帝都から友人を迎えて、珍しくワインなんぞ飲んだりしたのですが、さすがに3本1000円だけのことははある、って感じのいかにも安酒って味が、なんとも言えずテイスティー、と言えば聞こえはいいけど、要はやっぱ安酒は不味いって話を肴に飲んでただけだ。どっかで飲んだことある味だと思ったら、居酒屋のグラスワインと同じ味だったんだよな。ま、いいけど。ところではるばる遠くから遊びに来てくれる相手に、当日の朝になって、こっち来る前に録画してくれ、テレ東の9時、アニメの事前紹介番組! と頼み込む人間のツラの皮は島本和彦の漫画よりアツイ。
そんな感じでアニメ版『フルーツ・バスケット』の紹介番組、思いがけず見れちゃいました。監督が大地丙太郎ってことでワリと期待してたりするんですけど、上がってたフィルム見る限りまず期待裏切られることはなさそうです。近作では意図的に抑えてただろうスピード感ありすぎるギャグが久し振りに全開で見られそう。持ち味いかせるいい原作選んだんじゃないかな。キャラデの林明美は前に、少女漫画は花とゆめ、って言ってたし、今回は願ってもない仕事だったりするのかも。あのヘタレな原作の絵をもとにキャラ表作るのは大変そうだけど。
ちなみに原作の方はそんな力入れて好きって言うほど好きじゃないって感じ。読んでて素直に面白いとは思うけど、どこまでも堅実な少女漫画フォーマット処理がキャラへの感情移入を阻んでくれるんで、そういう意味で少女漫画の好サンプルとして読んでる気はする。あとトラウマ君(ワイルドとクール)と主人公(天然)の位置関係がギャルゲーの逆パターンになってる感じがあって、その点話の終わらせ方に興味ある。通常選ばれる立場にある女の子が選ぶ立場に回ったとき、彼女のいのせ〜んすは従来的な恋する乙女回路を無視するだろうし、通俗的な三角関係の心理的葛藤も成立しづらいと思うから、物語上強烈な外からの一撃が加えられるんじゃないか、それはギャルゲーにおけるプレイヤーの選択と形式的に全く同じものではないか、とか。まあどっちも選ばないという選択肢もあるんだけど。書いてて思ったけど、やっぱ結構どうでもいいわ、漫画自体は。
ところで長濱博史ってやっぱビーパパスでひとり浮いてたと思うんだ。いやなに、ルックスが。
大地は高橋良輔の流れで見てたから、マサルと浦安がさして面白くもなく、まして今僕みたいなものまで作っちゃうのは、ワリと納得いったりする。こどちゃのたけちゃん編とか物凄いメロドラマじゃないですか。あれを好きというのはかなり恥ずかしいんだけど、あれが好きなんだな、僕は。ええ、たけちゃんに感情移入して見てましたよ。ああいうドラマ性ってのは高畑、高橋的なものがある。アウトローを好む。でもなんつうのかなあ、視点がもう少しミクロというか。社会的関心はない。アウトローっつっても生き方が飄々としてる。あとこうも言えますね。内面綴りに興味ない庵野。まあ庵野の場合社会参入が必然的に失敗する場として内面がクローズアップされ、結果的に社会性が抹消されるんだけど。あ、僕が言う「社会」性ってのは概ね「ストーリー」性と考えて頂けると幸い。つうか前から「ドラマ」と「ストーリー」と「物語」を明確に定義して使い分けたいと思ってるんだけど、誰かやってくんない? 定義。僕好みの方向で。大地の場合はハナっから外れてる人達による人間関係のウェットな力場が客観的な節度で、まあ要するにモノローグを殆ど使わず対話シーン中心で描かれる。うわー滅茶苦茶乱暴な作家論ですねー。でもまあそういう傾向がある(ような気がする)ということで。手許にこどちゃもりりかもビデオないからそっちでの確認はしてないんだけど、まあ十兵衛ちゃんと今僕では、遠近問わず画面上に特定キャラを収めての台詞無しの長尺カットってのが頻繁にある。この頻度の高さってのは結構記憶に残ってて、まあそこから短絡的に内面綴りに興味ないんじゃないかと思ったんだけど、もう少し突っ込んで言うと、現出する言葉(自分を含めた他者からの認識像)に対して、他者には(無論自分においてさえ)徹頭徹尾不明瞭な、しかし言葉の基盤として確実に存在する内面というものを考えたとき、それを描こうとするならある一定の節度が意識されるということではないか、ってことになるか。全然短絡の域を脱してねえっつうの。チャチャのブレイクで佐藤竜と桜井とのセットで語れがちだけど、そういう90年代で見たヨコの括りだけで済ましちゃいけない作家だと思うんです(なげやりなまとめ)。
昨日の「言葉の基盤として確実に存在する内面」ってのは怪しいと思った。つうかそんなの絶対嘘だ。なんつうか内面ってのは自分が見ようとしたときに初めて現れる気がする。確かに人間はものを考えるけど、それと現出する言葉は別物として考えた方がいいと思う。勿論コミュニケーションってのは現出した言葉(表情等込み)と現出しなかった全てが等価となるものですが。ほんとかよ。ちなみに僕は「空白な内面」という紋切り型のフレーズが結構好きなんだけど、と言うからには「空白な内面」の内面化だけはなんとしても避けたいところです。大地のことは内面の空白性を表現したい畑の演出家だと思ってるわけですよ。というか、なんかこううまく言えないんだけど、とにかく節度の人だと思う。ええ、勿論僕の勝手な思い込みですけど。
で、『フルバ』でふと思い付いたんだけど、あの十二支ってのは結構ギャルゲー臭いと思った。知らない人の為に説明すると、十二支ってのは要するに『アンジェリーク』です。とか言うと間違いなく誤解と偏見を招くよなあ。嘘ですよ信じないでください。ちゃんと錯綜する思惑とかあるから。悪巧みは年長者の仕事。年少者はそれに気付きもしないで身近なことにアップアップ。そんでそこから派生的に、『男塾』みたいなキャラの差異化に全力を傾ける作品とギャルゲーは明らかに相似的だ、とか思い付いたんですけど、どんなもんでしょう。『男塾』が物語の構造上新たな強敵(当然読み方はアレ)を求め続けるのと、ギャルゲーに攻略可能な娘さんが複数用意されてるのは本質的に同じ意味を持つ……おお、なんかホントっぽいゾ〜。
だから『刃牙』がギャルゲーマー界隈で矢鱈と人気あるのも当然だという結論。「『刃牙』を楽しむように」ギャルゲーは楽しむものなのです。OK?
ハッピーバースデーももちゃん。プレゼントには髪留めを。つうかももちゃんの髪いじりたいなあ。ツインテールとか似合うと思うんだよ。靴下とスニーカーのセットも捨て難いね。黒いソックスに白いシューズ決められるももちゃんは、たぶん足元でいろいろアクセントつけるの好きだと思うんだ。でもなあ靴に合わせて服もプレゼントしたくなるしなあ。などとももちゃんに着せたいコーディネートを考える春の夜のなんと幸せなことか。
多分間違いなくももこは気持ち悪いと思うだろうけどな。
なんか人種差別を意識させるような描写がありまして、差別しちゃダメだって作品内でハッキリ示されていないのは難がある、いやしかし差別はダメと口で言ったところで問題が解決するわけでもないし問題提起に留めたところが評価できるのではないか、いや差別的表現に踏み込んだからにはある一定の回答、見解が語られるべきだ、つうかあれを差別的表現ととるのがそもそも間違いで、今回のは素朴な友情がテーマじゃないのか、いやそれならなおさら差別などという重いネタを使うべきではなかったのではないか、違うよ、こうやって僕達が今こうして議論しているという事実こそが重要であり、それをさせたという点で既に今日の話は成功なんだ、いやいやまあみんな聞け、差別なんかは解決しようなどというある意味おこがましい態度で対峙するような特別なものではなく、普段我々がそれこそ不断に対面している事件として常に今ここにあるのであり、今日のどれみは正にそれを表現していたのだ……等々真面目な方々が例によってあいも変わらず色々と御高説を論じられておりますが、僕としてはそのへんの言説とは関わり合いになりたくないというか、そういった「問題」を気にするのははっきり言ってバカバカしいとしか思えないので、まあいつものようにウンザリしているわけですが、とりあえず玉木が言い難そうに「黒人だから…」と口にした時点(というかそれをももこが誘導した時点)で、玉木にしても試聴者にしても、差別に触れるにせよ回避するにせよ、ベスその人自身より抽象的人格としてカギ括弧付きの「黒人」を意識しないではいられないという点を指摘しておきましょう。それは大して面白くもなかった今回で唯一見所だっただろうベスのビデオレターに反応、すなわちベス萌えーな発言がこの「広い」ネット上で驚くほど少ないことからも確認できると思うのですが。いや、でもマジでベスかわいくなかった? あの娘萌えねえ? かなり萌えるデザインだと思うんだけど。
僕はどっちかっつうと、お返しにベスへ送るビデオの内容が富士山だの相撲だの柔道(つうか田村亮子)だのお茶だのワビだのサビだのだったのはまあいいとして、そこになんら演出的要素を加味しなかったのもまあいいとして、どれみと玉木の漫才が単純に物凄くつまんなかったのもまあいつものことだから我慢するとして、それを親御さんたちがほのぼのと楽しんでたのもいいとして、でもさすがにそういう弛緩しきった寒い空間をだらーり放置したのはなんでか? 手抜き? ってのは気にならないわけではないけど、結局のところやっぱ青山作画ってどれみと相性悪いよなあ、あんま萌えないよ、に尽きる。
サンデーを立ち読みしてたら、なにやらもったいぶった宣言ページみたいのが目に止まって、それは何人かの漫画家が結成したナントカ会によるものらしいんだけど、曰く、新古書店での新刊コミック売買に反対、だそうで、この手のページはロクでもない漫画賞のときもそうだけど、毎度毎度糞面白くもねえどっかの新聞の社説と勘違いしてしまうかのような駄文を載せてるだけでなんの芸もないなあ、とこれも毎度のことながらちょうろくに文章を読みもせずに思ってしまったわけだけど、なにもそんないつもの茶番にやれやれと肩をすくめてみせようと思って日記を書いてるわけではなく、当然ブックオフで新刊が日常的に売り買いされている現状に関してなにか一筆書いてやろう、なんてな大層なことを考えているわけでもない。その宣言がそういう形で雑誌に載ることに同意したらしい漫画家達がズラーっとリストアップされてたんだけど、そのリストがごく客観的に見て小学館、講談社の漫画雑誌で連載を持ってる漫画家で占められていて、そのあまりに機械的に見える連名に、これって大学の自治がどーのこの言ってた連中が必修科目の講義してる教室を狙って署名集めてたのと似てるよなあ、あの人達の話は覚えてないというかそもそも聞いてなかったけど署名だけはしたんだよなあ西園寺公望って、などと最早セピア色すら褪せた記憶が蘇るついでに、このバカバカしいパフォーマンスが出版社完全主導であることが容易に見て取れて、ここに載ってる漫画家の8割は義理でというか何も考えないで名前貸したんだろうなあ、とも推測できる。だって北道正幸とか沙村弘明とかあろうことか木多康昭までいるし。そこから性急に、出版不況など騒いでるのは本を書いてる作家ではなく本を売ってる出版社だ、などとごく当たり前の事実を指摘しつつ、不況に喘ぐ(ってよく言うけど実際どんな感じ?)出版社が新古書店を煙たく思ってバカな漫画家を煽ったんだろうなあ、印税が十分に入ってこないとか言って、と下衆の勘繰りを入れて、そのおまけとして、秋田や角川といった二線級はともかくとして業界最大手の集英社の作家が入ってない点にギョーカイ好きの性としてイロイロな深読みをして出版業界をコケにするのは、出版社の入社試験に落とされた経験を持つ身としてはそれなりに楽しかったりもするのだけど、よく考えると履歴書書いて試験ちゃんと受けた(そんで落ちた)のは白泉社だけだから、これは逆恨みにしても相手が見当違いだし、というか恥ずかしい過去の告白をするのが今日の目的でもないわけで、でも白泉と言えばあのリストには少女漫画家は殆どいなかったなあ、講談社も小学館も少女漫画誌作ってるのに、あのリストの見事なまでの機械性を考えると、僕の推理が正しければ、犯人はこの中にいる!(今週はここまで)
いや散文調って書いてると結構楽しいんだけど、散文調という形式に色気を感じちゃうあたりが、僕の絶対に拭えない決定的な弱みだよな。もう諦めてるけど。
僕の推理が正しければ、犯人はこの中にいる!(先週の続き) 多分この件は少女漫画家のところには話がいかなかったということなんだろうけど、これは今はもう少女ではなくたった層をターゲットとしたものも含めた広い意味での少女漫画というジャンルが軽視されている証拠ではないか、と考えた矢先、それが「未だに」なのか「今や」なのか、という疑問が顔をもたげてきたのだが、軽視している主体が出版社だったり、新古書店での新刊コミック売買に反対するような漫画家であるなら、それは少女漫画を愛する者としては寧ろ喜ばしいことだとも言える。なにしろ相手は新古書店での新刊コミック売買に反対する理由として「我々老兵は死ぬだけだから構わないが若い作家の未来を考えれば……」「漫画文化が衰退……」とか真顔で抜かす救い難いほどのボンクラなのだ。まあ確かにアンタらが死ぬのは大歓迎だな、うん。儲かろうと儲かるまいと漫画を描く奴は描くのだし、若かろうが年をとってようが、漫画家に未来なんぞない。そんなことも分からん奴には黙って文芸の世界にでも逝ってほしいのだが、まあいちどでも漫画に身を寄せた経験のある人間が声高に偉そうなことをほざいてしまうということが皮肉にも「漫画文化の衰退」を証明してる、とでも言えば連中は黙ってくれるかもしれないな。いやさあ漫画って先生のありがたいオハナシをBGMにして授業中こっそり読むもんじゃないの。本来的には。学校で読んでるの見つかったら取上げられる類のものでしょ。どっちかつうと。まあ僕はわざわざ授業中に漫画を読むなんて人間はハッキリ言って只のバカだと思うし(先生のお話ってα波だし)、授業中に読まれる漫画なんぞタカが知れてるとも思うけど。まあ授業中に読まれるような漫画のタカってのも結構好ましいものではあるんだけどさ。例えばGTOとか。百歩譲って新古書店、漫画喫茶のせいで新刊コミックの売上が落ちて、漫画家の収入が減り、なり手がいなくなって、漫画文化は衰退する、という青年の主張レベルの短絡さを認めるとして、それなら漫画家は新古書売買を非難する前に、出版社に原稿料と印税率アップを要求した方がいいんじゃないだろうか。なんせ漫画は文化なんでしょ。丁重に保護してくれるんじゃありませんか。文化の衰退の前には商売なんて些細なもんでしょ。知らないけど。多分この下らないパフォーマンスは、ちょっと前のレアモノ発掘ブームの文脈を完全に離れた、手頃に昔の作品を手頃な場所で手頃な価格で、という現在の復刻復刊ブームと分かち難く結び付いている筈で、連中の胸中にあるのは、おそらくこうした拡小再生産的な傾向を痛ましく思うという一種の自己愛で、それが「漫画文化の衰退」なんて痛過ぎのフレーズを引き寄せたんだろうけど、この文中で筈、多分、おそらく、だろうを連ねてる点からもお分かりのように、ここからの話は仮想敵叩きです。最近漫画がつまらないナーとかほざいてる奴、放課後体育館の裏まで来い。まあ確かに『キン肉マン』『ブラック・エンジェルズ』『銀牙』『リングにかけろ』『奇面組』『スーパーロボット大戦』『デビルマン』『ウルトラマン』『仮面ライダー』、あとなんだ、『キャプテン翼』と『男塾』も始まったか、そういう傾向を本気で憂う方々のお気持ちは分からなくもないけど、それが例の最近漫画がつまらない、に繋がる短絡さはどうにかしてほしいところで、でもここで勘違いしてほしくないのは、別に僕だって最近の漫画が面白いと思ってるわけではなく、今も昔も面白い漫画はほんの一握りで、結局今も昔も変わらず一貫として漫画はつまらないのだ。80年代末期から90年代初頭にかけて、ジャンプが当時の小中学生にとって特権的な存在であったことを否定するつもりは毛頭ないが、今、漫画は危機的状況にある、過去の遺産にすがってばかりいる現状が耐え難い、とか寝言抜かしてる連中は、今復活してるその時期のジャンプを支えた漫画が尽く打ち切りに近い形で連載を終了した事実もすっかり忘れていて、つまり連中はあの手の漫画が過去の「名作」であることを疑いもしてないわけで、それはあまりにもムシが良過ぎやしませんか。過去の遺産に頼ってる、と言うけど、現状を批判してみせる為にあれらの辿った末路を完全に忘れ、過去も見ずして過去に頼るな、と言うのは要するにあれらを実際のところ頼れる遺産だと思ってる証拠で、そんな連中の言う危機なんてもんはタカが知れてる。あれはどう考えても遺産は遺産でも負債じゃないか。いちどアンケート(読者)によって明らかに否定されたあれらを「黄金期」の作品と呼ぶのは、『キン肉マン』がそれらしい最終回を最後尾の位置で明らかにお情けで許してもらったという形で迎えたのを目にした人間としては、それこそ屁のツッパリはいらんですよ、って感じだし、『聖闘士星矢』のハーデス篇を、やっぱ典型ジャンプ漫画はダメだよな、と思いつつ、でも星矢がこんな後ろにあるのは耐えられない、と感じなくてもよい痛みを覚えながら、例えるなら廬山亢龍覇を繰り出す思いで読み続けていた身としては、到底できる所業ではない。90年代を代表する漫画家のひとりであるだろう冨樫義博が『幽遊白書』において、<中ボス>仙水戦でそれまでの「ジャンプ的」な、つまり今「復活」している往年のジャンプ作家の漫画をはっきり否定する台詞を<敵方>に言わせていた事実をあっさり忘れて、過去の遺産に頼ってる、と言ってしまうこの無神経さはどうなのよ。無論こういった話はジャンプに限った話ではなく、新しい漫画は常に一世代前の漫画を否定して出てくるのであり、「過去の名作」はまず大抵いちどは否定された代物であり、その意味で今続々と廉価で出回ってる二世代、三世代前の漫画は懐かしいと同時に「新しい」読まれ方をされている。漫画を文化と考えるなら、これはやっぱ喜ぶべきことじゃないんスか。文化ってこういうサイクル的なもんなんでしょ。知らんけど。ということでここで一旦CM入ります(by田原総一郎)。ちゃーちゃーちゃっちゃっちゃっちゃー。
ちゃーちゃーちゃっちゃっちゃっちゃー。CM中山内さんはなんだかやる気を無くしたとか勝手なこと言って退場してしまいました。これだから今時の若者は! まったく無責任で嘆かわしい!(by田原総一郎) とか実際言われたことないけど、小中学生が漫画を読まなくなっているとかってのは実際どこかで読んだような気がする(例)。で、その原因をごく安易にアニメ、ゲームに求めたりするんだけど、これって僕が小学生ときにバカな教師に言われた、漫画ばっかり読んでないで本も読みなさい、とかって話となんら替りないし、多分映画ばっかり見てないで本も読みなさい、って言われてた時代だってあるだろうし、となれば当然TVの普及が映画産業に質量の双方で深刻な打撃を与えたって話も思い出されるし、ロックは死んだか? ってなどこぞの音専誌が好きそうなフレーズも思い浮かぶ。かようにナントカ離れが叫ばれる中、肝心のナントカが消えてしまったってのを、寡聞にして僕は知らないのですが。この世の習いに従って皮膚感覚とやらに極めて忠実になってみせるなら、まあ僕も小学生が漫画を読まなくなった、という類の言説の肩を持つに吝かでないのですが、それは漫画がつまらなくなったからというより、漫画のつまらなさに小学生が気付いてるだけだ。あと単純に子供の数が減ってて分母のぶんだけ分子も小さくなってるとかそれだけの話。だいたい昔に比べて漫画がつまらなくなったなんてのは勘違いもいいところで、手塚治虫と尾田栄一郎だったら、尾田の方が遥かに才能に恵まれてる。『三つ目が通る』より『ワンピース』の方がどう読んでも面白い。まあ手塚の方が萌えはするけど。和登サンかわいいよね! 問題は僕が小学生のとき既に学級文庫に『ブラックジャック』が置いてあったということで、アニメとかゲームのワリをくってるとかいうより、こういう半端に市民権を得ている状況の方がよっぽどヤバいと思う。別に漫画がカウンターカルチャーじゃなきゃいけないなんては思わないけど、野口英世の伝記のわきにある漫画なんて読む気もしないってのが普通だろう。だったら漫画喫茶に置いてあったり、新古書店に置いてあったほうが、漫画の神様も断然喜ぶんじゃないの。いやまあほんとにどうでもいいんですけどね。何がって。持続力を無くしたこの文章が。
待ってたよ! 五十嵐演出回! アバンの長谷部君のアップが既に格の違いを物語る。たったワンカットで今回の主役を掴まえてみせるその鮮やかさにまずは惚れだ! そして夕暮れの光が通常使われるような、例えば無印45話のサンタ話のときのような「暖かみ」をいささかも纏わず、その凶悪なまでの美しさによって画面に不穏な空気を孕ませている点に、オレは戦慄の思いを禁じ得なかった! 母子の対立がそれが語られる前に確実に語られているのである。すげえ! 本編に入って最初の5カット数秒足らずで情況説明と去年の感動の母の日の記憶を呼び覚ます手際の良さが実に頼もしい。そしてまさるの打ち下ろしの右! 長谷川君の突き上げチョーパン! この運動感! 関先生のらしい仲裁「先生と職員室でデートだ」も小気味良い。やっぱ栗山のケレン回しは最高だよ……。それにしても先生に反抗するようなバカがいない、つうかそもそも反抗されるようなバカ教師がいないというどれみ世界のなんと愛おしいことか。職員室、そっぽ向いた長谷部君の首に合わせてカメラ振った先にどれみ一行を収め、その後でMAHO堂にカットを繋げ、ここからあーもーふたりで勝手にやってくれー、まさるはづきの愛の劇場(お兄さんは大喜びだ!)に展開させるこのスムーズさ……。やっぱ上手いよ……。脚から攻めまくるカット割は若干カメラの存在のようなものを匂わせてしまうのだが、やりすぎ感がきっちりこっぱずかしいラヴのそれとシンクロしてるのは、最早五十嵐がどれみに選ばれた存在であるという神秘的な挿話を人に信じさせるには十分ではないだろうか。むつみちゃん来店シーンも脚から……。これは今日は母の日ならぬ脚の日なのか! それにしても今日のむつみちゃんはかなり萌えるなあ。作監河野か。♯最終回、今シリーズ7話、そして今日と3回続けて萌え悶えの作画……あんたエースだよ! それにしてもあいこってばなんでこういう背を壁にもたれさせるような何気ないポーズがこんなにも決まるんだろう。オレ、どう考えてもこういう姿見で、それだけであいこに惚れてる。と自己確認してたらギャーちびむつみちゃん萌えー! 回想シーンでの重くのしかかるような夕陽はやはり通常のアニメのそれではない。これはなんつうか邦画的だ。……ひょっとして噂に聞くセブン(見たことない。ライダー派だから)なのか? そして時間軸を戻すとそこもまた赤の世界。ぐわっ! 横から陽を受けて影に染まったももこの息を飲むほどの美しさ……。正確にx/27秒間死んだ。萌え死んだ。わーい、5人揃ってのお着替えだー。みんなかわいなー(うっとり)。それにしても5人で空に浮かんでの止め絵って描くのムズそうだなあ。空間的には嘘ついても見た目を優先させてる今日の選択は圧倒的に正しい。足広げ組みのどれみ、ももこを手前に置いて靴で画面にアクセントつけてるとこが憎い。うわっ、窓から部屋の中覗く前に、しっかり窓に写った線路拾ってるよ! 後で電車走らせるんでしょ。いや繋ぐ繋ぐ。蝙蝠deおジャ魔女、みんなブサイクだなあ。笑い取る為に豚っ鼻アップにさせられたどれみが可哀想だ。可愛いけど。そして頭に血が上ってクラクラしてるあいこの巻き舌口調に激しく萌えだ! 上手いよなあ松岡。口紅をひく長谷部君母の艶っぽさ……。未亡人はやっぱこうじゃなきゃ! 今は亡き軽率の山方さんにも自信持ってオススメできるヅマ物件と言えよう。つうかどれみに出てくるママさん達って妙〜に美人多いんだけど……スタッフの趣味か? その美人の母さんと子供との不穏な関係を鏡に写し、緊張の頂点で母親が鏡からまさに息子へと視線を移す。そう、これは全く「店で働くの止めてくれよ」「急に何言い出すの」というシーンではない。そのような、この後不可避的に訪れる関係の修復を前提とした破局を描いているのではなくて、これは母親の思いが子供と決定的にスレ違う瞬間をフィルムに収めてしまった酷く残酷なシーンなのである。つまり母親を「昼」の世界に還そうとする子供の言葉が、鏡を通して見ていた「夜」からまさに子供へと、母親の視線を引き寄せたにも関わらず、それに気付かないまま子供は言葉を連ね、また母親もそれに気付かぬままにメロドラマ的な身振り――平手打ちを見舞ってしまう。……切ないねえ。日本家屋に差し込む夕陽、伸びた影、平手の瞬間音を立てて過ぎ去る電車。確かに叙情に過ぎるように見える。しかし、こうしたメロドラマ的な舞台上で、実は決定的な断裂の瞬間が描かれていたことを、我々は見逃してはならない。橙に染まったアパートの一室はまるで加藤泰の『江戸川乱歩の陰獣』クライマックスシーンが如き異空間として在ったではないか。あの部屋は果たしてどこにあったのか。昼でもなければ夜でもない、まさに夕暮れ時にしかあの部屋は現れない筈なのだ。時間がそのまま場所となる――長谷部母子が対峙したあの部屋はそんなところに在ったのだ。……嘘だ。つうか、とりあえずそんなことは無視しても今日のどれみは面白いので大丈夫だ。アニメの基本はヨコの動き! と言わんばかりのタクシーout、どれももin、引き戸ガラガラ、どれももinの一連なんか凄く気持ちいいぞ。店の中のキビキビした長谷川君母の動きとか水の音とか清潔感溢れてて、安易な夜の仕事のイメージを軽く裏切ってくれてるところも流石ロマンティスト五十嵐だ。あと小料理屋の1回だけで使い捨てるには惜しいディティール。スゲエよ……。ただ子供用の椅子をセルにして客用の椅子と備え付けの電話を背景にするのは、この後「小道具」としての子供椅子が間違いなく利用されることが予想できるだけに、ちと失敗だったかもしれない。浮きを最小限に抑える為に全部セルで行った方が良かったかもしれない、とか思ったりもするけど、まあこういうのは並べてみないとなんとも言えないしな、と、こんなところに目が行く人間は大概アニメスタイルを読んでいる説に一票。女子大生どれももは却下です。大きくなるなんて断じて認めません。ゲーセンの長谷川君を覗ってる一行の描き方は職員室でのそれと合わせて手癖みたいなものを感じさせますな。それにしてもはづき! いい考えってオイ! 流石メガネは伊達じゃない!(←シャレのつもりらしい) 普段抑圧されてるいい子ほどタガが外れるとコワイんだよなー(通俗的心理分析)。秋谷もノリノリの壊れっぷりに拍手。マジで笑えるって今回。やっぱ東映ならではのフリ→オチまでのテンポ/タイミングってのは絶対あるよ。生理的に素直に笑える。似非易者から乙姫までの畳み掛けで全然ダレないのはやっぱテンポ/タイミングの勝利だと思う。ジャリガキあいおんももは了承(0.1秒)。乙姫どれみは勿論亀どれみも可愛いぞ。つうか公園のシーンは美味し過ぎ! お子ちゃまに亀が虐められるって……。妄想が暴走するじゃないか! あとはづきの魔法バンクは馬越描いてないね。冨田かな? それはともかく、浮遊カットのおんぷの太股! 絶妙な影の付け方がそそるそそる。これは今日はやはり母の日ならぬ脚の日なのか!? ハム公deおジャ魔女は素直に可愛いと思うな。これは商品化してもいいと思う。で、ハムになってもあいこのちょっとお行儀悪く崩した姿勢に目が行くんだよなあ。やっぱあいちゃん可愛いよ。どれみの家来だけど。店の中にどうやって入ったかはともかく電話台からのピーピングは流石の回収ぶり。小道具の見せ方使い方が上手いね。お父さんズ、関先生登場の際の「夢だからー」はやっぱタイミングの勝利。あとこれほんとにいつもの渓介パパ? なんかめちゃめちゃ女扱い上手そうなんスけど。これは…外ではすげーモテるね。なにやら湿っぽい話が続き弛緩した空気が流れ出したところでの急激に唐突な酔っ払い来店に、画面はにわかに緊張感を取り戻す。さり気なく意味もなく描き出される関先生の脚線美! この瞬間に確信した。今日は母の日ならぬ脚の日だったのだ! そしてこれまで演出家の方で懸命に繋いできた説話的持続を、それを本来担うべき脚本家が裏切るこの展開! さすがだ栗山緑! これができる脚本家はそうはいねえ。啖呵切る長谷部君母は確かにかっこよかったが、よく聞いてみると言ってる内容ただの言い掛かり! よくも椅子倒してくれたってそんな狭いとこに置いとく方が悪いだろ! しかし今や我々の前にそんなものは些細な問題だ! 論理的な説得力などハナから無視したその場の勢いに任せたこのケレンききまくりの啖呵の前に一体誰がどうやって反論できよう。喋らせたい台詞は有無を言わさず何が何でも言わせるこの姿勢が素晴らしい。展開の整合性に気を配ろうと、どうせ大枠の話は同じようなもんになるんだから、そこは思い切って展開上の「型」を突き詰めた必殺の台詞で勝負を決めるという栗山マジック! 五十嵐も確実にそこ分かってるよな。痺れるよこのシーン……。椅子の使い方が無茶なところも含めて。MAHO堂での母の日ケーキ作り、女の子いっぱいのお店でも全然照れのないまさる&長谷部君が素敵だ。ああ、やっぱちょっと行儀の悪いポーズがこれでもかと決まるあいこが可愛くてしゃあねえ! 「小鳥の気持ち」はここで使わないでどこで使う! って感じだよな。落ちかけた陽をバックにしたどれみ達がなんとも可憐だ。……そう、今日のラストはやっぱり夕暮れで迎えるわけよ。しかも「暖かみ」を纏ってね。光の滲ませ方が明らかにAパートとは違ってる。ケーキへの光の当て方とか長谷部君母の涙とあいまっての処理なんだろうけど、なんか凄くあったかいのよ。そういう雰囲気がある。まあ単に僕の思い込みのせいと言われればそれまでなんだけど、そういう風に思いたいじゃない(ここまで書いたんだから)。ホント今日のはいいお話でした。
あ、やっぱりあれバンクだったのね。コンテ誰切ったんだろ? こういうアニメオタク丸出しの関心を充たしてくれるどれみファンサイトがどこかにないものか(自分でやる気はありませんの意)。
今日のどれみは確かになかなか良かった。たったひとりのお客さんの為に誠心誠意真心の応対をする彼女らの健やかな心根には胸が熱くなった。勿論それだけでも十分満足なのだが、だがしかし、やはり男としてこれだけは! この思いだけは止められない! MAHO堂でやたら面倒なお菓子頼めば、キャバクラハーレム状態間違い無しじゃないですか! MAHO堂行きてえ! そんでシュークリームでも頼んで出来あがるまでの間チヤホヤされてえ! あいことくだらない世間話してはづきのいれた紅茶飲んでおんぷのダンス見て(歌は曲があんま良くないから聴かなくてもいい)どれみのドジを見守りたい。これはもはや男のロマンだよ……(シュークリーム一個で買えるロマン)。
三島賞に中原昌也が選ばれたらしくて、まあ例によって暴力と不条理のイメージがコラージュ風に云々とかって紹介されてて、新聞の文化欄に芸がないのはいつものことだからそれは別になんとも思わないけど、選者の島田雅彦がテレビのチャンネル感覚で…みたいなこと言ってたのは少し気になる。テレビのチャンネル変えることと小説読むのに然して違いがあるとは思えないんだけど。中原本人も、僕には全ての小説が断片的に見える、とか言ってるけど、なにもそんなことは中原個人に限った話ではなく、推理小説を結末から読み始めるタイプの読み手はみんなそんなもんだ。結局直線的な連続的な認識(連続性を認める)ってものはこっちの頭でやるんだから、ページ順に読むなんてナンセンスだと思う。起承転結と物語のアーキタイプを幾つか知ってれば、テーマ的にここは読まなくても問題ないとか、逆にここだけ読めばいいとかは判断つくし、またテーマを軸にすれば、ありふれてないテーマなんてないんだから、そこ押さえるのは簡単だし(大概解説かあとがきに書いてあるし)、押さえちゃえば物語なんぞ読む必要はないだろう。勿論テーマというものは読んでる人間が
勝手にでっちあげるそれぞれ心の内に見出すものですから、皆さんが思ったテーマが作者のそれと違ったものであっても全然構いませんよ(国語の先生風)。こんなことを考えたのは今『月姫』をやってるせいで、この伝奇ノベルには『雫』『痕』が確立して以降「制度」として定着した感のあるトゥルー(悲)/グッド(幸)エンドを並存させる手法が採用されてるんだけど、ここで言いたいのは別にその制度性が鼻についたとかいう話ではない。ある目的性のもとにストーリーが進行する、ってのに耐えられない人種という奴がいて、今でもエヴァやONEが好きってのはこのタイプなんだが、言うまでもなく僕がそうだ。で、目的性に耐えられないってのは要するにアレだ。人間20年も生きてりゃあ、社会的に合意されてる倫理感みたいなもんにウンザリするのが自然だろう、ということだ。まあなんつうのかね、物語の大半は目的論的展開でしょ。恋でも友情でも敵でも人間的成長でもまあなんでもいいけどとりあえずまず「目的」があって、そこに至るまでの涙々の苦悩と挫折で「現実感」を加味して、「目的」の成否で物語は幕を閉じる。成功の場合受け手は感動し、失敗の場合共感するわけだ。で、「目的」ってのは何か? って考えると、まあ要するに倫理感なんよ。正義は勝つし愛は成就し努力は報われ謎は解明され生は謳歌され若さは讃美され人間は賛歌されるのよ。こうした「目的」邁進のパターン性は最後に「目的」が果たされようと失敗され悲劇的な展開を迎えようと、「目的」ある限りにおいて何ら変わるものはない。ぶっちゃけた話、たかだか受験に合格して嬉しい/落ちて悲しいってレベルの話を大上段に構えた「倫理」で誤魔化してるのが世に蔓延ってる物語の大半であるわけだ。この「目的」邁進のパターン性は俗に「様式」と呼ばれ、今日もどこかで様式美主義な物語が生まれてるだろう。エロゲー屋の新作コーナー辺りでその可能性大。
ちなみに中原の小説一度も読んだことない。
第3話を最後にぽっぷ役の石毛佐和は長いことお休み状態だったわけですが、この度めでたく復帰であります隊長。いやあ長かった。ぽっぷのいないどれみなんて、コーヒーの入ってないクリープみたいなもんですよ。