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先月の日記
来月の日記
あけましておめでとうございます[1/1]
元旦だというのに寝て食って飲んでレコード聴いてテレビ見て本読んでネットに繋いで一日が終わろうとしてます。今年も一年こんな感じなんだろうなあ。そんな感じでよければ皆様今年もよろしくお付き合いくださいませ。とりあえず当分閉鎖する気はないからさ。ちなみに今年最初に聴いたレコードはHousemartins『Caravan of Love』で最初に見たどれみは♯の劇場版でした。ところで一度『鴛鴦歌合戦』で年越しというのをやってみたいのですが、あの映画未だ観る機会に恵まれないんですよね。今年こそは観たいなあ。『新春狸御殿』じゃイマイチだしね。若尾文子はかわいいんだけど。
CS入れたいなあ[1/2]
だぁ!×3の新春スペシャルを見て迂闊にも三次元に萌えてしまいました。ワンニャーの着ぐるみに。あれ欲しいなあ。中身は勿論千葉千恵巳で。お年玉はこれで決まりだ! さて、番組はこれまでのエピソードのセレクション的なものだったんだけど、個人的ベストのひとつである25話「ルゥくんとデパートで」を大きく扱ってくれたのはちょっと嬉しかった。僕が少女漫画的な甘々の世界観を好むことを差し引いても、これは相当良い話だと思う。物語は所詮類型でしかないから見る側はなにがどうなってるか予め分かっちゃうけど、だからといってアニメがつまらなくなるわけではない。事件とその原因究明及び解決というお馴染みの機制から遠近法的に見出される内面を、図式的にではなくあくまで方法論的に処理する手腕が問われるのだ。ベタだけどやっぱいいよねえ、とはそういうことである。この話の演出を手がけた高橋亨はそこんとこちゃんと分かってる。さすがウテナ組はみんな仕事ができるね。高橋のだぁ!×3でのコンスタントにハイレヴェルな仕事ぶりはちょっと凄いことになってます。つっても本家の衛星の方は見てないからあんまり偉そうなこと言えないんだけど。ところでこの正月、費用(制作費)対効果(視聴率)なら教育が圧倒的な差で他局をぶっちぎるような気がするんですけど、どんなもんでしょう。いや僕天皇杯除いて教育以外見た覚えがないんですよ。Kタローとかキテレツとかだぁ!とかカスミンとかハッチポッチとか……
「真珠とり PATTERN・3 『まりあ』」[1/3]
「目の前にいるタケルも一瞬前のタケルなのよ」
「私……1人ぼっちだってことに気がついたの」
ネタがないときは引用で済まそうの法則。今年こそは噂の新作(利休ものらしい)が読めますようにとの願いも込めて。それにしても、ああ……やっぱ清原なつの泣ける。大森望は「SFでしかありえないビジョン」と言ったけど、まあ生粋のSF読みの大森がそう言うのは正しいんだけど、そういう汲み取り方をするには、清原なつのは、なんつうかあまりに本質に迫り過ぎている。清原なつのの漫画がしばしば「哲学ファンタジー」と称されるのは、それがどこまでも「実践的」であるという意味においてであって、なにやら「テツガク的」であるらしい川原泉のほのぼのと腑抜けた漫画なんかとは明確な一線を画すのである。
そういやゲームブックなかったな[1/4]
さすがにもう必要ないと思われるギャルゲーのムックやなにかを小銭に換えようと久し振りにブックオフなどに入ってみたのですが、なに? このパチンコ屋みたいな騒々しさは? ひょっとして今のブックオフってみんなこんななの? 知らなかったの僕だけ? ちょっと前まではさすがにこれほど騒々しくはなかったような……。なんかこう半ばヤケクソ気味に店舗案内とかシステム説明とかを繰り返しガナる、おそらくは貧乏クジ引かされたアルバイトと、それを同情と憐れみの入り交じった「ああアレやるの私じゃなくて本当に良かった」という笑みで見守る他のバイトが醸し出すなんともいえない白けた空気の中では、とてもじゃないけど本棚(主に100円コーナー)をチェックする気とか起きないよね。とは言いつつも3枚で500円のCDとか買ってるんだけど。スチャダラとレディ・リネットと藤原ヒロシ。今聴いてるんだけど、5、6年前という懐かしさの対象となるにはちょっと今に近すぎる感じが、できれば捨て去りたい自分近年史を否応なく参照させてくれて、ちょっぴり痛いです。
ごめん俺もうちっと日本語の勉強する[1/5]
月刊マガジン。BECK。《あの最高のチームをもう一度》にはひとつのパターンがあって、チーム中最も「普通」な人物が「異端」なスペシャリストの元を訪れるという特徴を持つ。言うまでもなくその「普通」は一筋縄ではいかないメンバーを結束させる要となるのだが、その「普通」は同時にスペシャリストさえ一目置く「特別」な能力と表裏一体のものである。劇場板のナデシコを思い出してもらえると分かりやすいと思うんだけど。「電子の妖精」ルリルリは、ハルカさんの言葉がはっきり示すように、クルーにとって「ほっとけない」存在である。「普通」は人格的な未成熟と不可分である。未成熟な人格と特別な能力の不均衡は、実質的には「異端」であるその身を実際的には「普通」に置くという「普通」がもたらす不安定である。これは「装われた(対象化された)普通」という自己言及的な不自然さを徹底して回避することによって「普通」となるような「普通」であり、そのような人格はどうしても「未成熟」となる。それは言わば「盲目的に規則に従っている」状態であり、それは極めて「人間的」な姿である。ルリちゃんは自分では絶対口にしないけどアキトのことが好きなのだ。そんなルリちゃんをみんなほってはおけないのだ。遺伝子細工という消失点から遠近法的に見い出されるルリルリの内面の「深み」を「人間的」なものとして感じさせたナデシコの劇場版が《あの最高のチームをもう一度》を踏まえていることは、物語的に尻切れだとか下らないことをああだこうだ言う前に作品論的な水準で捉えられるべきである。ところでこれはBECKの感想である。
煮物が美味しい[1/6]
実家から届いた正月料理に思わず涙する僕であった。おとーさーんおかーさーん、息子はなんとか生きてますよー。うちは兄弟揃って反抗期もなければ親と喧嘩したこともないし特に口をきかない時期があったりもしなかったという極めてフツーの家庭環境でありまして、反抗期があったり口きかない時期があったりするのを「普通」とみなすような内面を持ち合わせてはいないわけでありまして、家族関係から生じるドラマというものになんのリアリティも感じないわけですが、そもそも家族なんてもんは自分では選べないくせに常に暴力的にあってしまうものなのだから、それに対して不平不満を言っても仕方ないのである。もっとも「家族関係から生じるドラマというものになんのリアリティも感じない」というのは、それが大抵馬鹿のひとつ覚えのように「家族を解体」するというか、「血が繋がらなくても家族」パターンを繰り返してくれるからで、絶対的に先行する家族関係(それは別に血が繋がってようといまいと同じことだ)がまずあって、それを選べないことから葛藤が生まれるという本来的な作劇形式を守ってくれれば、僕だってすんなり読めるのである。だいたい「愛があれば家族」なんてのはいくらなんでも呑気過ぎるわけで、そんなとこからは「家族だから愛してる」のになんで俺は家族の皆さんに迷惑かけるばっかりなんだ(←あ、なんかちょっと実感こもってる)という、まあごく当たり前の心情は描けないのである。AIRが家族ものであるなどというのは完全な誤読で、あれで主題とされている家族は本質的な意味での家族ではないのだ。言っとくけどこれは貶してるんだからね。
要は「意識が存在を規定するのではない。存在が意図を規定するのだ」(by astazapote)という凡庸なことなんだけど、そこに目を向けようとしないボンクラどもに創作の神様が微笑むことは絶対ないと断言いたしましょう。
立ち読みしてるときこういうこと意識はしないけどね[1/7]
「回想」と「過去のエピソードの挿入」は全く別のもので、喩えるなら回想は他動詞的であり、挿入は自動詞的なものであると言える。シャーマンキングの青森篇は挿入ですね。アンナが過去を思い出してるところで物語本編は一端休止して、そこからアンナの回想が描かれるなら当然アンナが主役となるわけだけど、実際描かれてるのは葉を主役とした物語であるわけで、ここのところは一応押さえておくべきだと思う。本編切断時にアンナがより直接的に想起していたと目されるのは、その回の最後のコマ、葉とアンナの切迫した対峙であるが、おそらくは青森篇のクライマックスと思われるそのシーンの描かれ方が、本編に戻る際の視点の位置を定めることになるだろう。無論しばしば見受けられる「台詞ゴマ」の過去形での葉のモノローグから、青森篇が葉の回想として描かれている線は捨て切れないが(その場合本編は回想を受けた葉の現在の状況説明から入ることになるだろう)、「現在(主語)」の侵食を受けない、「回想」の「目的語」としてではない「今ここ」としての「過去」が「自動詞」的に現れている、という風に読みたいのが、まあ形式好きの性ってやつです。映像作品ならその暴力的なまでの物理的形式性――フィルムは常に秒間24コマで回り続ける――から、あるショットを別のショットの「目的語(従属語)」として扱うような認識論的な構え、そのような恣意を可能とするあるショットと別のショットとの差異というものに比較的気付きやすいんだけど、事は漫画や小説でも同じなのである。そこで話はONEとなる。例の「えいえん」から回想された「日常」という読み方が僕にはさっぱり理解できないのね。僕にはあれは「そのとき」「そのとき」が並んでいるとしか読めないのよ。まあそれはONEに限らずそうなんだけど(だから青森篇の読み方も前述のようになる)、これってどう考えても普通の読み方だよなあ。
無論僕は「回想」に対して「挿入」の優位性を説いているわけではなく、回想の対象となる過去を「目的語」としてスタティックなものとして扱うことに違和感を覚えるということで、むしろ「回想」を自動詞的なものとして扱いたいのである。語るべき過去があるから語るのではなく、ただ語る、そのようなものとして「回想」を考えているということです。目的語となるとどうしても主語に汚染されちゃうから、それが嫌ということでもあるんだけど、それは事実の総体としての過去といったものを重視するような態度ではなく、目的語としての過去に応対した形で主語があるような事態を断固斥けたいわけですよ。主語を特権化するためには主語で汚染された目的語としての過去は切り離さなきゃイカンと思ってるのですが、まったく、年が変わっても言ってることまるで変わりませんね。今年もまたずっとこんな調子ですか。はあ。
まるっきり成長してません[1/8]
TVのエヴァの25、26話がそれまで流れていた物語時間を放棄してパイプ椅子で観念劇めいたことを始めたのもそれほどいけないことだとは思ってなくて、「25話」「26話」という形が物語に先行する以上、24話の続きが25話としてあるのではなく、ただ「1話」「2話」「3話」……「24話」「25話」「26話」がそれぞれ勝手に並んでいるという、当時TVアニメのスタンダードとなりつつあった「2クール全26話TVアニメ」がもたらしたと思われる、ある意味記号論的なヴィジョンに馴染んでいた僕としては、ワリとスムーズに受け入れられた。そもそも物語が仕上がってないからといって「25話」「26話」を放映しないわけにはいけないのである。今考えると随分と良心的であったとすら思う。30分間ただ単に例の白抜き極太明朝で「破綻しました」ってテロップ流すくらいのことしても構わなかった筈なんだから。それにこれはあとで映画でやることになるだろうと思ったし。事実そうだったし。劇場版が「25話 Air」「26話 まごころを君に」という形をとっていたことは正しいし、ヴィデオがTVの「25話」と映画の「25話」、TVの「26話」と映画の「26話」をコンパイルしてそれぞれ1本のヴィデオとしていることも正しい。はっきり言って「25話」が幾つ存在しても構わないのだ。そして「25話」は「24話」と「26話」の間に配置されることで「25話」としての意味を帯びることになるのだ。ところで僕は劇場版が春に終わらなくて夏に伸びることになったことも全然なんとも思ってなくて(それに合わせた商品戦略なんかとは僕は無縁だし)、まあこのクオリティーで制作はつらいだろうしなあ、夏にまたこのクオリティーで見せてくれれば文句はないよ、くらいに思ったし、なにより上空で回ってるエヴァシリーズにえらく興奮して、やっぱエヴァ面白いよ! と喜んでたから、不満を覚える暇なんてなかったのだ。「エヴァシリーズ、完成していたの……」に「魂のルフラン」が被るラストシーンを何度も頭の中で反芻したりしたなあ。あと、夏にまたやるっていうんだから別にいいじゃない、とか。だから庵野と大月が偉い人達に頭を下げまわったというのも全然ピンと来なくて。何が悪いのかなあって。観てる人間なんてそんなもんだよな。
あ、いや、エヴァそのものは熱狂して見てたと言って過言ではないんですけど。夏にはそれこそ物凄い勢いで共振したし。分かる、分かるよそれ! っていうか。こうね、ATフィールドを復活させてね、他人の恐怖がまた始まるとしても、それでも会いたいと願ったことはやっぱ本当だと思うしね、それでまた首締めちゃうところがこう……頬撫でられて涙流すところがこう……「気持ち悪い」って言われちゃうところがこう……
僕の趣味は変わってないと思うよ[1/9]
サンデー。KUNIE、モンキー、ファンタ、ちょっと離れて前の方に改蔵と読んでる漫画が固まっててくれて、立ち読み派としてはとても読みやすかったのですが、その固まりが掲載順的に言って、その……かなり後ろの方で……。頑張れ。読む奴はちゃんと読んでるぞ。たぶん。それにしても、もう15年以上サンデー読んでるけど、ここまで読む漫画が減るときが来るとは思わなかったなあ。僕はジャンプ読みだから、今に始まるでもないサンデーの凋落ぶりはわりとどうでもいいんだけど、ここまで酷くなるとさすがにちょっと心配にもなるわな。それなりに愛着あるし。って犬夜叉もコナンもからくりもメジャーもあだち充も(今やってるやつタイトル知らない)読んでない人間にンなこと言う資格ありませんか。
i hope bigmouth strikes again[1/10]
庵野とモリッシーって似てませんか。僕を構ってよ! 僕に優しくしてよ! とか言いつついざ誰かが近寄ってきて、それが不細工だったら容赦なく蹴りを入れそうなところが。三日優しくされたら、僕に構うな! 優しくするな! とか言い出しそうなところが。そんなところが僕は大好きなわけですが。
やっぱ四つ打ちになるのかな[1/11]
テレパルにMAHO堂の記事がある、しかも写真付きと聞いたからには、即本屋へ向けて飛び出す僕です。この情熱をもっと他のことに向けることができたらもう少しマシな人生歩めるだろうに……と些か自嘲気味に述懐でもしてみせれば、本日のウェブ日記一丁上がり! ってなものなのでしょうが、僕はもう普通にどれみ情報をチェックしているだけなのであった。記事はページの一角を使っての新番組紹介的な小さなもので、写真ももう出回ってるもので、内容的に目新しいところは何もなかったのだけど、関Pと千葉の声を拾ってくれてるところはどれみファン的には要チェキだろう。特に新OP「DANCE!おジャ魔女」に対する千葉の言及は絶対見逃せない。「歌詞の意味によくわからないところがあるけど、これから演じていくことで云々」確かそのようなものであった。……ええと。「歌詞の意味がわからない」ですか? あの「アイスクリームチャイルド」の歌詞を手がけたあなたがそうおっしゃる? むぅ。一体どんな歌詞なんだろう。ビビッドな色彩鮮やかな白昼夢あるいは夕方5時のサイケデリアとでも形容したくなるような壊れた詞世界を構築した千葉千恵巳に、あの千葉に、「意味がわからない」と言わせる歌詞とはいったいどのようなものなのだろうか。新OPが世界総ダンスホール化を果たしたポップミュージックの「いま」を正しく反映することになるだろうことはタイトルからも明らかだが、「いま」を特権化する鳴り止まぬ哀しきビートにその歌詞がのったとき、6人編成の新生MAHO堂が歌い始めたとき、「いま」をも突破してしまうようなマジックが生まれる筈なのだ。どれみはポップミュージックをも変革してしまうのだ。ああ早く聴きたい。
えこひいき[1/12]
バーズ。羊。これまで露骨に匂わせはするものの直に触れるのは慎重に避けられてきた千砂の父親との過去が、ここにきて記憶が意識によって隠蔽(改竄)されてきたという、まあお馴染みの事態を迎えつつあるのですが、冬目景は何を描いても様になるから別に構わないのである。ま、さすがに今月の千砂の「狼と羊」はかっこつけすぎて決まらなかったとも思うが。
しんちゃんの後ろ向いた「ニヤッ」を想起されたい[1/13]
どっか〜んの予告にニヤニヤが止まりません。やっぱ動いてこそアニメ! おっきいハナちゃんかわいい! 正直あんまり萌えないなあなんて思ってた自分を秋名のハチロクよりも速く撤回! これでジオンはあと10年(以下略)。
右のヤーマウチン[1/14]
早いもので天外II発売からもう10年です。高校生だったあの頃はまさか自分が10年後就職もしないで根無し草生活を送ることになるなんて思ってもいませんでした。ごく普通のサラリーマンになると思ってたのになあ。僕は具体的なジャンルとは別に「大作」と呼ばれるようなゲーム群を超ジャンル的に扱ってるところがあって、その最高峰として『天外魔境II』と『グランディア』を考えてる。両者に共通するのはなによりもまず物語のキャッチーさなんだけど(ともに主人公が父親不在の萌えるお母さん持ちというとこなんかはいかにも日本的ですな)、通常他分野では尊重される傾向にある「物語」がことゲームにおいては軽視されがちというか、ゲームの場合父性的機構として働いているのは「物語」ではなくむしろ例の「ゲーム性」なんじゃないかと今思い付きましたがどんなもんでしょうか。僕はそういうのワリとどーでもいいんですが。ともあれ10周年です。「所詮物量型」と桝田本人にさえ軽く扱われてる観のある天外IIの魂をひとつこの僕が唯物論的に擁護しようじゃないかという気でいます。でもなー僕は論理的な仕事には向いてないからなー。なに? 書いてみないことには始まらない? そうだな、右手よ!
断固支持[1/15]
いくらでも感動的なフィナーレを迎えられた筈なのに、『イヌっネコっジャンプ!』はいつも通り劇的なことなんてなにも起こってないのになんとも賑々しくいつも通りに終了したのであった。
ラヴコメというジャンルはしばしば「終わらない夏休み」として語られるが、それは「夏休み」を終わらせるというモラリティを「超自我」として利用するというなんとも幼稚というか貧乏くさいというか、そういう一種のさもしさであるわけで、ラヴコメはそのようにして道徳内面化装置として働いてきたのである。それは「夏休み」を餌に読者を飼い馴らしてきたということだ。一応ラヴコメの範疇に括られる『イヌネコ』だけど、この漫画にそのような「内面」はない。なんせ犬に猫だからな。与えられた「夏休み」が捏造する偽りの「闘争」に付き合ってる暇があるくらいなら、昼寝して散歩して今日のゴハンのことを考えるのだ。犬や猫は毎日が「夏休み」で、そして毎日が「闘争」なのだ。つうわけでオズとユーキの息ができないほどに素敵なジャンプが文字通り《暗闇の中での跳躍》だったりしたのも、これはもう必然というものなのですよ。
ドラマ[1/16]
エディプスは父親を殺して母親をモノにした後で、自分が殺した相手が父親でモノにした相手が母親であると知るわけだけど、この盲目性、不可知性は自己(行為)と自意識(内面)の不可避的なギャップである。エディプスはそれを認識し自己責任の下に正しく引き受ける。劇の最後で自殺するわけですね。現代社会では自己と自意識の不可避的なギャップが「罪」というかたちで「内面」に還元されてるところがあって、いうまでもなく盲目性、不可知性は「罪」とはならない。そこで自殺しちゃダメでしょ! とかいう話になるわけです。♯のラストでどれみ一行はラブシュプリームの花を取りに行くという行為の意味(呪いをかけられてもう二度と家族に会えない)を知ってながら、それでも行為するわけだけど、ここでは自己と自意識の不可避的なギャップは自意識におけるダブルバインドというか決定不能性において現れる。家族とハナちゃんとなんてのは選べない。のにハナちゃんを選ぶしかないわけだ。ところで現代社会では自己と自意識の不可避的なギャップが「内面」に還元されてるから、そこで自己犠牲の精神を発揮したら残された家族はどうなる! とかいう話になるわけです。現代ってのはどうも作劇という営為が生きづらい時代であるようです。
マッチョドラゴン / 藤波辰巳[1/17]
本を読むことが知的な行いなんて言うのは完全に嘘で、どっちかっていうとありゃ筋トレに近いものがある。本読むのって疲れるじゃないですか。疲れるからって読まないでいると、たまに本読もうとしたときに全然読めなくて自分でもビックリするのね。まるっきり筋トレと一緒。そして筋トレはある競技の為のトレーニングと考えられがちだけど、それはまあ確かにその通りではあるんだけど、スポーツ選手の談話を聞いてると、結構好きでやってるようなフシがある。つうかだいたいみんな喜んでマイトレーニング語るし。帯ギュでも筋肉の見せ合いっことかえらい楽しげだったしな。禁トレはそれ自体が楽しいのであって、それはトレーニングする人間にとって、筋トレが競技に還元されるという実用性よりもおそらくは大きいものなのである。つうわけで本を読んで知識を得られるというのは確かなんだけど、人はどっちかというと楽しいから本を読むというのが正しいし、読書体験というのはひとつの筋肉なのである。話とか聞いてて、賢さ自慢したいのかお前、と思わずにはいられない連中が、どうにもボディビルダーのように感じられるというのは、まあ道理ですな。そんで僕は本物の身体と同様読書体験もそりゃあ貧弱で、筋トレ同様本を読むのも疲れるからしたくないのである。当然僕は筋トレも読書も全然楽しくない。
痛くもない腹を探るってのは大抵自分がやるんだよね[1/18]
人がネットに繋げない状況のときに限ってastazapoteがコジャレたデザインに生まれ変わったり、今木さんが更新したり、掲示板に書き込みがあったりするのは、某国の陰謀ですか。それともアレですか。みんな僕になにか恨みでも持ってるんですか! ……冗談のつもりが考えてみると心当たりがありすぎるような人生は送るべきではないと思いました(泣)。
御用とあらば即参上(嘘)[1/19]
ゲームブック論は超越的な視点とダンジョンの壁の「厚さ」という「点と線」みたいないかにも面白くなさそうな切り口を一歩も出ることなそうな気配が書く前からもうプンプンしてるからいまいち書く気が起こりません(私信)。さて、かねてから(あるいは書いてるときから)
『Lien』レヴュー
で『So What?』を持ち出したのは失敗だったと思ってて、限定的な(別離が設定された)時間を過ごすという物語が共通する為に『Lien』と『So What?』を並置しちゃったのは不味かった、つまり『So What?』を制度的な読み方をした場合に『Lien』との共通性が現れるから、その旨ちゃんと書いておくべきだったと。勿論こういうのは、今考えれば、というものであって、当時はとにかくレヴューを一本でっちあげるのに必死でそんなこと考えてるような余裕は無かったんだけど、一応自分で書いててなんかしっくりこないものはあったわけです。もっと別の言い方ある筈なのに、自分では全然そう思ってないのに「昇華」とかね。未だに使い方よく分からない言葉なんだけど、あの文中だとなんつうか座りがいいでしょ。それこそ制度的に。レヴューなんてそんなもんです。僕は『Lien』の「死人との別れ」は所詮趣味的なものでしかないと思っていて、別段評価はしていないし、一応一通りエンディングは確認した筈だけどラストがどうだったかなんて今や全く覚えていない。人は普通劇中死人が生き返るとブーイングするけど、死人が死にっぱなしだと喜ぶわけです。『Lien』にはそういう意地悪なこと言われると何も言い返せないところでしか「別れ」はないと思う。『ONE』の「えいえん」を再会を盛り上げる演出装置として読むことはできないけど、『Lien』の「幽霊」は別れを悲しくさせない為の演出装置と読んでると思って頂いて、まあ間違いはないです。にも関わらず僕が『Lien』を好むのはノリの良さとでも言いますか。メガネッ娘がメガネ落としたとか言って探し回ってるシーンで、主人公は実はメガネが娘さんの頭にあるという、やっさんが脳裏に浮かばずにはいられないお約束が現に起きているという事態に感動し、いつのまにか集まったギャラリーの中、それに最初に気付いた者の果報としてツッコミを入れる権利を獲得し、皆の期待を一身に受けツッコミを敢行し、英雄として称えられるわけですが(僕は大喜びで笑い転げたわけですが)、こういうところがもう大好きなわけです。決して「一人」で書こうとはしていないところがね。それは健全というか、物書きとしてすごく真っ当だと思うんですよね。協働的なものとして「ノリ」を発生させる手腕を評しての「エンターテイナー」荒川工を強調したいところです。つうわけで『このちゃ』は是非やりたいなあ、ねえ沖田さん?(揉み手)
『お迎えです。』の場合は勿論趣味的なものはあるにせよ、それにもまして「死人との別れ」が主人公が外から見送る側に立つ事で認識者の無力性を獲得するという形式を巻き込んで主題化されることによる、いわば作品論的な強みがあると思う。今月最終回だそうだからなにか書けるようであれば書きたいところだけど、もう言いたいことはあらかた言っちゃってるしなあ。『So What?』ほどの傑作ではないけど、まあでも個人的に忘れ難い作品ではありますね。同時代的に見れば頭一つ抜け出してるのは確かです。とか終わる前から言ってみます。ちなみに
それ
は当然僕も読んでました。最早基本教材でしょうか。『So What?』もいつかちゃんと論じてみたいですね。見果てぬ樹璃…じゃなかった夢です。
……なんだか今日は前に書いた文章の言い訳と書きたい気持ちはあるけれど実際にはまず書かれない文章の夢想ばかり書いてる気がするんですけど、しかも妙にスラスラ書けるんですけど、ひょっとしてこれが僕の一番自然な更新のスタイルですか(涙目)。あと今年一発目のフルバ、花ちゃんメインの回がわりとこうまんま「忸怩たるループ」で、ちょっと気味が悪(以下検閲)。
来週は『も〜っと!』でやるよん[1/20]
教育の方、第一期39話の放送終了を記念して『だぁ!だぁ!だぁ!』個人的ベスト5。
だぁ!スレ
の
パクリ
じゃないです。参加のタイミングを逃しただけです。順序はつけません(※優柔不断でつけられません)。放映順で。
#6「母の日にママ来る」
#7「ルゥくん学校で人気者」
#14「助けて変身ワンニャー」
#25「ルゥくんとデパートで」
#32「クリススキーで別荘へ」
金子伸吾(#6)、高橋亨(#14、#25、#32)、錦織博(#7)と演出(絵コンテ)が揃ってウテナ組というあたりに僕の趣味がうかがえます。まあ基本的にエヴァとウテナで鍛えられてるからなあ。
マタムネと一緒に風呂入りたい[1/21]
俺はなにかっつうと風呂かい。それはともかくNARUTOとH×Hの掲載位置に関して、日頃の行いというものについてちょっと考えてしまいました。みんな、ちゃんと更新しなくちゃダメだぞ! <お前がな
一生ついてきます[1/22]
〈前口上〉「身体がもたない。一気に勝負を付けさせてもらいます」から流れるように〈モーション〉。対戦相手が呼応の〈解説〉「この地を這うようなアッパーカットは……」。そして大ゴマで必殺技炸裂!
JET!!
これよ、この圧倒的なかっこよさ。確かに最後が寸止めだとこの正美文法が完結しなくてカタルシスに足りないけど、それでも十分かっこいい。今回のリンかけ2は正美必殺の、死んだと思わせる引きで一週跨いで結局夢オチ、もあって長年のファンとしてはもう大満足です(するな)。ところで我等が剣崎順がスーパースターの名を欲しいままにしてるのは、他の全日本メンバーのスーパーブロウがそれなりの実体的基盤を持つに対して(フックだとかアッパーだとか。打穴三点崩とか
ジャンプして落下の勢いを利用したパンチとか
)、余りに有名なギャラクティカ・マグナムについてはどんなパンチだか全然わかんないのにとにかく凄いなにやら凄い凄いったら凄いんだ! というところにある。そりゃ星も砕けるわ。
ストーカー・ゴーズ・トゥ・バビロン[1/23]
先週本屋行かなかった分もまとめて読んできました。■ビーム。敷居。あれ? こいつらってもう高3だったっけ…? と自分がいかにテキトーに読んでるかが改めて判明して反省。ウキ。さすがに高校卒業したら終わっちゃいそうな雰囲気ね。■アワーズライト。恋ディス。チェインソーでスプラッタなんてのは娯楽の対象である。夢であの娘にそんなんされたらそりゃ興奮しちゃいます。ちなみにこれがちゃんと分かってないと平野耕太になる。ちなみにそこが平野と小野寺浩二との違いでもある。「見ろ、人がゴミのようだ」は喜ぶところであってうっかり共感したりするようなガキ(いるのかそんなの)はきちんと教育されないといけません。■電撃大王。クロノスヘイズ。おお。なんか話が動いてるっぽい。まあ僕は千佳はショートとロングとどっちがいいかってことしか考えてませんが。■サンデー。ファンタジスタ。ダラダラと「試合」を見せることは絶対ないというところが草場の決定的な才能である。リベロの田中との絶対的な格の違いはそこね。トップ下無しの4-4-2だとFWに相当な手練れがいると思われるのだが果たしてどうなりますか。やっぱ近藤君が出てくると漫画が締まる。ところで近藤君もちゃんとサインなんてするのね。実際サインしてるとこは描かないなんて実によくわかっていらっしゃる。■マガジン。コータロー。立ち読みしてて吹き出したわ! 比喩じゃなくてほんとに3本足あるよ……。いやだあんな中心脚。自分がやられたらと思うとこんな顔 (;´Д`) になります。
世界を革命する力を[1/24]
なにかにつけちょっと考えると、世界なんてものには果てはないのだ、とウンザリした気持ちになってなーんもやる気が起きない僕ですが、こういうのは何も考えていないに等しいわけで、でもまあなんか考えるのなんて面倒だからそれでいいわけです。えーっとですね。世界ってものは果てがあったりなかったりするってよりは、抽象力をもって形式的に閉じられるものだと言いたいわけですが、だからそれやるのは大変なんだってば。
お詫びと訂正[1/25]
先月うっかりヘマをやっちまいまして。
『ディスコミュニケーション(精霊篇)』と今やってる『夢使い』は全然別物なのですが、あの日記中なんか完全に混同しちゃってます。でもまあ夢使いってディスコミだしな。登場人物や舞台がそれまでとは別物として描かれてるとしてもディスコミはディスコミなのです。荒木飛呂彦は今や何を描いてもジョジョになるとかそーゆー。だから夢使いをディスコミ精霊篇として扱った自分が間違ってるなんて全然思ってないのですが、そういうわけだからお詫びも訂正もしようがないのだった。
最近気付いたんだけど、僕はどうやら異様に長い脚というのに滅法弱いらしい。いうまでもなく近年の植芝の絵柄に顕著ですな。記憶を遡ると高橋留美子に辿り着くんだけど、それが明瞭な形で(つまり下半身と結び付く形で)実現されるのはやっぱ黒犬獣のセラムン同人ということになりますか。この長い脚は'90年代中頃、フォルム重視のアニメのキャラクターデザインが発明したものであり、この頃からフィギュアの出来が相当良くなってくるのは、二次元を三次元に起こす技術が進歩したというよりは、二次元が三次元的な表現を獲得した結果であるが、それは二次元上で三次元を再現するものではなくて、二次元を三次元的に表現する試みであったように思う。'80年代がアニメーターの時代で'90年代が演出家の時代だったというアニメ史の簡単な見取り図は未だ有効性を失っていないと思うし、コンテの段階でアニメーターの裁量に任せられる部分が削られてる、というような見方はある程度正しいと思うけど、それは他ならぬ絵からの要請だということも言えるのだ。書いてるうちにどうでもよくなってきたのが丸分かりの具体的な検証にとことん欠けた文章ですね。とりあえず『夢使い』において、フロイト的ともいえる倒錯した性のモチーフが女子(=男子)中学生の姿をとって露骨に前景化してくるのと、キャラの脚がどんどん長くなっていったのには明らかに相関関係があると思うのですが、ここからアニメを切れるか……? やっぱ無理っぽいなあ。
アニメスタイルの3号はいつ出るのか[1/26]
やっぱみんな釘づけになるよな。
輪っかの向こうにあいこが見えるあのカットは。つうかあれとももこの腹の為になら『カエル石のひみつ』DVD買うのなんて全然余裕。折角の映画なんだからとあれもこれもと色々欲張りすぎて結局映画の体裁を為していない完全な失敗作ではありますが(飛行シーンの雲と森の木々、あのCGは使い方相当不味いだろ)、見るべきところはそれでも結構たくさんあるのよね。まあ通して見るとあいこのエピソードいらんやん……尺がないんだから思い切って削れや……と思わずにはいられないんだけど。
あの映画はどれみのおじいちゃんの手の「お迎えボクロ」がもうすぐあの世からお迎えが来るしるしだというのを聞いて、あいこを筆頭にどれみ達がスイッチを入れたように泣き出すところが結構印象深いです。感覚的にはこんなんで泣いたりしてくれるのは凄く嫌なんだけど、それがほんとに「スイッチを入れたように」突然泣き出してくれるもんだから、なんというか呆気にとられる。登場人物が泣けば見てる方もつられ泣きしちゃうとかそういう話じゃない。これは♯46話「魔法をつかわない魔女」にも共通して見られるものなんだけど、山内重保の持つ非人間的ともいえるこの唐突性は嫌いじゃないです。人間そうそう簡単にスムーズな感情の流れを伴って行為するわけじゃないわけだから。例えばここであつこママとじいさんの確執を思い出したうえであいこが泣き出すとなると、見てる方としてもわりとスムーズにあいこの心情が理解できると思うんだけど、そういうことはしない。とにかく泣く。奇妙といえば奇妙なんだけど、一方で変なリアルさもあるような気がする。だいたいあつこママとじいさんの確執があったとして(たぶんじいさんは死んでる)、そのトラウマ(じじい恐怖症)を克服したとして、そこから性急に「おじいちゃん死んじゃだめやー」となるのは明らかに変なんだけど、感覚的には、そりゃ泣くわ、ってのがなんとなく分かるっていうのが厄介で。たぶんあいこも自分がなんで泣いてるかわかんないと思うんだけど。だからまあとにかく泣くっていうのは正しいのかもと思うわけです。すぐれて人間的な非人間性とでも言いますか。まあじいちゃんがもうすぐお迎えが来るとか言ったら、なに言ってるんだよじいちゃんとか言ってがははははーと笑い飛ばすとかの方がそりゃ好きですけどね。それとこれとは話が別です。
祠のシーンでどれみが涙流すのは別に構わないんですけどね。まあこれもあんまり好みじゃないけど、あの異様な雰囲気では何が起きても不思議じゃないし。どれみは泣いたのではなく、泣かされたのだ。傍点打ちたい感じですね。傍線だと
笑うところ
みたいでなんだか。あの異様な雰囲気がどれみにそうさせたというその雰囲気がちゃんと迫力をもって描かれてたという点には脱帽するんだけど、そういう雰囲気そのものが出てくる根拠ってのが作品のどこにもなかったというのが気にいらないのよ。だからあいこのエピソードいらないっていう話になるんだけどさ。
アレキサンドル=T・オヤジーデ伯爵に敬礼[1/27]
おジャ魔女登場〜ドカ〜ン♪ ああもう来週が待ち切れないよ。なんで日曜の次が日曜じゃないんだ。日曜の次が月曜だなんて絶対間違ってる。来週の日曜まであとまだ7日もあるじゃんかよ。長い。長過ぎる。待つには余りに長過ぎる。時間というものをこれほど恨めしく思ったことはないね。余計な曜日をショートカットして速く来やがれ2月3日の朝8時半! ドッカ〜ン!への期待にマジで胸がはちきれそうです(←肺活量足りなすぎ)。つうわけで『おジャ魔女どれみドッカ〜ン!』が始まるまでの時間潰しに『も〜っと!おジャ魔女どれみ』の総括でもしようかと思いましたが、僕は基本的にどれみにおけるシリーズの分割というものをある年代をジャンルとして扱うようなものだと考えているから、それは必然的に2001年のアニメやら漫画やらをまとめなきゃいけないということになり、ろくにアニメも見てない僕にそんな大それたことができる筈もないのであった。つうかまあ一話完結の強みをフルに活かしてどれみ達の「そのとき」「そのとき」をアニメとして定着させていくのが無印のときから一貫として変わらぬどれみのスタイルなのだから、シリーズの差異に目を奪われたうえでそこから演繹的に個々のエピソードを語るわけにはいかないのである。前置きが長すぎますか。それでは『も〜っと!』ベスト5は〜りきって行ってみよう。例によって放映順で。
#6「挑戦!初めてのパティシエ試験」
#15「きれいなお母さんはスキ?キライ?」
#25「ひとりぼっちの夏休み」
#27「いじわる試験を切りぬけろ!」
#49「目をさまして!!あやつられたももこ」
27話と49話を無理矢理ねじ込むあたり我ながらかーなーりワガママなセレクトですな。ベストを1つだけに絞るとしたら出来の良さからいえば15話なんだけど、僕はやっぱり25話になります。「きっと明日は」がかかってどれみが踵をかえす戦慄の一瞬、どれみは間違いなく世界にたった一人だった。ああもう抱きしめたいぞコンチクショウ!
それで他の人の意見も聞きたいからメールフォーム作っちゃいました。印象に残ってる話を1つ挙げて送りやがれ。1つなんて選べない! と泣かせる御仁は選べるだけ選んでください。その為のtextareaです。印象に残ってるのが何話なのかわかんなーい、というのが普通の視聴者ですか。そういう人は「確かこんな話」となんとなくでも説明してくれればそれで僕には分かるからその方向で。話の感想も添えてくれると僕が嬉しい。サイト持ってる人はその旨書いてくれるとなお嬉しい。一通も来なかったら哀れだって? いいんだよこういうのは思い付きを実行するのが楽しいんだから。
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僕には選べません!
鍵っ子の面目躍如[1/28]
僕が家族という言葉から思い浮かべるのは関係の絶対先行性というやつで、要するに関係のないところに苦悩はない。関係に思い悩むというのは関係があるということです。僕にとって家族とはそういうものであり、それを友人とよぼうと恋人とよぼうと別に構わない。ただまま友人や恋人というものが獲得の対象となり獲得の経緯が内面化されるに対して家族はそのへんを「相手を選べないという家族の偶発性」が寄せ付けないわけで、そこが家族モノの肝だと思うわけです。だからAIRなんかだと「DREAM」は家族ものとしてわりと普通に読める。双方ともにおっかなびっくり(あるいは腫れ物に触るようにという形容も可能か)、それでも同じ空間を共有する。これが「AIR」になるとちょっと厳しくなる。獲得の対象となっちゃうからね。まあ僕にはAIRは女の子が空にいるってことの方が遥かに重要だから別に構わないってば構わないんですけど。結局あのゲームには観鈴しかいない。っていうのは前にも思いつめた面して誰かさんに話したな。恥ずかしいですか。ほっといてください。
あと僕は麻枝准は元長柾木と同じくらいセンスが悪いと思うんだけど(それがギャルゲーだと言われればそれまでですが)、これが有無を言わさずとにかく読ませるという語りの腕力みたいなもんが厄介なんですよ。反則です。まあ、まずは論理を先行させたがる人間がイレギュラーの存在に心惹かれるというのは一種のナルシシズムなのですが。
偶発性といえば個人が国家に属するというのも勿論そうで、誰もが自由に自分の所属する国家を選べるなら難民は存在しない。ビビは麦わら海賊団の一員である前にアラバスタの王女様なのであった。ドラマはいつだってここから生じる。後ろを向いて掲げた左腕の×マークのなんと感動的なことか。ワンピースが現在最強の少年漫画として他を寄せ付けないのは、存在が意識を規定するという順番を決して誤らないからなのであって、一応僕が漫画なりなんなりを誉めるときにはそういう裏付けがあるのですよ。しかしなんかこういうことばっかり書いてるとまるで僕が家族を大事にしようとか国家を大事にしようとかその手の思想の持ち主にように見えるお馬鹿さんが出てきそうだから一応言っておくと、僕は封建的な家族形態みたいなものは嫌いだし、ナショナリズムも全く駄目です。存在と意識を量りにかけて存在に重きを置いているわけじゃなくて、存在と意識を量りにかけちゃうような意識を幼稚だと言って馬鹿にしてるだけです。本来量りにかけられるようなもんじゃない。
ハナちゃんの呪文はパラレル、パラレルに違いない[1/29]
ゲームの音声ってのの評判がいまいち芳しくないのは、音読するのと黙読するのでは圧倒的に黙読の方が速いということに尽きる。わざわざ発声されるまでもなく内容の分かりきった説教を好んで聞きたがる人間はいまい。だいたい学校の授業なんぞ聞くよりも自分でパラパラ参考書捲った方が遥かに勉強の効率はいいのだ。それでも学校の授業を聞かなきゃならんのは要するに出席を取るからなのだが、ゲームには別に出欠なんてないんだから別にメッセージなど聞かなくてもいいわけだ。ところでゲームと学校には共通点があって、それはテストだ。単位のかかったテスト。クリアのかかった選択肢。テキストと授業内容が一致するのとメッセージと音声が一致するのは基本的に同じ事態なのであり、自分で参考書を理解してればテストなんてもんは別に怖くないし、音声を聞かないでいたからといって選択肢を誤ってゲームオーヴァーになることもないのである。ま、理解が不十分だとテストが不合格ってこともありえるが。どうやったら長森シナリオでつまづくのか教えてくれ。まあ配布されたテキストが落丁で気は進まないけど授業を聞かざるをえないということもあるにはある。プレステ版の『輝く季節へ』はとにかく読み難くて読み難くて、僕は中川亜紀子先生の授業をそりゃうっとりと聞いたモンさ。
コンビニにもビームとかバーズとかララとか置いてほしい[1/30]
■ララ。お迎え。壊滅的状況にある少女漫画の現在は田中メカによってかろうじて救われている。書店員は最終回を迎えた(いやシャレじゃなくて)今からでも遅くないから一等目立つ場所に平積みにすること。それにしても田中メカほんとに女なの? 恋ディスの犬上と並んで男心つかみすぎだって。もっともこれは僕が男だからそう感じるんであって、むしろ両者ともに「脱性的」というのが正しい。■エース。貞本エヴァ。んー、ちょっとこの綾波には抵抗がある。なんここうヒロインの位置に綾波が収まる感じなのが嫌なんだけど。エヴァってやっぱヒロインが不在なところがいいわけでさ。スープから人の形に戻るところもサルベージ失敗に泣いてるのがアスカでも綾波でもなくそのすぐ後で加持さんとベッドインするミサトさんだってところがいいんでさ。特定の誰かとかいう話じゃなくて不可知領域としてある他者への欲求ってところに僕は共感したわけで。関係の絶対先行性ってやつね。これがないとATフィールドに社会性が失われて、単に自己と他者との境界線ってな凡庸な代物に成り下がっちゃう気がするんだけど、まあでも別モノだからこれでいいのかなあ。それならそれでシンジとアスカのラヴラヴは是非お願いしたい。もっとも十中八九そうなっちゃうだろうシンジのナオ太化だけは勘弁でありますが。■サンデー。ファンタジスタ。近藤くん近藤くん近藤く〜ん。やっぱこの漫画で一萌えは琴姉をさしおいてでも近藤君だよ。撤平に左足反応させてるくせに! 「一生埋もれてろ」 <アイデンティファイ
眠い。[1/31]
ひたすら眠い。だからひたすら寝てる。寒いからコタツに潜り込めばそのうち眠くなってだから眠ってるんだけどふと目覚めるとコタツの外の気温がとんでもなく下がってて絶対外に出たくなんてないから布団をかぶり直してみれば当然ぼんやりとした意識は失われる。自分が眠っていたことに気付くのは常に目が覚めてからでその意味で睡眠は無意識に似ている。無意識は常に事後的に見出される。しかし無意識が見出されるというのは錯覚でそれはいわば「発明」されるものなのであってみれば何人も僕の睡眠を現実逃避という言葉から非難はできないのである。現実はむしろ後からやってくる。つうわけでもう僕は眠いからコタツへ向かうのだがここで転倒が起きている。コタツで横になるから眠くなる筈なのに僕はもう年がら年中眠いのだ。そして人間の根本的な欲望に睡眠があるというような考えや生体としての人間のメカニズムが睡眠を必要としているというような考えが形而上的に(=自然科学的に)その転倒を覆い隠すのだがともあれ僕は眠くて仕方がないからそんなこと考えてるような余裕はないのであった。眠い。寝る。おやすみ。