6/17

第1ターンにアスベルをワープで送り込んでゼーベイアをグラフカリバーで抹殺したくなる欲求に抗おうと整備主任に刺されたりしてるここ数日。ああ、原さんとセックスしてえなあ。

さて『GPM』に関しては話題に出すのを意図的に避けてきましたが、それは要するに毎度のことながら『GPM』そのものより『GPM』を取り巻く言説空間が嫌だったということでありまして。更科修一郎のアレとか。『GPM』を「自由」つまり「可能性」を追求したゲームだと捉えることは、それを賞賛するにせよ否定的に考えるにせよバカだ。あのゲームのどこに「自由」がある? 例えば「目的もなく漫然と日常を過ごす」ようなことができるか? まあ一応できはするけどその際『GPM』が吐き出すのはごく限られたウンザリするほど変わりないパターンのメッセージと時間経過だけだ。なにが「自由」だって? 『GPM』は目的論的思考に縛られた徹底して不自由なゲームなのであって、極めて古典的な収集とパラメータアップのゲームなのであり、しばしば言われるようなラジカルで深いゲームなどでは決してない。無論それはなんら悪いことではなく、僕はその古典性故に『GPM』を楽しんだ。このゲーム所謂ライトユーザーは受けつけないだろうとは良く言われるが、それに関しては僕も同意だ。こんなクラシカルなもんを楽しめるのはせいぜい僕よりひとまわり下くらいのゲーマー世代までだろう。収集とパラメータアップって言うなら小学生に『ポケモン』が受けたじゃないか、という反論も予想できるけど、『ポケモン』はそれをひたすら追求したという点で『GPM』よりゲームとして遥かにラジカル〈根源的〉であったわけで。そしてそのラジカルさについていけない(忘れてしまった)自称ゲーマーといった輩は大抵『ポケモン』を遊ぼうともしないのだ。そして程良くヌルく薄められた古典性という地平で安寧する『GPM』を崇めるという次第。繰り返すが古典的なことは悪いことではない。僕は古典的なものが好きだ。ただそれに気付かないのは心底バカだと思う。ちなみに『GPM』に比べれば『AIR』の方がずっと自由で可能性を追求してて不可能性なんかとは無縁のところにあると思うんだけど、そういうの読みたいけど多分誰も書かないから仕方なしに僕が書くしかないのかなあ、とか思ったりしたんだけど、当然書く気はありません。あとあれだね。更科修一郎は評論はできても批評はできないね。いやそれも別に悪いことじゃないんだけど。

まあなんつうか「物語」ばっかり見てると、作品を下部で支える「ゲーム」「漫画」「小説」ってのをいともあっさり忘れちまうってのはナニだと思う。「物語」さえ忘れる。で、結果的に「物語」もくそしょーもないものになるんだよ。物語好きを自認する身としては、エロゲー界で物語を描く才能があるのは久弥直樹だけだと思うし、物語を描く資格があるのは荒川工だけだと思う。麻枝准は物語の方から好かれてるくせに本人に全くその気がないって感じ。いやまあ去年一昨年の2年間弱しかエロゲーやってない人間の戯言ですよ。

鬱ってるときってそれまで黙ってたことをついポロっとしちゃいますよね。

6/19

客観的に言って『GPM』と『AIR』では、それは当然前者の方が色々出来ます。『AIR』はただの一本道アドベンチャーです。にも関わらず僕が「『AIR』の方が自由だ」と言うのは単にレトリック上のものというか、ぶっちゃけた話アジテーションです。僕の言葉の大半はただの修辞です。いや、そういう口してるんですよ。出てくるのは嘘ばっかり。ただああいうこと(6/17)言ったのは、「可能性」とか「自由」とかいうタームでゲームが語られることへの嫌悪といったことがありまして。「『AIR』の方が自由だ」なんかは実際のところどうでもいいことで、僕が嫌なのはそういう風な断面を捏造する「可能性」とか「自由」とかの方です。リアリティーというものが作品には明確に存在せず、作品の受け手が個別に見出すのと同様に、自由というものもゲームが自ら持つというより、ゲームの受け手が個別に見出すものだと言えるでしょう。例えば性的描写暴力描写が厳格に規制されているコンシューマに対して18禁エロゲーは遥かに自由な表現媒体であるとも言えるわけで、それに対して自由を感じる人だっていることでしょう。当たり前のことですが、人がゲームに対して感じる自由/不自由は、大概その人の考え方や生き方によるものであって、それは作り手と受け手では全く別のものでしょうし、僕のように何事に対しても不自由を見付けたがる人間は、どうしたってゲームの不自由を吹聴したがるのです。勿論僕は現実及びゲームの不自由性を固く確信していて、自由などという怪しげなものを有り難がる連中を心から軽蔑してますが、僕のそういう姿勢は現実及びゲームを僅かなりとも説明するものではありません。

自由/不自由が受け手に個別に感じ取られるものであり、それが彼の考え方生き方によるものだとしたら、自由/不自由といった現実の生活で先行する概念を徒に持ち出してゲームを語るのは不毛な気がします。それは結局つまらない自分語りくだらない内面綴りに堕し、ゲームそのものは忘れ去られてしまう危険性が極めて高いからです。僕が『GPM』にどれほど不自由を感じたか語っても、そこからは制度やシステムという言ってみれば御馴染みポストモダン的な思考傾向が漏れはしても、僕がどれほど『GPM』を楽しんだかは全く分からない筈です。僕がどれほど原さんを愛しているかは全く分からない筈です。僕がどれほど原さんに骨抜きにされたかは全く分からない筈です。ぼくがどれほど原さんに「めー」されたいかは全く分からない筈です。僕がどれほど原さんのきわどい水着姿を見たいと願ってるかは全く分からない筈です。僕がどれほど原さんのネコミ(以下省略)。

個人的な「主張」と言うほど大袈裟ぶるつもりはないのですが、つまらない自分語りくだらない内面綴りのレベルで言えば、限られた存在である僕らなのだから有限の生を大事にしよう、とかいう類のまあ国語の先生が『ONE』をやったらいかにも「発見」してしまいしそうな「テーマ」を実は内心好ましく思ってはいる僕ですから、作品の有限性即ち不可能性をごくごく当たり前のものとして直視しよう、人は不可能性などというどこまでも物語的な、であるからには抽象的な、であるからには制度的な、であるからには観念的な、いかにもセンチメンタルなメロドラマを内面化すべきではない、そんなことをすれば作品の有限の生の生々しさは失われてしまう、などと通俗テクストクリティークじみた台詞を吐きたくもなるのですし、不可能性などというものは切り口次第で面白くもなるもので、例えば昨今のTVアニメの「アニメは明るい部屋でテレビから離れて云々」は明らかにTVアニメのひとつの「不可能性」であるけれど、『彼氏彼女の事情』で庵野秀明が市川昆譲りの黒バックに極太明朝白抜きといういつもの芸――これもひとつの「不可能性」と言える。アレは確かにカッコイイけど僕らはもう慣れてしまった――でこれを切り抜けたのは正に有限性不可能性の直視によるものではなかったか、そして自由とはそういうことなのではないか、などと幼稚に映像派ぶったことを言いたくもなるのですし、というかまあ僕が言う不可能は所詮このレベルで使っていて、それは人によってはおそらく億劫とか倦怠とかで片付く類のことで、そこのとこは御理解頂きたく、つまりああバイト始めるのかったりいー気後れするー(仕事するのよりそれ以前の段階、電話とか面接とかが嫌。でウダウダと2ヶ月経過)、でも観念していざ受けて終ってみればなーんだ簡単じゃーんこんなんだったらさっさと受けとけば良かったぜー、とこんなしょーもない次元で不自由を見付けるのと同じくらいごく安易に自由なんてものを見付けてしまうのが僕という信じられないくらいの単純人間である訳です。

まあ確かに自由! なんて言ってる人達には徹底的に不自由ってものを叩き込みたくはなるけど、不自由を止揚する(メイド服は束縛の象徴なんだって!)人達を見てると遥かにムカムカしたりするあたり、要するに僕は可能だとか不可能だとか自由とか不自由とかなんてものはごくごくあっさりと「所詮」で済ませて構わない代物だと思っていて、そんなものに対してぐだぐだと(例えばこの日記みたいに)自己愛たっぷりに考察したりするのは全くもって時間の無駄だと思うし、そんなことする暇あったらメシ食ってクソして寝ろ、と言いたくなるけど、でもまあ時間の無駄遣いって楽しいもんなあ、それもアリだよなあ、とも思うのです。まあでも無駄を楽しむってのも一種の才能だけど。だから何が言いたいかというと、可能だとか不可能だとか自由とか不自由とかその手の言葉でゲームがあっさりと語られたりするのが本当に心底嫌、ということなんだけど、でもそんなことはどうでもいいことで、大事なのは僕が『GPM』を好きだということです。そして好きであるのと同時に嫌な部分もあるということです。好きとか嫌いとかというよりは親しみを覚えていると言った方が適切でしょう。普通「好き」ということはそういうことだとも思います。これからしようと思ってる『GPM』話(多分間違いなく信仰告白になるだろう)もウザくお寒い内容(にならないように善処するつもりですが)なんかはどっかその辺に置いといて、ただ僕が『GPM』を好きだというその一点さえ押さえていてくれれば、と僕はそんなことばかり考えるのです。そんなことばっかり考えてるからレビュー書くつもりはないんですけど。

6/20

以下は覚書です。この辺へ反応めいたことを書きたくなりまして。『GPM』はやっぱ『ポヤッチオ』より絶対『WIZ』だと思ってます。梱包用の緩衝材があるじゃないですか。丸い空気の入った粒粒。あれをプチプチ潰していく小者的快感。これがまあCRPGのひとつの本質だと思います。マップを暗記しちゃったダンジョンを巡回して狩猟。尋ねるコマンドを一通り上から下まで入力して友愛情アップ。「面白い」じゃなくて「楽しい」という感覚。僕としては『FE』は「面白い」派で『GPM』は「楽しい」派になります。このへんゲーム/トイという分類とは似てるものがあるとは思います。桝田ゲーなんかは毎度楽:面=7:3くらいのところを狙ってる印象があります。あと僕は断片的に提示される物語(設定)を自分で組み合わせて大きな物語世界を形作るというとかいう趣味は持ってなくて、そういうのはどうでもいいし、SFガジェット溢れる設定にもそれほど魅力を感じないけど、NPCの背負ってる陳腐な「物語」がただの「靴下」と同次元に感じられるのは凄くいいと思う。『GPM』が楽しくなってくるのは、イワッチをただの「あやまる」と認識するようになってからだと思うし、こうなるとNPCが各々に背負い『GPM』世界を構成する物語(設定)もただの収集対象でしかなくなる。僕はここが好きですね。物語ってのは大抵目的論的な進行《欠如の回復》をするものでしかないから、その意味では僕は物語なんぞに興味無いし、こういう具合に靴下と同程度の扱いされると気持ち良かったりします。で、目的論的思考ってのが大嫌いな僕としては、最初技能習得提案コマンド獲得にどうしても馴染めなくて(資格がほしけりゃアビバにでも行けよバカ、みたいな感じ)、組織の部署変更や昇進の陳情とかするのも嫌で、意地でも何もしないでいてやる! とかいう「自分の現実」を反映させたプレイスタイルでいたんだけど、しばらくやってて争奪戦の事後処理の「為」に止む無くイワッチと1日で親友になったあたりで、なんとなく楽しくなってきたんですよ。これは「ゲーム」なんだ、と気付き始めたというか。仮想現実的なシミュレーション世界や自律AI型NPCとかいう怪しげな惹句が消え去り、収集と数字という『GPM』の相貌が垣間見えたというか。収集と数字というのは目的論的なものではあるけど、その目的は無限に先送りされ(コンピューターの容量の問題としてある物理的な限界点は生まれるけれど、それによってさえも先送りの運動性は些かも揺らぐものではない)、ここに至っては目的が目的として機能しないのです。ただその持続だけが快楽となる。僕が言う「古典性」とはこんな感じです。その意味でレベルに上限のない『WIZ』は正に麻薬的な魅力を持つと言えるでしょう。

あと『GPM』で気に入ってるのはやっぱ戦闘システムの秀逸さというかシステムで天才を表現してるところ。危険・手動モードって要するに時間の微分じゃないですか。微分した時間の中での先読みした行動の先行入力ってアイディアはそれだけでご飯3杯はいけますよ。実際の天才ってこれかもしれないって思ったもん。009がサイボーグ戦士中なぜ最強か、『F.S.S.』の高レベル騎士の戦闘、ってのが頭の中で駆け巡りましたね。エスト(ステップ数7)がデコース(同10)の前に出られたのは「攻撃ポイントの予測」にあったわけですよ。時間の微分ってのは表現手法としては無限に分節可能な時間というものをある一定の枠内に落とし込むことであり、映像作品ではスローモーションがこれに当たる。原作版で009が加速装置を使う際、常に(ではない気もするけど)残像を伴うのも、1ターンが9ステップに分節されるのも同じことだ。やっぱこういう圧倒的な有限性ってのを目の当たりにすると興奮しますね。

6/21

『AIR』に関しては、物語的なレベルでの不可能性を表現するに当たって従来的なギャルゲーシステムがうまく機能していたな、と。一本道ADVだからそれはやっぱ不自由なゲームなんですけどね。一応前に仮説として考えてたのは「DREAM」はなんの変哲もないトラウマ癒し系泣きゲーとして、徹頭徹尾つまらなくなくてはならなかった、ということで。つまらないというか、プレイヤーが観鈴へ感情移入する事態だけはなんとしても避けなければならなかったというか。「DREAM」で観鈴に萌えちまうと、「AIR」が機能しなくなる可能性がある。「DREAM」では観鈴の過去(内面を獲得した経緯)が語られる機会は無く、まあ言ってみればプレイヤーにとって完全に他者として描かれる。彼女の事情は明かされない。勿論そんなものを無視して物語を進行させることは容易だし、「君の過去なんて問題じゃない。僕は今目の前の君が好きなんだから」とでもやればTVドラマ互換の陳腐な物語が出来あがるでしょう。この場合「僕」は「君」になにやら「事情」があることは知っていてもそれを敢えて見ないことで万人に理解可能な「愛」の物語の主人公たろうとするわけですが、麻枝キャラがそんな器用な真似をできる筈もなく、「なんで住人は観鈴みたいな痛いガキんちょを構うわけ?」とプレイヤーは訝しむのです。人間、行動の裏に「理由」を捏造しないと落ち付きませんからね。この「理由」の捏造は物語の重要な役割のひとつで、登場人物の言動を論理的に説明づけてくれます。《ワカラナイカラスキニナル》だって立派な「理由」です。この「理由」が捏造されないとどうなるか? 物語はつまらなくなります。分からないから好きになるというのは、ある先行する一般概念からの逸脱に萌えてる状態であり、あくまで相対的なレベルであるような場合で通用するのであり、「分からない」は「『分からない』もの」として登場人物に認識され、「理由」となるのですが、『AIR』の場合プレイヤーの「なんで住人は観鈴みたいな痛いガキんちょを構うわけ?」という疑問をプレイヤーキャラである住人はあろうことか持とうともせず、ここでは絶対的なレベルで「理由」が存在しません。ギャルゲーとはプレイヤーとプレイヤーキャラとの距離を限りなく近付けることを最優先課題としているのに、です。困った、これはつまらない……。結果観鈴はプレイヤーにとって理解不能の他者と認識されます。これを形式的には主人公を操り娘さんの御機嫌をとるというギャルゲーシステム上でやるのだから、たまったもんじゃありません。死ぬ程つまりません。これはまあ『ONE』でも同じことをやっているのですが、しかし『ONE』は死ぬ程面白かった。違いはどこにあるかと言うと、それはおそらくボケの形態にあると思います。脇で娘さんが確実につっこんでくれるのを確信してボケをかましていただろう浩平(それは日常の親密さの表れだった筈だ)に対して住人は周りに誰もいないときにばかりボケていた(それは物凄くつまらない日常だった)。ような気がします。確認してません。両主人公のボケのシチュエーションを質と量両方から比較してみたら面白いんじゃないかとはずーっと考えてはいるんですけど、何分面倒なことが億劫なもんで。小説なら参照するの楽でいいんですけど、ゲームは面倒でねえ。で、ろくに検証もしてない仮説を続けますと(日記だからいいよね)、幸福な日常が喪失される『ONE』とつまらない日常を後に別視点で見ることとなる『AIR』はシナリオ構造上全くパラレルな関係にあると言えはしないだろうか。つまり、幸せな日常が失われ(シナリオ上トラウマの暴露という手法が取られる)プレイヤーが日常を読み替える(浩平自身は所謂「日常」でいちどたりとも妹の存在を内面化はしない。あのおそらく「過去」あったのであろう感動的なシーンも、それを浩平が今そこで思い出していたかどうかは作品上全く明らかにされないことだった)のと、ギャルゲー的に全くつまらなかった日々を観鈴がどれほどかけがえのないものと感じていたかが判明し(プレイヤーキャラの変化によって観鈴の内面告白が可能となる)プレイヤーが罪悪感にも似た思いで日々を振り返る(当然観鈴にとっては「DREAM」も「AIR」も全く同じ日々だ)のは、章立てのような表面上の差異を全く問題としないほどに同一的なパターンにある。トラウマが暴露されるのも語り手が変わるのも別に大して珍しいことではないが、いずれにせよ肝要なのはそうした受け手に自らと作品との関係を常に自覚させるような事態が反復されていることだ。ここからゲームという双方向的な表現が本質的に持つだろうプレイヤーとプレイヤーキャラとの微妙な相互干渉関係に踏み込むのは、固有性よりは普遍性を突きたいという僕の趣味からは外れるからやりません(面倒だからパスの意)。まあとりあえずは『ONE』と『AIR』があくまでギャルゲーという地平で、その手の議論を可能とするほどのゲーム的な達成を果たした、というくらいに留めておきます。

6/22

不可能性や無力感というものはそれ自体多分に物語的なものであって、そんなものを内面化する言ってみれば「自分酔い」の状態は僕にとってあまり好ましいものではありません。自分がそれしがちですからね。僕は抽象的に「自と他」とかを考えるのが割合に好きで、そしてこうした場合行き付くのは大抵コミュニケーションの困難で、ああ僕は他人というものがこんなにも怖いくせに何故こんなにも他者性を欲して止まないのだろう、とかひとり部屋で布団をかぶって深刻な顔をしてるのですが、実際の話、大切な人達というものは少数ながらそれでも確実にいて、自分の内向性や見栄やちょっとしたプライドがコミュニケーションを阻害し、また見解の相違や誤解やちょっとした感情の行き違いが不可避的に生起し、不可能性や無力感が思考の表面に浮上しようとするときでさえもやはり、全然思ってもないことを矢継ぎ早につい繰り出してその打ち消しをえいえんと(泣きたくなりながら)続けるとか、何を言ったら喜んでもらえるだろうとか必死に(悲壮極まる表情で)考え、考えるばかりで肝心の言葉を一言も発しないとか、そんなことばかりしてるわけで、そんな一種の極限状態においては不可能性だの無力感だのという物語的なイメージは余りにも能天気過ぎるように思われます。

自分でもつくづく他者性欠落してるとは思いますけどね。でもまあ僕は色んな人や色んなものが好きで、うまくやっていきたいんですよ。大抵はうまくいきませんけどね。でもまあなんというかですねえ。好きであるということは僕にとって絶対永遠不変のものであるわけですよ。どう考えてもこの先僕がどれみを嫌いになるなんてことはありえませんし。常に好きがあるんだから好きが報われるかどうかなんてのは知ったことじゃなく(ほんとは結構気にしてて僕はいつだって不安なのですが)、僕は色んな人や色んなものとこれから先もずーっと付き合っていくのでしょうし(僕から止める気なんてさらさらない)、色んな人や色んなものも僕と付き合っていくのでしょう。そこにあるのは信頼(好きな言葉です)だと思います。互いに尊敬しあって高め合うのも一興でしょうし、だらだらと傷を舐め合い甘え甘えられ依存し合うのも一興でしょうが、どちらにせよ好きで信頼してることが優先されます。要するにまあ腐れ縁とかそういう感じで人間は生きていくのですよ多分。どこまでも楽天的な信頼で世界がいっぱいになりますように。

オチなんてないですよ。嘘偽りない本心だし。




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