ガーニ−ドライブ物語
 

マレーシアの通り名は正式には Jalan Lebuh などが付く。一方でその昔に英国が名づけた旧名称が存在し時々混乱する。たとえばBeach Street(Lebuh Pantai)Green Lane(Jalan Sultan Azlan Shah)Northam Road(Jalan Sulta Amad Shah)等である。市民の多くは昔から慣れ親しんだ旧名称で呼ぶ。そりゃ舌を噛みそうな「じゃらんさるたんあましゃー」より「ノーザンロード」のほうがスマートで響きが良い。マレーシアに限ったことではないが、通りの名前には様々な由来がある。政府は改名する際には住民感情を配慮しないと、大きな反感を買うことになる。

ペナンで最も有名な通りのひとつにジョージタウン北岸の2Kmにわたる遊歩道 Gurney DrivePersiaran-Gurney)がある。高級コンドミニアムが立ち並ぶ、現代のMillionaire's Rowであり、週末ともなると若いカップルが人気のレストランやワインバーに集う。時には暴走族さえも出没する。また早朝にはジョギングや太極拳を楽しむ市民の憩いの場でもある。しかし何気に口にする「がーにー」とは人名である事をご存知ない方が多い。実はこの通りには今では多くの市民から忘れ去られた悲しい由来がある。20011224日のThe Starに掲載された記事を紹介しよう。

終戦後のマレーシアには戦時中に抗日運動を展開していたコミュニストがいた。彼らは復帰した英国植民地政府からの冷遇、そして日本軍に協力した非国民への復讐のため、山岳部を拠点としゲリラ活動を展開していた。特に山間部でプランテーションを経営する無防備な英国人はテロの恰好の標的となった。その山賊行為はマレーシア独立以降国家最大の危機と言われていた。

当時の英国植民地政府は高等弁務官として Sir Henry Gurney を送り込んだ。荒廃したプランテーションや錫鉱山を建て直し、歳入不足に悩む植民地政府再建が彼の任務であった。コミュニストのゲリラ行為は復興活動の阻害要因であった事から、彼は反ゲリラ活動の急先鋒であった。その存在はコミュニストの神経を逆撫でし、ゲリラ行為をエスカレートさせる結果となった。

そして1951105日に事件は起こった。当時この海岸沿いの通りはThe North Coastal Road と呼ばれ、密林に覆われた未舗装路であった。フレーザーヒルに向かう途中のSir Henry Gurneyは、ここで武装したゲリラの待ち伏せを受けた。彼は降り注ぐ銃弾の中で車から飛び出し、通りを横切り同乗の妻を避難させた。婦人は一命を取り留めたものの、自らはゲリラの凶弾に倒れた。彼の乗っていたロールスロイスには35発の銃弾が打ち込まれていた。ボニーとクライドのような話だが実話である。この事件の後に彼の紳士的行為を称え、通りはGurney Driveと改名された。

この悲しい事件の証人である1950年型 Rolls Royce Silver Wraithは、後に公用車としてペナンの初代州知事に受け継がれ、今でもペナン博物館に残っている。(Photo. Copy right. "The Star" 24 Dec. 2001

20011224日)

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