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年が明けた。コリンは相変わらず多忙だったが、少しずつ以前の気持ちを取り戻していた。2月のある日、マッケンジーが席に着こうとするコリンを呼び止めた。
「実はもうすぐアリスの誕生日なんだが…何か小さなサロンコンサートでもしようと思ってね。君に手伝ってもらえると嬉しいんだが」
彼は他の団員たちに聞こえないよう、かなりの小声で話した。
「いいですよ、喜んで」
コリンは笑顔で答えた。コンサートマスターの席に着くと、オーケストラピットの中をアリスが覗いているのに気が付いた。
「こんばんは、アリス」
少女は少し驚いた顔をしたが、すぐに笑顔になった。
「こんばんは、お兄ちゃん。私の名前を知っているのね。私はお兄ちゃんの名前を知らないのに」
コリンは彼女の笑顔につられて微笑んだ。
「ごめん、ごめん。そうだったね、これは失礼しました。僕はコリンだよ」
「コリン…何さん?」
「コリンでいいよ。苗字はファースだけど」
「クラスにもコリンっているわ。すっごくいたずらっ子なのよ」
いたずらでひどい目にあったのか、少女は顔をしかめた。
「アリス、もう席に戻りましょう」
彼女の祖母がそう言って、アリスを連れて行こうとした。そしてコリンに向かって微笑んだ。
「主人がいつもお世話になってます、ファースさん。お噂はかねがね伺ってます」
「こちらこそ…」
マッケンジー夫人は会釈すると、少女を連れてオーケストラピットから離れて行った。
アリスの誕生日のため、コリンとマッケンジーは弦楽四重奏をすることに決めた。ヴィオラとチェロは、コリンと親しく、そして−コリンはこれを重要視したのだが−他の団員より音楽を楽しむことが出来るサブリナとジェイミーに頼んだ。二人とも弦楽四重奏には興味を示したが、最初はマッケンジーと弾くことに躊躇した。コリンは彼らに、いかにマッケンジーが音楽を愛し演奏家として立派であるか、そして皆の言うように偏屈な年寄りではないということを話し、二人を説得した。四人はお互い仕事のない日にマッケンジーの家に集まり四重奏の練習をした。マッケンジーの演奏はセカンドヴァイオリンの多彩な役割を知り尽くしたものだった。一人で弾いて魅力的な演奏では決してなかったが、アンサンブルの中に入った時、その場に最も相応しい音色・音量・表現で周りに溶け込んでいた。サブリナとジェイミーだけでなく、コリンも改めてセカンドヴァイオリンとしてのマッケンジーの力量に驚いた。マッケンジーのセカンドヴァイオリンのお陰で、彼らはいつも以上に気持ちよく自分のパートを弾くことが出来た。彼らの演奏は音楽の喜びに満ち溢れたものだった。コリンは以前いたオーケストラで弦楽アンサンブルをしていた時のことを思い出していた。そうだ、これが僕の弾きたい音楽だ…コリンは久しぶりにこの感覚に浸っていた。普段は大勢の中に埋もれてしまっているが、これならアリスも祖父のヴァイオリンを聴くことができ、喜んでくれることだろう。コリンとマッケンジーはそう確信していた。コリンにはもう1つ、大事な計画があった。これにはマッケンジー夫人の協力が必要だった。コリンは団員名簿でマッケンジーの家の電話を調べ、夫人に電話をした。
アリスの誕生日がやって来た。ロンドン郊外にあるマッケンジー夫妻の家に、アリスと何人かの友人、マッケンジー夫妻、そしてコリンとサブリナ、ジェイミーが集った。マッケンジー夫人の料理に舌鼓を打ち、それから弦楽四重奏のコンサートとなった。彼らの演奏は素晴らしいものであった。アリスは目を輝かせ、音楽の世界に浸っていた。アリスの友人たちも、普段はあまりクラシック音楽に触れていないのだが、すっかりその音色に魅了されていた。コリンは演奏している間、ずっとある人が来るのを待っていた。しかし、用意した3曲を弾き終わっても、その人は姿を現さなかった。コリンは少しがっかりした。それでも目的の内の1つ、アリスに喜んでもらうことは充分出来たから、良しとしよう…コリンはそう思った。温かい拍手に包まれた4人の弦楽器奏者は、オペラの公演が終わった時よりも充実感を感じていた。コリンに促されて、マッケンジーが口を開いた。
「それではアンコールに、チャイコフスキーの『アンダンテ・カンタービレ』を」
チャイコフスキーの弦楽四重奏第1番第2楽章『アンダンテ・カンタービレ』。柔らかく温かい弦楽器の音色が、部屋中を満たしていった。4人はコリンを中心に見事なアンサンブルを聴かせた。しかしコリンはこの時、自分よりマッケンジーの気持ちにリードされている気がしていた。彼の孫娘に対する愛情が、そのまま4人の曲想となっていた。最後の音の余韻が消えると、暫く沈黙が訪れた。そしてそれをアリスの小さな手から生み出される拍手の音が破った。
「おじいちゃん、ありがとう」
少女とその祖父は固く抱き合った。そこにいる全ての人が、コリンもサブリナもジェイミーも皆、2人に拍手を送った。その時、コリンは隣室との間の扉の横の人影に気が付いた。コリンの変化にマッケンジーも気が付き、そちらに視線を向けた。
「…メアリー…」
信じられない、という顔をマッケンジーはした。アリスもその人物に気が付き、駆け寄って行った。
「ママ、来てくれたのね!」
「…ママと、そこにいるファースさんが来いって言うから…」
マッケンジーの娘でありアリスの母である女性は、部屋に入ってきた。コリンは彼女に向かって微笑んだ。
「お節介だとは思ったのですが、どうしても来て頂きたくって」
メアリーはどういう顔をしていいのか分からないといった表情をした。マッケンジーと彼女は向き合っていたが、暫くお互いに何も言わなかった。メアリーはマッケンジーから視線をそらすと、アリスの髪を撫でながらぽつりと言った。
「パパのヴァイオリンを聴くのは、何年ぶりかしらね…ああいう音を出す人だったのね。パパが変わったのか、私が変わったのか…それとも何も変わってなんかいないのかしら」
マッケンジーはオーケストラピットの中にいる時と同じく、気難しそうな顔をしていた。突然マッケンジーはメアリーに手を伸ばした。誰もが彼女を叩くのかと一瞬ひやりとし、メアリーも目をつむった。しかしそうではなかった。マッケンジーはメアリーの頬と、アリスと同じ色をした髪に優しく触れると、彼女を強く抱きしめた。最初は驚いていたメアリーも、マッケンジーの広い背中に手を回した。マッケンジーの蒼い瞳には涙が光っていた。
客人たちが帰り、コリンもマッケンジー家を辞そうとしていた。マッケンジーにぜひ夕食も一緒にと誘われたが、メアリーを含めての家族団らんの場に邪魔したくはなかった。マッケンジーはコリンを玄関まで送って行った。
「それにしても、こんな企みがあったとは、気が付かなかったな」
マッケンジーは照れ笑いを浮かべつつ、コリンに言った。
「優秀な共犯者がいたことを忘れないでくださいよ」
コリンは片目をつむってみせた。コリンは何度もメアリーに連絡を取ったが、それ以上にマッケンジー夫人の尽力があったのだった。しかし隣室で静かに演奏を聴いていたメアリーが、姿を見せる気になったのは、何よりもマッケンジーのヴァイオリンの威力だったことは間違いなかった。彼のアリスに対する愛情溢れるヴァイオリンが、メアリーの心の氷をも溶かしたのだった。
「お嬢さんに、今度オペラ座にも聴きに来て下さいと伝えておいて下さい。アリスと一緒に」
「わかったよ」
コリンとマッケンジーは固く握手をした。
「それじゃあ、また」
「今度は『トスカ』で一緒ですね」
「またイタリア物か。歌手が勝手に歌うから、やり難いんだ」
コリンは笑った。それにつられてマッケンジーも笑顔になった。
「とにかく、今日はどうもありがとう」
マッケンジーに微笑むと、ヴァイオリンケースを肩に担ぎ、コリンは駅に向かって歩き出した。
そのシーズンの最終演目は『ラ・トラヴィアータ』だった。このオペラの主人公の名「ヴィオレッタ」を聞くことは、長い間コリンには辛いことだったが、ようやくそれにも慣れてきた。そしてその日は、このシーズンで引退するマッケンジーの最後の公演でもあった。演奏が終わると、何人かがマッケンジーの所に祝辞を言いにやって来た。コリンは最後にマッケンジーの所へ行くと、すっと手を差し出した。
「長い間お疲れ様でした。今日、この後の予定はいかがですか?」
そこまでコリンが言った時、後方からコリンとマッケンジーを呼ぶ少女の声がした。振り向くと、アリスが母親と祖母と一緒にオーケストラピットの横にいて、彼らに手を振っていた。マッケンジーは照れくさそうに軽く手を挙げ、コリンも笑顔で手を振り返した。
「すまんが、今日は真っ直ぐ家に帰るよ」
本当に済まなそうにマッケンジーはそう言った。コリンは納得して、微笑んだ。2人は着替えるために楽屋へ並んで歩いて行った。
「これからは、ご自宅でヴァイオリンを教えるんですか?」
「そうだな、小さい子達に楽しさを教えられるといいんだが…アリスも今度から私のところで弾くことになったんだ」
嬉しそうに目を細めてマッケンジーは言った。コリンは自分の楽屋の前で立ち止まり、改めてマッケンジーに握手を求めた。
「たまにはここに来て、厳しく批評してくださいよ」
「やっと肩の荷が下りたのにまだ働かせようとは、ひどいコンサートマスターだな」
マッケンジーは笑いながら、コリンの細い手より一回り大きな手で、コリンの手を握った。
「またいつか会えるだろう…君がますます素晴らしいコンサートマスターになることを楽しみにしてるよ」
「ありがとうございます。それじゃあお元気で、マッケンジーさん」
「ウィリアムだよ、コリン」
マッケンジーはにっこりと微笑むと、コリンに背を向けて自分の楽屋に歩いて行った。マッケンジーは初めてコリンをファーストネームで呼んだのだった。
「ありがとうございます…ウィリアム」
コリンはマッケンジーの姿が楽屋に消えるまで、その後姿を見送っていた。
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