夢をめざして (その1)

2002年6月25日 茂森 政


 昨年六月に役員を退任以来、アメリカで障害者へのボランテアを家内と二人でやるという第二の人生の夢に向けて準備を始めたが、会社という路線を離れて見るとのんびりムードが出てしまいなかなかはかどっていない。やったことは、

 こんなことをやっている内に一年経ってしまった。この間アメリカには現地調査というほど大げさではないが、そのつもりで家内と二回行って来た。バークリーの街を歩いたり、留学したい英語学校を見学したり、大学の横のカフェでラテを味わいながら、いずれこの街の一員となれると思うと胸がときめいてくるのを感じた。

 そんなことで未だ準備することは沢山あるけど、先ずは一歩踏み出してしまおうという気になり、この七月一日発の航空券と現地アパートの手配を始めた。今回は観光ビザで九十日以内の滞在となるが、残念ながら家内は老犬チビクロの面倒を見るため日本に残ることとした。アパートは幸い十三年前に渡米した長男の勇が初めて入ったアパートで、しかも同じ部屋がとれた。こうやってより具体的にやることをとにかく決めてしまうと、それをターゲットにやるべきことがどんどん進むものだと、大きな夢に向けても先ずは具体的に一歩一歩を決めて進めることが今更ながら大事だと感じている。

 今回この記事を書くに当たって三回に分けて書かせてもらうこととした。その一回目として現況を述べてきたが、ここで私たち夫婦がどうしてアメリカでの夢を持ったかを少し述べておきたい。第二回目以降ではアメリカでのことを述べたい。

妻の和子とは同じ職場で知り合い結婚した。会社では残業・徹夜の連続だったが家ではほっとする幸せな生活だった。昭和四十三年に長男の勇が生まれた。難産が原因で重度の脳性小児麻痺だった。一歳になっても寝返りもハイハイも出来なかった。医者には十年、二十年かけて育てるお子さんですよと言われた。家内の落ち込みはひどいものがあり、会社で仕事中の私に自殺をほのめかす電話があったりした。私はすっ飛んで帰り屋外のガスボンベの栓を閉めてから家に入ったこともあった。

「死ぬに死ねないのなら、しっかり生きよう。この子を絶対歩かせて見せる」と考えを変えてからの彼女の行動はすごいものだった。私も彼女にだけに任せておくにはいかないと、忙しいエンジン開発部門から忙しくない部署に変えてもらおうと事前に家内に相談したら「仕事に没頭する後ろ姿を子供に見せてやってほしい」という一言で思いとどまった。勇も体は不自由でもやる気は旺盛な子だった。小学校は本人の強い希望で普通学級に何とか入れてもらった。当時は重度の障害児が普通学級に入るのはめずらしく、NHKのニュースに取り上げられた。学校へは家内がおぶって通い机を並べての勉強だった。初めての運動会では徒競走にも出た。皆んなの走る距離の四分の一のゴール手前からのスタートだった。転んでは起きあがってのヨチヨチ歩きではあったが、皆んなに追い越されながらも走りきった。感動だったし学校中に拍手がわき上がった。

中学・高校も家内が付き添い、何か構内で事故にあっても責任は当方にありという一札を入れての入学だった。やっと入れてもらった学校なのに、勇はワンゲル部に入りたいと手をあげた。山に登る雰囲気だけでも味わえれば良いという条件で入れてもらった。しかし、結局のところ家内や先生達におぶわれ皆と一緒に登った。大学ではコンピューターを勉強したいとの本人の希望だったが、受け入れてくれる大学はなかった。やむを得ず商学部に入った。ここを卒業すると同時にカリフォルニア大学バークリー校コンピューター学部をめざして渡米した。最初はこの大学の附属の英語学校に入った。それから十三年今はシリコンバレーの会社でソフトエンジニアとして働いている。

手も足も不自由で言語障害もあるのに良く独りでやり抜いてきたと思う。アメリカ社会も見事に物心両面でチャンスを与えてくれた。この三月には米国のABC放送でアメリカンドリームの達成者として息子がTVに出演した。私たち夫婦は十年くらい前か、めぐまれない日本の障害者にこのアメリカを体験させたいとの思いで、バークリー市に寄宿舎を作りたいという夢を持つようになった。この記事が活字になる頃は、息子と同じ様なことをアメリカで体験し始めていると思う。次回はアメリカでの息子の体験と私の第一歩について述べてみたいと思っています。


夢に向かって(2)へ、ホームページにもどる。

Hosted by www.Geocities.ws

1