第六章 Appassionata −アパッショナータ−

第三節

コリンはシーズンに入ってからも、ソロ活動をこなしながらパトリシアのレッスンとミミとの練習を欠かさなかった。今までになく多忙で、分刻みのスケジュールとなったが、ケイトがそれをうまく管理していた。パトリシアに対する気持ちは相変わらず複雑なものだった。コリンの愛する人の幻影をパトリシアの中に見ながらも、パトリシア自身を想う気持ちも強くなっていくのをコリンは感じていた。それでも自分の気持ちがはっきりしないのに加え、今でも自分の心の一番大事なところにいる女性の影が離れず、コリンはパトリシアに触れることすら出来なかった。逆にミミに対する気持ちははっきりしていた。コリンはピアニストとしての彼女はそれなりに尊敬したが、女性としては好きになれなかった。嫌っていると言ってもいいほどだった。それにもかかわらず、コリンとミミとはいつしかベッドを共にするようになっていた。強く想う感情がないだけ、ミミとの関係は割り切ったものだった。コリンと一緒にいない夜は、ミミはおそらく他の男の腕に抱かれているであろうが、それは全くコリンには気にならなかった。コリンの感覚は、以前気軽に女遊びしていた頃とはまた違っていた。ミミと演奏している時、コリンは自分の今まで抑えていたものが解放されるのを感じていた。そしてその気持ちのまま、ミミをその腕に抱いていた。もしかしたらミミこそ、コリンの愛する人の形代なのかもしれなかった。もう二度と触れることも口づけすることも出来ないあの女性…そしてその面影を宿すパトリシアにもコリンは何も出来なかった。その気持ちをミミにぶつけているのかもしれない…コリンはそう思ったが、確信はなかった。そしてミミもコリンの気持ちなど一向に構う様子はなく、相変わらず自由気ままに奔放に行動していた。イギリス国内のツアーの日が近づき、コリンとミミの演奏はまとまりを見せてきた。妥協して歩み寄ったのではなく、練習を重ねることにより音楽が同じ方向に向き始めたのだった。お互いに相手が次はどう弾くのか、まるで賭けをしているかのようにそれを楽しむ余裕が出てきた。緊張感とスリリングさのある演奏は、コリンが今までしてきたものとは全く違うものだった。コリンはピアニストを選ぶ際にケイトが言っていたことを思い出していた。確かにミミはコリンの可能性を広げてくれた。また少し音楽家として一歩前進したのを、コリンは感じていた。

10月に入り、いよいよ国内ツアーが間近となった。コリンはパトリシアにツアー前の最後のレッスンをしていた。これから暫くは、レッスンを月に1度出来るか出来ないかという状態になるため、この日は少し長めに時間をとっていた。パトリシアは来年卒業予定だった。彼女は卒業後の進路をオーケストラに定め、そのための勉強を中心にするようになっていた。コリンのレッスンでも主に、オーディションでよく出されるオーケストラ・スタディやモーツァルトの協奏曲を練習した。レッスン後、珍しくまだ時間があったコリンは、パトリシアとお茶を飲みながら話していた。
「それで、どのオーケストラがいいとか、希望はあるのかい?」
「まさか、そんな。どこか空きがあればオーディションを受けてみます。それで受かったところに」
「随分と謙虚だね」
コリンは笑った。しかし実際、パトリシアほど弾けていてもプロとしてやっていくのは難しいことだった。レベルが低めのオーケストラならば、彼女なら簡単に受かるかもしれないが、それで生活するのは大変なことだし、一流のオーケストラは労働条件はよくても採用されることが難しかった。
「僕も2つのオーケストラにいて、それからソリストになったし、これから先もどうなるかわからない。いくらでもやり直すことは出来るから、思った通りにするといいよ」
コリンは温かく優しい瞳でパトリシアを見つめた。パトリシアも微笑んだ。
「コリンはもうすぐ大変なツアーですね。きっと、大評判になりますよ…でも暫く会えなくて寂しいです」
パトリシアは自分が言ったことを恥ずかしく思ったのか、慌てて帰る支度をした。コリンは彼女を玄関まで送り、扉を開けた。
「それじゃあ、また次の機会に…こちらから連絡するから」
「ありがとうございます。でも無理はしないで」
淡いブルーの瞳がコリンを真っ直ぐに見つめていた。亜麻色の柔らかい髪がかかる白い肌の額、薔薇色に染まった頬と愛らしい唇…コリンは無意識に、その長い指で彼女の髪と頬に触れた。暫く2人は見つめあっていたが、パトリシアがふと視線を逸らした。
「じゃあこれで…」
彼女は少し寂しそうな笑顔を見せると、階段を下りて行った。コリンはパトリシアの足音が消えるまでその場を動かなかった。

コリンにとってソリストになってから初めての大きなツアーが始まった。ともすれば大陸やアメリカばかりが話題になるクラシック音楽界において、コリンはイギリス人としてその風潮に一石を投じた人物の1人であり、三大コンクール優勝以降、とりわけ国内における人気は物凄かった。チケットは完売し、どの会場も温かくかつ熱狂的な雰囲気に包まれていた。演奏自体も好評で、特にミミというピアニストと組んだことにより今までにないコリンの魅力が引き出され、評論家からも高い評価を受けた。ケイトはコリンのコンサートに関する全ての記事を集め、ファイルしていた。コリンの泊まっている部屋で、コリンとケイトはコンサートに関する打ち合わせをした。
「なかなか順調ね。あなたはイギリス中心に活動しているのだから、国内の評判がいいことは嬉しいでしょう?」
「そうだね。お客さんが皆、とても温かく見守っていてくれるから、気持ちよく弾けるよ。相変わらず評論家は何か書くネタがないかっていう視線で見てくるけど、でも気にしないようにしてるから」
「ミミの演奏に対しても、悪い批評はないわね。これが例えば音楽的に保守的な所だったら、ここまでの評判は得られないでしょうけど、でもこの国はそうでもないから」
ケイトは書類を手にし、話し続けた。
「この間のコンサート、録音したけどいい出来よ。おそらくライブ録音のCDにすると思うけど、あなたの意見は?」
「僕は構わないよ」
ケイトは眼鏡を直すと、コリンに微笑んだ。
「明日からはロンドンでオーケストラとの共演よ。本番はしあさってから。ちょっと日程がきついけど、昼まではオフだからゆっくり休んでちょうだい。午後3時の電車でロンドン行きよ」
コリンは頷いた。ケイトが部屋から出て行くと、コリンはベッドに横になった。窓から流れ行く雲を暫くぼんやりと見つめていたが、起き上がるとヴァイオリンケースを開け、ヴァイオリンを取り出した。ずっとヴァイオリンを弾いていることは、コリンにとって全く苦ではなかった。もう楽器は体の一部となっており、かえって弾いていないほうが落ち着かないくらいだった。明日から弾く予定のモーツァルトの協奏曲をコリンは弾き始めた。流麗な音色がホテルの部屋に響いた。暫く弾いているうちに、コリンはパトリシアのことを思い出した。この曲はついこの間、彼女にレッスンしたばかりだった。卒業試験に向け彼女もとても忙しいが、今度のコンサートには来てくれるだろうか…コリンの予定は一杯で、11月の初めまでレッスンを入れる時間が取れそうになかった。そしてその後は海外のツアーに出かけることになる。コリンは笑った。一体、僕は彼女に教えたいのだろうか、それとも単に会いたいだけなんだろうか。コリンは頭を軽く振り、ヴァイオリンをしまうと、ソファーに座り目を閉じて休んだ。

イギリス国内のツアーは好評の内に終わった。シーズン最後にまた国内ツアーが組まれているが、コリンにとって最も重要に思われる第一段階をクリアすることができ、コリンはほっとしていた。次のツアー先であるアジアに行く前に、協奏曲のソリストとしての仕事もかなり入っていた。その合間をぬって、コリンはパトリシアにレッスンをした。久しぶりに会うパトリシアは、以前より慕わしくコリンには思えた。今まで以上に集中的に練習している彼女はめきめきと力をつけ、そのヴァイオリンはコリンの敬愛する女性にますます近づいている気がした。パトリシアと一緒にヴァイオリンを弾いている時、コリンは不思議な感覚を抱いていた…2人の音色が溶けあうのが、実際触れることはしなくとも、まるで彼女を優しく腕に抱き、愛撫しているかのように感じられた。時間も音楽も空間も、全てを共有している不思議な感覚。そしてコリンの脳裏には、パトリシアの姿だけではなく、常にグレーの瞳が浮かんでいた。今でもコリンにとっては絶対的であり、敬愛し憧憬する女性。手の届かない人になってしまったが為に、その存在が揺るぎないものとなったあの人。コリンは、とりわけソリストになってからというもの、自分をコントロールしてきた。しかし最近、ミミの影響で自分の気持ちが素直に出てしまうことが多くなった気がしていた。パトリシアに対する複雑な感情も、いつ箍が外れるのか…彼女と共に弾いている時は、音楽に集中しきれない自分がいて、それにコリンは少し苛立っていた。レッスンが終わり、パトリシアはコリンのフラットを出て行こうとした。
「それじゃあ…今度はだいぶ先ですね。コリンの日程を雑誌で見たんですけど、本当に忙しそう。体に気をつけて、いいツアーになりますように」
パトリシアはコリンに微笑むと、階段を降りて行った。その後姿を見ている内に、コリンは感情に突き動かされ、彼女の後を追った。
「下まで送るよ」
コリンとパトリシアは黙ったまま並んで階段を降りた。戸口に着き、パトリシアはコリンに向き直ると手を差し出した。
「ありがとうございました。またいつか」
コリンは彼女の手を握ると、ぐいと引き寄せた。
「コリン?!」
彼はパトリシアの頭を抱きしめ、亜麻色の髪を撫で、それに口づけした。
「…ヴィオレッタ」
自分が何を呟いたのか、コリンには分かっていなかった。何よりも愛しいものであるかのように、亜麻色の髪を指に絡ませ、それに口づけすることしか考えていなかった。パトリシアがコリンをそっと押しやり、哀しい笑顔を見せた時、コリンはようやく自分を取り戻した。自分は今、何を言って何をしたんだろうか…。パトリシアはコリンに軽く会釈をすると、無言で立ち去った。コリンの脳裏に彼女の哀しそうな笑顔が焼きついて離れなかった。

アジアツアーに出発の前日、ミミがコリンのフラットを訪れた。コリンは隣にいるミミの口から煙草を取り上げると、自分の口にくわえた。先日パトリシアにしたことが頭から離れず、ここ数日むしゃくしゃとしていた。
「何かあったわけ?」
ミミがコリンの髪を撫でながら聞いた。
「別に」
コリンが素っ気無く答えると、ミミもそれ以上聞いてはこなかった。
「明日からまたツアーね。きっと私以上のピアニストはいないってわかるわよ」
ミミはそう言うと、高らかに笑った。
「ねぇ、アメリカツアーのピアニストは決まってるの?」
「さあ、たぶん決まっているんじゃないかな。そういうことは全部ケイトに任せてあるから」
「私をアメリカツアーでも使わない?」
ミミはいつになく真剣な声で言った。コリンは彼女を見つめた。
「私たち、いい演奏が出来るわ。あなただってそう思うでしょう?アメリカで成功するかどうかは、音楽家にとって重要だわ。私があなたにとってベストのピアニストよ」
大輪の花のような艶やかな笑顔で、ミミは自信満々に言った。国内ツアーの結果を思うと、確かにそうかもしれない。コリンはそう思った。
「それじゃあ、そうケイトに言うんだね。彼女が決めることだよ」
「あの女、いかにも私は頭がいいですっていう態度が気にくわないわ。それにあなたのコンサートじゃない、あなたが決めることよ」
ミミはその漆黒の瞳を輝かせた。
「私はいつまでもこの国に埋もれているつもりはないわ。もっと広い世界に行ってやる。そのためにはアメリカで弾きたいのよ」
生き生きと輝く瞳を見ている内に、コリンはそういう瞳をした人たちを思い出していた。目標に向かっている人たち。コンクールで出会った、赤い髪のヴァイオリニストもそういう瞳をしていた。自分は最近、そういう瞳になったことがあるだろうか…何かひたむきに目標に向かってしたことがあるだろうか。
「コリンは活動の場をアメリカに移そうと思ったことはないの?ヨーロッパ、特にイギリスにいるより、よっぽど大きなチャンスを掴めるわよ」
「それはそうかもしれないけど、僕のやりたいことじゃない」
ミミはコリンの口から煙草を取り戻した。
「私があなただったら、もっと成功しているわよ。チャンスも才能もあるのに、それを利用しようとはしないのね」
彼女は服を着ると、コリンの頬に軽く口づけをして、部屋から出て行った。

アジアとオーストラリアのツアーも成功の内に終わった。コリンはクリスマス前の演奏会を終え、年明けまで久しぶりにゆっくりできる時間を持てそうだった。彼は事務所で、ケイトから渡されたツアーの批評や大量のファンレターに目を通していた。
「こんなものもあるのよ」
ケイトがコリンに一冊の雑誌を差し出した。それはいわばスクープを取り扱う雑誌だった。
「『どっちが本命?』…何のことだ?」
その記事は、イギリスの誇る名ヴァイオリニストとなったコリンの相手が、ミミなのかパトリシアなのかという主旨のものであった。2人の実名は出ていなかったが、先日フラットの扉の前でパトリシアを抱きしめた時の写真と、フラットから出て行くミミの写真が掲載されていた。ケイトは軽く息を吐いて静かに言った。
「イメージで売っているわけでもないし、プライベートなことには干渉しないことにしているから、事務所としては何もしないけど、あなたもこういう雑誌の対象になっていることを知っていたほうがいいかもしれないわね」
フラットに帰ってからコリンは再びその雑誌に目を通した。まさか自分がこういう雑誌の記事になるとは思っていなかった。彼女たちやコリン自身をひどく傷つけるようなことが一切書かれていなかったことは幸いだった。しかしコリンは不安な気持ちを抱いた。ミミはともかく、パトリシアは困るんじゃないだろうか…音大の仲間たちから何か言われたりしていないだろうか。それにこの写真を撮られた時、僕は何を彼女に言ったのだろうか。パトリシアの哀しそうな笑顔が瞼に浮かんだ。コリンは手帳を取り出すと、受話器を上げた。

「…はい、フォスターです」
暫く聞いていなかったパトリシアの可憐な声。コリンは演奏をする時より自分が緊張している気がした。
「パトリシア?コリンだよ」
受話器の向こうで軽く息を呑む音が聞こえた。
「切らないで、話があるんだ」
パトリシアは何も言わなかった。恐らく彼女もあの雑誌のことを知っているのだろう。コリンはどう話したらいいのか全くわからず、苛立たしげに自分の髪を梳いた。
「…何から話していいのかわからないんだけど…とにかく謝りたくて」
「謝っていただくことなんてないです」
パトリシアの声は、無理に自分を抑制しているものだった。コリンはますますどうしていいのかわからなくなった。
「パトリシア、多分雑誌のことを聞いたんだろうね。何か言われているんじゃないかと思って…本当に悪かったよ」
「コリンが謝ることじゃありません…謝るようなことじゃないでしょう?」
コリンははっとした。確かに写真を撮られたことは自分の不注意ではあったが、彼女を抱きしめたことは謝るようなことじゃない…それが心から求めたことであったならば。こんなにも気持ちが咎めるのは、そうでないからだ…謝るようなことをしたと思っているからだ。今度はコリンが何も言えなくなった。
「…私のほうが申し訳なく思っています。コリンにも、あのピアニストの女性にも…そしてヴィオレッタさんにも」
コリンは頭をがんと殴られたような思いがした。何故パトリシアがコリンの最愛の女性の名を知っているのだろう…彼女を抱きしめたあの時、僕はあの女性の名を呼んでいたのだろうか。コリンの頭の中で様々な思いが錯綜し、彼は眩暈を覚えた。
「パトリシア、電話じゃうまく話せないけど、君には全く非はないんだ。次のレッスンの時にまた話そう」
「コリン、レッスンはもうご迷惑でしょうから、無理に時間を割いていただく必要はもうないです。今までありがとうございました」
感情を押し殺したようなパトリシアの声は、逆に彼女の気持ちが高ぶっているのを示していた。コリンは彼女が手元から去ってしまうかもしれないことに焦りを感じた。パトリシアに対する感情ははっきりしないものだったが、彼女との関係がこれで終わってしまうのを望まないことは確かだった。
「パトリシア、待って」
コリンの耳には電話の発信音だけが響いていた。


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