第九章 Finale −フィナーレ−

第二節

6月に入り、コリンはチャリティーコンサートの準備でますます忙しくなってきた。しかし、ソリストをしていた頃とは違った忙しさだった。ソロコンサートも進んでしたことだったが、今は自ら全て行い、弾きたいという気持ちを持った仲間たちと一緒だった。弾くことの楽しさと喜び…コリンはそれを強く感じていた。
「コリンが2年ぶりにステージに立つっていうのが、かなりのニュースになっているみたいで、いい宣伝だよ」
アンディが笑いながら言った。
「イギリス中の音楽通やコリンファンが集まるかな。いや、大陸からも来るかも」
「そんなところまで宣伝してないだろ」
コリンも笑った。チケットは既に完売していた。事務的な問題はまだあったが、とにかくあとは本番を迎えることが彼らには大事だった。当日1回の練習で上手くいくのだろうか。不安は誰の心にもあったが、それはやってみなくてはわからないことだった。その時、コリンの携帯電話が鳴り、彼は部屋の隅に行き電話に出た。自分が何を聞いて何を話しているのかわからないくらい、コリンの気持ちは高ぶっていた。電話を切ると、コリンはその場にいた仲間たちに言った。
「ごめん、急用が入って、今すぐ行かなくちゃいけないんだ…また明日続きはやろう」
コリンは部屋から駆け出し、駅へ向かった。こんなにも駅が遠く感じられることはなかった。息を切らし、駅のホールを見渡していたコリンは、捜し求めていた姿を見つけた。
「…アンナ」
アンナはコリンに気が付き、彼のほうへ歩いてきた。そして太陽が輝いたような笑顔を見せた。
「コリン、走ってきたの?そんなに急いで来なくてもよかったのに」
「すぐに会いたくて」
コリンは微笑むと、アンナを抱き締めた。彼は何も言うことが出来なかった。今まで感じたことがないくらい、嬉しくてしょうがなかった。アンナがコリンの所へ来てくれたということ以外、コリンは何も考えなかった。

アンナの荷物を持ち、コリンは家に彼女を連れて行った。
「ここだよ。僕がずっとレッスンを受けていた家なんだ…先生から譲られて、今は僕が住んでいるんだ。隣は実は僕の生まれた家でね。そんなに大きな家じゃないけど、僕は1階しか使ってないから、2階を好きに使って。2部屋とバスルームがある。台所は1階にしかないけど、いいよね」
「へぇ、素敵な家だね…すごく落ち着いている感じ。コリンはここで育ったんだね」
コリンは頷いた。上品で質のいい調度品と内装。コリンは彼の恩師が使っていたものを、ほとんど変えずにそのまま使っていた。この家には3歳の時からの思い出が詰まっていた。
「残りの荷物は送らせるの?」
「うん、でももう一度、あっちに行かなくっちゃ。まだやることが残ってるから」
アンナは心配そうにコリンを見た。
「コリンは仕事の途中だったんじゃないの?大丈夫?」
「うん、途中で抜け出したけど、大丈夫。今は今度のコンサートのことで色々やっていてね」
「面白そうなコンサートだね。そのことを話す時、コリンはとってもきらきらしてる」
コリンは嬉しそうに微笑んだ。
「すごく楽しいよ。久しぶりに手作りのコンサートをする感じなんだ。昔、弦楽アンサンブルとかやっていた時みたいだよ」
紅茶を用意しながらコリンは今度のコンサートについて話した。
「本番も何が起こるかわからないんだけど…もしアンナがよかったら、事務を手伝って欲しいんだ。アンナはそのプロだからね」
「喜んで。そう言って貰えて嬉しい。それ以上に、私はステージのコリンをまた見られるのが、すごく嬉しいよ」
アンナはコリンの手に自分の手を重ねた。
「先生をしているのもいいと思う。でも私はコリンの音楽は、出来るだけ多くの人に聴いてもらいたい。コリンのヴァイオリンは本当に素晴らしいから。コンサートでのコリンは、音楽の楽しさや喜びを誰よりも伝えられるヴァイオリニストだと思う」
そうだ、僕はコンサートで弾きたい…多くの聴衆に僕の音楽を伝えたい。僕はヴァイオリニストだから。コリンの気持ちはますますはっきりしていった。
「ありがとう」
コリンはアンナに最高の笑顔を見せた。

コンサートの準備、自分の練習、レッスンとコリンは多忙だったが、アンナが来てからは彼女がコリンを助け、コリンの気持ちはずっと楽になった。何より、明るく朗らかなアンナと一緒にいると、大変で辛いことすら乗り越えられる気がしていた。同じ家に住んでいるものの、2人の関係は以前と何も変わらなかった。コリンの彼女に対する気持ちは少し違ったものであったが、それを表に出すことを彼は躊躇していた。
「コリン、ちょっと話があるんだけど」
ある日、アンナが真面目な顔をして言った。
「冷蔵庫の中、ちょっとひどすぎるよ。何もないじゃない!いつもあんな量しか入ってないわけ?ちゃんと食べてるの?」
「食べてるよ、1日3食」
「回数を聞いているんじゃないの!これからは私がコリンの分も作るからね!」
そう言うとアンナは台所へ向かった。コリンはアンナの隣に立った。
「アンナ、料理得意?」
「特に得意じゃないけど、普通に作れるよ…意外かもしれないけど、ヴィオレッタは料理が下手でね。全然作らなかったんだ」
コリンは笑った。
「へぇ、知らなかったな…僕はヴィオレッタのことを全然知らなかったのかもしれない」
亜麻色の髪と、菫色がかったグレーの瞳をした、年上の美しい女性。そして素晴らしいコンサートミストレス。コリンにとって、彼女は絶対的な女性だった。料理が下手だったとか、プライベートなことは何も知らなかった。彼女のことをこれ以上直接知ることはもう出来ない。しかし、手の届くところにいてくれる人をもっとよく知ることは出来る。
「アンナ、嫌いな食べ物ってある?」
「そうだなぁ、特にないよ。コリンは?」
「ニンジンとピーマン」
アンナは暫く口をぽかんと開けてコリンを見つめた。
「何そんな子供みたいなことを言って」
「冗談だよ。何でも食べるよ」
コリンは声をたてて笑った。少しむっとした顔をしていたアンナも、つられて闊達に笑った。ただこうして笑いあえることがどんなに幸せなことか、コリンは強く感じていた。

客席のざわめきが舞台袖まで聞えてきた。満場の聴衆が、これから行われる演奏を楽しみにしている様子が伝わってくる。コリンは燕尾服の袖口を整えると、目を閉じて軽く深呼吸した。2年ぶりのステージ。コリンはいつになく緊張していた。午後に行われた1度のリハーサルは上出来だった。初顔合わせのメンバーとはいえ、皆ロンドンで活動し、このコンサートで弾く為に自主的に集まった音楽家たちだった。最初、何となくぎこちなかったアンサンブルも、演奏を重ねるうちにしっくりとくるようになった。何より、コンサートマスターとしてのコリンの力量が、この寄せ集めのオーケストラをまとめていた。ソリストとしてではなく、オーケストラのコンサートマスターとして弾くのは、約10年ぶりだった。しかしコリンには久しぶりだという感覚より、いるべき所に戻ったという気持ちが強かった。ソリストの間もずっと愛着を持ち続けていたオーケストラ。そのオーケストラで弾くということが、聴衆の前で弾くことよりも、コリンを緊張させていたのだった。
「コリン、緊張してるの?」
アンナがコリンに声を掛けた。コリンは軽く頷いた。
「オーケストラで弾くのが久しぶりだからね。逆にソロだったらこんなに緊張しないかもしれないけど」
アンナは笑った。
「普通はソロのほうが緊張するんだろうけど、コリンらしいね。大丈夫、コリンは最高のコンサートマスターだよ」
アンナはコリンの腕に軽く触れた。アンナの瞳は輝き、コリンの瞳を真っ直ぐに見つめていた。
「ここで聴いているから」
彼女の手と瞳から、コリンは力を与えられるような気がした。コリンは微笑むとステージに歩いて行った。

他のメンバーより少し遅れてコリンが舞台に姿を現すと、会場からは嵐のような拍手が沸き起こった。多くの人たちが、コリンが再びステージで弾くことを待ち望んでいた。舞台映えする整った長身を軽く曲げ礼をすると、流れるような動作でヴァイオリンを構えた。彼がヴァイオリンを構えるだけで、会場の空気が変わるかのようにピンと緊張感が漂った。チューニングが終わると、燕尾服の裾を払い、コリンは席に着いた。隣に座っているアンディと握手をし、譜面台の高さをもう一度直して、指揮者が入場するのを待った。指揮者が舞台に姿を現し、再び拍手が起こった。それを聞いてコリンはもう一度立ち上がり、彼に合わせて他の奏者たちも立ち上がった。指揮者と握手をし、再び座る…それらはかつて仕事の決まり事として何度も行った動作であったが、今のコリンには全ての出来事が喜ばしいものであった。僕は今、オーケストラにいるんだ…その気持ちでコリンの心は一杯だった。指揮者が指揮棒を上げ、音楽が奏で始められると、コリンは音楽のこと以外、何も考えられなくなった。オーケストラで弾くことが久しぶりであるということも、聴衆の前で弾くことが2年ぶりであるということも、全てを忘れ音楽に没頭した。楽譜に記された音符が、自分たち演奏家を通すことによって、素晴らしい音楽となって聴衆に伝わる。全ての瞬間をこのホールにいる全ての人たちと共有しているという感覚。何よりもコリンが愛してやまないもの…それがこのコンサートにはあった。コリンは最高の技術と比類なき音楽性で、彼のストラディヴァリウスから至上の音楽を奏で、オーケストラ全体をまとめ上げていった。コリンの才能に引っ張られ、オーケストラの他のメンバーも、いつも以上の演奏が出来ている気がしていた。演奏することの喜びと楽しさ、音楽の素晴らしさ。コリンは最高に幸せな気持ちで一杯だった。

コンサートはあっという間に終わったようにコリンには感じられた。満場の拍手とブラヴォーとの掛け声、そしてスタンディング・オヴェイションに包まれ、コリンはステージを後にした。アンディや他の仲間たちと握手をし、お互いの健闘を誉めあったコリンは、楽屋への廊下の隅にいるアンナを見つけた。彼女は満面の笑みでコリンを迎えた。
「コリン、すごくよかったよ。おめでとう」
「ありがとう…僕も弾いていてとても楽しかった」
コリンはアンナの額に自分の額を軽く合わせた。
「アンナ、僕はオーケストラで弾きたい…オーケストラが大好きなんだ」
「うん、わかってる…」
アンナはコリンの両頬を手で包んだ。オーケストラで弾きたい。この気持ちはコリンの中で強くなる一方だった。しかしどうすればいいのだろうか。どこかのオーケストラのオーディションを受けるべきか。それとも、コリンをソロ・コンサートマスターとして迎えたいというオファーがオーケストラから来るのを待つべきか。しかし音楽界では、コリンは「活動休止中のソリスト」として位置付けられていた。数あるオーケストラも、コリンがオーケストラプレーヤーに戻りたいと思っているとは考えていないことであろう。
「コリンはいつかオーケストラで弾けるようになるよ。ソリストとしても素晴らしいけど、コンサートマスターとしてのコリンは最高だもん。今すぐは無理でも、近いうちに必ず。自分を信じて」
コリンは頷いた。彼は不思議な感覚を抱いていた。どうしてアンナに言われることは、こうも素直に信じられるんだろう。彼女の純粋で真っ直ぐな心は、コリンの感情をもそうしてしまう力があった。
「それじゃあ、帰ろうか。帰ったら家で祝杯をあげよう」


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