、そしてSWATに射殺されるのか? 嗚呼、やっぱりオレはどうかしちまったんだ!

最終的にどうなってしまうのか? 次にこの手記が更新されるのはいつになるのか?
今はぼくにもわからない。





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Mar 23 2003 『アメリカ大使館前抗議デモに参加』

前夜、以前のハウス仲間中心の飲み会の席で友達のランディが「アシタ、アメリカ タイシカン デ コウギスル。イキタイ?」と誘ってきたので暇を持て余していたぼくは二つ返事で「行く!」と答えた。が、翌日になってダブルブッキングしていることに気がついた。
今のハウス仲間、ユーサクと「晴れたらサッカーをしよう」と約束していたのだ。
「ごめんランディ、サッカー終わったら行くよ。」と電話で謝り、小金井公園でのミニサッカーを楽しんだ。想像していたよりもずっとレベルが高かったのでつい本気で走り回って、気がつくと汗まみれ、枯れ芝まみれ、そして下半身がガタガタになっていた。
ヨロヨロと自転車をこいでハウスに戻り、シャワーを浴びてスーツに着替え、ランディにメールすると、もう大使館のある溜池山王から吉祥寺まで帰ってきているという。もうデモは終わったのかときくと、「I DONT THINK IT'LL GO MUCH LONGER」という答えだった。
それでもタカラ、亜紀とメールや電話で相談しつつ、現場へ行ってみることにした。
新宿でタカラと合流して仕事先から現場へ直行した亜紀にシシケバブを買ってから向かった。

渋谷経由で溜池山王駅につき、改札側の周辺地図で場所を確認してから向かった。
途中休日深夜の人影のまばらな路上のそこかしこに機動隊員が立っていた。
その先、共同通信社ビルの前に人だかりができて遠くまでタイコの音が聞こえてくる。
コンビニで飲み物も手に入れて、近づくほど多くなる機動隊員と目を合わせないようにして、とうとうその『アメリカ大使館前に集う人々』に合流することができた。それはわずか十数人だった。そしてそれはいわゆる『全○連』とか『○労連』とかという組織のデモではなく、ただ(なにかしなくちゃ!)という想いに駆られてやってきた人々の集まりだった。
日本のプロ野球でもお馴染みで集団統率的なタイコを使ったシュプレヒコール。
「アメリカ帰れ! ブッシュは戦争を止めろ!小泉の馬鹿野郎!」という音頭取りにつづくオウム返し。そんなものにはどうしても同調することができず、かといってここまで来ておいて叫びたい言葉も、ぼくはまだ見つけていなかった。

『戦争と平和』を纏めてトルストイは「この戦争はナポレオンがいなくても他の誰かがやったに違いない。」と言っているようにこの戦争もビン・ラディンやフセイン、そしてブッシュがいなくてもきっと起こったに違いない、というのがぼくの考えだ。
何十人、何百人などという単位ではなく地球規模で起こる人間社会の事象は個人がどうこうできることではなく、その複合的で生物のように蠢く複雑なシステムの上で必然的に起こっているに違いないのだ。だから戦争は誰にも止めることはできない。
だからこのデモでアメリカの大統領やアメリカという人種や民族に拠らない国家システムに向かって一生懸命叫んでみてもその声はビルの谷間に虚しく響いて吸い込まれ、そして消えてゆくだけなのだ。今世界中で叫ばれているこの反戦運動を尻目にアメリカとイラク、そして日本も含めた様々な国の間で戦争は始ってしまった。

タカラは携帯電話で友人との会話、ぼくと亜紀も皆と一緒に叫ぶことはしなかった。
叫んでいる人達にしても一様の意見を持っているわけではあるまい、が、彼らは声をそろえて叫び続けている。ぼくはそれに参加してはいないが、非難することもなかった。
そこに集まっている人々の一つ一つのイデオロギーが素晴らしいのだと思えた。
今ここに集っている人々の数は日本の人口の1000万分の1にも満たない。反戦運動に参加しない人々の多くは(たかだか数百人、或るいは数千人集まったところで戦争は止まらない)ということを知っているのかもしれない。しかし、ぼくは気がついた。
ぼく一人でも世界は変えられる 、と。人間にとっての世界とは、人間社会というシステムではなく、むしろそれは一人一人が持つ自己の世界というものの中の一部に過ぎないのだ。
つまりぼくが言いたいことは、自分が戦争はイケナイ、戦争反対! という意思を持ったのなら何かアクションを起こすべきだ、ということだ。
その瞬間、自分の内面から世界はガラリと変わる。
戦争は止まらない、自分は無力だ、そんな風に頭で考えていては駄目だ。
戦争は嫌いだ!と自分自身に叫んでみるべきだ。

眠気と疲れと寒さに苦しんでいたぼく達はデモに参加する一人一人の顔が覚えられるほどしかいない頭数の中にいて帰るに帰れなかった。そんな時にメガホンを持って先導していた一部の若者を中心とする人達が「それではこの辺で中締めにしたいと思います。」と言ってから参加者一人一人にメガホンを回して好きなことを叫んでくれ、とのたまった。「戦争はんたーい!」とか「ブッシュは戦争をやめろー!」などと、一人が一言ずつ叫んでいる。ぼくの手前の亜紀は「WAR IS NOT THE ANSWER!」と叫んだ。ぼくも彼女のように横断幕に書いたままを叫んだ。
「LOVE & PEACE!」 ぼくの次の女性は「一言だけじゃなくてもいいですか?」と前置きしてから自分の反戦に対する考えを一、二分間話した。それ以降みんな数分ずつ話すようになったのでぼくも(一人ずれてたら思いっきり語れたのに!)と歯噛みした。
戦争に対する考え方は人それぞれで、中には受け入れられないものもあるはずなのに、不思議とその中で語られる一人一人の言葉はすんなりと受け入れることができた。
なぜだろう?と、思った。きっとぼくの世界が既に変わっていたからだ。 素人の考える戦争抑止の技術についてが語られたとしてもぼくがその言葉の中に捉えているは(戦争は嫌いだ!)という『一人一人の気持ち』、だったからだろう。

一人一人の世界が変わっていけばシステムとしての世界も変わっていくかもしれない、というのは夢見がちな理想主義者の戯言かもしれないが、デモ参加者の一人が言っていたように、我々は少ないけれど、少なくても『0』ではない、ということなのだ。ゼロにいくつかけてもゼロだけど1は10になりやがて1000になり億になるかもしれない、少なくともその希望は持てるのだ。そんなことはありえない、という人の中ではいつまでたってもそれは実現しないが、あるかもしれない、と思える人にはそれは実現するかもしれないのだ。

一生懸命にこの戦争を止めさせようとしている人達の中にいながら大変失礼なのだが、ぼくは未だに戦争は無くならないと考えている。しかしぼくはたとえ最終的に世界戦争の犠牲となって死ぬ運命になったとしても、もう後悔しないであの世へ行けるだろうと思えるように、この日なった。 これはアメリカ対イラクではなく、『戦争』対『平和』という、人類史をとおして通用する構図だと考えたとき、自分はいつも『平和』を取るんだ、とハッキリと言えるようになったのだから。
そして今日ここで出会えた『意思』をもち『行動』を起こした人々の魂に触れることができてぼくは幸せだった。ありがとう、という言葉が自然にでてきて、周りにいた人達と握手をして別れ、ぼくたちは帰途についた。





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[ Japan ] Tokyo

Jan 30 2003 『海の向こうで戦争が始る』

『The Septenber 11』の主犯であるというウサマ・ビン・ラディン率いるアルカイダの壊滅ができないブッシュ政権。
アメリカ国民の怒りがまだ自分の票にできるうちにその矛先をいつの間にかイラクのサダム・フセインに向けた。
ジョージ・ブッシュとサダム・フセインの個人的な確執は有名だ。
イラクを『悪の枢軸』と呼ぶアメリカ大統領ジョージ・ブッシュ。
しかし、フセインを叩いて喜ぶのはアメリカ国民よりもむしろウサマ・ビン・ラディンとも言われるのにブッシュはなぜこのように戦争をしたがるのか。
世界第二位の産出量を誇り、しかもまだ調査すらされていない広大な土地をもつイラクの石油利権を強奪しようというのがブッシュの狙いだとするならアメリカこそが『悪の枢軸』になってしまう。
世界中が戦争反対を叫ぶ中、アメリカは何をしようというのか?
こんな馬鹿馬鹿しい茶番がこの21世紀に行われていていいのか?
イラク国民の立場になって考えてみればこんな理不尽なこともない。

大量殺戮兵器に関する国連の調査に応じようとしないフセイン政権のありようにも一過言がないわけではない。が、それが小さな事に思えるほどブッシュの手口は悪どすぎる。

まるで第二次世界大戦を起こした日本の大本営ではないか。アメリカがイラクの油田を制圧したらその利権を他の先進国に分配するという甘言をもってこの強盗計画の協力国を募っている。 ぼくたちの国のリーダーは?
ドイツのシュレーダー首相、フランスのシラク大統領、ロシアのプーチン大統領がそれぞれ戦争に向かうアメリカに対してそれをするべきではないと非難している。
我が国の小泉純一郎首相はこの件に関してはこわれものを扱うようなコメントしかしない。
やはり日本は戦後GHQに徹底改造されたアメリカの植民地だったということだ。

アメリカにも反戦を叫ぶ人々が大勢いるが報道されるのはブッシュの後ろで拍手をする人々ばかりだ。その人達に良心や良識がないとは思えない。踊らされているのだ。
真珠湾攻撃に踏み切った当時の日本人と同じだ。踊らされてはいけないんだ。十年後に後悔しないために。
世界で唯一の原爆被投下国という悲しい歴史を持ちながらも防衛を目的に未だ軍事力を維持している日本。小さなことでもその都度より良い方向へと向かうべく国民の気持ちをぶつけていかなければ我々はきっとまた同じ過ちを犯す。歴史は繰り返すのだ。でもそれを諦めてはいけない。 悲しい歴史を繰り返す必要はない。

自分が無力だと思うのならジョン・レノンを聞くだけでもいい。
今、ぼくたち一人一人が64億分の1票を投じるべきだ。







Japan
Oct 11 - Now On


CHECK OUT THE REAL SITUATION
NATION WAR AGAINST NATION
WHERE DID IT ALL BEGIN, WHEN WILL IT END
WELL IT SEEMS LIKE TOTAL DESTRUCTION
THE ONLY SOLUTION
AND THERE AIN'T NO USE
NO ONE CAN STOP THEM NOW
AIN'T NO USE NO ONE CAN STOP THEM NOW


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[ Japan ] Osaka

Jan 21 2003 『Visited Chihaya-Akasaka vil.』

薫が2年2月28日に亡くなってから一年弱という月日が流れた先日、念願かなって大阪の和歌山との県境、千早赤坂村にある彼の実家を訪れることができた。
最寄駅である河内長野駅から自宅まで車で連れて行ってくれた薫の父親は一人息子に先立たれた親というものの何かを背負っているようにも見え、またどこにでもいるごく普通のお父さんというふうでもあった。
村ときいて想像していた寒村とはほど遠い趣の住宅地の中に建つ薫の実家に着くと彼の母親が玄関先で迎えてくれた。柔和だがしっかりとした印象の彼女はきっと息子に先立たれた母親というフィルターをはずしてみれば周囲を明るくするようなタイプの人に見えた。
まだお墓がないということで彼の遺骨は居間に作りつけた仏壇の位牌の脇に置かれていた。線香をあげて初めて拝んだぼくはしばらくそのまま彼との思い出に浸ってそこで固まってしまった。
葬儀には大勢訪れた友人の数も月日が経つにつれ自然に減ってきたようでぼくの訪問は久しぶりだったそうだ。
薫に面影の似た妹さんはご夫婦の一粒種になってしまったが、薫とは性向が違い、しとやかな人に見えた。
別府で買ってきたかぼすワインなるものと寿司を霊前に供えて酒の好きだった薫に喜んでもらった。
薫の遺したテープやMDで薫の声を聞きながらご相伴にあずかりお互いの知る薫を聞かせあった。お父さんはたまに霊前にあぐらをかいて座り自身では吸わないというタバコにヘビースモーカーだった息子のために火をつけてしばらくくゆらせてはまた掘りごたつへと戻ってくる。
お母さんは慈愛に満ちた瞳を潤ませて淡々と息子を語りつづけた。腹を痛めた彼女にしかわからない思いというものが伝わってくる。
薫と同じ一文字の名をもらった妹の泉ちゃんも時折遠慮がちに兄を語る。
薫がこの家族の中にあってどのように生活していたかが少しずつわかってうれしかった。 あの奇想天外、荒唐無稽、猪突猛進な薫が彼の家族に空けた穴の大きさを感じながらも彼が遺した歌と写真と友人たちの訪問がよい形でその傷を繕っているようにぼくには思えた。今はもうその事件は彼らの心に静かに沈殿しながら受け入れられているのだと。 そしてそれはぼくにとっても同じ事だった。

共通の友マコチャンがつくった薫の曲のダウンロードサイトのおかげでネットサーフィンしながら薫の声を聞けるようになったが思い出の『名残雪』やタイトルは失念したがシャンゼリゼを歌ったシャンソン、などはアップされていなくて以前から聞きたいと思っていたが、それらもこの日聞くことができた。そしてあの『スークレ』で過ごした日々、毎夜だれかの部屋に集まって語り明かしたひと時を録音したテープまで出てきてぼくを喜ばせた。

薫が遺した多くの写真でわかるように彼には世界中にたくさんの恋人がいた。
その中でも彼が歌までつくって愛したセニョリータ、エリアニータが彼の死を知っているのかということを考えながらぼく自身ブラジルに残してきた恋人のことを思って胸が痛かった。 女は芸の肥し、などと広く虚業の世界で囁かれる言葉を薫にあてはめると同時に芸のないぼくには薫のように多くの女性を愛し、愛される資格はないな、とも思った。

13年もの間、薫の家族として生きてきた飼い犬のムクちゃんは薫にも可愛がられたという。
まだそれほど衰えのみられないその老犬を薫になったつもりで思いっきり撫でてお別れし、お父さんと握手を交わした。

すっかり長居してしまい駅まではお母さんに送っていただいた。夕暮れの里山を駅までくだりながら「薫ちゃんが亡くなってかわりにいっぱい息子ができた」と言った彼女を自分の母親のように愛しく感じた。

河内長野駅に着きお礼を述べて車を降りると偶然一人のギター弾きが弾き語っていた。お母さんも何度か話したことのある若者だった。薫にもこういう時期があったのだろう。去り行く車を見送ってギターの音を背にして駅のエスカレーターに乗った。今思い出すとあのギター弾きが薫だったような気がしてならない。





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[ Japan ] Tokyo

Dec 1 2002 『A guitarist's friend again!』

また一人、ギタリストの友達が死んだ。あの英が。同じハウスの玄関脇の101号室で首を吊ったと聞いたが信じられない。以前のハウスで一緒だった時はよくくだらないことばかり話したけど、ここに引っ越してきてからはあまり見かけることもなかった。 たまに見かけてもほとんど話もしなかった。ぼくは話したかったけど英は皆を避けているように見えた。

まだ公式には死因もなにも告げられていないのでわからないけど、彼の部屋の前で布をかけられた死体の足もとを見た。英がいつもはいていたパンツと白いソックスが見えた。その横で消防署員とオフィスの銀さんが話していた。

自殺にしろ病死にしろ天才は早く逝くことが多い。英も間違いなく天才肌の男だった。





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Mar 4 2002 『薫が死んだ?』

スークレ仲間のノリゾーこと柳沢紀子から入ったメールは一瞬間ぼくの心臓を 止めた。中村薫。スークレ時代の忘れがたき友の一人。彼が死んだ。交通事故 だという。高校二年のときにやはり友人をバイクの事故で亡くしたときのこと が走馬灯のように頭のなかを駆け巡り、同時に薫のヒョロっと伸びた体躯と愛敬 のある顔が浮かび、彼がギターで奏でた 自作曲 《セニョリータ エリアニータ》や《流れ者の詩》が彼のしわがれた大阪弁の声と共に思い出された。

彼は酒が好きで毎晩葉っぱのパーティーを開いていたぼくらの部屋にも酔っ払って現れ、 そして場がマッタリしてきたところを見計らったようにKAORUオンステージが始ま ったものだった。毎晩自炊していたシェアご飯にも参加して当時三馬鹿トリオだの (アイドルグループのモーニング娘にかけて)モーニング男だのと呼ばれていた他 の二人、通称【青いの】と【ウド】の二人と組んでカレーライスなど簡単な料理を 作ってくれた。毎回赤唐辛子だのニンニクの固まりだのひどい時にはガムやお菓子 を混入させて「今日はおまけつきでっせ!」といたずら坊主みたいなことをやっては 割合年齢層のたかかった当時のスークレメンバーを失笑させていた。

街中を歩きながらカップラーメンを食べるということもネタにしていて、一度スー クレのキッチンで作ったインスタント麺をわざわざ外まで持ち出して奴と食べた事 もあった。当時すでに二年半旅行を続けていた薫は食費もそれなりに切りつめていた が「セニョールさん60センターボ(約70円)のアルムエルソ(Almuerzo:スペイン 語でランチ)見つけましたでっ!」といって【青いの】と一緒に連れていってもらって マズイ、けれどその地域の貧困層のエクアドル人にとってはごく普通の定食を彼らと 一緒に食べた。固くても肉片が少しでもあればマシな料理。でもスープは温かくて栄養 はありそうだ。そんな定食をあの痩せっぽちの薫は「美味いでしょ!」と言っていた。

五ヶ月間もスークレに沈没していたぼくはそろそろブラジルへ向けてそこを発つため、増えた荷物を整理する目的もあって一人フリーマーケットをキトの街中でやっていたが薫も二、三度それに付き合ってくれた。常春といわれるキトの大きなカロリーナ公園の芝生の上、敷物の上に売り物を広げたらあとは薫のギターと歌とばか話で退屈することもなく、たまに来る客もインチキスペイン語であしらいながら気が付いたら夕方になっていた。手当てがわりにみんなで食ったサブウェイのサンドウィッチはその日のフリマの売り上げよりも高くついたが。

短くても一週間くらいは逗留してゆくスークレの日本人旅行者たちは宿泊初日からぼくら とシェア飯するようになりそして名残惜しくそこを離れてゆくものだが薫は《歩きラーメ ン隊隊長》の肩書きの他に《見送り業》も営んでいた。といっても金を取るわけではなく 宿を去ってゆく日本人旅行者を懐メロの《名残雪》の歌とギターで送り出すのだ。 世界中で一体何人の旅行者が薫の名残雪で送り出されたことだろう。時には早朝、時には 雨の中。ぼくも薫と何度も彼らの短い宿泊日数の内にも情の移った旅行者たちを送り出した。

そしてとうとうぼくにも送り出される日がやってきた。
一月末日。アマゾン河を下って二月のブラジルのカーニヴァルに間に合わせるためにはぎりぎりタイムリミット。ぼくより以前から宿泊していて当然仲のよかったサカモッチャンもマコチャンももう薫達に見送られていなかった。ぼくが出る時はもう常連がいなくて寂しい出発になると思っていた。実際その時は薫とオギシュウ、ノリゾー以外ほとんど日本人はいなかった。スークレ経営者の娘ジャスミンや従業員のアンパロとカルロスも何度も聴いていた薫の《名残雪》を鼻で歌いながら見送ってくれた。薫とオギシュウとノリゾーは歩いて10分のバスターミナルまでぼくを見送ってくれた。バスが出発するまで一時間以上。エクアドル政府に抗議する農民がバスの運行を阻止していた。ようやく出発したバスに走ってついてきた薫が思い出される。バスは通常のコースから大きく外れてアンデスの美しい農道を進んでゆく。ぼくの頭の中ではいつまでもいつまでも薫の《名残雪》が繰り返していた。

旅行中の事は壁に張り付いていたヤモリだのその時見た雲の形だの些細な事まで思い出せたりする。交通事故で死んだという薫はきっとその瞬間三年七ヶ月世界中を放浪したあの夢のような日々を頭の中で再現したに違いない、とぼくは思っている。ぼくの親父はよく人生は思い出作りだ、と言っていた。そしてぼくはその思い出が人生の最後の瞬間に走馬灯としてリロードされるのだと思っている。その時に自分のしてきた事、あの日あの時の判断、選択、思考、行動のすべてが他人の意志と共にすべて解き明かされる。後悔することが多ければそれはまさに『地獄』であり、自分の愛や他人の愛があったことに気がつければそれこそが『天国』ではなかろうか、と。人生の最後の瞬間に。
薫は真っ直ぐに生きた男だと思う。うらやましいほどに。まっすぐに。彼が死の瞬間に見たものが『天国』でなかったはずがない。

薫の葬式には十数人の旅行者らしき友人たちが参加して『名残雪』で彼を送ったという。
薫が死んだということで長い間音信の途絶えていた仲間たちがまた繋がりはじめた。
薫は2002年2月28日伝説になった。
薫にありがとうを言いたい。


コロンビアで薫と恋に落ちあの名曲【セニョリータ エリアニータ】のモデルとなった恐らくエリアナという名の女性は薫の死を知っているのだろうか? 薫は長旅から帰った後、日本人の父親をもつという彼女が群馬県の家へ来た折に大阪からオートバイを駆り再会を果たしたというが。





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Feb 18 2002 『Magic Mashroom』

スークレの面子で代々木にある忠士の部屋に集まった。 ワンルームだけど明治神宮に隣接したロケーションを考えれば家賃14万円も 高くはないくらいよい部屋だった。ヴァング&オルフセンのCDチェンジャー はそのスタンドだけで7万円もするという代物で最新のプラズマテレビは70万円、 スツール一客が30万円で雑誌に乗ってるイカした部屋のステレオタイプそのもの だ。窓からは明治神宮の深い森とその脇をすり抜ける首都高5号線が高層ビル方面に カーブしているのが見える。広い屋上は出入り自由で星を見ながらバーベキューも できるそうだ。

8時に代々木駅で待ち合わせて8時半に全員そろったということは 南米組みにしては大したもので、皆もうちゃんと日本の常識を取り戻しているようだ。 BYOBでそのHYPER COOLな部屋に乗り込み冬らしく鍋をこしらえてくれ たのはスークレの料理長だったマコチャンだ。スークレ時代には料理はほとんど 作らなかったマコチャンの弟分坂本ちゃんが手伝っていたのが微笑ましかった。 祐二君とニックが来ることを知らなかったので、現れたときには本当に驚いてそして うれしかった。祐二君は当時あれほどのめり込んだサルサにはもう飽きてしまい、 今度は気功にはまっているそうだ。ニックはメーカーの営業マンとして世界中飛び回って いるという。この前坪ちゃんに会った時彼も僕と同じように日本人の曇ったような 目に戸惑っているといっていたが、この日会った連中も南米の話で盛り上がるまでは その曇り目を繕っていた、がそんなものはビールから焼酎にかわる頃にはすっかりまた あのギラついた目にもどっていた。

紅一点となったリエコちゃんはそれでなくても可愛いのでそれはそれで男達のギラツイタ 視線と意識の集中を感じていたに違いないが、そこはそれ30代中心の大人のクラブ なのであくまで紳士的に振舞っていた。しかし僕がはじめからキノコを食うことを ほのめかしていたので、やはりガンジャ抜きで語れない僕らの習性からか「じゃあ、キノコ でも買いにいきますか」ということになったとき、リエコちゃんは今日は帰りますと席を 立った。
彼女を送ってから渋谷ON AIR WESTそばのドラッグ系の店でまだ合法の Magic Mashroom 1Hit分3千円を各自購入して、コンビニで買った飲む ヨーグルトで胃に流し込んでから池袋の深夜の路上でコロンビアから来ている売春婦たち と話して久々のスペイン語を楽しんでから忠士の居心地のよい部屋へ戻った。光の洪水や、 突き刺さる音という効果が現れるのを待ったが、僕の身には眠くならないこと以外何も起 こらなかった。マコチャン、サカモッチャンそしてニックの三人が帰った後も祐二君と二 人で朝が来るまでの間一人最高にトリップした忠士の威勢の良い言葉の洪水を浴びただけ だった。

そのまま仕事に行き、脳みそも体も異常にダルい状態でミスを連発し帰りの電車は二回寝過ごして漸く東小金井のゲストハウスにもどるとそのまま15時間眠りつづけた。 15時間で体が回復したわけではなくて次の仕事のため15時間後に起きなければなら なかったからで、その日もまたミスをしまくって今月の収入のほとんどをもらう予定の その上野のレストランを首になるのも時間の問題かもしれない。まったく初のキノコ体験 は散々と言わなければならないが、やはり旅仲間とバカやるのは楽しいものだ。 自分の部屋にもう1Hit分あるキノコは仕事のない日の前日に今度は部屋で一人楽しもうと思う。



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Dec 14 『Amigos』

スークレの面子マコちゃん、さかもっちゃん、リエコと新宿で再会した。 少し前に既に再会した島ちゃんと、僕よりもすこし前にスークレにいた タダシくんも一次会に顔を出してなんとかスークレ同窓会の格好がついた。 リエコの高校時代からの親友の子も来て華を添えた。 その子以外は皆スークレ組みだったのでどうしても話題がスークレそれも葉っぱや24(ヴェインテクワトロ、娼婦街)のことになってしまい我ながらまずいなとは感じたものの、あの《古き良き日》を回想しだすとどうしても止まらなくなるのだ。 一次会、二次会ともタダシくんの知る店でどちらも内装の凝った人気店だったので居心地も良く話も盛り上がった。 僕が今住所不定で毎日サウナや漫画喫茶で寝泊りしていると言ったら皆失笑していたが さかもっちゃんは東小金井にある外国人向けの下宿を教えてくれた。 帰国して再会したアミーゴはこれで9人になったがマコちゃん、さかもっちゃんの声が聞けたのは格別に嬉しかった。 二次会場に着いたときには一緒にアマゾン川を下った仲間の大川ちゃんからも電話が入って驚いた。あまり話せなかったがまだ仕事はしていないようだった。放浪中に出会った奴らのほとんどは日本的にみたらどうしようもないアホたれどもだけれど僕にとっては皆かけがえのない親友たちだ。やっぱり旅は良いなと再確認できた。今日からまた次の旅のプランを練りはじめようと思う、旅こそ僕の人生だから。



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Dec 13 『社会人復帰』

帰国して2ヶ月が過ぎた。2年以上海外で生活していたことが今では昔の夢のように霞んでしまった。最初大阪で生活することを考えていたけれど、大分の母を訪ねていってそのまま1ヶ月ちかく落ち着いてしまい、寂れた温泉地の別府で仕事を探そうと考え出したら今度は埼玉の親父が自転車の事故でじん帯を切断して手術、入院することになり、助けになるかと思い飛行機で駆けつけたがまたしても親子関係の亀裂を深めたに過ぎなかった。 埼玉、東京で旅行中に知り合ったアミーゴたちと再会し飲み歩いていたらどんどんお金が 無くなってしまった。長いこと無職で親のすねかじり続けてる奴もいるけど、大半はアルバイトのようなものを始めている。そいつらがめいめい自分の暇な時にぼくを呼び出すのにつきあっていたのが失敗だった。まあそういうのが楽しくもあったし、その間に預貯金の整理もつき、これでいつでもまた海外逃亡できるようになったわけだから、またここ日本に飽きるまでは旅行資金を増やすためと経験値をあげる意味でパートタイムジョブをしてみることにした。

別府で数少ない就職口を探していたので東京の求人の多さに心引かれて、母親のカムバックコールに生返事を返しながら、アパートを探しもせずにサウナでのその日暮らし。ウェイターの派遣会社に登録して前日に指示されたホテルやレストランに出向いて知らない人たちといっしょに働く。この業界の古い習慣である年功序列はまだかなりまかり通っていて驚いた。しかも新人いびりのようなことをする人がたくさんいる。自分たちがそういう環境のなかで成長してきたから今度は新人をいじめる番、というのはどうかと思う。それでも郷にいれば郷に従えで 「はい」 「はい!」 とまめまめしく働いているのに、教えもしないことを 「何でこんな事も出来ねえんだ。あ?」なんて耳元でぐちぐちやってくれた大先輩はぼくが生まれる前からこの仕事一本というこわもてだったけれど、あまりに度が過ぎたようだったのでこちらも久々に目が三角になってしまい気分が悪かったけどその後その先輩も少し態度が軟化したのでこちらも水に流した。

島ちゃんやジェフは今年もブラジルのカーニヴァルへ行くという。「セニョールも行こうよ!」と誘われているけど今度行く時は永住覚悟だと決めているので今回は我慢してお金を稼ぎながら永住に関する情報をキャッチできたら良いなと思う。
でもほんとは明日にでも我が心の祖国ブラジルへ飛んでいきたいのだけど。



[ Japan ] Osaka
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Oct 17 『in Osaka』

難波のカプセルホテルを転々としながらたこ焼きだの、ラーメンだのと二年ぶりのご馳走を食べ歩いていた。漫画喫茶でインターネットができるようになっていて驚いた。インターネット用コンピューターが液晶の薄型画面を採用しているのはスペースの問題を解決するために必要であるとしても、ジュースのみ放題という過剰サービスのおかげで料金もやすくない。
日本といえばテクノロジー。電化製品に興味があるのは外国人のみならず、久々に帰国した日本人にとっても興味津々だ。二年というブランクは僕を驚かせるのに十分な期間だった。携帯電話はカラー液晶でカメラ付のものもある。ノートパソコンもこれ以上は無理というところまで薄くなったのに、性能は数倍上がっていた。デジカメがかなり小型化し、画質も良くなったのに値段がすごくやすいのでびっくりした。
よく第三世界を愛する旅人が「あの国には必要な物はなんでもあるが、余計な物は何もない。」とどこかに日本などのテクノロジー先進国を揶揄するような匂いをさせた言い方をするが、この国の人々にとってテクノロジーは余計な物でもなんでもなく、それなしでは生きてゆけないほど必要な物としか思えない。いつのまにかかなり年配の老人まで携帯電話を持ち歩くようになっているし、一人で歩いている人もみな一様に携帯電話にメッセージを打ち込むのに忙しい。
ビックカメラは帰国したての僕の目にはアミューズメントパークのようなものに映った。 気がついたら七時間をそこで過ごしていてわれながらびっくりした。 インターネット普及の目的でネット接続しているコンピューターを並べていて、ご自由に お使いくださいというのを見つけてメールチェックするとエクアドルで出会った千佳ちゃんから≪おっさんどこおんの?≫ とメールが入っていた。電話すると、彼女の実家が千林というところで営む居酒屋で同窓会をすることになった。康助、ヤスとも皆エクアドルの首都キトのホテル≪スークレ≫で知り合ったメンバーだ。皆相変わらずだったけどちゃんと社会復帰していた。康助は以前と同じ発掘調査。ヤスは家業の代書屋。千佳ちゃんも在宅介護の仕事に就いている。無職は僕だけだ。しかもまだ住所不定である。

しめさばだの、子持ちししゃもだの千佳ちゃんが「奢ったるでー」と、どんどん注文して くれて、帰国して一週間目にして初めてのアルコールとして僕は生ビール二本のあと泡盛 二杯を頂いてすっかり良い気分だった。康助を送っていくというヤスを送ると、すごいこ とに僕は千佳ちゃんの部屋へ泊めてもらうことになって、隣の両親に(なんてずうずうしいやっちゃ!)と思われること必至でその好意に甘えた。二年前までは堅物を自認していたが、今は行き過ぎなほどずうずうしくなったものだなあ、と我ながら驚く。
それどころか千佳ちゃんに「同居せえへん?」と申し出られて、考え中である。



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Oct 11 『I've just got back』

関西国際空港が眼下に見えてきたときの感動というものはとくになかったと思う。
KLMのアテンダントに Dank! といってボーイングの扉をくぐり無機質なその新しい空港の廊下をアムステルダムから同乗してきた多くの日本人観光客達に紛れて歩きながら、彼ら日本人の無表情な顔と会話の少ない様子が僕をなおさら不安にさせた。
長旅の疲れやこれから帰国の審査を受けなければならないということもあろうが、彼らに しろやはりこの国へ帰ってきたということの喜びというようなものはとくにないのではなかろうかとも思えた。二年三ヶ月ぶりの帰国だということをやはり無表情な審査官に告げると、そのあいだ何をしていたのか? どこにいたのか? などお決まりの質問をされたものの、わりあいにあっけなくそこを通過することができた。[別室]、まで覚悟していたのに、手荷物のチェックすらなかったのは、この時期(アメリカのテロ事件で各国の国際空港にかぎらず空港という空港のチェックが以前の数倍も厳しくなっている)としては考えられないことだった。到着だからといっても、ぼくのようにかなり長期間海外に「観光」で出ていたら、麻薬の持ち込みをするものも少なからずいるはずだし、その辺の事情に関していえば日本はあいかわらず「甘い」国なのだろう。
ただし機内持込みできなかった二つのバゲージをコンベアに見つけるまでの二十分ほどの あいだに大きなシェパードがだれかれかまわずに何かを嗅ぎ出そうと鼻を近づけてきて、 しかも三度も回ってきたのには驚いた。

機内で知り合い、話すことでその長く退屈なフライト時間を互いにまぎらすことのできた 女性と手を振って別れると、もう一人の年配の男性をまだ荷物が拾えないでベルトコンベアの周りに群がる人々のなかにさがしたが、見つけることができなかった。
機内で乗務員ともめて非常扉のそばでいらいらしていたのを危険とかんじたので「どう したんですか?」と声をかけ、寝静まった他の乗客たちに気を使いながらも乗務員の仮眠室扉の前で数時間話した相手だ。聞けばオランダ人の女性アテンダントとの言葉の行き違いで起こった問題だった。福岡へ帰るというその男性は実業家であり、そのときはリトアニアで事業を起こすための準備にマンションを購入しに行き、その帰りだと言った。そして何やら神秘的な話をきかせてくれて、最後にこれも何かの縁だから「よかったら僕の仕事を手伝いなさい」と僕の事情を訊いた上で言ってくれたのだ。はっきり言うと僕にその気は全くなかったが、福岡に知り合いを作っておくのも悪くないとは思っていた。が、その男性に会うことはできなかった。つまりそういう縁だったのだろう。
予定はない。インフォメーションでホステルのことなどを尋ねた。若い女性二人が馬鹿丁寧な口調で応対してくれて、しかも無料の資料がでてくるまでの速さが(ああ、これが日本人の仕事だなあ。)と関心させた。ラテンアメリカでは考えられないことだ。
仕事と割り切ることで速く正確な仕事ができるのだろうけれど、そこにまったく人間的な 心が感じられなかったのは、僕が日本人を忘れてしまったのだろうか?それともこの二年間のあいだに彼らが変わってしまったのだろうか? どちらにしてもなにか恐ろしさを感じた。
とりあえず難波まで出ることにした。JRよりも南海電鉄のほうが一ドルも安いぞ、ということで難波に着くまでに抜かして行くであろう特急のラピードを横目に見ながら各駅電車に乗った。
難波駅に着いて帰国第一食目のメニューが決まった。駅前に〈吉野家〉が見えた。 牛鮭定食で胃袋を十分満足させてやることができた。あまり上等なものを食べたら腹がびっくりして腹痛でも起こしかねないから気を使う。いろいろな意味でゆっくりこの国になじんでいかなければいけないなあと感じる。不要なものを九州の母親のところに送ろうと思い、コンビニというものがその機能を持っていることもすっかり忘れていて、人に教えてもらって思わず「そうだ、そうだった!」と叫んでしまった。忘れていることもたくさんあるだろう。(ゆっくりで良い)と自分に言い聞かせながらも、スピード社会といわれるこの国のシステムに適応できるようになるのはいつの日か?あるいはその日がくるのか?ということに考えが及ぶとやっぱり怖い。(長くても一年かな)とすでに次の脱出のことを考えはじめた。
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