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年が明け、再び世界中のオーケストラとの共演、録音、そしてソロツアーの準備という忙しい日々が戻ってきた。パトリシアとはあの日以来、連絡を取ることが出来なかった。しかしコリンは、演奏中は以前のように自分をコントロールし、仕事には全く感情の波を出すことはなかった。2月にはヨーロッパ大陸でのソロツアーを行った。どの街の公演も概ね好評だったが、さすがにクラシック音楽の本場を誇るいくつかの街では厳しい批評もあった。聴衆は好意的だったため、コリンは批評家たちのことはあまり気にしていなかったが、それでもその批評を謙虚に受け止めた。自分がまだ発展途上で、いくらでも向上の余地があることは、コリンが一番よく知っていた。アメリカツアーのピアニストは結局ミミになった。以前ミミが言ったように、アメリカで成功するか否かは、音楽家、とりわけソリストにとっては重要な問題であった。コリンはケイトに何も言わなかったが、ミミがケイトに直談判し、ケイトもイギリスツアーでの成功を考慮してそう決めたのだった。演奏活動の合間をぬって、更にツアーの為の練習が重ねられた。コリンの頭には、毎日のようにパトリシアのことが浮かんだが、何かをする余裕は時間的にも精神的にもなかった。
アメリカツアーはニューヨークから入り、西へ移動し、最後に再びニューヨークに戻るという日程になっていた。ニューヨークではソロコンサート以外にも、オーケストラとの共演予定もあった。コリンは今まで何度かアメリカでオーケストラと共演してきたが、そのオーケストラとは初の顔合わせであった。世界的にも有名なオーケストラであり、ソリストとして地位を確立しつつあるコリンの実力をようやく認め、招いたのであった。イースターが過ぎ、コリンはミミ、ケイトと共にアメリカへ出発した。空港には現地のエージェントが迎えに来ており、簡単な挨拶を済ませホテルに向かい、休む間もなくコンサート会場となるホールへ行くことになった。
「今日は小ホールの練習室でソロコンサートの練習が可能ですが、どうなさいますか?」
アメリカのマネージメントを担当しているマリアが、車の中でコリンに聞いた。
「着いたばかりでお疲れでしょうし、ホールを少し見て、オーケストラの主要メンバーに挨拶するだけで終わりにしてもよろしいかと思いますが」
マリアの言葉を受けて、ケイトはコリンとミミを見た。
「ソロコンサートは5日後だし、特に今日無理して練習する必要もないと思うけど。どちらかと言うと、コリンはオーケストラとの練習に備えたほうがいいわね」
コリンはケイトの言葉に頷いた。オーケストラと弾く演奏会の初日は明後日だった。
「使えるなら、私は少しピアノを触りたいわ」
ミミがそう言うと、マリアは微笑んだ。
「わかりました、それではそう手配します」
車がホールの正面に着いた。世界でも有数のホールの1つであり、ここで何度か弾いたことがあるコリンも、今回はまた少し違った緊張感を持っていた。3人はマリアについて出演者用の入り口から入って行った。大ホールと小ホールを見た後、彼らは楽屋へ向かった。楽屋の1つの扉をノックすると、マリアはコリンたちを招き入れた。そこには恰幅のいい銀髪の初老の人物と、背が高く精悍な顔立ちをしたハンサムな男がいた。
「今回共演するオーケストラの方たちです。団長のマイク・ジョンソン。指揮者は今日都合がつかなくて明日の練習で初顔合わせとなります。そしてこちらは、ソロ・コンサートマスターのジョージ・ハミルトン」
ハミルトンと紹介された男は、無精髭を生やした整った顔にニヒルな笑いを浮かべた。
ジョージ・ハミルトン。その名はコリンの頭に何か引っかかるものを感じさせた。何か聞き覚えのあるものだった。マリアは紹介を続けた。
「こちらがコリン・ファース。それからピアニストのミミと、コリンのマネージャーのケイト・ハーディ」
それぞれの間で、挨拶と握手が交わされた。コリンがハミルトンに手を差し出した時、ハミルトンはその手を強く握り、再び口元に笑いを浮かべた。
「こんなところで再会するとは、思ってもいなかったな。20年前はロクに演奏も出来ない背の小さい生意気なガキだったのに、今や『イギリスの誇る名ヴァイオリニスト』となりおおせたわけだ」
コリンの脳裏に思い出が蘇った。ダークブラウンの瞳と髪。細身で背が高く、精悍な顔とその冷笑。コリンが優勝出来なかったコンクールで優勝した人物。公の場で唯一コリンを負かせたことのあるヴァイオリニスト。
「…君か」
15歳で受けたイギリス国内のコンクールでの苦い敗北は、その後のコリンに多大な影響を与え続けていた。プロになってからはそのことを考えることはなかったが、その時のことは今でもよく覚えていた。
「そういえば、ハミルトンさんもイギリス出身でしたわね」
マリアが明るく言った。
「彼は20歳の時にイギリス国内のコンクールで優勝した後、すぐにこちらに来て、ソリスト及びコンサートマスターとして活躍しています」
「そのコンクールに彼も出ていたんですよ」
ハミルトンが自慢有り気にそう言った。彼が言いたいことは明らかだった…自分はこのコリンより上だったのだと。コリンは彼に対し軽い嫌悪感を覚えた。ケイトが時計を見て、皆に言った。
「それでは明日、9時から大ホールでオーケストラとの練習ということでよろしいですね。私はコリンをホテルに連れて行きますから、マリアはミミをお願いします」
コリンとケイトが部屋から出ようとすると、ハミルトンの低い声が聞こえた。
「いくら三大コンクールで優勝したいからって、年齢制限ギリギリになって出るなんて、俺だったらしないな。『最年長優勝』なんてタイトルは貰いたくないね」
コリンは振り向き、彼を見つめた。コリンの鋭い視線をハミルトンは目を逸らさずに受け止めた。ハミルトンの他人を見下したような視線は、コリンに少年の頃の記憶を鮮やかに蘇らせた。コリンは自分の感情を抑え、何も言わずに彼に背を向け部屋を出て行った。
「随分と失礼なことを言う人ね、あのコンサートマスターは」
ホテルへ向かうタクシーの中でケイトがそう言った。
「彼が優勝したというコンクールは、あなたがジュニア以外では最初に受けたものよね。確かまだ15歳かそのあたりに」
コリンは軽く頷いた。
「あの時のことは今でもよく覚えているよ。それまで優勝出来なかったことがなかったし、絶対に1位を取ると思っていたんだ。すごく悔しくて家で泣いたな。彼の演奏を強烈に覚えているわけじゃないんだ。コンクールの後に先生に言われたことや、それ以後コンクールを避けていたこととか…とにかく僕に大きな影響を与えたコンクールだったことには間違いない」
窓の外を流れる景色を眺めていたコリンは、ケイトに向き直った。
「さっき彼が言った『20年前はロクに演奏も出来なかった』っていうのは、今思うとその通りだったんだ。あの言い方はひどいけど、でもそれについては何も言い返すつもりはないし、正直に認めるしかないんだ。でも…」
コリンはその先を言わなかった。ソリストとしての活動を始めるきっかけに受けた三大コンクール。彼はどうしても優勝したかったわけではなかった。年齢制限ギリギリに受けたのも偶然だし、年が上だから優勝出来るというレベルのものではないのは周知の事実だった。どうしてハミルトンにああいう言い方をされなければいけないのだろうか。どうしてあんなことを他の人たちの面前で言ったんだろうか。あの場で言い返すことも出来たが、演奏以外のことに力を使うことが嫌だった。ケイトもそれ以上ハミルトンの話題はせず、アメリカツアー全体の話に話題を転換した。
次の日、コリンがホテルで朝食をとっていると、ミミがやって来た。
「おはよう。昨日の練習の調子はどうだった?」
「まあまあね。今日はオーケストラとの練習の後、合わせられるんでしょう?」
「たぶんね。オーケストラとのほうがどれくらいかかるかわからないんだ」
2人は暫く黙って食べていたが、ミミがその沈黙を破った。
「ねえ、昨日は何で言い返さなかったのよ」
「何?」
「あのコンサートマスターよ。あんなこと言われて、何で言い返さなかったのかって聞いているのよ。コンクールの優勝に年なんて関係ないし、あなたがあのコンクールで優勝したのは事実で、彼があなたを破って優勝したコンクールとは比べ物にならない名誉だわ。それに、あなたは小さい頃からヴァイオリンだけしかやっていない人とは違うでしょう?ソリストになる為の教育だけ受けていたら、きっと10代でソリストデビューしてたわよ。それなのに…」
コリンはくすくすと笑った。
「へえ、僕のことをそんなに心配してくれていたんだ」
ミミは珍しく少し戸惑った顔を見せた。それからいつものように突き放したように言った。
「違うわよ、勘違いしないで。私には関係ないことだわ。ただ、言い返さないあなたに腹がたっただけよ」
コリンはエスプレッソを飲み干してカップを置くと、静かな笑顔をミミに向けた。
「彼と議論したってしょうがないことだよ。僕はあまり音楽以外のことに余計なエネルギーを使いたくないんだ。彼が何と言おうと僕は僕だし、僕のやりたい音楽をやるだけだよ」
コリンは席を立った。その後姿にミミが言った。
「あなたって不思議な人ね。相反する要素があって、掴みきれない雰囲気だわ。今まで私の周りにはいなかったタイプね」
「褒められたと思っておくよ」
コリンは軽く微笑むと、部屋に戻って行った。
コリンは大ホールでのオーケストラとの練習へ向かった。コリンが舞台に姿を現すと、温かい拍手で団員たちは彼を迎えた。初共演となるが、コリンもこのアメリカの誇るオーケストラといつかは共演したいと思っていたし、それはオーケストラ側も同じだった。ソロになってから今までその話がなかったのは、ハミルトンが嫌がっていたのかもしれないとコリンは思った。彼は軽く頭を振って、音楽以外の余計なことを考えないようにした。指揮者と握手をしてから、コリンはハミルトンに手を差し出した。ハミルトンは立つこともせずに、その手をほんの軽くだけ握り、冷たい射る様な視線をコリンに向けた。指揮者がコリンを簡単に紹介し、まずは軽く通して曲を演奏することになった。そのオーケストラの演奏は、まさに一流の指揮者に導かれた一流のオーケストラのものであった。技術も音楽性も高く、コリンは上等の音楽に包まれる感覚を抱いていた。すぐ側で聴こえるハミルトンのヴァイオリンは、やはりレベルの高いものであった。コリンと一緒に出たコンクール以後、彼はコンクールを受けることはなかったが、恐らく国際コンクールでも上位に入るであろう実力を持っていた。オーケストラによる導入を受けて、コリンのヴァイオリンがホールに響いた。彼はいつも通り、指揮者とオーケストラとのアンサンブルに心を配った。しかしこの日は、何となく弾きにくいものを感じていた。微かな抵抗だったが、弾き続ける内にその摩擦はコリンの中で強くなっていった。どうしてだろうか…指揮者と合っていないわけじゃないし、オーケストラとアンサンブル出来ていないわけでもない…コリンは弾きながら考えた。曲が進む内に彼は確信した。ハミルトンがコリンのヴァイオリンと合わないのだ。それどころか、わざと合わせないようにしている気がしていた。以前コンサートマスターだったコリンは、コンサートマスターという人物がオーケストラ全体に与える影響というものをよく知っていた。全曲を通し、短い休憩を取ることになった。コリンが舞台からさがろうとすると、ハミルトンの声がした。
「俺たちのコンサートで、みっともない演奏はしないでくれよ」
ハミルトンは唇の端を軽く上げた。コリンは答えることをせずに早足でその場を去った。僕は一番敵に回してはいけない人物を敵に回しているようだ…コリンは思った。
この日は夕方までかけて、オーケストラとの綿密な練習がなされた。練習が終わると、コリンは指揮者と握手をし、客席で聴いていたケイトの所へ行った。そこにはオーケストラとの練習が終わるのを待っていたミミもいた。
「お疲れ様。特に悪くはなかったけど…なんだか弾きにくそうね」
ケイトが小声で言った。コリンは軽く頷いた。
「曲にはなっているから大丈夫なんだろうけど…やっぱり違和感を感じるし、曲に集中しきれない気がするんだ」
「あなたのヴァイオリンはいつも通り素晴らしかったわ、心配しないで」
ケイトの言葉にコリンは微笑んだ。3人はソロコンサートの練習の為に、小ホールにある練習室へ向かって行った。途中、廊下でハミルトンと出くわした。
「国際コンクール優勝者ともなると、こんな美人のマネージャーとピアニストがつくんだな。羨ましいことだ」
ハミルトンはミミに視線を向け、軽く片目を閉じた。コリンは黙ったまま、彼の横を通り過ぎようとした。
「おっと、ソリスト様はオーケストラのコンサートマスター程度の人間とは話もなさらないわけか」
コリンが何か言おうと振り返った時、ケイトがそれを遮った。
「申し訳ありませんが、これからソロコンサートの練習がありますので、お話している時間はありません。失礼します」
ケイトはコリンの腕を引っ張ると、足早にその場を去った。ミミもハミルトンに向かって妖艶に微笑むと、その後を追った。
練習室に着くと、ケイトが珍しく大きな声で言った。
「いくらヴァイオリンが一流でも、あのコンサートマスターは人間としてなってないわ!本当に一流の演奏家は、人間としても一流よ!」
ケイトが彼女らしくなく感情的になっているのを見て、コリンは少し可笑しく思うのと同時に、冷静さを保つことが出来た。
「ケイトが怒ることないだろう、僕が言われたんだから。相手にしてもしょうがないってわかっているから、大丈夫だよ」
「そうだけど…でも腹がたつわ」
ケイトは軽く深呼吸して、手帳を取り出した。
「明日は午後オーケストラとの練習があって、夜本番よ。午前中にはソロコンサートの練習が入ります。今日はもう疲れているだろうから無理はしないで、軽く合わせるのとポイントの練習だけにしておいて。国内でもう充分弾いたプログラムだから、感触を思い出すくらいにしておいてちょうだい。私は外で待っていますから」
そう言うと、ケイトは練習室から外に出て行った。扉が閉まると、ミミが笑い声をたてた。
「彼女があんな感情的になることがあるのね。なかなか見ものだったわ」
ミミはそのしなやかな手でコリンの頬に触れた。
「ヴァイオリニストとしてのあなたに心底惚れてるのね。確かにあなたは素晴らしいヴァイオリニストだけど、男としてそれ以上の魅力があるわ」
彼女の艶やかな黒い瞳がコリンを真っ直ぐに見つめていた。コリンは彼女の甘い香りに包まれ、その瞳に吸い込まれるように彼女の顔に近づいた。2人の唇が重ねられた。コリンはミミの長い髪と、鍛えられた筋肉が無駄なくついた背中に優しく触れた。しかしハミルトンに言われた様々なことが頭に浮かび、ミミをそっと体から離した。
「練習しよう」
ケイトが言った通り、既にイギリス国内で充分弾き込んだ曲であり、ミミとのアンサンブルもしっくりと来るようになっていたため、2人は軽く通して合わせるだけにした。ミミのピアノは相変わらずダイナミックで自由な雰囲気があり、以前弾いた時とはまた違うものだった。初めて合わせた頃は、何故ミミがこうまでも毎回違う風に弾くのか理解出来なかったが、今ではミミがその時出来うる曲への最高のアプローチをしているということをコリンは感じていた。弾き手も聴き手も人間であり、機械の様に毎回全く同じということはあり得ないのだ。演奏時の体調、会場の雰囲気、全ての要素をミミは感じ取り、その時に一番相応しい演奏をしているのだった。彼女の雰囲気と同じくまさに野性的な、天性のものであった。女性としては未だに危険だと感じていたが、ピアニストとしては尊敬していた。一度全ての曲を通し、ポイントを練習している時、ミミが突然尋ねた。
「ねえ、さっき、あのオーケストラとは弾きにくいって言っていたじゃない?どうしてなの?」
「僕はあのハミルトンに嫌われているからね」
ミミは不思議そうな顔をした。
「それだけ?」
「それだけ。でもコンサートマスターというのは、オーケストラ全体に影響力があるんだ。他のメンバーはきっと僕と合っていると思っているだろうけど、ハミルトンが合わせようとしない限りは駄目なんだ。彼らはハミルトンのヴァイオリンに完全に合っているからね」
ミミは華やかに微笑んだ。
「あなた、コンサートマスターだったでしょう。じゃあ、あなたがあのオーケストラのコンサートマスターになればいいのよ」
コリンは一瞬、彼女は何を言っているんだろうかと思った。しかし彼女の言ったことはコリンにある考えを浮かばせた。
「そうか、そうすれば…その手もあるか」
コリンは口元に笑みを浮かべた。
楽屋でコリンは燕尾服を整えていた。その日の午後に行われたオーケストラとの練習は、昨日と同じ感じで終わった。特に大きな問題があるわけではなく、演奏会としてはそのままでも成功するはずであった。しかしコリンは、自分の中に違和感が残るような演奏はしたくなかった。前日ミミに言われて思いついた、ある方法…成功すればコリンが弾きたいように弾けるが、失敗すればコンサート自体が崩壊する可能性があった。それでもコリンはそれを試してみようと思っていた。以前、まだオーケストラのソロ・コンサートマスターだった時、その頃に仲間たちと協奏曲を弾いた感覚を思い出せれば…扉がノックされ、コリンはステージに向かった。会場は満員だった。コリンがその整った長身を舞台に現すと、ホールは熱狂的な拍手に包まれた。アメリカでもコリンの名は次第に知られ、その魅力的な外見だけではなく、ヴァイオリンの実力によっても高く評価されていた。コリンは指揮者とハミルトンと握手をした。ハミルトンは相変わらずコリンに対し冷笑を向けていた。コリンは目を閉じ、自分にだけ聞こえるように呟いた。
「ヴィオレッタ、見守っていてください」
あの温かくも威厳に満ち溢れた瞳をコリンは思い出していた。再びコリンが目を開けた時、その深い色の瞳はコリンの愛した人と同じような威厳のあるものであった。コリンは静かに団員たち、指揮者、そしてハミルトンを見つめた。その瞬間、ステージの空気が変わった。全ての奏者が、あのハミルトンでさえも、コリンの持つソリストとしての不思議な力、オーラのようなものに包まれた。オーケストラによる導入部は普段通りだったが、一度コリンが弾き出すと、オーケストラから紡ぎだされる音楽もコリンのものになっていった。コリンはソリストとしての役割だけでなく、コンサートマスターのようにオーケストラをも引っ張るような演奏方法に切り替えたのだった。ハミルトンよりも圧倒的な支配力をコリンは彼のヴァイオリンに持たせた。初めはハミルトンが少し抵抗したのを感じたが、曲が進むにつれ、音楽は完全にコリンのものとなっていった。彼にしては珍しく大胆な弾き方となったが、今回はこうする以外彼の弾きたいようには弾けなかった。演奏が終わり、会場は拍手とブラヴォーの掛け声に包まれた。多くの聴衆が立ち上がり、コリンの演奏を讃えた。コリンは満面の笑みで指揮者と握手をし、それからハミルトンに向き直った。ハミルトンは無表情のままコリンの差し出した手を軽く握るだけだった。
3夜にわたるオーケストラとの演奏会は成功に終わった。ハミルトンはコリンを完全に無視し、変にからんでくることはしなくなった。次の日に行われたソロコンサートも好評だった。コリンたちはニューヨークを離れ、西へと移動して行った。チケットは完売し評判もよかった。コリンはソリストとしての活動に手ごたえを感じていた。アメリカツアーの最後、彼らは再びニューヨークへ戻ってきた。今回はソロコンサートのみで、オーケストラとの共演はなかった。コリンがコンサートの練習のためにホールの練習室へ向かうと、その途中で彼はミミとハミルトンが話しているのに出くわした。ハミルトンはコリンに気づくといつもの冷笑を浮かべ、ミミの髪を軽く撫でその場を去って行った。ミミはコリンに妖艶に微笑むと、彼の顔に自分の顔を近づけた。
「ねえ、何を話していたか、知りたい?」
「別に」
コリンは素っ気無く答えた。ミミは軽い上目遣いでコリンを見ると、コリンの腕に自分の腕を絡ませた。
「明日のコンサートでアメリカツアーも終わりね。大成功じゃない。このぶんだと、アメリカに活動の拠点を移したって上手くやっていけるわよ」
コリンは考えた。ここで活動することは音楽家として成功する1つの方法だった。そして、いくら音楽のために弾いているとはいえ、演奏活動は彼にとって仕事であり、それで生活している以上、収入面においての魅力は大きかった。しかしコリンはやはりイギリスを離れるつもりはなかった。クラシック音楽の伝統の根ざすヨーロッパ。その中において、大陸とは違い自国の作曲家をあまり生み出さなかったにもかかわらず、多くの作曲家たちを招き音楽を愛してきた伝統が、イギリスにはあった。コリンの生まれ育った国。音楽の勉強をし、プロとしての活動をしてきた国。コリンは頭を振った。
「僕はイギリスで活動したいんだ。もちろんここにも演奏をしに来るけど、でも拠点にするつもりはないよ」
コリンの瞳は力強く輝いていた。ミミはそれ以上、何も言わなかった。
アメリカツアー最後を飾るソロコンサートも大成功に終わった。メディアもコリンのヴァイオリンの素晴らしさを大きく取り上げ、ソリストとしてのコリンの地位は確実なものとなっていった。アメリカを離れる日の朝、コリンがホテルの自分の部屋に戻ろうとすると、ミミとハミルトンが一緒にいるのに出会った。
「コリン、ちょうどよかったわ、話があるの」
ミミはいつも以上に華やかな笑みを浮かべ、ハミルトンの頬に口づけをした。ハミルトンはコリンに勝ち誇ったような微笑を向けると、ミミを抱き寄せた。
「私、アメリカに残るわ。イギリスへは帰らない。ジョージが私をパートナーのピアニストに選んでくれたのよ。これからはここでピアニストとして活動するわ」
コリンは表情一つ変えずに答えた。
「そうか、おめでとう、と言ったほうがいいのかな。君はずっとここで弾きたがっていたから」
大輪の薔薇のようなミミの笑顔が一瞬曇った。ハミルトンはミミに何か囁くと、コリンに見下したような視線を向け、その場を去って行った。ハミルトンはコリンへの復讐のつもりで、ミミを口説いたのだろう。そしてアメリカで演奏活動することが目標だったミミもそれを受け入れたのに違いない。ピアニストとしてのミミを失うことはコリンには残念だった。これからもパートナーとしてソロコンサートで一緒に弾くことが出来たかもしれなかった。しかしミミはコリンの恋人というわけではなく、ハミルトンの思惑は少し外れたものに思えた。
「それじゃあ、これでお別れかな。君ならここでも上手くやっていけるよ。彼はヴァイオリニストとしては一流だし」
コリンは握手の手を差し出したが、ミミはそれに応じようとしなかった。いつも自信満々のミミが、この時は少しうろたえているように見えた。
「…怒らないの?私があなたより彼を選んだことに、怒らないわけ?」
「君はアメリカで活動したがっていたし、いいチャンスだよ。君が彼のパートナーを選ぶのももっともだと思う」
「私は自分の夢を叶える為にあなたを利用したのよ。あなたのパートナーとしてアメリカで弾けば、ここで弾くチャンスを掴めるかもしれないって思って、ツアーについて来たのよ。最初からそのつもりだったわ。それなのに怒らないの?」
ミミのハスキーな声は少し震えていた。コリンは静かに微笑んだ。
「音楽家なら誰だって成功する為や目標を叶える為に手を打つよ。怒るようなことじゃない」
ミミはコリンの両腕を掴んで揺さぶった。
「怒ってよ、どうしてあいつを選んだのかって。頬を引っ叩いてくれたっていいわ。あなたが怒ってくれなくちゃ…私は私のしたことを許せない」
彼女の艶やかな瞳は潤んでいた。コリンはミミの手をそっと外し、優しく言った。
「君の成功を祈っているよ。元気で」
コリンは微笑むと自分の部屋に向かって歩いて行った。
イギリスに戻ってからも忙しい日々が続いた。シーズンエンドに再びソロコンサートがあったが、そのピアニストを選びなおさなければいけなくなり、新たなピアニストとの練習も入った。その為、パトリシアには未だに何の連絡も取れずにいた。新しいピアニストと組んだコンサートも成功に終わり、コリンはソリストになって最も忙しく充実したシーズンを間もなく終えることとなった。ようやく自分の時間を作ることが出来た彼は、事務所のケイトの部屋でファンレターに目を通していた。その中にパトリシアからのものがあった。コリンは封を切ろうとしたが、暫く考えるとそのままヴァイオリンケースの中にしまった。
「最初の国内ツアーの演奏のライブCDが出来上がったわ。持って帰る?」
ケイトがCDを差し出した。コリンはそれを受け取ると、ケイトに挨拶し、フラットへ戻った。コリンは自分の部屋に着くと、急いでペーパーナイフでパトリシアからの手紙を開けた。彼女らしい几帳面な字で、無事に音大の終了試験に合格したこと、オーケストラへの就職も決まり間もなくロンドンを去ることが書いてあった。
「以前電話をいただいた時、とても失礼な態度をとってしまったことを、今でも後悔しています。本当に申し訳ありませんでした。あなたからレッスンを受けることが出来たことは光栄で、あなたのお陰で試験やオーディションに合格できたと思っています。心から感謝しています。これからも一層ご活躍されることを祈っています。あなたはずっと私の一番憧れの、目標となるヴァイオリニストです。パトリシア」
コリンは目を閉じた。亜麻色の髪、淡いブルーの瞳、そして可憐な笑顔。コリンは結局最後まで彼女に対する自分の感情がわからなかった。ずっと連絡を取り、彼女に謝ろうと思っていたにもかかわらず、仕事を優先させていた。しかし、彼女のことを愛しく思う気持ちは確かだった。コリンは起き上がると、ペンと紙を取り出し、彼女に返事を書き始めた。試験とオーディションの合格への祝いの言葉、プロとなる彼女への激励、今まで連絡を取れなかったことへの陳謝、それから…コリンは手を口元に当て、暫く考え込んだ。
「今度会う時は、同じプロとして、ヴァイオリニストとして対等の関係で会おう。その時を楽しみに待っているよ」
パトリシアはコリンと同じプロの道を選んだ。この道をお互いに進む限り、またいつか一緒に弾くことがあるだろう。その時、彼女は音楽家として成長しているに違いない。
「さようなら、パトリシア。また会う日まで」
コリンはペンを置いた。
それからコリンは楽譜を出そうとヴァイオリンケースを開き、事務所でケイトに貰ったCDに気が付いた。国内ツアーのライブ録音。彼はCDを取り出すと、再生した。スピーカーから流れ出る音楽は、録音ながら生き生きとしたものだった。ライブ録音のせいもあるが、何よりミミのピアノがまるで今鍵盤から生まれ出たようにコリンには思えた。コリンは彼女と別れた時のことを思い出していた。あの時、彼女はコリンに止めて欲しかったのだろうか。それまで見たことのない、今にも泣きそうな顔のミミが瞼に浮かんだ。彼女はコリンを利用したと言っていたが、それは無意識だったにせよコリンも同じだった。ピアニストとしての彼女を利用し自分の音楽家としての幅を広げ、そして女性としてのミミを感情のはけ口としていた。ミミを責めることはコリンには出来なかった。それでも、僕は彼女を止めることは出来た…コリンはCDを聴いている内に確信した。ミミのピアノは何よりも雄弁に彼女の感情を語っていた。彼女は僕を本当に愛していたんだ。ミミは僕の彼女への気持ちを試したかったんだ。アメリカで活動したい気持ちも本物だろうが、彼女は僕と一緒に弾きたかったんだ。コリンはCDを止めた。演奏と同じように情熱的にコリンを愛してくれた女性…彼女の妖艶な微笑とハスキーヴォイス、そして甘い香りをコリンは思い出していた。
「さようなら…そしてありがとう」
コリンは暫く瞼を閉じると、彼の愛器ストラディヴァリウスを取り出し、深く哀しい音色を紡ぎ出した。
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