第九章 Finale −フィナーレ−

第四節

それからのコリンは、ペンバリー管弦楽団の演奏会をこなし、その合間にレッスンを行った。自分の練習もあるため、完全にオフの日は全くなかったが、それでもコリンはヴァイオリニストとしての活動を精力的に行っていた。再び多忙になったコリンを支えるために、アンナは仕事を辞め、彼のプライベートなマネージャーのような存在になっていた。家を管理し、外部との連絡を引き受け、コリンの分刻みのスケジュールも見事に把握していた。放っておくとヴァイオリンを弾くことを止めようとしないコリンに、休憩するように諌めることも多くあった。以前、ホールやオーケストラの事務として働き、多くの音楽家を知り、彼らの活動をよく理解していた彼女は、演奏家として活動を再開したコリンにとって欠かすことのできない存在であった。ある日、練習から帰ってきたコリンにアンナが少し興奮気味に言った。
「さっき、ケイトから電話があったんだけど、ソリストとしてのコンサートのことで話があるって。彼女は夜まで事務所にいるそうだから、電話でもいいけどよかったら来てくれるようにって言ってたよ」
コリンの体に緊張が走った。コンサートの予定は、どのオーケストラやソリストも普通数年先まで決まっており、突然活動を再開したコリンにソリストとしての仕事は今シーズンまだなかった。事務所やケイトが総力をあげてコリンに相応しい仕事を探していたが、彼らの実力をもってしてもそれを見つけることはなかなか難しいことであった。しかし今、彼女がソリストとしての演奏会について話があるということは、何か進展があったに違いなかった。コリンはヴァイオリンをソファーに置くと、少し緊張した声で言った。
「じゃあこれから行って来るよ。たぶん、直接話したほうがいいと思うから」
彼は逸る気持ちを抑えながら、駅へ向かった。

音楽事務所のケイトの部屋の前で、コリンは軽く深呼吸し、それからドアをノックした。中からケイトの声がし、コリンは扉を開け、部屋に入った。ケイトはコリンを見ると嬉しそうに微笑んだ。
「ごめんなさい、今日はオーケストラの練習だったのね。疲れているでしょうに、わざわざ来てもらって」
「いや、大丈夫。話があるっていうから…」
「お茶でも淹れたいけど、それより話を始めたほうがよさそうね。待っていられないっていう顔をしているわ」
ケイトは少し声をたてて笑うと、眼鏡を直し、真剣な目でコリンを見つめた。
「もう察しがついていると思うけど、ソリストとしてのコンサートの仕事が入ったの。予定のソリストがキャンセルしたのだけど、とてもラッキーだったわ。共演の指揮者もオーケストラも、あなたに相応しいし、カムバックの演奏会としてこれ以上望めないものだと思うわ」
そう言うと、ケイトは詳細が書かれた書類をコリンに差し出した。ケイトの言う通り、信じられないほどの好条件だった。オーケストラは世界でも恐らく3本の指に入るもので、指揮者は現代最高の1人だった。そしてその曲目を見て、コリンの鼓動は速まった。
「もちろん簡単な仕事じゃないわ。キャンセルしたソリストは、今活動中のヴァイオリニストの中で最高クラスだし、あなたは彼と比べられることになる。それにオーケストラも指揮者も文句なしに世界でも最高レベル。この街の聴衆は耳が肥えているし、ただいい演奏をしただけじゃ満足はしないでしょうね。成功した時に得るものも大きいけど、でもリスクもあるわ。事務所としても、あなたのカムバックに本当にいいのかどうか迷って、まだ返事を保留しているのよ。それで、あなた自身に決めてもらおうと思って」
コリンはケイトの話を聞きながら、書類を見続けていた。確かにリスクの大きい仕事だった。失敗した時には、もしかしたらソリストとしての活動に支障が出るかもしれない。それどころか、ソリストとして活動出来なくなることも考えられた。しかしそれ以上に、共演のオーケストラも指揮者も魅力的なものであった。そしてその曲目。コリンは書類に書かれた曲名を何度も何度も読み返した。コリンは書類から目を離し、ケイトを見つめた。
「やるよ。僕はこの仕事を引き受けたい。そう返事してくれるかな」

ソリストとしてのカムバックの演奏会が決まった。それはクリスマス前のもので、まだ日があった。コリンは時間を見つけると、その演奏会の為に練習をするようになった。彼はこのコンサートを、どうしても成功させなければならなかった。自分のソリストとしての活動の為でもあったが、それ以上にその曲を今の自分が出来る最高の形で弾きたかった。もう何十年も練習し続けている曲。しかしそれを演奏会で弾いたことは今までなかった。ヴァイオリニストにとって至宝と言える曲。そしてそれは、コリンが恩師から最後にレッスンを受けた曲であった。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲…いつかはそれを弾く時が来るはずだった。そしてその時は、今これ以上ない最高の条件でやって来たのだ。コリンはオーケストラやレッスンの仕事以外の時間を、全てこの協奏曲の為に費やした。体力的にも精神的にもぎりぎりの生活を送り始めたコリンを、アンナはしっかりと支え続けた。コリンの為に何かをするのではなく、コリンが音楽以外のことを考えたりする必要がないように、彼の活動環境を整えることにアンナは心を砕いた。演奏会の近づいたある日、彼女はコリンにちょっと出かけると言い、1日外出した。夜帰ってきたアンナは、コリンにビデオテープを差し出した。
「ちょっと早いけど、クリスマスプレゼント」
コリンは居間でビデオを再生した。それは彼の恩師エーデルバッハの演奏している古い映像だった。そしてその曲目は、コリンが今練習しているベートーヴェンの協奏曲であった。
「アンナ…これは…」
「コリンは見ていないと思ったんだ。彼女が亡くなった時、いろいろとテレビで放送されたんだけど、これをホールの事務室で録画していたのを思い出したんだ。コリンにはコリンのベートーヴェンが既にあるだろうけど、でも彼女の演奏はきっとコリンの為になると思って」
音も映像も古く、悪いものだったが、コリンは食い入るように画面を見つめた。ヴァイオリニストとして益々成長したコリンは、もしかしたらこの頃のエーデルバッハより技術面も音楽面も上になったのかもしれなかった。しかし、彼女の演奏はやはりコリンにとって特別なものだった。フィンガリング、ボウイング、そしてアーティキュレーション。どんなに些細なことも逃さないように、コリンはじっと映像を見つめた。見終わってから暫くは、コリンは動くことが出来なかった。深く息を吐き出すと、コリンはゆっくりとアンナのほうを向いた。
「これを取りに、あの街まで行ってくれたんだね。ありがとう…最高のプレゼントだよ」
コリンはアンナの頬に口づけした。

ソリストとして再び舞台に立つコンサートへ旅立つ日がやって来た。身支度を整えたコリンは、深呼吸をした。恐らく今までの音楽家人生で最も重要なコンサートになることだろう。ヴァイオリニストとしての活動はこれから何十年も続くであろうが、その長い道のりの中の1つの岐路となるはずだった。コリンは荷物とヴァイオリンケースを持ち、一度そのまま家を出ようとしたが、玄関に荷物を置くとアンナの部屋へ向かった。昨日は遅くまで仕事をしていたみたいだし、まだ朝早く寝ているかもしれない…コリンは少し躊躇したが、軽くドアをノックした。
「アンナ、そろそろ行って来るよ」
コリンはドアを開けた。アンナはもう起きていたが、まだくしゃくしゃの髪をしていた。
「そうか、もうそんな時間だね。ごめんね、間に合わなくって」
「いや、いいんだよ。起こしたくなかったんだ」
コリンは微笑むと、アンナの髪を手で優しく梳いた。
「気をつけて行ってきてね。あまり頑張り過ぎちゃ駄目だよ。それから、楽しんで弾いてきて」
「うん」
コリンの頭の中でいろいろな人の声がした気がした。皆、コリンに弾くことを楽しむように言っていた。亜麻色の髪をした美しい人、蒼い目の年老いた同僚、赤い髪のヴァイオリニスト、そして自分を誰よりも慈しんでくれた恩師。もちろん辛いことも多くあり、自分の時間を持てないほど忙しい職業ではあった。それでもコリンと彼の音楽は、たくさんの人たちに支えられ、愛されていた。そしてこれ程までにヴァイオリンを弾くことが出来る才能というものは、誰もが持てるものではなかった。ヴァイオリンを弾く喜び、そして音楽の楽しさ。コリンはヴァイオリニストであるということに幸福を感じていた。
「出来るだけのことはしてくるよ。今の僕が出来る最高のベートーヴェンを弾いてくる」
「実際に聴くことは出来ないけど、でもコリンのヴァイオリンを思っているから」
アンナは笑った。この笑顔に僕は何度救われたことだろう。そう思うと、コリンの心は熱くなった。
「アンナ、この演奏会が終わったら…」
「え?」
彼女の輝く瞳を見ていたコリンは、軽く目を閉じた。それから再び目を開けると、アンナに向かって微笑んだ。
「何でもない。それじゃあ、行って来るよ。5日後には帰ってくるから」
コリンはアンナの頬に口づけをすると、玄関へ向かった。

楽屋のドアがノックされた。コリンは返事をすると、燕尾服の襟元と袖口を整え、学生時代に日本人の友人から教わった「緊張を解くおまじない」をした。そして深く息を吸い、ヴァイオリンを手にした。ヴァイオリンケースについた2つの天使の人形を見ると、コリンはそっと呟いた。
「楽しんで弾いてきます。聴いていてください」
コリンが舞台に姿を現すと、会場は拍手に包まれた。満場の聴衆の中には、キャンセルしたヴァイオリニストを聴きたかった人もいるであろう。そしてもちろん、コリン自身のファンもいるはずだった。いずれにせよ、コリンがどういう音楽を紡ぎ出すのか、皆がそれを楽しみにしていることに間違いはなかった。コリンは指揮者とコンサートマスターと握手をし、軽く瞳を閉じた。最高のホール、最高のオーケストラと最高の指揮者。この環境でヴァイオリン協奏曲の最高傑作であるベートーヴェンを弾く。体に心地よい緊張が走り、コリンの集中力は高まった。彼は再び目を開けると、指揮者に微笑んだ。その合図を受け、指揮者は棒を構えた。ティンパニの4つの音から静かに曲は始まった。オーケストラによる提示部を受け、コリンのソロが入った。彼の愛器ストラディヴァリウスから奏でられる流麗な音がホールに響き渡る。コリンもオーケストラも、リハーサルで弾いた通りではなく、音楽の流れを感じ取り、お互いに相手の出方を楽しむように演奏し、それでいて完璧なアンサンブルだった。今音楽が生み出されているという、まさに生演奏でしか体験出来ないものを、聴衆のみならず弾いている側も楽しんでいた。最後の音がホールの余韻となって消えると、会場は熱狂的な拍手に満たされた。コリンは暫く何も出来なかった。ヴァイオリンを弾き始めてから40年近くが経っていた。その間ずっと目標にしていた曲を、夢中になって、しかし同時に楽しみながら、自分が満足出来るように弾ききることが出来た。言葉では表すことの出来ない気持ちだった。指揮者に軽く肩を叩かれ、コリンはようやく我に返り、指揮者、続いてコンサートマスターと固く握手をした。オーケストラの団員たちからも、温かい拍手でコリンは称えられた。一度舞台袖に退いても拍手は止むことがなく、再びコリンが舞台に歩み出ると、聴衆たちは1人、2人と立ち上がり、いつしか満場のスタンディング・オヴェイションとなった。コリンは心を込めてゆっくりと礼をした。この会場にいる人たち、天国にいる人たち、そして家で自分を待っていてくれる人。皆に感謝の気持ちで一杯だった。

3晩のコンサートは大成功のうちに終わった。新聞の文芸欄にはコリンの演奏について好意的な記事が載り、ソリストとしてのカムバックを祝っていた。ソリスト、コリン・ファースは見事に復帰を遂げたのだった。ロンドンに戻ると、演奏会の評判を聞いた何人かの記者たちが空港でコリンを待っていた。コリンは軽く答えると、後をケイトに任せ、急いで家へ戻った。彼はどうしてもすぐに家へ戻りたかった。オーケストラ・ソロ・教師と、ヴァイオリニストとしての仕事が方向付けられた今、何よりもやりたいことがあった。玄関の扉を開け、荷物をそこへ置くと、コリンは真っ直ぐにアンナの所へ向かった。彼女は台所でコリンの歓迎の準備をしていた。
「コリン、お帰り。早かったね」
予想外に早く帰ってきたコリンにアンナは驚いていたが、用意していた花束を差し出して言った。
「コンサートの評判は聞いたよ。おめでとう」
「ありがとう…」
コリンはその花束を受け取ったが、すぐに食卓の上へ置いた。そして訝しげな顔をしたアンナの両手を取り、片膝をついた。
「アンナ、結婚しよう」
アンナは何も答えなかったが、大きな瞳でコリンを真っ直ぐに見つめた。
「僕はこういうどうしようもないやつだし、ヴァイオリンを弾くことしか出来ない。いつも誰かに支えられていて、大事な人たちを支えることは出来ない。だからアンナを幸せにするって約束は出来ないんだけど…」
コリンは深呼吸した。
「でも一緒に幸せになろう」
暫く無言の時が流れた。アンナはコリンの髪にそっと触れると、微笑んだ。
「コリンは多くの人を幸せにすることが出来るよ。コリンのヴァイオリンはたくさんの人を支えたり救ったりしているはずだよ。それに…私もコリンと一緒にいられるんだったら、とても幸せになれると思う」
コリンはそのアンナの返事を聞くと立ち上がった。
「アンナ、それじゃあ…」
アンナは静かに頷いた。コリンは彼女の頬に優しく触れ、髪を撫でると、アンナをそっと引き寄せた。2人が出会ってから10年以上、初めて2人の唇は重ねられた。

コリンはヴァイオリンケースと肩に担ぐと、アンナへ声をかけた。
「行って来るよ。2週間留守にするけど、何かあったら事務所に連絡くれればいいから」
「うん、気をつけてね」
アンナに軽く口づけすると、コリンは玄関へ向かった。その時、何かが落ちる音がした。亜麻色の髪をした天使の人形が、ヴァイオリンケースの取っ手から外れていた。
「金具が壊れちゃってる。大事なお守りなのに」
アンナは人形を拾うと、なんとかして元へ戻そうとした。コリンはそれを遮ると、もう1つのヴァイオリンを弾いている人形も外し、2つ並べて棚に飾った。
「だいぶ古いものだからしょうがないよ。それにもうお守りは必要ないんだ…アンナがいてくれるから」
コリンはアンナに微笑むと、空港へ向かった。

満員のホールからざわめきが聞こえる。オーケストラの他のメンバーがコリンより一足先に舞台へ行くと、拍手が鳴り響いた。コリンはストラディヴァリウスに軽く口づけした。
「今日もいい演奏をしよう」
そう呟くと、彼は扉の側へ進み、ステージマネージャーがドアを開けるのを待った。弓を持つ右手の薬指には指輪が光っていた。扉が開けられると、コリンは燕尾服に包んだ端正な姿で舞台へ歩んだ。彼を待つ仲間たちと聴衆のもとへ。ホールは温かい拍手に包まれた。

 

Fine


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