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少年がヴァイオリンを始めたのは、全くの偶然だった。
少年の家の隣に、上品で威厳ある婦人が住んでいた。彼女はドロテーア・フォン・エーデルバッハといい、ヴァイオリニストであった。元貴族の家系の生粋のウィーン人で、かの地でヴァイオリニスト・教師として活躍していたが、40代半ばに突然ロンドンに移住してきたのだった。彼女のヴァイオリンが聴こえてくると、少年は吸い寄せられるように隣の家に向いた窓辺に座り、その音楽に耳を澄ませていた。少年の両親は、彼が音楽に興味を持っているのではないかと思い、エーデルバッハにヴァイオリンを習わせてみることにした。それは少年が3歳の時であった。
エーデルバッハは非常に厳しい教師であった。ヴァイオリンに関してはもちろん、立ち居振る舞いや礼儀作法にもこだわった。それは年端の行かぬ少年に対しても同じで、常に紳士であることを求めた。ヴァイオリンのレッスンは30分ほどであったが、内容は非常に濃いもので、前回注意されたことは必ず直してこなければならなかった。音楽の都の伝統に基づいたヴァイオリン奏法を、エーデルバッハは少年に徹底的に叩き込んだ。フィンガリング、ヴィブラート、ボウイングだけでなく、更に演奏するための曲の解釈、譜面の読み方、作曲家についての知識、それぞれの時代や曲に相応しい奏法や表現方法なども、折に触れて教えた。それは趣味で演奏する人間には要求の高いものであったが、生来負けず嫌いだった少年は、エーデルバッハの求めるものに応えていった。
少年はエーデルバッハの家が好きだった。華美ではなく上品で質の良い高級な調度品、深く炒ったコーヒーと自家製のケーキの香り。同じヨーロッパでも、彼女の家は大陸の雰囲気がした。かつて神聖ローマ帝国の帝都として栄華を極めた街。そして今はその残照の中に、時代に取り残されたかのように佇む街。ロンドンとはまた違う街の空気がこの家にはあった。エーデルバッハ自身もこの家の雰囲気を具現化したような人物であった。銀髪をきっちりと結わえ上げ、上質で優雅な服を身に纏った彼女は、この家の外の世界とは別の空間にいるかのようであった。また彼女の奏でるヴァイオリンは、少年の心を捉えて放さなかった。少年は既に音楽の魅力の虜となっていたが、何よりも自分の師であるエーデルバッハのように弾くことが彼の夢だった。
暫くして少年の家庭はロンドンからさほど離れていない街に引っ越した。それでも少年は週に一度、エーデルバッハのレッスンをロンドンで受けることを止めなかった。学校にあがり、友人たちと共にフットボールに興じたり、同級の女の子の話題で盛り上がったり、普通の生徒としての生活も送っていたが、毎日ヴァイオリンを手にすることは何よりも優先していた。エーデルバッハも、少年が学校で突き指の心配のあるスポーツをしても、何も言わなかった。少年が自分の与えた課題をこなしてくれば、彼のその他の私生活に口を出すようなことは全くなかった。エーデルバッハは彼女のヴァイオリン教師として出来る全てのことを少年にしたが、彼がそのまま音楽の道に進むことは決して強制しなかった。こうして少年は彼女の下で何年もヴァイオリンを習い続けた。
音楽の道に進むかどうかはともかく、少年はエーデルバッハの奨めで何度もコンクールを受けた。彼はそれぞれの年代で英国の第一位を取っていった。少年にとって、コンクールで優勝するのは当然のこととなっていった。15歳になり、彼は今まで受けてきたジュニアのコンクールではなく、英国で最も権威あるコンクールを受けることにした。少年は最年少であった。自分の倍近い年齢のヴァイオリニストたちもいる中、少年は堂々と課題曲を弾ききった。もちろんこの時も優勝すると思っていた。しかしこの時、優勝したのは少年より5歳ほど年長のジョージ・ハミルトンという若者だった。それは少年にとって、初めての挫折と敗北であった。
少年はなぜ自分が優勝できなかったのか分からなかった。音を外すこともしなかった。相応しい音色、強弱、やろうと思っていたことは全て出来た。優勝者の演奏も聴いていたが、自分が劣っているとは思わなかった。悔しくてしょうがなかったが、それを表に出すのもまた悔しく、少年は授賞式でも帰途でも笑顔を繕っていた。しかし自分の部屋に入るなり、様々な感情が一気に溢れ出し、少年はベッドに潜り込んで朝まで泣き続けた。
コンクールの次のレッスンの日、少年は平静を装ってエーデルバッハに結果を報告した。最年少での2位。もちろんこれは客観的に見て素晴らしい成績だった。しかし少年にはエーデルバッハがどう反応するのか予想もつかなかった。
「悔しいのなら、それを表にお出しなさい」
彼女は静かにそう言った。少年は、この歳で2位に入賞したことに満足していると言い返したが、エーデルバッハは首を横に振った。
「もちろんこの成績は誇るべきものです。でもあなたが2位になって悔しくないとは、わたくしは思いませんよ。あなたはそういう人ではないのですから」
少年は泣きこそしなかったが、何も言わずに俯いた。
「あなたは何故1位になれなかったのか、考えましたか?コンクールで優勝することは練習の成果の表れでもあるし、名誉も得られます。それでもそれは1つの通過点であって、目標ではないのです。あなたが1位になれなかったこと、2位にしかなれなかったことには理由があります。それは言葉で言うこともできますが、それでは頭で分かるだけで本当に理解することはできません。あなたは今までわたくしが教えたことは全て身につけてきました。まだこれから教えることもたくさんあります。でも教わるだけではなく、自ら学び取ることがこれからはもっと必要となってきます。この違いが分かりますか?ここで止まるか、更に発展するかはあなた次第です。コンクールの結果を考えるのではなく、その理由を考えなさい」
少年の目の前にあるコーヒーは冷めかかっていた。エーデルバッハが出した手製のケーキにも手をつけず、少年はずっと俯いていた。悔しさで頭の中が渦を巻くようで、エーデルバッハの言葉は耳には入ってきても理解することまで出来なかった。暫く無言の時が流れていたが、エーデルバッハは自分のヴァイオリンを手にし、弾き始めた。それは少年がコンクールの決勝で弾いた曲だった。少年が手本にした演奏。そしてコンクールでも習ったとおりに弾けていた。しかし自分が弾いたのと、今エーデルバッハが弾いているのとは、何かが違っていた。何が違うのか、少年には全く見当がつかなかった。ただ彼女の演奏を聴いていると、更に悔しさが込み上げ、少年は声を殺して泣いていた。
最年少でのコンクール入賞の影響で、演奏依頼も数多あったが、少年は全て断った。また少年はそれから暫くの間、コンクールを受けることがなかった。普段の勉強が忙しくなり、どの分野でも負けず嫌いの少年は勉強に手を抜くこともしたくなかったのだった。まだエーデルバッハの言った「2位にしかなれなかった理由」も分からないままだった。このままコンクールを受けても、おそらくまた2位どまり、もしかしたらそれ以下で彼の評価を下げることになる惧れもあった。それ以上に、少年はまだ音楽の道を進むことを決めかねていた。幼い頃から弾いてきたヴァイオリンはもう自分の一部であり、何があっても手放すことはないだろうが、このまま何とはなしに音大へ進み、音楽家となっていいものだろうか。音楽を、ヴァイオリンを仕事とすることは、まだ少年には全く想像できなかった。
月日は流れ、少年はもはや、少年と言う歳ではなくなっていた。進路を決めざるを得なくなった彼は、まず家族に相談した。家族は彼が望む道を進むことを願い、どの道に進もうと見守ることを約束した。それから少年−否、青年はエーデルバッハの意見を聞いた。もし彼女が音大に行くことを薦めるのだったら、素直にそれに従おうと思っていた。エーデルバッハは多くの音楽家を育ててきたし、自分が演奏家になることができるかどうか、彼女なら判断できるだろうと彼は思っていた。もし音楽家に向いていないとエーデルバッハが判断したのなら、恐らくそうだろうし、それならば別の道を進もうと決めていた。しかし彼女も彼が自分で決めるよう諭した。
「あなたの目の前にある道は3つです。音楽以外の道を選ぶか、すぐに演奏家となるか、音大へ行き更に研鑽をつむか。二つ目は、あなたのコンクール歴から可能ですが、わたくしとしては薦めませんね。あなたは恐らく、前回のコンクール後にわたくしが言った事を覚えているでしょう。教わるだけでなく、自ら学び取ることが必要だと。まだあなたには両方とも足りません。今の実力でも”天才少年ヴァイオリニスト”という肩書きで演奏していけるかもしれませんが、このままではそれで終わりになってしまう可能性があります。年若くコンクールに入賞した天才少年少女たちが、その後に伸び悩み、結局はヴァイオリニストとしてやっていけなくなった姿をわたくしは沢山見ています。あなたにはそうなって欲しくないのです…もし音楽の道を選ぶのだったら、ですが」
エーデルバッハの言うことは、青年にはよく理解できた。しかし音楽の道を選ぶか、そうでないかはまだ決めることが出来なかった。
「一流の音楽家と、そうでない人との差は、どこにあると思いますか?」
突然の質問に、青年は戸惑った。練習内容の違い、人間性、師事したヴァイオリニストの違い…彼は思いつくだけ列挙した。
「そうですね、そういうものもありますが、一番大きなものは才能です。どんなに努力しても才能がなければ出来ないのです。プロの、一流の音楽家に授けられたもの。世界中の一握りの人間しか持つことが出来ないものです。わたくしたち教師は、その才能を見出し、更にそれを伸ばす手伝いをすることが仕事です。あなたにはそれがあります…初めて会った時、あなたはまだ3歳でしたが、今まで教えたどんな人たちより、才能が溢れていると感じました」
青年は驚いた顔をしてエーデルバッハを見つめていた。彼女は微かに笑みを浮かべた。
「それでも才能だけではやはり駄目なのです。矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、才能があっても相応しい教育を受け、本人が努力しなければ一流にはなれないのです。あなたはまだダイヤの原石のようなもの。これからどう磨くかで、いくらでもその行き先は変わるのです。音楽の道を選ぶことを強制はしません。あなたならどの道を進んでも、立派にやっていけるでしょう。それでも音楽家として、教師として、あなたの才能を埋もれさせることは出来ればしたくないですが」
そう言うと彼女は楽譜を開き、青年に弾くよう促した。
レッスンが終わり、青年はエーデルバッハに質問した。音楽家という職業は、どういうものであるかと。
「どの職に就いても、それぞれ大変だと思いますよ。音楽家に関して言えば、自分の身一つでやっていかねばならないことがまず大変ですね。音楽と、曲と、楽譜と一対一で対峙して、自分の身を削り演奏するのです。そして音楽の勉強には終わりはありません。この道に進んだら、一生学び続けることになります。もちろん音楽家と言っても、ソロとオーケストラと、いろいろ違いはありますが、根本的には同じでしょう。それでも音楽家にしか出来ない喜びもあります。それは…」
彼女はここで言葉を切った。そして彼女には珍しく、いたずらっぽく微笑んだ。
「それは音楽家だけの秘密です。知りたいのだったら、あなたには学び取って欲しいですね。これから先、何年もかけて、頭ではなく心で理解するものです」
青年は家に帰り、今日受けたレッスンの復習をした。彼の頭からは、エーデルバッハの言葉が離れなかった。「音楽家にしか出来ない喜び」とは何だろうか。彼は楽器を弾くということ、演奏するということの素晴らしさには、もう何年も魅了されていた。紙に印刷された楽譜から、彼がヴァイオリンを弾くことにより、音楽は常に新たに生み出される。時間も空間も超えた音楽。彼はヴァイオリンを弾く手を止めた。まだ自分は音楽のほんの表面しか知らないのかもしれない。ヴァイオリニストとしてまだ発展途上であることは確かだったが、更に勉強することでもっと音楽のことを理解できるのかもしれない。彼は充分長くヴァイオリンを弾いてきたつもりだったが、まだ道の入り口に立っているだけだったのだ。青年は気持ちを固めた。
そしてここから彼の音楽家としての人生が始まった。
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