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今度は事前に電話をして、コリンはエーデルバッハの家を再び訪れた。エーデルバッハはコリンが話し出すのを静かに待っていた。
「僕はずっとソリストの勉強をしていました。大学でも、海外のマスタークラスでも。もちろん先生の所でもそうでした。それでもソロにはなりませんでした。後から気が付いたことですが、僕はソロになることに恐怖感を持っていたのです。あんなに自信家で、自分より上手いヴァイオリニストはそういないと思っていたし、師事した先生方もソリストとなることを奨めてくださいました。でも潜在意識に恐怖があったんです。臆病な自分がいて、ソリストになる重圧に負けていたんです。それで無意識の内にソリストになる道を避けてしまったのです」
コリンは考えをまとめながらゆっくりと話した。以前は自分がこんなにも弱い人間だとは思っていなかった。「オーケストラが楽しいから」オーケストラに入ったつもりでいた。しかしそうではなく「ソリストになりたくないから」オーケストラの道を選んだのだった。このことに気が付かせてくれたのは、コリンの最も敬愛する女性だった。
「ソリストになれなくてオーケストラを選んだわけですが、今はその選択が…選択の仕方が間違っていたとしても、でもその選択がよかったと思っています。音楽の素晴らしさ、楽しさ、そして楽器を弾く喜び。聴きに来てくれる人たちや一緒に弾く仲間たちと、時間と空間と音楽を共有しているという不思議な感覚。僕はオーケストラで様々なことを学びましたし、オーケストラで弾くことの虜になっています。この5年の間に、僕はソリストになりたいとは思わなかったし、ソロのことを考えることはなくなっていました」
コリンは一息ついた。エーデルバッハは何も言わず、コリンを真っ直ぐ見つめていた。
「だから正直、先生がソロになってはどうかと仰ったとき、驚いたというか、まさに青天の霹靂でした。それでも僕なりに先生が仰ったことや、自分のやりたいことを考えてみました。ソリストとオーケストラプレーヤーでは、かなり違いがあります。でも最終的に目指すものは同じだと思うのです。弾くパートが違うだけで、作曲家の作った音楽を自分と楽器を通して正しく聴き手に伝えるということ、音楽の持つ無限の可能性を、楽しさや素晴らしさを伝えることは、音楽家である以上どんな肩書きであろうと目指すべきことだと思います。先生が仰ったとおり、僕はまだ音楽家になったばかりですし、いろいろな経験を積むことも必要かもしれません」
コリンは自分の鼓動が高鳴っているのを感じていた。軽く握っていた拳に少し力を入れると、息を深く吸った。
「だから、一度、ソロ活動をしてみようかと思います」
コリンはその深い色の瞳に力強さを湛え、エーデルバッハを見つめた。彼女は納得し、静かに頷いた。コリンは自分の心が軽くなった気がした。オペラ座で弾くことに対し違和感を感じ始めてからずっと心の中にあった迷いが吹っ切れたかのようであった。もう迷うことはない。自分で決めたのだから、その道を進んでみよう。たとえ失敗したとしても、まだやり直しがきくはずだ。オーケストラに対する愛着はあったが、その道の向かう先は同じなのだから。
「あなたのお気持ちはよくわかりました。この間お会いしてから今日まで、どんなにあなたがこのことをお考えになったか、どんなに迷われたか想像がつきます。決して簡単な決断ではありませんが、よくお決めになられたと思いますよ。1つ、質問です。コンクールについては考えられましたか?」
コリンは少し俯いた。
「多少考えたのですが…先生の仰るように、きっかけがあったほうがソロ活動を始めやすいとは思います。ソリストの道を歩みかけていた僕を覚えている人は、国内でも僅か、国外では先生方以外恐らくもういないでしょう」
苦笑しながらコリンは更に続けた。
「自分の恥をどんどん曝け出すようなのですが、コンクールに対しても僕は恐れを抱いていたんです。自信過剰だっただけに、コンクールでもし失敗して自分の素の姿が暴かれたら、という恐怖があったんだと思います。前回受けた国際コンクールで上位入賞した時、また優勝できなかった、次も出来ないだろう、これ以上は弾くことが出来ない、と思ったのでしょう。僕は勉強を理由に、コンクールを避けていました。これも今思えばですが」
エーデルバッハは恥ずかしそうに話すコリンを見て、微笑んだ。
「自分の弱さを出すことは、とても勇気が要ることですよ。あなたは当時より心の強さも成長なさったということでしょう」
彼女はそう言うと、コリンの空になったカップにコーヒーを注いだ。
「それで、今度コンクールを受けるかどうか、考えてみたのですが…昔、僕が初めて2位に甘んじた時、先生が2位にしかなれなかった理由を考えなさい、と仰いましたね」
「ええ、覚えていますよ。あなたはまだわたくしと同じくらいの背の、フルサイズのヴァイオリンがまだ大きく見える少年でした」
懐かしそうにエーデルバッハは話した。
「今考えるとその理由があまりにもありすぎて列挙するのも大変なのですが、大きなものとしては僕が優勝することだけを考えていたことだと思います。つまり、自分の出来ることを全て発揮して、そして優勝することだけを目標に弾いていたのです。自分のことしか考えていなかったのです。コンクールは確かに順位をつけるものではありますが、それでも演奏会と同じく聴き手がいるのだということを、その時の僕は考えもしなかったのです。あの時の僕は演奏家ではなかった。ただヴァイオリンを上手に弾くことの出来る子、だったんです」
コリンはコーヒーを口にした。こんなに話すこと自体珍しいのだが、話しているうちに霧が晴れるように自分の考えもはっきりとまとまっていく気がしていた。
「大学生の時も、自分の音楽を表現することは出来るようにはなりましたが、やはり聴衆のことはそれほど考えていなかったと思います。ますます自信家になってましたし、恐らく技巧を前面に出した演奏だったのではないでしょうか。今では一応5年間プロとして弾いてきましたし、音楽に対しても自分なりの考えがあります。自信があるわけでは全くないのですが、以前とは違う風にコンクールに挑めるのではないかと思っています。優勝を目標にするのではなく、自分の音楽をどこまで伝えられるのか、演奏家としてどう評価されるのかを知るために。ただ…」
「ただ?」
訝しげにエーデルバッハはコリンを見つめた。コリンはいたずらっぽく微笑んだ。
「こんな歳で、10くらい若い子達と混じって受けるのは、かなり気がひけますけどね」
街はすっかり夕闇に包まれていた。コリンにはエーデルバッハに話したいことが沢山あって、時間があまりにも早く過ぎているように感じられた。
「それでは、ソロ活動とコンクールに向けて、準備をしなくてはなりませんね。まず、今のオーケストラはどうなさるおつもりですか?」
コリンはそのことについて、ここ何日かかなり考えていた。いずれ辞めることになるとしても、それはいつがいいのか。オーケストラの活動を続けながら、コンクールを受けたり、ソロ活動をすることが出来るのか。今の生活は安定しているが、辞めてからソロになるまでは無職の状態になり、ソロになったとしても仕事が来る保障はなかった。
「すぐに辞めることは出来ません。もう既に僕の弾く公演が何ヶ月か先まで決まっています。それと、準備期間や経済状況を考えて…今年一杯は残ることになると思います。でも休暇が明けたら、ソロ活動を始める意向を伝えて、少しずつ出番を減らしてもらうようにしたいと思っています。あのオーケストラは忙しすぎますから」
コリンほどのコンサートマスターを失うことはオーケストラにとって大きな痛手に違いなかった。しかしオペラ座付きのオーケストラは他のオーケストラより団員数も多く、何人かいるコンサートマスターが一人減ったとしても公演にはなんら支障はないはずであったし、あのレベルのオーケストラであれば入団希望者も多く、代わりのコンサートマスターはいくらでも見つかるはずであった。
「出来るならもう少し早く準備を始められればよいのですが、この場合仕方がないですね。仕事を蔑ろにすることは出来ませんから」
コリンは手にしていたコーヒーカップを食卓に戻すと、姿勢を正してエーデルバッハを真っ直ぐに見つめた。
「先生、お願いがあります。僕にまたレッスンをしていただきたいんです。今度こそ、ソリストになる為に」
コリンの瞳には力強い光が宿っていた。エーデルバッハは暫くコリンをじっと見つめていたが、彼女もコーヒーカップを置くと、威厳ある声で答えた。
「もちろん、そのつもりですよ。暫く教えられなかった分、厳しくしますからね」
それから休暇が明けるまで、コリンは2,3日に一度、エーデルバッハの家でレッスンを受けた。技術も表現力も、全てにおいて以前より成長してはいたが、長くオーケストラで弾いていたため、ソリストの音に戻すことが必要であった。
「あなたがオペラ座で弾いていたことは、非常にプラスになっていますね。ヴァイオリンは歌う楽器ですから、様々な歌手の声に接してきたことは、表現の幅を広げたことになります。それに、イタリア語、ドイツ語、フランス語の音に触れられたでしょう。言葉も音です。ドイツの作曲家にはドイツ語特有の音が、イタリアの作曲家にはイタリア語特有の音があるものです」
エーデルバッハは休暇中最後のレッスンで、コリンにそう言った。
「わたくしはドイツ語を母国語としています。生まれた時からドイツ語の音に接していますし、特にウィーンで生まれ育ちましたから、あの独特のウィーンのリズムが自然に身についているのです。ですから、ドイツの音楽やオーストリアの音楽を弾く時、努力で得たのではなく…何と言ったらいいのでしょうか…そう、血で弾いている部分があるのです。その点、イギリス人のあなたは少し不利になってしまいますが、逆にどんなものでも、イタリアの音楽でもフランスの音楽でも、あなたのものにすることが出来ると思っています」
彼女は窓の外に視線をやった。何かを見ているわけではなく、遠い昔を思い出しているような表情であった。
「わたくしはウィーンで多くのヴァイオリニストを育てましたが、共通の言語を持たない、文化や習慣も違う人に、わたくしのメソッドが通用するかどうか、試してみたくなったのです。あなたがその最初の生徒でした。今でも多くの生徒を持っていますが、あなたのように音符も読めないうちから育て上げた人は、誰もいませんね。あなたがたまたま隣に住んでいたことは、わたくしにとって幸運でした。以前、あなたに言いましたね、教わるだけでなく自ら学び取ることが必要だと。あなたはわたくしが教えた以上に、ご自分で多くのことを学ばれました。あなたのように才能ある素晴らしいヴァイオリニストが、世間でわたくしの一番弟子だと言われていることはわたくしには名誉ですが、また同時に過分な名誉だとも思っています」
「そんなことないです。やはり先生に教わったことが、一番多いと思います。僕は先生の一番弟子だと言われていることに誇りを持っていますし、実際そうありたいと常に思ってきました」
エーデルバッハはコリンに向かって軽く微笑んだ。
「もうすぐシーズンが始まりますが、また出来るだけレッスンにいらしてくださいね」
コリンは笑顔で頷いた。
休暇が明けて、オペラ座での仕事がまた始まった。コリンはオーケストラに、ソロ活動と退団の意向を伝えた。経営陣や音楽監督はコリンの退団を惜しんだが、ソロ活動を応援してくれることを約束してくれた。ソロとなったあかつきには、ぜひこのオーケストラと共演して欲しい、という申し出も受けた。オーケストラのメンバーは、やはり仲間が去ることを残念がったが、コリンの更なる活躍を皆願ってくれた。コリンはコンクールについては一切言わなかった。言う必要はないと思っていた。しかしある一人には全部伝えようと思っていた。コリンは家に帰ると、紙を探し出し、きっちりとした筆跡で手紙を書いた。暫くして、返事が来た…それはアンナからであった。コリンは初めて入ったプロ・オーケストラで彼を支えてくれた彼女には、ソロ活動をするつもりであること、今のオーケストラを退団すること以外に、コンクールを受けることになったことも伝えたかった。1年前のあの日以来、コリンが彼女に手紙を書くことはなかったし、彼女からも以前ほど頻繁には来なくなっていた。彼女の懐かしい筆跡を見ると、あの小さな街での様々な思い出が蘇り、コリンは胸が痛んだ。アンナはコリンがソロになろうとしていることを、心から応援してくれた。昔の仲間たちもコリンがソリストとなって演奏することを楽しみにするだろう、コンクールも放送されるだろうから出来るだけ見て応援する、と書いてあった。
「ただ、コリンがソリストになって、テレビやCDでしか顔を見ることが出来なくなったら、ものすごく遠い人になってしまうようで、それは寂しいな…」
アンナのこの一文に、コリンは胸を突かれた。そんなことはない、そうはならないよ…コリンは目頭が熱くなるのを感じた。今すぐにアンナのところに行って、そう言ってあげたかった。彼女の赤茶色の髪を優しく梳いて、それから抱きしめてあげたかった。僕はそうはならない。いつだって仲間には変わりがないんだから…。それでもコリンは、自分の意思とは別に、周りが自分を変えてしまうかもしれないと思い始めた。今のオーケストラで、いつの間にか仕事のために弾くようになってしまったように、ソロになったら自分がまた変わってしまうかもしれない。未知の世界に足を踏み出そうとしている自分が、少し怖くなった。
それからのコリンは、仕事の合間にコンクールに向けての練習とソロ活動の準備をするという、かなり忙しい日々を送ることになった。ただ仕事の量は減らしてもらったため、思ったよりは練習の負担にならなかった。時間があればコリンはエーデルバッハのところへ行き、レッスンを受けた。オペラ座での最後の演目を弾き終わり、団員たちから温かく見送られ、コリンは2年少しいたオーケストラを去った。クリスマスは家族の元へ帰り、これからの予定を報告した。さすがにコンクールを受けることには皆驚いたが、それでも彼が自分で決めた道を進むことに対して、励ましの言葉をかけてくれた。ソリストになるだろうと思っていたらオーケストラに入り、そのままオーケストラにいるのかと思ったらソリストになろうとしていることを、コリンは家族にからかわれた。まったく、人生はどう転ぶかわからないものだ…コリンは常に持ち歩いているヴァイオリンケースを見つめた。それでもこれからずっとこの楽器と付き合っていくことだけは確かなんだろう。ソロでもオーケストラでも、どこで弾くとしても僕はヴァイオリニストなんだ。
「君のせいで苦労も多いけどね」
コリンはヴァイオリンに向かって、呟いた。しかしコリンにはヴァイオリンのない人生など、もう考えられなかった。楽器は彼の半身であり、音楽家であることが彼の全てだった。ケースについている2つの天使の人形が微笑んだ気がした。
年が明け、コンクールに向けての練習が更に密度の高いものになっていった。家でも何時間も練習し、何冊もの文献を読み曲を研究した。こんなに練習するのは大学生の時でもなかったなとコリンは苦笑した。ある日のレッスンで、エーデルバッハはコリンにヴァイオリンと弓を見せるように言われた。
「なかなかいい楽器を使っていますね。確か大学生の時からですね」
「はい。そういえばかなり大変な思いをして買ったのでした」
奨学金やコンクールの賞金、家族や親戚からの援助を全てつぎ込んで買った、イタリア製のかなりいいヴァイオリンだった。弓もまた多くの職人の元を訪れて選んだものだった。
「この弓は、普段使っていませんね?」
エーデルバッハは、コリンが持っている3本の弓の1つを指した。それは「素晴らしいコンサートマスターになるために」とお守りに貰ったものだった。
「それはお守りなんです。ある人から譲り受けて」
エーデルバッハは隣室に行くと、ヴァイオリンケースを持って戻ってきた。
「一度、このヴァイオリンを弾いてみてください。弓もわたくしので」
コリンは息を飲んだ。エーデルバッハの楽器…それはヴァイオリンの至宝、ストラディヴァリウスであることはよく知っていた。
「でも…」
躊躇するコリンにエーデルバッハは楽器を取り出し、手渡した。
「試しに弾いてみなさい」
コリンは楽器を受け取った。
コリンは弓の毛を張り、楽器を構えた。初めて持つのに、ずっと使っていたかのような不思議な感覚があった。最初の音を弾いた瞬間、コリンは驚いた。自分にこんな音が出せるのか…今までのヴァイオリンでもコリンは自分の思う通りに弾けていた。しかしこのストラディヴァリウスは、コリンの表現の幅も、技術さえも広げてしまう気がした。彼の想像を超える可能性を持ったヴァイオリンであった。弾き終わって暫く、コリンは呆然としていた。自分がヴァイオリンを弾いていたのに、ヴァイオリンに弾かされていたような気分だった。エーデルバッハは少しの間黙っていたが、軽く息を吐き出すとコリンに言った。
「そのヴァイオリンはあなたとの相性がいいようですね…あなたにお願いがあります」
コリンはエーデルバッハのほうを見た。彼女の瞳には力強い光が宿っていた。
「あなたにそのヴァイオリンを譲り受けて欲しいのです」
最初、何を言われたのかコリンにはわからなかった。暫くしてエーデルバッハの言った意味がわかり、更に唖然とした。
「…でも先生…これは…」
それ以上、言葉が出てこなかった。エーデルバッハは驚いて何も言えなくなっているコリンを見て、微笑んだ。
「そのヴァイオリンは人類の宝の1つです。わたくしが使う前も、何百年も名ヴァイオリニストたちが使ってきました。そして彼らの芸術性、音楽性、人間性…いえ、人生そのものを吸収して来たのです。そのヴァイオリンには今まで使ってきたヴァイオリニストたちの全てが詰まっています。わたくしは今使っている者として、次にその楽器を託し得る人物を見つける義務があります。楽器は相応しい人物が使ってこそ、その本当の価値を発揮できます。あなたがそのヴァイオリンを更に育て、そして育てられるに相応しい人物だとわたくしは確信しています。ですから譲り受けていただきたいのです」
コリンはそっとヴァイオリンをケースに戻した。長い間持っていることだけでも恐ろしいくらい、その楽器は価値あるものであった。これを僕に?コリンにはまだエーデルバッハの言ったことが信じられなかった。まだどうしていいかわからないといった顔をしているコリンに向かって、エーデルバッハは更に続けて言った。
「これはコンクールの為にも必要ですよ。特にあなたが受けようとしているレベルのコンクールとなると、非常にハイレベルでミスをするような人はいませんし、音楽性もそれぞれ甲乙つけがたいほどになります。そうなると楽器の差というものが大きいのです。どんなに素晴らしいヴァイオリニストでも、楽器が持っている以上の音色は出せませんよ。あなたも今、それを感じたでしょう」
確かにエーデルバッハの言う通りだった。ストラディヴァリウスで弾いた時、コリンが今まで出すことの出来なかった音色が出たのだ。
「…もちろん、僕がこの楽器を使えることが出来るなら、これほど嬉しいことはありませんが…譲り受けるというのは申し訳なくって」
この楽器はコリンが買えるようなものではなかった。それでもこれ程素晴らしい楽器を譲られるということには、なんとも言えない抵抗感があった。エーデルバッハは声をあげて笑った。
「あなたらしいですね。わたくしももう一挺持っていますし、もう演奏家として弾くことはありませんから、これ程まで素晴らしい楽器は必要ないのです。それに先程申し上げた通り、この楽器を持ったからには更にこの楽器を育て、そして育てられなければなりません。それも簡単なことではありませんよ。わたくしはぜひあなたに使っていただきたいのです。あなたの為にも、そしてこのヴァイオリンの為にも。そして遠い将来には、あなたの次にこのヴァイオリンを持つに相応しい人物を見つけ、その人に託していただきたいのです。この素晴らしい楽器が、これから先もその価値を発揮できるように」
コリンは再びヴァイオリンを手に取った。コリンの繊細な手を通じて、今までこのヴァイオリンを手にしたヴァイオリニストたちのこの楽器に託した想いが伝わってくる気がした。コリンは目を閉じ、息を軽く吸った。再び目を開けたとき、彼の瞳に迷いはなかった。
「それでは喜んでお預かりします…次のヴァイオリニストにこの楽器を託すまで」
コリンは2つのヴァイオリンケースを手に、家に帰った。元々彼の使っていたヴァイオリンが入ったケースに付いている2つの天使の人形のうち、亜麻色の髪の天使を外し、ストラディヴァリウスが入ったケースに付けた。暫くそれを見つめていたが、コリンは何となく2人の天使が離れ離れでいるのがよくない気がして、もう1つの人形も外して付け替えた。
「せめて君たちは一緒にいなくちゃね」
人形を見つめているうち、コリンは無性に彼の敬愛する女性に会いたくなった。もちろんそれはもう叶わないことなのだが、それでもコリンはこの期待と不安の入り混じった状態に押し潰されそうで、今彼女がいてくれたらと考えずにはいられなかった。…大丈夫よ、一人っきりじゃないのだから…彼女がコリンの髪をその細い指で軽く触れた気がした。コリンは自分のヴァイオリンケースを開けると、彼女からお守りにと貰った弓を手に取った。素晴らしいコンサートマスターになるようにと譲られた弓。コリンはこれからコンサートマスターとはまた違った道を歩むことになったが、それでも彼女は見守っていてくれるはずだった。コリンはその弓と、今まで使っていた2本の弓のうちよく使うほうをエーデルバッハから譲られたケースに移した。そう、僕は一人じゃない。昔の仲間たちも、先生も、そしてアンナも見守っていてくれる。そして彼女も…。コリンはもう一度ストラディヴァリウスを手にした。今日からこのヴァイオリンと共に生きていくんだ。この芸術品とも言える素晴らしいヴァイオリンと共に。そして僕はこのヴァイオリンに相応しいヴァイオリニストにならなければならない。以前避けたソリストの道。今でも恐怖心がなくなったわけではないが、もう避けようとは思わなかった。コリンはヴァイオリンを構えると、名器から奏でられる音色を確かめるように、ゆっくりと弾き出した。
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