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ある日、フラットにいるコリンに来客があった。彼はエーデルバッハの顧問弁護士だと名乗った。
「エーデルバッハさんの遺言についてお話があるのです」
コリンは驚いた。彼はエーデルバッハが既に自分の死を考えていたことに心を痛めた。
「あなたは彼女の一番弟子だそうですね。彼女の遺言書によると、衣服・宝石類などはお手伝いのハドソン夫人に、家や家具、楽器などは全てあなたに譲るということになっています。エーデルバッハさんの口座にあるお金については、お二方で半分にということです。彼女の親戚は皆オーストリアにいて、今は全く連絡をしていないそうで、長い間家族のように付き合っていたお二方にぜひ譲りたいとの考えです」
コリンはずっと黙っていた。エーデルバッハがそんなにもコリンのことを思っていてくれたことには感謝の気持ちで一杯だったが、まだ彼女がこの先どうなるのかを考えたくないコリンには聞いていたくない話だった。
「珍しいケースですので、前もってお話しておきたいと思いまして。結構な額になりますし。あなたが望まないならば、もちろんこの申し出を断ることもできます」
コリンは弁護士を制した。
「今はまだ何も答えることができません。先生とも話していませんし。それに、その申し出を受け入れるにしろ断るにしろ、その日が出来るだけ遅く来ることを僕は一番望んでいるのです」
弁護士が帰ると、コリンは暫くソファーに横たわっていた。エーデルバッハが日に日に弱っていることは明らかだった。体調が悪く、コリンのレッスンを断る日も段々と多くなっていった。エーデルバッハもコリンの手の届かない所へ行ってしまおうとしているのだった。以前、愛する人を失った時は突然の出来事で、その悲しみも大きかったが、エーデルバッハと別れる日が確実に近づいているという感覚は、それとはまた違う苦しいものだった。
コリンはその日、エーデルバッハのところへレッスンを受けに行くと、弁護士から聞いた話をした。エーデルバッハは軽く微笑んで言った。
「あなたはまた遠慮なさろうとしているのでしょう。ヴァイオリンをお譲りした時と同じように。でも今回もあなたには必要なことだと思っています…今は仕事をされていませんね?」
コリンは静かに頷いた。しかしエーデルバッハはそのことについて咎めたりはしなかった。
「でもそのままずっと何もせずにいるわけではないでしょう。ご自分の練習をするにも、生徒をとって教えるにも、ちゃんとした練習室のある家のほうがあなたにもよろしいのではないですか?ピアノもありますし。それに弁護士が言った通り、わたくしには他に身寄りもありませんし、赤の他人の手に渡るよりはあなたにお譲りしたいのです。もちろんあなたのお好きなようにしてくださって結構ですよ」
コリンは窓の外を見た。カーテン越しに隣の家の壁が見えた。それは彼が生まれ育った家であった。しかしコリンにとって、今は他人の住むその家より、このエーデルバッハの家のほうが長く付き合ってきたものであり、隣の家からの景色より、この家から隣の家を見る景色のほうが馴染みのあるものだった。
「先生、もちろん僕もこの家が大好きです。ここで学んだ全てのことが、僕にとってとても大事なものです。でも僕は、まだそんなことを考えたくないのです…その日が一生来ないで欲しいと思っているくらいです」
エーデルバッハはコリンに弾くように促した。
「いつか考えなければいけない避けられないものですが、とりあえず今は目の前にある楽譜のことだけ考えるようにしましょう」
コリンはエーデルバッハから譲られたストラディヴァリウスを構えた。数え切れないくらい何度も弾いた曲。しかしまだ彼女から学ぶところもあった。この曲でさえこうなんだ、一度も弾いたことのない曲はどうなってしまうんだろう…コリンはそう思った。既にプロとして活動しており、自分で曲を勉強して解釈し、仕上げることはもちろん出来た。それでも、少しエーデルバッハにみてもらうだけで、その曲の仕上がり具合は数段上がる気がしていた。それに、あの曲…コリンは自分では何度も練習したことがあるが、一度も聴衆の前で弾いたことのない、とある曲に思いを馳せた。あの曲を、聴衆の前で弾ける位にはしなくてはならない。コリンは差し迫っている時間に危機感を抱いた。
冬になり、冷たい風が身に凍みる日々が続くようになった。コリンはまたコンサートの為にロンドンを暫く離れていた。ロンドンに帰ってくるなり、コリンはエーデルバッハにレッスンを頼もうと、彼女の家に電話した。いつも通りハドソン夫人が電話に出た。
「ファースさん、一昨日奥様の容態が悪くなって、今は入院なさっているんです。私もこれから病院に行くところなのですが、もしよろしかったら駅でお会い出来ませんか?」
コリンの血の気がひき、彼は軽くふらついた。先生が入院…いつかその日が来ることはわかっていた。エーデルバッハの体調は日に日に悪くなっていたのは明らかだった。しかしコリンにはまだそれを受け入れる余裕がなかった。コリンはハドソン夫人と待ち合わせ、エーデルバッハが入院している病院へと向かった。
「この寒さがお体に障るようで、先週あたりからは起き上がれない状態だったのです」
彼女の話を聞きながら、コリンは自分に苛立たしさを感じていた。キャンセル出来なかったコンサートではあったが、なぜエーデルバッハの側にいなかったのだろうか。まだこなさなくてはいけない演奏会がシーズン終わりまで残っていた。もしその間に、コリンがロンドンを離れている間に、また何かあったら…コリンは軽く唇を噛んだ。
「先生は僕にとって、家族と同じ…もしかしたらそれ以上の存在なんです。考えたくはないのですが、でも先生といられる時間が短いのだったら、出来るだけ側にいたいんです。それに僕がここにいない間に何かあったらと思うと…」
ハドソン夫人はコリンに軽く笑いかけた。
「ファースさんがいらっしゃっている間は、奥様も体調が幾分良くなるようです。私にはよくわかりませんが、奥様はやはり音楽家…一流のヴァイオリン教師でいらっしゃるのでしょう、レッスンの間はまるで別人のようにしゃんとなさって。奥様がファースさんにとって大事なのと同じくらい、奥様もファースさんのことを大事に思っていらっしゃるのです。あなたの存在は奥様の救いになっていると思います」
コリンは低く垂れ込めた灰色の雲を見つめた。
病院のベッドにエーデルバッハは横になっていた。その体は更に痩せ、点滴を受けていた。コリンを見ると、彼女は少し恥ずかしそうな顔をした。
「こんな姿をあなたに見られるとは思ってもいませんでしたよ。他の人でしたらお帰りいただきたいところですけど、あなたなら許して頂けますね。本当のことを言うと、来て下さって嬉しいのです」
エーデルバッハはそう言うと、そっと左手をコリンの手に重ねた。以前は指板の上を自在に駆けていたその指も、今は動かすのすらやっとであった。コリンは彼女の手に、もう1つの自分の手を重ねた。色々と言いたいことはあるはずなのに、何ひとつコリンの口からは出てこなかった。エーデルバッハの枕元に置かれたCDプレーヤーから、コリンの録音した演奏が流れていた。
「ああ、あなたのここの癖は相変わらずですね。もちろんこのままでも結構ですが、この流れから言うと、あのAの音はもう少し空中に舞うような軽い音色のほうがいいと思いますよ」
エーデルバッハはCDを聴きながら、更にコリンの演奏に評価をしていった。どの言葉も正鵠を得ており、コリンには何よりも重要なものだった。彼女のレッスンをもう受けることが出来ないかもしれない…そう思うと、心臓が張り裂けそうな気がした。
「先生…僕には先生にどうしてもレッスンしていただきたい曲があるのです。それが何か、お察しでしょう。でもそれはもう無理なのでしょうか…」
エーデルバッハはコリンを静かに見つめた。
「わたくしも、あの曲をあなたにレッスンしたいと思っていました。まだ大学に入る前に何度かしましたが、今のあなたならあの曲を昔とは違う風に、プロの演奏家として素晴らしく弾いて下さることでしょう…残念ながらレッスンをするのは難しそうです。でも、あなたはご自分で立派にあの曲を自分のものとして、全ての聴衆に感動を与えられると信じていますよ。そろそろコンサートでお弾きになってもいい頃だと思います」
エーデルバッハが疲れたようなので、コリンとハドソン夫人はまた来る約束をし、病院をあとにした。
コリンは家に帰ると、ある楽譜を取り出した。今一番エーデルバッハのレッスンを受けたい曲。今まで何度も自分では弾いたが、一度も演奏会で弾いたことのない曲。コリンはヴァイオリンを構えると、その曲を弾き出した。ヴァイオリン協奏曲の最高峰、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。最初に弾いたのは恐らく10代始めだっただろう。それからずっと折あるごとに練習していた。エーデルバッハが言った通り、プロとなりいろいろと経験を積んだ今ならば、この曲をもう聴衆の前で弾くことが出来るかもしれない。しかし、この曲を大切に思うあまり、コリンにはまだ自信がなかった。使っている楽譜は古く、今までレッスンを受けた時の全ての注意事項が書き込まれていた。エーデルバッハ以外にも、音大や留学先やマスターコースなどで数多くレッスンを受けた。全ての師たちがコリンに伝えたことを、彼は習得しそれを自分のものとして、そして更にその音楽を聴衆に伝えなければならない。もしかしたら、既に自分の出来る限りは仕上がっているのかもしれない。演奏会で弾いてもいい頃なのかもしれない。そうは思ったが、コリンには背中を押してくれるもの、何かきっかけとなるものが必要だった。エーデルバッハから最後にこの曲をレッスンしてもらったのは、大学に入る前のことだった。その後、コリンの音楽は大きく進歩した。コンサートで弾く前にエーデルバッハのレッスンを受けることが、この曲の仕上げとして最適なものだとコリンは信じていた。しかしそれはもう不可能なのだろうか…コリンはヴァイオリンを弾く手を止めた。手を口元に当て暫く考えていたコリンは、ヴァイオリンを片付けると、再びエーデルバッハの入院している病院へと向かった。
コリンは院長室のソファーに座っていた。出された紅茶は既に冷め切っていたが、コリンはそれに口をつけることはしなかった。院長は腕を組み、考えていた。コリンは彼に、エーデルバッハの病室でのレッスンを許可してくれるよう、頼みに来たのだった。もちろん、彼女の体調を考慮し、また他の患者たちの迷惑にならないようするつもりだった。自分でも無理な願いだとは思っていたが、何かせずにはいられなかった。院長はティーポットから自分のカップに紅茶を注ぐと、コリンに向かって優しく言った。
「仰ることはよくわかります。しかし前例のないことですし、そう簡単にはお答えできないのです…スミス先生、どう思われますかな?」
院長は同席していた40代くらいの女性医師に尋ねた。彼女はエーデルバッハの担当医師だった。
「エーデルバッハさんをずっと診ていますが、彼女は音楽に関わる時、精神的によい緊張感を持つのでしょう。病状が落ち着かれるように思われます。入院なさってからは、体力以上に気力が落ちているのが明らかです。ヴァイオリンのレッスンをすることは、彼女の精神的健康には必要だと思います。彼女にはヴァイオリンに関わることが、人生の全てなのでしょう…今は体に命はあるけれども、心にない状態です。恐らく、エーデルバッハさんもレッスンをなさりたいと思います。もちろん体力的に限界がありますが、全く不可能なことではありません。他の患者さんに迷惑にならないのでしたら、私は賛成ですが」
院長はそれを聞いて、再び考え込んだ。そして意を決したのか、力強く頷いた。コリンは期待と不安が入り混じった視線で彼を見つめた。
「わかりました、それではこうしましょう。レッスンにはスミス先生に同席していただきます。エーデルバッハさんの体調によって、レッスンが可能かどうか、またその時間を判断していただきましょう。レッスンの時間は、15時から18時の間にお願いします。それから他の患者さんの為に、ほんの30分ほどでいいのです、レッスンの度に1階のホールでちょっと弾いていただきたいのですが、お願いできますかな?」
コリンは頷いた。
「もちろんです、喜んで」
「それはこちらとしても喜ばしいことです。なんと言っても、患者さんはなかなか一流奏者の生演奏を聴く機会がありませんから。それから、これはまあ、個人的お願いなのですが…」
院長は少し言い辛そうにした。
「何でしょうか?僕に出来ることだったら、何でもします」
コリンがそう言うと、院長は少し照れ笑いを浮かべた。
「家内があなたの大ファンでして…サインをいただきたいのです」
コリンとエーデルバッハの病室でのレッスンが始まった。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を中心に、今まで以上に熱の入った練習が続いた。エーデルバッハの体調により、レッスンの長さはまちまちで、また毎日出来るわけでもなかったが、コリンは毎日病院に通った。レッスンが出来ない日はただエーデルバッハの側に座り、彼女と話をした。院長との約束通り、彼はボランティアとして病院のホールでミニコンサートを開いた。ヴァイオリンだけの短いものだったが、それでも聴きに来てくれる患者たちはコリンのヴァイオリンを満喫し、毎日そのコンサートを楽しみにしてくれるようになった。ソロ活動を中断することを決めたコリンは最近人前で弾くことが少なくなっていた。患者たちの前で弾くことは、演奏会に聴きに来る人たちの前とはまた違うが、素直に音楽を楽しんでくれる雰囲気がコリンには心地よかった。そして聴衆の前で演奏すること、演奏家としてヴァイオリンを弾くことが、自分にとってどんなに大事で愛しいことであるか、コリンは再認識した。もっと多くの人に僕のヴァイオリンを聴いて貰いたい…今は無理でも、いつか必ず。いつか、僕がもっと素晴らしいヴァイオリニストになったら、この間のシーズンのように忙しく弾いても自分の音楽を失わないくらい成長したら…コリンはそう思った。
年が明け、コリンは再び弾かなくてはならないコンサートの為に、5日ほどロンドンを離れることになった。エーデルバッハの体調はすぐれず、最近は1週間に1度ほどしかレッスンは出来なくなっていた。コリンは病院のホールで弾いてから、彼女の病室へやって来た。エーデルバッハはますます痩せ細り、話すことも困難になっていた。コリンは彼女の手をそっと取ると、優しく話し掛けた。
「先生、僕は明日から暫くウィーンに行って来ます。ラロのスペイン交響曲を弾くのですが、ちょっと聴いていただけますか」
そう言うと、コリンはヴァイオリンを構え弾き出した。エーデルバッハは何も言わなかったが、コリンには彼女の声が聞こえる気がした。そこのアーティキュレーションはそれではいけません…その音のヴィブラートはこうかけなさい。それはコリンの記憶にある彼女の声だったかもしれない。初めてレッスンを受けてから30年以上が経った。途中、エーデルバッハのレッスンを受けていない時期があったが、彼女から習った全てのことがコリンの中に蓄積されていた。この曲も何度もレッスンを受けた。楽譜の書き込みを見ずとも、エーデルバッハから受けた注意の数々はコリンの体に染みついていた。弾き終わるとコリンはベッドの横にある椅子に座り、エーデルバッハの手を再び取った。彼女も微かにではあったがその手に力を入れ、コリンの手を握り締めた。
「…とてもいい演奏でした。あなたは本当に素晴らしいヴァイオリニストになられましたね…」
途切れ途切れにエーデルバッハはそう言った。コリンは涙が溢れそうになるのを必死に堪えていた。
「ありがとうございます。でもまだまだです。これからももっと勉強していきますから、先生もずっと僕を見守っていてください」
エーデルバッハは微笑んだ。
「コリン、命は限りあります。わたくしも間もなくこの世を去らねばなりません…でも、わたくしの音楽は…ヴァイオリンはあなたの中に生きています。あなたと、あなたの弾くストラディヴァリウスの中に。そしてあなたが弟子を取られたら…その人にあなたの音楽が伝わることでしょう。そしてその一部は私の音楽でもあるのです。あなたがヴァイオリンを弾いていく限り、わたくしの音楽は生き続けるのです…わたくしはいつでもあなたの側にいます…それを忘れないでいて欲しいのです…」
コリンがようやく聞き取れるくらいの小さな声でエーデルバッハは話した。コリンは両手で彼女の手を強く握った。
「もちろんです、先生…」
コリンは言葉に詰まり、それ以上何も言えなかった。彼はヴァイオリンケースを背負うと、エーデルバッハに再び話し掛けた。
「ロンドンに戻ったら、すぐにここへ来ます。懐かしいヴァニッレ・キップフェルンをお土産に買ってきますから」
エーデルバッハは笑ったように見えた。コリンはその頬に軽く口づけをすると、病室を出て行った。
外は雪が降り、室内は日中にもかかわらず薄暗かった。しかしコリンは明かりを点けることもせずにソファーに横になっていた。エーデルバッハはコリンが彼女の故郷に旅立った翌日、この世を去った。彼女は自分に万が一のことが起こった場合、コンサート中のコリンにそれを知らせることを堅く禁じていた。コリンは恩師の死を帰国したその日にハドソン夫人からの手紙で知った。葬儀は行われず、ハドソン夫人とコリンを含めた数人の弟子が見守る中、ひっそりと埋葬された。彼女の死が公になったのは更にその数日後だった。それ以後、コリンのところには取材の電話や訪問がひっきりなしにあった。コリンはそれに一切応じず、電話はずっと留守番電話にしていた。エーデルバッハの最期に、コリンは彼女の側にいることが出来なかった。後悔してもしきれなかったが、コリンはエーデルバッハが彼の為にその命を必死に延ばしていてくれていたことを知っていた。コリンの心は感謝の気持ちで一杯だった。しかし悲しみもそれ以上にあり、何度も涙を流した。こんなに泣いたのは、あの時以来だ…コリンは最愛の女性を失った時を思い出した。その時、電話のベルが再び鳴り、留守番電話の応答メッセージが流れた。
「…コリン、私です、アンナです。新聞を読んで…」
コリンは急いで受話器を上げた。
「アンナ」
「…コリン…ごめんね、こんな時に。でも電話せずにはいられなくって」
「いや、声を聞けて嬉しいよ」
コリンはアンナの屈託のない笑顔を思い出していた。彼は無性にアンナに会いたくなった。会って、彼女を抱き締めたら、傷ついた心も癒されるのではないだろうか…そんな気がしていた。
「ヴィオレッタが亡くなった時とはまた違うんだけど、とても辛くて…先生は僕にとって特別な存在だったんだ。僕のヴァイオリンは、僕と彼女とで作り上げたと言ってもいいのかもしれない」
「うん、そうだろうね。テレビで彼女の昔の演奏を見たんだけど、ボウイングがコリンとそっくりで驚いたんだ」
「アンナ、僕は…」
その時、アンナが息を呑む音が聞こえた。
「コリン、ごめん。トムが帰って来ちゃった。また連絡する…いつでもコリンのことを思っているから」
電話が切れてもコリンは暫く受話器を持ったままだった。受話器を置くと、コリンの瞳からは涙がこぼれた。
「コリン、あなたは一人じゃないわ…周りを見て。仲間がいるわ…皆コリンが大好きよ」
亜麻色の髪とグレーの瞳をした女性の声が聞こえた気がした。
「わかっています、ヴィオレッタ。あなたも先生もアンナも、僕のことを思っていてくれている。僕を支え続けていてくれている…でも本当に僕の側にはいてくれないんだ。僕の大好きな人たちは皆、僕を置いて行ってしまう」
コリンは手で顔を覆い、嗚咽の声を漏らした。
客席の拍手は鳴り止まなかった。この日、コリンはソリストとして最後の舞台にいた。これから先の予定は何も立っておらず、いつ聴衆の前に戻ってくるのか全くわからなかった。コリンのソリストとしての活動休止は、この頃までに聴衆にも知られるようになっていた。もしかしたら本当に最後の演奏会になるかもしれない…そう思ったファンたちはこのコンサートに詰め掛けた。
「アンコールを弾いてもいいかな」
舞台袖でコリンはケイトにそう聞いた。彼女は軽く頷いた。コリンはヴァイオリンをやめるつもりが全くなかったし、いつかは演奏家として戻ってくるつもりだった。しかし、彼の思い通りに全てが上手くいくとは限らなかった。人前で弾くのはこれが最後かもしれない…コリンの頭にもその考えはあった。オーケストラの定演でソリストがアンコールを弾くことはそう多くはないのだが、コリンはこの日、どうしてももう少し長く聴衆の前で弾きたかった。オーケストラと共演した協奏曲も最高の出来だったが、コリンは自分のヴァイオリンを客席の人たちにもっとよく聴いて欲しかった。彼はコンサートマスターと握手をすると、アンコールの許可を求めた。コンサートマスターは笑顔で快諾し、コリンは再びヴァイオリンを構えた。熱狂的な拍手が鳴っていたホールはしんと静まり返った。
「…マスネの『タイスの瞑想曲』を」
コリンは芳醇な音色でこの美しい曲を弾き出した。このホールにいる全ての人の為に、僕のヴァイオリンを愛してくれている人たちの為に、そして天国に逝ってしまった人たちの為に…コリンのストラディヴァリウスから生み出される音楽が、ホール全体を満たしていた。最後の音が余韻となって会場に消えても、誰一人動かなかった。コリンが軽く息を吐き、ヴァイオリンを下ろして客席に礼をすると、嵐のような拍手にホールは包まれた。聴衆は皆立ち上がり、オーケストラの団員たちも拍手を送った。
「ありがとう…ありがとう」
コリンは何度もそう呟いた。
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