第五章 Intermezzo 2 − インテルメッツォ2 −


彼女はコリンにとって、忘れられない女性の1人であった。今はお互いプロとして活動しており、同じ音楽家として尊敬していた。出会ったのはだいぶ昔、まだ学生の頃だった。

新しい学期が始まり、コリンは廊下に貼られた教室番号を確認すると急ぎ足で歩いて行った。女友達が声をかけると笑顔で答え、下級生からの憧れの眼差しに優越感を持ちつつ、コリンは教室の重い扉を開けた。そこには既に多くの学生たちが集まって、思い思いに楽器を鳴らしていた。管弦楽の授業…コリンは今学期、初めてこの授業を取ることにした。彼はソリストの勉強をしており、滅多にアンサンブルの授業を取ることはなかったのだが、教授の強い奨めがあったため試してみることにしたのだった。コリンが教室に入ると、教室がざわついた。あのコリン・ファースが同じ授業に…。彼はつい先ごろ、国内のコンクールで優勝し、そして次いで出場した国際コンクールでも入賞を果たしていた。今すぐにでもプロとしての活動が出来る人物。音大生とはいえ、まだ勉強中の他の学生たちとは段違いの実力と知名度を持っている人物。おそらくコリン以上に弾ける学生はこの大学にはいないだろうし、コリンもそれを自覚していた。何人かの学生がコリンと知り合おうと声をかけてきた。コリンは笑顔で応えつつも、他の学生と自分は違うんだという気持ちを更に強くしていった。

担当の教授が入ってきて、簡単に挨拶をした。教授は名簿を開き、メンバーの確認をしていった。コリンはコンサートマスターとして弾くことになっていた。管弦楽の授業は初めてだったが、ヴァイオリンの実力を鑑みてのことだった。
「…ソロ・フルートはいませんか?」
教授が眼鏡を直しながらそう言った時、教室の扉が開いた。
「すみません、遅れちゃって。迷子になったもので」
そこには小柄な東洋人女性が立っていた。彼女は急いで席に着くと、楽器を組み立て温めた。コリンの側にいた学生が小声で呟いた。
「彼女知ってるわ。この間の国際コンクールで優勝した子よ。パリで勉強してたはずだけど、こっちに来たのね」
国際コンクールで優勝?コリンはそのフルーティストを見た。まだ10代半ばのようにも見えるその女性は、とてもそういう経歴の持ち主には見えなかった。コリンが未だ手にしたことのない栄冠を手にした女性。彼は彼女に軽い嫉妬心と興味を持った。

コリンにはオーケストラの一員として弾くことは今までなかったが、指揮に合わせるということは協奏曲のソリストとして経験済みだった。コリンは誰よりも高い技術と美しい音色で、他を圧倒するように弾いた。他の学生たちはどうしてこうも弾けないんだろうと彼は思った。教授はアンサンブルの仕方を詳細な例を挙げながら説明した。楽器同士のハーモニーの取り方、そして曲の構造。その注意事項が守られる度に、アンサンブルの精度は増していった。授業が終わると、コリンは多くの学生たちに囲まれた。相手をするのも面倒だったが、コリンは表向き笑顔で対応していた。その人の群れを軽く横目で見て、ソロ・フルートを吹いた女性は立ち去った。学生で、しかも女性でコリンにここまで興味を示さないのは初めてだった。コリンの自尊心は少し傷ついた。コンクール優勝といったって、特に目立っていなかったじゃないか…コリンはそう思い、彼女を気にすることをやめようとした。

次の日、コリンは廊下を歩いていてその女性に再会した。彼女は両手に沢山の楽譜とフルートを抱えていた。練習室のドアを開けようと苦心している彼女を見て、コリンはその扉を開けてあげた。
「どうぞ」
「ありがとう」
彼女は軽く微笑んだだけで、練習室に入って行った。コリンは少し腹立たしさを感じ、彼女に話しかけた。
「君も昨日管弦楽の授業にいたよね。名前はなんていうの?日本人?」
「人の名前を聞く前に、自分の名前を名乗るのが礼儀じゃないかしら?」
彼女は完璧な英語の発音で答えた。コリンは意外な反応に驚いた。随分とはっきりものを言う人だな、とコリンは思ったが、笑顔を取り繕って答えた。
「ごめん、コリンだよ」
「私はヨウコよ」
「ヨコ?」
「ヨ・ウ・コ」
「ヨーコ?」
彼女はまあいいわ、といった顔をした。楽譜を机の上と譜面台に置くと、彼女は楽器ケースを開け、楽器を組み立てると、温めるために息を吹き込んだ。コリンには全く関心を示さず、練習をするから出て行けとばかりの態度に、コリンは更に苛立った。

「コンクールで優勝したんだって?それなのにわざわざ勉強を続けるのかい?」
コリンはわざと質問をして練習を遮った。ヨウコは怒る風でもなく、コリンのほうを向いた。
「確かにそれなりの努力はしたけど、運もあったし、それにあれが私の限度じゃないわ。まだまだ勉強することは山ほどあるもの。今プロになってもいいけど、もっと可能性を広げたいの。あなただってそうなんでしょう?」
コリンは答えなかった。どうして大学に残っているのか、自分でもよく理由がわからなかった。
「名前を聞いて思い出したわ。パリの音楽院でヴァイオリン科の子達があなたのことで騒いでたもの。コンクールで入賞した時にね」
ヨウコは微笑むとフルートを構え直した。さすがにコリンももう話しかけることが出来ず、練習室から出て行こうとした。
「あなた、ソリストになるつもりなのよね?」
突然の質問にコリンは驚いた。
「そうだよ」
「そんな音をしてたわ。何故あなたが管弦楽の授業を取ったのかわからないけど、アンサンブルで弾く時はもう少し違った弾き方をしてもいいんじゃないかしら?」
彼女はコリンに厳しい視線を送ると、楽譜のほうを向き、フルートを吹き始めた。コリンは年下で、しかも知り合ったばかりの彼女にそんな言い方をされる覚えはなく、腹が立って扉を思いっきり閉めた。練習室から微かに漏れるフルートの音色は他の学生とは違うレベルのものだと、楽器の違うコリンにもわかった。そしてそれは昨日聴いたオーケストラでの彼女のフルートとは違っていた。

コリンとヨウコはそれから毎週管弦楽の授業で顔を合わせたが、お互いに話すことはなかった。コリンは相変わらず自信に溢れた弾き方をしており、ヨウコはソロパートを吹く時以外は特に目立った吹き方はしなかった。それでもコリンは、何度か授業で一緒に演奏している内に、ヨウコがオーケストラで吹く時とソロで吹く時と、わざわざ違う吹き方をしているということに気が付いた。またオーケストラでもソロパートを吹く時と弦楽器の伴奏に回る時とまた違う奏法をしていた。彼女の多彩な演奏方法と表現力には素直に感心したコリンだったが、それでも自分もそう弾こうとは全く考えなかった。ベートーヴェン交響曲第7番の練習が始まって間もなく、冒頭のフルートソロの箇所でヨウコが教授に意見をした。
「弦楽器の伴奏が全く合ってません。もっとこちらのソロを聴いて弾いて欲しいんですけど」
コリンにはヨウコが弦楽器全体に言っているのではなく、コリン個人に言っているのだとわかっていた。
「こっちだって聴いて弾いてます。ソロが間延びし過ぎてるんです」
コリンは言い返した。ヨウコは動じることもなく、更に言った。
「耳を通過してるかもしれないけど、聴いているとは思えません。管楽器にはブレスが必要なこともわからないでその席に座るのはやめて欲しいわ」
「何だって?」
険悪な雰囲気になりそうな教室は、ざわめいた。教授はヨウコの言い分を正しいとして、弦楽器にもっとよくソロの息遣いを感じながら弾くように指示を出した。しかしコリンは不服だった。彼はその日、全くやる気なしに授業を終えた。

コリンの女友達の1人がフルート科に在籍していた。彼女が師事している教授の門下生たちによる小さなコンサートがあり、コリンは彼女にどうしてもと頼まれ、それを聴きに行った。その中にはヨウコもいた。音大にある小ホールでそのコンサートは行われた。やはりヨウコの実力は他の学生と段違いだった。その小柄な体も、実際より更に若く見える顔も、演奏中は威厳ある演奏家のものと変わっていた。コリンはヨウコのフルートの素晴らしさを認めつつも、管弦楽の授業での彼女のコリンに対する態度には相変わらず腹が立っていた。コンサートが終わり、コリンは女友達と話していた。彼女に上手だったよとお世辞を言っているその横をヨウコが通り過ぎた。コリンは何故だかヨウコと話したくて、女友達に別れを告げてヨウコの後を追って行った。コリンが呼びかけると、ヨウコは振り向いた。暫く気まずい時間が流れていたが、ヨウコのほうから今度は話し出した。
「あなたも来てたのね。フルートに興味があるとは思わなかったわ」
「知り合いが出てて」
コリンは何を言っていいのかわからず、手を口元に当てた。ヨウコはコリンに微笑むと言った。
「私は次の時間、空いているんだけど、あなたも空きだったらちょっと頼みがあるのよ」

2人は空いている練習室に入った。ヨウコは譜面台を2台並べると、そこに譜面を置いた。
「室内楽の授業で今度バッハの管弦楽組曲を吹くの。昔何度も吹いたけどさらい直したくて。ちょっとファーストヴァイオリンのパートを弾いてみてくれる?」
コリンは言われるままにヴァイオリンケースを開け、ヴァイオリンを取り出した。2人は初見で演奏を始めた。ヨウコは時々鉛筆で楽譜に書き込みをしていった。一通り弾き終わると、ヨウコは暫く譜面をぱらぱらとめくっていたが、納得したように頷いた。
「ありがとう、とても参考になったわ」
コリンはヴァイオリンを拭きながらヨウコに聞いた。
「室内楽の授業も取ってるんだ」
「そうよ」
「でも君はソリストになるんじゃないのかい?」
ヨウコは少し驚いたようにコリンを見つめた。
「そうだけど、でも室内楽や管弦楽の経験も必要だと思うわ。協奏曲やアンサンブルで吹くこともあるだろうし。あなただってそのために授業を受けてるんでしょう?」
コリンは何故自分が管弦楽の授業を受けているのか、考えたこともなかった。ただ教授に奨められたからだった。彼は黙々とヴァイオリンを片付けた。

2人はそれから音大の中庭にあるベンチに並んで座った。あちこちから練習する音が聞こえた。暫くお互いに黙っていたが、ヨウコが沈黙を破り話し出した。
「管弦楽の授業で、あなたに散々文句を言ったのは悪いと思うけど、でも間違ったことは言ってないわ。あなたはソリストとしては素晴らしいのでしょうけど、でもオーケストラで弾く時はあの弾き方じゃ駄目よ。自分が常に主役とは限らないのよ」
コリンは黙っていた。ヨウコの言うことは何となくわかった。確かにそうかもしれない。それでも素直にそれを認めることは、コリンの自尊心が許さなかった。ヨウコは黙り込んでいるコリンを見て、軽く笑った。
「まあヴァイオリニストとフルーティストなんて、相性は悪いと思うわ。お互い旋律楽器で、音域も似通っているし。プライドが高くて、ナルシストだものね。似た者同士だから反発もしやすいのよ」
「へえ、自分でそう思っているわけ?」
「そうよ。特にソリストを目指してると、そうならざるを得ないわね」
2人は同時に噴出した。
「プライドが高くてナルシスト同士なんて、最悪のコンビだな」
「まったくね」
コリンは笑いながらヨウコの横顔を見た。いつもは勝気で生意気そうに見えるのに、今はそうではなかった。まだ少女の面影のある年下の可愛らしい女性がそこにいた。

「実はね、オーケストラに入ろうかどうか、迷った時期もあったのよ」
ヨウコはコリンを真っ直ぐに見つめて言った。
「アンサンブルが楽しくてしょうがなかったの。フルート一本やヴァイオリン一挺じゃ出来ないことが出来る。皆で1つの曲を一緒に演奏するっていうことが楽しくって。でもこの間コンクールで優勝出来て、もう迷わないでソリストになろうって決めたのよ。偉そうに言ったけど、私が管弦楽の授業を取っているのは、本当のことを言うと勉強と楽しみと半々ね」
コリンは静かにヨウコの話を聞いていた。それまでオーケストラで弾こうがソロで弾こうが、コリンは自分の弾きたいようにしか弾かなかった。自分はソリストになるのだし、管弦楽の授業は試しに取ったに過ぎないと考えていた。オーケストラで、アンサンブルで弾くということ…コリンはこの時、ソロ以外の存在を初めて認識した気がした。ヨウコは漆黒の瞳に力強さを湛えて言った。
「私は素晴らしいソリストになりたいの。何年、何十年かかるかはわからないけどね。でも物凄く自分の可能性にわくわくしてるわ。色々なことを学んで吸収して、そして音楽の素晴らしさを多くの人に伝えられるような演奏家になりたいの」
コリンはヨウコの意識の高さを感じた。これがコンクールで優勝した人物とそうでない人物の差かもしれない…コリンはそう思った。ヨウコの凛とした態度はプロの道を歩みかけている人間のもので、それと比べるとコリンはまだ他の学生と同じなのかもしれない。コリンにはヨウコの姿が眩しく見えた。

それからコリンは管弦楽の授業でかなり弾き方を変えた。ヨウコがソロになるのと迷ったほどのアンサンブルの楽しさ。それを知ろうとした結果、周りの音を感じ取る神経が研ぎ澄まされた。それまで自分しか弾いていないというような弾き方だったのだが、レベルは劣るとしても一緒に弾く学生たちがその場にいるのだということを認識するようになった。学期の最後に音大のホールで演奏会が行われた。コリンは舞台袖で燕尾服の袖口を直していた。
「珍しく緊張してるのね」
ヨウコが話しかけてきた。そんな態度は見せなかったのに、ヨウコには見透かされていたのだろうかと思い、コリンは苦笑した。
「ちょっとね」
「おまじないを教えてあげるわ」
ヨウコは手のひらに漢字で「人」を3回書いて飲み込むというものを教えた。2人揃ってやると、何とも可笑しくなって、コリンとヨウコは顔を見合わせて笑った。
「ほら、もう緊張しないでしょ」
「本当だね」
ヨウコは自信有り気な笑顔を見せた。
「今日は最高のソロを吹くわよ。よく聴いていてね」

コリンはその後、何度も海外留学を繰り返し、ロンドンの音大のマスターコースには籍を置いていたものの、実際はあまりいなかった。それでもこの音大にいる間は管弦楽や室内楽の授業も取り、またヨウコや他の気の合う仲間たちとアンサンブルを組んで演奏したりもした。コリンは首席で卒業し、ロンドンから離れた小さな街のオーケストラに入った。その間にヨウコも卒業し、ソリストとしてのデビューを飾り、母国だけでなくアメリカやヨーロッパで活躍するようになった。お互いプロになり、会うことはなくなったが、それでもたまに手紙を書き、近況を知らせていた。コリンが国際コンクールで優勝した後もヨウコから手紙が来た。祝福と激励の温かい言葉が書かれた手紙を読んでいる内に、コリンは懐かしくなって大学時代のアルバムを引っ張り出した。もう10年近く前になる。この時はヨウコがコリンの遥か先を歩いていた。プロになってからも、ソリストとオーケストラプレーヤーと違う道を歩んでいたが、それでも少しは彼女に近づくことが出来たのだろうか。コリンは可笑しくなって笑った。思えばずっと彼女にはやり込まれてばかりだった。彼女が唸るようなヴァイオリニストになったら、彼女は何と言うだろうか。
「負けないわよ」
写真の中のヨウコがそう言った気がした。


Special Thanks to YOKO-sama


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