再び挫折した華人
 

「ブミプトラ政策とその成果」

1957年に独立を果たしたマレーシアだが、ゴム、錫などの第1次産品生産に重点が置かれていた。マレー人は農村部でその生産に従事し、華人は都市部において製造業及び商業に従事した。両者はその生産性の違いから一人あたりで2倍〜3倍の所得格差があった。

このような経済構造から生じる貧富の差は拡大を続け華人はおごり、マレー人のジェラシーの炎は燃え上がった。やがて政策的対立から1965年にはシンガポールは切り離された。1969年総選挙ではサルタンの特権や国語問題が公然と議論され、人種的緊張が高まりクアラルンプルでの人種暴動へと発展した。

1971年には第二代マレーシア首相ラザクは憲法を改正した。国語、サルタンの地位、イスラム教、等は人種感情をあおるセンシティブイシュー(過敏事項)として、言論の自由が大幅に規制された。そして経済格差を縮める事が人種的緊張を回避する手っ取り早い方法として、マレー人にハンディキャップを与えた。これが「ブミプトラ政策」の骨子である。

教育機会、経済界への進出支援策、優遇税制で保護されたブミプトラが期待された成果をあげていないのは周知の事実である。

優先的にライセンスを与えられたビジネスマンは、華人に名義を貸し与え遊んで暮らしている。マハティール首相はこれを「アリババ商法」として激しく非難している。急速な経済発展は労働力不足を招いたが、マレー人は失業してもなお肉体労働を嫌う。そして重労働はインドネシア等の海外出稼ぎ労働者に依存している。更に産業構造をITを中心とした知識集約型に転換すべく人材開発を試みるも、外資とそこで勤めるエキスパトリエイトに無しでは何も出来ない。そして技術移転されたとしても、それは華人である。

「SUQIUの挑戦と挫折」

SUQIU(マレーシア華人組織選挙陳情委員会)は、1999年総選挙前に「ブミプトラ政策」見なおしに関する陳情書を提出した。骨子は既にASEAN諸国内でトップクラスの経済成長を遂げたマレーシアにおいて「民族、宗教に基づく優遇措置を廃止し、弱者保護という経済観点に改める。」というものである。

議論が表面化した発端は「ビジョンスクール構想」に対する華人団体の反対だったと思う。同一カリキュラムで主要3民族をまとめるマレー主体の教育改革は、独自の教育コミュニティーを持つ華人団体にはメリットが無かった。教育機会も公平ではない。同じ教室で机を並べるモハマド君とタン君は、同じ成績であればモハマド君だけが大学進学するのである。民族融和というが、これじゃ友達になれと言う方が無理である。

マハティール首相はSUQIUに対し「国家を危機に陥れる行為」と激しく非難した。MCA総裁であるリン運輸相はこれが原因なのかマハティール首相に進退伺いを出した。そしてマレー人の民族感情は高まりUMNOはPASと接近した。かつて「最もだるい民族」と称されたマレー人も、特権剥奪の危機に一丸となって立ち上がった訳である。

SQUIUUMNO青年部と水面下で議論を重ね、2001年18日に陳情書から、「ブミプトラ政策」に関する項目を取り下げた。この決定に対しMCA総裁、UMNO副総裁は歓迎の意向を表明し、最悪のシナリオへの発展は回避された。ブミプトラ政策に対する議論表面化が、あらためて民族感情をあおるタブーである事を認識させられた。

2001110日)

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