しょうもな文

しょうもない雑文っす。どうしようもないっす。

■2001/08/15 (水) 87.嘘

 この季節になって帰省するといつも小さい頃のことを思い出す。それも叱られた記憶だ。誰でもそうだと思うのだが、小さな頃は親や先生からよくこう言われたものだ。
 「嘘を吐(つ)いてはいけません」
 この言葉を効果的に語るために、特に良く共に語られた物語は「狼少年」と「ワシントン」だった。狼少年と言ってもワーオ、ワーオ、ワオ〜、ボバンババンボンボンボバンバボバボバンババンボンボンバボンではない。それは狼少年ケンだ。そうではなく、「狼が来るぞー」と毎日嘘を吐いていると、本当に来たときに信じてもらえずに、誰も助けてくれないまま狼に喰われてしまうという世にも残酷な逸話である。ワシントンと言ってもステーキのガスライトがあるところではない。それはワシントンホテルだ。そうではなく、アメリカ初代大統領のジョージ・ワシントンが小さい頃、庭の桜の木を悪戯で切ってしまったのを、正直に認めたと言う嫌みな逸話である。
 まあ考えてみると、ワシントンのように罪を認めるというのは誰でも経験している事であり、だから偉いとは必ずしも言い切れないのであるが、小さい頃は「流石大統領だ」などと騙されて、つい「さやかちゃんの靴を隠したのは実は僕です」などといらないことを言って怒られたりするのである。
 さて、とは言いながらも大人になれば、日常生活を送る上で重要なのは、正直なことよりも嘘の技術であることを知ることになる。いかな正直者でも、お客に向かって「奥様、その服はちっともお似合いになりませんです」などとは言えないし、上司に向かって「課長、歌下手っすねえ」などとは口が裂けても言えない。そういうときは嘘でも許されるということを知るのである。いわゆる「嘘も方便」というヤツである。
 ところで、この「方便」というのは「目的を達するため便宜的に用いられる手段」のことであり、実は仏教用語でもあるのだが、辞書を更に引いてみると「たつき」とも読むことが分かる。この場合の意味は「生活の手段」であるので、「嘘も方便」とは「嘘は生活の手段」とも言えないこともないと言うことである。
 実際、嘘がなければこの社会は成り立たないとも言える。では何故小さい頃から嘘を言ってはいけないと教えられるのだろう?
 おそらく、これは人間が集団社会生活を営むに当たっての便宜上のものなのではないだろうか?
 人間は残念なことに、自分の気持ちを相手に伝達するためには言葉を用いなければならない。以心伝心は空想の産物である。そして、相互の気持ちや考えが共有できないとこの社会は成り立たない。そのためには、発言や叙述がその発信者の気持ちや考えをそのまま表しているとの仮定が必要になる。一言で言えば、社会の信用のためである。狼少年のように「うそつき」のレッテルと貼られると、もう誰も信用してもらえなくなるのだ。最近も、前の参議院補欠選挙で、「愛知万博反対」を掲げて当選しながら、態度を一転させた公約違反の末広まきこ氏は落選した。
 我々は皆、この「人は自分の考えたことを表現してくれる」という建前と「正直者が馬鹿を見る」という本音の狭間で藻掻いている。狼少年の最期のように、本当のことを一所懸命に叫んでも、周囲から嘘だと思われることもあるし、嘘を吐いたつもりの言葉が一人歩きすることも多くある。嘘でも信じればその人の中では真実になることもあるのだ。エイズは治ると言い聞かせて治った例もあるではないか。
 嘘の効用は、真実の効用よりも大きいと思う。だから、元気のないときは元気なふりをすべきである。空元気も元気なのだ。良いことが出来ないならそのふりをすればいいのである。偽善も善なのだ。負けたのがイヤなら別の言葉を使えばいいのである。敗戦ではなく終戦記念日なのだ。そのうちどっちが本当なのか、自分でも分からなくなる。中卯で毎日饂飩を食っているとイヤになって、たまに卵を付けるようなものである。饂飩がヤで卵と。いやいや、それを言うなら嘘から出た誠だろ?


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