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それからのオーケストラは、ヴィオレッタ、トニー、コリンの3人のコンサートマスターを軸に演奏していった。コリンもコンサートマスターとして数をこなすうちに、すっかりとこのポストに馴染み、めきめきと力を付けていった。またオーケストラも、コリンのソリスト並みの実力に引っ張られるように、技術的にも音楽的にも向上していった。既にコリンがこのオーケストラに来て、3年目のシーズンに入っていた。コリンは未だヴィオレッタに自分の想いを伝えることはできなかった。以前よりもヴィオレッタは、コリンに対し打ち解けてくれているようにはなったが、それでもまだ彼女にとってコリンは新人であり、コンサートマスターとしても発展途上であることは、コリンもよく分かっていた。何より、ヴィオレッタの心の中のヘンリーの存在を、コリンは未だ強く感じていた。冬の足音が聞こえてきたある日、コリンは練習の際ヴィオレッタの隣で弾いていて、彼女がいつもと何か違う気がした。いつも通りコンサートミストレスとしては素晴らしかったが、何か気持ちがどこか別のところにあるような、そんな感じがした。ヴィオレッタに直接聞く事は出来ず、帰り際にアンナにそれとなく聞いてみた。アンナは一冊の雑誌を差し出した。それはロンドンで出版されている、クラシック音楽専門雑誌で、この世界ではかなり力のあるものであった。先月の演奏会に、その雑誌の有名評論家が取材に来ていたらしく、このオーケストラと、とりわけコンサートミストレスを務めていたヴィオレッタのことを、散々こき下ろしていた。コリンはもちろんその演奏会でも弾いていたのだが、その記事に書いてあることは全く当てはまらず、怒りが込み上げてきた。
「何だってこんなこと…嘘ばかりじゃないか」
「でも実際聴いていない人たちは、これを信じるだろうね。この評論家は権力者だから。ヴィオレッタも気にしないようにはしていたけど、やっぱり辛いだろうね」
「ヴィオレッタはもう帰った?」
「いや、見かけてないから、まだどこかにいるんじゃないかな」
コリンは雑誌をアンナに返すと、ヴィオレッタを探しに行った。
練習場やホールを見たが、ヴィオレッタの姿は見当たらなかった。コリンは最後に、団員用のカフェを覗いてみた。明かりはすっかり消えていたが、窓際に人影があった。
「ヴィオレッタ…」
コリンは声をかけ、ヴィオレッタに歩み寄って行った。ヴィオレッタは振り返ることはせず、窓の外を見続けていた。
「私たちは評論家の為に弾いているんじゃない。このオーケストラを聴きに来てくれる人たちの為に、そして音楽の為に弾いているのよ。だから、評論家たちがどう書こうが、聴衆が気に入ってくれたなら、私はそれでいいと思っているわ。あんな記事なんて、気にすることはないと思ってる」
ヴィオレッタは息をゆっくり吐き出した。
「…でもさすがにあそこまで書かれると、少し辛いわね…」
コリンはヴィオレッタが泣いている気がした。実際涙を流すことはなくとも、彼女の心が泣き叫んでいるのを、コリンは感じていた。常に彼女を覆っている、威厳あるオーラがこの時は消えていた。コリンが彼女に触れるのをためらわせていた、人を拒むような雰囲気がなくなっていた。気が付くとコリンは、後ろからヴィオレッタを抱きしめていた。腕の中のヴィオレッタは、コリンが支えていなければ崩れ落ちてしまいそうだった。ヴィオレッタもコリンを拒まなかった。コリンの腕を通じて、ヴィオレッタの哀しみがコリンにも伝わってきた。ヴィオレッタはこんなに華奢だったのか。肩がこんなに細かったのか。普段は自分より遥かに上にいるように感じていたヴィオレッタの存在が、この時は自分が守らなくてはいけないものに感じられた。どのくらいそうしていたのだろうか、暫くしてヴィオレッタが自分を包んでいるコリンの腕に軽く口づけすると、その腕をそっとほどいた。
「…ありがとう、コリン…」
ヴィオレッタは冷たい指先でコリンの頬に触れると、その場を去って行った。
氷が溶け、木々や草花が芽吹いてくるのと同時に、ヴィオレッタの心の氷も溶けていくのを、コリンは感じ取っていた。以前、コリンがアンナにだけ素直になれたように、ヴィオレッタもコリンにはいろいろと話してくれるようになった。しかしコリンはまだ、自分の気持ちをヴィオレッタに打ち明けるまでは踏み切れないでいた。自分に自信がなかった。コンサートマスターとしての実力の差が縮まったとしても、11歳の年齢差は縮まることはなかった。いつまでもヴィオレッタにとって、自分は子供な気がしていた。5月になり、一斉に緑が濃くなった頃、ヴィオレッタがコリンに雑誌の切抜きを持ってきた。それは、ロンドンの有名オーケストラの団員募集で、コンサートマスターの席が空いたとのことだった。コリンは最初、その記事をヴィオレッタからなぜ渡されたのかが分からなかった。不思議そうな顔をするコリンに、ヴィオレッタは静かに言った。
「コリン、このオーディションを受けなさい」
「…なぜですか?僕は…このオーケストラにいてはいけないんですか?」
「違うわ、そうじゃない。コリンは大事な仲間だし、皆あなたにいて欲しいと思っているわ。でも…あなたはここにいつまでもいていい人じゃないのよ」
コリンの心の中で、様々な感情が渦巻いていた。自分が何を言われているのか、よく把握出来なかった。
「…コリン、あなたはソリストとしてもコンサートマスターとしても、素晴らしいヴァイオリニストだわ。あなたはもっと日の当たるところに行かなくてはならないのよ。あなたの音楽を聴く喜びは、もっと多くの人が持たなければいけないの。あなたのお陰で、このオーケストラもとてもよくなったわ。だけど…」
「だけど、もう用無しってことですか?」
コリンは少し震えた声で言った。
「違うのよ。私が言いたいのは…言いづらいのだけど…このオーケストラでは、あなたの実力にはもう釣り合わないのよ。あなたは天に翔けるように、実力を付けていっている。でもこのオーケストラは…私たちは、それにはついていくことができない。あなたの足枷になっているのよ」
暫く無言の時が流れた。コリンはようやく、ヴィオレッタの言葉の意味するところが分かった。しかし、納得することは出来なかった。確かにロンドンの実力あるオーケストラに移れば、コリンの力を発揮できるだろうし、コリンの実力も更に上がることだろう。それでもコリンは、このオーケストラを離れたくなかった。大事な仲間たち、このオーケストラを愛する街の人たち、アンナ、そして何よりもヴィオレッタと離れることは考えられなかった。コリンは深く息を吸った。
「…足枷だなんて、思ってません。僕は自分の意思で、ここに残りたいんです」
「コリン…そんなこと、言わないで」
ヴィオレッタのグレーの瞳は、哀しい色を帯びていた。
「あなたはどうなんですか、ヴィオレッタ。あなただって、もっと実力あるオーケストラでも充分やっていけるじゃないですか。なぜあなたはここにいるんですか」
コリンは言ってから後悔した。答えは分かっていた。それをヴィオレッタの口から聞きたくもなかった。コリンはヴィオレッタが口を開く前に続けて言った。
「オーケストラの皆が、僕がこのオーケストラに行くことを望んでいるなら、オーディションを受けてみます。受けても受かるとは限りませんし。でも…僕はあなた個人の気持ちを聞きたいんです。あなたは僕にここを去って欲しいんですか?」
ヴィオレッタはコリンを真っ直ぐに見つめた。
「あなたがこのオーケストラに来てくれたことは嬉しいし、ここまで一緒に弾いてくれたことも感謝しているわ。出来ればずっと一緒に弾きたいとは思っているけど、それ以上にあなたにはもっと高いところを目指して欲しい。これが素直な気持ちよ」
「わかりました」
コリンはすっと立ち上がると、無言でその場を立ち去った。
コリンは団長とヴィオレッタ、トニーの推薦状付きで、ロンドンのオーケストラのオーディションへ応募した。間もなく日程表と課題曲の楽譜が届いた。コンサートマスターとしての仕事をこなしつつ、課題曲を練習し、何度かロンドンに往復することとなった。コリンは今のオーケストラを去りたくはなかったが、それでもプロとしてオーディションで手を抜くことはしたくなかった。それに、ヴィオレッタの言うことも分かったつもりだった。音楽家として常に上を目指すことが必要なことは、コリンも充分承知していた。オーケストラの仲間たちは、一抹の寂しさを感じながらも、多忙となったコリンを支えてくれた。ヴィオレッタのコリンに対する態度は変わらなかったが、コリンは彼女にオーディションの記事を貰った日以来、何となく彼女に対して素直になれなかった。最終結果の通知が届いた。コリンは無感動にペーパーナイフで封を切ると、手紙に目を通した。合格。これで決まった…コリンは来シーズンからこのオーケストラを離れ、ロンドンで演奏することになったのだ。コリンは時計を見た。まだ事務所に団長やハーヴェイさんやアンナがいるだろう…これを報告しなければ。実力も名声も申し分ないオーケストラに合格したのに、コリンの心は晴れなかった。受付には案の定アンナがいた。コリンの姿を見て驚いたが、アンナは彼が何をしに来たのかすぐに悟って、寂しそうな顔をした。
「…合格したんだね、おめでとう、なのかな。コリンにとっていいことなのは分かっているけど、でも…ごめん、素直には喜べないよ」
「僕もだよ…すごく複雑な気分なんだ」
泣きそうな顔をしたアンナをコリンは抱きしめた。彼女に会わなければ、今の自分はなかっただろう…コリンはアンナに対して感謝の気持ちで一杯だった。
「…団長やハーヴェイさんはまだいるかな?」
「うん、自分の部屋にいるよ」
「すぐ戻ってくるから待っててくれる?今日は一緒に夕飯を食べよう」
コリンが微笑むと、アンナは少し笑って頷いた。
コリンは団長の部屋と事務長の部屋を回り、合格の知らせと今シーズンでこのオーケストラから去ることになる報告をした。2人はそれぞれの方法で、祝福と感謝と別れの言葉を述べた。ハーヴェイの部屋を出たコリンは、ふと思い立ってカフェに行ってみた。夕日を浴びた人影がそこにあった。足音にその人影は振り向いた。
「…合格したのね、おめでとう」
「ありがとうございます」
コリンは気持ちが高ぶるのを感じていた。このままヴィオレッタと別れなければいけないのだろうか。こんなギクシャクした関係のままで終わらなければいけないのだろうか。
「じゃあ、あなたがここにいるのは、あと一ヶ月だけなのね…盛大にお別れ会を開かなくちゃ」
ヴィオレッタはコリンの横を過ぎ、立ち去ろうとした。
「ヴィオレッタ」
コリンの声にヴィオレッタは立ち止まった。コリンはもう感情を抑えることは出来なかった。
「僕と…僕と一緒にロンドンに来てください。あなたは前に、このオーケストラが僕の足枷になっているって言ったけど、あなたについている足枷を僕が外すことが出来るなら…ヘンリーのことを思い出の中に閉まって、僕と一緒に来てください。僕は…僕は、ヴィオレッタ、あなたが…」
ヴィオレッタは細い指先を、コリンの唇に当てた。ヴィオレッタの菫色がかった瞳は潤んでいたが、真っ直ぐコリンの深い色の瞳を見つめていた。
「…駄目よ、駄目なの…」
コリンは言葉を続けることが出来なかった。ヴィオレッタは視線をコリンから外し、暫く黙っていたが、軽く息を吐くと、意を決したように再びコリンを見つめた。
「駄目なのよ、今はまだ…」
今はまだ?コリンはその言葉の意味を考えた。もしかしたら、これから先ヘンリーを思い出の中に昇華することができたら、そうしたら?ヴィオレッタはコリンの頬に口づけすると、微笑んで、そしてカフェから出て行った。コリンはヴィオレッタの唇の感触の残る頬に、自分の指先を当てた。
コリンの最後の演奏会の後、行きつけのパブでコリンのお別れ会が開かれた。皆コリンの前途を祝ってくれたが、やはり寂しさは隠せなかった。アンナがコリンの横に来て尋ねた。
「コリン、いつこの街を出てしまうの?」
「今度の金曜日。午後2時の電車で」
アンナは暫く考え込んだ。
「じゃあ、金曜の11時にホールに来てくれる?ホールの一番左の入り口を開けておくから、そっちから入ってきて」
コリンはアンナが何を考えているのか分からなかったが、頷いた。そして金曜日。コリンは3年住んだフラットから出て行くことになった。既に荷物はロンドンの新しいフラットに送ってあった。感慨深げに窓からの景色を眺めた。この3年間の間にあったいろいろなことが思い出された。コリンはヴァイオリンと手荷物を持つと、ホールに向かった。ホールの鍵を開けてある入り口から入り、更に客席への扉を開け、中に入って行った。目の前に広がる光景にコリンは驚いた。舞台には椅子と譜面台がセッティングされ、団員たちが座っていた。客席には団長、ハーヴェイ、アンナを始め事務の人たちなど、関係者だけがいた。コリンが来たのを確認し、アンナがホールに響く声で言った。
「皆様、我がオーケストラの誇るコンサートマスター、コリン・ファースの最後の演奏会にようこそ!コリンのソロ、トーマス指揮で、ブルッフのヴァイオリン協奏曲をどうぞお楽しみください!」
アンナは唖然としているコリンの手を引っ張り、舞台下へ連れて行った。
「アンナ、これは…」
「コリン、お願い、ヴァイオリンを弾いて。コリンのヴァイオリンを皆に聴かせて欲しいんだ…」
コリンはアンナを見て、それから団員たちを見た。皆アンナと同じように、コリンが弾くことを望んでいた。コンサートミストレスのヴィオレッタも、コリンと目が会うと、優しく微笑み頷いた。コリンはアンナに視線を戻し、笑いかけた。
「わかった、弾くよ」
コリンはヴァイオリンを出し、弓に松脂をつけた。軽く調弦すると舞台に上がり、トーマスとヴィオレッタに握手をし、客席に向かい礼をした。コリンは流麗な動作でヴァイオリンを構えた。オーケストラによる静かな導入を受け、コリンのヴァイオリンは深く哀愁に満ちた音色を奏でた。コリンのソロは見事だった。この3年間、ソロでは弾いていなかったが、オーケストラや弦楽アンサンブルでの活動は、コリンのヴァイオリンの力を総合的に向上させていたのだった。そして、協奏曲を弾く際のオーケストラや指揮者とのアンサンブルは、以前とは比べられないほど上達していた。コリンはこのオーケストラ、トーマス、そしてヴィオレッタの癖をよく把握していた。そしてそれは逆も同じだった。最後の音がホールの空間に消えると、客席からもオーケストラからも拍手が起こった。コリンは団員や関係者皆と固い握手をした。名残惜しかったが、ヴァイオリンを片付けると、皆に一礼し、客席から出て行った。これ以上皆の顔を見ていると、別れられなくなりそうだった。扉を閉め、階段ホールに出ると、コリンはこのオーケストラのオーディションの時のことを思い出した。あの時、2階にヴィオレッタがいたんだっけ…コリンはふと見上げた。そこには3年前と同じく、ヴィオレッタが立っていた。彼女の瞳は温かくコリンを見つめていた。コリンは微笑み、会釈すると、ホールから出て行った。
ロンドン。人生の大半を過ごした街にコリンは帰ってきた。3年間も離れていたのに、郷愁は感じなかった。コリンにとって、ヴィオレッタやアンナのいるあの小さな街が故郷になっていた。何人かの友人には連絡を取ったが、うわべだけの付き合いだった人たちとは取らなかった。新しいオーケストラはオペラ座付きのオーケストラで、主な仕事は毎晩のように上演されるオペラやバレエの音楽だった。更に管弦楽の演奏会もこなさなくてはならず、演奏旅行もあり、今までに比べると遥かに忙しい日々が続いた。コリンは今までオペラなどの舞台ものはやったことがなかったが、持ち前の才能と努力ですぐに慣れていった。アンナとは手紙のやり取りをしていたが、コリンのほうは忙しくてなかなか返事を書くことが出来なかった。それでもアンナからの手紙に、昔の仲間たちの様子が書かれているのを読むのは、コリンにとって楽しいことだった。とりわけヴィオレッタのことが少しでも触れられていると、コリンの喜びはひとしおだった。ロンドンに戻り、新しいオーケストラの団員たちともうまくやっていたが、ヴィオレッタに対するコリンの想いは変わることがなかった。仕事に追われ、1年目のシーズンはあっという間に過ぎ、2年目に入っていた。コリンの誕生日を祝う仲間内のパーティーで騒ぎ、その日は朝帰りとなった。コリンがフラットに戻って暫くすると、ドアのベルが鳴った。そこにはフラットの管理人がいた。
「ファースさん、朝早くから申し訳ないけど、昨日電報が来ていたから、急いだほうがいいと思って」
コリンは礼を言い扉を閉めると、電報の差出人を見た。それはアンナからだった。急いで電報を読んだ。コリンは自分が何を読んでいるのかわからなかった。体が震えた。財布と上着を掴むと、コリンはフラットを飛び出して行った。
電車に乗っている時間がこんなにも長く感じられたのは初めてだった。見慣れた駅に着くと、コリンは駆け出した。懐かしい街並み。しかし今はそんな感慨はなかった。走りづらい石畳の道を、コリンは全速力で駆けて行った。街外れの古い教会。その敷地に黒い人だかりができていた。その中の一人がコリンを見つけ、走り寄って来た。
「コリン!」
「…アンナ」
コリンはアンナを腕に抱きとめた。アンナの顔は涙でぐちゃぐちゃだった。コリンは人だかりの中心にある、今まさに閉められようとしている棺を見た。その中には色とりどりの花に囲まれ、亜麻色の髪をした女性が眠っていた。
「…ヴィオレッタ…」
コリンの手から、握り締められていた電報が落ちた…「今日ヴィオレッタが事故で亡くなりました。お葬式は明日です」…コリンはふらふらと棺に近づいて行った。オーケストラの仲間たちがコリンに声をかけたが、コリンの耳には入らなかった。コリンは棺の横に跪くと、ヴィオレッタの冷たくなった頬を指でなぞった。あの威厳ある、それでいて温かさに満ちた、菫色がかったグレーの瞳は二度と開けられることはなかった。薔薇色をしていた頬も今は血の気が全くなかった。コリンはヴィオレッタの唇に、自分の唇を重ねた。それは最初で最後の口づけだった。
コリンは自分が何をしているのか、何を見て何を聞いているのか、全く分からなかった。気が付くとアンナと2人、懐かしいホールの客席に座っていた。アンナはヴァイオリンケースを手にしていた。それは彼女の兄の、そしてその婚約者の形見となった。
「…こんなヴァイオリンなんて、要らない。このヴァイオリンを手にした人は2人とも死んでしまった。このヴァイオリンが2人の命を奪ったんだ。ヴァイオリンなんて、音楽なんて…」
アンナは泣きじゃくった。コリンはアンナの肩を優しく抱き寄せた。
「…違うよ。2人とも、音楽があるから、ヴァイオリンがあるから生きていたんだ。2人とも素晴らしいヴァイオリニストだっただろう?ヘンリーのことは直接知らないけど、ヴィオレッタはあんなにも音楽を愛していた。だから、音楽のことを悪く言うのは2人が悲しむよ」
コリンはアンナに言っているだけではなかった。自分にも言い聞かせていた。その時、後ろの扉が開く音がした。コリンが振り向くと、そこにはトニーや他の団員、団長やオーケストラの関係者たちがいた。
「やっぱりここだと思ったんだ」
トニーはそう言いながら、コリンとアンナに近づいてきた。彼も他の団員たちも楽器を手にしていた。
「アンナ、ヘンリーが亡くなった時を覚えてるだろう?皆でどう送ったか」
アンナは頷くと、立ち上がって、客席から出て行った。不思議そうな顔をしたコリンにトニーが言った。
「コリンも手伝ってくれるかな、椅子と譜面台を並べたいんだ、弦楽器分」
皆無言で舞台にセッティングをし始めた。コリンは皆が自分と同じ気持ちであるのを、痛いほど感じていた。コリンも黙々と椅子を並べていた。何かしていなければ、とてもこの状態を耐えられそうになかった。可笑しなものだ、もうここには僕の居場所はないのに…アンナが譜面を持ってきて、譜面台に並べ始めた。コリンは、客席に座っている管楽器奏者たちのところへ行こうと舞台を降りかけた。
「コリンも弾くだろう?」
トニーの声に、コリンは振り向いた。コリンは彼らが何をしようとしているのか、まだ把握できていなかった。
「以前、ヘンリーが亡くなった時も、僕たちは音楽で送ったんだ。彼も、そしてヴィオレッタも音楽に捧げた人生だった。彼らには祈りの言葉より、音楽が相応しいだろう?」
トニーはコンサートマスターの席ではなく、隣に座っていた。明らかにコリンをコンサートマスターの席に座らせるつもりだった。コリンは戸惑った。
「でも…僕は楽器がないし…」
「楽器ならあるよ」
アンナがヴィオレッタのヴァイオリンを差し出した。ヴィオレッタが毎日のように弾いていたヴァイオリン。
「コリン、お願いだよ、コリンも仲間なんだから、一緒に弾いて…」
アンナの潤んだ瞳を、コリンは見つめた。彼は整った手を伸ばし、ヴァイオリンを受け取ると、アンナに向かって頷いた。
指揮者のトーマスが、指揮台に上がった。少し青ざめた顔をして目を閉じていたが、瞼を開けると、ゆっくりと指揮棒を上げた。マーラーの交響曲第5番第4楽章…アダージエット。ハープの音色に乗り穏やかに始まった曲は、うねる波のように変化するテンポと強弱で劇的に響き、ホールを美しくも哀しい音楽で満たしていった。コリンは弾きながら不思議な気分になっていた。自分が弾いているのに、ヴィオレッタが一緒に弾いている気がした。ヴァイオリンから奏でられる音色は、コリンのもののような、ヴィオレッタのもののような、何とも言えないものだった。まるでコリンの中にヴィオレッタがいるような、そんな気がした。この曲は何度か、もちろんこのオーケストラでも弾いたことがあったが、これ程まで人の気持ちを揺さぶるような響きを聴いたことはなかった。団員たちの気持ちが、感情が、これ程まで1つになったことはなかった。最後の音が静かに消えると、感情を抑え切れなくなった女性団員たちから、嗚咽の声が漏れた。
「ヴィオレッタ…安らかにお眠りください」
トーマスの声が弱く響いた。
コリンはアンナの肩を抱き、アンナの家に向かって歩いていた。アンナは支えがないと歩けない程弱っていた。コリンは彼女を支えているつもりだったが、実は支えられているのかもしれなかった。アンナは最愛の兄を亡くし、その婚約者だった姉のような存在のヴィオレッタも亡くした。そしてコリンは、誰よりも愛する人を失った。今は2人ともお互いの支えが必要だった。アンナの家に着いてからも、コリンとアンナは並んでソファーに座ったきり、何も話さずに沈黙していた。暫くして、アンナが小さな声でコリンの話しかけた。
「…明日は何時の電車で帰るの?」
「始発。本番があるんだ…それに乗らないと、リハーサルに間に合わない」
アンナは思い出したようにソファーから立ち上がり、棚に置いてあったものを取り、コリンに渡した。それは9月10日のロンドン行きの切符だった。
「…ヴィオレッタがね、それを持っていたんだよ…事故にあった時の財布の中に入っていたんだ」
コリンは鼓動が速くなった。
「…まさか…駅に行く途中で?」
アンナは静かに頷いた。
「その日にロンドンに行く用事なんて、1つしかないよね…」
切符を持つ手が震えた。まさか…僕に会いに?僕の誕生日に、ロンドンまで会いに来てくれようとしていたのだろうか?コリンの瞳から涙がこぼれた。
「…僕は…僕はヴィオレッタを愛していたんだ…本当に…」
「うん、知ってる…」
アンナは泣き崩れるコリンを優しく抱きしめた。
「でも…それを言うことは出来なかった…一度も愛しているって言わなかったんだ」
「コリン…コリンのお陰でヴィオレッタの心は、また誰かを愛することが出来たんだと思うよ。閉ざしていた心が開いて…コリンを愛していたと思う…ヴィオレッタはコリンに愛されて、コリンを愛して、幸せだったはずだよ」
コリンの瞳は涙で溢れ、月明かりさえ見えなかった。
コリンは泣きつかれて少しソファーで寝ただけで、まだ薄暗いうちにアンナのところを出て行かなければならなかった。
「駅まで送っていこうか?」
「いや、いいよ、ここで…アンナも元気で」
コリンはアンナの頬に口づけすると、軽く抱きしめてから歩き出した。アンナを振り返ることは出来なかった。朝一番の電車のせいか、コンパートメントの車両はコリン一人だった。電車が駅を離れ、丘陵地帯の風景が広がる中を走って行った。コリンは車窓をぼんやりと眺めていた。ヴィオレッタの声が聞こえた気がした…楽しんで弾きなさい…
「無理です、ヴィオレッタ…」
コリンは一人呟いた。
「あなたがいなくなって、楽しく弾くなんて、もう僕には無理です…」
コリン、あなたは一人じゃないわ…周りを見て。仲間がいるわ…コリンは両手で顔を覆った。今や音楽が、ヴァイオリンが、コリンとヴィオレッタをつなぐ唯一のものとなった。ヴァイオリンを弾いていれば、いつまでもヴィオレッタと共にいられるのだろうか。コリンはどうしていいのか、分からなかった。
昼前にロンドンに着いた。この街は相変わらず忙しなく、コリンはその中をぼんやりと歩き、フラットに戻った。熱いシャワーを浴び、リハーサルに行く支度をした。昨日からろくに食べていなかったが、食欲は全くなかった。ヴァイオリンを持とうとして、取っ手のところに揺れる木製の天使の人形が目に入った。コリンはケースを開けた。そこには3本の弓があった。コリンは使っていない1本の弓を取り出した…それはヴィオレッタからお守りに貰ったものであった。もっともっと、素晴らしいコンサートマスターになって欲しいの…
「…あなたがそれを望むなら、僕はヘンリーより、あなたより、素晴らしいコンサートマスターになります…見守っていてくれますよね、ヴィオレッタ…」
そう、コリンはここで立ち止まるわけにはいかなかった。まだ音楽家としてやるべきことはたくさんあった。多くの人たちと、音楽の楽しさを分かち合うために…コリンは弓をしまうと、ケースを肩に担ぎ、リハーサルに向かって行った。その瞳は、ヴィオレッタのように、威厳と温かさに満ち溢れたものだった。
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