3/1(完全な私信だな、これ)
そんなの絶対ウソだー。貴方ともあろう人がゼンマイに萌えないなんて!
イフリータをロボ娘と言っちゃってよいものかどうかは、僕はロリの国の人なんで分かりませんが。それはともかくごめんなさい(色々と)。たまってたんで(色々と)。瑠璃子さんは確かにそうでしたね。すっかり忘れてました。瑠璃子さんは違うんですよね、確かに。と、これだけで僕にとっての『雫』がどの程度の位置づけかバレバレですが。郁未をうっかり郁美と書いちゃうあたりから『MOON.』どーでもいいのがバレてーらってのと同じで。名前間違うようじゃ所詮そんなものってのは、まったくその通りです。『MOON.』は寧ろ積極的に苛立つかも。話にならないってのとは違う意味で。『Sense Off』にいらつくのと似てる。まあ『MOON.』は女が主役ってだけで、ケッ、って感じなんですけど。捨てられない偏見です。ただの。『アトラク』なんかは初めからオンナオンナだからいいんですけど。話の中身は別として。……つうか僕がエロゲでまともに話評価してるのって『雫』だけじゃねえか?
僕は、ある出来事の、その当事者にとっては知る由もない因果関係が、不意に浮かび上がることに快感を覚えるから。ちょっと違うか。えーっと、いい悪いに関係なく、ある事象は振り返ってみると何らかの意味を「帯びてしまう」ことは避けられない、ってスタンスでものを考えたがる…と言った方がいいか。《認識-意図-行為-結果の連続性》がモロ見えなのは凄い嫌だけど、なんでこれが繋がっちゃったんだよぉって理不尽が、ある《連続性》の中で再現されるのは好きというか。いやまあ言ってることは同じようなもんなんだけど。僕はハナっから《認識-意図-行為-結果の連続性》を信じていないというか、そう見える外的事象の連鎖があるだけだと思ってる節があって。《連続性》をキャラクターを中心に見るか、物語(あるいは作品表層)に見るかの違いですかね。まあ要するに人が悩もうと挫折しようと、地球はこともなく今日も回ってるって感じを大事にしたい。あと作品にするからには、主要キャラクターによる主観的な認識はバラされてようと、作品としての統一感は欲しいというか。アニメ見るときは、ストーリーとしては繋がってなくても、カット的には繋がっててほしい。例えば『フリクリ』6巻だと、シーンを車で繋げてるわけですよ。なんでそこにカンチがいる! って車で繋がれてるからには「緑のおばさん」の格好してりゃあそれでいいわけですよ(いいのか?)。
画や意味が繋がってないのはツライです。だって繋がってないと破綻が現れないから。予めバラされてるというか、バラすことに主眼を置くというか、そういうのはどうも苦手で。でろーんとチューニングの狂ったギターで下手にノイズ垂れ流しても、ソニック・ユースにはならないという感覚。 <経験談
連関を予め解かれたエピソードの破綻の集成は、話の筋立てを無視する分、シーン構成に対して寧ろ破綻とは全く逆ベクトルのものを露呈させてしまう。『センス』はそこに余りにも無防備過ぎやしないかと。壊れを志向した壊しは、作家の意図した壊れを達成することはない。フィクションにおいては意図的な壊しは完全に制御すべきものだし、それはある種の整合的な美しさを伴うだろう。が、『センス』にこの美はないし、そればかりか壊した結果ちっとも壊れてない作品になったような。ここで壊れまーすとにっこり笑われても、あっそーって感じが。どうしても。僕には。キャラはえらい切れてるんですけどねえ。惜しい。あと『センス』に関してはコンセプト主義ゆえのギャルゲー制度(の獲得経緯)面への無関心って感じも。なんでカレンダー採用して共同生活させるような隙作っちゃうのかなあ。ま、こんなん言っても夏町さんやひらしょーさんの感想の前には平伏する他ないのですが。
あとまあ、やっぱ個人的にまとまってるものが好きなんですよ。解体はあくまで再構築の為、というのが僕のポリシーなんで。脱構築はひとつの構築だと思ってるし。例えばアルバムレビューやるとして、1曲毎に感想書くなんてのは誰でもできるわけです。そのまま誰の目もに見える構造なんて取上げても仕方ないし、それは僕はやりたくない。総体として纏め上げるくらいのことしないと、レビューの意味はないと思ってる。エロゲーのレビューでも、キャラシナリオ毎に書くのは、芸がないと思ってる。見えない構造を掬い上げて、その意味を組替えてやらないと、面白くない。だから『センス』よりは『フロレ』です。もっとも『フロレ』は、俗っぽい主題と構図をそのままにしてるところが、どうにも理解不能なんですけど。
僕はSFもミステリもわりとどーでもいい人間だから、どーせだったら教室の中だのバラの温室だのプラネタリウムだの夜のハイウェイだの秘密の地下室だの中空に浮かぶ決闘場だのを何の脈絡もなく行き来しつつ、主人公と娘さんがただひたすらに噛み合わない会話を楽しんでる、みたいなゲームだったらよかったのにナーとか思ってます。 <それ違う
アニメスタイルの細田守のインタビューはわりと家宝です。「演出家は誰でも、どうでもいいシーンなんか設計したいとは思っていないでしょう」。細田デジモン、僕は凄い好きなんだけど、M川君って映画好きの友人には、「音楽に頼り過ぎ。ワンカットが短過ぎ。繋がり(が見易)過ぎ」とまこと映画好きならではのアニオタには返しようのない言葉を頂戴してヘコんだんで、それをなんとか覆そうと今のとこ《連続性》積極支持の道。
普通の学園恋愛モノに可能性がないなんて思ってませんよ。ちゃんとズラしにかかってる人達だっているし。「くじけるな。信頼してるぜ。なんとかお金作って(自販機の下に落ちてるお金を拾い集めるとかして)ちゃんと買うからサ」
エルハ(言うまでもなく第1期限定)に関しては、「イフリータに骨抜きにされろ! これが中沢一登だ!」。新ロードスOP/EDも凄まじかったなあ(本編は当然無視)。ガウルは未見だけど。ところで中沢デジモン見に行くべきか行かざるべきか。夏どれみの予告あるだろうしなあ。あと東映はキン肉マンII世だったら、リンかけ2をやるべきだ。むしろ初代を。
エルハだって好きなんだし、学園エヴァの系統は別に嫌いではないのです。まあギャルゲー作家一般に対しては、北方風に「小僧、御託はいいからとっとと学園エヴァ(SUMMER)を作れ」って感じ? <ユーザーって勝手だよネ
ある作品に不意撃ちされたとする。君はそれを天のお導きなどと言って喜ぶのだろうか? しかしある作品がそれ単体などで成り立っていることなどある筈もなく、過去から未来へと流れる時間の中で、それはあるテクストとともに現れる。例えば、どれみが「朝日放送系列日曜朝8:30〜9:00」という枠(組)の中で放映されていることについて何も感じない人間がいるだろうか? 人はそうやって本を読んできたのだし、音楽を聴いてきたのだ。映画を観て、マンガを読んで、アニメを見てきたのだ。不意撃ちされるというのは、既に体験的な出来事なのだ。
ピロウズが吉田仁プロデュースなのを知って、そんなことを考えたりもするのだが、僕は没にした(自分の頭の悪さを全身全霊で語ってるような内容だから)日記の中でこんなことも書いている。
アタマでの処理とココロの動きをどこまで分けられるか。
なんでココロ動かされたのか? と自分に問う行為そのものはアタマでの処理に過ぎない。自分にとって何が大事なのか? そう考えた時点で、「自分が大事だと『思う』『もの』」に自分が規定されていないか? という疑念。それが信念ってヤツなんですか? 信念とかその手の言葉は嫌いなんですが。盲信っぽいイメージがあって。ちなみに僕が大嫌いな言葉は努力根性義理人情他です。イェーイ。そりゃあこんな辺境で痛い日記書くわな。
所詮全てはアタマの中での出来事なのかもね。
となると「体験(カラダ)」に頼るしかなくなる気がするけど……
それは嫌。とにかく嫌だ。ああ嫌だ。(詠み人知らず)
おおっ、これは既に「『体験は嫌だ』って『体験』」じゃないか! それとも「体験は嫌だ」に規定されてますか?
ひょっとして理論と実践にも差異はなくねえすっか?
いや、こうやってグダグダ考えるのが楽しいってことで。今んとこ僕が規定されてる/体験(体感)してるのは「人様に威張れるほど大事にしてるものはない」かな。人間てのはこーやって常にユラユラ揺らいでいるものだってのが結論といえばそう言えなくもないような気分。
今日のネタ元は実はこれだったりする(註)。常識と非常識、日常と非日常についてナニゴトか「読んでみる」より、魚が獣を喰っちゃったってのを「目撃する」方が楽しいよね。間違い無く。けど「現実は小説よりも奇なり」を素直に認めるのもシャクなんだよね。ある意味常識派に味方することになるしさ。体験談が嫌いなの。まあ食物連鎖という概念を知ってるからこそ、その転倒に驚いたのだ、とかなんとかは言えるけど。それ言ってもつまんないしなあ。
(註)デカあんこう捕まえたら腹の中にカワウソだかが入ってたってニュースがあったんです(うろおぼえ)。
改めて読んでみるとホント、頭悪いなあ(溜息)。
とりあえず何事に付け、結論を導き出すのを避けたがる(抽象力不足ゆえ、問題系とその回答に対して理論を援用できる適用範囲をうまく指定できず、定式化が果たせない)人間だと御理解いただければ幸いです。 <逃げるのは得意
テレ東系列入らないとこ住んでると、ついアニメから足が遠のいてしまいます。衛星も入れてないから、ノンスクのも見れないし。いや、別に今更河森になんぞ何の期待もしてないから、『地球防衛家族』が見れなくても一向に構わないんだけど。まあでもメモルとコナンは見たいところではあるなあ。春の新番では、プリーティアとムリョウは見ないことなど許されまいとまで思ってるので、誰かビデオに録って僕にください。 <本気
ということもあって、細田守は、まあ例によって完全に後追いです。鬼太郎もアッコも見てなかったし(原作ものはつい見る気が減じるでしょ?)。アニメ系のサイトなんてちょうろくに見て回ってなかったから、話題沸騰になってることすら知らなかったという体たらく。夏に出たアニメスタイル読むまでその存在を知りもしなかったという僕は、やっぱ怠惰としか言い様がないです。
デジモンはCGの使い方(進化シーン)が、いかにもこれが売りです、って感じだったんで、ただの一見で見限ったという経緯が。これはゾイドにも言えることなんだけど、明らかにそれと分かるテクノロジーのあからさまな(工夫のない)提示は、どうも僕から見る気を奪ってしまう。僕は頭使ってるアニメが見たいから。そこだけ頑張られても、却って志の低さみたいなのを感じてしまうというか、普通テクノロジーっていかに客に気付かれないように使うかがミソじゃないか? デジタルものでも、『青の六号』なんかは、テクノロジーをなんとかねじ伏せてやろう、って気概が伝わってくるのが良かったですけどね。モノとヒトとの噛み合わなさがある種の緊張感をフィルムに孕ませていたというか。話はつまんなかったけど。でもまあキリコ・キュービィの声で村田蓮爾のキャラが喋るってのは、それだけで感動的ではあった。あと僕やっぱ草ナギ琢仁のデザイン萌えー(漢字見つからない)。あ、いや、だからTVでデジモン見てなかったって話なんですけど。21話、ナマで見てたら腰抜かしたかもなあ。
デジモン劇場1作目は「怪獣映画」ってことらしいんだけど、特撮にはあんまり興味ないんで、正直コロモンが「怪獣」になってからはわりとどうでもいいというか。怪獣グリグリ動いてもあんまり食指が伸びない。そんなのより序盤の朝ご飯のシーンがずっと好きで。つくづく日常芝居が好きだなあ、とは自分でも思うんだけど。太一が椅子にあがってフライパン使うショットとか、日頃のルーティンワークをそのまま切り出すのに成功してると思う。卵の転がり方とかもツボでしたね。でまあ前述の通り、怪獣はどうでもいいんだけど、子供好きとしては、太一とヒカリの表情とか仕草がすげえ良いのが嬉しくて。特にヒカリは最高ですね。壊れた自販機からこぼれた缶ジュースを拾おうとするシーンが好きです。まああれは演出的な手際の良さで読んでしまってもいいんだけど。ウーロン茶→トイレ→フリーズの分かりやすいコンボが、空と太一のケンカ話を語るのには必要で、しかもそこで飛行機雲飛ばすような感じで。寄木細工のようなエピソードの絡まり具合(連鎖)がミソではあるけど、なんかこうキャラに優しい感じが嬉しいんですよ。なんてことないことがどんなに魅力的に見えるか、ってのから演出が始まってると思う。缶ジュース拾うヒカリがえらいかわいいです。で、最初見たとき、ふとアナ・トレントを思い出したりしたんだけど、監督、SFマガジンのインタビューで『ミツバチの囁き』ベースにしたとかって発言を。やっぱ僕って「正確」ですね(自慢)。ストーリーらしいストーリーない分1作目が好みなのは、言うまでもないか。
2作目『僕らのウォーゲーム』は、面白かった! で済んちゃうタイプですね。ただまあ僕の場合、この系統は、ストップウォッチでカット毎の長さとか計ってみたくなるんですけど。こういう純粋に面白いのって面白さの構造把握をしたくなる。ラピュタもそんな感じ。僕、イデオロギーに興味ないし。それはそうと確かにお母さんがいいですね。声良かったですよね。誰でしたっけ? で、フィックスに耐えるレイアウトって点では、一作目より充実してたんじゃないかと思う。「主人公が部屋から一歩も出ない映画」だけに。僕、あんまり動態視力良くないから、ギュンギュン画が動くより、カットの厚みとコンテの緩急で勝負してくれるタイプの演出家の方が相性いいんです。その点で細田は本当に才気走ってると思うけど、僕が細田を「待望」と思うのは、そこじゃなくて、「主人公を部屋から一歩も出さない」ところです。さっきも言ったけど、なんてことないことがどんなに魅力的に見えるか、ってことしかやってないと思うんですよ。見せ方しか考えてないというか。人間の「魅力的な部分」ってのを枠付きで考えてなさそうなところが好きです。あ、でもウテナのコンテはちょっと気色が違うか。劇場版のお絵描きシーンにゃシビれたニャー。でもやっぱウテナでも大人しいのに派手じゃないのにゾクゾクするコンテ切ってたか。周囲のモノとヒトと時間と空間の連関の中でキャラ描くんだよなあ。「内面」はそれ自体では成立しないって感じ?
……ええと、アニメの批評ってこういうこと書けばいいんですか?(苦笑)
今日のは気の回し過ぎ? 単なる自意識過剰? だから読まなくてもいいです。僕が人に全く気を遣わないのは、人に気を遣われたくないが為の決意表明とか思っていただけると幸いです(自己正当化)。それと信頼の証(という美句に隠れた他者依存と怠惰)。甘えん坊なんでチュー。甘える人は選びますけど。というか僕が好きになるのは、僕を甘えさせてくれる人でチュ。甘えられた方はたまったもんじゃないでチュねー(分かってるなら改めろよ…)。いずれにせよ文章をそのまま読むことなどできはしない、くらいのことは常にわきまえているつもりではいたいので、どうしても(無意識的に)ある程度の幅を以って読んでしまうわけでして、それは一種の強迫観念ですらあるわけですが、そんなにイケナイことでもないと思うし、それにどうせ喉もと過ぎれば熱さは忘れるし、人は性懲りもなく同じ類の過ちを繰り返すのだ、というのを人生訓(免罪符とも言う)とすらしてるので、僕がなにやら深刻な状態に陥ることなどあり得ないし、第一鬱になった経験すらない徹頭徹尾能天気な人間の頭の中は、常に怠けることで一杯ですから、なにかハッとする瞬間があっても、どーせすぐに風化します。まあ熱さそのものは覚えてないけど、熱かったという出来事があったらしいことくらいはぼんやりと覚えてる程度の知能はありますけど。あるといいなあ。あんまり自信ないや(弱気)。とりあえず「乙女は急に止まれない」をハミングしながらタイプしている事実を明言しておくことに幾許かの意味はあると思われるが、関係各位にあらせましてはいかがお過ごしでありましょう? ♪ドジをして ヘマをして 世界一不幸でも ひた走れ 優秀な魔女までの道♪ 千恵巳た〜ん。それにしても僕は要点的な部分になると途端に読点を使いたくなくなるらしいが、これは、確かに文章は読んでほしいが、主張は読まれたくないというアンヴィヴァレントな願望の顕れか? 何を今更。長文書きたいんだけど、リズム感悪いのは致命的だよなあ。落語聴かなきゃダメか?
たぶんWeb上で唯一のどれみ批評。嘘です。やる気はありますけど、いかんせん実力が。嘘です。やる気もあんまりありません。犯る気はあるけど。 <何をだええと、実は僕はSOSが(というか奴等が繰り出すギャグらしきものが)死ぬ程苦手なので、できれば奴等の存在はないことにしておきたいのですが、ここで早くもメイン張る話が出てきて気分はもうすっかりシンジ君。逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ。いや、ホントにダメなんですよ、SOS。面白いこと言おうとして滑ってる感じが全然しなくて、ただ面白くないだけにしか見えないから。もうホント、ゴメン。SOSメインってだけで、もう僕まともにみれないわ。耐えられなくて。ゴメン、あいちゃん。君の華麗なツッコミにも勝るSOSへの耐え難さ。ひょっとして話としては面白かったのかもしれないけど、僕SOSだけはどうしてもダメだ。なんつうの? 大好きなチャーハンでも、ピーマン入ってたら絶対食べる気になれない子供の感覚?(ロボット8ちゃん) もうねえ、奴等が何か言った後のブリザードのタイミングとヴァリエーション強化でなんとかできるとかそういう次元じゃないんです。もうホント逃げ出したくなるんですよ、SOS出てくると。あー困った。それはそうとして広嶋秀樹はフィルムの流れがどうもぎこちないね(←一応それらしいことを言ってみる)。
……どれみはデジタルだからフィルムじゃねえだろ! って自分にツッコミいれたくはなるけど。いや、でもさ、「コンテ」と言っちゃうと、音の存在が消されちゃう感じがして嫌なんですよ。かといって「アニメ」って言っちゃうのもあんまりかっこよくねえなあ、と思うし。「フィルム」って単語使うとなんとなくスマートじゃないですか。実際はどれみにフィルムは存在しないけど(あるのはただのデータなの? 識者の方教えてプリーズ)。このへん突き詰めると、僕らが見ているのは本当にアニメなのか? とか、アニメとはいったいなにをいうのか? とか暇人の思考遊戯には最適の(ありがちな)話題になるわけですが、さあ皆で考えよう!(遁走)
今ふと思ったんだけど、僕のどれみ話って、どれみ見てない人からは思いっきりバカにされているんだろうか? 僕がでじこ萌えを真面目に書いてるアニメ日記を心底バカにしてるのと同じくらい。
アニメだけじゃなくてエロゲーの話だってしますよ! ところでやっぱマリナ・ヴラディは最高だね(←仕入れた情報はひけらかせずにはいられない)。
どうせ僕にできるのは『AIR』話だけなんだけど。僕は『AIR』は優れて「ゲーム」的だと思ってて、殆どこの部分だけを支持しているので、まあ自然とそういう話になります。今日はそこに入る前の地ならしとして、キャラクターのお話を。
あそこの一連のゲームを娘さんだけで語るとき、個人的なことを言わせてもらうなら、茜と長森以外ははっきり言ってみんなどうでもいいのだが、麻枝サイドと久弥サイドでは明らかにどうでもよさの質が違ってくる。例えば僕は、みさき先輩にも七瀬にも同じくらいゲンナリさせられたのだが、ゲンナリの中身は両者では全く異なる。これは前にも似たようなことを書いたけど、麻枝サイドの娘は本気で僕を苛立たせる。七瀬が「乙女」を目指してると聞かされて、ハァ? なんだそれ? となったのは僕だけじゃない筈だ。「乙女」? それは現代日本で一般に流通している辞書的な意味での「乙女」なのか? それは今この世の中で本当にフィクションの要素として機能するものなのか? いくらギャルゲーだからって、それあり? つうかギャルゲーだからこそ「乙女」なんてアナーキーなもん持ち出しちゃイカンだろう? まるでおにぎり食べてたら、中にチョコレートが入ってた、というような。これは俗に「違和感」と言われるものだ。対してみさき先輩のあの「ありがち」な優しみは、また中身はシーチキンかよ…、というようなゲップ感を僕にもたらしたのだった。いや、僕、シーチキンそんな好きじゃないんですよ。鮭は好きだけど。先輩は上等なとても美味しいシーチキンではありましたが、シーチキンでしかありません。七瀬はおにぎりの中にチョコレートです。笑うしかありません。けど、笑っていいものかどうか、一抹の不安が付き纏って離れません。
言わば麻枝キャラは、僕らが自明のものとして安寧とそこに帰属している共同体(←この単語嫌いだから各々で適当な代替単語に入れ換えてください)に揺さぶりをかけるのである。例えば「女子高校生」が本気で「乙女」を目指すことによって生じる違和感。こうした共同体的同質性への鈍撃にはどうしても生理的嫌悪が伴うから、僕は七瀬に萌えることができないのだが、それと同時に、共同体的同質性に無自覚に埋没しているかのようなみさき先輩のグロテスクさにも馴染めない。うーん、我ながらすげえ勝手な言い分。ただまあ、コミュニケーションを一義的に差異の確認を通して他者性を獲得するプロセスとするなら、麻枝キャラは正に「他者」であるとは言えまいか。あの娘らは、僕らが当然のものとしてる認識の枠組を著しく逸脱している存在であり――そこに萌えるという剛の者もいるだろうが――それゆえ大多数にとっては、現実にゃこんな奴いねーよ、とゴミ箱に捨ててしまって構わないシロモノでしかない。ここで、たかだか現実程度のものを参照にすることの不毛さを説く、といった形での反論は容易に予想できるが、それを承知した上でなおこれだけは言える。麻枝キャラは「現実」――換言するなら認識の枠組み――を参照せずにはいられない迫力をもってプレイヤーに迫るのだ、と。麻枝准のキャラ造形の真の恐ろしさはここにある。「現実」という共同性との対面を余儀なくされるのが、麻枝キャラとの語らいなのである。こういうのって本当に疲れるから、正直言ってもう勘弁してもらいたいところではあります。ちなみにこのパラグラフの内容を分かりやすく言い換えると、一般常識が全く通じない麻枝サイドと狭ーい常識(通俗フィクション的世界観)の範囲でしか動かない久弥サイド、正直言って僕はどっちも…嫌です、ということになるんだけど、
そんな当たり前のつまんないこと言えるわけないだろう。確かにどっちにも肩入れはしたくないけど、どっちが好きかって言えば、そりゃ久弥サイドです。付き合うの楽だから。ただ読んでてどっちが刺激的かと言われれば、それはやっぱり麻枝サイドに軍配が上がる。共同性に意地でも背を向けたい(自己を特権化するルートは確保しておきたい)人間としては。共同性からの独立の体系がキャラクターとして形取られるとき、人はそこに七瀬や真琴や舞、そして観鈴を見る。彼女等の種々の痛い幼児的言動は、その独立の体系が表象として噴出している様なのである。それが「がお」であり「ゲルルンジュース」であり「町の地図」なのである。これをただの萌え記号づけなどと公言し、「うぐぅ」とか「カレー大食い」とか「イチゴサンデー」とかと混同するのは、自分の読解力の欠如を吹聴して回るようなもので、そのマゾヒスティックな感性には最早恐れ入るばかりだ。まあ「がお」を我慢しなきゃいけないくらいならまだ恥かいた方がマシ、という気持ちは分からなくもないが。いや、僕もキツいんです本当に。鍵っ子はツラいんスよ、これでなかなか。
批評(←マイブーム←痛)風なこと書きたいだけで、無理矢理それっぽく「見りゃわかるよなあ、なんで気付かなかったんだろうというような気になる」ってことをひたすらつつこうとしてるだけだから、あんま本気で僕がこんなこと考えてるとは思わないように。部分部分は本気で思うところも書いてあるかも。でもひょっとして全部本気かもよ?
恋愛を扱ったマンガが好きでして。まあ大抵のマンガはそうなるわけですが。子供のときから(今でも子供だけど)ずっとマンガばっかり読んできて、気付いた時には、恋愛は紙の上の人達がやるもんで、僕はそれを読むだけだと自然に思うようになっていましたとサ。いやね、美男美女の素敵な恋の物語なんかを読んでると、これはどう考えても自分にゃ縁がないと思えて仕方ないというか、僕ごときがあつかましくもしゃしゃり出たら、恋愛というこの素敵な物語を三流喜劇にまで貶めかねないから、寧ろ積極的に僕は恋愛という「物語」には立ち寄ってはいけないのだ! とまで思ってしまう。そうだ! 僕は恋なんかしちゃいけないのだ! あーそこ、外野、モテない人間の理論武装とか野次飛ばすのはやめなさい。本人だって知ってるんだから。
僕が茜を好きなのは、あのえいえんすらただの舞台装置に見える程、浩平と茜が「運命のふたり」してくれるせいでありまして。他の誰も知らない浩平の事情を、茜だけは知っている! 秘密の共有は、恋するふたりだけの世界を構築する為の、とても大切な条件でありましょう? 茜は特別なんです。恋愛関係ってのは基本的に互いしか見えてない情態を指すのであって、世界からそっぽ向かれてる浩平と浩平が世界からそっぽ向かれてることを世界でただひとり知る茜は、これはもう文句無しに「誰も触れないふたりだけの国」の国籍認定です。ハラショー! ここまでいかなきゃ恋愛なんかじゃない! そういうのに僕はたまらなく萌える。
僕が七瀬がダメで、茜に激しく萌えるのは、まあそういう感じ。七瀬の王子様に付き合う余裕は、僕にはない。うん。そうだな。僕やっぱ人に合わせるって立場に耐えられないんだよ。どうもね、相当に自分勝手な人間だから、彼女の事情に付き合わされると疲れるというか。浩平は七瀬と付き合うに、七瀬の世界を実現させることに腐心する。これは意外と麻枝シナリオのデフォで、主人公側へ娘さんを引き上げることはない。現代社会的通念みたいのが娘さんには欠けていて、まずはそれを叩き込まなきゃいけないのが『Kanon』以降。恋愛以前のコミュニケーション。そんなもんエロゲーでやるなや…。『ONE』は一応娘さんが現代社会になんとか対応できそうな陣営だから、叩き込みはしないけど、それでも十分ヘンな連中だから、娘さんの削れた世界に付き合わないことには恋愛が始まらない。七瀬と付き合うというのは、乙女の王子様になるということだ。「七瀬、お前、なんか間違ってるよ!」とモニターの前でツッコミ入れてた僕にはお構いなく、七瀬に何故か惚れてくれる浩平。この辺が麻枝シナリオのミソであります。プレイヤーキャラとプレイヤーは基本的に別人です。だもんで徹頭徹尾萌えません。まあ七瀬は友達にひとり欲しい感じではあるな。うん。
麻枝キャラは、付き合うには、ザ・ワールドが強過ぎます。もう少し主人公側に来てくれないと、話ができない。というか、僕が話をしたくない。
キチガイには近寄りたくないし。これが長森になると、幼馴染っていう同質性が僕を安心させるんだけど。幼馴染欲しいなあ(発言者:25歳)。長年付き合ってれば、そりゃお互いのオカシなとこにも慣れますよ、ってな感じの浩平と長森はとても好ましい。逆に言って、娘さんの異質性を受け入れるには、長い付き合いを経るしかない、ってのが僕の感覚。七瀬はなあ、転校生だし、おかしいし、僕感覚だとあれは恋愛に発展しない。イジるのは楽しいけど。それに浩平の自意識の問題を受け入れるにも、長い付き合いがいるんじゃない?消えるの消えないのってときに、なにも訊かずに膝枕してくれる長森と、全てを知ってて「あなたのこと忘れます」って言ってくれる茜は、コインの裏表っつうか、同じくらい好きですね(素で言ってます)。他者性を獲得したいという欲求はあるけど、やっぱ同一性も欲しいわけです。他者性を認めるという意味での同一性(長森)と、正に同一性(茜)と。他の容認と他との合一。現実的理想と物語的理想とも言えるか。恋愛マンガ愛好家としては、茜はたまんねえっスよ。長森は本当にいたらいいなあと思う(素で言ってます)。
これ書いてて、自分が他人に寄ってこられるのも嫌だ、他人に寄っていくのも嫌だという、正真正銘の自分勝手人間だと改めて。はぁ。まったく、こんな奴死んだ方がいいですね。 <心から
この前の続き。というか繰り返し。読むべきは内容じゃなくて、単語に振り回されてる僕のアワレっぷりです。読み返すと笑えてきます(涙目)。
それにしても僕にはやっぱり麻枝キャラに萌えるという感覚がさっぱり理解できません。あいつらから感じるのは徹底的な「違和」だけだし、《交換価値に乏しい》(寧ろ交換不成立と言いたい)、《宇宙人》とのコンタクトとかいう文脈で語られるべきものだろうと思うんだけど。『AIR』やってて、ふと『イデオン』思い出したりしたのは僕だけなのか。と、こう言っちまうと、途端に高い交換価値がついちまいますが。キャラにじゃなくて、その現れ方に。
前に某友人と、長森が童謡しか知らないことについて話をしたんだけど、彼はこんな風に言うわけですよ。「麻枝って人はどうしてこんなにも『少女』を閉じ込めたまま成長してしまったって感じの娘を描きたがるんだろう(溜息)」。僕なんかは、「あーもー童謡なんてホントにこんなウンザリするエピソードは勘弁してくれよう」って感じだったから、あーそんな見方もあるのカー、って感心したんだけど。でもやっぱりあそこはウンザリする方が自然というか。まあ僕の感覚的には、だけど。
一時期、麻枝のシナリオは娘さんを「幼児」として考えれば、これは見慣れた風景になる筈だ、と考えてて、まあつまり「文学的」な「少女」の「イメージ」という高めの《交換価値》が生じる筈だと考えてたわけですが。「傷ついた青年と穢れ無き少女」。ヴェンダースの『都会のアリス』を語るときの通俗的な切り口のようなものです。ロリコン麻枝って作家像を仮構してとも言います。これがギャルゲー的恋愛世界観とはマッチしないのが致命的だと考えてたけど、交換価値ってものを軸に考えれば、マッチしなさ具合(違和)も納得です。「共同性からの独立の体系」ってのは、そういうことを頭に浮かべて言ってるんですけど。観鈴や浩平は「独立」というより、思い切って「排除」って単語を使いたいところです。まあそのへんが主人公の証とも言えます(『AIR』は『MOON.』を受け、観鈴を主人公と考えるべきだろう)。
普通「萌え」ってのは娘さんとの同質性を確認する一種の儀式であろうから、その意味で麻枝キャラに萌えーとか言うのは違うだろう、と。真琴萌えーとか舞萌えー佐祐理さん萌えーとか言われる度に首を傾げてしまうのは、僕だけじゃないと思うんだけどなあ。あれは「違和」が服着てるようなもんでしょう? 僕らが普段そう言う意味での「キャラクター」じゃない。「現実」(「常識」でも「日常」でも、あるいは「虚構」でも勿論「ギャルゲー」でもいいけど)という広めの共同幻想を崩しにかかってるかのような麻枝キャラに対して、ギャルゲーという閉鎖的共同体経験の末に獲得した儀式としての「萌え」で対抗するのは、あんまり良くないんじゃないかなあ。要するに、「だよもん」を変な口癖萌えの範疇で理解されるのには抵抗があるということ。あれは異質性の表象だと思うから。変な口癖とかは一見差異を強調してるに見えて、変な口癖という安定した認識の枠組み――それは一般に「記号」として理解される――のなかで理解が進むという同質性確認の契機でしかない(更にいうなら「ギャルゲー」で囲えば、目が見えない、口がきけないなんかは取るに足らない差異の振幅の中「予想の範疇」に収納される)。麻枝キャラに関しては、萌えなんて言う人より気狂いとか言う人の方が、まあ僕としては話が合うというか。ちなみに僕が萌えーとかいうのを否定してる訳じゃないのは分かってもらえ…ないか。なんつうの? フィルモアのファティマの扱い方ってギャルゲー文脈の萌えに近いと思うんだけど。「ファティマが騎士様に献身することを愛情と間違われてはなりません」。ギャルゲーの女の子がプレイヤー(主人公)に優しいことを「愛情」と間違ってはいけません。
まあ僕なんかは軟弱だから、交換可能な《画になる悲劇》をもーちっと含ませてもいーんじゃないかと思いますがね。過剰なものはどうしても苦手で。というか美意識の問題として、それなりにまともな女子高校生が見たいってだけなんですけどね。……ダメ?
結局個人の好みの問題に収斂するっていうつまんねー結論なのかー。うー。とりあえず、差異の認識がそれが充分に獲得され得ないままに同質性へと転じ、ややもすると、異質化と同質化が混同される事態にまで進展しまった現在状況が、僕にはどうにも居心地悪いし、こんな情況だと僕が切に望む萌えを宙吊りにするようなゲームは期待できない、とかもっともらしいこと言うついでに、そのようにして獲得された「萌え」は最早ギャルゲーという閉鎖的共同体のみで通用する「慣習」に過ぎないのではないか、言い換えるなら、ギャルゲーマーが萌えるというのは単に共同体的「慣習」によってそうなっているのではないか、などとその辺に転がってる抽象的図式を「萌え」に当てこんで、いつものギャルゲー批判としますか。にしても共同体概念とその内部外部で物事大体説明ついちゃうなあ。だから説得力ないんだけど。
恋愛とは自己同一性を対象にまで延長させたときに発生するのだと思うが、これは万事がユーアーウェルカムな状態であって、究極の恋愛とは、つまり片思いを言うのではないだろうか。彼女のことを思い浮かべるだけでただただ幸せ。彼女は僕の中にしかいない。両思いが幸福であるのは、片思いが互いに一方通行しているごく初期のときだけのような気がするのは、僕だけだろうか。お互い、相手が何を言おうと全てを好意的に受け止められる。だって向うにいるのはもうひとりの自分だから。が、困ったことに当然ながら相手は自分ではない。なんで君は僕じゃないんだ! 原理的にひとつとなることのない君と、もうひとりの僕としての君のコンフリクトが恋愛なのだ。がー、そんなもん僕は願い下げしたい。だって疲れそうだし。
当然そんな形而上チックなことを言っても始まらないのが人間であるわけで、人間、ウダウダ理屈こねようと、いつかそのうち人を好きになっちまう。ああ嫌だ。僕は人を好きになんてなりたくないのに! そんなわけで人は形而下での妥協と歩み寄りを恋愛と言ってやり過ごす。君が僕ではない以上、僕が見ている君は君じゃないんだから、君に振り向いてもらえるように、愛想尽かされないように、アレコレ考え、動くしかない。その為のマニュアルにゃ事欠かない世の中だし。カワイイアイツを手にする為に、ついホットドッグプレスに手を出したりするのも、思い余ってストーキングしちゃうのも、まあ部外者から見ればどっちも笑いの種にしかならないが、当事者にとっては笑い事じゃ済まないものがあるんじゃないの?(典型的部外者の言) エロゲーであの娘のパンツを脱がすには、まずストーキングするんだし。攻略サイトってマニュアルに頼るんだし。
まあ、ネタにできるうちが花、って感じ。恋愛論みたいなのが常に不毛なのは、それが恋愛障害者の側から出た切迫した言葉でも、成功者の経験から出た余裕の言葉でも、当事者にとっては何の役にも立ってはくれないということか。読んで面白いとかつまんないとかは、実際に役に立つということとは何の関係もありません。じゃないの? いや、オレ、まともにモノ考えるようになってから、女の子好きになったことないし。
人を好きになるって結局は自己愛の一類型に過ぎないんじゃないの? と考えてみることは、まあ人と付き合う上でもそれなりに有効じゃないかなあ、と思わなくもないです。人は大抵鏡に映った自分の姿を愛せませんが、自分が作った他人は愛せるわけですよ。他人が自分と同じになったら、自分を愛せない以上、他人も愛せなくなるわけで、折角他人を作った意味が無くなるんだから、他人に同質性を求めるのは程々にしておきましょう。とか。いや、それが分かってても……ってのが恋愛なんでしょうけどね。結局何が言いたいんでしょう。僕は。
あと付け足し。しておくべきかな。僕は世に恋愛に関する有象無象が溢れていることによる「恋愛の社会的ステイタス化及びその圧力」なんてなものは、全く見る気がしないので無視してます。いや、そんな圧力に屈するほどみんなバカじゃないでしょ? ってことなんですけど。恋愛をこなさきゃいけない、とまで思いつめてる人なんていやしねえだろうし、もしいたらそいつはただのキチ(以下削除)。それに一般にヒトがある人間をバカにするのは、その人がもてないからではなくて、だいたいはそれ以前の問(以下削除)。
『ワンピース』は、わりと最初から意図と結果の断絶がはっきりしてたと思う。vsバギー戦で既に空回っりぱなしの町長さんの姿が見られる。オーナーゼブはこんなこと言ってましたね。「この店のコックがそれぞれ自分の思うままに動いた ただ それだけのこと」。というか、意図の背後に「夢」があるからには、結果はどうしても不連続体として現れる。「夢」なんぞ見るのは、その時点で負け戦だとか言ってみたくなる誘惑に駆られもしますが。嘘の外には何もないと嘘の内からは言う他ない。外を夢見る夢の中。恥ずかしいですね。理解もせずにこういうこと言うの。超越的な外部など存在しないことが自明となった今や、夢を追いかける物語はいきおい意図と結果が断絶される。夢とは外への、不可能(と認識されているもの)への志向そのものに他ならないのだから。勿論嘘です。ただの思い付きです。こーゆーのを安易と言います。とりあえず「海賊王になりたい」も「コマンド? *にげる」も、まああんまり変わらないかなあ、とか。変わるっての。ちなみに僕はなにもしたくないんですけど。
尾田はウサギ'75ってこともあって、なんとなく同時代的というか同世代的なものがあると思うんですけどね。根拠はないですけど。ワンピースは不可視なナニかとしてしか描かれ得ないだろう、とも思ってますが、これはさすがに色眼鏡に過ぎるかな。
外部の非存在性って補助線を引きますと、結構イロイロ見えてくるというか、ワリとなんでも強引にこじつけられます。認識の外側にあるモノを囲い込んでも(言い方ヘン)、外部が存在しない限り、それは位相反転して内部に隠蔵される、っていうのは、とりあえず現代的な考えだと思いますが、例えばラピュタは完全に世界の外側にあるわけですよ。雲の砦をまとって。今の若い衆はまずこういう描き方はしない。少なくともワンピースでそれはないと思う。まあラピュタにしても、テクノロジーって観点で言えば、産業革命を背景にしてるんだから、ある意味、世界の外部としての超絶テクノロジーは内部に偏在的に実現されている、とかっても言えるか。爺さんの安易な文明批判がイヤーン、とか言ってるバカはこれで退治できるかも。『グランディア』なんかも、最初は壁で世界が囲われてるわけだ。これを乗り越えて世界を広げたら、今度は外に精霊界があるわけで。最後には精霊が世界へ分布される。世界の外に囲い込んだものは、反転し、世界の内部に再布される、っていうのは、昔からの夢を追いかける物語のパターン。魔女ッ娘モノの定番メニュー。結局、外部がないってのは、青い鳥のお話の一類型と言えるのかもナー。宝は君の屋根裏部屋にある。ええ、勿論本当はそんなこと考えちゃいませんよん。
逆に言えば、夢は外に囲まれなきゃならない。ドンキホーテが冒険する未開の地を失って以来、ヒトは一生懸命夢を外に囲い込んできた。ドンキホーテにゃなりたくないからね。外部を仮構する必要がある。『ワンピース』でもグランドラインへ出るには、明解な境界として、リヴァースマウンテンが用意されていた。というかレッドラインやグランドラインが既にそういう存在か。将来的には、伝説の島ラフテルがどういう風に描かれるか、ってのが見所。たぶん確かなカタチは取らないと思う。外部が存在しない故に、外部を仮構したけど、外部はないんだから、やっぱり仮構された外部は捩れて内部に存在する他ない、というパラドクスをどう処理するかが、現代に生きる作家の腕の見せ所。定石通り、外部を明確な「異界」としちゃうのは、あんまり今っぽくはないと思う。結局はドンキホーテになるのかもネ。
……ゴメン、やっぱ無理矢理のこじつけだわ。明らかに自分でも苦しいと思いながら書いてるし。とりあえず『ワンピース』は過去のどんな少年マンガより好きです。ジャンプの最終形だと思う。サンジ萌え。言いたいのはこれだけなのに、なんで無理矢理話作んなきゃいけないんだよ、まったく。
余談だけど、外へ出るタイプの物語で、外へ出た後が語られないのが弱点だ、という批判は一見もっともではあるが、外なんてないんだから外なんぞ描きようがないとは言えまいか。実際的なお話しか認めないっていうなら、それもいいけど。「世界を革命する力を!」は別に世俗的な実践論じゃなくてもいい。呪文みたいなもんです。もしくは座右の銘。学園エヴァなんぞ破壊しろ! してくれ、マジで。いい加減ヌルいのはもう嫌だ。って言わないことには始まらないでしょ。受け手としては。
僕が茜と長森に激しく萌えてるのは、(感情移入の対象である)浩平が消えるの消えないのって大騒ぎしてるからなんですよ。こういう危機的情況だと却って、僕なりの恋愛観がはっきりして面白いですね。すなわち、好きな女の子には迷惑をかけてもよい。……最低ですね。まあ要するに、基本的に『ONE』で女の子のことろくに見ちゃいねえって話です。他のギャルゲーならいざ知らず、『ONE』で娘さんの事情なんぞ読んでる余裕ないんですよね。娘さんを理解しようとする欲求は、浩平の喪失に駆逐される。僕だけですか? こういうタイプの『ONE』原理主義者は。何も言わなくても、こっちののっぴきならない事情をある程度察してほしいなあ、と。のっぴきならないから娘さんのことなんて知ったこっちゃねー。でもひとりはイヤ〜(宮村声で)。だから娘さん、絆を! でも君に付き合う余裕はありません! よって同質性が欲しいなあ、と。 <我侭
消える身に娘さんを付き合せるのは、いくら浩平(僕)が勝手とはいってもさすがに憚られるけど、まあ長森は腐れ縁だし何も言わなくてもいいだろーって感じがするし、茜はそれを過去に体験してるんだからいいだろーって感じ。他の連中を浩平(僕)に付き合せるのは酷だと思うし、なんつうか、いくら僕(浩平)が勝手でも、さすがにそれはできないというか。
浩平が迷惑をかけても平気そうなのが長森と茜ってことなんですけど。普通人に迷惑はかけたくはないもんだけど、好きな相手には迷惑をかけてもよい。いや、よくはないけど、かけるならアイツしかいないって特別な存在は、やっぱ自分と同質的な存在でしょう。長森には、浩平を通して(浩平の主観的に)浩平との同質性を認められるし、茜には、物語を通じて(客観的に)それが認められる。……ごめん、文章下手で。ニュアンス汲んでくれ。ぶっちゃけた話、僕が茜と長森に萌えてるってことなんだけど、好きだから迷惑かけてもいいのか、迷惑かけてもよさそうだから好きになるのか、これがはっきりしないもんだから、仕方なくこんな文章書くわけだ。読んで理解できる人はいないと思います。重ねてごめん。
浩平主観で進む長森シナリオでは、長森の内面(を獲得した経緯)が語られることはなく、プレイヤーは、あくまで浩平を通した長森の内面を読むことになる。結果、自然と何も言わずに膝枕してくれるという描写に落ち着く。この場面を即座に分かり合ってるふたりと読んでしまうのは早計で、この場面にいたってなお、長森がなぜそうしているのか、の答えは明確には語られない。僕らは類推するだけだ。一方、茜シナリオは「物語」の作法で書かれてる(読み手は神の視点を強いられる)から、茜の内面がそのままの形で語られる(茜自身がそれを口にするという形式が取られる)。よって、茜は浩平が消えることに対して自分なりの考えを持つことまでもが語られてしまう。それが浩平主観とズレちまうのが難点なんだけど、そここそが読みどころでもあったりする。
浩平は、自分が消えるという事態が自分でも理解できず、戸惑いはそのままに、それでも自分がここから消えるという実感だけはある。実際消える。これは端から見ると、わりと理解し難い現象で、よって以前にも残された経験を持つ茜は、それを「この世界が嫌い?」「…この日常は、あなたにとって意味のないものなのですか?」という方向にしか理解できない。まあ普通そうだよな。それでいいよ、茜。浩平が消えるということを知ってさえいてくれればそれでいい。と思うのは、僕があくまで観客席にいるからであって、自分でも事態がまるで分かっていない浩平は、今この自分が消えるという未曾有の危機を、茜の言に自らを同一化させることで乗り切ったのかもしれない。みさおの死とえいえんの直結。えいえんの悪代官化。問題系がすっきりすれば、その問題はもう解決したってことだよね。かくして彼は帰還する。……これはこれでリアルだと思う。実際、多くのプレイヤーがそうしたわけだし。僕はわりと同一性そのものが一過性の連続体だと考えてるから、これでもまあまあOKです。僕的にはどーせこの先も浩平はえいえんと日常を行った来たすることになってるんで。恣意的な読み方ですけどね。それはいつものことじゃないのか。
かわいい茜を目の前に「この世界が嫌い」で「この日常が意味がない」わきゃないんだけど、それでも自分が消えるってのは避けられない。本当になんで消えるのかわかんない。こんなに茜が好きなのに。このなんとも言えない不条理感はたまんねえものがありますね。そこから「日常を捨てて、永遠を求めて、そしてこの世界から消えた。それは、オレだけではなかったんだ。」ってところに流されちまうのはわりとどうでもいいです。そういう思考論理の流れは理解できるし、それに僕的にはその起点が「茜が好きなのになんで浩平は消えちまうだっ!?」なので。自己喪失の問題そのものより、茜好きーが優先されるというか、問題がいつのまにかすりかわってる。僕はわりとここがツボなんですね。そりゃ茜を目の前にしたら『アンチ・オイディプス』片手に自己同一性の論理解体なんぞやってる暇なんかねえっスよ!(※やってません。念の為) 萌えるってのはそういうことです。
もう少し真面目に書いとくと、茜に同一化を求められる瞬間の強烈な違和感こそが茜シナリオの最大のインパクトだということでして。茜は浩平が消えるという事態そのものはわかってるけど、その中身はわかっちゃいない(それは浩平自身にすらわからない)。そこで「この世界が嫌い?」となるわけで、浩平的(僕的)には、違うんだ、そうじゃない、ってな感じではあるけど、浩平(僕)は茜に惚れ切ってるわけだ。こうなると浩平(僕)は自意識の問題に関して圧倒的に分が悪い勝負を強いられるハメになる。幼年時の苛烈な記憶を引っ張り出して、それを消える原因に仕立て上げでもしない限り、茜に対する気持ちが証明できない。かくして浩平(僕)は軍門に下る。「日常を捨てて、永遠を求めて、そしてこの世界から消えた。それは、オレだけではなかったんだ。」 空き地に佇んでたのはそういうわけだったのか…も後押しするし。
そういうわけで「浩平的」に読んでると、確かに浩平が茜に負けちまう。惚れたアイツにゃ逆らえない。でもこの負けっぷりがいっそ気持ちいい。それはいつのまにか「物語的」に読んでるってことでして。僕的には、こうならないと、いわゆる恋愛モノにはならないんですよ。で、その「いつのまにか」の「いつ」とはどこか、と考えると、同一化を求められる瞬間、「この世界が嫌い?」になるわけで。恋愛モノとしてのカタルシスとしては最高峰だと思います。問題は恋愛モノとして物語として読んでしまった時点で、浩平主観の茜スキーと僕主観の茜スキーは決定的に別モノとなってしまうことなんですが、モニターの茜を前にすれば、とりあえずそれは棚上げにするしかなく、茜好きという一点で、僕は浩平との共闘を余儀なくされる。まあ、なんだ。僕の恋愛観が浮き彫りになる瞬間でもあります。すなわち、理屈こねようと惚れたら負けー。茜にゃ勝てませんよ。過去ここまで萌えた娘はいないんだから。苦渋しながらも軍門に下るしかないんです。
言うまでもないですが、今日の日記は本気も本気、大真面目に書いてますよ。
それにしても新しいギャルゲーは一向にやる気にならんのに『ONE』はスムーズに読めるってのはなんでなんでしょう? いや、わかってますけどね。何度読んでも飽きないとかじゃ全然なくて、ただ安心できるってだけです。とりあえず各種セーブデータも揃ってるし。ないですか? そういう日常の一部(大袈裟)にまで入り込んでるものって? フィッシュマンズは最早音楽として聴いていないとか、そういう感覚。
ちなみにこういうのって怠け者の常套句。
(赤ちゃんが)かわいー! って僕は君が可愛いよ、あいちゃん。
やっぱ山内重保は分かってる。そうなんだよ、山内がどれみですべきはこの路線なんだよ。つまりはエロ。山内がSDを降り、五十嵐が自分の演出回を減らしても、SDの仕事に専念するのは正しい判断だと思う。物事を一歩引いて見てるような五十嵐は、やっぱ全体的なコントロールを考えてるんだと思う。山内みたいな異才にゃ、統括的な仕事の任を解いて、単発でやりたいことやらせた方が、結果的に作品全体としての厚みに繋がるだろう。魔女界話は全部山内に任せる算段できてるんじゃないかな。リリカルでエロティックで不可思議な異世界を描いた(少なくとも描く意志はあった)という♯の側面(たぶん山内主導)は、当然継承されて然るべきでしょう。それもアリなのがどれみの懐の深さです。まあ、設定のいい加減さにはこの際目を瞑るってことで。しゃあねえじゃん。もともと東映オリジナルで、こんな長期放映になることなんてスタッフ自身も予想もしてなかっただろうし。あのルーズな魔女界設定は、単品魔女っ娘アニメ(無印は明らかにそれだ)としていっそ潔いではないか。これが続いてしまったという不幸はどれみが続くという幸福の前には取るに足らない些細な問題でしかない。それに設定きっちりでも画面に説得力ないような作品だったら、「ここではないどこか」感が感じられる(それは勿論日常風景との対比によってもたらされる)どれみの方がずっと良いとは思わないか?
正統イイ話路線は、他演出陣でも十分だけど、エロにかけては、五十嵐と並び得るのは山内しかいないのだ。五十嵐演出回と山内演出回って異様にエロいよな。それはつまり彼等がどれみ達を好きだという至極単純でそれ故に強固な理由によるのだと思うが、それぞれアプローチは全く異なる。五十嵐はいかに撮れば彼女達を最高に可愛くフィルムに収められるか? 山内はこの最高に可愛い彼女達をなんとしてもフィルムに収めてやるからにはどうするか? まあ「客観」と「主観」であるわけだけど。方向こそ違えどそこにはともにどれみに対する愛情と、愛に憑かれた者の前後不覚感がある。そしてそれこそがフィルムにエロを漲らせる。「客観」、「主観」などといった下らない分類で作品を談じるよりも前に、画面から立ち上るエロい香りを味わい尽くせ!
無造作とも言えるアップの多用に、対象への愛を完全に無防備に語ってしまえる山内重保に対して、狂おしいほどの嫉妬を覚えるのは恐らく僕だけではない筈だ。人はこうまでも楽天的にどれみを愛せるものなのか! この耐え難き楽天性の前に一時の、つまりは30分のアニメ的快楽が犠牲になろうと、それがいったい何ほどのものか。僕は冒頭のあいこのアップにただ叫ばずにはいられない。大好きだ! あいちゃん! それは自分と同じ姓を持つ演出家に対する敗北感をやり過ごす為にはどうしても必要な行いなのだ。つうか泣いた。これだけ可愛いあいこ見せてくれたらそりゃ泣くしかないって。
今回注目すべきはハナがどれみを見付けてしまうシーンに集約される。本来面会が許されていない為、柵の外からこっそり保育園を覗うどれみが、でんぐり返しの上手く出来ないハナに思わず声をかけてしまい、はづきあいこおんぷが慌ててどれみを引っ込めるのだが、このどうということもないシーンをここで取上げるのは、どれみが柵の外側に引き摺られるカットが、ハナのアップを挟んで2度、しかも異なる絵作りで現れるという考えてみるとちょっと奇妙な編集が、僕にはどうにも示唆的なものに感じられるからだ。普通に考えれば、どれみが引き摺られ、ハナのアップがあればそれで事足りる筈なのに、わざわざハナのアップの後で、異なる絵で再びどれみが引き摺られるとなれば、これはハナの主観が直前のカットで示された客観的(or第三者的or外的)事実をそのように捉えたということではないだろうか。最初のカットでは、どれみを引っ込める際、帽子が宙に残り、それを飛び上がったはづきが回収するのだが、後のカットでは、帽子は存在せず、ただどれみの頭が柵の下に潜り込む。どれみの頭、つまりお団子が画面から消えるのである。ハナの主観はそのように対象を捉える。これは視線と言っても良い。
このとき僕らの視線はまさにハナの視線と一致する。お団子が画面から消えるということは、つまりどれみとの別れを意味する。消えてしまったどれみを求め、泣き叫ぶハナを前に僕らはひとつの大きな危機を感じ取った筈だ。最後に写り、そして消えていくお団子を目撃する時、今シリーズにおいてどれみ達のデザインが更に丸みを帯びたことに気付かぬ者はいまい。おんぷより更に丸いフォルムの新キャラももこ(その頭には輪っかがふたつ)を得た「おジャ魔女どれみ」。『も〜っと!』では当然どれみ達も丸くシェイプされている。今やどれみ達は「まる」の存在ですらあるのだ。まるいお団子が画面から消えるということは、「まる」の存在であるどれみ達を、僕達がこの先いつかは失ってしまうという不可避の危機の予兆でもある。泣き叫ぶハナを見て僕が流した涙とは、避け様にもない危機への怯えとも言えるものではなかったか。あのときのハナは、詰まるところ、来て欲しくない未来にある僕の姿でもあるのだ。いつかはどれみも終わる日が来る。その冷徹な現実を感じとって僕は涙を流したのではないか。そうなのか? ほんとに?
とりあえず画的に退屈することは絶対ないという点だけでも、山内演出回は貴重だと思うのだが。あのテンポをつけることをヨシとしない、緩〜いリズムは「味」だよ。グルーヴィー! グルーヴを感じるとは単にそこに身を任すのではなく、自らが刻むリズムとの差異を焙り出し、その違和感がもたらす苛立ちが消え去る前に、異質なリズムを身体に取り入れることを言う。リズムというのはひとつの言語なのです。
あー、やっぱあったかい部屋で食べるバニラアイス(爽 / グリコ)は最高だニャ〜。ということで、ごめん、訂正。栞はかわいいです。すごく。久々に『Kanon』立ち上げたら、問答無用で栞に萌えました。悪りいかよ! なんつうか幸せだよね、ギャルゲーってこうじゃなきゃ。それにしても『Kanon』は音楽が卑怯すぎるぞ。
演技的というんじゃなくて、演劇的なところがいい。現代において恋愛というものは、ある規範を共有するもの同士で成立する。僕らは一般にそれを世に溢れる様々な恋物語から学習する。学習の結果を殆ど意識的とさえ言える水準で実行するのが茜であり、栞。例えば、茜はキスシーンで「こういうときはうつむいてくれるものです」、栞になると、ひとつひとつの言動に、病身のヒロインを自ら演じているきらいさえある。「ドラマみたいですね」。僕が萌えるってのは、こういうメタ演劇的な娘さんに多いですね。意図された嘘っぽさ、ってのに萌えるわけでして。娘さんと主人公に一種の共犯関係が欲しいということなんですけど。僕は基本的に物語は現実からのフィードバックを受けるものだと考えてるから、恋愛諸規範を意識的になぞってみせるタイプでもないと、いわゆる普通の恋愛モノは厳しいんです。栞はその点非常に萌えますね。
久弥ってヒトは、はじめに絵になるシーンが頭にあって、そこにキャラを落とし込む手錬れというより、はじめっから「物語の登場人物」としてしかキャラを考えてなさそうなところが大好きです。最初から演出が込められてるというか、ナチュラルにヒトじゃなくてキャラを描いてるっていう印象があります。『ONE』の世界では、茜が動けば、それは雨が降ると同義なのですよ。『Kanon』になると、夜の公園には噴水があって、恋人たちはその前でキスしなきゃならんのですよ。当然、そんなベタなシーンはふつーに描いてもベタなものにしかならないから、キスする前に「ドラマならどういうシーンになる?」「お約束ですけど、キスシーン」「でもそんなお約束が嫌いじゃないです」といった遣り取りが挿し込まれるわけだ。えー、僕はお約束がかな〜り嫌いじゃないんで、こういうのにはタイヘン嬉しくなるのです。なんつうか、お約束のシーンがハズカしながらもキライじゃない、っていう娘さんってとってもカワイイと思うのですが。こういうもってまわった可愛さって、他ではなかなか得難い久弥の資質だと思います。萌え。あるシーンの為にキャラが喋らされてる、という感じは最低ですが、久弥サイドってそれはないですよね。なんつうか、キャラが動くと必然的に絵になる感じ。一般的には芝居的/作為的な描写ってことなんですけど、これが絶対にカワイイことを信じて疑っていなさそうな感じがするのが、僕が久弥を天然派だと思う理由。普通の人は、キャラが人間っぽくないって言うと思うんだけど、久弥の場合はたぶん実際の人間を見て、なんかキャラっぽくないね、と言うんだと思う。天然、じゃないのかなあ。いや、僕がそういうタイプだから、仲魔が欲しくてこんなこと言ってるわけですが。
「ドラマみたい」と言いつつ、ドラマを夢見て、実際ドラマの中にいる栞は久弥キャラの極地とも言えます。カワイイよね、栞。
人間(現代人)未満のもの(端的にいえば、ガキ)とのコミュニケーションが描かれているのが、麻枝シナリオだと思うんだけど、ここに家族って概念が導入されるのがよく分からない、というのは僕が正に現代人だからか。当世Web日記書き気質としましては、観鈴と晴子はDREAMの方がよっぽど家族っぽいと思うのですが。バラバラであんまり接点がない。『ONE』で言えば、おばさんはいちどとして描かれることがなかったわけだけど、僕としてはこっちの方が嬉しい。血が繋がってなくても家族ダー、「役割」によってそうなるんダー、と言うなら、おばさんとおいで立派に家族してた『ONE』はとっくにそこクリアしてる。クリアしてるから描かない。と言ってしまってよいかどうかは知らんけど。そういや、『ぼく地球』でも、シオンがひねくれたのは、結局、家族ごっこしてくれたラズロが事故で死んだせいだった(という風に読めるよう描かれてた)なあ。理解不能。したくもないが。
家族なんてもんは、自己の延長であるし、そこが心地よいのも、気持ち悪いのも、結局はそこに自分がいるからだ。あるいはこうも言えるか。差異が差異として機能し得ない場所。だからまあ、家族がワリとバラバラってのは、いいことだと思う。嫌ってるなら話は別だけどね。というか嫌ってる時点でそれ家族じゃないから。それこそただの血の繋がり。
浩平はおばさんがいてもえいえんに逝くわけよ。このへんどう? まあ実際的な描写水準では、家族的なモチーフとして、幼馴染の長森がいるんだけど。長森との幸せな記憶があっても(それが仮構であれ)、えいえんに逝くわけよ。このへんどうっすか? なんつうかねえ、浩平と長森がずーっと昔に済ませていたもの(『ONE』では主題にすらならなかったもの)をなんで今になって読まされなきゃイカンのよ? とか思わなくもないです。真琴も舞も佐祐理さんも観鈴も。自明性の獲得の困難? ああ、自明でいいよ、そんなもん。
帰る場所「幸せな日常」を創出することには興味がない。それそのものにも大して興味はない。自明だからね。興味があるのは、自明が自明でなくなるその不確かな確かな実感だ(変な日本語)。真琴や舞なんてほっとけばいいんだよ。そのうち勝手に巣を見つけるよ。せめて浩平並の社会性を身に付けてからゲームに出て来い。そしたら付き合ってやってもいいぞ。観鈴はほっとけない事情を抱え込まされてるのがムカつくんだけど。ほっといたら巣見付ける前に死んちゃうし。だから『AIR』嫌いなんだよ。
自分の立っているところになんの懐疑もなく立っているのなんぞは問題外だが、立つところを一生懸命作るのにもイラつく。人間気付いたときニャ否応なく立ってるもんだとは思わないか。親がいないとか、親に愛されないとか、友達がいないとかで人格が歪むという話は、あんまり好きじゃないです。誰にでも理解可能な不幸(例えば家族関係の欠損)がいわゆる人間らしさを奪う、「普通」に幸福に育った人間が真っ当(あるいは傲慢)って図式は、なんとなく安易というか、アタマ悪いというか。まあ「俺には やさぐれる理由がないんだと」((C)千暁君)ってのは世間的には只の甘ったれになるわけですが。
現に真琴も舞もほっといても平気そうな感じするんですけどね。そこは好きなんですけど。これが観鈴になると……。退行してるよなー、明らかに。オレ的には。なんでテメエラの立ち場所作るのにオレが付き合わなきゃいけないんだ! 長森や七瀬は立派なただの非現代人(繭は判断保留)、『Kanon』以降は人間未満って感じ。こういうこと言うの傲慢ですかね。人間未満にゃ性欲沸かないってことなんですけど。エロゲーで出す以上、最低でも人間にしてほしいっス。エロが義務づけられてる媒体なんだし。恋愛の規則教える以前の問題として、巣作りに協力するのもう嫌だ。『ONE』ってちゃんとエロゲーなんだよな。僕は恋愛モノが読みたいのです。
僕は基本的に友人関係でも恋人関係でも、バラバラで好き、っていう僕なりの家族観欲しがる人間ですけどね。人間をまず成立させる上での家族関係ってのはバカバカしくてダメです。それを描く意義は認めなくもないですけどね。だいたい自分が消えるとかいう話にBANBANBINBINきてた人間には、他人を思いやる余裕なんてありゃあせんのです。
『ONE』『Kanon』『AIR』の流れは、人によっては退行じゃなくて進歩なんだろう。浩平にあった「事情」が、徐々に娘さんサイドに流れていったとも言える。感情移入の対象が主人公ではなく、娘さんへと。ギャルゲー的には正しい。あるいは世間的にも。他者受容。……これを自明として、つまんないって言っちまうのは、やっぱただの甘ったれか。関係性の主体的獲得を目指すと、まず「家族」となる、ってのは理解できなくもないんだけど……。最小単位の共同体。初めての他者。ああ、やっぱダメだ、そんなもん意味ねえとしか思えない。というか「家族」とか持ち出されると、考えたくもないこと考えちまうんで、勘弁してほしいということなんですが。つうか「家族」ってオレ的にロマンねえし。いや「家族」というからナンなのであって、拠り所とかそういう意味で……って言われても、僕は結局家族を拠り所とするような感覚が嫌いなんだしなあ。あと拠り所ってのを作るってのは、あんまり説得力ないというか、人間は気付いたときには既に何らかの拠り所を得ているのだと思う。というか相互関係のネットワークが生み落とす幻影がヒトの意識だ。家族信奉というよりこっち方面での嫌悪が強いか。ネットワークの一部を切り落としたかのようなキャラは、最早思考実験の産物でしかないんじゃないか?
「役割」をなぞることで漸く存在基盤のようなものが生まれる、っていう感覚は、確かに好ましいのだが、それが「母」であったり「娘」であったりするのは、一体何故なんだろう? そしてそれが異様に強調されるのは何故なんだろう?
これが「乙女」というなら、絶対的におかしいという点で理解も進むのだが、どうにも「家族」ってのがわからない。家族ごっこを通して、人並の幸せが実現されるという筋立てに、どうも家族ってものを大袈裟に捉えてるような感じがして気持ち悪い、ってのは、凡庸を嫌うという凡庸の証拠ですかね。んなこと言っても嫌なもんは嫌だ。真琴シナリオが傑作? ウソだろ? あんな湿度高いので泣けるかよ。『Kanon』はシナリオ完成度であゆ。ロマンチックで栞。まあ、理解のしようはある。そんな湿っぽいものにすがらなくてはいけないという切迫感、あたりか。……ごめん、オレやっぱ理解したくない。こういうのは勿論徹頭徹尾不誠実な読み方でしかないのだが、とにかく家族及びそれに類するヒトの居場所みたいなもんには全く萌えない。今や壊す対象ですらない、もうとっくの昔に壊れている「家族」という概念をなぜ今更構築するのか? 今それをやる意義はどこにある? っていうのがサッパリ分からなくて首を捻ってるのは、たぶん僕だけじゃないと思うんだけどなあ。まあそれを言うなら『ONE』だって今更なものだけど、アレはゲーム的にぶっとんでいたし。『ONE』の感動が今更な主題によるものであることは確かだが、今更な主題を扱う手腕が滅法切れてたからこそ、僕らは今更な主題に感動できたんだろう? 『MOON.』『AIR』って、そのへんヘタレてて、言葉をそのままにしちまってる。
そういや大文字の他者使って麻枝シナリオ分析って、いかにもありそうだけど、読んだ記憶ないな。だれか知りません? つうか誰か僕にラカンせんせいをサルでもわかるようなコトバで講義してください。
共同体に属さない人間などいる筈もないし、共同性の相互関係性の中に人間は現れる。僕がヌルいマンガやアニメやギャルゲーはもう嫌だー! って騒いでるのも、正に僕がその中にいるからだし。そこにいるのが嫌になるのはそこにいるからです。そこにいるのが嫌だっていうのはまだかわいい方で、人間は、間間そこにいることを疑ってみたくなり、信じられなくなる。しかし、そこにいることを避けられないのもまた人間であるわけです。麻枝シナリオの、そこにいるという事実を自ら作り出すって感じが、どうにも、ね。幸せな一般的家族体験の欠損程度でヘンテコぶるな、タコ、って言いたいところだけど、我慢してやるか。 <してねえ
「オレにはやさぐれる理由がない」ってのが、僕がやさぐれる理由。ンなワケないが。でもこう言っとくと通じ易いのかもしれないなあ。
爽はグリコじゃなくてロッテなんだけど、何を考えてるんでしょうか、僕は。いや、なんつうの? いわゆる引きのテクニック? 「アイス」のグリコ、「アイスクリーム」のロッテという商品戦略について、CMを主媒体とした広告戦略を交えて論じてみようかと思ったんですよ(2年前に。経営戦略のレポートで)。まあ僕が第一線のアイス評論家だった時代は、実家に別れを告げた高校卒業のときで終わってるんですよ。実家いたときは常に冷凍庫にアイスが常備されてたんだけど、自分で買うとなると、アイスって高いじゃないですか。とてもじゃないけど手が出ません。なんせ僕は一日の食費を300円で乗り切ることに(暗い)情熱を燃やしてる人間だから。……昔はそれが単純にポリシーというか生活様式の問題だったのに、今やそうせざるを得ない経済状況だというのは泣けてきますね、我ながら。つうか、塩パスタにはもう飽きました……。
アイスとかあの手の商品は強い嗜好性を持ちながらも、それが生活必需品と同じ場で売られてるというのが問題で、一人暮しの身には、1パック98円の卵と同じ買物カゴにハーゲンダッツを入れることなどもう殆ど許されざる境地なわけですよ。なにやら途方も無い割高感が捏造されてしまうというか。これがHMVの中でアイス売ってたりすると違うんだろうけど。違うか? 同じか? 同じだよな。オレ貧乏性だし。せこいし。悪かったな!
家計上、レコードとか本はまあ「娯楽費」(最優先される出費)として計上されるんだけど、アイスとかはどうしても「食費」(まず真っ先に削られる出費)として計上されるんだよね、僕の場合。ちなみにここ数年新しい服買った記憶がないのだが、どうせヒッキーだしな。ほっといてくれ! いやさ、酒、タバコ、コーヒー、菓子(デザート)類なんかをどの項目で計上するかはまあ人それぞれだろうけど、僕としてはそれはほとんど「必需品」なんじゃないかと思うんですよ。確かに辞書的な意味というか一般的に見れば「嗜好品」ではあるけど、当人にとっては欠かすことのできないものでしょう? あーゆーのって。僕はタバコ吸わないからあんなもんに金遣う人の気がしれないけど、愛煙家は嗜好品であるタバコのお金を止むに止まれぬ支出として考えてる筈で、実際にははじめからその分のお金は不可処分所得であると言ってもいいのだ。だからまあ「必需品」というよりは、自分の欲求に対する「税金」みたいなもんだ。こう考えれば、会計上予めアイスその他の予算を項目として立てている人間とそうでない人間に分けられるわけで、前者がそれを購入するのは当たり前のことだけど、後者がその購入に躊躇いが出るのは、限りある可処分所得をいかにやりくりするかの問題であるわけで、それは最早せこいせこくないといった銃後的な考えでは対応できない、いわば生活という最前線での問題になるのだ。一般に人が他人をせこいだの言うときは、自分が(無意識的にせよ)可処分所得として扱っていない品目に対して他人が支出を控えてる場面であって、それは要するに価値観の違いを認めないといった無神経な振舞いなのだ。例えば僕は1500円程度までのレコードで欲しいのがあれば、自動的にレジへ持っていく人間なので、これはやはりせこい人間だとは自分では到底思えないんですよ。2000円越えたら? まず買わない。 <せこい <つうかこんなこと考える時点で既に
そういえば前にさ、業務用のあのでかいのなら一ヶ月はもつだろうし安上がりだな、とまあつまりアイスを「必需品」的に考えて、実際買ってきたんだけど、3日で食い尽くしちゃったんだよね。いや、でかいハコ抱えて食ってたらすげえ幸せで(それは誰もがいちどは夢見る光景だろう?)。結局「嗜好品」はどこまでいっても「嗜好品」なんだよな。だから「税金」になるんだけど。
『ヒヲウ』が幕末を舞台に実質現代アニメ劇やってるのが高千穂先生はよっぽど気に入らないらしいけど、なんで未だこんなアタマの固い人間がいるんだろう。誰もアレを幕末ものとしてなんて見てないでしょうに……。オレは『アニメ三銃士』を見て、子供心にちゃんと小説読もうと思ったぞ(色々な意味で)。しかも原作よりアニメの方がずっと面白いと思ったぞ。歴史に学ぶとかー、そんなおバカしようとは子供は思ってません。だってアニメだもん。それだけで信じちゃいけないって思うもん。例えば学習マンガ日本の歴史の類、ああいうのって普通の子供はバカにしてる。生馬の目を射ぬくが如き苛烈な生存競争を繰り広げるジャンプ漫画を毎週読んでる人間が、あんなつまらないもん読むわけないし、紙の上の英雄や化け物どもの生き死にに心奪われてる人間にとって実際にあったらしい歴史なんかは全然つまらなくてあくびのひとつ出ようってもんで、当然そんな人間は英雄が劇的な活躍するのも悲劇的な死を迎えるのも紙の上でだけってことに気付いている。
そういえば僕がミノフスキー粒子とかに有難味を感じ始めたのは中学生んときで、リアルタイムで見てた時はただガンキャノンカッコイイ! ってだけだった気がする。だいたい『ムリョウ』見て、歴史に興味持つようなおバカさんが、中学生くらいになると司馬とか読み始めて、司馬小説=歴史になって、高校くらいになると司馬史観=歴史になって、それで大人になると高千穂みたいなこと言い出すんだよ。もしかして体験談だったりしてな。怨み辛みであんなこと書いてたりしてな。ひょっとして子供のとき横山光輝のマンガそのまま信じてたクチ?
歴史フィクションにはその時代の歴史メンタリティの再現が仮に重要だとして、それが面白いか? って話題は無視していいんですかね。
ちなみに『ヒヲウ』はいちども見たことないです。見れば確かに「幕末」への歪んだ愛着(←ありがち)に、杜撰な歴史考証にあんぐりするかもしれないけど、逢坂キャラが動いてるだけで、つうかアニメって時点で、「優れたフィクション」であるらしい司馬遼太郎よりずっと楽しいってのは約束されてる。僕が『ムヲウ』を見て、ああ見なくてもいいやあ、と思ったら、それは単純に話が陳腐でつまんなくて、作画が不安定だった場合です。歴史のメンタリティなんかははじめから考慮の外。子供ってそういう見方をするというか、子供のときにそういう見方できない奴は結局幾つになっても高千穂みたいなことを言うんだと思う。それにしても司馬遼太郎ってみんな本当に面白いと思って読んでるの? 山田風太郎は凄く面白いと思うけど。っていうか僕歴史小説好きじゃない。
人間、事物をそのままに見ることなどできないワケでして(何事も自分フィルターを通してしか確認できない)、まず「客観的な」とか「主観的な」とかを問題とするような姿勢で書かれた感想文だのを見ると目眩がしてくるのですが、それはさておき僕は「主観的な」物言いが嫌いです。ちっとも主観的じゃないから。「客観的な」物言いも嫌いです。ちっとも客観的じゃないから。独善的な口調のわりに言ってることはありきたりとか、客観性をひけらかすマッチョイズム、ってのはよくある話です。自分で言ってて耳が痛いんですけど。いやさっき耳掃除してたらガリッとやっちゃって。
「考えるな 感じろ」って言ったのはブルース・リーでしたか。その意見には全面的に賛同の意を表したいのですが、なにぶん文章化の運びとなりますと、それは考えることにどこまでも近付いてしまうのが厄介でありまして。となると、どうもね、現象学的思考ってのが俗っぽすぎる感じで嫌なんですよ。「所詮世界とは主観」ではありましょうが、なんで主観はその存在を特権的にキープされるのが許される? 君のその主観はいったいどうやって形成された?
だいたい僕は別に人と付き合いたくもないんだから、感動を人様と交換できるかたちにする(現実への還元に終始する)なんてのには然程興味がない。交換可能性なんてものを後生大事に抱えてる奴の文章が、交換可能なコードで固められたものとなるのは当然だろう。まあ、そのようなものを垂れ流す人間の「主観」とやらも、尊重してやらんこともないです。ただえいえんとエンコードとデコードを繰り返すことのできる、その忍耐力に敬意を表して。
一方、主観を大事にするとかいう奴は大概ブクブクに膨れ上がった主観を野放しにしてるし、そんなもんに交換価値など生じない。少なくとも僕にとっての交換価値は。僕は自分の感動をどうにか丸裸にしたいし、その為の試行(思考)錯誤の過程で得られた言葉だけが、僕にとって交換価値を持つ。まずは感動を疑うことから始めたい。ブクブクの主観なんぞ糞食らえだ。主観を疑うのも主観がしてるんじゃねえか? 違うよ。いや、そうなんだけど。所詮主観しかないなら、主観を徹底的に主観たらしめる〈運動〉が、〈玉葱の皮剥き〉が必要なんじゃないのか。バブル時に地価がなんであんなに高騰したか、知らないわけじゃないだろう。
僕は今まで一度だって「主観」の人でなかったことはないと自負しておりますが。
まあとりあえず言えるのはこの手のことは書いててもちっとも面白くないということだな。作品を讃美したいなら何も言わないことです。と最近は思います。誰しもいちどは口に出す子供っぽい考えですけど。所詮僕程度ではどれみの素晴らしさが語れない、という悔しさをえいえんと語ってるのがこのサイトのどれみ批評(批評だったの?)です。ひょっとしてもう知ってました?
アバンのおんぷに萌えてるオヤジの姿が、鏡に移った僕の姿に見えて仕方ないのですが。うん。オレ、どれみ見てる時絶対あんな顔してるわ。それはそうと今回死ぬかと思いました。萌え過ぎて。
ももこのアルファベット歌。最高。シングル切ってくれー。リミックス5曲くらい入れて。カットアップブレイクビーツ+女の子の可愛い拙い歌ってのは、チープリズムボックス+素っ気無い女の子の歌っていう80年代ポップの再現でもあるわけですよ。90年代初頭でいうとネロリーズ。今でいうと…シトラス? スパンクス? もうギターポップ野郎としては、こういうの聴くと嬉しくてしゃあないです。オレ、歌に合わせて踊ってたもん。やっぱどれみ音楽レベル高いわ〜。アニメでこんなヒップなの聴けるの、どれみの他にないもんなあ。OPでお尻振ってるし。な。
そういやシトラス解散って噂本当? されたら僕が困る。
作劇的にはまあ、オヤジ、別にハナちゃん連れ出さんでもひとりで映画見に行きゃいいじゃん…とか思わなくもないけど、事後的に行為正当化させる為にハナを連れて行った、くらいの解釈はできるわけでして。ホラ、オヤジ、バカ(誉め言葉)だから。あとハナちゃん探すのにとっととマジカルステージ使えばいいじゃん……とか、そういうもっともなツッコミはそっと心にしまっておくのがオトナのマナーだぞ。……つうか仕方ねえじゃん。長丁場を乗り切る為には、一本一本は形式的にならざるを得ないのです。
あとさ、ハナちゃんが魔法で作ったでかいどれみの使い方について、バカどもが、あれを目印にどれみがかけつけるという展開にすれば、ハナとの再会はもっと感動的になったはずだ、とか言いそうけど、今日のは完全に計算されてたと思うよ。まず、どれみでありきたりの感動シーンなんて、今更スタッフも作りたくないだろう。僕も別に見たくない。ハナちゃんが作ったのが他ならぬどれみだったというだけで、十分感動的だし、そもそもいわゆる感動シーンがちっとも感動的ではないってことくらい、演出家なら誰でも知ってる。♯最終回以来の「ハナとの再会」を感動的にしない為に、わざわざハナが行方不明というシチュエーションを作ってるわけで。要するにどれみ達の感情が「会いたい」っていう情動になるのを避けてるの。あくまでいなくなって心配、不安って唯物論レベルでの心情にさせてるの。そしてなにより、「感動の再会」の後、どれみ達はハナちゃんとお別れしなきゃならない。誰だって悲しい話は見たくないだろう? となれば、再会の「感動」をドタバタで相殺し、湿っぽくならないようにするのが、明晰な演出というものだろう。ハナちゃんがどれみの胸に飛び込んだ「感動」はさっと流して、ああはやくあのおっきなどれみを消さなきゃ、というアタフタに持って行く。その際マジカルステージ(バンク)を利用して、フィルムを分断し、感動劇に陥るのを防ぐ。……計算されてると思う。安易な感動を避けるのはどれみ達への信頼の裏返しだろうし、そうでもなければ関先生が玉木に「屁理屈」という筈もない。現に玉木が反抗したか? あれに不満ぶー垂れてる連中は、既に2年間関先生が担任していて、生徒達にも好かれているという単純な作品内事実を見ようともしない。まあでかいどれみの材料が卵と牛乳で外観もケーキみたいな色してたこと考えれば、魔法解除にもう一工夫はできたろうけど。あとももこがハナちゃんあやすのに指人形使ってたけど、これもハナちゃんでんぐり返しさせる為の小道具として機能させてるし、演出正確ですよ。
魔女界突入シーンはかなり凝ってましたね。心配してなさそうな表情は腑におちなかったけど。バンク、なのかな? どれみとはづきとあいこの3人っていう変則的なパターンではあったけど。ももこがハナに歌歌ってあげてるところでも、カメラとの間に壁一枚挿れるし、こういう絵作りの部分でも今回のは良かったですね。壁を挟んでのハナちゃん飛行も思わず笑っちゃったし。今日作監河野だったから安心して見てられた。ハナちゃんが魔法でお菓子浮かべるところもいいですね。あ、歌がなんでくりかえし使われたかってのが分かってない人がいそうだなあ。あれは同系シーンの反復の中で、ハナが次第にももこに打ち解けていくのをハッキリ見せてるんですよ。最初はももこの名前も言えなかったのに、1度目の歌ではABCDをなぞるようになって、2度目ではエクレアとはっきり発音してしかも魔法まで使って、3度目は明らかにメロディまでなぞってる。ももことハナだって仲良くさせといた方がいいに決まってるんだし、今回の核心はそれですよ。
今シリーズはMAHO堂内部の見せ方については演出陣に予めコンセンサスができてる気がします。外側から見てる感じで一歩引いて連中を描いてる雰囲気がある。MAHO堂それ自体に「壁」の機能を持たせてるんじゃないかな。いや、そうだといいなあ、と思って。家とか学校とか魔女界とかで「物語」の要請する「役」に堕することが避けられないなら、せめてMAHO堂の中でくらい何もない透明などれみ達が見たいじゃないですか。社会からの抑圧、ドラマからの抑圧、試聴者からの抑圧、そんなものを遮る「壁」がMAHO堂だといいなあ、とか思うんです。今シリーズ、やたらと「覗き」が多いのも、テーマが「コミュニケーション」なだけに、「壁」とか「境界線」とかの存在(ATフィールド)を意識してるんじゃねえかなあ、とか。勿論冗談ですけど。
それにしても今日のももことハナちゃんは……ほんっとかわいかったなあ(デレデレ)。ところでいつもデジモンまでの繋ぎにそのまま『題名のない音楽会』見てるんだけど、今日はよりにもよってボレロがかかってました。
普通書き手は、まず何か事件を起こして、それに対する反応を描くことでキャラの個性を見せるんだと思うけど、その個性、「人格」を読み手が認めるのは、おそらく種々の事件に対する反応にある一定パターンを確認した時であろう。が、ここで問題となるのは、読む人によってパターン認識には差があるということだ。大概の人は等差数列とか等比数列とかなら一目でそれとわかるけど、高等数列はバラバラの不連続体にしか見えない。受験生なら直感的にこれはなんかの数列ッポイなあとわかるだろうし、プロはパッと見ただけで定式まで浮かぶだろうけど、多くの人にはただランダムに並んだ数字にしか見えない。数列を人間(キャラクター)と言い換えれば、その道のプロ、お医者さんは精神分析的臨床例をたくさん知ってるけど、一般人は「『〜らしさ』の遵守/逸脱」を数パターン知ってるだけ、ということになるか。すげえ単純化だなおい。で、人は「〜らしさ」が社会的なコード、つまり姉と妹とかっていう単純な類型に過ぎないことは知ってて、それに対しては不満を抱えてたりもするんだけど、「『〜らしさ』の遵守/逸脱」をいちどある人間に当て込むと、なぜかこれが絶対となる。かくして人は、どれみが「お姉ちゃん」っぽくないことを好ましく思い、「『お姉ちゃん』っぽくない」でどれみを囲い込み、たまに「『お姉ちゃん』っぽくないどれみ」が「お姉ちゃん」な振る舞いを見せるとギャーギャー騒ぐのである。あームカつく。てめえらにどれみのなにがわかるって言うんだよ、バカ。
どれみがしっかりしたこと言う度に、「こんなのどれみじゃない」って言う人がいて、泣きたくなります。君達が思う「どれみらしいどれみ」を強要させられたどれみは、いったいどうすればいい? 君達は本当に萌えてるのか!?
この手の経験がいちどでもあれば、キャラの心理描写に納得がいかないとかは言えなくなる筈だ(註!経験をタテにモノを言ってます)。そもそもこの世に人の多様性が厳然と存在する以上、キャラの人格に対してこんなのあり得ないとか言っちまうのはちとナニでありましょう。ただの好き/嫌いの問題じゃないですかね。ていうか、キャラクターの人格なんてもん気にする人はごく少数じゃないかなあ。大概の人はキャラクターなんて書割くらいにしか見てませんよ。それが萌えるの萌えないのっていうギャルゲーキャラならなおさら。真面目に考えるのもバカバカしい。
「キャラってのは何だって考えると、それはキャラクターデザインと性格付けと人物間設定で構成されている」わけですよ。さすが言うことが的を得てるよなあ。
……まあ認識には枠組化、囲い込みが避けられないという論点を重視するなら、キャラクターの人格固定を狭い類型の中で行うのも手だし、はじめからキャラを優先させず、派手な外的要因からくる必然(怪獣が出たら怖がるとかの意識がアプリオリに「アリ」と認める行動様式)の連鎖で攻めるのも手だ。そういやストーリー主導型って、キャラは類型的な方が面白くなるような気もするな。つうか物語上類型的じゃないキャラってまずいねえ。
人間はある文脈上で生きてるんだから、物語からキャラだけ取り出すのは反則(不可能)かもね。キャラクター相関関係をなるべくシンプルに設定して、その関係を際立たせるような類型の対比で性格付けをすれば(順序逆にしてもいい)、キャラは立つのかも。実際はそんな簡単じゃないだろうけど。ギャルゲーに女の子がたくさん出てくるのは、ユーザーの多様な趣味に応える為、ではあるけれど、でもまあ、ピンで見たら単に類型的なだけでそんなに萌えないだろうに、他の娘さんとの関係、対比の中だと最高に萌えるってことも考えられるわけでして。例えば、マルチにゃセリオがいるわけですよ。ロボ娘っぽくしたくないなら、脇にロボ娘を置いておく。……基本だな。基本だから受けたのか。あ、いや、要するに、ヘタに内面を掘り下げようとかすると、プレイヤーもそのキャラの人格とかをついうっかり仮構しちゃって、人間っぽいとかそうでないとか言い始めるから、ひとりひとりのキャラは寧ろ類型で済ましちゃって、その関係(当然水と油くらいのシンプルさで良い)上で萌えを発生させた方が、娯楽作品としては有効かなあ、と。そもそも文芸ごっこなんて誰も読みたくないんだし。
むしろ文脈抜きにキャラを語ることが容易だという点に焦点を当てるべきか。正確には、受け手にとって文脈は無条件に共有されるものだ、という暗黙の了解があるってことなんだろうけど。大抵は無視される。
このキャラクターなんだか型通りのお人形さんみたい、って言ってる人間は、正に自分が型通りのこと言ってるって現実に気付かない。「型通りで現実感がない」って、それをアナタが言うんですか? 型通りのこと言ってるお人形さんみたいなアナタが。自分を棚に上げて。「これつまんなーい」って言う自分のつまんなさは省みなくていいんですかね。まあだからと言って、読み手に型通りと思わせるようなキャラが許されるかというと、これはまた別の問題でして。つまり物語を描くのが難しいように、批評だって難しいのです。 <型通りの考え
誘拐された側と誘拐犯の間にある種の連帯感が生まれるという言説に対して、あり得るかもと思える人とあり得ないと断定する人、絶対そうなると断定する人によって、『SSD』の蒲乃菜の受け取り方は違ってくる。僕なんかは想像力が貧困だから、そんなこともありえるかなあ、と思うし、実際蒲乃菜の言動には別になんの違和感も感じなかった。この想像力の貧困さというのは結構致命的で、僕は作品の説得力みたいなのを「現実感」溢れる描写から読み取ることが不可能であります(涙)。想像力がないってのは、要するに現実的な注意力がないってことです。あるべきものがないことに気付かないのは、現実をあるべき姿としてきちんと捉えず(イメージせず)、のべーっと過ごしてるせいです。おそらく太陽が西から昇っても全く気付かない。
「現実」とはその人の捉える「イメージ」であり、人はその「イメージ」に従って物事を判断する。その強弱が作品の「現実感」を決める。書く時も。読む時も。
いや、だからですね、お話の中で人が何しようと、まあそんなこともあるんだろうなあ、と言いたいわけで。ホラ、他人にあんまり興味ないから。他人に対してのこれって「イメージ」がそんなに強くない。僕とは違うんだから、他人が何考えてるかなんて分かりっこないし、何しようと他人の勝手だ。前にも同じようなこと書いたよなあ。なんでそういう行動を取ったのか、って理由は知りたくもなるけど、理由を聞いたら即納得する。理由に納得できないことは、まずない。だって他人のことだし。行動に対して理由が理解できないなんて自分だけで十分だ。
他人に興味ない僕が、何に興味あるかってえと、前までは、そりゃ自分自身です(←痛い)と答えてたところだけど、最近はワリとどうでもいいですね。どれみがあればそれでいいです。ちなみに、スペースオペラからインナースペースへ、とかいう類は文系人間にはありがちな道ですが、そこから内面に嫌気がさして表象へ、というのもまたありがちな道です。
フィクションの題材ってのは星の数ほどあって、軍隊とか戦争とか政界とか裏社会とかから平凡な主婦のお話までなんでもありです。作家は題材に対して取材、調査し、それを細部に反映させるのでしょう。で、細部の描写が作品のリアリティーを支えるってのは分かるけど、それって要するに作者が細かいところにまで気を遣って「現実」してる人だってのが分かるだけじゃないかと。杜撰に「現実」してる僕なんかは思うわけですが。もちろん細かく「現実」してる方が作品面白くなるから好きです。ただ杜撰に「現実」してるのも、それはそれで現実だと思うし、いいんじゃないの? 『サトラレ』って僕は別に好きでも嫌いでもないけど、「思考実験」として、外国人に思考が漏れたらどうなるか(異言語によるコミュニケーションの分節化)が欠けてるのがまずいって意見に対しては、やっぱなんか違うと思う。あれってそういうんじゃないでしょ? 泣きのドラマを優先すべきというか。その為のワンアイディアだと思うし。王道ヒロイックファンタジーかなんかで、思い出したかのように勝ち側の兵士の役得、略奪だの強姦だのの話が挿入されて(そのシーン文章ノリノリ)、それも知らずに王子様が理想を語ったりして、そんで強姦された娘さんの涙あたりでそのエピソード締めくくれば、読者は思うわけだ。世の中キレイゴトだけじゃ済まされないんだよね……うるうる。基本的に同じものじゃない?
まあ杜撰に「現実」してる現実が透けて見えるところにリアリティーがあるとか言い出すと、果てにはたとえCLAMP大先生やポルノグラフィティであっても一定の読み価値が生じてしまうのが問題だなあ。
とりあえずなんか断片的にぼんやりとネタが浮かぶことはあっても、いざそれを文章化することとは全く別で、つまり日記は書き始めると3秒で書く気がうせる。いやまあ書きたいことはないこともないんですけどねー。衝撃の問題作『ラストシーン』のレビューとか。というか『ラストシーン』レビューに合わせて旧エロゲーレビュー復活を目論んでいるんですけど、いつのことになるか(他人事)。それにしてもWEBでアナルだの浣腸だの喚くのは下品だから止めた方がいいです(涙ながらに)。
とりあえずありがちな言説でレビュー書けば、ゲームの抽象性を批評できるかもナーと思った。『フロレ』の感想読み返して。類型的な考えしかできない自分が嫌いなんだけど、類型的な感想も読み様によっては意味が変わるよな。
『惑星カレスの魔女』(J.H.シュミッツ)はロリコンの定番アイテムというか。このタイトル、表紙、内容の組み合わせはたぶん過去最強レベルです。僕は割合に本をただの字だとは考えていないので、装丁がダサかったりすると猛烈にガッカリします。例えば北村薫の時間ものが私ものよりどうも魅力に欠けるのは、高野史子が表紙を描いていないせいです。つうかどうにかならんのか、あの時間の抽象性をただそのまま絵画イメージに引き伸ばしたかのような表紙は。まあ北村薫から読書趣味抜いたら何も残らないんですけど。時間もの、つまんないよねえ。推理小説の形式で読者を「私」の卒論(芥川)に付き合せた『六の宮の姫君』がいちばん面白いと思うんですけどね。
文庫は出版社のカバーでの好みってありあますよね。集英や文春はどうもペナペナでいけないとか。新潮は柔らかでいいとか(紐栞ついてるのもいい)。角川はコロコロデザイン変えるから古本屋に嫌われるとか。(古典を除けば)ちくまと内容的にさほど差があるわけでもないくせに、講談学術学芸はしかめっつらしくて嫌だとか。ああいうイカニモアカデミックな装丁って、それだけで内容に安心しちゃうところあるから、本当に読者にお勉強してもらいたいなら、もう少しくだけなきゃいけないと思うんだよな。「サルでもわかるナントカ」だと書いてある内容全く信用できないから、とりあえずもう少し勉強するじゃないですか。講談社はそのへんもっと検討して、とりあえずは値段を下げろ。 <それが言いたかったんですか
信子が出てくる話って、なんか急に少女マンガ的情念の世界になるよね。さすが『ママレードボーイ』、『ご近所物語』、『花より男子』やってた枠だけのことはあります。今日のなんて、吉住渉のマンガかと思ったぞ。つうか、台詞だけ聞いてると、なんだか夜の9時頃やってるドラマと言っても通用しそうな気が。だってさ、「あなたには敵わないのよ」だよ? しかもそれを小学5年生(女子)が小学5年生(女子)に向かって小学5年生(女子)を巡って言うんだよ? 萎えるっての! つうかあいちゃんはオレのもんだっていってんだろ! 何回言ったらわかるんだよ! >信子 <何度言っても届きません
アレっすか? フロイト一派とかで考えればいいんですか? こういう幼年期の同性愛的ニュアンスって? ごめん、僕そういうのキライ。だいたいにおいて僕は、人間の細やかな心理とやらを一笑に付すタイプの人間であるわけで、そういう人間は教室に充満する思春期的な気配みたいなもんは、どうにも息苦しくて仕方ない。そしてそんな空気に無自覚に毒されちゃう連中が嫌いだ。『水色時代』の優子とかバカだコイツと思ってたし。当然思春期を懐かしむ趣味なんてのも持ち合わせちゃいないわけで、僕が好きなのはあの息苦しい思春期的空間を鼻息で吹き飛ばすようなタフな女の子なのだ。だもんでいかにもあの年代にいそうな信子はあまり好きじゃないというか、てめえあいことベタベタしてんじゃねえよ!(←詰まるところはコレだ) さらにこれまたいかにもいそうなミホミホにも辟易させられた次第。止めとばかり、そうした未分化的な世界に対していかにも愛しげな視線を送ってみせるノスタルジックな姿勢がもう死ぬ程キライ。
そういや吉田秋生ってやぶうち優と似たようなとこあるよな。一緒にしたら怒る奴いそうだけど。似たようなもんだ。いや、吉田秋生は好きなんだけど。バカなところ含めて。小学生のとき別コミでいちばん好きだったのが『BANANAFISH』だったりしたのは、まあ男の子なんだから当然として、男子小学生がなんの疑問もなく別コミ別フレ別マを読んでいたというのは一般的には結構それなりに特異な幼児体験ということになるのだろうか? とチラリ思ったりもしたのだが、初めて買ったレコードが『The Velvet Underground & Nico』というよりはよっぽどありそうな話なので考え直すことにします。
ちなみに僕は恥ずかし気もなく「親友」などという単語を口に出すあいこの野暮ったい感じが、はっきり言って苦手なのですが、惚れている以上文句言えないというジレンマが! ああ!
『シャーマンキング』はなんつうか「同時代」的に読まれることを強要してくる感じが、この手の作家の貧弱さをまざまざと見せ付けてて、その手の読み手であることを止められない僕みたいなタイプの人間に等しく「個人的にはワリと好きなんだけど、」という例の前置句で感想を始めさせたりするんだけど、そうした人間はやはりこれも等しく、毎週のジャンプを『シャーマンキング』で読み始めたりする。あーオレもアンナ姐さんにシゴかれて〜。
麻倉葉にとって戦闘とは平穏無事な「ユルい」日常が続くことを阻害するノイズを排除することを意味するが、「主人公の戦う理由」は今やここまできたか……とまあある程度マンガ読んで来た人間なら誰でもそうしそうな感傷的な読み方は、それがあまりに感傷的であるが故に実際に口に出される機会はないだろう。そして、そうした感傷を引き寄せる貧弱さが、作劇上ジャンプ伝統のトーナメント方式を「再解釈」してみせるような安っぽい野心に顕れていることにも気付いているから、貧弱を共有する人間が、それに触れることもない。かくして『シャーマンキング』について語られる言葉は、結果的にショタを含んだ萌え一色となる。たまお虐めて〜。しかしそれはあくまで結果というか現象である。「萌え」という分節化は、作者-作品-読者という古典的な連帯を解体するものとしての「同時代性」が新たな形として作者-作品-読者という連帯を組織してしまったとき、異常な速度で進行する。木乃伊取りが木乃伊となるわけにはいかぬ。新たな連帯者は生きる為に「同時代」的な言葉を己に禁じ、己の存続をかけて「萌え」るのだ。つまり、表に出てこないからには陰湿で強固な「同時代性」が地中にみっちりと根を張っていて、そしてその「同時代性」は「作品」としての『シャーマンキング』の不成立を意味するが、それが決して語られることがないという点で『シャーマンキング』はかろうじて存命することができるのだ。あ、なんか自分で言っててちょっともっともらしいと思ったゾ〜。
いや、だから個人的にはワリと好きなんだけど…… でもマンガ的にゃ弱いよな……
最近は「イメージに負けないように」とか考えてます。こう考えると「『イメージに負けない』というイメージ」が頭から離れなくなるのがちと厄介ですな。どうも僕は徹底的に不自由な思考しかできそうになくて、困ってしまいます。基本的に何も考えてない人間というのは、自分語りするにも、いちど意識的に内面化の手続きを踏まなきゃならんのですよ。はぁ。だからいつも、なんでサイトなんぞやってんだよ、オレ、とか思うんだけど、止め方知らないから困ってるんでゲスよ。いや、だから、何もしたくないんでゲス。特にギャルゲー。やんの疲れる。
ストーリー一本に無理矢理付き合わされる感じが、どうも疲れます。小説やマンガ読むときも一気に読むことができない人間なんで。ちんたらちんたらつまみつまみ、美味しいところはリピートしてって読み方だから。立ち読みするときは別だけど。一本一本だと取るにたらないし。ギャルゲーのシナリオって長過ぎる。それを一定スピードで読むのを強いられるのはキツイ。だから『雫』好きなんだよな。アレ短いし。
まあエロゲーもテキストぶっこ抜いてやりゃあ、ちんたらちんたらと読めるから、そうすりゃいいんですけどね。そこまでする気が。まったく。
ちょっと前まで漫画とかゲームとかで「神様」がお出ましになることはよくあって、実は主人公達を操っていた神様を最後にやっつけて、これからは頼るべき神はいない、これからは僕らが自分で生きていかなかくちゃならないんだ、ってところに落ち付くパターンのお話が随分流行ったような気がするんだけど、そんな最後に倒されちゃうような存在を本当に「神」とか呼んでいいものか、とかいうことは、まあ僕だけじゃなく誰でも考えることだと思う。
つまり英雄の延長線上にあるようにしか見えない存在を、わざわざ「神」と呼ばなくてもいいんじゃないか、つうかそれ単に「父親越え」のヴァリエーションでしかないじゃん、ということであり、「神」っていうからにはさあ、そういう人間の直接の認識上(内部)にある存在にしちゃいけないんじゃねえの? 「神様」ってのは、人間にとって越えるとかそういうことはもとより徹底して理解不能、どうすることもできない認識することさえできない人間の認識の外側にある存在を言うんじゃねえの? という素朴な疑問なのだが、「人間の認識の外側にある存在」というものが既に人間の認識の産物(内部)である気もするわけで、こうなると、手出しできようができまいが、それって本当に神様って言えるの? という素朴な疑問を払拭できるものとはならない。
「神様」ってなんだ? それはどれみだ、と言いたくもなる昨今ですが、さすがの僕でもそんなことは言いません。どれみはどれみです。
まあ基本的に「神」って概念は比喩的なものだと言えるとは思いますね。フィクション上で使うなら、頭ちょっとは使ってほしいよね。『フロレ』がつまんないのは頭使ってないからです。押井が退屈なのは頭使ってないからです。認識偏重型の作品がつまんないのは、ものわかりの良過ぎるところですね。いかにも言葉が安い。WEB日記で読めば済むようなもんに金払う気にはなれないということですが。
それ記号じゃん! 記号ですよ、そりゃ。その構造的な組み合わせでなんとかできますよ、そりゃ。で、なんでそこから、オリジナリティとか創造性とかを称揚する意見が出てくるんですか? 組み合わせの仕方がワンパターンだからつまんないわけで、組み合わせ方を少しひねりゃあいいんです。組み合わせ方がオリジナリティに繋がるんじゃん。まあ、記号、パクリ、引用にヒステリックな皆さんは、大概記号化の努力が絶望的に不足してる作品を見て、鬼の首とった気になるものですが。
よく作品の結末に対して、何が言いたいんだよ! ってツッコミ入れる人いるじゃないですか。作者の主張を読みたがるというか。答えなんぞそう簡単に出るもんじゃない、とか言いたい場合はどうしたらいいんですかね。それとホラ、何が言いたいんだよ! って言う人に限って、台詞で説明しちゃイカン、とか言うじゃないですか。答えなんぞそう簡単に出るもんじゃない、って台詞で言わずに頑張ってるのに、なんでそこで、何が言いたいんだよ! ってツッコミが入るのかなあ。不思議不思議。