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コンクールの日が近づき、コリンは開催地へ旅立った。空港へ来る前にエーデルバッハの家に寄って、最後のアドバイスを貰ってきた。それは意外な、しかしコリンには馴染みある言葉だった。
「楽しんで弾いていらっしゃい」
コリンは窓から見える雲をぼんやり眺めていた。世界でも最高レベルのコンクール。優勝できるとは思わなかった。しかし自分の出来ることは全て発揮できるようにしよう…コリンはそう心に決めていた。作曲家が楽譜に残した音楽の素晴らしさと楽しさを、僕を通して聴衆にどれだけ伝えることが出来るか。以前オーケストラで弾いていた時に感じていたような、客席と演奏者側が多くを共有する時間と空間を作ることが出来るか。順位のために弾くのではなく、純粋に音楽のために弾こう…コリンは瞼を閉じ、これから弾く音楽をイメージした。ヨーロッパ内の路線は飛行時間が短く、思ったより早く目的地に着いた。スーツケースを受け取り、街へ向かう通路を歩いていると、コリンの目の前にヴァイオリンを手にしスーツケースを重そうに引きずる女性がいた。階段に差し掛かったのでコリンは彼女に声をかけた。
「お手伝いしましょうか?」
その女性は振り向いた。コリンより少し年下くらいの、赤い髪をした美人だった。彼女は言葉がわからなかったのか、驚いたのか、目を見開いてコリンを見つめていた。
「お手伝いしましょうか?スーツケースを持ちましょうか?」
念のためコリンは、以前習ったドイツ語で話しかけてみた。すると彼女はほっとした顔をして、コリンに微笑んだ。
「よかった、あなたドイツ語が話せるのね。私、英語はからっきしで」
彼女はコリンが同じくヴァイオリンを持っていることに気が付き、首を横に力強く振った。
「あなたもヴァイオリンがあるじゃない。大丈夫、何とかするわ」
「じゃあ、僕のを持って。僕のスーツケースのほうが軽そうだ」
2人はスーツケースを交換すると、階段を上った。上りきると2人は笑顔を見せあった。
「ありがとう。あなたもコンクールを受けるのね。じゃあ会場で会えるかもね」
「そうだね」
「幸運を祈ってるわ」
彼女はコリンに手を振ると、タクシー乗り場に向かって行った。
コンクールが始まった。予選を受ける人数はかなりの数に上り、またヴァイオリンだけではないため、会場となるホールは人で溢れていた。またこの街はこの会期中コンクール一色となり、街の人々は多くの演奏を聴きに行き、有名無名を問わず贔屓にする演奏家を見つけたりしていた。コリンはその演奏でももちろん、その人目を惹く外見からすぐに街の人々に覚えられ、外に出るたびに声をかけられた。最終予選の前に、コリンは空港で会ったヴァイオリニストに再会した。
「お互いここまでは何とかなっているみたいね」
彼女はにっこりと微笑んだ。大輪の花が開くような明るい笑顔だった。
「まだ名前を知らなかったわ。私はカタリン。今はドレスデンにいるけど、ハンガリーから来たの」
「よろしく、僕はコリン。イギリスからだよ」
2人は握手をした。ハンガリー…コリンは先年東欧諸国を揺るがした政治的変動を思い出さずにはいられなかった。彼女の母国もまだ落ち着かないのだろう。同じヨーロッパとはいえ、少し離れた、しかも大陸ではない国にいるコリンには、想像もつかないことだった。
「英語圏の人なのに、ドイツ語も出来るのね」
「ウィーンとミュンヘンに留学したことがあるんだ」
「どおりで、少し南訛りだわ」
彼女は朗らかに笑った。カタリンの屈託のなさは、コリンにアンナを思い出させた。コンクールだという緊張感はあまりなく、むしろそれを楽しんでいるかのようだった。赤く長い髪を無造作に上で留め、コリンの目の辺りまである長身を黒いシンプルなドレスで包んだ姿は、さぞかし舞台映えすることだろう。
「今日は出番?」
「そうよ。あらやだ、30分後に始まるわ」
「余裕だね」
「そうでもないわよ。でも慌ててもしょうがないし」
「僕も聴きに行くつもりなんだ」
「そっちこそ余裕ね。ライバルたちの演奏を聴くなんて」
「これだけ多くのヴァイオリニストの演奏を聴けるなんて、滅多にないチャンスだと思って。勉強になるし」
カタリンは軽い上目遣いでコリンを見ると、くすっと笑った。
「それじゃ、あとで感想でも聞かせてもらいましょうか。優等生さん」
さすがに最終予選まで残るヴァイオリニストたちの演奏はそれぞれ素晴らしかった。コリンは優劣を考えるのではなく、素直に個々の個性や技術力・表現力に感心しつつ聴いていた。コリンより10以上年下の少年少女や、既にソリストとしてステージや録音で活躍しているヴァイオリニストもいた。そしてこの日の最後がカタリンの出番だった。彼女の演奏も素晴らしかった。柔らかくしなる右腕のボウイングは天賦のものであろう。細い体からは想像もつかない程、深く豊かな、そして少し哀愁を帯びた音色が生み出されていた。ハンガリーが弦の国だということをコリンは思い知らされた。数々の名音楽家たちを生み出した国。ヨーロッパでありながらアジア系騎馬民族であるマジャール(ハンガリー)人の文化、イスラムや神聖ローマ帝国の支配下にあった歴史を持つアジアとヨーロッパの接点である、かの国の不思議な雰囲気が会場中に漂っていた。そしてツィゴイナーと言われる流浪の民族の哀しい歴史、見渡す限り広がる大平原やゆったりと流れるドナウ河などの自然が彼女の演奏の背景になっていた。コリンはエーデルバッハが言った「血で弾く」ということを目の当たりにしていることに気が付いた。僕はどういう演奏が出来るだろうか。コリンは考えた。「血で弾く」ことが出来なくとも、僕だけの演奏がきっと出来るはずだ。誰の真似でもなく、作曲家と、そして楽譜と僕との間で作り出される音楽があるはずだ。コリンの気持ちは、波1つたたない湖面のように静まっていった。この日の演奏が全て終わり、コリンは会場でカタリンと話していた。彼女は演奏が終わってほっとしたせいもあり、冗談を言っては笑っていた。
「ミスを期待するような刺々しい視線を感じたんだけど、あれはあなたかしらね?」
「そんなことしてないよ。すごくいい演奏だったよ」
「まあね、今日はとても気持ちよく弾けたわ」
カタリンは髪留めを外した。赤い髪がさらりと落ち、彼女は指でその髪を軽く梳いた。彼女の指はまさにヴァイオリニストのもので、少し変形していた。コリンはその指を見つめていた。白く細く長い指。それは亜麻色の髪をしたヴァイオリニストを思い出させた。
「あなたの出番は?」
「あさって」
「私もあなたの演奏を聴くわ」
カタリンがにっこり笑い、コリンも微笑んだ。
この頃までにコリンはかなりのヴァイオリニストたちと親しくなっていた。もちろん中にはライバルたちとの接触を避ける人もいたが、同じ道を進むものとしてアドバイスを求めたり、一緒に即興演奏やアンサンブルを楽しんで空き時間を過ごしたり、予選が進み人数が減るにつれ親しさは増して行った。その中でコリンは年長者だった。プロになってから今まで2つのオーケストラで弾いたが、そこではコリンは一番年下の世代だった。自分が年長者として、かなり年下のヴァイオリニストから相談を受けたりすることは、コリンには新鮮な体験だった。一番歳の近いカタリンとはよく一緒に行動した。よく話しよく笑うカタリンといることは楽しく、コンクールであるということをしばしば忘れるほどだった。コリンの最終予選での演奏が終り、2人は話しながら会場から近くの公園に歩いて行った。
「コリン、あなたステージ慣れしてるわね。私とあまり歳が変わらないのに、キャリアが違うって感じたわ。もちろん技術も表現も素晴らしかったけど、それ以上に客席に伝わるものに歴然とした差がある気がする」
「そうだね、一応もうプロだから。カタリンはプロとしての活動はまだしてないのかい?」
「正式にはまだね。このコンクールが終わったら、ソリストとして活動するつもりよ。だからこのコンクールは私には重要なの。年齢から言っても最後のチャンスだし」
カタリンの茶色い瞳は力強く輝いていた。その横顔をコリンは見つめていた。彼女が眩しく見えるのは、目標に向かって努力する人間が美しいからか、それとも…。その時1人の婦人が2人に近づいてきた。
「お2人とも、コンクールに出ていらっしゃいますよね。演奏を聴きましたよ。素晴らしかったです。大変でしょうが、幸運を祈ってますよ」
彼女は拙い英語で話しかけてきた。コリンはにっこりと微笑むと、ありがとう、と答えた。それからカタリンに今言われたことを通訳した。
「この街の人たちは、親切だね。自然と音楽を楽しんでるし」
「本当ね。こういう街で弾くことは幸せだわ」
カタリンは木陰に行くと、ヴァイオリンケースを開いた。驚いているコリンにウィンクすると、カタリンはヴァイオリンを構えた。
「こういう所で弾くのも好きなのよ」
彼女は弾きだした。モンティのチャールダーシュ。ハンガリーの民族音楽であるチャールダーシュを、カタリンはまさにその血を感じさせる演奏で弾いていた。コリンもこの曲を弾いたことはあるが、これ程自然に弾けるかどうか。気が付くと周りに人垣が出来ていた。カタリンは笑顔で人垣に沿って歩きながら弾いた。聴衆も楽しそうに、人によっては手拍子を叩きながら聴いていた。演奏が終わると、人々は皆カタリンに温かい拍手を送った。嬉しそうに礼を言うカタリンを見ながら、コリンは音楽の楽しさや演奏することの喜びを改めて感じていた。
最終予選の発表があり、コリンもカタリンも通過した。本選出場者は十数名であった。演奏者の人数は減ったが、演奏を聴きに会場を訪れる街の人の熱気は増して行った。コリンは自分の部屋でヴァイオリンを練習していた。ここまで来られるとは実際あまり期待していなかった。このレベルのコンクールで本選出場できたということは、それだけで名誉あることであり、ソロ活動の弾みには充分だった。不思議なことに、予選が進むにつれコリンの気持ちには順位やライバルとの競争という考えはなくなっていった。街の人々が心から楽しんで音楽を聴いている。そういう聴衆の前で演奏できることが嬉しくて仕方なかった。初めて入ったオーケストラで、あの小さな街の人たちと共有した気持ちを、母国から離れたここでも持つことが出来る。言葉も違うこの国で様々な国の作曲家の曲を演奏しているのに、音楽は国籍も国境もなく、誰もがその素晴らしさを感じられ、またコリンもそれをヴァイオリンを通じて伝えることが出来るのだった。以前エーデルバッハが「音楽家にしか出来ない喜びもある」と言ったことをコリンは思い出していた。そして誰よりも愛した人が何度も口にした「音楽を楽しみ、弾く喜びを感じること」も。コリンはまだ音楽家としての道を歩み始めたばかりだった。それでもこの道を選んだこと、そしてこれからこの長い道を進んでいくことに誇りを持っていた。エーデルバッハから譲られた名器ストラディヴァリウスは、コリンの体に馴染み、彼の思い描く音楽を豊かに表現してくれた。これから何年、いや何十年とこの楽器と共に演奏していくのだろう。どのくらいソリストとして演奏するかはわからないが、このコンクールがその第一歩となるのであった。コリンはヴァイオリンを見つめた。
「君と僕と、出来るだけのことはしよう。後悔しないように。僕たちの音楽を奏でよう」
そう言うとコリンは、ヴァイオリンに軽く口づけした。
本選に入り、コンクールでの演奏は益々そのレベルを上げていた。本選では普通の演奏会程度の長さを弾ききらねばならず、課題曲は2曲の協奏曲であった。最終予選と同じく、コリンより先にカタリンの出番が来た。本番当日のカタリンはいつになくピリピリとした雰囲気があり、コリンは声をかけることが出来なかった。彼女は実力はあるがそれでもまだプロとしては活動しておらず、以前彼女が言ったように、このコンクールにかける意気込みがもの凄かった。気持ちに余裕がなくなってしまったのかもしれない。彼女の演奏は大きなミスは1つもなかったものの、いつものような伸びやかで歌うような音色や、明るく楽しい雰囲気に満ち溢れた演奏はあまり出来ていなかった。カタリンの本来の力のほんの半分くらいしか発揮できなかったようにコリンには思えた。その日の演奏が終り、コリンは会場を後にした。ホールの裏にある小さな公園のベンチに、カタリンが座りぼんやりと噴水を眺めているのをコリンは見つけた。コリンが近づいていくと、カタリンは彼に気が付き、力なく微笑んだ。
「こんな大事な日に、あんな演奏をしてしまうなんて、馬鹿よね」
コリンは何も言うことが出来なかった。慰めの言葉なんてかけることは出来なかった。同じコンクールを受ける者として、そして同じ音楽家として、それは助けにも救いにもならないことはコリンにもよくわかっていた。コリンはカタリンの隣に座った。
「失敗ばかりが頭に思い浮かぶの。ああすればよかった、こうすればよかったって。思い切って弾いて失敗したなら後悔しないけど、そうじゃなかったから…」
カタリンの大きな瞳から涙がこぼれた。彼女はそれを拭うこともせずに、ただ静かに噴水を見つめながら泣いていた。コリンはカタリンの柔らかい頬をつたう涙を、その細い指で軽く拭った。カタリンはコリンのほうを向いた。
「コリン…」
カタリンはコリンの胸に崩れ落ちた。彼女の悔しさがコリンにも伝わってきた。泣きじゃくるカタリンをコリンはそっと抱きしめた。
数日後、コリンの出番がやって来た。控え室でコリンは燕尾服に着替え、身なりを整えていた。緊張はしているが、過度ではなく、心地いい程だった。コンクールも普段の演奏会も同じだ。僕の演奏をするだけだ。そして聴衆にその音楽が伝わればいい…コリンはそう思っていた。ヴァイオリンを出すためケースを開けようとした時、取っ手についている2つの天使の人形が目に入った。
「見守っていてください…」
コリンは呟いた。ドアをノックする音が聞こえ、コリンはヴァイオリンを手にステージに向かった。客席の熱気が伝わってくる。どんな演奏を聴くことが出来るのかという期待に満ちたざわめき。オーケストラで弾いていた時も、オペラ座で弾いていた時も、それは変わりなかった。
「さあ、出番よ」
愛しい人がそう言い、コリンの肩を軽く叩いた気がした。コリンは目を閉じると軽く息を吸った。再び目を開けた時、コリンの瞳には威厳ある光が宿っていた。ステージマネージャーがドアを開けると、コリンはいつもと同じく少し早足でステージに出て行った。コンクール期間中に、女性を中心にコリンのファンがかなり増えていた。コリンがその整った長身を現すと、客席から大きな拍手が沸いた。コリンは客席に向かい心を込めて礼をし、指揮者、続いてコンサートマスターと握手をした。協奏曲…コンサートマスターとしてもコリンは何度もヴァイオリン協奏曲を弾いた。かつて自分も弾いていたオーケストラというものと一緒に弾くことが出来ることは、コリンにとって嬉しいことだった。コリンは指揮者に笑顔で準備が整ったことを伝えた。
オーケストラによる導入が弾かれると、コリンの頭には音楽のことしかなくなった。客席に点数をつける審査員がいることも忘れた。コリンのストラディヴァリウスはこの日も見事に鳴っていた。無限の可能性を秘めたこの楽器から、コリンは自分の目指す音色を出すことが出来た。ソロの超絶技巧、オーケストラとのかけあい…コリンはヴァイオリンを弾くということが楽しくて仕方がなかった。伴奏をしているオーケストラとは少し合わせただけだったが、昔から一緒に演奏してきたかのような錯覚を覚える程、息の合ったアンサンブルが出来ていた。オーケストラでの経験が、コリンの協奏曲を弾く上での利点となっていた。彼はオーケストラというものを外側からだけでなく、内側からもよく知っていた。客席からはコリンの奏でる音楽を楽しみながら聴いている雰囲気が伝わってきた。ホールの広い空間に音楽の喜びが満ち溢れていた。1曲目を弾き終わり、ほんの短い休憩の後、2曲目に入った。夢中になって弾いているうち、あっという間に演奏が終わってしまったようにコリンには感じられた。最後の音の余韻が消えると、ホールは拍手の嵐に包まれた。ブラヴォーとの声が、あちこちからかけられた。何人かの聴衆が立ち上がり拍手をすると、周りの人々も立ち上がり始めた。満場のスタンディング・オヴェイション…温かい拍手に包まれ、コリンは最高に幸せだった。客席に深々と礼をすると、指揮者やコンサートマスターと再び握手をした。ステージから退いても拍手は鳴り止まず、コリンは何度もカーテンコールに応えた。
控え室に戻り着替えて暫く休んでから、コリンは会場を後にした。何人かの熱心な聴衆が出口でコリンを待っていて、写真やサインを求めてきた。コリンは少し照れながらもそれに応じた。公園を通り帰ろうとすると、カタリンがベンチに座っているのに気が付いた。
「カタリン」
コリンが呼びかけると、カタリンは振り向き、軽く微笑んだ。
「客席で聴いていたわ。あなたの演奏、素晴らしかった」
カタリンは少し苦笑したように見えた。
「悔しいけど、今はあなたと私の実力の差は大きいわね。それに可笑しいと思うかもしれないけど…」
カタリンは噴水に視線を向けた。
「あなたの演奏を聴いていて、懐かしいことを思い出したの。まだ音楽の道を進むことを決める前、ヴァイオリンを弾くことが好きで好きで仕方がなかった頃のことよ。今の私が忘れかけていた大切なことを」
カタリンは立ち上がった。彼女の瞳は潤んでいたが、それはこの間とは違った涙だった。
「あなたの演奏を聴いていて、すごく感動したの。私もあなたみたいにヴァイオリンが好きだったはずじゃないかって思えて…今日、あなたの演奏を聴けてよかった。このコンクールに出て本当によかったわ。ありがとう」
カタリンは立ち上がってコリンに近づくと、彼の頬に軽く口づけした。驚いているコリンにいたずらっぽくウィンクをすると、彼女は笑って言った。
「明日からはお互いに聴衆の立場で、余裕を持って他の人の演奏を聴けるわね」
それから結果発表までの数日、コリンはカタリンと一緒に他のヴァイオリニストの演奏や、またヴァイオリン以外の部門の演奏も聴き、この街での滞在を楽しんだ。自分の出番が終わったこともあるが、カタリンは既に次の目標に向かって気持ちを切り替え、コリンは自分の満足いく演奏をすることが出来たことから、2人は結果のことは全く気にしていなかった。そして成績発表の日がやって来た。ヴァイオリン以外の部門の発表が続き、ヴァイオリンの番となった。ぼんやりと他人事のようにコリンは発表を聞いていた。
「…コリン・ファース、イギリス」
自分の名前が呼ばれて、コリンははっとした。嵐のような拍手とカメラのフラッシュ。コリンは自分がどうして呼ばれたのかわからなかった。周りにいるヴァイオリニストたちから祝福され、会場からはブラヴォーと声がかかった。
「コリン、何をぼうっとしてるのよ!」
カタリンがコリンの両腕を掴み、揺さぶった。
「何って…何?」
「あなた、第1位よ!優勝したのよ!」
コリンはカタリンの言ったことをすぐには理解出来なかった。僕が…?第1位だって?周りの人に押されるように審査委員長の前にコリンは立った。審査委員長が彼に祝福の言葉をかけ記念品を渡した。更に沢山の花束や様々な賞に伴う記念品を貰ったが、両手一杯にそれらを抱えていてもコリンにはまだ何が起こったのか把握しきれなかった。僕が…優勝だって?コリンは審査員たちからの握手に応えながら、少しずつ状況を理解した。順位は気にしていなかったが、やはり嬉しさが心の奥から込み上げてきた。あんなに楽しく弾けて、更に賞まで取れるなんて…満員の客席からの拍手は鳴り止まなかった。大歓声に包まれ、コリンが今まで感じたことがない程、鼓動が高鳴っていた。彼は満面の笑みで客席に向かい礼をした。コリンは聴衆に対して感謝の気持ちで一杯だった。
その後、沢山の取材や入賞者による記念演奏会などが続き、コリンは慌しい日々を送った。コリンの写真を大きく載せた新聞や雑誌は飛ぶように売れ、コリンの行く先々で握手とサイン攻めにあった。その熱気が冷めやらない内に、コリンは帰国の途につくことになった。まだ取材に訪れる人は後を絶たず、コリンは空港に着いてようやく一息つくことが出来た。チェックインを済ませカフェで休憩していると、急に後ろから目隠しされた。
「誰だと思う?」
「カタリン?」
コリンは結果発表の日以来、カタリンと話していなかった。カタリンは目隠しした手をそっと外すと、コリンの隣の席に座った。
「コリンは今日帰るのね。私もなの。偶然だけど、会えてよかったわ」
「久しぶりだね。ゆっくり話せなくて」
「ものすごい人気者になってたものね」
カタリンは微笑んだ。コリンは彼女と話したいことが沢山あったような気がしたが、今は言葉一つ出てこなかった。カタリンも黙ったままで、暫く2人は空港のロビーを歩く人の流れを見つめていた。
「…もう行かなくっちゃ」
カタリンは時計を見ると立ち上がった。コリンも立ち上がり、彼女をゲートまで送ることにした。ゲートに着くとカタリンはコリンに手を差し出した。
「いろいろありがとう。あなたというヴァイオリニストと知り合えてよかった。私もあなたのようなヴァイオリニストになれるよう、また頑張るわ」
コリンはカタリンの手を握った。僕があの女性を目指したように、これからは僕を目指すヴァイオリニストも増えるのだろうか…コリンは不思議な気持ちがした。
「僕もカタリンと知り合えて楽しかったよ。またどこかで会おう」
「そうね、ヴァイオリンを続けている限り、どこかで会えるわ」
彼女は少し寂しそうな笑顔を見せた。
「これがコンクールじゃなかったらって思うわ。違う風に知り合えていたら…」
カタリンはコリンの手を離した。
「渡したいものがあるの。目を閉じていて」
「目を?何?」
コリンは目を閉じた。コリンは自分の唇に、カタリンの柔らかい唇が触れるのを感じた。コリンが目を開けた時、彼女はもうゲートに入りかけていた。コリンに向かってウィンクし手を振ると、彼女はゲートの中に姿を消した。コリンはカタリンの唇の感触が残る自分の唇に指を当てた。
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