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コリンはようやく自分の居場所を見つけた。それまではなんとなく宙に浮いていたような気がしていたのだが、今はこの街で、そしてこのオーケストラで地に足が着いた思いだった。相変わらず練習時のヴィオレッタは厳しかったが、コリンは彼女からコンサートマスターとしての弾き方を学ぼうとした。隣で弾くときは、ヴィオレッタの呼吸の仕方、指揮者や他の団員たちとの意思の疎通の仕方、そしてオーケストラ全体に音楽を伝えるヴァイオリンの弾き方を研究した。本番で客席から聴く時は、さらに客観的にそれらを見ることができ、また聴衆と音楽をいかに共有するかを知ることも出来た。トニーがコンサートマスターを務める練習では、コリンは一番後ろで弾き、遠くからコンサートマスターがどう見えるか、どうしたら皆が弾きやすいかを学んだ。コリンはまた、他の楽団員たちと積極的に話すようにした。ヴァイオリンパートはもちろん、他の弦楽器奏者、管楽器奏者ですら、コリンの音楽家としての技術や音楽性、解釈などは勉強になるものだった。団員たちも自らコリンに質問したり、アドヴァイスを求めるようになった。コリンは彼らに教えただけではなく、彼らからも多くを学び取った…なにより、オーケストラで弾くことの喜びを、彼らから教わった。いつしかコリンは、気軽な女友達との交際を絶っていた。クリスティンはオーケストラの団員ということもあり、暫くは彼女と少しぎこちない関係となったが、時が経つにつれ仲間としてのいい関係を築くことができた。ヴィオレッタを憎む気持ちは完全に消えていた。今では彼女を尊敬し、敬愛し、そして憧憬する気持ちしかコリンにはなかった。しかし手の届かない存在であることは変わりはなかった。アンナはコリンを温かく支えていた。恋愛関係とは違っていたが、コリンとアンナはよく一緒に行動し、休日もしばしば会っていた。アンナの存在は得がたいものであり、コリンにとって彼女は大事な人だった。
毎日のように空は低い雲が垂れ込め、時折雪がちらついていた。コリンはまだ「見習い」状態だったが、それでも熱心に練習を続けていた。ホールでの練習へ向かおうと練習室の横から階段を上っていると、クリスティンが呼び止めた。
「コリン、おめでとう!」
コリンは首を傾げた。
「おめでとうって、何が?」
「まだ見てないの?メンバー表よ。コンサートマスターじゃないけど、ついに本番デビューだわね!」
まだ何がなんだかわからないような顔をしたコリンを、クリスティンは事務室横の掲示板のところへ引っ張って行った。そこには来月の演奏会で弾くメンバーが貼りだされていた。クリスティンが指し示すところに、コリンの名前があった…
「ほら、あるでしょう!コリンも演奏会で弾くのよ!」
目を見張って、呆然と立ち尽くすコリンを、クリスティンは抱きしめた。
「おめでとう、コリン!」
コリンは信じられなかった。心臓の鼓動が速くなり、顔が火照った。足が震えている気がした。雲の上を歩くような気分でホールの舞台に着くと、他の皆も口々に祝いの言葉をコリンにかけた。コリンはヴィオレッタと目があった…彼女は静かだが、温かい瞳でコリンを見つめ返した。ヴィオレッタが僕を認めてくれて、演奏会にのせるよう団長に言ってくれたんだ…コリンは悟った。コリンは感謝の気持ちを込めて、ヴィオレッタに微笑んだ…それは心から自然に出た、最高の笑顔だった。
コリンは久しぶりに、燕尾服に袖を通した。彼の均整が取れた長身は、舞台で映えることであろう。しかしコリンはいつになく緊張していた…今までどのコンクールでもこれほど緊張したことはなかった。開演前の客席の期待に溢れた雰囲気が、舞台の横のコリンにも伝わってきていた。コリンは自分の手のひらに指で何かを書き、それを飲み込むしぐさをした。
「…コリン、何してるの?」
ヴィオレッタがそれを見て、コリンに歩み寄った。
「大学時代の日本人の友人が、緊張をほぐすおまじないを教えてくれたんです。『人』の意味の文字を3回書いて飲み込むと、緊張しないって…」
ヴィオレッタはくすくす笑った。
「珍しく緊張してるのね。大丈夫よ、一人っきりじゃないのだから」
そう言うとヴィオレッタはコリンの腕を軽くたたいた。
「さあ、出番よ」
ヴィオレッタの音楽のような声を合図に、皆の気持ちが1つになったのをコリンは感じた。舞台に歩み出ると、聴衆からの拍手に包まれた。コリンはたくさんの視線が自分に集まっているような気がした。新人だからだろうか…何か変なところでもあるのだろうか…コリンは気が気でならなかった。実際彼は注目されていたが、それはコリンの人目を引く外見のためであった。団員が全員着席すると、一瞬の沈黙の後に、更に大きな拍手が響いた。コンサートミストレスのヴィオレッタが、華奢な体をシンプルな黒の衣装で包み、颯爽と舞台に現れたのだった。彼女の合図でオーケストラ全員が立ち上がり、客席に挨拶した。ヴィオレッタは軽く目を閉じた。再び目を開けたとき、彼女の瞳はいつも以上に威厳を湛えていた。オーボエからAの音をとると、皆の気持ちを静めるかのようにオーケストラ全体に視線を配った。チューニングが終わり、ヴィオレッタが席に着くと、コリンと目があった。ヴィオレッタはコリンに微笑んだ。コリンは自分の緊張がほぐれていくような気がした。
コリンは夢中になって弾き、本番を終えた。練習どおりには弾けたが、おそらくヴィオレッタに注意されるであろう点が2,3あった。温かい拍手に送られて舞台から下がると、団員たちがコリンに声をかけてきた。暫くしてヴィオレッタもコリンのところにやって来た。
「お疲れ様。楽しめた?」
ヴィオレッタは温かな笑顔をコリンに向けた。コリンは、ヴィオレッタから注意されることを予想していたので、このヴィオレッタの言葉に驚いた。コリンの気持ちを汲み取ったのか、ヴィオレッタはまた微笑んで言った。
「たくさん本番で弾いて、本番に慣れなさい。あなたにはそれが必要よ。でも一番大切なことは、音楽を楽しむこと。こちらが楽しめれば、お客さんも楽しんでくれるはずよ」
着替えが済むと、団員たちはいつものパブへ向かった。この日のメインは、コリンの初舞台のお祝いであった。コリンはまた夢の中にいる気分だった。プロオーケストラでのコンサートは、なんとも言い難い不思議な雰囲気に包まれていた。オーケストラと客席との一体感、音楽を心から楽しんでいる会場の空気、そして弾くことの喜び…それらをコリンは感じた。コリンはもっとたくさんオーケストラで弾きたい衝動に駆られていた…オーケストラの魅力の虜となっていた。コリンはそれ以来、全ての演奏会で、ヴィオレッタとトニーの横で弾いた。本来ならば何回かに一度は休みなのだが、コリンには休むことがもったいなく思え、団長に頼み出させてもらっていた。何度も演奏会をこなしているうちに、自分もこのオーケストラにしっくりと溶け込んできたのを感じることが出来た。弾けば弾くほど、オーケストラの魅力にはまり込んでいった。ヴィオレッタの勧めで、コリンは団員の何人かによる弦楽アンサンブルにも参加することにした。オーケストラの演奏会と違い、弾く場所は学校だったり教会だったり、いろいろであったが、コリンは弦楽の楽しさも知ることが出来た。
そのアンサンブルの練習からの帰途、春の息吹がようやく感じられるようになった並木道をヴィオレッタが一人歩いているのをコリンは見つけた。花束を抱えた彼女はいつになく憂いを秘めた表情で、しかしその雰囲気すら彼女の美しさを更に際立たせていた。コリンはなんとなく気にかかり、ヴィオレッタの後をついて行った。ヴィオレッタは街外れの古い教会の敷地に入っていき、とある墓石の前で立ち止まり、花を供えた。静かに墓石を見つめるヴィオレッタの横顔を見ていると、コリンは気持ちがざわついた。話しかけたい気持ちと、話しかけてはいけないと思う気持ちとがぶつかっていた。しかしコリンは我慢できず、一歩踏み出した。
「ヴィオレッタ」
その声にヴィオレッタは驚いて、コリンを見つめた。
「すみません…見かけたものだから…」
コリンはヴィオレッタの隣に歩み寄った。ヴィオレッタは何も言わなかった。コリンは墓石に彫られた名前を読んだ…ヘンリー・J・スペイシー。スペイシーという姓に、コリンは引っかかりを覚えた。スペイシー…コリンのすぐ側にも、その姓の人がいた。まさか…コリンは無言でヴィオレッタを見た。彼女はコリンの視線の意味を理解し、軽く頷いた。
「…そう、アンナのお兄さんよ。彼は私達のオーケストラのコンサートマスターだった…そして、私の婚約者だったの…今日は彼の命日なのよ」
コリンは軽い眩暈を覚えた。婚約者だったの、というヴィオレッタの声が、コリンの頭の中で繰り返し響いていた。ちゃんと立っているはずなのに、足元がふらふらしているように感じられた。涙を流すことも泣く、ただ静かに佇んでいるヴィオレッタは、哀しいほど美しかった。長い睫に縁取られたグレーの瞳は、どこか遠くを見つめているようであった。微風になびく亜麻色の柔らかな髪も、華奢なその体も、触れると消えてしまいそうに思われた。コリンは何も言わずにそっとヴィオレッタの側から離れて行った。
ぼんやりと歩いているうちに、気が付くとコリンはホールの前にいた。関係者用の扉を開けて中に入ると、受付にはアンナがいた。
「コリン?今日はもう来ないと思ってたけど…これから練習するの?」
コリンは何も答えなかった。どうしてここに来たのか、自分でもわからなかった。アンナはコリンに歩み寄ると、コリンの両頬を軽く手で包んだ。
「大丈夫?顔色が悪いよ…そこに座ってて、今お茶を淹れてくるから」
アンナが台所へ行くと、コリンはアンナの仕事机の横にある棚から、前に見せてもらったオーケストラの古い写真を引っ張り出した。アンナの兄、ヘンリーは、細身で長身の、温和そうな人物だった。彼の持っているヴァイオリンには見覚えがあった。色も形も、今ヴィオレッタが使っているものと全く同じだった。コリンは以前、ヴィオレッタが自分のヴァイオリンを恋人だと言ったことを思い出した。そうか、それでか…あのヴァイオリンは、ヘンリーの形見なんだ。コリンには、なぜヴィオレッタほどの実力の持ち主が、この小さな街のオーケストラに留まり続けているのかも分かった気がした。最愛の人の眠るこの街を離れられるわけがなかった。アンナが熱い紅茶とクッキーを持って台所から戻ってくると、コリンは写真を元に戻した。
「アンナ…今日はお兄さんの命日なんだってね」
コリンの言葉に、アンナは驚いた顔をした。コリンはヴィオレッタに会ったことを話した。
「ヴィオレッタは兄貴と大学が一緒だったんだ。それで、このオーケストラに入って…本当にお似合いだったんだよ。兄貴は結構おっちょこちょいだったけど、ヴィオレッタがしっかりしてるから…」
アンナは窓の外へ視線をやった。その瞳は、さっき見たヴィオレッタの瞳と同じく、遠くを見つめていた。
「…でももう9年になるんだね。忘れられるはずはないんだけど…でも…ヴィオレッタがこのままでいいとは思えないんだ。ヘンリーがいなくなってから、ヴィオレッタの愛情は音楽だけにしか向かなくなってしまった。仲間とは深い友情で結ばれてるけど、でもそれだけじゃいけないと思うんだ…ヴィオレッタには、誰かが必要なんだよ…この世にいる誰かが」
コリンはずっと感じていた、ヴィオレッタのなんとなく人を拒むような雰囲気のことを考えた。彼女はヘンリーを失った時に、誰かを懐に受け入れることをしなくなってしまったのだ。コリンは紅茶を飲み終えると、アンナの頬に軽く口づけをして、自分のフラットへ戻って行った。
コリンは歩きながら、なぜだかとても哀しい気分になっていた。さっき見たヴィオレッタの美しい横顔が瞼に焼き付いて離れなかった。コリンは気が付いてしまった…自分のヴィオレッタに対する気持ちは、尊敬や憧れではもはやなかった。心の底から彼女を愛していたのだった。でもこんな時に気付くなんて…恋敵が彼女の思い出の中の人だなんて、この世にいない人だなんて、敵わないじゃないか…コリンはフラットに着くと、ベッドに転がり込んだ。ヴィオレッタのことを想うだけで、コリンの心は締め付けられた。彼女自体、コリンには高嶺の花に思えた。年上の美しい人。コンサートミストレスとして誰からも尊敬され、信頼されている。そして、彼女の心を今も掴んでいるのは、天国に行ってしまった人だった。誰かを愛するというのは、こんなにも辛いことなのか?こんなにも辛いのに、でもこの気持ちを抑えることができないなんて…コリンの心の中に、これ程まで入ってきた人は、ヴィオレッタが初めてだった。コリンはさっきアンナが言っていたことを思い出した。ヴィオレッタには誰かが必要なんだ…この世にいる誰かが。コリンはベッドから体を起こした。僕がその誰かになれるだろうか。ヴィオレッタの心をこの世に引き戻すことが出来るだろうか。コリンは指先を軽く額に当てた。とにかく、ヴィオレッタが認めるようなコンサートマスターにならなければ。まだ僕はヴィオレッタには相応しくない。でも、彼女のような素晴らしい演奏家になれれば、もしかしたら…コリンの瞳には輝きが戻っていた。
それからのコリンは、益々練習と演奏に力を注いでいった。ヴィオレッタに対する想いは強まっていったが、それは激しいものではなく、深いものであった。無理に振り向いてもらおうとは思わなかった。まずは自分がヴィオレッタに相応しい人物にならなければならないと思っていた。普通の恋人たちのように抱き合ったりすることはなくても、ヴィオレッタの隣で弾き、同じ時間と音楽の喜びを共有することができるだけで、コリンには嬉しかった。6月最後の演奏会も終わり、オーケストラは2ヶ月の休暇に入った。こんなにも長い間ヴィオレッタに会えないのは辛いことだが、コリンはようやくプロの演奏家らしくなることができたので、家族の元へ帰ることにした。シーズン最後の会合が終わり、団員たちはそれぞれ挨拶し家へ戻って行った。コリンはヴィオレッタに近づき、握手を求めた。
「それじゃあ…また休暇後に」
「元気でね。また8月に…早いわね、もうあなたと会ってから一年経つのだから」
「そうですね。あっという間でした」
ヴィオレッタは菫色がかったグレーの瞳に柔らかい光を宿して、微笑んだ。
「でもあなたは素晴らしく成長したわ。来シーズンが楽しみね」
「ありがとうございます」
コリンは素直に嬉しかった。ヴィオレッタが去ると、コリンはアンナに挨拶し、帰省の準備をしにフラットへ戻って行った。
家族の元での休暇は楽しかった。今までにない程家族とよく話し、旧友たちとも久しぶりに会った。皆コリンの変わりように驚いていた。コリンは以前より素直で、温和な人物になっていた。自信家だったところがなくなり、心の鎧を脱ぎ捨てていた。休暇中でもコリンは毎日ヴァイオリンを弾くことを欠かさなかった。確かに家族や友人と過ごすことは楽しかったが、それ以上にオーケストラで弾く日々が懐かしかった。この休暇中にコリンは恩師たちにも会いに行った。彼はイギリスだけでなく、アメリカ、ドイツ、オーストリアでも勉強していたので、かなりの旅行となった。コリンの進路に対する恩師たちの反応は様々だった。ソリストとしてのマスターコースを優秀な成績で修めておきながら、オーケストラに入ったことを残念がる人もいた。逆に、コリンの選択をよしとし、励ましてくれる人もいた。もっといいオーケストラをいくつか薦められたが、コリンは他のオーケストラに行く気はなかった。1ヶ月ちょっとはあっという間に過ぎたが、それからは戻りたい気持ちが強くなり、シーズン最初の練習の2週間ほど前に、コリンは自分のフラットに戻って行った。
最初の練習日、コリンは以前と同じように早くホールに向かって行った。受付にはもうアンナが来ていた。
「オーケストラにお帰り、コリン」
「ただいま」
コリンは自分の居場所に戻ってきた気がした。また大事な仲間たちと、そしてヴィオレッタと、一緒に音楽を奏でることができるんだ…コリンは嬉しくて仕方がなかった。アンナはコリンにいつも以上に明るく、にっこりと笑いかけた。
「事務室のところにメンバー表を貼っておいたからね。ちゃんと見るんだよ」
「わかった、ありがとう」
コリンは事務室へ向かって行った。自分が全部の演奏会に出て、コンサートマスターの隣で弾くことはわかっているので、見る必要は本当はなかった。しかしシーズン最初でアンナにも言われたこともあり、メンバー表を確認した。軽く流して見て、練習場へ向かおうと視線を外したが、何か引っかかるものがあった。コリンはもう一度よくメンバー表を見てみた…これから先、何回かの演奏会のメンバー表。そのある一日のコリンの名前の位置が違っていた。彼の名前は、団員の一番上にあった…コンサートマスター。コリンは何度も見直した。コンサートマスター:コリン・ファース。コリンは心臓の鼓動が聞こえる気がした。まさか…いや、でも間違いじゃない。
「おはよう、コリン。久しぶりね、元気だった?」
メンバー表を食い入るように見ていたコリンに後ろから声がかかった。その声は、この休暇の間コリンが聞きたかった声だった。
「…ヴィオレッタ…おはようございます…あの…」
突然ヴィオレッタに話しかけられた驚きと、自分の名前がコンサートマスターとして載っていた驚きとで、コリンは話すことができなかった。ヴィオレッタは優しく微笑んだ。
「何を驚いているの。あなたはコンサートマスターなんだから、何も不思議はないでしょう?」
ヴィオレッタはコリンの隣に歩み寄り、メンバー表を指した。
「9月10日。あなたの誕生日ね。きっといい誕生日になるわよ」
そしてその日がやって来た。コリンは緊張して眠ることが出来なかった。冷たい水で顔を洗い、身なりを整えた。出かけようとしてふと本棚を見ると、そこにはクリスマス市で買った天使の木製人形2つがあった。コリンはそれを手に取り、ヴァイオリンケースに付けると、ホールに向かって行った。ホールに着くとアンナが迎えてくれた。
「誕生日おめでとう、コリン!」
「ありがとう」
アンナはコリンの両頬に軽く口づけをした。
「今日は演奏会の後に、皆でコリンの誕生日とコンサートマスターデビューを祝うからね!待ってて、今ホールの鍵を開けるから」
人気のないホールは、水を打ったような静けさに包まれていた。既にセッティングは済んでおり、コリンはまだ一度も座ったことのなかったファーストヴァイオリンの一番前の右側の席に座ってみた。ほんの1つ、座席がずれただけなのに、何もかもが違うように思えた。その時後ろからヒールの響く音が聞こえた。振り向いてみると、ヴィオレッタが立っていた。
「誕生日おめでとう」
ヴィオレッタは微笑んだ。
「ありがとうございます」
ヴィオレッタはコリンの隣…普段はコリンが座っている席に座った。そしてまた優しく笑いかけた。
「緊張しているみたいね。でも、普段どおり弾けば大丈夫よ。技術で引っ張っていこうとするより、気持ちで引っ張っていきなさい…あなたの弓使いは本当に綺麗よ。皆がそれについていけば、素晴らしい演奏ができるわ」
ヴィオレッタは軽くコリンの肩をたたいた。
「私と同じように弾く必要はないわ。コリン、トニー、そして私。それぞれ個性があるんですもの。オーケストラもコンサートマスターによっていろいろな音が出ると、幅が広がっていいと思うわ。今日はあなたの色を出してちょうだい…あなたがコンサートマスターの時にしか出ない音楽が、オーケストラから奏でられるといいわね」
コリンはヴィオレッタの言葉を黙って聞いていた。その柔らかい声は、乾いた砂に水が染み込んでいくように、コリンの心を潤おしていった。ヴィオレッタはコリンのヴァイオリンケースに目を留めた。
「…コリン…それ…」
「ああ、これ、あの時買ったんです。今日はお守りにしようと思って…」
コリンは指先で天使を突付いた。ヴィオレッタはくすくす笑い出した。
「もう、コリンったら、意外とかわいいわね…」
ヴィオレッタは立ち上がり、温かい瞳でコリンを見つめた。
「私も客席から聴いているわ。楽しんで弾いてちょうだい。いい演奏会と誕生日になることを祈ってるわ。天使もついているしね」
ヴィオレッタはコリンの髪に細い指先で軽く触れると、舞台袖の扉の向こうに消えて行った。
コリンは舞台袖で出番を待っていた。既に他の団員たちは席に着いている。初のコンサートマスター。もちろん、こうやって他の団員たちより後から舞台に出るのも初めてだった。緊張はしていたが、リハーサルも上手くいき、何よりヴィオレッタが見守っていてくれるということが心強かった。指揮者のトーマスがコリンの肩をたたいた。
「誕生日なんだって?おめでとう。初のコンサートマスターとしての演奏会と重なるなんて、コリンにはきっと音楽の神様がついているんだね」
「ありがとうございます」
ステージマネージャーが扉を開けた。コリンはトーマスに微笑むと、舞台へ歩いて行った。コリンが優雅な燕尾服姿で舞台に登場すると、客席から大きな拍手が送られた。心地よい緊張感が体に走った。コリンは心を込めて、笑顔で客席に向かい礼をした。ヴィオレッタの姿を見つけることは出来なかったが、彼女の言葉がコリンの頭に浮かんだ。楽しんで弾いてちょうだい…コンサートマスターとしてはまだまだなのは、コリンも充分承知していた。そう、だから今日は楽しむことを一番に弾こう…コリンの瞳は輝いていた。コリンはオーボエにチューニングの合図を出した。コリンを見つめる団員たちの目も輝いていた。コリンは自然と笑顔になった。音楽の楽しさを分かち合う、最高の仲間たちを持つことが出来たんだと思うと、コリンは嬉しかった。チューニングが終わると、コリンは燕尾服の裾を払い着席した。後ろからトーマスの足音が聞こえ、会場が再び拍手に包まれると、コリンは立ち上がり、それに倣って団員たちも立ち上がった。トーマスと固い握手をすると、再び着席し、トーマスが指揮棒を構えるのを待った。
トーマスの指揮棒が下りると同時に、会場を音楽が包んだ。トーマスが全身を使って伝えてくる音楽を、コリンたち演奏家が形にする。リハーサルとはまた少し違うテンポや強弱、表現。指揮者と演奏者の駆け引き。その場で音楽が生み出される演奏会だからこそできる緊張感ある演奏。コリンは音楽以外の何も頭になかった。演奏することの喜びを感じていた。この日は夢中になって弾いていて、とりわけあっという間に演奏が終わってしまった気がした。最後の曲が終わり、拍手の中トーマスと再び握手をし、何度か起立と着席を繰り返した。隣でコリンを支えてくれた経験豊富なヴァイオリニストのリズが目配せしたので、コリンは彼女と握手をし、それを合図に団員たちも隣と握手をして舞台から下がって行った。まだコリンは退場のタイミングがわからなかったので、リズに教えてくれるように頼んでいたのであった。袖では仲間たちが口々に誕生日とコンサートマスターデビューのお祝いをコリンに述べた。暫くして、ヴィオレッタも姿を現した。彼女はコリンに近づくと、柔らかな笑顔を浮かべた。
「お疲れ様。どうだった?」
「楽しかったです。いろいろとやりたいこともあったけど、まだ出来なくって。でも、今するべきことは、大体出来たと思います」
コリンの答えに、ヴィオレッタは笑った。
「欲張りね。素晴らしい演奏だったと思うわ。皆の気持ちが入っていて、それがよく伝わってきたし」
コリンは嬉しくて、少年のように無邪気な笑顔になった。ヴィオレッタは突然真面目な顔になった。
「でも困ったわね…こんな強力なライバルが現れるなんて」
コリンとヴィオレッタは顔を見合わせて笑った。
「コリンに渡したいものがあるの」
ヴィオレッタは彼女のヴァイオリンケースを開けた。そこには普段使っている2本の弓のほかに、もう1本、使っていない弓があった。
「これをお守りに…以前この弓は素晴らしいコンサートマスターが使っていたわ。あなたにもそうなって欲しいの。もっともっと、素晴らしいコンサートマスターに」
コリンは、その素晴らしいコンサートマスターがヘンリーのことを指していると分かった。軽い嫉妬を感じたが、それでもヴィオレッタの気持ちが嬉しく、素直に弓を受け取った。
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