第六章 Appassionata −アパッショナータ−

第一節

コリンのソロ活動は順調だった。最初は三大コンクール優勝者という肩書きに興味を持ち、聴きに来る人が多かったが、コリンの音楽に共感しそしてコンサートに来る聴衆が次第に増えていった。更にコリンのコンサートのチラシやポスターは女性たちに人気で、チケットセンターに置いてあるものや壁に貼ってあるものまですぐになくなってしまう程だった。コリンの容姿に惹かれてコンサートを訪れるようになった人も多かった。しかしコリンには、どういう理由であれ、コンサートに来てくれることが嬉しかった。きっかけはどうでもいい、そのうち音楽が楽しいことを知ってくれれば、そして僕がそれを伝えることが出来れば…コリンはそう思っていた。初めはあまり行っていなかった海外での演奏も少しずつ増やしていった。その海外での活動の評価も高く、共演したオーケストラから再度出演依頼が来たり、当地の新聞や雑誌の取材を受けたりすることもあった。録音についてはコリンは気乗りがしなかった。彼は自分のヴァイオリンを生で聴いて欲しかった。演奏する側と聴衆と、全てを共有するような不思議な空間は、ホールでのコンサートでないと作り出せないものであった。録音すれば更に多くの人にコリンのヴァイオリンを聴いてもらうことは出来るが、どういう風に聴き手が受け取っているのかコリンには知る由もなく、一方通行の関係のようでコリンは嫌だった。それでもさすがに全て断るわけにはいかず、何度か録音もした。録音以上に苦手だったのはポスターやCDのジャケットの写真を撮ることだった。楽器をただ持ってカメラの前でポーズをとることがどうも不自然な気がして、照れくさくて出来なかった。それでいつも、コリンが弾いている時に写真を撮ってもらっていた。録音したものの売れ行きも好調だった。あまりにも順調だったため、コリンは自分を見失わないように戒めた。学生時代、周りからちやほやされていたが、結局本当のところは大したことはなかったじゃないか。それと同じで、もしかして今の熱が冷めたら、何も残らないかもしれない。コリンはそう思い、冷静さを保っていた。

コリンは所属している音楽事務所の部屋にいた。担当マネージャーのケイトから受け取った数多くのファンレターに目を通し、カードに簡単なメッセージとサインを直筆で書いて、それを返送していた。楽器を始めたばかりの子供から、既に退職し趣味で音楽を聴いている人まで、コリンのファン層は幅広かった。どの手紙にもコリンの音楽に対する温かい想いが詰まっていて、コリンは貰った手紙を大切に保管していた。中には何度も手紙を書いてくる人もおり、コンサート後に楽屋まで会いに来てくれる人も多かった。何人かのファンとは顔なじみになった。
「コリン、知ってるかしら?どうやらあなたのファンクラブっていうものがあるみたいよ」
ケイトが笑いながらそう言った。
「『コリンの担当者宛』っていう手紙が来てね、ファンクラブを作ったから公認してくださいって書いてあったのよ」
コリンはケイトからその手紙を受け取り、読んだ。連名で署名してあり、その名前はコリンに馴染みのものだった。何人かの熱心なファンの顔が浮かび、コリンは微笑んだ。
「ファンクラブね。なんだか歌手や俳優になったみたいだなぁ」
「音楽家だって、有名で人気のある人は大勢いるわよ」
ソロ活動を始めて数年経ち、コリンの環境は大きく変わった。自分としてはコンサートマスターの頃から変わっていないつもりだったが、それでも周りの自分に対する待遇の変化にコリン自身も適応せざるを得なかった。以前は自分にこんなにも人気が出るとは考えもせず、「ヴァイオリニスト、コリン・ファース」という人物は自分以外の誰かではないかという気さえしていた。今では少し慣れたものの、それでもやはりあまり派手な活動はするつもりがなかった。
「ケイトはどう返事をするつもり?」
「そうね、公認っていうのはちょっとまだ答えようがないわね。だけどあなたにも顔なじみみたいだし、問題がない範囲で質問に答えたり協力することは構わないと思うわ」
コリンは頷いた。ケイトは有能で信頼できるマネージャーであり、コリンは事務的なことは全て彼女に任せていた。

ファンレターの中には、コリンにヴァイオリンのレッスンを頼むものもあった。しかしコリンは教授法を学んだことがなく、彼の師事したエーデルバッハや他の教師たちのように教える自信は全くなかった。それでもコリンは教えることに興味を持っていた。音大生やプロに教えるのではなく、子供たちに楽しんでヴァイオリンを弾くことを教えられるならどんなにいいだろうと思っていた。それでソロ活動の合間にエーデルバッハのレッスンを受ける際、少しずつ教授法を学んでいた。エーデルバッハも最近は体が弱くなり、生徒数を減らしていた。彼女も一番弟子であるコリンに、ヴァイオリニストとしてだけでなく、教師としての全てを伝えることが出来るならばと思い、熱心にコリンに教えていた。教授法を学び始めてはいたが、まだ他人に教えられるほどではないとコリンは考えていたので、コリンにレッスンを頼む手紙には丁寧に断りの返事を書いていた。もし相手が望むのだったら、快く知り合いの教師を紹介していた。この日受け取った手紙にも何通かレッスン依頼のものがあった。
「彼女、何度もレッスンを依頼してきてるな」
ある1通の手紙を書いてきた女性は、コリンが何度断ってもレッスンを依頼してきた。コリンの母校である音大で学んでおり、師事しているヴァイオリニストは優秀な人ばかりであった。コリンが今更教えることなど何もない程だったのだが、それでも熱心にどうしてもコリンに習いたい旨を書いてきていた。
「コリンのファンなんでしょう。きっと何を学ぶかより、コリンに習うことが重要なのよ」
パトリシア・フォスターと几帳面な字で書かれた署名をコリンは暫く眺めていた。もう何度も「自分では教えられることがない」と返事してきた。それでもコリンにこうまで熱心に習いたいのであれば、何かしらの形でレッスンをしてもいいのかもしれないとコリンは思った。しかし単に「コリン・ファース」というヴァイオリニストのファンで、それだけの理由でレッスンを受けたいのであれば、それはコリンの望むものではなく断るつもりだった。彼は自分の外見だけで判断されることを今は嫌っていた。コリンはどう返事していいのか決めかねて、暫くしてから手紙を書くことにした。

コリンはケイトと今後何ヶ月かのスケジュールについて話し合い、彼女の部屋をあとにした。事務所の廊下を考え事をしながら早足で歩いていたコリンは、角で人にぶつかった。ドサッとコリンの足元に楽譜が落ちた。
「すみません」
コリンは謝り、その人物の落とした楽譜を拾い集めた。そしてそれを渡そうと立ち上がり、コリンは息を呑んだ。彼の目の前に立っていた女性はそれ程美しかった。滑らかな褐色の肌、豊かに波打つ黒髪は腰まであった。意志の強そうな漆黒の瞳が輝く顔は、彫りが深く艶やかで整っており、胸元の大きく開いた服を着て、背が高くプロポーションのいいその姿は、女らしいと言うよりはしなやかな野獣のようであった。小悪魔的に微笑んだ彼女は、コリンから楽譜を受け取ると、高いヒールで足早に歩いて行った。コリンは暫く彼女の歩き去った方角を見つめていたが、軽く頭を振ると、事務所から出て行った。フラットに着き、コリンはレッスン依頼の返事を書くことと次の演奏会で弾く曲の研究をしようと思っていたが、さっき見た女性の顔がちらついて頭から離れなかった。あれ程まで一瞬で強烈な印象をコリンに与えた女性は少なかった。美しい女性は今まで大勢見てきたが、彼女は危険な香りがした。身に纏った雰囲気がまるで他の女性とは違っていた。プロになりたての頃までは、かなり派手な女友達との関係を持っていたコリンだったが、彼女のようなタイプはいなかった。どちらかというと、避けていたと言ったほうが正しいかもしれない。ああいう女性には近寄ってはいけない…コリンは感覚でそれを知っていた。美しい花を摘もうとして、毒のある棘に刺されるのがおちだ。コリンは音楽を聴きながら、手紙を書き始めた。落とした譜面は、ピアノ譜だったな…コリンは手を止めた。あの音楽事務所に所属しているピアニストかもしれない。コリンは椅子の背もたれに寄りかかり、瞼を閉じた。近寄ってはいけないと知っているのに、何故こうまで気になるのか、コリンにもわからなかった。

ある晩、コリンは古巣のオペラ座付きオーケストラとの演奏会に出演していた。お互いに特徴をよく知っているので、コリンもオーケストラも弾きやすかった。満場の聴衆を前に協奏曲を弾ききったコリンは、何度もカーテンコールに応えた後、楽屋で燕尾服からラフな服に着替えた。モニターからはオーケストラが弾いているメインプログラムの演奏が聴こえてきた。何年か前までは自分が弾いていたオーケストラに今は自分はいない、かつての仲間たちの演奏をこうしてモニターから見て聴いているだけという事実は、コリンを妙な気分にさせた。ソロとなったものの、コリンのオーケストラに対する愛情は衰えず、しばしば無性にオーケストラで弾きたくなった。そうだ、このボウイングは僕がつけたものだ。今だって彼らと一緒に弾くことが出来る…この曲だって何度も弾いた。コンサートマスターとしてでなくてもいい、ヴァイオリンパートの片隅ででも弾けるなら…コリンはじっとモニターを見つめていた。演奏が終わり、団員たちは楽屋に引き揚げ、途中コリンの楽屋に寄っては声をかけていった。コリンはヴァイオリンケースを担ぐと楽屋を出た。楽屋の外には彼の熱心なファンたちが待っており、コリンを見つけると花束を手に集まってきた。コリンは笑顔でサインや写真に応じ、今日の演奏についての感想やこれからの活動への質問などに答えていた。ふと彼らの頭越しに廊下の端を見たコリンは、一瞬自分の目を疑った。まさか、そんなはずはない…コリンは何度か瞬きをした。そこにはヴァイオリンケースを持った1人の女性がコリンに背を向けて佇んでいた。肩に柔らかくかかる亜麻色の髪、白い肌と華奢な体…集まっていたファンの声に我に返り、コリンは一度視線を元に戻した。そして恐る恐るもう一度廊下の端を見た…その女性は現実にいた。コリンの視線に気が付いたのか、彼女はゆっくりと振り向いた…その女性はコリンの思っていた人とは違っていた。菫色がかったグレーの瞳の威厳ある人ではなく、淡いブルーの瞳をした大人しそうで可憐な女性だった。

彼女はコリンが他のファンたちの相手をするのが終わるまで、静かにそこで待っていた。コリンの周りに人が少なくなると、ゆっくりと近づいてきて、コリンに微笑んだ。
「はじめまして…パトリシア・フォスターです」
そう言うと彼女は、ほっそりとした白い手をコリンに差し出した。コリンはその手を握った。彼女があのファンレターの主か…レッスンを頼む手紙に、つい先日、悩んだ末に何日もかけて返事を書いたばかりだった。
「あなたがレッスンを頼む手紙を書いた人ですか」
コリンはにっこりと微笑んで言った。パトリシアは軽く頬を染めて俯いた。
「ごめんなさい、あんなにしつこく手紙を書いてしまって。でもどうしてもあなたにレッスンをしていただきたくって」
彼女は指で髪を耳にかけた。コリンはその動作を見つめていた。彼女はコリンの愛する人ではない…それでも彼女はあの女性を思い出させた。美人であることは共通しているが、全くタイプは違っていた。しかしその亜麻色の柔らかな髪や透けるような白い肌、華奢な背格好はよく似ていた。それに同じようなヴァイオリンを弾く人間の手…コリンはあの女性が目の前に立っている錯覚を覚えた。俯いていたパトリシアは思い切って顔をコリンに向けると、言葉を続けた。
「この間はお返事をどうもありがとうございました。そのことで今日はここに来たんです。また手紙を差し上げてもよかったのですけど、丁度今日のチケットを持っていたので」
コリンは返事に、何度も書いたとおり技術的には何も教えられないが、どうして僕にそれ程まで習いたいのか、そして何を習いたいのか、具体的に教えて欲しいと書いたのだった。恐らく彼女はその返事を伝えに来たのだろう。コリンは時計を見てから、パトリシアに言った。
「もし時間がまだあるようだったら、どこかの店で話しませんか。長くなりそうだし、ここはもうすぐ閉まってしまいますから」
彼女は一瞬驚いて目を見開いたが、こくりと頷いた。

コリンは不思議な気持ちを抱いていた。パトリシアと並んで歩いていると、まるでコリンにとって絶対的な女性と一緒にいる気分がした。パトリシアの瞳はグレーではない…彼女の声はアルトではない…そう思いながらも、この気持ちを捨て去ることは出来なかった。どうして初対面の彼女と一緒にいようとしてしまったのか、コリンにもわからなかった。遅くまで開いている店がホールの近くにあり、2人はそこに入った。飲み物だけを注文し、コリンとパトリシアはカウンターに並んで座った。コリンはじっとパトリシアが話し出すのを待っていたが、彼女もどう話し出していいのかわからないのか、暫くは黙っていた。飲み物が運ばれ、パトリシアは一口それを飲んだ。そしておもむろに話し出した。
「お返事で書いてくださったことも、よくわかるんです。あなたは教師としての勉強はなさっていないから、教えることは出来ないと仰るのも、もっともだと思います。それでも教師でなく演奏家だからこそ教えられることもあると思うんです」
彼女は一息ついた。コリンは何も言わず、じっと彼女を見つめて話を聞いていた。
「大学や個人レッスンで、私は先生方から演奏の技術や曲の解釈、そのほか様々なことを学んでいます。でも…上手く言えないのですけど、ヴァイオリニストを育てる役目の教師たちが教えることとは全く違うことを、聴衆の前で弾くことを仕事としているヴァイオリニストからは学び取れるんではないかと思うのです。実際ステージで弾く人間にしか身につけられないことがあると思うのです」
パトリシアは指で髪を梳いた。細く長い指と短い爪。滑らかな白い肌をしたその手が亜麻色の髪に触れるのを、コリンは眺めていた。パトリシアは再び飲み物を手にし、こくりと飲むと、コリンのほうを向いた。
「もちろん、私が師事している先生方にも演奏家の方がいらっしゃいますが、あなたが演奏するのを見て、あなたみたいに弾きたいって思ったんです。技術的にもそうですが、それ以上に気持ちの面で。あんなにも音楽の喜びに溢れた演奏をする人は、どうやって弾くんだろうってずっと思っていました。どうやったらあなたみたいに聴衆に音楽を伝えられるんだろうって。こういうことは教えられるものでもないでしょうし、あなたの天賦の才能かもしれませんけど、でも一緒に弾くことが出来たら、もしかしたらヒントを掴むことが出来るかもしれないと思って」

コリンはパトリシアにそう思われていたことが嬉しかった。同じヴァイオリンを弾く人にも、技術や表現力だけでなく、僕が伝えようとしていることが伝わっているんだ。そしてわざわざそれを学ぼうとしているヴァイオリニストがいるんだ…コリンは自然と笑顔になった。
「ありがとう。そう言って貰えて嬉しいです」
パトリシアも微笑んだ。コリンは目の前にあるグラスを見つめた。彼女が学びたいと言っていることは、コリンの期待以上の答えだった。それでもそれをどう教えられるのだろうか。どう返事をすべきなのだろうか。コリンにはまだちゃんとレッスンをする自信はなく、また音大生やプロにレッスンするつもりはあまりなかった。それから考えるとやっぱり断るべきなのかもしれない。しかしコリンはそれに踏み切ることが出来なかった。亜麻色の髪のヴァイオリニスト…コリンを惹きつけてやまないあの女性の面影のあるパトリシアを前に、コリンの心は揺れていた。
「あなたが言うように、それは教えることが難しいと思います…どうレッスンしたらいいのか、自分でもわからないのです。そういうことは僕も習ったわけではないし。あなたがプロとなって、聴衆の前で弾くようになったら、もしかしたら自然と身についてしまうかもしれません」
ここで断っても失礼ではない。彼女だって納得するだろうし、それで僕のヴァイオリンが嫌いになったりするわけじゃない…コリンはそう確信していた。しかしレッスンを断る言葉はコリンの口から一向に出てこなかった。彼の理性は断ろうとしているのに、感情がそれを拒んでいた。コリンはパトリシアのほうを向いた。コリンを覗き込む淡いブルーの瞳が、一瞬菫色がかったグレーに見えた。
「…それでもよかったら、試してみてもいいのですけど…」
パトリシアの顔がぱっと明るくなった。それを見てコリンははっとした。今、自分は何を言ったのだろうか。嬉しそうなパトリシアを前に、コリンは呆然としていた。

コリンはパトリシアとレッスンについては後日連絡するということで合意し、別れた。コリンは地下鉄の中でまだぼんやりとしていた。どうしてああいう風に返事をしてしまったのだろう…あれでよかったのだろうか。ヴァイオリンケースについている天使の人形を彼は見つめた。あなたは何年経っても僕の心を放さないのですね…コリンはそう思った。
「私のせいにされても、困るわ」
あの人が困った顔をして言うのが、コリンには想像できた。そう、僕が自分で決めたことだ。教えるからにはベストを尽くさなくては。コリンは自分の手帳を開いた。明日は事務所に午後から行かなくてはならない。でもその前に時間がある…コリンはエーデルバッハのところへ行くことにした。翌日、コリンはエーデルバッハに連絡し、彼女の家へ向かった。彼は、とある音大生にレッスンすることになったことを伝え、アドバイスを求めた。
「それはまた、難しいことを教えることになりましたね…引き受けられるなんて、そんなに魅力的なお嬢さんだったんですか?」
エーデルバッハは微笑みながらそう言った。彼女は珍しく冗談で言ったのだろうが、コリンは苦笑せざるを得なかった。
「彼女がついている教師たちはわたくしもよく知っていますし、あなたと同じ音大ですから、何となくどういう演奏をなさるのか想像がつきます。あまりにも系統の違う演奏よりは、教えやすいかもしれないですね」
そう言うと彼女は、コリンに詳細にレッスンの際のアドバイスを与えた。エーデルバッハの前では、コリンはいつまでも自分がまるで何も知らない子供のように無力な気がした。ヴァイオリニストとしてそれなりの評価や名声を得るようになったって、自分は所詮こんなものなんだな、と思わずにはいられなかった。昔の自分がもしコンクールに優勝しソリストになったら、もっと自信過剰だったかもしれない。そう思うと、最初にあの小さなオーケストラに入り、あの女性に出会えたことが、偶然だったにしてもコリンにとってこの上ない幸運だったと彼は感じた。その他にもたくさんの出会いがあった。多くの人たちにコリンは支えられている。コリンはあの女性の声が聞こえた気がした。
「コリン、あなたは一人じゃないわ…周りを見て。仲間がいるわ…皆コリンが大好きよ」

エーデルバッハに礼を言い、彼女のところを辞すると、コリンは事務所に向かった。来シーズンに予定しているソロコンサートのツアーの為のピアニストを決めるため、ケイトと打ち合わせることになっていた。何人かの候補が既にあがっており、そのうちの1人と今日会うことにもなっていた。そのツアーはこれまで以上に大きなものとなるはずであり、イギリス国内だけでなく、世界各国に回る予定だった。海外での活動は今までオーケストラとの共演が主で、ソロコンサートも行ったが、今度のようなツアーを組んでまでの大掛かりなコンサートは初めてだった。国内ではかなり地位を固めてきたコリンだったが、海外ではこれがコリンにとってソリストとしての評価の重要なものとなるはずだった。事務所のケイトの部屋で、コリンは彼女と打ち合わせをしていた。国内外のオーケストラとの共演の合間に、そのソロコンサートのツアーが入る。10月はイギリス国内、11月から12月にアジアとオーストラリア、2月にヨーロッパ大陸、そして4月にアメリカ大陸、そしてシーズンエンドに再び国内…。来シーズンは今までになく忙しくなりそうだった。レパートリーも増やさなくてはならず、練習の時間もかなり必要となりそうだった。スケジュールを見ながら、コリンは自分にこれらがこなせるのだろうかと少し不安になった。そうだ、更にパトリシアにレッスンをしなくてはならないんだ…コリンはそれを思い出し、ケイトに伝えた。彼女は少し眉を顰めた。
「あなたが決めたならしょうがないけど、ソロ活動に支障が出ないようにしてね。来シーズンはあなたにとって重要なシーズンになるわよ」
コリンは頷いた。もっとしっかり自分をコントロールしなくっては…コリンはそう思った。何もかも他人のせいには出来ない、全部自分の責任なんだ。それがソリストとしてやっていくということなんだ…。
「国内のツアーのピアニストは数名に絞ってあるわ。今日はその1人を紹介するから」
ケイトは書類を手にすると、会議室へ向かって行った。コリンもそれに続いた。ケイトは会議室のドアを軽く叩くと、扉を開けた。
「ピアニストのミミよ」
コリンは目を見開いた。褐色の肌に黒い豊かな髪。そこに立っていたのは先日見かけた女性だった。

ミミと紹介されたその女性は妖艶な笑みを浮かべると、コリンに近づき、すっと手を出した。彼女の手はピアニストらしく、コリンと同じくらいの大きさがあった。ヒールのせいもあるが、元々背の高い彼女の目線は、コリンとあまり変わらなかった。彼女の甘い香りがコリンを包んだ。
「よろしく」
ミミにそう言われ、ぼんやりとしていたコリンははっと気が付いた。彼女の手を握ると、挨拶を返した。ケイトがミミとコリンに椅子を勧め、2人は席に着いた。ケイトが書類を見ながら、数々の質問をミミにしていった。ミミはハスキーな声でその質問に答えた。長い指でその豊かな黒髪をかきあげると、コリンに向かって微笑んだ。コリンは少し驚いたが、軽く笑うと書類に目を向けた。そこには彼女の簡単なプロフィールが書いてあった。「ミミ。チュニジア出身。幼い頃からパリに学び、数年前からロンドンに移る。今は主に伴奏ピアニストとして活動。ロマン派から近現代の曲を得意としている。」コリンは先日、ピアニストの候補を絞る為に聴いた彼女の演奏テープのことを思い出した。ヨーロッパの香り以外に何か不思議な感覚があったのは、彼女の出自のせいかもしれない。基本を踏まえながらも、他のピアニストよりかなり自由奔放な雰囲気のある演奏だった。彼女があの演奏のピアニストだったのか…コリンは再びミミを見た。大輪の薔薇のように華やかでエキゾチックな容姿。そのハスキーな声も魅力的なものだった。
「…それじゃあ、ちょっと弾いてもらおうかしら」
ケイトがそう言い、立ち上がった。彼女はピアノ譜とヴァイオリン譜を用意し、コリンとミミに促した。最終的にピアニストを決める為に、実際コリンと弾いてみることになっており、今度のツアーで弾く予定のある曲をピックアップし、前もってピアニストには楽譜が与えられていた。ミミはピアノの前に座ると、コリンの為にAのキーを叩いた。コリンは調弦し、ミミに準備が整ったことを合図した。

コリンは今まで色々なピアニストと共演してきたが、ミミのような演奏をするピアニストは初めてだった。コリンとミミの演奏スタイルは全く違ったもので、コリンは合わせ辛さを感じた。しかし同時に、今までと違った演奏が出来るような不思議な感覚もあった。コリンの端正なヴァイオリンと、ミミの奔放なピアノから生み出される音楽は、全く形にならないほどだったが、時折はっとするようなものがあった。ケイトの指示する部分をいくつか弾いて、30分ほど経った。書類にメモを書き込んでいたケイトが、眼鏡を直して言った。
「ありがとう、このくらいでいいわ」
ミミはコリンとケイトと握手をし、軽く微笑むと颯爽と会議室から出て行った。自分が選ばれるかどうか重要な時だというのに、彼女は全く媚びることなく、素っ気無いくらいの別れ方だった。コリンは彼女の甘い残り香に包まれていた。砂漠を吹く熱い風が一瞬吹き去ったかのような不思議な気分だった。
「どうだった?」
ケイトが書類をまとめながらコリンに聞いた。
「聴いての通りだよ。全然合わないタイプの演奏みたいだ。でも…」
コリンは右手を口元に当てた。ケイトはコリンが何を言おうとしているのか、好奇の目で彼を見つめた。
「上手く言えないけど、ちょっと不思議な感覚がしたな…たまに、今まで弾いたことのない音が出た気がして」
ケイトは少し考えるような顔をしてから、コリンに向かって微笑んだ。
「とにかくお疲れ様。まだあと3人ほどと会ってもらうわ。明日からまた3日間、オーケストラとの共演だから、今日はこれでおしまいにしてゆっくり休んでちょうだい」
2人は会議室を出た。ケイトは鍵をかけると手帳を開いた。
「じゃあ、明日は6時に迎えに行くから」
「わかった。ありがとう」
ケイトは書類の束を抱えるようにして、自分の部屋に戻って行った。コリンは軽く息をつくと、事務所から出て行った。

事務所の建物を出た瞬間、コリンは声をかけられた。振り向くと、ミミが玄関脇で煙草を吸っていた。彼女はコリンに煙草の箱を差し出したが、コリンは首を横に振った。
「吸わないの?」
「いや、吸うけど、楽器のあるところでは吸わないんだ」
コリンは自分の肩にかかっているヴァイオリンケースを指した。ミミは軽く笑うと、煙草を鞄にしまった。
「この建物の中、全面禁煙なんだもの。気が狂うかと思ったわ」
そう言うと、ミミは再び煙草をくわえた。コリンはワインレッドの口紅が塗られたミミの唇を見つめていた。その唇が煙草をくわえ、そして煙を吐き出す動きに、コリンの瞳は惹きつけられていた。
「…あなたは覚えていないでしょうけど」
ミミは突然話し始めた。コリンははっとして彼女の漆黒の瞳を見た。
「10年以上前になるけど、私はあなたと同じコンクールに出たわよ。入賞したあなたと違って、私は予選どまりだけどね。まだ音大に入る前だったわ」
「そうなんだ…ごめん、他の楽器の演奏は全然聴いていなかったから、覚えてないよ」
コリンが済まなそうに言うのを聞いて、ミミは声をたてて笑った。
「そりゃそうでしょう。私だって他の楽器の人は誰も覚えちゃいないわ。ただ最近、あなたの経歴を見て、同じコンクールに出たんだって知ったのよ」
ミミは意味ありげな視線をコリンに向けた。ぞくっとするほど艶めかしい瞳に、思わずコリンは視線を逸らした。
「でも、何年か前のコンクールは覚えているわ。ちょうど私もロンドンに来た頃だったし、メディアが大々的に取り上げてたから」
ミミは煙草を地面に捨て、ヒールの高い靴の先で火を消した。そしてコリンに鼻が触れるほど近づいた。
「才能あるいい男は大好きなのよ」
彼女は妖艶に微笑むと、コリンに背を向け、歩き去った。コリンは暫くぼんやりと彼女の後姿を見つめていた。


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