しょうもな文

しょうもない雑文っす。どうしようもないっす。

 
■2001/01/15 (月) 51.21世紀にもなって

 21世紀になった。なってみたものの大晦日も正月も普段通りでなんら変わるところはなかった。だが、これはよく考えてみると、一寸モノ哀しいものである。
 そもそも大晦日の語源は晦日である。「みそか」とは三十日のことだ。要するに三十日目、転じて一ヶ月の最後の日である。その大きなモノなのだから一年の最後の日と言うことになる。これが世紀の最後の日は、やはり大大晦日と言うべきであろうし、今回のように千年期の最後の日なら大大大晦日とも言うべきなのではないか。その割りに平年通りであったと言うのも些か芸のないことである。
 正月も同じことだ。小正月もまた同じ。小正月と言えば今日は昔であれば成人の日である。成人の日というと七五三と同じく15日と以前は決まっていたのだが、連休を増やそうという国策のため、1月の第二月曜日に変更された。それでも季節感はそれほど狂わないようになっている。21世紀の正月と言っても変わったのはこの程度のものだ。
 季節は移りゆき、人も変わって行くが結局のところ世の中は思うほど変化しないものなのかもしれない。今回の成人式の騒ぎも、程度の差こそあれ従来からあったではないか。時々騒ぎになって沈静化する、その繰り返しである。結局平年通り。芸がない。
 だが、もっとつらつら考えるに、一月なら少なくとも旧暦では月の満ち欠けが一巡するし、一年は季節が一巡する。このように何かしら区切りと言うべきものがあるのに対し、世紀や千年期と言うものは斯様なものが一切ない。全ては十進法を用いる人間の感傷の為せる業である。十進法も本を質せば大多数の人間の指が十本ある為と言う。なるほど、最前感じたモノ哀しさは、十本の指の所為だったのだ。
 などと、新世紀だと言うのに相変わらず愚にも付かぬことばかり考えている自分に気が付くと、一旦は納得し哀しさが遠のいたと言うのに、再びモノ哀しくなってくる。年々歳々花相似たり歳々年々人同じからずと言うのに自分は十年一日、本当にしょうもない。結局はモノ哀しくなっている始末である。
 と言うわけで、今年もしょうもないままなので、宜しくお願いします。
 ※正月だから「あげ」と言うことでオチはなしね。


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