tedukurikotoba (2563)

手作り言葉辞典について

手作り言葉辞典では、ユーザーが疑問に思って検索してきそうな言葉の を載せています。 検索して調べてきそうな言葉とは、ここでは「ことわざ」「慣用句」「四字熟語」「故事成語」の4つになります。 それぞれの意味は下記の通りです。 古くから言い伝えられてきた、教訓または風刺の意味を含んだ短い言葉。生活体験から きた社会常識を示すものが多い。 二語以上の単語が結合して、それ全体である特定の意味を表すもの。 漢字4字で構成される熟語。 故事をもとにしてできた言葉。特に、中国の故事からできた語。 Powered by 手作り言葉辞典

Continue reading...

明日の百より今日の五十

【漢字】明日の百より今日の五十 【読み】あすのひゃくよりきょうのごじゅう 【意味】あとでたくさんもらうより、少なくてもいいから今確実にもらう方がいいという意味。 【例文】次いつ会えるかわからない。明日の百より今日の五十だ。貸した金返して。 「明日の百より今日の五十」という言葉をご存知でしょうか? この言葉は、未来のあてにならない大きな利益を期待するよりも、少しでも今確実に手に入るものを選択する方が賢明である、という意味です。 言葉通りにとるなら、明日100万円貰うという不確かな約束よりも、今確実に50万円貰っておいた方が賢い、となりますね。 もしもこうした状況に出くわしたとして、どちらを選ぶのかというのは人それぞれでしょう。 ギャンブルを嗜む人は大きな利益を得るために多少の投資は仕方ない、と考える傾向が多いように考えます。 しかし、個人的には「明日の百より今日の五十」という保守的な考えには、好感が持てます。 特に金銭面に関してはリスクを避けたいので、今確実に手に入る金額を貰いたいと感じるのです。 もし一日待ってプラス50万円貰えるのであればそれは嬉しいことですが、その約束が必ず守られるとは限りません。 「絶対」という言葉は、この場合存在しないと思っているのです。 損をするのは勿論嫌ですが、それ以上に約束を守ってもらえなかったということは、私にとってとても辛いものです。 自分を守るためにも、この「明日の百より今日の五十」という意識は大切であるように感じました。

Continue reading...

杖に縋るとも人に縋るな

【漢字】杖に縋るとも人に縋るな 【読み】つえにすがるともひとにすがるな 【意味】杖には縋っても人の助けに頼るなと言う戒め。 【例文】杖に縋るとも人に縋らないで先ず自分で考えよう。 「杖に縋るとも人に縋るな」という言葉の意味は、安易に人に頼ってはいけないという意味です。 「自己責任」「人に迷惑をかけてはいけない」というのは、現代の日本でもよく言われていることですね。 しかし、本当にそれが正しいのでしょうか? たしかに、杖があれば歩けるのなら、人に助けてもらう必要はないかもしれません。 頑張れば自分の力で歩けるのに、人に頼ったり車いすを使ったりしていては、足腰が弱ってますます歩けなくなってしまうかもしれませんよね。 でも、杖をなくしてしまったり、壊れてしまったら?足が痛くなったり、とても疲れてしまったら? そんなときも無理をして人に頼らず、自分一人で何とかしようとする必要はないのではないでしょうか。 人はみな、一人で完璧に生きていくことなどできません。食べ物ひとつとっても自分一人では作れないし、きれいな飲み水だって自分で作るのはとても大変です。 誰かのために働くから給料がもらえて、生活できるのです。 だから、自分にできないことは人に助けてもらって、そのぶんほかにできることがあれば誰かの役に立てばいいのではないでしょうか。 人にはそれぞれ苦手なことと得意なことがあるのだから、苦手なことは得意な人に頼んで、自分は得意なことを活かせばいいのです。 「杖に縋るとも人に縋るな」という言葉は、一部の人には耳が痛く感じることでしょう。 この言葉は、安易に他人を頼ったり、助力を求めてはいけない、といった意味で使われます。 私自身、社会人になったばかりの時は、この言葉がグサッと刺さるような出来事がありました。 私は美容の職に携わっていて、完全に技術が物を言う世界で働いています。 しかし、働いたばかりの時は技術も未熟であるため、なかなか一人の戦力として扱われることが無かったのです。 そこで奮起する性格なら良かったのですが、その環境に甘んじていて、先輩を常に頼るようになっていました。 そんなある日、私は急遽一人で現場を任されることになり、誰の力も借りられない状況に出くわすこととなりました。 今まで周囲に頼っていた私は、まさかの展開にとても慌てました。 そして、案の定お客様に満足してもらえるような結果を出すことができなかったのです。 その時初めて、自分で力をつけることの大切さを感じました。 周囲と協力することは仕事をする上で需要ですが、頼りきるということでは自分自身成長がありません。 思い返すと甘ったれの自分に腹が立ちますが、こうした経験があったからこそ、向上心が芽生えたのだと思います。 「杖に縋るとも人に縋るな」という言葉は、新入社員に覚えておいてもらいたいものですね。

Continue reading...

千里の馬も伯楽に逢わず

【漢字】千里の馬も伯楽に逢わず 【読み】せんりのうまもはくらくにあわず 【意味】 【例文】 「千里の馬も伯楽に逢わず」ということわざは、「せんりのうまもはくらくにあわず」と読みます。 意味は、一日に千里(一里は約3.9キロメートルなので、だいたい、3900キロメートルといういことになりますね。)を走ることができる素晴らしい馬は結構いるものだが、残念ながら、一日に千里を走る馬を見わけことができる人がいつもいるとは限らないということです。 つまり、才能ある人は世の中にはたくさんいるが、その才能を発掘できる能力がある人が少ないという意味で使われています。 これって、まさに芸能界のことですよね。 芸能界には、ものすごく容姿の整った人、演技の上手な人、声のきれいな人、司会をうまく進行することができる人、ニュースを伝えるのが上手なアナウンサーなどはいっぱいいますが、その人達のすべてが脚光をあびるわけではありません。 例え才能があったとしてもその才能をわかって、引き出してくれる人に会わないと芸能界で成功することはできないですよね。 芸能界で必要なのは自分を見出してくれる人に会うというラッキーさが必要ですよね。 そういった意味では、先日、キムタクと工藤静香の娘さんが親の名前を大々的に前面にだして、モデルデビューを飾りました。 やはり、そうやって、使えるものは使って自分を見出してもらわないといくら才能があったとしても、芸能界で生き残れないので、私は親の七光りと言われたとしても、いいデビューの仕方だと思いました。 千里の馬とは千里もの長い道のりでも駈け通せる程の名馬の意で、伯楽は数多くの馬の中からそんな名馬を見抜くことが出来る人物の事です。 千里の馬も伯楽に逢わずとは、名馬は必ずいる筈だけれど、名馬を名馬に為し得る伯楽に出会う事がなかなか無い、という意味の諺です。 つまり才能溢れる人材も、その才能を見つけて引き出してくれる人物との出会いが少ない事を言い表しています。 某大学のスポーツチームの監督・コーチが選手の一人に、ライバルチームの選手を、単なる言い回しや例えではなく「潰せ」と命令した事件で世情が騒然となりました。 若い選手たちには将来、その世界を担っていく人材となる可能性を秘めています。まさに「千里の馬」が彼らの中にはいる可能性があるのです。 監督・コーチという地位にある人達の本来の責務の一つは、「千里の馬」の発掘・育成の筈。即ち、彼らは伯楽にならなければならない人達なのです。 この諺の如く伯楽に逢う事が少ない中で、己が伯楽になるどころか、逆に、潰そうとしたライバルチームの選手のみならず、自軍の選手の将来を台無しにする様な指導を行うなどは言語道断と言わざるを得ません。 伯楽は、千里の馬を見出す名人ではありましたが、病気の馬の治療を施す名医でもありました。 百歩譲って、彼らは彼らなりの方法で千里の馬を見つけ出そうとしたのかもしれませんが、その方法は故障した馬は使い捨てるという非情なものでした。 病んだ馬を立ち直らせる名医では決してなかったという事です。 その意味でもこの監督・コーチ達は楽伯では絶対あり得ず、その責務を鑑みても指導者としては100%失格といって良いでしょう。

Continue reading...

仏も昔は凡夫なり

【漢字】仏も昔は凡夫なり 【読み】ほとけもむかしはぼんぷなり 【意味】仏も昔修行を積む前は凡人であったたとえから努力によって立派になれるという意味。 【例文】仏も昔は凡夫なりというから諦めるな。 「仏も昔は凡夫なり」 仏教の祖・ブッダもかつてはごく普通の人間だった、という意味です。 この言葉は平家物語の一節で、 「仏も昔は凡夫なり われらもつひには仏なり いづれも仏性具せる身を へだつるのみこそかなしけれ」 とつづきます。 平家物語の中では、二重の意味をもった歌として登場していますが、 シンプルに訳すのであれば、 「聖人ブッダもかつてはごく普通の人間だった。 私たちも死ねば仏になる。(※仏教では死ぬと仏になるとされています) ほんとうは誰もが仏となれる本性をもっているはずなのに、 大きな隔たりを感じるのが悲しい。」 となるでしょうか。 現代風に言い換えれば、 「どんな偉人も初めから立派だったわけではない。 さまざまな努力を重ねて秀でた人になったのだ。 私たちの中にも、同じように努力する力は備わっているはずなのに、 自分はそんな可能性から隔てられているように感じる。」 ということになるでしょう。 三行目までの「人間はだれでも同じようにうつくしい可能性をもっている」という思いと、 最後の「いま、自分だけはそこから隔てられているような気がする」という気持ちが、 悲しく響きあうような詩です。 「仏も昔は凡夫なり、われらもつひには仏なり」。 その言葉がどんなに真実でも、 わたしたちもこんなふうに「隔て」を感じることがあるかもしれません。 「隔たり」の正体とはいったい何なのでしょうか。 もしかしたら、それを問うてみることから、糸口が見えてくるかもしれません。

Continue reading...