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彼は満足していた。音大を卒業して、初めてのプロ・オーケストラのオーディション。小さな街のオーケストラだが、丁度空いたコンサートマスターのポジションを募集していたのだ。彼は…コリンは、ずっとオーケストラでコンサートマスターを務めるのが夢だった。有名音大を首席で卒業し、数々のコンクールで入賞している彼は、もちろんソリストになる選択肢も持っていたのだが、彼はどうしてもオーケストラで弾きたかったのだった。コリンは最終審査まで残り、今、オーケストラの主要メンバーの前で、課題曲を弾き終えたばかりだった。自分の力はすべて出せた…もし落選したとしても、しょうがない。まだ大学を出たばかりだし、いい経験になるだろう…コリンはそう考えつつ、楽器をケースにしまっていた。彼の脳裏に、審査員席の一番端に座っていた美しい女性の姿が浮かんだ。静かに、コリンの演奏を聴き、見つめていた。その瞳は温かく、しかし同時に鋭かった。誰かが近づいてくる足音に、彼は振り向いた。
「お疲れ様でした、ファースさん」
このオーケストラの事務局長だった。彼はコリンに握手の手を差し出す。
「いい演奏でした。最終結果については、郵送で差し上げますので…そうですね、1週間のうちには届くかと思います」
「ありがとうございました、よろしくお願いします」
コリンは彼の手を固く握った。コリンは楽器を肩に担ぐと、出口へと歩いていった。階段ホールでふと見上げると、階上から審査員席にいた女性がこちらを見ていた。亜麻色の柔らかい髪はふわりと肩にかかり、グレーの瞳は先ほどと違い、優しい視線を投げかけていた。彼女はコリンに軽く微笑むと、扉の向こうに消えていった。コリンは暫くその扉を見つめていたが、軽く息を吸い込むと、玄関の扉を開け、その建物から去っていった。
ロンドンのフラットで、コリンは女友達を前に練習していた。均整の取れた長身に、憂いを秘めた知的な瞳、深く艶やかな声を持ち、そしてヴァイオリンを優雅に弾きこなす芸術家…そんなコリンに女たちが寄ってこないわけはなかった。彼は女に不自由したことなどなかった…つねに数人の気楽に遊べる女友達を持っていた。ここ数日は音大の下級生がコリンのフラットに転がり込んでいた。
「ねぇ、コリン。オーケストラのオーディションの結果はどうなの?」
彼女はコリンを後ろから抱きしめながら訊いた。コリンは弾く手を止めた。
「いくつかからはいい返事が来てるけど、1つ待っているものがあるんだ」
「例のコンサートマスター募集のところね。わざわざオーケストラに入らなくても、コリンならソリストでやっていけると思うんだけどなぁ。教授たちもソロを薦めていたんでしょ?でも、私はオーケストラ志望だから、いろいろ教えてね」
コリンはちらっと時計を見た…そろそろ郵便が来ているかもしれない。
「ちょっとポストを見てくる」
コリンはヴァイオリンをケースに置くと、玄関のドアを開けて下へ降りていった。いくつかの広告と、友人からの手紙に混じって、彼が待っていたものがあった。コリンは足早に階段を上ると、部屋に駆け込み、ペーパーナイフでその封を開けた。
「コリン?来てたの?どうだった?」
コリンは彼女に微笑んだ。
「受かったよ、このオーケストラに決まりだ」
二人は抱き合って喜んだが、彼女が少し悲しい顔をした。
「でも、ロンドンを離れちゃうのね…田舎にはきっといい女はいないわよ」
「どうかな、清楚なお嬢様がいるかもしれないし」
「手紙書くわ、できるだけたくさん」
「筆不精なくせに」
コリンはくすくす笑うと、ヴァイオリンを片付け始めた。決まったとなれば、行動は早いほうがいい。
「もうお家へお帰り。これから準備して、なるべく早く向こうに行きたいから」
コリンはこれから始まる、プロとしての、コンサートマスターとしての生活に、大きな期待を持っていた。
教会を中心にした、古い町並みの残る小さな街。教会前の広場には噴水があり、その広場では毎週市が開かれる。その広場の周りには市庁舎や博物館など、街の主だった建物が並び、その一角にオーケストラが本拠地とするホールがあった。コリンのフラットはそこからそれほど遠くないところにあり、古いが温かな雰囲気の建物だった。今日はオーケストラの一員として、初めて練習場へ行く日であった。どんな団員たちだろうか。どういう雰囲気のオーケストラだろうか。期待と不安の入り混じった気持ちでコリンは支度をしていた。服をあれこれと引っ張り出しては合わせていたのだが、結局黒のスーツに白のシャツ、ノーネクタイで襟を少し立てた格好に落ち着いた。ヴァイオリンケースを持つと、足早に練習場へ向かっていった。石畳の道。両側には様々な店が軒を連ねていた。これから彼が毎日通るであろう道。今までずっとロンドンにおり、また海外留学した際も都会ばかりだったコリンにとって、この街の風景は新鮮だった。パン屋の主人がコリンに声をかける。
「そこのお兄さん、昼にどうだね?焼きたてだよ」
「ありがとう、また今度」
人々は親切で温かい雰囲気であった。おそらくこの街のオーケストラもこういう雰囲気なのだろう。本拠地であるホールの横にある関係者用の入り口の扉を遠慮がちに開け、コリンは中に入っていった。受付にいた同年代の女性がコリンに気が付いた。
「ああ、新しい団員さんだね。よろしく、事務のアンナ・スペイシー。ええと、コリンだっけね」
にっこりと笑って、アンナは手を差し出した。
「よろしく、コリン・ファースです」
「練習場は突き当たりを右だよ。何かわからないことがあったら、私か事務局長のハーヴェイさんか、それかヴィオレッタにきいて」
「ヴィオレッタ?『ラ・トラヴィアータ』の主人公かい?」
アンナは闊達に笑った。
「さすが音楽家だね。違うよ、まあ行けばわかるって」
「ありがとう」
コリンは微笑むと、練習場へ向かった。
練習場の扉の前でコリンは少しためらった。さすがに最初は緊張するものだ。どういう風に挨拶をしようか。軽く深呼吸するとコリンはドアノブに手をかけた。防音のドアとはいえ、音が聞こえない。まだ誰も来ていないのだろうか。コリンはドアをそっと開けた…その瞬間。
「ようこそ!コリン!」
クラッカーの弾ける音。コリンは驚いて、動けなくなった。
「ああ、かわいそー。驚いて目が点になってるよ」
「だめじゃない、卒業したての子をあんまりいじめちゃあ」
「誰だよ、最初にやろうって言い出したのは」
団員たちの楽しそうな声。和気あいあいとした雰囲気。コリンはようやく状況を把握した。ゆっくり息を吸って、挨拶しようとしたが、声にならなかった。
「…あの…」
それだけ言うのが精一杯だった。団員たちの輪の中心に居た人物がゆっくりコリンのほうに歩いてきた。ああ、見覚えがある、この人はこのオーケストラの団長だ。コリンは思った。
「当オーケストラにようこそ、ファースさん。団長のマクナイトです。こちらは事務局長のハーヴェイ。指揮者のトーマス。団員たちは追々覚えていただきましょう」
そう言うとマクナイトはがっしりした手をコリンに差し出した。コリンの整った繊細な手がそれを握った。
「よろしくお願いします」
「あと彼女はまず紹介しなければ…当団のソロ・コンサートミストレス、ヴィオレッタ・マイヤー」
マクナイトが向いた方の人垣の中から、すっと一人進み出た…紫がかったグレーの瞳、淡い亜麻色の柔らかな髪、華奢だが女らしい曲線の体、滑らかな白い肌に薔薇色の頬と唇…彼女の周りだけ空気が変わった気がした。ああ、彼女が…オーディションのときの彼女がヴィオレッタか…コリンは彼女を見つめていた。名前の通り、菫のように可憐な、だが侵しがたい高貴な雰囲気を持った女性だった。彼女は静かにコリンの側に歩み寄り、すっと右手を差し出した。
「よろしくコリン。ヴィオレッタよ。私たちのオーケストラへようこそ」
コリンは彼女の手を取ったが、握り締めると壊れてしまいそうだった。ちょっとだけ力を入れて握手をした。
「いろいろと教えてください…ヴィオレッタ」
ヴィオレッタは花が綻ぶように笑った。
「だめよ、ライバルにそうそう教えることはできないわ。学生のときは教えてもらえただろうけど、ここで何か学びたいなら、盗み取りなさい」
優しいが、威厳と意思のある瞳で、ヴィオレッタはコリンの瞳を見つめた。再びマクナイトがコリンに近づいてきた。
「もう一人のコンサートマスターは今日来ていないので、後日紹介します。演奏会にのっていただくのは、まだ先になると思いますが、練習には参加していただきましょう」
「はい、わかりました。よろしく」
プロの世界の雰囲気に、コリンは心地よい緊張感を感じていた。
この日は一度通して軽く弾いただけで練習はお開きとなった。この日のメインはもちろんコリンの歓迎会であった。団員たちの行きつけのパブは貸切状態となり、コリンを中心に人垣が出来ていた…とりわけ女性たちがコリンの周りを陣取っていた。彼女たちの質問攻めにあいつつも、コリンの目は常に一人を探していた…ヴィオレッタ、美しい年上の女性。彼女のような人は、今までコリンの周りにはいなかった。誰もを魅了するであろう美しさ。しかし彼女は美しいだけの人ではない。その細い体は威厳に満ちた、人の上に立つ者の持つ高貴なオーラに包まれていた。そして今日の練習のときの彼女は、まさにプロのコンサートマスターの独特の世界を持っていた。オーケストラ全員の力を自然に引き出し、何十人もの人間からなるオーケストラを一つの楽器として機能させていた。彼女が弾くだけで、そこにいるだけで、すべての歯車がかみ合っているような、そんな印象を与えた。そのヴィオレッタは、カウンターで一人、マスターと話しながらグラスを傾けていた。コリンはなんとか人垣から抜け出し、ヴィオレッタのところへやって来ることが出来た。
「…どうも、こんばんは」
我ながらどうしようもない挨拶だと思いつつも、他に言葉が出てこなかった。ヴィオレッタは温かく微笑んだ。
「すごい人気ね。まあ、珍しく若い男性が入ってきたものだから」
ヴィオレッタはくすくす笑いながら、その繊細な指先で琥珀色の液体が入ったグラスを回した。コリンはその動作に見とれていた。
「今日、弾いた感じはどうだった?」
「緊張しました。弾いたことない曲だったし…」
「随分、遠慮がちに言うのね。かなり自信があるように見えたけど」
コリンは図星をつかれて、少し顔を赤くした。確かに彼には自信があった。誰よりも豊かな音色、誰よりも多彩な表現力、誰よりも技術を持っている自信が。
「…本当はね、私はあなたを採用するのに反対だったの」
予想もしなかったヴィオレッタの言葉に、コリンは驚いた。彼女の言葉が、頭の中をぐるぐると回った。カウンターの蝋燭の明かりを映した彼女のグレーの瞳が、コリンの深い色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ヴァイオリンパートならともかく、コンサートマスターに、どんなにコンクールの入賞歴があったとしても、大学出たてのプロオーケストラ経験のない人を採用するなんてって思ったのよ。でも、あなたのその実力は、とび抜けて素晴らしかった。もしコンサートマスターとして相応しいように育てることが出来れば、このオーケストラにとっても、いいことだわ…いい影響があるかもしれない。あなたの力に引っ張られて、すべてが向上するかもしれない。もしかしたらこれは滅多にないチャンスかもしれないって思い直したの」
コリンは彼女の言葉を聞きながら、血の気が引くような気がした。こんな風に今まで言われたことはなかった。教授たちも学生たちも、コリンのヴァイオリンを賛美していた。コリンは何も言うことが出来なかった。ヴィオレッタは最後の一口を飲むと、グラスをカウンターに置いた。
「明日も練習だから、遅くならないようにしなさい。おやすみ」
そう言うと彼女は、コリンの肩を軽くたたき、皆に挨拶してパブを出て行った。
目覚まし時計の音でコリンは目を覚ました。長い指で時計を止め、ベッドの中で軽く伸びをした。上半身だけを起こし、コリンは暫くぼんやりしていた…あまりよく眠れなかった。新しい生活が始まった緊張からだけではない。昨日のヴィオレッタの言葉が頭から離れなかったのだ。彼女にとってコリンは、まだ役に立たない青二才に過ぎないのか。彼はベッドから出ると、窓を開けた。都会のとは違う、清々しい空気が部屋に入ってきた。遠くに丘陵地帯が見える。なだらかな稜線の向こうには、まだ昇ったばかりの太陽が輝いていた。コリンは目を閉じて、深呼吸をした。再び目を開けたとき、彼の瞳には輝きがあった。彼女に…ヴィオレッタに認めてもらわなければ。プロとして、オーケストラの団員として、そしてコンサートマスターとして。コリンは窓を閉めると、支度をし、朝食を軽くとって、昨日借りてきた楽譜に目を通し始めた。五線の上に書かれた音符。コリンにとってこれらは記号ではなかった。楽譜を読むだけで、コリンには音楽が浮かんだ。音色や表現、すべてが心の奥から湧き出してくる。作曲家が紙に写した音楽。それがたとえ何百年も前のものであっても、音楽は今この瞬間に生きているのだ。時間も空間も越え、演奏家の体を通じて、常に新しく生み出される。コリンは初めて音楽に触れたその瞬間から、それに魅了されていた。彼は楽譜を見ているだけでは飽き足らず、弾きたい衝動に駆られ、ヴァイオリンを持つと練習場に向かった。
コリンは早足で昨日通った道を歩いていた。すれ違う女性たちが、コリンの魅力的な姿に振り返る。しかしコリンはそれに構う気はなかった…一刻も早くヴァイオリンを弾きたかった。ホールの横の入り口に着いて初めて、コリンは練習場がこの時間から開いているのかどうかを知らなかったことに気が付いた。ゆっくりとドアノブを回してみる…開いた。中に入ると、アンナが受付を掃除していた。人の気配にアンナは気が付いて、入り口のほうを向いた。
「…コリン?!おはよう。まだ時間じゃないよね?」
「おはよう。練習したくって…家だとまだ時間が早くてうるさいだろうから。ここは何時から開いてるの?」
「私は8時からいるよ。やることが沢山あるからね。でも練習場はまだ開けてないよ。待ってて、今開けるから」
アンナは鍵の束から練習場の鍵を探しつつ、廊下をすたすたと歩いていった。その後をコリンがついて行く。
「それにしても、こんなに早くから練習しようなんて、熱心だねー。他にすることはないの?まあ、若いのに感心だね」
コリンはくすくす笑った。どう見ても同じくらいの年のアンナに「若い」と言われるのが可笑しかった。結構美人と言えなくもないが、アンナは洒落っ気がなく、赤茶色の髪の毛も無造作に結わいているだけだった。話し方もぶっきらぼうで、女らしさは全くといっていいほどなかった。しかし、彼女の屈託のなさはコリンにいい印象を与えていた。
「はい、どうぞ。譜面台と椅子はあの扉の向こうにあるから、勝手に使って」
「ありがとう」
コリンはアンナに向かって微笑んだ。アンナはちょっと首を傾げて、コリンの顔を見つめた。それから突然、コリンの両頬を軽くつまんだ。
「コリンさ、笑顔がなんだか張り付いてるよ。折角いい顔してるんだから、もっと自然に笑ってみなよ」
アンナはコリンの頬から手を離すと、にっこりと笑って、受付のほうに戻って行った。コリンは暫くその後姿を見つめていた。不思議なことを言う子だな…。コリンはそう思ったが、言われてみれば、誰とでもうまく付き合っていくために、この笑顔を身に付けたのかもしれない。コリンは軽く左手で頬をたたくと、練習場のドアを閉めた。
一時間くらい弾いていたのだろうか。コリンは練習場の壁の時計を見た。もう10時を過ぎていた。そろそろ他の団員たちも来るはずだ…そう思っていると、後ろから不意に音楽のような声がした。
「おはよう、コリン」
そこにはヴィオレッタが立っていた。コリンは全く彼女に気が付いていなかった。
「…おはようございます、ヴィオレッタ」
コリンは、昨日の彼女の言葉を思い出した。気恥ずかしくて真っ直ぐに彼女を見ることができない。
「いつからそこに?全然気が付かなくて」
ヴィオレッタはそれには答えずに微笑んだだけで、コリンの隣に椅子を持ってきた。
「今日は私の隣で弾きなさい。いいわね?」
コリンは驚いたが、黙って頷いた。鼓動が速くなるのが感じられた。コンサートミストレスの隣で弾くからだろうか?それとも、ヴィオレッタの隣で弾くからだろうか?ヴィオレッタは調弦し、軽く弾き始めた。彼女のヴァイオリンは素晴らしかった。特に長いオーケストラの経験から、曲をよく理解している落ち着いた弾きぶりだった。それでもコリンは、自分のほうが彼女よりうまく弾けると思った。オーケストラの経験は大学時代の授業でしかないとしても、技術・表現・音色の全てにおいて、彼女より上回っていると確信した。それなのに、あんな風に言われるなんて…コリンは、釈然としない気持ちを抱いた。彼はヴァイオリンを再び構えると、また弾き出した。コリンは隣のヴィオレッタが、彼のヴァイオリンを聴いて、考えを改めるかもしれないと思った。自分をプロのコンサートマスターとして、受け入れてくれるかもしれない。しかしヴィオレッタは、コリンがどんなに難しいところを完璧に弾いても、少しも反応を示さなかった。
練習の時間になり、団員たちも全員集まった。指揮者のトーマスが指揮台に立ち、簡単に挨拶をすると、演奏が始まった。昨日は軽く合わせただけだったが、今日はコリンにとって最初の本格的な練習であった。初めてのプロのオーケストラでの合奏に、コリンは圧倒された。前回は余裕がなくて気が付かなかったが、周りから聞こえてくる音は学生のものとは遥かに違うものであった。個人の実力もさることながら、ヴィオレッタを中心とした見事なアンサンブルだった。指揮者の要求も高度なものであった。これがプロのオーケストラか…最初は緊張して弾いていたが、コリンは段々とその中で弾くことの出来る喜びを感じるようになった。今日は合奏前に練習も出来たし、おそらく誰よりも弾けているだろう。コリンは自信を持っていた。学生時代に管弦楽の授業でコンサートマスターをやったときのように、コリンは持てる力を全て出し、堂々と弾いた。指揮者も団員たちも、コリンの実力に賞賛を惜しまないに違いない…コリンはそう思い描いていた。練習に一区切りがつき、軽く休憩を取ることになった。次の曲を練習しようと、コリンは譜面にその大理石を彫り上げたような美しい手を伸ばした。
「コリン、自分勝手に弾くのはやめなさい」
コリンはヴィオレッタの言葉に、びくっとした。伸ばしかけた手を引っ込めると、ヴィオレッタを見つめた。
「…すみません、次の曲にしていいですか?」
「そんなことを言っているんじゃないのよ。今あなたはどこで弾いているの?」
威厳のあるグレーの瞳が、鋭い光を宿して、コリンを真っ直ぐに見つめていた。ヴィオレッタの言葉をコリンは反芻した。どう答えたらいいのか、すぐにはわからなかった。
「あなたはオーケストラで弾いているのよ、ソロじゃない。もっと指揮者の呼吸を感じなさい。私の、そして周りの皆の。雰囲気を感じ取りなさい。私たちは…ファーストヴァイオリンは、ここにいる14人全員で1つの楽器なのよ。そしてオーケストラは何十人もの団員が、それぞれの個性を出しつつも、1つの楽器としても機能しなければならないわ。自分を殺せと言っているんじゃない。それぞれ自分がどう弾きたいか、イメージを持っていることも大事だわ。でもあなたは完全に一人で弾いているのよ」
コリンはヴィオレッタの言葉を黙って聞いていた。こんなことを言われるとは予想もしていなかった。コリンは何か言おうと思ったが、言葉が出てこなかった。自分が今、どんな表情をしているのかもわからないくらい頭が混乱していた。ヴィオレッタの菫色がかったグレーの瞳から目をそらすこともできなかった。沈黙しているコリンに向かって、ヴィオレッタは更に言い放った。
「それから、コンサートミストレスは私よ。私がこの席に座っている限り」
練習が終わってからもコリンは暫く練習場にいた。休憩の後から、コリンはどう弾いていいのかわからなくなっていた。確かにコリンは今までソロを中心に勉強してきた。でもオーケストラや室内楽の勉強もしたし、アンサンブルをすることなんてわかっている…彼はそう思っていた。コリンの頭からは、ヴィオレッタの言葉とその鋭い視線が離れなかった。ヴィオレッタに言われたことなんて、わかりきっている…なのに、なぜ言い返せなかったのだろう?その時、人気のない練習場にヒールの音が響いた。
「コリン、まだ帰らないの?」
コリンははっとして振り向いた…そこにいたのはヴィオレッタではなかった。栗色の豊かな巻き毛をした、チェロパートの女性だった。
「あ…もう帰るよ。えっと…」
「クリスティンよ。皆はクリスって呼んでるわ」
クリスティンは艶やかに微笑んで手を差し出した。コリンがその手を取って握手をすると、クリスティンは嬉しそうな顔をした。ああ、この女性は僕に気があるんだな…コリンは直感で感じた。今までコリンの周りにいた女性たちは、ほとんどこういう反応を示した。そう、これが普通だった…ヴィオレッタに会うまでは。コリンは自分がまたヴィオレッタのことを考えていることに気付き、驚いた。自分に関心がなさそうな人のことを、こんなにも気にするなんてどうかしている。コリンは軽く頭を振ると、クリスティンに向かって微笑んだ…今朝、アンナに「張り付いている」と言われた笑顔で。
「クリス、もし時間があったら、一緒に何か食べに行かない?」
「もちろん、喜んで」
コリンとクリスティンは出口へと向かった。受付にはまだアンナがいた。なぜだかコリンは、アンナにクリスティンと一緒のところを見られるのが気恥ずかしかった。アンナが二人に気がついて笑顔を見せた。
「お疲れさま、クリス、コリン。もう誰も練習場にはいないよね?」
「いないわ、私たちが最後」
「じゃあ、閉めるよ。私も早く帰りたいからね。もう時間過ぎてるし。じゃ、また明日」
アンナは鍵の束を持って練習場へ向かいかけた。
「アンナ」
コリンは無意識に呼びかけていた。アンナはくるっと振り向いた。
「何?」
「いや…あの、練習日以外でもここに来ても大丈夫かな?」
「いいけど。ハーヴェイさんか私が毎日いるから。何、練習するわけ?真面目だね、コリンは」
アンナは笑うと、二人に手を振って、練習場へ歩いて行った。
コリンとクリスティンは食事をしながら、お互いの学生時代の話をして盛り上がっていた。クリスティンはコリンよりほんの少し年上で、華やかな雰囲気の美人だった。コリンはロンドンにいた頃を思い出していた。クリスティンのようなタイプの女性たちが彼の周りには常にいたものだった。気軽に遊べる女友達。コリンはこの時、ヴィオレッタのことや彼女に言われたことを忘れていた。
「…それにしても、最初からヴィオレッタの隣で弾くなんて、緊張しなかった?」
コリンは内心びくっとしたが、顔には出さなかった。
「そうだね…それほどでもないけど。かなり注意されたな。彼女は厳しい人なんだね」
「そうかしら?要求するレベルが高いのよ、きっと。彼女はコンサートミストレスとして、最高の人だと思うわ。私はまだこのオーケストラに3年しかいないけど、彼女があの席にいるととても弾きやすいし、オーケストラの力も十二分に発揮できていると思うの。彼女ほどの人が、どうしてこんなに小さなオーケストラに留まっているのか、ちょっと不思議なくらいよ」
確かにそれはコリンもなんとなく感じていたことだった。何かこのオーケストラにこだわることがあるのだろうか。それともこの街に。
「もっと不思議なのは、あんなに素敵な女性なのに、誰かと付き合ってるとか、そういう話がないことなのよね。コリン、どう思う?ヴィオレッタって、男性から見ても素敵じゃない?」
コリンは微笑んだだけで答えなかった。ヴィオレッタは魅力的な女性だ。もしかしたら自分はヴィオレッタに惹かれているのかもしれない。しかしコリンには、何か彼女には人を拒む雰囲気がある気がしてならなかった。それにあそこまでコリンのヴァイオリンを否定したのは彼女が初めてだった。ヴィオレッタに対する自分の感情は今までに感じたことのないもので、コリンはそんな自分に苛つきを覚えた。ただ1つ確実なことは、いずれにせよヴィオレッタが彼にとって気になる存在であるということだった。コリンは自分の手にクリスティンの手が触れるのを感じた。
「…綺麗な手ね…コリンのヴァイオリン、とっても素敵だわ。あなたのヴァイオリン、大好き」
クリスティンのヘイゼルの瞳に、蝋燭の炎がちらついていた。
「…ヴァイオリンだけ?」
「違うわ…コリンが大好き」
クリスティンの指がコリンの頬に触れた。コリンの深い色の瞳に吸い込まれるように、クリスティンはコリンに近づいた。そして彼の整った唇に、クリスティンの柔らかな唇が重ねられた。
初秋の爽やかな空気の中を、寝不足の目をこすりつつコリンはホールへ向かった。練習場へ続くドアの前で身なりを整え、両手で軽く頬を叩いた。扉を開けると、目の前にアンナが立っていた。
「おはよう、コリン」
「…おはよう」
アンナの生き生きと輝く瞳に見つめられると、コリンは何もかも見透かされているような気がして、気恥ずかしくなった。昨晩、クリスティンと過ごしたことも気付かれているかもしれない。
「眠そうだね、大丈夫?今日はホールで練習だよ」
そう言うとアンナは、自分の荷物から何かを取り出して、コリンに向かって放り投げた。反射的にコリンはそれを受け取った…彼の手にはりんごが握られていた。
「こんな時間から弾いていたら、練習の時までもたないからね。それでも食べて。コリンは背が高いけどひょろひょろで、ちゃんと食べているのか心配になっちゃうよ」
「…ありがとう」
コリンは少し呆然として、りんごを見つめながら言った。
「いいって。それより、ホールと練習場と、どっちで弾きたいの?」
コリンは練習場を開けてもらうことにした。アンナは口笛を吹きつつ、練習場の鍵を開けるために廊下を歩いて行った。コリンはその後を歩きながら、なんとも言えない気持ちになった…今までこういうことはなかったのだが、なぜだか妙に素直な気持ちになっていたのだった。胸の奥の苦しみを吐き出したくなっていた。アンナは鍵を開けると、受付に戻ろうとした。
「アンナ」
自分でも驚くような、感情の高ぶった声でコリンは呼びかけていた。
「僕は…オーケストラに向いていないんだろうか。今までは自分の思ったとおりに弾けていたのに…ここではまるで、何も出来ない人間みたいで…」
コリンは自分が何を言っているのかわからなくなっていた。こんなことを言い出すつもりはなかったのに、自然と言葉が出てきた。何を言っているんだ、こんな子供みたいに、馬鹿みたいじゃないか…そうは思うものの、このときは感情のほうが理性より勝っていた。コリンは薄い瞼を軽く閉じ、長い指先を口元に当てた。アンナは黙ってコリンの言うことを聞いていたが、コリンが言葉を失うと、彼の腕を軽くさすった。
「何言ってるの、まだ2日目じゃない。オーケストラなんて、何年か弾いていないと、なかなか上手くはいかないもんだよ。まだ若いんだから、これからこれから」
アンナは朗らかに笑うと、受付へ戻って行った。コリンは彼女の手の感触が残る腕に、温かさを感じていた。
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