第四章 Chaconne −シャコンヌ−

第四節

コリンはエーデルバッハの家でコーヒーとケーキを味わっていた。ここでは時がゆっくりと流れているように感じられた。こんなに落ち着いていられるのは、何週間ぶりだろう…コンクールから帰国し、空港に着いた途端に取材陣に取り囲まれ、家の電話は鳴りっぱなしで大騒動だった。その後も記念演奏会やらテレビ出演やら、本人の意思とは別にスケジュールが組まれ、コンクールの疲れを取る間もなく1ヶ月近くが経とうとしていた。ここに来てようやく異常なまでの盛り上がりは少し収まり、コリンも自分の時間を持つことが出来たのだった。オーケストラでの仲間たちや知人・友人からの祝福の手紙もやっと読むことが出来た。アンナ以外にはコンクールのことを知らせていなかったため、皆驚いたようであった。コリンがコンクールに出たことを知った時、どんな顔をしたのだろうかとコリンは想像し、可笑しくなって微笑んだ。大きな新聞や雑誌でも彼の優勝が取り上げられたため、普段クラシック音楽を聴かないような人たちまでコリンのことを知り、とりわけ女性たちはコリンの優れた容姿に惹かれ、道を歩いていても声をかけられたりサインを求められたりするようになった。エーデルバッハの家に報告に来る途中も人々に呼び止められ、余裕を持って家を出たにもかかわらず、予定の時間ぎりぎりに着いたのだった。

「まったく、大変な1ヶ月でしたわね。わたくしの所にも、沢山の記者が取材に来ましたよ。無理もありませんけど」
「本当ですね」
コリンは苦笑した。三大コンクールの1つとはいえ、まさかここまで話題になることとは思っていなかった。しかも「最年長優勝」という余計な見出しも多く見られ、コリンにはどう反応してよいのやらわからなかった。
「それにしても、放送を見ているこちらがはらはらしてしまいましたよ。コンクールであれ程までにこにこ笑いながら弾いている人を見たことはありません」
コリンは思わず噴出し、慌てて手で口元を押さえた。
「すみません」
エーデルバッハはコーヒーを一口飲むと、微笑んだ。
「いい演奏だったと思います。ヴァイオリンだけ考えるとあなたより上の人がいたかもしれませんが、オーケストラとのアンサンブル能力はずば抜けていました。コンサートマスターとしての活動のお陰ですね。伴奏していたオーケストラもあなたの演奏につられて、コンクールの伴奏だということをすっかり忘れ、非常に気持ちよく楽しんで弾いているのが感じられました。他の人の伴奏をしている時とは音が違いました。ソロパートだけでなく、協奏曲としての全体の出来が、あなたの演奏が一番よかったのです。もし本選が協奏曲でなくソロ曲だったら、また違う結果になっていたかもしれません。それでもあなたの音楽に対する姿勢は素晴らしいものですから、それなりに評価はされるはずです」
コリンはエーデルバッハの話を神妙に聞いていた。確かに彼女の言う通りだと思った。既にソリストとして活躍している人もいたし、驚くほど上手な少年少女もいた。今のコリンでは恐らくまだ弾けないであろう曲を弾いた人もいた。コンクールの順位は絶対的なものではないのだ。もちろんコリンの音楽家としての能力が評価されたわけだが、実力だけでなく運やその他の様々な要素があったのだとコリンは思った。

「以前わたくしはあなたに言いましたね。コンクールは1つの通過点であって、目標ではありません。今のあなたにこんなことを言うのは杞憂だと思いますが、この結果に満足するだけでなく、更に上を目指して、益々素晴らしいヴァイオリニストになって欲しいと思います」
「わかりました」
コリンは力強く頷いた。この優勝をきっかけにソロ活動をすることになる。この1ヶ月の騒動のようなことがこれから起こったとしても、自分の音楽を見失うことだけはしないようにしよう。そして音楽を楽しむことはどんなことがあっても忘れないようにしよう。コリンはそう心に誓った。それからコリンはエーデルバッハにソロ活動についての具体的なアドバイスを貰った。コンクール後、数え切れないほどの音楽事務所から専属アーティストとしての申し込みが来たのだが、どの事務所がいいのか、どのような契約を結べばいいのかなども聞いた。もし録音をするようなことがあれば、またその会社とも契約を結ばなければならない。今までオーケストラでしかこのようなプロとしての活動をしたことがなかったコリンには、全てが新しいことだった。帰り際にコリンはエーデルバッハに言った。
「これからもたまにレッスンをしていただきたいのですが…」
エーデルバッハは少し驚いたようだったが、軽く頷いた。
「もちろん、あなたがいらっしゃってくださるなら、これ程嬉しいことはありませんからね。ソロになられてからそんなに時間があるとも思いませんけど、また何かあったらぜひいらっしゃい」
コリンはエーデルバッハの差し出した手を軽く握ると、彼女から譲られたストラディヴァリウスの入ったヴァイオリンケースを肩に担ぎ、エーデルバッハの家をあとにした。

コリンはエーデルバッハの薦めた音楽事務所と連絡を取り、具体的な契約に関する話を始めた。出来るだけイギリス国内の活動を多くしたいこと、コンサートで弾くことをメインとしたいのでとりあえずは録音の仕事を請けないこと、忙しすぎる日程では彼の音楽を作ることが出来ないため余裕のある日程を組んで貰いたいことなど、コリンは彼の希望を伝えた。間もなく彼を担当するマネージャーも決まり、コリンは彼女に会うために音楽事務所へ出かけた。
「ケイト・ハーディです、ファースさん。コリンとお呼びしてもいいかしら?」
ショートカットで眼鏡をかけた、いかにも有能で知的そうなハンサムな女性がコリンを待っていた。コリンより少し年上に見えた。
「もちろんです、ケイト」
2人は事務所のソファーに座った。ケイトは机の上に積まれた書類を手にし、眼鏡をかけ直した。
「あなたの希望は伺いましたが…あまり野心のない人なのかしらね?海外の活動や録音は有名になるには必須ですし、出来るだけ多くのコンサートに出たほうがソリストとしてはいいと思いますけど。もちろん、収入も多くなりますし」
「とんでもない、僕はものすごい野心家ですよ」
コリンはにっこりと微笑んだ。あまりに無邪気な笑顔にケイトは少し面食らったようであった。
「海外での活動や録音することなしに、強豪ひしめくこの世界に打って出ようというんですから」
コリンは机に置かれた紅茶のカップを手に取り、一口飲んだ。その流れるような動作をケイトは何も言わず見つめていた。
「でも、とりあえずの話です。連絡差し上げた通り、海外での活動は全くしないというわけではありませんし、録音もそのうちしたいと思うかもしれません。何か希望があったら必ずあなたに伝えますから」
「わかりました。もちろん事務所としてもあなたの希望を優先するつもりですから、ご安心ください」
ケイトの言葉に、コリンは頷いた。

それから2人は具体的な話を始めた。契約内容の書かれた書類の内容について細かく説明を受け、サインを必要とするものにサインをしていった。最後にコリンは9月からのシーズンにおける彼のこれからの活動予定を受け取った。ソロコンサートもあり、オーケストラとの共演もあり、コリンはソロ活動を始めるということを、改めて認識した。この音楽事務所は権威ある所だったため、世界の一流オーケストラとの共演も含まれており、コリンは心地よい緊張感を覚えた。
「最初のコンサートは少し遅めで、9月25日になります」
ケイトはコリンに活動予定の説明を始めた。コリンはスケジュールを眺めているうちに、ある希望を持つようになった。
「ケイト、1つお願いがあるのですけど。9月の前半に1つコンサートを開きたいんです」
ケイトは驚いて、コリンを見つめた。
「不可能ではないですけど、まずオーケストラとの共演は難しいと思いますよ。既にシーズンのプログラムは組まれていますから。定演ではなく、特別コンサートという形にするしかないですね」
「ソロでいいんです。どうしても最初に弾きたい所があって」
「ホールが空いていれば出来ますが…」
戸惑い気味のケイトに、コリンは更に頼んだ。
「一度連絡を取って欲しいんです。連絡先を書きますから」
コリンはメモ帳に電話番号と住所を書いた。何度も電話し、自分が赴いた所。ケイトはコリンに渡されたメモ帳を暫く見つめていたが、メモ帳から視線を外し眼鏡を取ると、コリンに向かって微笑んだ。
「わかりました、何とかしてみましょう」

コリンは泊まっている部屋の窓を開け放った。朝の爽やかな空気がコリンの髪をくすぐった。遠くに見える丘陵地帯、石畳の狭い道と古い街並。この街は何も変わっていなかった。コリンは身支度を調えると、ケイトに伝言を書き彼女の泊まっている部屋のドアに貼り、ヴァイオリンケースを背負って部屋を出て行った。まだ朝早く、人通りは少ない。コリンは通りがかりの花屋で花束を買うと、街外れに向かって歩いて行った。朝靄の煙る中、コリンは古く小さな教会の敷地に入って行き、ある墓石の前で立ち止まった。常に音楽と共に…そう書かれた墓石。その前には色とりどりの花が飾られていた。コリンは跪くと自分の持ってきた花束をそっと供えた。
「僕は帰ってきました、ヴィオレッタ…」
コリンはその指先で軽く墓石に触れた。冷たい感触が彼の繊細な指先に伝わった。もう涙は出なかった。しかし何とも言えない哀しさが込み上げてきた。僕はまだ彼女を誰よりも愛している。彼女が亡くなってから丁度2年。彼女を失った苦しみからはかなり立ち直ったが、それでもまだ彼の心を捉えて放さないのは彼女だけだということを、コリンは再び思い知らされた。亜麻色の髪、菫色がかったグレーの瞳。あの薔薇色をした頬に触れられるだけでもいい、彼女が今ここにいてくれるなら…コリンはそう思わずにはいられなかった。コリンは常に彼女の存在を感じていた。コンクールの時も見守っていてくれていたことを感じていた。それでももう彼は彼女に触れることすら出来ないのだった。
「ヴィオレッタ…」
コリンは彼女の名を呼ぶことしか出来なかった。

暫くしてコリンは背後に人の気配を感じた。跪いたまま振り返ることもせず、コリンは話しかけた。
「僕が一番だと思ったのに、もうこんなに花があったんだよ、アンナ」
コリンは小さな手が彼の髪に軽く触れたのを感じた。コリンは立ち上がると振り向いた。
「この街にお帰り、コリン。そして誕生日おめでとう」
2年前、同じような朝靄の中別れた時と変わらぬアンナの姿がそこにあった。コリンはアンナを強く抱きしめた。アンナの温かさがコリンに伝わってきた。いつもアンナにはコリンを癒す力がある気がしてならなかった。コリンがこの街を去ってから3年、その間に様々なことが起こったが、アンナを抱きしめていると何もなかったかのような気がした。自分はまだこの小さな街のオーケストラにいて、弾いているのではないだろうか…コリンはそんな錯覚を覚えた。
「また痩せたんじゃないの?ちゃんと食べてる?」
アンナはコリンの頬を両手で包んだ。コリンは彼女の手に自分の手を重ねた。
「うん、食べてる。でもずっと忙しかったから」
「知ってる。寝る暇がないんじゃないかって、心配してたんだ」
アンナは少し哀しそうな笑みを浮かべた。
「随分と雑誌やテレビに出てたもんね。全部取ってあるんだよ。こうしていると昔のコリンと何も変わらないのに、記事の中のコリンはずっと遠い人のような気がしてたんだ」
コリンはアンナが哀しそうに笑うのが嫌だった。彼女にはいつも、彼女らしく朗らかに笑っていて欲しかった。
「僕は何も変わらないし、これから変わるつもりもないよ。ずっとアンナや皆の仲間だ」
コリンはもう一度アンナを抱きしめると、赤茶色をした髪に軽く口づけした。

コリンとアンナは、かつてよく一緒に食事をしたレストランで朝食を取っていた。コリンに気が付いた人々が驚いて近づいて来ては、コンクール優勝の祝福の言葉をかけて行った。
「コリンのコンサートのポスターね」
アンナが笑いながら言った。
「どんなに貼ってもすぐなくなっちゃうんだよ。オーケストラ時代からのファンもいるだろうけど、どうも女の人たちの話題の的になってるらしくって」
「何だか恥ずかしいんだよ、ああやって1人でポスターに写ってるのって」
コリンは照れ笑いを浮かべた。ソロコンサートだから仕方ないものの、本当はあまり自分が大きく写っているものは作りたくなかったのだった。
「街の人たちは皆、コリンの優勝を喜んでたよ。オーケストラの仲間と、いつものパブで放送を見てたんだ。まるでラグビーの試合でも見るように、店にいるお客さん皆がコリンの応援をしてたんだよ。皆にとってコリンはこの街の人だからね」
コリンは街の人たちが未だに自分のことをそう思っていてくれていることが嬉しかった。ソロコンサートにしては珍しく、大ホールでのコンサートとなったのだが、それでもチケットは完売していた。
「アンナも今晩来る?」
「もちろん」
アンナは突然真面目な顔になった。
「そうだよ、今日本番なのに、こんなところにいていいわけ?」
「大丈夫、マネージャーには置手紙してきたし」
コリンは少年のように無邪気に微笑んだ。
「自分の記念すべき30歳の誕生日くらい、好きに過ごしたって文句は言われないよ」
「演奏会の後、皆と一緒にお祝いできる?一応計画してるんだけど」
「本当に?もちろんだよ」
アンナはにっこりと微笑んだ。
「新しい人も入ってきたし、もうコリンも一番若手じゃあないね」

コリンは使い慣れたホールの舞台袖にいた。燕尾服の袖口を整えると、目を閉じて軽く深呼吸をした。客席の空気がここにも伝わってきた。以前この街のオーケストラでコンサートマスターとして弾いていた人物が、三大コンクールで優勝しソリストとして戻ってきた。彼の成長した姿をぜひ見届けよう…そういった雰囲気がホールに溢れていた。思えばプロのコンサートマスターとして初めて弾いたのも、このホールで9月10日だった。ずっと昔だったような、つい最近だったような、不思議な気持ちがした。ステージマネージャーが促すと、コリンは頷き、ピアニストと共に舞台へ歩いて行った。割れんばかりの拍手。コリンは自分を育ててくれたこの街の人たちに深々と頭を下げた。彼はどうしてもソリストとしての最初の舞台をこの街で踏みたかったのだった。この街でプロとなり、音楽の楽しさを改めて認識し、オーケストラの魅力を知り、そして誰よりも尊敬し愛する人と出会った。コリンにとって今の自分の原点がこの街だった。この日のプログラムは前半にピアノ伴奏付きのソナタや小品、後半はバッハの無伴奏ソナタとパルティータだった。コリンは流麗な動作でヴァイオリンを構えると、ピアニストに合図を出した。コリンの芸術的なまでの弓使いが、ストラディヴァリウスの持つ芳醇な音色を紡ぎだす。コリンは過度に技巧を強調することなく、端正で作曲家の意図に沿った演奏を心がけた。ソリストとしては地味だと言われるかもしれない。それでも彼は大学生の頃弾いていたような華美な演奏をするつもりはもうなかった。僕に伝える力があれば、どんな演奏をしても音楽の素晴らしさは伝えることが出来る…コリンはそう確信していた。客席からは静かに、しかし温かく彼を見守りながら聴いている雰囲気が感じられた。会場はコリンのヴァイオリンの音色に包まれていた。

最後の曲はバッハの無伴奏パルティータ第2番だった。もう数え切れない程弾いた曲。まだこの曲を完成できたとはコリンには思えなかったが、それでも今日は今の自分が可能な最高の演奏が出来る気がしていた。ピアノ伴奏はなく、コリンのヴァイオリンだけがホールに響き渡る。コリンは瞳を閉じ、音楽と、作曲家と、そして楽器と対話しつつ、このヴァイオリンの為に書かれた最高の曲の1つを弾いていった。そして終曲シャコンヌ。10分を越える長丁場だが、コリンは疲れるどころか益々気持ちが充実していくのを感じていた。この会場にいる全ての人に音楽が届きますように。そして天国にいるあの人にも…コリンは気持ちを込めて弾ききった。最後の音がホールの静寂に吸い込まれても、コリンも聴衆も身動き1つしなかった。コリンがそっと弓を下ろすと、客席から盛大な拍手が起こった。ブラヴォーと讃える声も聞こえた。コリンは聴衆に向かい、感謝の気持ちを込めて礼をした。この街でコンサートマスターとして弾いていた時から見守ってくれていた人たち、アンナ、そしてオーケストラのかつての仲間たち。コリンは一人一人にありがとうと言いたかった。彼はもう一度、最高の笑顔で客席に向かい深々と頭を下げた。再び頭を上げた時、一瞬客席に亜麻色の髪を見た気がした。
「ありがとうございます、ヴィオレッタ」
コリンは呟いた。拍手はまだ鳴り止まなかった。


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