第七章 Meditation −メディテイション−

第一節

プロとなって以来、コリンにとって最も忙しかったシーズンが終わった。シーズンオフに入り、この一年間を振り返ってみると、あまりにもいろいろなことがあり過ぎたようにコリンには思われた。彼の予定は今後3シーズンほど先まで既に決まっていた。これからもこういう日々が続くのだろうか…コリンは何となく虚脱感を覚えた。このシーズンは彼にとって有意義で成功したものであり、今までにないほどの満足感を得ていたが、それでも自分の中の全てが搾り取られたような感覚も彼は抱いていた。コリンはふと、彼の恩師であるエーデルバッハのことを思い出した。もう1年は会っていなかった。コリンは無性にエーデルバッハを訪れたくなった。自分でもどうしていいのかわからない時、彼女はいつもコリンを導いてくれた。今もいろいろと聞いて欲しい話や相談したいことがあるように思われた。コリンは電話をしようと受話器を持ち上げたが、どうせ長い間連絡しなかったことを怒られるのだろうと思うと、直接行ったほうがいい気がして、受話器を元に戻した。彼はヴァイオリン持つと、エーデルバッハの家に向かった。並木道のある落ち着いた住宅街。ここはコリンが初めてヴァイオリンを弾いた頃から何も変わっていなかった。エーデルバッハの家の呼び鈴を鳴らすと、お手伝いの女性が出てきた。彼女はコリンを見て、かなり驚いたようだった。
「こんにちは、ハドソン夫人…先生にお会いしたいと思って。連絡は差し上げていないんですけど」
彼女はコリンの側までやって来て、小声で話した。
「お久しぶりですわね、ファースさん…ご存知ないでしょうが、奥様は昨年末倒れられて、今は車椅子の状態なのです。お弟子さんたちも皆さん他の先生につかれて」
コリンの頭の中でハドソン夫人の言葉がぐるぐると廻っていた。まさか先生が…コリンは軽い眩暈を覚えた。
「ですからお会いになるかわからないのですが…それでもあなたがいらっしゃったことはお喜びになるでしょう。ファースさんのことを一番大事に思われていらっしゃいますから。奥様にあなたがいらっしゃったことを伝えてきますから、少しそこでお待ちいただけますか?」
そう言うと彼女は玄関の扉を閉めた。コリンは血の気がひく思いがした。自分がこの1年、恩師を訪ねない間にそんなことになっていたなんて。自分をこんなにも思っていてくれて、そして育ててくれた人が倒れたことを、半年も知らなかったなんて。自分に対する怒りがコリンの心に込み上げてきた。僕は何て恩知らずなんだろう…。その時、玄関の扉が再び開き、ハドソン夫人が現れた。
「どうぞお入りください。奥様がお会いになるそうです」

以前と全く変わらない落ち着いた室内。コーヒーの香ばしい香りが漂ってきた。しかしコリンの心はいつになく平静さを失っていた。エーデルバッハを待つ時間がとても長く感じられていた。その時、扉をノックする音がし、エーデルバッハがハドソン夫人に車椅子を押され、部屋へ入ってきた。
「…先生…」
コリンは立ち上がったが、それ以上何も言えなかった。エーデルバッハはいつも通りに優雅な身なりをし、髪をきちんと結い上げていたが、体は痩せ細っていた。彼女はハドソン夫人にさがるように合図すると、コリンに向き直った。
「何をそんな情けない声を出しているのです。わたくしの所では、常に舞台上と同じように振舞うよう、申し上げてきたでしょう」
エーデルバッハの瞳は、相変わらず威厳ある力強いものであった。彼女はコリンに座るように促した。
「大変なシーズンでしたね。いくつか演奏をラジオで聴かせていただきました。また演奏家として一回り大きくなられたようで嬉しいです。ああいうピアニストとも共演できる懐の深さが身についたことが一番大きな収穫でしたわね」
それからエーデルバッハは、コリンの演奏の優れた点と問題点を詳細に指摘していった。ラジオで聴いただけの演奏を、まるで今この場で聴いたかのように記憶し、そしてコリンのヴァイオリンを全て理解しているエーデルバッハの言葉に、コリンはただ敬服するばかりだった。扉をノックする音がし、ハドソン夫人が再びコーヒーを持って入ってきた。エーデルバッハはそのコーヒーを持ち上げた…コリンはそれを見てはっとした。彼女はいつも右手でカップを持っていたはずだ。
「先生、右手が…」
彼女の美しくしなやかな弓使いを生み出していた右手。コリンが目標とし、そして学び取り、今やコリンのヴァイオリンの素晴らしさの1つとして数えられるようになったボウイング。そのエーデルバッハの右手はもはや動かなかった。エーデルバッハの瞳に、影が差した。
「年を重ねることは誰も止められません。それでも、ヴァイオリニストとして、手が動かなくなるということは何よりも辛いことです」
彼女はコリンのヴァイオリン…彼女が長年愛用し、愛弟子であるコリンに譲り渡した名器ストラディヴァリウスの入ったケースを見つめた。コリンは恩師であるエーデルバッハから学べなくなるかもしれないとは考えたことがなかった。しかしその時は急速に近づいているということを、彼は悟った。このままでいいのだろうか…僕はこのまま、ただヴァイオリニストとして活動するだけでいいのだろうか。コリンの気持ちは強烈に突き動かされた。彼は拳を握ると、エーデルバッハに向かって言った。
「先生、僕にまたレッスンをしてください。お体の具合がいい時に、時間の許す限り…。先生は以前、教わるより自ら学び取ることのほうがこれからは必要だと仰いました。でも僕にはまだ、先生から教わることが沢山あるのです。先生からしか教われないことが」
コリンの瞳を真っ直ぐに見つめると、エーデルバッハは頷いた。

エーデルバッハのレッスンは90分ほどだった。以前よりずっと体の弱った彼女にはその時間も辛くなっていた。それでもエーデルバッハは、愛弟子であるコリンにできる限り彼女のヴァイオリンを伝えようとした。コリンにとってその時間は余りにも短く感じられたが、この1年間に学んだこと以上のことが1時間半のレッスンで学べた気がした。コリンはエーデルバッハに礼を言い、またレッスンを頼むために連絡することを約束すると、彼女の家をあとにした。これでいいのだろうか…このままでいいのだろうか。シーズンオフの間はコリンにも時間があるが、その後はコンサート続きでレッスンを受ける時間など全くないことは確かだった。そしてエーデルバッハがいつまでコリンにレッスンをすることが出来るのか、考えたくはなかったが、考えざるを得ないことであった。コリンは暫く考え込んでいたが、地下鉄を途中で降りると事務所へ向かった。突然やって来たコリンに、ケイトは驚いた。
「突然どうしたの?何か質問でも?」
「ケイト、来シーズンからの僕のコンサート、キャンセル出来るものは全部キャンセルしてください」
眼鏡の奥の瞳を見開いて、ケイトはコリンを見つめた。自分が何を言われたのか、把握し切れていないようだった。
「…何ですって?」
「これから先のコンサートでキャンセル出来るものは全部キャンセルして欲しいんだ。そして新しいものは入れないで欲しい。もう予定変更が不可能なものはちゃんと弾きます。でも他のものは…僕はヴァイオリニストとしての活動を休止しようと思うんだ」
ケイトはコリンを見つめたまま、何も言わなかった。コリンも座ろうとせず、立ったまま心の奥から沸いてくる言葉をそのまま口にした。
「ケイトや事務所には、これまでソリストとして、ヴァイオリニストとして育ててくれて、素晴らしいマネージメントをしてくれて感謝している。僕には勿体無いほどのコンサートを開くことが出来たし、身に余る名声も与えてくれた。僕はこの事務所に所属出来たことを誇りに思うし、自分のこれまでの活動にも満足している。でも…僕には今、自分の為の時間が必要なんだ。僕と、僕にとって大切な人たちの為の時間が。もちろんヴァイオリニストとしての僕を慕ってくれている人たちのことも大事だけど…でも僕は、ヴァイオリニストである以前に、1人の人間なんだ」
そこまで一気に話すと、コリンは一息ついた。ケイトは状況を把握してきたようだったが、まだ黙ったままだった。
「すごくわがままなことを言っているのはわかっている。コンサートは仕事だし、遊びでやっていることじゃない。事務所の利益や信用にも関わることだ。だから今すぐに一切の仕事をキャンセルするとは言わない。でも可能なものはして欲しいんだ」

2人は暫く黙っていた。ケイトはコリンの両腕をそっと握ると、ソファーに座らせた。
「あなたが何を言いたいのかはわかったわ。でももっと落ち着いてちょうだい。あなたがそうまで思いつめる理由を話して欲しいの」
コリンはエーデルバッハが体調を崩し、恐らく先は長くないであろうことを話した。自分の家族同様、もしかしたらそれ以上の存在である彼女との時間を持ちたいこと、彼女からまだ習うべきことが多くあることなどを、コリンは言葉を選びつつケイトに語った。それから、この間のシーズンのような忙しい演奏活動をこなすには自分はまだ未熟過ぎ、もう少し勉強をする為に時間が必要だということも告げた。ケイトはコリンに静かに言った。
「あなたの言うことはよくわかるわ。事務所としては、あなたほどの素晴らしいヴァイオリニストが活動休止することは残念だけど、あなたが望むなら決まっているコンサートをキャンセルすることは出来ます。でもこれも考えてちょうだい。もし今、ソリストとしての活動が軌道に乗り始めている今、その活動を休止したら、再びソリストとして表舞台に立つことが難しくなる可能性もあるのよ」
ケイトの言うことはコリンにもよくわかっていた。世界中に素晴らしい演奏家がひしめいており、その競争は熾烈なものであった。そんな中ようやくソリストとしての地位を確立しつつあるコリンが、もし今その舞台から一時的にせよ退場したら、恐らく彼の戻ってくる余地はないであろう。しかも休止期間がどれくらいになるのか、見当もつかなかった。しかし今のコリンには、大事な人たちとの時間を犠牲にしてまでソリストとしての活動をするつもりは全くなかった。そしてヴァイオリンをやめるということはありえなかった。たとえ今、ソリストとしての活動を休止し、二度とソロの舞台を踏むことがなくなったとしても、何かしらの形でヴァイオリンと関わり続けるであろうことをコリンは確信していた。ソリストになったのも、どうしてもそうなりたかったからではなかったし、ソリストであることにコリンはこだわりがなかった。今でも愛着のあるオーケストラプレーヤーに戻ることも出来るだろうし、教師になる道もあった。これで終わるわけではなかった。
「わかっている。でも今はこれ以上ソリストの仕事は出来ないんだ。僕は活動休止することを後悔しない。むしろ、このまま続けたほうが後悔すると思う」
コリンの真摯な瞳をケイトは真っ直ぐに見つめていた。暫く沈黙が続いたが、ケイトが軽く溜息をつき、コリンに言った。
「わかったわ。私の一存では決められないから、社長や他の者と相談して近い内に連絡します」

コリンはフラットに帰ると、持っているあらゆる楽譜を広げた。まだエーデルバッハから教えを請いたい箇所、作品を全てリストアップしようと思っていた。楽譜もなく、まだ一度も弾いたことのない曲もたくさんあった。自分ではそれなりに仕上がったと思っている曲も、もう一度エーデルバッハに聴いてもらいたかった。ヴァイオリンの教授法も習っている途中だった。こんなにやりたいことがあるのか…時間は足りるんだろうか。コリンは不安になった。彼は習いたいことに優先順位をつけ、それをメモしていった。それからレッスンに無駄な時間がないよう、必要な文献を用意し、練習しようとヴァイオリンケースを開けた。ケースの取っ手についている2人の天使の人形がコリンの目に入った。
「あなたは余りにも早くに逝ってしまったけれど、先生にもまだあなたの所に行って欲しくはないんです…僕のことを少しでも思っていてくれるなら、まだ天国への扉を堅く閉ざしていて欲しいんです、ヴィオレッタ」
コリンは亜麻色の髪の天使に祈った。瞼を閉じると、今でも鮮明に彼女の姿を思い出すことが出来た。柔らかい亜麻色の髪はふわりと肩にかかり、温かく、そして威厳ある菫色がかったグレーの瞳は優しくコリンを見つめていた。白い肌と、華奢だが女らしい体つきをした姿。彼女はもう年をとることなく、11歳あった年齢差は半分以下に減っていた。時の流れが彼女の死を昇華し、コリンはもうそれを悲しむことはなくなっていた。しかし彼女の存在はまるで聖なるものであるかのように、コリンの一番大事な場所にあった。
「僕はまだあなたに頼らなくてはいけない…情けないと思うかもしれないけど、僕を助けてください」
天使の人形が軽く微笑んだ気がした。

エーデルバッハとの緻密なレッスンが再び始まった。ソリストになる前、コンクールに備えて練習していた頃と同じように、コリンは毎日彼女の元へ通い、数々の曲を弾いていった。ただあの頃と違い、エーデルバッハはもう弾くことが出来ず、また体力も落ちた為に時々休みを入れなければならなかった。ケイトからはソリストとしての活動休止承諾の連絡が来ていた。しかし、次のシーズンのいくつかのコンサートはキャンセル出来ず、弾かざるを得なかった。コリンはケイトや事務所の人たちに、感謝と申し訳なく思う気持ちとで一杯だった。そしてコンサートを聴きに来てくれる聴衆たち。コリンがキャンセルしたコンサートの中には、既にチケットが売り出されているものもあり、コリンのヴァイオリンを楽しみにしてくれていた人たちはがっかりすることだろう。それでもコリンはソロ活動休止を後悔していなかった。どういう形であれ、自分はこれからもヴァイオリニストであることに変わりはないと固く信じていた。何があっても、音楽に関わり続けることは出来るんだ。コリンはそう思っていた。彼はエーデルバッハとのレッスンに集中していた。弾く予定のコンサートにはもちろん全力を尽くすつもりだったが、その為の練習以外の時間はレッスンの準備に割いた。ソロ活動が忙しかった時よりもヴァイオリンを弾いている時間は長かったが、コリンは疲れを感じることはなかった。むしろ、乾ききった心に水が染み込んでいくかのように、今まで絞り続けてきた自分の音楽が再び蓄えられていく気がした。9月に入り、本来ならば演奏活動で忙しいはずのコリンだったが、コンサートは月に1度ほどになったため、ほとんど休むことなくエーデルバッハのもとを訪れた。エーデルバッハはコリンにこれ程まで時間があることについて何も言わなかった。恐らく僕がソロ活動休止したことを察しているんだろう…コリンはそう感じていた。エーデルバッハはコリンから週に1回分の謝礼しか受け取らなかった。彼女もコリンに、残せる全てのことを伝えたいと思っていた。コリンは申し訳なく思いつつも、エーデルバッハのコリンへの気持ちを感じ、そしてソロ活動をやめたことにより収入が減ったこともあり、彼女の申し出を承諾した。

キャンセル出来なかったコンサートの1つに、有名オーケストラのツアーのソリストというものがあった。コリンはその練習とコンサートの為に2週間ほどイギリスを離れた。ステージに立つと、コリンは自分がソリストとしてもう弾かないかもしれないということを、全く考えなかった。以前と同じく、むしろそれ以上に音楽の喜びを感じ、オーケストラや聴衆と全てを共有する時間を楽しんでいた。しかしそれ以外の時間は、一刻も早くロンドンに戻り、レッスンを受けたい気持ちで一杯だった。久しぶりにフラットに帰ると、郵便受けは一杯になっていた。その中の一通にコリンの目が留まった。懐かしい字…見間違えようもなかった。彼をずっと支えてくれている大事な人、アンナからの手紙だった。先シーズン中はコリンが忙しく、ほとんど手紙のやりとりをすることはなかったが、彼女の存在は常にコリンの心の中にあった。あの小さな街のオーケストラで弾いていた思い出はコリンの宝物であり、何か辛いことがあってもアンナや仲間たちを思い出すとそれを乗り越ることが出来た。コリンは急いで封を切ると手紙を読んだ。一度読んで、コリンは目を疑った。自分が何を読んだのか理解出来なかった。彼はもう一度、ゆっくりと読んだ…コリンの大きなソロツアーが成功に終わったことへの祝いの言葉、彼の体調を気遣う優しい言葉、それから…結婚することが決まったこと。コリンは壁にかかっているカレンダーを見た。式は明日だった。懐かしいあの街の、あの教会。アンナの兄とその婚約者…コリンが誰よりも愛したあの女性の眠る所。コリンの心に郷愁が沸き起こったが、それ以上に今まで感じたことのない不思議な落ち着かない感情が彼を支配していた。アンナが結婚するなんて…相手はコリンの知らない人だった。誰かと付き合っていたことすら知らなかった。いつまでもアンナはコリンを支え続けてくれていると信じていた。彼らの関係が変わるとは全く思っていなかった。コリンはこの感情を何と言うのか、それを知らなかった。

次の日、コリンはアンナの結婚式に行くかどうか迷っていた。その日もエーデルバッハの所へ行く予定だったが、彼の心は揺れていた。先生との練習時間は貴重なものだ…でもあのアンナが結婚するんだから…コリンはヴァイオリンを練習していたが、時計を見ると楽器を片付け、エーデルバッハに電話し、それから駅に向かって駆けて行った。電車に乗っている間、コリンの心は落ち着かなかった。アンナと会うのはソリストになった年以来だった。どういう挨拶をすればいいんだろう…どんな顔をすればいいんだろうか。コリンは頭の中で祝いの言葉を考えてみたが、どれも気持ちがこもっていないような気がしてならなかった。コリンを乗せた電車が懐かしい駅に滑り込んだ時、既に式の時間は過ぎていた。コリンは時計を見ると、急ぎ足で街外れにある教会へと向かった。以前、この道を急いで駆けた時をコリンは思い出していた。あの時の感情とは全く違うものだったが、この時もコリンの心は締め付けられていた。彼が教会に着いた時、丁度式を終えた2人が外へ出てくるところだった。コリンは参列者の一番後ろに控えめに並んだ。何人かの昔の仲間たちがコリンに気が付き、声を掛けた。扉の所から歓声が聞こえ、ウェディングドレスを着たアンナとその花婿が出てきた。2人は皆に囲まれ、コリンは彼らの側に行くことが出来なかったが、背の高いコリンをアンナが見つけ、人垣をかき分けて彼の所へやって来た。
「コリン、来てくれたんだね!ありがとう!」
アンナは何も変わっていなかった。ただ、いつも無造作に束ねていただけの赤茶色の髪は綺麗に結い上げられ、少し化粧もしていた。コリンはいつも通りに彼女を抱きしめたい気持ちを持っていたが、そうしていいのかどうかわからず、軽く抱きしめて頬に触る程度に口づけをした。
「結婚おめでとう…すごく綺麗だよ」
色々と電車の中で考えたのに、コリンはそれしか言えなかった。アンナは少し照れくさそうに微笑んだ。
「ありがとう…この後パーティーがあるんだけど、来られる?トムを紹介したいし」
レッスンをキャンセルしたコリンには、この日特に予定はなかった。しかしトムと呼ばれたアンナの相手を軽く見たコリンは、何となく心が乱れているのを感じた。
「…いや、残念だけど時間がなくて…ちょっと彼女に挨拶してから帰るよ」
コリンは墓地の方を軽く指差した。アンナは一瞬残念そうな顔をしたが、微笑んで言った。
「そうだよね、相変わらず忙しいんだ…残念だけど、仕事は大事だもんね。じゃあ、気をつけて…いつでもコリンのヴァイオリンを想っているから」
そう言うとアンナはコリンの頬に軽く口づけをし、他の参列者の所へ行った。コリンはその姿を暫く見ていたが、そっとその場を離れ、墓地の中へ入って行った。彼が誰よりも尊敬し愛した女性の墓石の前にコリンは跪いた。
「ヴィオレッタ、僕はどうしたらいいんでしょう…どうしたらいいのか、わからないんです」
それ以上コリンは何も言えなかった。


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