国王とマハティール首相
 

マレーシアは元来ケダ王国、ジョホール王国、マラッカ王国、等の小さな王国の集合体であった。その中継貿易上の戦略的立地条件から、古くはマジャパヒト(ジャワ島)、ブギ(スラウェジ島)、シャム(タイ)からの侵略の脅威にさらされていた。やがてポルトガル、オランダ、英国、等の列強の植民地支配を受け続け、主要都市は租界の様相を呈していた。

1963年独立を達成した現在でも、マレーシアは英国同様立憲君主制として国王が元首を勤める。ただしエリザベス女王や平成天皇の様な国全体を統治するのではなく、ペナンとマラッカを除く9州小国の国王が持ちまわりで勤める訳である。内閣総理大臣の指名、国会通過法案の承認、国軍の統率、等三権分立の頂点に君臨する。しかし実態は英国、日本と同様に国会がすべてを掌握し、国王は象徴としての存在であり、国会通過法案を否認する事など無かった。1992年までは・・・・。

国王は国民の模範となり尊敬を集めるものだが、中には免責特権を良い事にやりたい放題で、皆に嫌われている方もいるようである。199211月の事である、一台の車がジョホール国王の特別車を追越した。通常王族の車両はポリスに先導され、猛スピードで一般車両を蹴散らして行くものである。その特別車を追い越したのだからかなり無茶な奴である。怒った国王は100名を超える私設軍隊に命じ、その「無礼者」をイスタナに呼び、殴る蹴るの暴行を働いた。後にホッケーコーチ殴打事件と呼ばれるる事になる。(右の車両はVIP車両だが本編とは関係ない。)

それを聞いたマハティール首相は激怒した。彼は直ちに国会で国王の免責特権剥奪法案を通過させた。驚いた各国王は猛反発し当然法案を否認した。マハティール首相は引き続き国王の国会法案承認に関する憲法改正法案を1993年に国会で通過させた。すなわち国王がサインしなかった法案は30日後には自動的に承認となる。これにより立法の実質的権限は完全に国会に移された。UMNOを母体とした幅広い支持を元にしたマハティール首相の戦術は実にクレバーであった。この裁定はほとんどのマレーシア国民に支持された。

しかるに王族はマハティール首相が嫌いである。ましてや歴代のマレーシア首相はラーマン、ラザク、フセインオン、いずれも王族出身であったが、マハティール首相は初めての平民出身である。マレーシアでは英国のSir同様に、王族が授与する独特の称号がある。ダイム蔵相は最高位の「Tun」、外国人の松下幸之助でさえここ2番目の「Tan Sri」を授与しているのにマハティール首相はそこ功績にもかかわらず三番目の「Datuk Seri」である。まあ亡くなったら「Tun」を授与しないと国民は納得しないでしょうね。

ホームコラム>国王とマハティール首相



次のページへ

Hosted by www.Geocities.ws

1