|
彼女はU3の地下鉄の中で焦っていた。時計を見ると・・・もう10時5分過ぎ。彼女は一人でウィーン旅行中なのだが、ちょうどペンバリー管弦楽団を率いてコンマスのコリンもウィーン滞在中であった。コリン・ファンクラブのメンバーである彼女は、何週間か前にコリンのスケジュールを知ると、彼に手紙で自分もウィーンにいるので演奏会に行くと伝えた。するとコリンは返事をくれ、その中で、一日しか時間が取れないが昔留学していたウィーンをぜひ案内したい、と書いてくれた。それで今日待ち合わせたわけだが、彼女は念入りに支度をしていたためホテルを出るのが遅くなってしまったのだ。地下鉄がシュテファンスプラッツに着くと彼女は急いでドアを開け、出口へ駆けて行った。ええと、グラーベンは・・・彼女はコリンの指定したカフェへの地図を見てグラーベンへの出口を探す。見つけると走って階段を上ったが、ロングタイトスカートにブーツという格好では大変であった。グラーベン通りのカフェ・レーマン。彼女はカフェを見つけると、ケーキや菓子類が綺麗にディスプレイされたウィンドウの横にあるドアから中へ入った。木目調の落ち着いた空間。彼女はコリンを探す。いた。コリンは長い足を優雅に組み、流れるような動作でコーヒーカップを口元へ運んでいた。新聞を読む知的な眼差しも紳士的な立ち居振舞いも上品なカフェの空間と調和し、まるで映画のワンシーンのようであった。彼女がコリンのほうへ歩いていくとコリンもそれに気付き、笑顔で彼女を迎えた。遅れてごめんなさい、と彼女がコートを脱ぎながら言うと、コリンはすっと立ち上がってコートを受け取りながら、大丈夫、久々の新聞のドイツ語に悪戦苦闘していたから、と笑いながら答え、コートを掛け彼女のために椅子を引いた。彼女がショーケースの中に並べられた数々のケーキに見惚れているとコリンはくすくす笑いながら、君にはカフェ・ディグラスの方がよかったかな、あそこのケーキはここの倍の大きさだし、と言った。彼女がちょっとムッとしたようにコリンを見ると、コリンは満面の笑みで何を頼むか訊いた。彼女がお薦めは?と訊くと、コリンは整った手を軽く口元に持っていき、ショーケースのほうを見る。チーズが好きならトップフェントルテはどう?それとコーヒーはメランジェ。彼女が頷くとコリンは流暢なドイツ語で注文した。コリンは彼女に旅行のことを尋ねた。彼女が話している間、コリンはじっと彼女の話に耳を傾け、柔らかい視線で彼女を見つめていた。今度はあなたの事を話して、と彼女が言うと、コリンはウィーンに留学していた時の事、色々な演奏様式を身に付けるために何カ国かで何人かの師についた事などを話した。コリンの深くて艶やかな低音の声は、彼の奏でるヴァイオリンの音色のように彼女の耳に心地よく響く。音楽のような美しい英語。彼の癖なのだろうか、ちょっと考える時にコリンは彼の綺麗な指を整った唇に当てる。彼女は夢のような一時を過ごしていた。 暫くして二人は外へ出た。雪は降っていないが、真冬のウィーンの寒さは身に凍みる。彼女が少し震えると、コリンは彼のマフラーをふわっと彼女の首に巻いた。コリンの温もりと微かに香る香水。さてお嬢様、どちらに行かれますか?そう言いながらコリンは彼女に左腕を差し出す。どこでもいいわ、一緒にいられるだけで楽しいから、と答えながら彼女はコリンの腕に自分の腕を絡める。二人はまずシュテファン大聖堂を見て、それからコリンが学んだ音大の前を通り、シュトラウスの像のある市立公園に着いた。彼女がシュトラウス像とコリンを一緒に撮りたいと言うと、コリンは像の前に行き、シュトラウスの真似をしてヴァイオリンを構える振りをした。流れるような動作で、シュトラウス像より遥かに美しいポーズを決める。彼女が写真を撮るとコリンは一緒に写ろうと言って、近くにいたほかの観光客に写真を頼んだ。コリンは彼女の肩に腕を回し、最高の笑顔を彼女に向ける。二人は写真の御礼を言うと、シュトラーセンバーン(路面電車)に乗り楽友協会へ向かった。 ムジークフェライン(楽友協会)・・・ツートンカラーの美しい音楽の殿堂。その建物の中にある大ホール、ゴルデナーザール(黄金のホール)は世界一の響きを誇る。その響きの秘密は解明されておらず、天井と床の造り、座席の位置・数、装飾の量・配置など数々の幸運と奇跡によって偶然に生み出された。まさに音楽の都のなせる魔法。外には金色のポスターがいくつか貼られている。コリンはその中に自分達ペンバリー管弦楽団のポスターを見つけると、彼女に、ほらあれだよ、と指で示した。コリンはまるで子供のように無邪気に、このホールで弾くことの歓びや曲目について話す。彼女はそんなコリンを見ているとついつい可愛い、と思ってしまう。リムスキー=コルサコフ、シェエラザード。彼女が声に出して読むと、コリンは、明日来るんだよね、と言った。彼女が頷くと、すごく綺麗で甘いソロがあるんだよ、とウィンクしながら言った。コリンのソロ大好き、楽しみにしているわ、と彼女が言うと、コリンは嬉しそうに笑顔でありがとう、と答えた。 二人はそれからリンクに沿って国立歌劇場、王宮、美術史博物館、国会議事堂、市庁舎、ブルク劇場、ウィーン大学、ヴォーティーフ教会などを見た。ハプスブルク帝国の帝都であったウィーンは、華やかで上品で洗練された雰囲気を持っている。澄み切った空、石畳の路、優雅な建物、冬枯れの木立、時折見かけるフィアカー(馬車)。百年前から時間が止まってしまったような風景にコリンは溶け込み、優雅に歩く姿もベンチに座っている姿もモノクロの映画のようであった。 遅めの昼食を軽く取って、二人はプラーターへ向かった。さすがにこの時季は閑散としている。暫く散歩をしてから、あれに乗ろうよ、とコリンは大観覧車を指差す。昔、「第三の男」って映画で使われたものね、と彼女が言うと、コリンはO.ウェルズが「悪の哲学」を語るシーンを真似して見せた。よくある観覧車と違い、ウィーンの観覧車の車は電車の一両のようであった。窓には小さなカーテンがあり、ベンチも大きい。しかし今日はあまり客がいないので、その車に乗ったのはコリンと彼女だけだった。観覧車はゆっくり回っていく。冬のウィーンは日が短く、もう暮れ始めていた。夕日に輝く建物、遠くの丘陵地帯を二人は言葉少なに眺めていた。 コリンは彼女を、彼女が泊まっているホテルまで送った。本当は夕食まで一緒に居たいんだけど、オケのメンバーと打ち合わせがあるから、とコリンは本当に済まなそうに言った。彼女がお礼を言うと、明日は最高の演奏をするから、と笑う。そしてすっと右手を差し出した。彼女がその右手・・・あの美しい音色を生み出すコリンの右手を取ると、コリンは彼女をぐいっと引き寄せた。彼女は冷え切った頬にコリンの唇を感じた。コリンは、Bye、と言うと、ステージと同じように姿勢よく、長い足でかつかつ・・・と歩いていった。彼女は暫くぼんやりと遠ざかっていく後ろ姿を見つめていた。
|