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オペラ座付きのオーケストラに入って2度目の休暇となった。コリンはこの年、家族の元へは戻らず、ロンドンでぼんやりと過ごしていた。2年間オペラ座で忙しく演奏をしてきた。オーケストラは評判も高く、実力もあり、その点彼は満足していた。しかし時折感じる違和感は何だろうか。メインの仕事であるオペラやバレエの演奏より、コリンには年に何度かの管弦楽のコンサートのほうがしっくりしていた。それにこの間、同僚の孫娘のために演奏した弦楽四重奏は、以前彼が弾いていたオーケストラで感じていた「音楽の楽しさ」を思い出させてくれるものであった。僕がやりたいのは、オペラではないのではないだろうか…純粋に楽器だけの、管弦楽のほうが僕には合っているのではないだろうか…コリンは漠然とそう感じていた。コリンは休暇に入ってから毎日、CDを聴いたり、普段弾く時間のないヴァイオリンソナタや協奏曲を練習したりしていた。どこかへ旅行に行くことも出来たが、コリンにはその気がなかった。20年近く昔に使った楽譜を取り出し弾いていたコリンは、ふと当時の注意書きを目にし、ある考えが頭に浮かんだ。彼は楽器を軽く掃除してケースにしまうと、身なりを整え、ヴァイオリンケースを手に出かけて行った。
コリンは応接間で滅多に飲まないコーヒーを口にしていた。その家のお手伝いの女性が持ってきたケーキは手製のもので、イギリスのレシピではなかった。コリンはこの家に、3歳から大学に入るまで毎週通い続けた。その後も月に一度は訪れていたが、プロになってからは最初の休暇に来て以来だった。しかしこの家の雰囲気は何一つ変わることなく、まるで時が止まったかのようだった。隣のレッスン室から聞こえてくるヴァイオリンの音は、おそらく音大生か何かのものだろう。時折音が途切れるのは注意されているに違いなかった。コリンにはその生徒が何を注意されているのか想像できた。僕もここは注意されたっけ…コリンは昔を思い出し、口元を緩めた。30分ほど待っただろうか、ヴァイオリンの音が聞こえなくなって暫くすると、お手伝いの女性がドアをノックし入ってきた。
「奥様がいらっしゃいます」
コリンは立ち上がった。ドアの向こうから上品な老婦人が入ってきた。もう70歳代の半ばだというのに彼女は相変わらず姿勢良く、優雅な動作は昔から変わっていなかった。
「こう突然連絡もなしにやって来るなんて、失礼ですよ。電話くらいしてくださってもいいでしょう」
彼女は厳しく言ったが、口調とは裏腹に、その顔はコリンに会えて嬉しそうであった。コリンも笑顔になり、彼女のために椅子を引いた。
「ご無沙汰してます、先生。突然思い立ったもので」
彼女は座ると、コリンにも座るように促した。
「本当に久しぶりですね。4年ほどでしょうか。まあ最初に入られたオーケストラは他の街でしたからしょうがないとしても、今はロンドンにいらっしゃるのだから、もう少しこちらに来てくださってもいいのですけどね」
彼女の不満そうな口ぶりに、思わずコリンはくすくすと笑った。
「後でたっぷりと僕の悪口を言っていただくとして、久しぶりにレッスンをしていただきたいのですが」
コリンの言葉に彼女は静かに頷いた。
ドロテーア・フォン・エーデルバッハ。彼女はコリンのヴァイオリンの師である。まだ音符も読めない3歳の頃から音大に入学するまで、コリンは15年ほど彼女にヴァイオリンを習っていた。その後もプロになるまでは定期的に彼女の元を訪れていた。エーデルバッハはウィーン出身で、かの地で数多くの英才を育てた後、ロンドンに移住してきた。コリンは彼女がロンドンに来てから最初に育て上げたヴァイオリニストで、「コリンの師である」ということがイギリス国内においての彼女の名声を更に上げ、今でも多くの音大生やプロが彼女の教えを請いにこの家に訪れていた。コリンは大学在学中に各国の有名ヴァイオリニスト・名教師たちに師事したが、それでもコリンのヴァイオリンを一番理解しているのはエーデルバッハだと思っていた。バッハの無伴奏パルティータ第2番の終曲、シャコンヌを弾き終えたコリンは、ゆっくりとヴァイオリンを下ろし、エーデルバッハのほうを向いた。エーデルバッハは椅子に座り目を閉じて聴いていたが、演奏が終わると瞳を閉じたまま軽く息をついた。
「楽器とは恐ろしいものですね。演奏する人間の全てが出てしまいます。その人の人間性、人生、体験、喜怒哀楽。人間的に成長出来なければ、音楽家としても成長出来ないのです。あなたはまたヴァイオリニストとして一回り大きくなられましたね。この間あなたのヴァイオリンをお聴きしてから、あなたは様々な体験をしてこられたのでしょう。音楽家にとってはどんな些細な体験も、嬉しかったことも哀しかったことも、無駄になることはないのです。全てが自分の中に蓄積され、それが音楽の豊かさにつながるのです」
コリンは静かにエーデルバッハの言葉を聞いていた。確かにこの数年間の間に体験した出来事は、コリンのこれからの人生にも大きな影響を与え続けることに違いはなかった。エーデルバッハは目を開け、コリンを真っ直ぐに見つめた。
「この曲をあなたが最初にお弾きになったのは、確かまだ10歳をちょっと過ぎた頃でしたね。技術的には立派でしたが、わたくしが教えた通りの解釈、フレージングやアーティキュレーション、音色や表現でしか弾いていませんでした。大学生の頃もまだどこか人の真似のような部分が残っていましたね。でも今日の演奏はまさにあなた自身のものでした。プロとしての活動が演奏を変えたのでしょう」
そう言うとエーデルバッハは微笑んだ。
「でもまだわたくしが教える部分もあるようですね」
彼女はコリンに詳細に指示を出していった。
プロになってから5年。その間、レッスンを受けたのは最初の休暇で多くの師を訪ねたときだけだった。久しぶりのレッスンは新鮮で、初心に帰った気がした。昔と同じように、レッスンの後はコーヒーとエーデルバッハ手製のケーキやクッキーをいただきながら、音楽談話に花を咲かせた。この日出されたヴァニッレ・キップフェルンというオーストリア名物のクッキーは少年の頃のコリンの大好物で、レッスン後にそっとポケットに忍ばせて持ち帰ったが、すぐほろほろに崩れてしまうこのクッキーはコリン少年のポケットの中で粉になってしまったのだった。コリンがこの話をすると、エーデルバッハは珍しく声を上げて笑った。
「あなたはヴァイオリンを弾いている時、非常に優等生でしたけど、それ以外では結構いたずら好きでしたわね」
「その度に先生にはこっぴどく叱られましたっけ」
コリンは長い指でクッキーをつまんだ。アーモンドの香ばしい味と香りが懐かしかった。暫くとりとめもなく話していたが、コリンは意を決して話を切り出した。
「実は今日伺ったのは、レッスン以外に相談をしたかったからなのです」
エーデルバッハは軽く眉を上げただけで、特に表情も変えなかった。恐らく予想がついていたのだろう。コリンは最近感じていた、オペラではなく管弦楽のほうが自分には向いている、あるいはそちらを演奏したいという気持ちがあるのではないかということを、言葉を選びつつゆっくりと話した。まだ自分でもはっきりとしない、漠然とした気持ちであるため、なんとも説明しづらかった。
「あなたは以前、音楽の道を進むかどうか迷った時も、わたくしに相談しましたね。その時と同じく、これはご自分で決められるべきことです。それでもその決断のお手伝いはできます」
彼女はコーヒーを一口飲むと、コリンを真っ直ぐに見つめた。コリンも彼女を見つめ返した。
「今あなたが弾いていらっしゃるオーケストラは、イギリス国内でも有数のオーケストラで、このまま弾き続けることもプロとしては決して悪いことではありません。むしろ同じレベルのオーケストラに再び入ることが出来る保障はない、と言ったほうがいいでしょう。イギリス以外を範囲に入れればまた選択肢は増えますが、あなたはこの国で演奏したいのでしょう?」
コリンは頷いた。他の国にも留学経験があるし、それぞれ魅力的ではあったが、彼はこの国を中心に活動したかった。
「それでも、あなたが漠然とオペラに対して違和感を感じているのでしたら、無理して弾き続けることもないと思います。そのような気持ちは演奏に出てしまいますし、あなたは自分を騙し続けられる人ではないですからね。それからこれは重要なのですが、あなたは音楽家としてまだ若いのです。先程言った通り、体験や経験が演奏の糧となります。つまりまだまだ発展途上で、これから更に向上することが出来るのです。まだ自分の進む道を固定する必要はない、ということです。もちろん全てが上手く行くとは限りません。道を誤り、失敗し、音楽家としてやっていけなくなる危険性ももちろんあります。それでも多少の失敗すら自分の足しにしていく強さが、あなたにはあると思いますよ」
コリンはずっと黙ってエーデルバッハの言葉を聞いていた。ヴァイオリンを始めてからもう25年ほど経ち、プロになってからも5年、随分長い間ヴァイオリンを弾いてきた気がしていた。それでもまだ音楽家としての道のスタート地点からほんの少し進んだだけなのだ。
「恐らく覚えていらっしゃると思いますけど、以前わたくしはあなたにこう言いましたね。音楽の勉強には終わりはない、この道に進んだら一生学び続けることになると。わたくしだってこの歳ですがまだ勉強中なのですよ。ある目標が達成出来ても、更に別の目標が出てくるのです。常にこの繰り返しで、終わりのない道をわたくしたちは歩んでいるのです。ですから、あなたがここで少し寄り道することも、決して悪いことではないと思います。それどころか、更なる経験を積むことが出来るかもしれません」
夏の日は随分長いが、それでもかなり傾きかけてきた。コリンがこの家に来てからだいぶ時間が経った。多忙であるはずのエーデルバッハだが、たまたまレッスンが他になかったのか、コリンを帰そうとはしなかった。コリンも時間のことなどは忘れ、エーデルバッハの話を真剣に聞いていた。突然、彼女がコリンに意表をつく質問をした。
「コリン、あなたはおいくつでしたっけ?」
「…歳ですか?もうすぐ29になります」
エーデルバッハは少し考えると、コリンに軽く微笑んだ。
「あなたは大学生の時に、イギリスの国内コンクールと、国際コンクールを受けましたね。それ以来は受けていらっしゃいませんね」
「受けていません。もう随分前のことですね」
国内コンクールでは優勝、国際コンクールでも上位入賞を果たした大学生のコリンには、すぐにプロに転向の選択肢もあったが、彼は更に勉強することを選んだのだった。そしてそれ以来、彼はコンクールを受けることはなかった。再びコンクールを受けるとすれば、国際コンクール、しかも大きなものになるはずだった。しかしコリンは受けなかった…また優勝を逃すかもしれないという無意識の恐怖が彼の脳裏にはあり、自信家だった当時のコリンはコンクールを避けていたのだった。エーデルバッハは少し間を置いてから切り出した。
「オーケストラを少し離れて、ソロ活動をしてみてはいかがですか?」
コリンには予想外の質問だった。プロになるまではソリストになることが当たり前だと思っていたコリンだが、今では逆に、自分がソリストになることは考えていなかった。
「ソロ…ですか?でも僕は…」
「あなたがオーケストラを愛していることはわかりますよ。わたくしだってオーケストラで弾いたことがありますし、その楽しさは充分わかっているつもりです。それでも先程言った通り、寄り道をするのもいいのではないですか?ソリストとして、違った角度からオーケストラを見ることもできますし、その活動がオーケストラに戻った時のよい経験となるかもしれません。それに、もしかしたらソリストがコンサートマスターよりあなたに向いているかもしれませんし、やってみなければわからないですよ」
ソリスト…音楽の道を進むことを決めてから、ずっとコリンがなるつもりだったもの。しかし重圧から無意識になることを避けたもの。思えば大学でも留学先でも、ソリストとしての勉強ばかりしたのだった。それでもコリンはプロになってからずっとオーケストラで弾いてきた。彼の頭にはソリストになることは既になかった。エーデルバッハの言う通り、やってみる価値は充分あることは、コリンにもわかっていた。しかし今からどうすればいいのだろうか。困惑しているコリンの顔を見て、エーデルバッハは更にコリンを驚かせることを言った。
「来年、ある国際コンクールがあります。あなたは年齢制限ぎりぎりです。最後のチャンスでしょう」
そうして彼女は、世界の三大コンクールの1つであるものの名を挙げた。もしそのコンクールで優勝したら、ヴァイオリニストとして最高の名誉を得られるだろう。コリンは驚きのあまり、何も言うことが出来なかった。
「あなたのコンクール歴とプロとしての今までの活動から、今すぐソロ活動を始めることも可能ですが、何かきっかけがあったほうがいいでしょう。優勝することが目標ではありません。今のあなたなら、あなたのキャリアに傷がつくような失敗はもうなさらないだろうし、優勝以上の価値を見出すことも出来るでしょう」
唖然としているコリンを見て、エーデルバッハは微笑んだ。
「すぐに決めることは出来ないでしょうが、近いうちに決めねばなりません。今のオーケストラで弾くか、他のオーケストラに移るか、ソロになるか。コンクールのことも含めて、またお話しましょう」
それからというもの、コリンの頭の中ではエーデルバッハの言葉が巡り続けていた。今のオーケストラで弾き続けるか、他のオーケストラに移るか、ソロになるか。オペラより管弦楽を弾きたいという気持ちは、段々確信に近くなってきた。となると、いつかは今のオーケストラを去ることになるだろう。しかし別のオーケストラに移るとしても、今のオーケストラと同等もしくはそれ以上のものでなければ、あまり意味のあることではなかった。そしてそれは非常に難しいということはわかりきっていた。今のオーケストラに留まっていれば、実力も名声もある立派なオーケストラであるし、安定した音楽家人生を送ることが出来るだろう。しかしオペラを弾き続けなければならない。
「ソロか…」
コリンは呟いた。元々ソリストとしての勉強をした身であるから、今でもソロ活動をしても困らないほどのレパートリーはあった。恐らくソロ活動をすることは出来るだろう。それはコリンもわかっていた。しかしソリストになること自体を考えなくなってからだいぶ経っていた。コンクールとなると、最後に受けてから10年近く経つうえ、この歳になって受けるかもしれないなど考えることすらなかった。
「どうしたらいいんでしょうね…」
コリンはヴァイオリンケースについている天使の人形に話しかけた。こんな時、あの人は何て言うだろうか。彼女はコリンが立派なコンサートマスターになることを望んでいた。しかしそれはコリンがコンサートマスターを選んだからであって、もしソリストになることを選んでも反対はしないだろう。同じヴァイオリニスト、同じ音楽家に違いはない。そして音楽の楽しさを聴衆と分かち合うということも同じはずだった。
「あなたはソリストとしてもコンサートマスターとしても、素晴らしいヴァイオリニストだわ。あなたの音楽を聴く喜びは、もっと多くの人が持たなければいけないの」
コリンは以前彼女に言われたことを思い出した。ソロでもオーケストラでも、音楽の楽しさを伝えることは出来る。上手く行くとは限らないが、やってみる価値は充分あることだ。コリンは気持ちを固めた。
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