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コリンはレッスン室のカーテンを開けた。柔らかな春の日差しが眩しかった。コリンがソリストとしての活動を休止してから2シーズンが過ぎようとしていた。彼は彼の恩師の家を譲り受け、そこに住み、そして今はヴァイオリンのレッスンで生計を立てていた。かつて自分がレッスンを受けた部屋で、彼は音大生や子供たちにヴァイオリンを教えていた。更に素晴らしいヴァイオリニストになる為に自分の勉強も重ねていたが、レッスンで他人を教えることにより学ぶことも多かった。音大生たちの真摯な姿勢、プロのヴァイオリニストになりたいという熱意。そして子供たちの無垢で純粋な音楽を楽しむ気持ち。聴衆の前で演奏することはなくても、自分はこの2年間に更に成長したとコリンは確信していた。未だにコリンのソロ活動休止を惜しむ声は多く、音楽事務所を通じて演奏依頼が来ることもあった。しかしコリンには、ソリストとして演奏活動を再開するにはまだ時期尚早な気がしていた。そして未だにオーケストラ奏者への愛着が強く、出来ることならオーケストラで弾きたいという気持ちがソロ活動へ踏み出すのをためらわせてもいた。
ある日、コリンが地下鉄に乗ろうと改札を通ると、彼の名を呼ぶ声が聞こえた。振り向くと栗色の髪をした若い女性がいた。彼女はヴァイオリンケースを肩に下げていた。
「コリン、久しぶり!」
コリンは首を傾げた。
「ええと、どなたでしたっけ?」
彼女はくすくすと笑った。
「そうね、10年くらい会っていないもの、もうわからないわね。こうすればわかるかしら?」
彼女は手で、髪を2つに分けておさげにした。栗色のおさげ髪と愛らしい瞳にコリンは覚えがあった。
「…アリス?!」
「そうよ、本当に久しぶり!コリンは全然変わっていないわね!」
コリンがオペラ座で弾いていた時の同僚の孫娘であるアリスとは、彼がオペラ座付きのオーケストラを去ってからは一度も会っていなかった。
「びっくりした、見違えたよ。素敵なお嬢さんになったね。あんなに小さかったのに」
「失礼ね、もう17だもん、立派なレディよ!」
2人は顔を見合わせて笑った。
「それではお嬢様、もしお時間があればお茶にご招待したいのですが」
「もちろん、喜んで」
2人は地下鉄に乗ると、コリンのかつての職場であったオペラ座のほうへ向かった。
注文した紅茶が運ばれてきた。以前よく休憩に訪れていた店でアリスを目の前にしていると、コリンはオペラ座付きのオーケストラで弾いていた頃を思い出した。
「今でもヴァイオリンを弾いているんだね」
コリンはアリスのヴァイオリンケースを指しながら言った。
「そうよ。実はね、音大を目指すつもり」
アリスは照れくさそうに笑った。
「まだおじいさん…ウィリアムに習っているの?彼は元気?」
「うん…元気だったよ、最期までね。今も天国で元気だと思う」
「ごめん…知らなかったよ」
アリスは首を振った。
「おじいちゃんはとても幸せだったから、大丈夫。コリンの大ファンでね、オペラ座を辞めてしまったことはちょっと残念がっていたけど、でもコリンのコンサートにはよく行っていたし、CDは全部持っていたんだよ。特に協奏曲を弾いているのがお気に入りで、コリンはオーケストラと一緒に弾くのがとても上手だって言っていたよ」
コリンはアリスの祖父、オペラ座での同僚だったウィリアムのことを思い出していた。頑固で人付き合いが悪く、職場では誤解されていたが、本当は音楽を誰よりも愛してる素晴らしい音楽家だった。そして愛する人を失った若きコリンのことを誰よりも理解してくれていた。アリスの言葉を聞いて、やはりウィリアムはコリンのヴァイオリンをよくわかっていたのだと確信した。コリンもソロ曲より協奏曲を弾いているほうが、自分にあっている気がしていたのだった。協奏曲というジャンルが重要なのではなく、オーケストラと一緒に弾くということがコリンには喜びを与えるものであった。
「今日はこれからレッスン?」
「そうなんだけど…あまり先生が好きじゃなくって。ねぇ、コリンって今はレッスンもしているんでしょう?やっぱりコリンに習うとレッスン代が高いのかなぁ」
コリンは笑った。
「そんなことないと思うよ。教師としては駆け出しだからね。よかったら連絡して」
コリンは連絡先が書かれたカードをアリスに渡した。
オーケストラ…ソロ活動を休止してからというもの、コリンはますますオーケストラへの気持ちが強くなっていくのを感じていた。プロとしての活動はソリストとしてのほうが少し長かったが、その間もオーケストラへの愛情が失せることはなかった。初めてプロの舞台を踏んだ時に仲間たちと一緒に弾いたあの楽しさと喜び。もちろんコリン程の実力のあるヴァイオリニストは、オーケストラのオーディションに受かることは確実であり、空きがあればいつでもどこかしらのオーケストラに入ることは出来た。しかし、暫くソリストとして活動していたこともあり、今更オーディションを受けるということも何かひっかかりを感じ、オーケストラへ戻るきっかけを失っていた。そんな時、コリンは昔の同僚から手紙を受け取った。手紙の送り主は、オペラ座付きのオーケストラでコリンと一緒にコンサートマスターを務めていたアンディだった。彼は比較的コリンと年齢が近く、コリンがオペラ座で弾いていた当時、仲がよかった一人だった。手紙の内容は、シーズンエンドにロンドンの演奏家たちでチャリティーコンサートを行うことになり、もしコリンに興味と時間があればぜひ参加して欲しいといったものだった。詳しくは直接会って話したいとあり、アンディがオペラ座で弾く日程が書いてあった。コリンは微笑んだ。
「つまり、オペラを聴きに来い、ってことだな」
壁に掛かっているカレンダーをコリンは見た。
コリンは退団してからオペラ座に来ることはなかった。このオーケストラとソリストとして共演したことは何度もあったが、それはコンサートホールであった。彼は天井桟敷の席を買い、舞台よりオーケストラピットの中をずっと見ていた。懐かしい顔、知らない顔。その日の演目はコリンも弾いたことがあるものだった。今でもよく覚えており、聴いていると左手の指が勝手に動いていた。終演後、コリンは楽屋にアンディを訪ねに行った。昔の同僚たちがコリンに気が付き、声をかけた。コリンの退団後に入団した団員も、ソリストとして活動していたコリンのことはもちろん知っており、何人かは挨拶をしてきた。アンディは楽屋から出てくるとすぐにコリンに気が付き、笑顔で握手を求めた。
「久しぶりだな、コリン。来てくれて嬉しいよ」
コリンも懐かしさで一杯になり、笑顔になった。
「変わってないな、アンディ。弾き方も昔のままだった」
「今日の演奏に関する感想は置いておいて、別の話をしようか」
2人はオペラ座近くのパブに向かった。飲み物を注文すると、アンディが話を切り出した。
「手紙にも書いたけど、ロンドンにいる演奏家たちでオーケストラのコンサートを開こうと企画しているんだ。ロンドンの音楽教育の為のチャリティーでね。日程はまだちょっと先で6月24日なんだけど、もしコリンに時間があるんだったらぜひ参加して欲しいんだ。なかなか空いているヤツが少なくてさ。そんなに大きな編成にはならないと思う」
飲み物が出され、アンディはそれをひと口飲んだ。
「曲目はオール・モーツァルトで、『フィガロの結婚』序曲、ピアノ協奏曲第24番と、メインに交響曲第39番。そういうわけで、ヴァイオリンソロはないからソリストじゃないんだけど」
コリンは首を振った。
「いや、全然構わないよ。そういう企画に声を掛けてくれて嬉しいな…ずっとオーケストラで弾きたいって思っていたし」
アンディはそれを聞くと嬉しそうな顔をした。
「それはよかった。じゃあこれも引き受けて貰えるかな…実はコンサートマスターをコリンに頼みたいんだ」
コリンは驚いた顔をした。
「でも君がいるじゃないか」
「俺は駄目だよ、企画で忙しいからさ。それに合わせの練習が当日1回だけだし、メンバーも色々なところから来るからかなり個性的だし、このコンサートマスターの仕事はちょっと大変そうだからね」
アンディは冗談っぽく笑った。コリンは暫く考えた。コンサートマスター…コリンがオーケストラで就いていた職。オーケストラでコンサートマスターとして弾くことは、コリンにとって願ってもないことだった。しかし、今でも務まるのだろうか。オーケストラは常設ではなく、ソリストや教師、様々なオーケストラから参加する人たちであろう。そのメンバーを当日1回の練習でまとめることが出来るだろうか。しかしやりがいのあることには間違いない。コリンは微笑んだ。
「わかった。僕でよかったらコンサートマスターをやるよ」
コリンはアンディに頼まれ、企画も手伝うことにした。レッスンと自分の練習以外に特に仕事はなく、コリンにはまだ時間があった。
「今日はもう一人、企画を手伝ってくれるチェリストが来るんだ」
打ち合わせでアンディがそう言った。この日は5人ほどの音楽家が集まり、宣伝やスポンサー探しなどの相談をしていた。
「なかなか美人だよ」
アンディは片目をつむって笑った。その時ドアをノックする音がし、扉が開いた。入ってくる人物を見てコリンは驚いた。
「クリスティン!」
「あら、コリンじゃない!久しぶりね」
アンディも驚いた顔をした。
「なんだ、2人は知り合い?」
「最初に入ったオーケストラの同僚だよ…今はロンドンなんだ」
「そうなの、今シーズンからここのオーケストラで弾いているわ」
クリスティンは微笑んだ。少し年をとったが、栗色の豊かな巻き髪とヘイゼル色の瞳には何も変わりがなかった。
「思い出話は後でしてもらうことにして、仕事を先に片付けよう」
アンディがそう言って、書類の束を出した。オーケストラのメンバーは集まり、あとは事務的な問題だけが残っていた。色々と大変なこともあったが、弾きたい演奏家たちが自ら集まり行う演奏会に、コリンは気持ちが高揚しているのを感じていた。
打ち合わせの後、コリンはクリスティンと食事をした。最初に入った小さな街のプロオーケストラの近況を色々と聞き、コリンは懐かしい気持ちで一杯になった。
「ノーマンに孫が生まれてね、もうすっごく可愛がっちゃって。無口だった人が、口を開けば孫の話よ」
「へぇ、なんだか目に浮かぶなぁ」
2人は笑ったが、突然クリスティンが複雑な表情をした。
「もしかしたらもう知っているかもしれないけど…アンナが離婚したのよ」
「えっ?」
「知らなかった?私がロンドンに来る少し前なんだけど。ひどいわよねぇ、相手から結婚しようって言ったくせに、そっちから離婚を切り出すなんて。彼女、結婚してからあまり元気じゃなくなっちゃったんだけど、あれからはどうなったのかしら。ホールの事務所での仕事は続けているし、前のフラットに戻ったらしいけど」
コリンはもうクリスティンの話が耳に入らなかった。あのアンナが離婚していたなんて…コリンの頭には結婚式で見たアンナの姿が浮かんでいた。朗らかで屈託のない笑顔。今はあの笑顔が曇っているのだろうか。いつも明るく輝いていた瞳が涙で潤んでいるのだろうか。コリンの中で、今まで感じたことのないような感情が渦巻いていた。鼓動が高鳴った。家に帰ってからもコリンはそのことばかり考えていた。あの街に行くべきなのだろうか…アンナに会いに行ったほうがいいのだろうか。しかし、コリンが彼女に会いに行ったところで、どうなるというのか。コリンはアンナの為に何が出来るのだろうか。彼はアルバムを取り出し、アンナたちと一緒にいた頃の写真を見つめた。懐かしい仲間たち、アンナ、そして…亜麻色の髪とグレーの瞳のあの女性。誰よりも敬愛していたあの女性を、無理やりにでもロンドンに連れてこなかったことをコリンは後悔していた。あの時、もっと彼女を説得していたら…強引でもいい、引っ張って来ていれば…しかしコリンはそうしなかった。そしてその結果、彼女を永遠に失うことになった。コリンはアルバムを閉じた。アンナはいつも僕を助け、支えていてくれた…今度は僕が彼女を助ける番だ。コリンは時計を見た。今から行けば日暮れには着くはずだ。彼は上着と財布を持つと、駅へ向かった。
夕闇の中、電車は懐かしい駅に滑り込んだ。コリンは真っ直ぐアンナの家へ向かった。いるかどうかわからなかったが、家にいなければ恐らくホールの事務室にいるはずだった。コリンはアンナの家の呼び鈴を鳴らした。
「はい」
「…アンナ、僕だよ、コリンだけど」
「コリン?!」
暫く沈黙が続いた。アンナは何故コリンがここにいるのか不思議に思っているに違いなかった。しかしコリンは何を言ったらいいのか、全くわからなかった。
「待って、今開けるから」
ブザーが鳴った。コリンは扉を開けると、アンナの部屋へ階段を上って行った。アンナは玄関の扉を開けて待っていた。
「コリン、久しぶりだね。突然来てびっくりした」
少し以前より痩せたように見えたが、アンナは昔のままの笑顔をコリンに見せた。コリンは彼女を強く抱き締め、その髪に優しく口づけをした。
「ごめん、連絡もしないで…どうしても会いたくて」
背中に回されたアンナの小さい手の温かさが、コリンの心に染み渡っていった。長い間、こんなにも安らかな気持ちになったことがなかったような気がした。アンナはそっとコリンの体を離すと、にっこりと微笑んだ。
「私も会えて嬉しいよ。部屋に入って、お茶を淹れるから」
温かい紅茶を飲みながらソファーに座っても、コリンは何も話し出せなかった。どうやって、何を言ったらいいのだろう…コリンの頭の中は混乱していた。2人は暫く黙っていたが、アンナが話を切り出した。
「私が離婚したことを聞いたんだね。それで来たんでしょう?」
コリンは軽く頷いた。
「クリスティンに会って聞いた。彼女は今、ロンドンで弾いているんだ」
アンナは少し寂しそうな笑顔を見せた。
「心配してくれたんだね。ありがとう…少し辛かったけど、今は大丈夫。最初から上手くいくはずなかったんだよね…」
紅茶を飲むアンナの横顔をコリンは見つめていた。どうすればいいのだろうか、何を言えばいいのだろうか…アンナを少しでも救おうと思って来たのに、何にも出来ない自分にコリンは苛立たしさを感じていた。ふと視線の先に懐かしいものをコリンは見つけた。彼はソファーから立ち上がると、それが置いてある所へ歩いていった。黒いヴァイオリンケース。コリンはそれを開けた。その中に入っているヴァイオリンは、アンナの兄とその婚約者が使っていたものだった。コリンの最愛の、いや、最愛だった女性が毎日弾いていたヴァイオリン。コリンは愛しそうにそれに触れた。その時、彼はあることに気がついた。
「…アンナ、ヴァイオリンをまた弾いているんだね」
アンナはコリンの言葉に驚いた。そして少し恥ずかしそうに笑った。
「やっぱりコリンにはわかっちゃったね…うん、ちょっとね。ヴィオレッタが亡くなって暫くは、とても辛くてそのヴァイオリンを目の届くところに置いておくことも出来なかったんだけど…でもなんとなく、そのヴァイオリンが兄貴と彼女みたいな気がして…弾いていると、彼らと一緒にいられるような気がして。でも一度止めると駄目だね。昔弾けた曲が全然弾けなくってさ、悔しいんだ」
アンナはコリンの横に来て、ヴァイオリンを取り出した。
「コリンは私が、兄貴が亡くなるまでヴァイオリンを弾いていたことを知っていたよね。本当はね、兄貴やヴィオレッタと同じ道を進もうと思っていたんだ…音大に行こうと思っていた。だから昔はかなり弾いたんだよ。彼らと一緒に弾きたくて、同じように素晴らしい音楽家になりたくってさ。ヴァイオリンが大好きだったんだ」
アンナはコリンに視線を向けた。
「その気持ちを忘れていたんだけど…でもコリンを見ていたら思い出して。コリンの演奏を聴いていると、ヴァイオリンを想う気持ちが伝わってくるんだ。それでまた弾き出したんだよ」
コリンはアンナの瞳を見つめ、頬に優しく触れた。暫く2人は見つめ合っていたが、アンナはふと視線を逸らすと、壁に掛けてある時計を見た。
「もうすぐロンドン行きの終電だね。それで帰る?」
「明日は夕方にレッスンがあるだけなんだ…よかったらここにいてもいい?」
アンナはにっこりと笑った。
「いいよ。じゃあ、ぜひ見本演奏を聴かせてもらおうかな」
軽く苦笑すると、コリンはアンナの差し出したヴァイオリンを受け取り、それを構えた。
夜まで2人は一緒にヴァイオリンを弾いたり、思い出話に花を咲かせたりして過ごした。2人が出会ってから既に10年以上の月日が経っていた。お互いに色々な経験をしてきたが、こうしていると何も変わっていないかのような気がしていた。コリンはまだ新人のコンサートマスターで、事務のアンナに励ましてもらいながら本番に挑んでいる…その頃に戻ったような気がした。
「もう遅いね。そろそろ休まなくっちゃ」
アンナはコリンの額に軽く口づけをし、コリンの上に毛布を掛けた。
「ソファーでごめんね。おやすみ、また明日」
「アンナ」
コリンはアンナの手を強く握って引き止めた。
「アンナ…僕と一緒にロンドンに行こう。僕の所へ来て欲しい」
アンナは一瞬驚いた顔をしたが、何も言わずにコリンを真っ直ぐに見つめた。コリンは何か、長年心に鬱屈していたものが解放されたような感じを覚えた。
「オーケストラの仕事があるのもわかっている。でも一緒に来て欲しいんだ。レッスンも子供たちが多くて大変だし、今はチャリティーコンサートの企画もしていて、それも手伝って欲しいし…」
コリンは話しながら、自分がどうしようもない程情けない人間だという気がしてきた。違う、僕が言いたいのはこういうことじゃない…そう思いながらも何ひとつ上手く言うことは出来なかった。
「僕は昔と同じで、1人じゃ何も出来ないんだ…舞台で弾くことも出来ない。いつも誰かの支えを必要としているんだ。僕がここで弾いていた時みたいに、アンナには側にいて欲しい」
アンナを支えようとここへ来たのに、逆に彼女に支えを頼んでいるなんて、僕は何を言っているんだろう…コリンはそう思っていたが、口から出る言葉は彼の意思とは違ったものだった。
「…ごめん、上手く言えなくて。でも、ロンドンに一緒に来て欲しい」
コリンの深い色の瞳を、アンナはじっと見つめていた。彼女はコリンが話し終わると、コリンの髪を優しく撫でた。
「ありがとう、そう言ってくれて…でも突然で、今は何も言えない。今日はもう休もう、ね」
そう言うと、アンナは部屋を出て行った。
コリンは眠ることが出来なかった。アンナに言ったことを色々と考え、どうしてもっと上手く言えなかったのかと後悔した。彼女を助けたかったのに、助けを求めただけなんて。彼は何度も溜息をつき、寝返りをうった。ロンドンに来て欲しい…コリンは最初、こう言うつもりはなかった。しかしアンナを見ているうちに、自然にその言葉が口をついた。そしてその言葉を言った時、その気持ちが本心であるとコリンは気がついた。僕はアンナにロンドンに来て欲しいんだ…いや、場所はどうでもいい、僕の所へ来て欲しいんだ。僕の側にずっといて欲しい…コリンはもうずっと長い間、アンナにそう言いたかったのかもしれないと思った。いつからかはわからない、でも恐らくずっと昔から。コリンはソファーから起き上がると、アンナのヴァイオリンケースの所へ行った。かつてはコリンが誰よりも愛した女性のものだったヴァイオリンを取り出すと、コリンはそっと話しかけた。
「ヴィオレッタ、僕はどうすればいいんでしょう」
コリンの心の中の彼女は、優しくそして威厳ある瞳でコリンを見つめていた。コリンはヴァイオリンを戻すと、ソファーに横になった。明け方になって、ようやくコリンは少し眠ることが出来た。目を覚ますと、アンナがコリンの顔を覗き込んでいた。
「あ、起こしちゃった?ごめんね。朝食できたんだけど、食べてく?」
「うん、ありがとう」
コリンは慌てて起き上がった。朝食の間、2人は夜話したことについて何も触れなかった。ロンドン行きの電車の時間が近づき、コリンはアンナの家を辞することにした。
「アンナ、昨日言った事だけど…」
玄関でコリンは話を切り出した。アンナは軽く下を向いた。
「今すぐには無理だよ…仕事もあるし、他にも色々と…だから、そのうち連絡する」
「今は駄目…ヴィオレッタもそう言ったんだ。そして永遠に手の届かない人になってしまった。僕はもうあんなに後悔したくない…もう大事な人を失いたくないんだ」
コリンの声は珍しく感情的になっていた。アンナはコリンの頬を両手で包むと、コリンをしっかりと見つめた。
「コリン、私を信じて。そして暫く待っていて欲しいんだ…ほんの少しの間だけ」
アンナの生き生きと輝く瞳を見つめていたコリンは、軽く頷いた。
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