夢をめざして (その2)

2002年10月25日 茂森 政


 成田空港はワールドカップが終った直後のため人でごった返していた。私は、自分で決めた夢に向かっての第一歩だけに六十五歳にして胸がときめくのを感じた。

 サンフランシスコ空港からは一週間だけ借りたレンタカーで、先ずは息子の勇のアパートに行きそこに四泊した。その間、バークリー市内に予め内諾を得ていたアパートの契約と英語学校の入学手続きのため二回勇に付き添って貰って行った。勇が住んでいるのはパルアルト市、私が行くのはバークリー市で、ちょうどサンフランシスコ湾をはさんではす向かいで、車だと一時間離れたところだが、レンタカーを返した後のことを考えバスと電車を乗り継いで行った。

バスの切符の買い方乗り方など勇に教わりながらの行程だったが、片道三時間かかった。往復を違うコースにして、電車、バスとも三回づつ乗ったが、勇の車椅子で問題なく行けた。その中でも一つはキャルトレインと言う列車だったが、車椅子用の昇降用リフトがついていた。しかもどの乗り物も障害者は安い料金になっていた。アメリカに着いて二日目から障害者に対する手厚い対応に感心させられたし、何十回も来ているのに、そこに住んでみないと判らないことがあると思った。

アパートは当初七月から三ヶ月の契約予定だったが、九月は新入生の長期契約があるとの事で二ヶ月だけにした。部屋は十二年前勇が初めてアメリカでの生活をスタートした部屋だった。同じ部屋でスタート出来るのは、オーナーの息子さんエンディーの配慮があったためで、部屋代も一DKで勇のときより約二倍の千二百ドルだが相場より安いとの事だった。部屋はキッチンがリフォームされている以外は前と同じだった。勇が初めて来た頃のことが思い出された。

勇の留学については前回の記事にも書いたが、当初は東海岸のMITが良いのではないかと考えていたが、アメリカの二人の友人から障害者が暮らすにはバークリーが気候も、障害者の受け入れも、そしてコンピューターを学ぶのならカリフォルニア大学バークリー校(UCB)が良いと言われた。そこで勇が来る二年前、出張ついでに事前調査に来た。その次の年には勇も含め家族全員で夏休みに観光をかねて調査に来た。そのときはこの大学を卒業された盲目の女性を訪ねてサンディエゴにも行った。このような経過で1990年、拓殖大を卒業すると同時にUCB付属の英語学校の入学許可をもらい訪米した。この時は私たち夫婦も同行し、家内は勇と四ヶ月だけ生活を共にし、私は5月の連休四日間だけの滞在だった。この間に英語学校の手続き、CBUの中の障害者受け入れ事務局訪問(ここでアテンダントの紹介、住まい,車椅子の貸し出し修理などの面倒を見る)銀行口座の開設、アパート探しをやった。結局のところ、私が帰る前の日に先述のアパートの契約が出来た。翌朝サンフランシスコ空港に行く道すがら、急遽借りたレンタカーで、ホテルを引き払い、これから生活に必要な荷物をアパートに置いて、家内と勇を乗せたまま空港に駆けつけた。レンタカーはこの後も家内が使うことにしていたので、道すがら帰り道やフリーウエイの走り方等を教えた。このことが後々、事あるたびに言われることになる。即ち「言語障害のある勇と英語言語障害の私を、しかもアメリカでは運転したこともないのに、空港におっぽり出して帰った」と言うのである。家内はこの四ヶ月間で急速に成長し?、英語もアダルトスクールで勉強した。八月に私が行ったときは、空港で会うなりあちら式の熱いキッスで出迎えられとまどった。

四ヵ月後、勇を一人アパートに残して帰国するとき、勇はアパートの入り口まで出てきて「大丈夫、大丈夫」と言う中、家内は神に全てをお任せしますと祈りながら、空港までとめどもなく流れる涙の中、レンタカーを運転してきたそうです。その後勇は色々な事に遭遇しながらもそれらを克服して、現在はサンマイクロ社のエンジニアとして勤務している。

  次回は、私がアメリカで体験したことやたくさんの方々との出会いと、私達夫婦の夢達成への具体的なプランを報告したいと思います。


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