第九章 Finale −フィナーレ−

第三節

コリンたちが行ったチャリティーコンサートは大成功だった。その後数日間、新聞や雑誌で大きく取り上げられた。売上金などの集まったお金は、ロンドンの音楽教育の為に使われるよう、全額寄付された。このコンサートの目的自体も話題になったものだったが、イギリスの誇るヴァイオリニストだったコリンが2年ぶりにステージに立ったことは、何よりも人々の関心を集めた。コリンの所にも記者たちが多く取材を申し込みにやって来た。ソロ活動を近いうちに再開するのか…多くの人たちがそのことを知りたがっていた。コリンはその質問に対し、まだわからないとしか答えなかった。シーズンオフになり、コリンがレッスンをしている生徒たちも夏休みでどこかへ出かけたりし、彼は自分の練習以外にすることが少なくなった。アンナは忙しいコリンを支えるために仕事をせずに今までいたが、コリンに時間ができたため、簡単な仕事を見つけ働くようになった。コリンはアンナともっと一緒にいたい気がしたが、彼女が働きたいのならしょうがないと思い、特にどこかへ休暇にいくこともせずにいた。そんなある日、ソリストとしてのコリンをマネージメントしている音楽事務所のケイトから電話があった。会わせたい人がいるから事務所に来るようにとのことだった。コリンには予定もなく、彼は出かける旨を書いたメモをアンナに残し、事務所へ向かった。ケイトに会うのも久しぶりだった。たまに電話で連絡を取ることはあったが、ソロ活動を休止してからほんの数回会っただけだった。
「久しぶりね」
事務所のケイトの部屋に入ったコリンに、彼女は微笑んだ。コリンも彼女に会えた嬉しさで自然と笑顔になった。
「本当に…元気だった?」
2人は軽く手を握った。コリンの視界にもう1人の人物が入った。白髪の上品で賢そうな女性がソファーに座っていた。ケイトは彼女を紹介しようと、ソファーの横へ移動した。
「コリン、こちらはメアリー・スコットさん」
「はじめまして」
コリンが手を差し出すと、彼女はにっこりと微笑んでその手を握った。
「こちらこそ、光栄ですわ、お会いできて」
ケイトがコリンに少し緊張した声で言った。
「彼女はペンバリー管弦楽団の代表代理よ」

ペンバリー管弦楽団。もちろんコリンもその名を知っていた。イギリスに数あるオーケストラでも最高クラスに属し、世界的にもトップクラスのオーケストラであった。しかし、このオーケストラは非常に独特の活動をしていた。まず、音楽は生で聴くものであるという考えから、本拠地を置かずに多くの街で演奏し、録音は決して行わなかった。そのため知る人ぞ知る存在であったが、その素晴らしく見事な音楽から根強いファンが多かった。また、この団体は団員の自主経営であり、全ての作業を演奏家たち自ら行っていた。音楽監督や常任指揮者も置かずに、団員たちがその都度指揮者を選び、依頼をしていた。ダービシャーのとある貴族が代表であったが、彼は資金援助をしているのみであった。団員たちは大抵このオーケストラ以外での活動をメインとしており、ソロとして演奏している人物も多く、中には世界的に一流のソリストもいた。このオーケストラの収入だけで生活している人はおらず、そのためにコンサートのチケットは安く抑えられ、誰もが気軽に聴きに行けるように考慮されていた。コリンはこのオーケストラとは、ソリストとしてもオーケストラプレーヤーとしても、今まで全く縁がなかった。このオーケストラにおいては、団員の多くがソリストを務められるほどの実力を持っていたため、外部からのソリストは必要がなかった。またペンバリー管弦楽団は、団員の一般公募も行わず、空きができると団員たちが相談し、自分たちのオーケストラに相応しい人物を迎え入れるといった方法を取っていたのだった。そのため、コリンがどんなにこのオーケストラと共演したい、または団員になりたいと思っても、どうすることも出来なかったのだった。実際に彼らの演奏を聴いたことはなかったが、噂に聞く限りではコリンの理想とするオーケストラであった。そこでの収入が低くても、その演奏の為に余計忙しくなってもいい、とにかくオーケストラで弾きたい…そういう音楽家たちが集まったオーケストラであった。そのペンバリー管弦楽団の代表代理が一体僕に何の用があるのだろうか…コリンの鼓動は速まった。

「わざわざお越し頂いて申し訳ありません。休暇中ですのに。こちらにも全くアポイントメントを取らずに突然伺うという失礼をしてしまったのですが、ハーディさんがあなたに連絡を取ってくださると申し出てくださったので、そのご好意に甘えさせて頂きました」
スコットは落ち着いた調子で話した。代表代理とはいうものの、事実上の団長であるはずのこの女性は、さすがに威厳ある人物であった。
「いえ、大丈夫です。特に予定もありませんでしたし」
コリンは少し緊張した面持ちで答えた。スコットはそれを見ると、軽く微笑んだ。
「この間のコンサート、聴かせていただいたのです。あなたがステージに立たれるのは、久しぶりでしたわね。ヴァイオリニストとして、そしてコンサートマスターとして…いいえ、音楽家として、あなたは素晴らしい方だと再確認いたしましたわ。ソリストとしてのコンサートも何度も聴かせていただきましたが、コンサートマスターとして弾いていらっしゃるほうが、生き生きとして見えますのね」
そう言うと、スコットは上品に声をたてて笑った。それから出された紅茶をひと口飲むと、話を続けた。
「あなたは今、ヴァイオリン教師としての活動をメインになさっていますね。突然質問するのは大変失礼ですが、この先演奏活動を再開なさる予定はございますか?ソリストとしてでも、またオーケストラプレーヤーとしてでも、どちらでもよいのですが」
その質問は、この間のコンサート以来、何度も耳にしたものだった。そしてコリンは、何度も答えたように再び答えた。
「まだわかりません。でも…」
スコットとケイトの視線をコリンは感じていた。スコットがどういう答えを期待しているのかは予想もつかなかったが、ケイトがコリンのソリストとしての活動再開を望んでいることは明らかだった。コリンの気持ちは揺れた。ここで何もかも正直に話すほうがいいのだろうか。心の内にあるものをはっきりと言ったほうがいいのだろうか。
「でも、この間のコンサートで久しぶりに聴衆の前で弾くことが出来て、とても楽しかったのです。僕が弾くのはここだという気がして。教師の仕事も勉強になりますし、楽しいのでやめるつもりはないのですが…それ以上に僕は演奏家なんだと確信しました」
スコットはコリンの答えを聞くと、真剣な眼差しでコリンを見つめた。
「それでは、今日こちらへ伺った理由をお話いたしましょう。ファースさん、あなたをペンバリー管弦楽団のソロ・コンサートマスターとしてお迎えしたいのです」

コリンは驚いて何も言えなくなった。ケイトもなぜスコットがここへ来たのか詳しくは知らなかったのだろう、同じく言葉を失っていた。
「本当はもうずっと前から、ぜひわたくしどもの楽団で弾いて頂きたいと思っておりましたが、ソリストとして活躍されていてお忙しそうでしたし、時機を逸しておりました。ソロ活動を休止なさってからも、いつお話できるものかと思っていましたが、先日のコンサートを聴き、やはり当団初のソロ・コンサートマスターにはあなたしかいないと確信したのです。他の団員たちも熱望しております」
コリンはスコットの言葉を遮った。
「すみません、お話の途中で。今、当団初のソロ・コンサートマスターと仰いましたね?」
「ええ。ご存知とは思いますが、わがオーケストラはソリストやソリストレベルの奏者を多く抱えておりますし、コンサートマスターも特に役職として置かず、その時々で別のヴァイオリン奏者が務めております。実を申しますと、あなたをもしお迎えすることが出来るならばソロ・コンサートマスターという地位を作るべきだろうということになったのです」
スコットは再び紅茶を口にした。
「これもご存知だと思いますが、わたくしどものオーケストラでは、収入はお約束できません。もちろん毎月ありますが、仕事量に対して非常に少ないですし、それだけでそれなりの生活をすることはほとんど不可能です。ですから、今の教師の仕事を続けていただくか、ソリストとしての活動を再開していただくことになります。基本的に3晩の演奏会を月に3回行っております。全部に出ていただくことはないと思いますが、おそらく2回は出ていただきます。場所はロンドンとは限りませんし、リハーサルも入れるとかなりの日数になります。年に2度は海外遠征もありますし、オーケストラ以外の仕事とあわせると、シーズン中は休みのない程になると思います」
コリンは手を口元に当て、考え込んだ。オーケストラ、しかも最高レベルのオーケストラのソロ・コンサートマスター。教師としての仕事や、もし再開したとしたらソリストの仕事も続けることが出来る。しかし、シーズン中の忙しさは今まで以上かもしれない。ソリストとして一番コンサートをこなした、あの年と同じくらいかそれ以上だろう。あの時こなせなかったことが、今なら出来るだろうか。今の自分にはその余裕があるだろうか。スコットとケイトは黙ってコリンが答えるのを待っていた。コリンは顔を上げ、スコットに言った。
「今すぐにはお答えできません。暫く時間を頂きたいのです」

ケイトにはまた近い内に連絡をすることにして、コリンとスコットは事務所を出た。コリンは黙ったまま考え続けていた。その様子を見て、スコットは軽く笑った。
「突然の話で、申し訳ありません。でも今がチャンスだと思ったのです」
「いえ、構いません」
コリンは慌てて頭を振った。
「今ではもう引退していますが、わたくしもヴァイオリニストでしたのよ」
突然のスコットの言葉にコリンは驚いて彼女を見つめた。
「数年前までペンバリー管弦楽団で弾いていましたわ。もう何十年前になるかしら、まだあなたが生まれていらっしゃらない頃ですが、ウィーンに留学して1年間ある方に師事しました。その方はわたくしより15歳ほど上で、既に演奏家としても教師としても名ヴァイオリニストとして活躍されておりました…エーデルバッハ先生です」
コリンは息を呑んだ。まさかスコットの口から彼の恩師の名が出るとは思いもよらなかった。
「とても厳しい方で、一度も褒めてくださいませんでしたわ。間もなく教師としての活動だけをなさるようになり、あの方はロンドンに来られました。なぜ教師だけになられたのか、演奏家を退かれてもなぜあの名器ストラディヴァリウスをどなたにも譲られなかったのか、そしてロンドンに来られたのか、ずっと不思議に思っておりました…でも今、あなたというヴァイオリニストを知って、その理由が明らかになりましたわ。運命とでも言うのでしょうか、全てはあなたというヴァイオリニストを育て上げ、あの名器をそれに相応しいあなたに譲るためだったのです」
2人は地下鉄の駅に着いた。コリンとスコットは別方向のためここで別れることとなった。
「ファースさん、あなたはエーデルバッハ先生の全てを受け継いだ、そしてあなたの楽器に本当に相応しい、素晴らしいヴァイオリニストです。わたくしどもの楽団にお迎えすることが出来れば、これ以上ない光栄ですわ」
そう言うとスコットはコリンに右手を差し出した。その手をコリンは握った。
「なるべく早くお返事します」
コリンはスコットを力強い瞳で見つめた。

家に帰るとアンナも帰っていた。コリンはペンバリー管弦楽団のことを話した。
「すごいじゃない、あそこは入りたくったって入れないオーケストラだよね。昔、あの街のホールで聴いたけど、素晴らしい演奏だったよ」
「そうだろうね…でも迷っているんだ。どうしたらいいかな」
アンナは首を傾げた。
「何が理由で迷っているの?」
「僕にそれが出来るのかって思って。そんなに凄いオーケストラのコンサートマスターが務まるのだろうか。オーケストラの仕事をしながら、ヴァイオリンを教えて、それからたぶんソリストの仕事もしないとやっていけないと思うんだけど、そんなに忙しくなった時に、僕の音楽を失わずにいられるのだろうか」
コリンは少し考えて、なぜか可笑しくなって笑った。
「変だな。昔、アンナと出会った頃は自信家でどうしようもなかったのに、今はその正反対になってしまったみたいだ」
アンナもつられて笑った。
「そうだったね。でも結構すぐにヴィオレッタにやりこまれて、へこんでたじゃない」
2人は顔を見合わせて、笑い出した。アンナはコリンの腕に軽く触れて言った。
「その時もそうだったけど、何でもやってみないとわからないよね。あの時、コリンはソリストになるはずだったのに、コンサートマスターとしてどんどん成長したし、ソリストに転向してからも伸びていった。たとえ失敗しても取り返しがつかないことじゃないし、私はやってみてもいいと思う。もちろん決めるのはコリンだよ。後悔しないように、好きなようにして欲しい」
「やってみないとわからないか…ソリストになろうとした時、先生にもそう言われたんだ。寄り道をしてみるのもいい、オーケストラよりソリストが向いているかもしれないし、やってみなければわからないと」
オーケストラで弾きたいという気持ちに偽りはなかった。そしてその話が向こうからやって来たのだ。しかもこれ以上望むべくもないレベルのオーケストラで、自分の為にソロ・コンサートマスターの地位を用意してくれている。もしかしたらこれはチャンスなのかもしれない…コリンはそう思った。余裕のなくなってしまったあの時よりは、自分も成長したはずだ。
「決めたよ、やってみる。ペンバリー管弦楽団で弾いてみるよ」
コリンはにっこりと微笑んだ。

次の日、コリンはケイトに連絡を取り、事務所へ向かった。コリンを迎えたケイトは、いつになく緊張した面持ちだった。
「それで、結論は出たの?」
「うん。ペンバリー管弦楽団で弾いてみようと思う」
ケイトは深く息を吸った。
「おめでとう。いいオーケストラだし、何よりもあなたがステージに戻ることがとても嬉しいわ…でもこれにも答えてちょうだい。ソロ活動はどうするの?」
それは恐らくケイトが一番知りたいことだったであろう。コリンもそれを質問されるとわかっていた。
「オーケストラでの活動を始めると、たぶん生徒を減らさなくちゃいけなくなるはずなんだ。そうなると生活するのも厳しくなってしまうから、他の手段も必要だと思う。それにソリストとしての活動も僕には勉強になって大事なんだ。たくさんのオーケストラやピアニストと一緒に演奏することは、自分のオーケストラと弾くのとはまた違うからね」
コリンは少し照れくさそうな顔をして、ケイトを見つめた。
「もう一度、ソリストとしての演奏をしようと思う。もちろん、以前みたいにたくさんは弾けないけど、月に1、2回くらいで。それで、またマネージメントをケイトにお願いしたんだけど、いいかな」
ケイトはコリンの両腕を掴んだ。その目は潤んでいた。
「何言っているの、もちろんよ…他の人にやらせやしないわ。あなたのマネージメントは私がやるんだから。シーズンの初めは無理だろうけど、他のヴァイオリニストの仕事をキャンセルさせてでもあなたにいい仕事を取るわ!」
コリンが笑うと、ケイトも微笑んだ。
「この時をずっと待っていたのよ。あなたがステージに戻るのをずっと。私がどんなに嬉しいかわかる?」
頷くと、コリンはケイトを軽く抱き締めた。彼女もコリンと同じくらい、彼がヴァイオリニストとしてステージに戻る日を待っていた。教師としての仕事をしていたコリン以上に、待っているだけの彼女にとってこの時間は辛かったのかもしれない。
「ありがとう、ケイト…そして、これからもよろしく」

ペンバリー管弦楽団の代表代理スコットにはコリンが自分から連絡を取ることにした。彼はスコットに電話をし、オーケストラの事務局へ向かった。ペンバリー交響楽団の事務局はとある建物の一角にあった。表札にはオーケストラ以外の名前はなく、建物全体がオーケストラの代表者の持ち物であるらしかった。コリンは事務局の呼び鈴を鳴らし、建物に入っていった。入ってすぐのところに事務局があった。扉をノックすると、中からスコットの声が聞こえた。コリンは扉を開け、中に入った。いくつか机の並んだ部屋の一番奥に、スコットがいた。
「どうぞお座りください…少しお待ちくださいます?」
彼女は忙しそうに書類に目を通していた。コリンはスコットの机の前にある椅子に座り、彼女の仕事が終わるのを待った。全ての書類をチェックすると、スコットは眼鏡を外し、コリンに手を差し出した。
「ようこそファースさん、お待ちいただいて申し訳ございませんでしたわ」
「いえ、お忙しい時にお邪魔してしまって」
「ご存知の通り、事務だけしているのはわたくしだけですから、他の事務担当の団員が来ていない時は、本当にすることが多くて。シーズンオフの間はしょうがないのですけど」
スコットはコリンに微笑んだ。それはコリンに何を話しに来たのか言うように促しているようにも見えた。
「お忙しいところ時間を割いていただいて、こちらこそ申し訳ないのですが、この間伺ったお話についてのことで、今日はこちらに来ました」
コリンはゆっくりと話し出した。スコットはその瞳に少し緊張の色を湛えた。
「僕は長い間、ソリストとしての活動休止している間だけではなく、ソロ活動をしていた時から、ずっとオーケストラで弾きたいと思っていました。学生の時からずっとソリストになる勉強をしていたのですが、最初のプロ活動をオーケストラで始めてすっかりその魅力にとりつかれてしまったのです。今は教師の仕事もするようになって…ソリストとしての仕事も、教師としての仕事も僕にとって大事なものとなりました。でもやはりオーケストラで弾くということを諦められないのです。そして今回のお話は…僕にとってとてもいいチャンスだと思いました。もちろん大変ではありますが、でも僕のやりたいことが全て出来るかもしれません」
コリンは深く息を吸った。
「ぜひペンバリー管弦楽団で弾かしていただきたいのです。あなたがたの素晴らしいオーケストラの一員として、音楽を楽しんでいきたいと思います」

スコットはコリンが話すのを黙って聞いていた。彼が話し終わると、スコットはほっとしたかのように軽く溜息をついた。
「ファースさん、あなたをわたくしどものオーケストラに迎えられることは、本当に光栄です。他のメンバーも喜びますわ。世界中のオーケストラから羨ましがられるでしょうね」
そう言うとスコットは声をたてて笑った。もうコリンの心には不安はなかった。久しぶりのオーケストラ、コンサートマスター、そしてトップクラスのメンバーたち。オーケストラの活動だけではなく、ソロ活動と教師の仕事も続けることになる。一体どうなるのか、自分でも全く見当がつかなかった。しかしどんなことよりも、再びステージに立てるということ、オーケストラで弾けるということがコリンには嬉しかった。長い間、彷徨っていた迷宮の出口を見つけたかのような気分だった。コリンとスコットは事務的な話に入り、契約書にサインをし、その後建物を案内された。事務局の他に、オーケストラの合奏場所、個々の練習用の部屋、楽譜の為の書庫、簡単な食事などが出来るカフェテリアがこの建物に入っていた。
「すぐに用意しますが、建物の鍵をお渡しします。いつでもお好きな時に全ての施設をお使いいただけますわ」
コリンは廊下の壁に貼られた数々の演奏会のポスターを見つめていた。世界中の有名なホールと、実力と名声を兼ね備えた指揮者たち。いくつかのホールで何人かの指揮者と一緒に、コリンは既に弾いたことがあった。しかし、ペンバリー管弦楽団の演奏記録に、それらが綺羅星のごとく名を連ねているのを見ると、自分がこれから弾くオーケストラの凄さをますます強くコリンは感じた。心地いい緊張感が体中を走る。コリンは今すぐにでも弾きたい衝動に駆られた。
「また来週伺います。その頃にはだいたいの予定がわかっているはずですので」
コリンはスコットと握手をすると、足早に家へ戻っていった。

家に戻ると、コリンは早速、来シーズンからの活動に向けての準備を始めた。まずは教師としての仕事を減らさなければならない。これはコリンにとって、ある意味残念なことであった。どの生徒たちも、子供たちも音大生も、趣味で弾いている大人たちも、コリンには大事な人たちであった。ソロやオーケストラの仕事が入りレッスンが不定期になるため、毎週レッスンをしなくてはならないような、例えば趣味で弾いている人や子供たちのレッスンは恐らく無理になるであろう。将来プロになる音大生たちに教えるのとはまた違う、とても楽しいレッスンを放棄しなければならないことは、コリンの胸を痛めた。しかし出来ないことを出来ると約束することも不可能であった。コリンは彼らに連絡を取り、代わりになる優秀で信頼のおける教師を紹介することにした。それから再び、ソロ活動の為にレパートリーにある曲の練習と新たな曲の勉強を始めた。もう彼の恩師はこの世にいない。どの曲も全て自分だけの力で自分のものにしなくてはならない。しかし、彼の恩師エーデルバッハならこうレッスンするであろうということが、もうコリンの体の中には染みついていた。あらゆる基礎は彼女によって叩き込まれていた。あとはそれを更に自分の中で消化し、自分という体と心を通して、目の前にある楽譜に記された音符を、芸術作品として、素晴らしい音楽としてどう聴衆に伝えるか…それがコリンのやるべきことであった。コリンは恩師から譲られた名器ストラディヴァリウスを構えた。低弦の哀愁を帯びた深い音色、高弦の煌びやかで華麗な音色。コリンはまだ自分がこの楽器に相応しいくらい成長したとは思わなかった。まだまだ練習し、経験を積んで、楽器に負けないくらいのヴァイオリニストにならなければ、楽器に対してもそれを譲ってくれた師に対しても失礼だ…コリンはそう思っていた。

8月になり、オーケストラの練習が始まることになった。ソロ・コンサートマスターとして入団したコリンを、団員たちは温かく迎えてくれた。彼らはコリンを自分たちの大事なオーケストラに迎えることが出来たことを、心から喜んでいるようだった。コリンのことはもちろん全員が知っていたが、団員の何人かをコリンは既に見知っていた。事務的な話が始まると、休暇明けの雰囲気から、徐々に本番に挑むプロの音楽家たちの持つ心地よい緊張感の漂う空気に部屋は包まれていった。9月最初にロンドンで行われるシーズンのオープニングコンサートにコリンも出ることになっていた。メインはマーラーの交響曲第5番。先日事務所を訪れ、コリンがこの演奏会に出ることを聞いてから、彼はなんとなく落ち着かない気分だった。オーケストラプレーヤーとして再出発する緊張もあったが、それ以上にこの曲にある思い出が彼をそうさせていたのだった。楽譜を借り、ボウイングをつけている時にも、彼の頭からそれが離れることはなかった。この曲を弾くのは、最初にコリンが入ったオーケストラで弾いて以来であり、最後に弾いたのは、彼の愛する女性を弔うために第4楽章を弾いた時だった。アダージエット…もう何年も前のことだったが、まるで昨日のことのように思い出すことが出来た。あれからいくつもの出会いと別れがあった。コリンはオペラ座付きのオーケストラを辞め、ソリストとなり、そしてその活動を休止した。プロになってから10年以上が経ったが、すべてがあっという間に過ぎ去ったような気がしていた。今、再びオーケストラのコンサートマスターとして舞台に立とうとしている…これからも様々なことを経験し、更なる出会いと別れがあることだろう。コリンは楽器ケースについている2つの天使の人形を見た。
「僕はこれからも弾き続けます…ずっと見守っていてください、ヴィオレッタ」
そう呟くと、コリンはヴァイオリンを構えた。

満員の客席から熱気が伝わってきた。ペンバリー管弦楽団のシーズン開幕コンサートを心待ちにしている聴衆たち。そして今回はそれ以上に、イギリスの誇るソリストとして活躍していたコリンが、このオーケストラのコンサートマスターとなり、再び舞台に戻ってくるということがあった。この日のチケットは発売日に完売した。他の団員たちが席についたのを確認すると、コリンはステージへ歩いて行った。会場中を包む拍手が、コリンの気持ちを更に高めた。僕はステージにいる、そしてオーケストラで弾くんだ…コリンは嬉しくてしょうがなかった。彼は心をこめて客席に礼をすると、オーボエ奏者に向き直り、チューニングの合図を出した。指揮者の棒が振り下ろされ、音楽が奏でられ始めると、コリンは不思議な感覚に包まれた。今まで体験してきた全ての出来事が、この時の為にあったかのように感じられた。僕はここで弾くためにヴァイオリンを弾いてきたのかもしれない…コリンはそう思った。才能ある仲間たちと最高のアンサンブルで、素晴らしい作品を聴衆の前で弾く。スケジュールは隙間なく埋まり、コンサートは仕事であるにもかかわらず、ヴァイオリンを弾くことはコリンにとって喜び以外の何ものでもなかった。夢中になって弾いているうちに前半が終わり、メインのマーラーになった。葬送行進曲から始まり、そしてあの第4楽章アダージエット。前回この曲を弾いたときは悲しみ以外の感情を持たなかったが、この日は全く違っていた。あの美しく威厳ある素晴らしいヴァイオリニストをこの曲と切り離すことは出来なかった。しかし彼女を愛することが出来たという喜びのほうが今は大きく、彼をここまで導いてくれたことに対する感謝の気持ちで一杯だった。そんなコリンに率いられたオーケストラの奏でる音色は、全ての感情を昇華したかのような、深く、しかし澄み切ったものであった。そして最終楽章へ進み、抑えていた感情を解き放つような演奏が続き、熱狂的に曲は締めくくられた。客席からは嵐のような拍手が起こり、指揮者は何度もカーテンコールに呼び出された。コリンは今まで演奏したすべてのコンサート以上に、気持ちが高揚し、満足しているのを感じていた。


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