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コリンは初めて入った小さな街のプロ・オーケストラを離れ、ロンドンのオーケストラのコンサートマスターとなった。そのオペラ座つきの有名オーケストラは、毎日のようにオペラやバレエの公演があり、さらに月に1,2度の管弦楽のコンサートもあった。もちろん全ての演目に出番があるわけではなかったが、それでも前のオーケストラに比べ、本番の回数は何倍にもなった。更に舞台ものの場合、既にこのオペラ座のレパートリーとなっている演目は、ほとんどリハーサルをすることなく本番を迎えるため、今までオペラやバレエの経験がないコリンは人一倍練習しなければならなかった。それでも前のオーケストラで3年間培ったコンサートマスターとしての実力、持ち前のヴァイオリニストとしての才能、そして努力家の性格から、コリンは程なくこのオーケストラに馴染み、仕事にも慣れていった。
このオーケストラのセカンドヴァイオリンに、間もなく定年を迎えようとしている老ヴァイオリニストがいた。彼はマッケンジーといい、音楽家としての人生のほぼ全てをこのオーケストラで過ごしていた。おそらくコリンが産声をあげる以前からここで弾いていたのだろう。いつも誰よりも早くオーケストラピットに入り、譜面をさらい、終演後は軽く挨拶するだけですぐに帰途についていた。彼は他の団員たちと共にいることも少なく、あまり目立つ存在でもなかったため、コリンは暫く気に留めていなかった。団員たちのマッケンジーに対する評判も「頑固で面白みのないじいさんで、口癖は昔はよかった、だよ」というものであった。コリンはコンサートマスターとして、全ての団員をよく知りたいとは思っていたが、昔いたオーケストラと違い、今度のオーケストラではあまりにも仕事が忙しすぎて、他の事まで気が回らないのが現実だった。
開演前の会場のざわめき。シャンデリアの輝くオペラ座に、着飾った紳士・淑女が集まり、ロビーでワインのグラスを傾けながらこれから上演される演目の芸術談義に花を咲かせていた。オーケストラピットの周りには興味深そうに人々が集まり、練習する何人かの団員たちを覗き込んでいた。コリンは燕尾服の袖口を軽く整えるとヴァイオリンを手にし、いつもより少し早めにオーケストラピットへ向かった。顔を合わせた団員たちと握手をし、コンサートマスターの席に座ろうとして、一人の少女と目が合った。彼女はまだ幼く、オーケストラピットをようやく覗き込めるくらいの身長だった。栗色の髪をおさげにしたその姿をコリンは何度も見た覚えがあった。
「こんばんは」
コリンは笑顔で挨拶した。少女は話しかけられるとは思っていなかったらしく、一瞬驚いたが、すぐに笑顔になった。
「こんばんは…ねえ、お兄ちゃん、コンサートマスターなの?その席に座る人って、コンサートマスターって言うんでしょう?」
無邪気な笑顔での無邪気な質問に、コリンは破顔した。おそらくコンサートマスターがどういうものなのかは、分かっていないのだろう。
「そうだよ。君は一人で来たの?」
彼女は思い切り首を横に振った。
「違うよ、おばあちゃんと。ママはここが嫌いなの。パパは忙しいんだって」
コリンはどう答えていいのか分からなくなった。しかし少女がまたにっこりと笑いかけたので、コリンも笑顔を返し、席に着くと楽譜をめくり練習を始めた。少女はよっぽどオーケストラが好きなのか、熱心にオーケストラピットの中を見つめていた。開演のベルが鳴ると、少女の祖母と思しき品のある老婦人が彼女を迎えに来た。
「ほら、もう始まるからおじいちゃんに手を振って挨拶なさい」
「おじーちゃーん」
彼女はオーケストラピットの中にいる人物に向かって、手を振った。コリンは彼女の視線の先を追った。そこにはマッケンジーがいた。彼はちょっとだけ右手を挙げた。その顔は相変わらず気難しそうだったが、眼鏡の奥の瞳は優しかった。
コリンはそれからもその少女によく会った。大抵は彼女の祖父、マッケンジーのヴァイオリンを聴いているようだったが、時折コリンが弾いているのも聴いていた。
「お兄ちゃんのヴァイオリン、上手ねぇ。音がきらきらしてる。おじいちゃんより上手なの?」
「さあ、どうだろう」
コリンはくすくす笑った。もちろんコリンがマッケンジーより上手なのは分かりきったことだった。しかしコリンは、いつもセカンドヴァイオリンの一番後ろで弾いているマッケンジーのヴァイオリンのことは、何一つ知らなかったことに気が付いた。
「君もヴァイオリンを弾くの?」
「うん、ちょっとだけ」
「おじいちゃんに習ってるの?」
「違うよ、先生に。でもママは私が弾くのを嫌がってるの。パパもママも勉強しなさいって、そればかり言うのよ」
少女は何気なく言ったが、この間彼女が言ったことといい、複雑な家庭環境なんだろうかとコリンは思った。
「私ねぇ、大きくなったらおじいちゃんみたいに、ここで弾くんだ。お兄ちゃんとも一緒に弾こうね」
「そうだね、楽しみにしてるよ」
コリンは笑顔になった。このオーケストラに入ることはもちろんかなり難しいのだが、そんなことは知らない無邪気な少女の言い様は微笑ましいものであった。
この少女とのやりとりと通じて、コリンはマッケンジーに興味を持ち始めた。同僚だが今まで特に話したこともなかった人物。コリンの人生より長くオーケストラで弾いている人物。そしてあの少女の祖父である人物。他の団員たちの言う人物像は当てはまるのだろうか。一体彼はどういった人間なのだろうか。コリンはある日、開演より30分前にオーケストラピットへ入って行った。思ったとおり、既にマッケンジーはセカンドヴァイオリンの一番後ろにある自分の席に着き、譜面をさらっていた。コリンは演奏するときより緊張し、声をかけた。
「こんばんは…マッケンジーさん」
コリンは彼のファーストネームを知らないことに、今更ながら気が付いた。団員同士は大抵ファーストネームで呼び合っているというのに。そういえば誰もマッケンジーのことをファーストネームで呼んではいなかった。マッケンジーは練習する手を止め、コリンのほうを振り向いた。声をかけられたことに少し驚いているようだった。コリンの差し出した華奢な整った手を、マッケンジーは自分の少したるんだ手で軽く握った。
「こんばんは、ファース君」
彼はまた練習を再開しようとしたが、コリンがそれを遮るように話を続けた。
「いつも早いんですね」
マッケンジーは彼の真っ白な眉を軽く上げたが、特に怒ったわけでもなく、コリンに素っ気無く答えた。
「プロとして毎回ベストを尽くすのが当然だからな。今日の『ラ・ボエーム』にしたって、もう数え切れない程弾いているが、まだまだ改善の余地はある」
そう言うとマッケンジーはまたヴァイオリンを弾き出した。コリンはもう話しかけることは出来ず、自分の席に着こうとマッケンジーに背中を向けた。
「…孫が、よく君と話しているようだが、どうも世話になっとるね。どうやら君のヴァイオリンが気に入ったようだ…いい耳を持っているらしい」
今度はコリンが話しかけられたことに驚いた。振り返ってみると、マッケンジーが相変わらず無愛想な顔をしてこちらを見ていた。しかし瞳は優しさを湛えていた。それは孫娘に見せたものと同じであった。コリンはにっこりと微笑んだ。
それからというもの、コリンはいつも早くオーケストラピットに入り、マッケンジーと軽く会話を交わすようになった。最初はコリンの質問に答えていただけのマッケンジーも、少しずつ自分からも話すようになってきた。あの少女はマッケンジーの娘の子であること、近所に住んでいる彼とその妻が多忙な両親に代わって少女の面倒をよく見ていること、そのうち自ら少女にヴァイオリンを教えるつもりであることなど、あまり話し上手とは言えなかったが、慎重に言葉を選んでゆっくりとマッケンジーはコリンに話した。またとりわけコリンにとって面白かったのは、マッケンジーの長いオーケストラ経験での、様々な指揮者の話、歌手の話、演奏家の話、作品の話などであった。忘れられぬほどの素晴らしい体験もあれば、失敗談もあり、よかった指揮者、喧嘩した指揮者、生演奏ならではのトラブルの数々など、まだほんの数年しかないコリンのオーケストラ経験ではとうてい体験できないものばかりであった。またコリンは、マッケンジーのヴァイオリンをじっくりと聴くことが出来た。彼のヴァイオリンは、もちろんコリンと比べられるようなものではなかったし、個人で弾いていてとりわけ上手いということもなかった。しかし彼の弾き方は、セカンドヴァイオリンの役割、オーケストラや曲をよく理解しているものであった。旋律を弾く時、伴奏を弾く時、裏の旋律を弾く時、それぞれに相応しい音色とバランスでマッケンジーは弾いていた。彼はソリストではなく、まさにオーケストラプレーヤーであった。
ある日、いつもと同じくコリンが早めにオーケストラピットに入ると、マッケンジーのほうから珍しくコリンに質問をしてきた。
「ファース君、君はこのオーケストラに来る前、何をしていたんだね?」
コリンは今までどういう音楽生活をしてきたかを簡単に話した。まずロンドンの音大を出て、それから世界各地のマスターコースを受け、更にある小さな街のオーケストラで3年間弾いていた事を話した。マッケンジーはその小さなオーケストラに興味を持ったようだった。彼がもっと詳しく知りたそうだったので、コリンはオーケストラの仲間たちのこと、それ程うまいオーケストラではなかったが皆音楽を心から楽しんでいたこと、街の人々から愛されていたオーケストラであったことなどもマッケンジーに聞かせた。とりわけコリンに多大な影響を与えた、そのオーケストラの素晴らしいコンサートミストレスのことを、コリンは熱心に話した。マッケンジーは孫娘に見せるような笑顔をコリンに向けた。
「素晴らしいコンサートミストレスなようだ…女性としても」
コリンは自分の気持ちをマッケンジーに悟られたことに気が付き、顔を赤くした。マッケンジーはそれを見て声を上げて笑った。マッケンジーがそんな風に笑うのをコリンは初めて見た。笑いを収めると、マッケンジーは穏やかな蒼い瞳でコリンの深い色の瞳を見つめた。
「君はいいオーケストラにいたようだ。音楽を楽しむオーケストラに。君がそういう風に音楽家として育ってきたことは、君がここに来た最初に感じたよ。…しかし今はどうかね?今も音楽を楽しんでいるかね?」
そのマッケンジーの質問は、それからというものコリンの頭から離れることがなかった。今も音楽を楽しんでいるか…イエス、と答えたかったが、コリンはそれは出来なかった。今まで考えることもなかったが、確かに前のオーケストラで弾いていた時とは自分の音楽に対する気持ちが変わっていた。前のオーケストラでは月に1,2度のコンサートのために、それぞれ3回のリハーサルを行い、大事に曲を仕上げていった。演奏する全ての曲が名曲ではないが、それでも1曲1曲に心を込めて取り組み、それを皆で楽しんでいた。更に有志のメンバーでの弦楽アンサンブルでは、本当に音楽をやりたくてしょうがないといった気持ちが溢れていた。しかし今では、3日に一度くらいの割合で回ってくる舞台の仕事、そして管弦楽のコンサートの仕事と、前とは比べ物にならないほど忙しく、音楽を楽しむ余裕がなくなってきていた。管弦楽のコンサートでは普通にリハーサルを行うが、舞台の場合は初演のものでない限り、ほとんどぶっつけ本番の状態で、皆で音楽作りをしていくという感覚はなくなっていた。コリンは唖然とした。あんなにも音楽を楽しむよう言われていたのに、自分はなんと変わってしまったことか。しかしコリンだけではどうしようもないことであった。たとえコリンが以前のように音楽を楽しもうとしても、周りの団員たちが同じようにしなければ、出来ないことであった。今のオーケストラに移ってきて最初の休暇中も、コリンはこのことについて考えた。仕事に追われている時はそれほどでもなかったが、時間が出来ると昔のように音楽を楽しみたいと思うようになった。
休暇が終わり、このオーケストラでの2シーズン目に入った。そして間もなくコリンは誕生日を迎えた。そしてこの日、コリンが誰よりも慕い、愛していた女性が亡くなった。コリンの心はまるで空っぽになったかのようであったが、仕事に穴を開けることもなく、他の団員たちにそれを悟られることもなく、淡々と仕事をこなしていった。かえって仕事が忙しいのがコリンの救いとなっていた。愛しい女性の死を考えずにとにかく音楽に没頭することが、彼にとって唯一出来ることであった。それでも、仕事が終わり家路につくと、音楽の楽しさを教えてくれた人がもうこの世にいないということがコリンの心に重くのしかかり、独り涙を流すこともあった。演奏している間は立派なコンサートマスターでいられたが、それ以外はまるで子供のような自分が泣き叫んでいるのを、コリンは感じていた。そんなある日、オペラの演奏が終わり、オーケストラピットからコリンが立ち去ろうとした時、マッケンジーが声をかけてきた。
「今晩は時間があるかね?ちょっと話したいことがあるんだが…」
コリンは最近、独りでいたくはなかった。マッケンジーとも暫く話していなかったので、丁度いい機会だと思い、マッケンジーの誘いに乗った。2人は近所のパブへ入って行った。
マッケンジーは話したいことがある、と言ってコリンを誘ったが、一向に話しそうもなかった。2人とも黙り込んだままグラスを傾けていた。
「…昔は、このオーケストラももっと違ったんだ」
突然マッケンジーが話し出した。コリンはマッケンジーを見つめた。
「これほど有名じゃなくってね、今ほど上手でもなかったし、こんなに毎日本番があるわけじゃなかった。それでも皆、音楽を愛していたし、演奏することを楽しむ余裕があった。仕事ではあったが、稼ぐためより、弾くために皆演奏していた。今は給料も上がったし、オーケストラも有名になりお客さんもたくさん聴きに来るようになった。昔よりよくなった点も多いが、残念なことに、若い連中は仕事だけしに来るようになったよ。技術は昔の仲間たちより遥かにあるんだが、弾いている喜びが感じられないんだ」
コリンはこの言葉に反応した。弾く喜び…何度この言葉を言われたことだろうか。そしてその言葉は、コリンにとって一番大事な女性を思い出させるものであった。マッケンジーはコリンの顔色が変わるのに気が付いたが、そのまま先を続けた。
「前にも言ったが、君がここに来た時、とっても嬉しかったんだ。コンサートマスターとしてはまだまだだったが、何と言うか、ダイヤの原石のような気がした。なにより音楽を楽しむことを知っていることが、セカンドヴァイオリンの後ろにまで伝わってきたんだ。若いヤツにも見所のあるヤツがいるじゃないか、ってね」
軽く微笑むと、マッケンジーはグラスに口をつけた。
「だんだん仕事のために弾いているようになっていたが、また休暇後には元に戻っていたから安心していたんだが…」
マッケンジーの蒼い瞳はグラスの中の液体を見つめていた。どう続けていいのか分からない、という彼の気持ちがコリンにも伝わってきた。おそらくマッケンジーはコリンに何か起こったことに気が付いたのだろう。そしてコリンから話を聞きたいのだろう。しかしコリンも、どう話していいのか分からなかった。
「…私は娘を失ったよ」
その言葉にコリンは驚いてマッケンジーを見つめた。彼の娘、つまりあの少女の母親を失ったとはどういうことだろうか。
「物理的に失ったわけじゃないんだが…精神的に、とでも言おうか。私は20歳そこそこからこのオーケストラで弾いていた。結婚してからも、娘が生まれてからも、今のように…いや、昔はこんなに忙しくはなかったんだが…それでもほぼ毎日あのオーケストラピットの中で弾いてきた。職業柄、夕方以降は家にいることがほとんどなかったんだ。娘は寂しかったんだろう、父親を取り上げた音楽を、そしてその父親を憎むようになったんだ。彼女が結婚してからは、会うことすらなくなった。彼女は娘が…孫のアリスのことだが…彼女がヴァイオリンを習うことにも大反対したんだ。結局はアリスが強く望んだのと、妻が説得したのとで、私以外に習うということで了解したんだが。しかしどうだね、彼女が結婚した相手は私以上に忙しく、家庭を顧みないヤツじゃないか。娘も孫を放りっぱなし、孫の世話は妻がしている始末だ。娘はアリスにも自分と同じ思いをさせていることに気が付いてないのだろうか」
コリンは最初にあの少女…アリスと話した時のことを思い出していた。ママはここが嫌いで、パパは忙しい…そう言っていた。ママはヴァイオリンを弾くことを嫌がっているとも。それにはこういう事情があったのか…コリンは少女の無邪気な笑顔を思い出し、いたたまれない気持ちになった。
マッケンジーはずっとグラスを見つめたまま話した。
「…娘は依怙地だが、私もそうだった。こちらから解決の糸口を見つけようとはしなかったんだ。今は後悔してるよ。もっと早くに何かすればよかった。今からじゃ遅いだろうか…」
「遅くないですよ…遅くなんかないです」
コリンは力強く言った。マッケンジーはコリンに顔を向け、温かい笑顔になった。
「そうだな、遅くはないか」
「そうですよ、手の届くところにいる人なら、何とか出来る筈です」
マッケンジーは軽く眉を上げたが、コリンのその言葉について特に追求しようとはしなかった。少し哀しそうな笑顔をコリンに向けると、懐中時計を取り出し時間を見た。
「随分遅くまで付き合ってもらってしまったな。明日の出し物は体力がいるからな、そろそろ帰らんと」
マッケンジーはコリンの分も合わせて勘定をカウンターに置いた。
「今日は年寄りの話しに付き合ってくれてありがとう。だいぶすっきりしたよ」
そう言うと、マスターに軽く挨拶し、店から出て行った。マッケンジーも話したかったのだろうが、彼の本当の目的はコリンから話を聞きだすことであったことは、コリンも充分承知していた。この辛い気持ちを誰かに話したいという気持ちと、話してもどうにもならないと思う気持ちと、コリンの中で渦巻いていた。
何日か後、コリンは終演後にマッケンジーに声をかけた。
「今日は時間がありますか?この間の続きで話がしたいんですが…」
マッケンジーはコリンの深刻な面持ちを見て、同じように真面目な顔になった。そしてコリンの肩を軽く叩くと、頷いた。この数日の間に、コリンはマッケンジーになら話せそうな気がしていた。彼もコリンに悩みを打ち明けてくれた。そして彼は愛する人を失ってからのコリンの変化に気が付いていた。誰かに話すとしたら、マッケンジーしかいないだろう。そしてもし話して救いが得られるなら…コリンはそう考えていた。以前と同じようにカウンターに並び、コリンとマッケンジーはグラスを傾けていた。話そうと決めても、コリンはなかなか話し出せなかった。マッケンジーは静かにコリンが話し出すのを待っていた。暫くしてコリンはぽつりぽつりと話し出した。彼に音楽の楽しさとオーケストラの素晴らしさを教えた、誰よりも尊敬し憧憬し愛した女性が、彼の誕生日に彼に会いに来るためにロンドンに来る途中、事故に遭い亡くなったことを、コリンは静かにグラスの中の液体を見つめつつ話した。マッケンジーもそれをただ黙って聞いていた。コリンが全てを話し終えて、暫く無言の時が流れた。
店にある大きな柱時計が11時を打った時、マッケンジーが重苦しい沈黙を破り、ゆっくりと話し出した。
「…君の気持ちが分かるとは言わないよ。この年になると人の死に目に何度も遭ったが、君がその女性に対して抱いているのと同じ想いを私がその人たちに持っていたとは言えんからな」
マッケンジーはグラスの中の黒ビールを一口飲んだ。
「しかしこれだけは確かだと思う。彼女は君の中で生きているんだ。ただし、君が以前のように音楽を心から楽しんで弾いている時にね。素晴らしいコンサートマスターとして、聴衆だけでなく、弾いている人間たちにも音楽の喜びを伝えている時だ。私は彼女と面識がないから迂闊なことは言えんが、おそらく君がそういうコンサートマスターになることが彼女の望みだったんじゃないかね?君が今のように表面的にだけ完璧な演奏をしているようでは彼女は浮かばれない、それこそ本当に死んでしまうよ。音楽がある限り、君と彼女とのつながりはなくならないはずだ」
コリンはグラスから視線を外し、マッケンジーを見た。彼もそれに気が付き、コリンを真っ直ぐに見返した。マッケンジーの眼鏡の奥の瞳は、優しさと威厳を湛えたものだった。
「君は今だって彼女を愛することが出来るだろう。それと同じで愛されることだって出来るんだ。もちろん、もう触れることは出来ないが…それでも君から断ち切らない限り、君と彼女の想いはつながっているはずだ」
マッケンジーは少しすると、柄にもないことを言ったと思ったのか、少し頬を赤くするとまたグラスに目を向けた。コリンは自分の気持ちを考えた。今でも彼女を強く愛している。そして音楽も。その気持ちには変わりがないのに、どうしてこんなに自分は変わってしまったのだろう。マッケンジーの言う通り、今のコリンの状態は彼女の望むものではなかった。
「突然以前のようになれとは言わないよ。彼女の死を受け入れるのも、気持ちの整理がつくのにも、時間が必要だからな。ただ今の君は、一番忘れてはいけないことを忘れている気がしたんだ。少しずつ、以前の君に戻ってくれれば…出来れば私が引退する前に」
それからコリンはマッケンジーに言われたことを何度も考えた。彼女がもうこの世界にいないということはコリンにとって耐え難いことで、それを受け入れることには時間がかかるだろうし、この哀しみは一生消えることがないであろう。しかし、だからといって自分の中の音楽まで死なせてしまっていいのだろうか。音楽に対する思いを捨ててしまっていいのだろうか。ヴァイオリンを弾いていれば、いつでも彼女と共にいられることは確かだった。コリンはヴァイオリンケースについている木製の天使の人形を見つめた。亜麻色の髪の天使と、茶色の髪の天使。コリンは整った手を伸ばし、その人形を取った。それを買った時のことを思い出し、彼は微笑んだ。彼女はいつでも僕を見守っていてくれる…コリンはそう思った。それに僕は一人じゃない…昔も今も、音楽でつながっている仲間がいるじゃないか…
「コリン、あなたは一人じゃないわ…周りを見て。仲間がいるわ…皆コリンが大好きよ」
亜麻色の髪の天使が、そう言った気がした。
「そうですね、ヴィオレッタ…」
コリンはずっと口にしていなかった名を呼んだ。
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