往復書簡 ‘03年3月〜8月
投稿時間 : 03/08/07(Thu) 22:31
投稿者名 : ビケ♪こと管理人
タイトル : ログの消滅
この掲示板をご利用の皆様、
特に、いつも興味深いお話をたくさん書き込んでくださるたけどん様。
この掲示板の最新のログ、1ページ分が消えてしまったようです。
’03年3月分までは、保存してあったのですが、
それ以降のは、どうやら、復旧は難しそうです。
今後は、もっとまめに、バックアップをとるようにいたしますので、
今後とも、何卒よろしくお願いいたします。
= たけどんさんより再送していただきました =
タイトル:「ウォータールー駅5番線」
今から80年以上も昔・・・
ロンドンのアートワーカーズ・ギルドホールで.アーノルドを始めとする
ドルメッチファミリーが古楽器によるコンサートを開いた。
その帰途、ウォータールー駅で、荷物の運搬に疲れ眠っていた幼いカールは
出発ホームの変更の知らせに、あわてて7番ホームに向かって駈けだした。
彼は、父のお気に入りだった「それ」を5番線のホームの入り口に
ケースごと置き忘れたことに、気付かなかった。
父アーノルドは「それ」を諦めることができなかった。
捜索のあらゆる努力が徒労に終始する失意の中で、
アーノルドは、事前に自らの手で記録していた「それ」の設計図をもとに
自分自身でそれを作ってみよう、と思い立つ。
1919年8月バンクホリデー(第1月曜公休日)に完成し、
1925年第1回ヘッスルミアのフェスティバルでそれは使用された・・・。
大英博物館職員F.G.レンダル。
クラリネット奏者でもあった彼は、店の主人から、
「それ」を5シリングで買い取った。
それは、ウォータールー駅前の、古物商のショーウィンドウの中で、見つけた。
フェスティバルの開かれた1925年、ヘッスルミアを訪れた、ペーター・ハルランは、
「それ」の持つ限りない可能性に気付き、
アーノルドから得た知識を元に、ドイツに帰ると自ら
「それ」・・・楽器、の製作にとりかかる。
エクスタータルの西、シュテルンベルクの城で・・・
モデルは「マルクノイキルヘンの工芸美術博物館」にあったもの。
その時ペーターが完成した楽器は「あれ」ではない。
ペーターの三男、クラウスの回想・・・
『私は今、最初のリコーダーを完成したよ。
私は最も良い方法で皆さんに提供できる楽器を手にしているのだよ。
そして、それはかなり安くなるだろうから、誰でも音楽が
演奏できるようになるよ・・・』
・・・クラウス・ハルランが、ルイーゼ・ルンメル夫人にあてた
書簡の中で、回想のうちに語られる、父ペーターの言葉。
・・・だが、「あれ」の誕生にまつわる謎は、いまだ解かれていない。
多くの人々が、楽器を安価に入手ができるように、
多くの人たちが音楽を演奏することが容易となるように生まれた楽器
その名は「German-type」・・・しかし、それは・・・。
かあ〜っ!ここまで書いたら行き詰まったあ〜。
「ふふふ・・・ふざけたいっ!」「くだけたいっ!」「わらいがほしー!」
でーも、今回は本読むだけでなくて、再構成するのもめんどうなお話だ。
筋はそんなに複雑ではないけれども、登場人物がみんな外人だし、覚えにくいし(おいらが)。
味付けに凝ったら、途中で煮詰まっちまったい。
ここまで読んで、話の筋、分かった人、えらい!(文章が分かりにくいだけ〜)
「それ」と「あれ」とは全くの『別物』という事実こそが、テーマなのねん。
おいらたちが子供のころ、学校で与えられていた楽器「リコーダー」。
それが「ドイツ式」で、別に「バロック式」リコーダーという楽器が
あったということを、なんか〜教科書に書いてあったよーな気が・・・?
でも、2つの楽器が、何がどう違うのかは全く分からない。
覚えてない・・・。
・・・突如、つづく。
タイトル:「来たれ、異邦人の救い主よ」
ビケ♪さんのおっしゃる通り、バロック式とジャーマン式は
運指法が違う。ではなぜ、違うのか?
「運指法が違う」ということは具体的には
双方の楽器を演奏する上で、どういう違い、意味があるのか?
「ぷぅ〜ぱぺぇぽぉぺぃぶぅぺぴぃ〜(ど〜れみふぁそらしど〜)」
C管のソプラノリコーダーで音階の運指は?どうでしたっけか。
左右の指、右手の親指を除く9本の指全てで穴をふさいで出る音が
「ド」一番下の右手の小指から順番に放していくと・・・
「レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ」
最後に放した左の中指を穴の上に戻して、代わりに残った人差し指を
放して「ド〜」・・・これが「ジャーマン(ドイツ)式」運指法。
同じように、全部の指をふさいで「ド」、小指を放して「レ」、
薬指を放して「ミ」、その次は・・
中指を放す、と同時に、放していた「薬指と小指を穴に戻して」・・・「ファ」
ここ,ちょっと、難しいですな。 あとの音は同じです。
その違いの理由、特に構造的に何が違っているのか、というと。
3番目と4番目(右手中指と人差し指の)の穴の「大きさ」が違うのですな。
バロック式では4番目の穴が小さく、ジャーマン式では3番目の穴が小さい、
つまり「3番目と4番目の穴の大きさが逆転している」のです。
結果として、ソプラノC管では「ファ」と「ファ♯」の運指が異なります。
・・・それなら、運指が簡単なジャーマン式って「進歩」じゃん??
ほほほ・・・。
幼いカールが愛器をなくしてしまったことによって、
ドルメッチは自らリコーダーを
製作しようと思い立ち、それを完成させ、
ヘッスルミア音楽祭でそれを演奏しました。
そのヘッスルミアの音楽祭に来ていたのが、ペーター・ハルランであり、
彼の手によってジャーマン式のリコーダーが作られた、ということになっています。
イギリス側の資料によるとハルランはドルメッチよりリコーダーを入手し
ドイツへ持ち帰りながら、別の運指によるリコーダーを作ってしまった、という
ことになっていますが、一方、ハルランの息子、妻の記憶によると、
ドルメッチの楽器は高価だったため、ハルランは、イギリスからリコーダーを
入手してこれなかった、とされています。
ハルランのつくった最初のリコーダーは博物館あった楽器をモデルにしたもので
当然「バロック式」であったはずです。では・・・なぜ?
彼は<この楽器>の製作に1年間をかけています。
〜彼の言葉「誰でも安価に入手できる、誰でも音楽を演奏することが
容易となるように・・・」〜
そのために、この楽器に起こってしまった問題・・・
この楽器においては「半音階」が全く考慮されていない、ということ。
つまり、運指が簡単なのは「全音階スケール」だけ、
この楽器で演奏が容易なのは「ハ長調」の曲のみということ。
調子記号などがついた調、複雑な曲になると、途端に演奏が困難になる、
ということなのです。
〜F.G.レンダルの手に入った楽器はその後、レンダルの厚意により
ドルメッチの手に戻っています。ドルメッチはお礼に自分の作った
楽器をレンダルに進呈したということで、こちらは解決しました〜
ハルランは、誰でも簡単に音楽が演奏できる楽器、野山や
家庭内で気軽に演奏できる楽器を目指していたのでしょう。
それに博物館から借りた楽器の音程(穴)が狂っていると考えていたようです。
・・・運指にたいする知識がなかったのか?・・・
ドルメッチに逢ってリコーダーに関する
アドバイスを受けているのだから、それは考えにくいのだが?
では運指が容易となるように、穴の大きさを入れ替えたのは、誰の思いつきなのか?
ハルランはヴァイオリンの製作にはすぐれていても、リコーダーに関しては
素人でした。ですからリコーダーの実際の製作においては、
シュテルンベルクの城にはフルート製作の職人がが出入りし、
リコーダーの製作に関してハルランと議論を重ね、試作を繰り返していたようです。
ではこのフルート製作者のうちのだれかなのか・・・?
〜「共同正犯」ということになりましょうか。
ただこの言い方は酷なような気もします。
あくまで彼は多くのヒトが音楽を演奏することが容易となるような
楽器を提供したかっただけ・・・なのですから。
それに指穴の大きさを交換したこととともに、管の内径の広い(ワイドボア)に
することで、もともと円錐型の内径をしていた歴史的リコーダーに
くらべて生産が容易になったわけです。が、結果、
なんと歴史的運指法が意味をなさなくなった、というわけです。
彼は当初、これについては、さほど大きな問題ではない
と考えていたようです (あとで大問題〜結構ありがちなお話)。
そうして生まれたジャーマン式リコーダーは、一見、運指が簡単であっても、
「音楽的には可能性の少ない」、かつてテレマンやヘンデルが作った音楽を
演奏する楽器とは「全くの別物」となってしまったのでした。
ジャーマン・フィンガリング、ドイツ式リコーダーの命名者が誰なのかは
不明です。実はハルランがこのリコーダーを製作する以前から「ジャーマン式」
という名前は書籍などに見られ、現在では不明の、全く別の方式のリコーダーが
存在していたのかもしれません。
(ここはおいらの読み間違い!ハルラン以前の
「ジャーマン式フィンガリング」についての記述は、確認できない)
・・・実は、話はここからが本番・・・ながい。
ペーター・ハルランが作ったリコーダーは、好評を博し売れまくったのですな。
お手軽に民謡や流行のメロディーなどを簡単に演奏できる楽器として。
ところが・・・!
彼はこのこと、つまり3番目と4番目の穴の大きさを入れ替えたこと
(結果的に運指が簡単なものとなった)が間違いであったと気付いたのです。
そして、この自分の誤りを訂正し、正しい秩序立った歴史的運指法を推奨する
ことを繰り返したといいます・・・んが。
世間は、簡単な運指に慣れきってしまい。このジャーマン式を使用する傾向は
もはや止めようが無かったのでした・・・。
『父はおそらく、さらに長い間、こうしたドイツ運指法を使う、お得意さんの
強い要望によって、間違った指使いのリコーダーを作り続けて・・・(中略)
・・父は、一つのちょっとした誤りが良くない方向に動いてしまったことに
一生の間苦しみ、また少なくとも腹を立てていたのです・・・』
(ペーターの三男クラウスがルンメル夫人に宛てた書簡より)
さて、その「誤った楽器」(と言い切るのもな〜)が子供たちの音楽初等教育用の
楽器として使われているわけですが、文部科学省も「ジャーマン式」のみを
使用するように決めているわけではないとのこと。
では、どのくらい「ジャーマン式」が使われているのか?
そして他の国ではどうなのか・・・?
リコーダーでバロックの曲なんて、吹いた覚えがないですな。
レコード鑑賞の時間でもリコーダーの演奏なんて聴いたこともない。
だから古楽聴くようになって、リコーダーのソナタとか、どこか
ヴァイオリンやチェンバロの曲よりも「舐めていた」?
「そりゃプロはすごいんだろけどさー。だって、簡易楽器でしょ、所詮」・・・みたいな?
音楽には親しんだけど、楽器自体を舐めるよう(うまいっ)
になってひまった(おいらの場合)
・・・だって子どものために作られた楽器だと思ってたんだもん!
そんな不届きな「異邦人ども」に救いはあるのかぁ〜〜〜っ!!
おもしろく・・ない? 不本意だけどお・・・つづく。
タイトル:「深き淵より我は、呼ばわる」
ビケ♪さんのおほめにあずかり、光栄のいったりきたり。
タマゴぱっく、どもどもでした。
♪〜タマゴだいすきふふんふ〜ん! (コイツなんとかしろ〜)
こレスてローるがタマっちゃう〜(うーっ!)
ま、運動してるから、心配ない。
ドイツ式リコーダーは内径のボアアップ(大きくした)のために構造が簡単になって、
低音域が柔らかな音となり、加えて指穴の交換のために、運指が一見簡単になったが、
歴史的運指法の価値はゼロになった、というお話でしたが・・・
さて、日本へはどのように伝わったのか?
そもそも、ドイツにおいてさえ
1940年代に出版されたリコーダーの教則本では、
バロック式、ドイツ式を分類しながらも、高度な演奏のためには
バロック式リコーダーの使用を推奨しています。
1936年の第11回ベルリンオリンピックで、6000人の少年少女たちが
集団演技を行い、リコーダーも多くの打楽器などとともにヒトラー・ユーゲントの
ために音楽を奏でた・・・というふうに政治的に利用された時代もありましたそうな。
(おいらたちも体育祭なんかでおんなじような事、やってたな〜。
当時の流行歌を、吹いてふいて吹きまくったね〜)
この祭典を見て感銘をうけ、リコーダーに教育的価値を見いだした、
「坂本良隆」という日本人がいたのですな。
この人物は島根大学教授として、作曲・指揮の指導をするよう
になる人物です。坂本はドイツ留学中に、小学校などで
ピアノを使わない、リコーダーによる創作指導に感動し、
ソプラノ、アルト、テノールの3本のリコーダーを帰国時に
持ち帰り日本国内で制作することにしました、が。
昭和18年という時代背景においては、彼の努力は、世間に定着
しなかった、ということです。
はやったのは戦後、アメリカ様の影響力のようですな。
それがなぜ「ドイツ式リコーダー」?ってのは、資料がもうない
(図書館に返した)のでわかんない。 ( ←ふふふざけんな〜! )
〜現在、ドイツの学校では70%がバロック式を使用している
のに対し反対に日本の学校では70%がドイツ式を使用しているとのこと〜
おいらが読んだ資料(っていうか本)は96年の出版なので
現在はどうか知りません(どうせ変わってないでしょ〜)が、
日本の学習指導要領においてはバロック式、ドイツ式のどちらを
使用するかは、明確には指定されていない、ということです。
「ドイツ式リコーダー」の生まれ故郷であるドイツにおいては、
指導する側に「ドイツ式リコーダーは、ある種間違いが元で
作られたものである」という認識があるということ。
また、子どもたちが将来、ドイツの作曲家たちが残した
数多くの名曲を演奏できる、あるいは、演奏に可能性を持たせるように、
「バロック式リコーダー」を、と考えられているからのようです。
一方、日本では所詮「たてぶえ」、簡易楽器。
取っつきやすいし、指導もしやすい。
リコーダーは「立派な歴史を持った楽器」である、と考えるか「簡易楽器」として考
えるか?
小学校3年生から「本物を与える」ということ。
「ファ」の運指が難しいのは、そういうものであるとして、
子どもたちに理解させ、与えるのも1つの方法でありましょう。
他の管楽器とかはそうじゃん? (弦楽器とかは子供用があるけどさ)
実際問題として、リコーダーの方式の違いを、教育指導要領でどうこうと
いうのも実現性の薄い話かな? お役所にゃ、そんな細事はおかまいなし。
「だって、どっち使ってもいいってことになってるでしょ?」
「強制してまで、バロック式を使用させるメリットありますか?」
・・・こんなとこでしょ。
ま、「ドイツ式は駆逐してしまえ」とまでは、おいらも思わないですけどね。
でも見かけ同じような形なのに、別の楽器として「棲み分け」なんて可能か?
とは思う。実際に学校という狭い現場においては、なおさら、ですよね。
バロック式のリコーダーで音楽の授業を受けた人もいなくはないんだろうけど、
おいらのまわりにはいやしない。っていうか、覚えてもいないだろな。
「たてぶえ」のことなんて。
だいたいリコーダーが児童用の簡易楽器ではない、歴史を持った
立派な楽器なのだ、なんて知らない人の方が多いだろうしね。
リコーダーに最初に触れる時期に、レコード演奏ででも、リコーダーの
演奏を聴かせてくれりゃよかったのにな?
それともバロック時代に作られた、素晴らしいメロディーの
比較的易しい曲を、なんとか編曲してでも、教材としてあたえてくれりゃよかったの
に。
え? だれも何とも思わねえって?
いや!「おいら(だけ)が喜んだに違いない」ってことさね。
ずいぶん昔のことだけど、テレビ(たぶんNHKローカル)でどこかの
学校の生徒たちが集団でリコーダーを演奏している番組があったんでさぁ。
そこで演奏されてた曲は、パーセルの「アブドラザール」でしたのさ。
そ、あのブリテンの「青少年のための管弦楽入門」の変奏曲とフーガの
「テーマ」となった曲ですよ。
「ほほぉ〜っ」と思いましたね、おいらは。
「わかってる先生もいるじゃん」ってね。
「バロック式」と「ドイツ式」、どちらを使うかは先生(っていうか学校?)
の判断に任せられている部分が大きいとか言う話だけど、
前の先生まで「ドイツ式」でずっとやってきたのに今年から
「バロック式」というのも難しいかもな〜。
よほど周りの理解がある環境か、必死で説得した末でないとね。
それを考えるとテレビに出てた生徒たちは、きっと音楽に理解の
深い先生だか、学校だったんだろうな〜と。
(パーセルの曲を演奏だぜえ? 小学生の誰が知ってる?)
きっと、楽器はバロック式で、ややっこしい「ファ」の運指を
ものともしない、熱い指導をしていたに違いない。
「ばかやろー。この楽器は、こうゆーもんなんだよー!」みたいな。
もっとも指導の方法も外国ではそれなりに入りやすい方法が
考えられているようですな。
・「ファ」の一時的回避と「ト長調」からのスタート。
・難しい「ファ」は最低音の「ド」と関連づけて覚えさせる。
・左手のテクニックに慣れてから右手の運指にとりかかる。
などなど、方法についても、イギリスではさすが、
指導法まで、よく考えられてますな。
調性の問題をどの段階でどのような教材を使用して教えるかなど
考えるべき課題もあるようですが、わが日本では・・・
とりあえず、「バロック式を使用することを、禁じてはいない」ってことで
よしとして、役所がわざわざ、バロック式を推奨するなんてことはないじゃろ。
後は、ほったらかしでしょうね、めんどいから。
考えてみると、物事「優れているモノが広まって(残って)いく」とは、
限らないすよね。この世の中。
「優れたモノは黙っていても・・・」なんてナイ? 少なくとも
「何時もそうとばかりは言えない」っていうところでしょうかな?
ベータとVHS(ビデオ)の時もそうでしょ?
「優れているモノだから残る」と「残っているのは、優れたモノだからだ」
そう言われると、そんな気もするけど何時も正しいわけではないわな。
これは、『進化論』で言われている「適者生存」ってのもそうだネ。
適者が生存するのか、生存しているから適者なのか・・・?
これは「トートロジー(同義反復)」といって、お互いがお互いの証明理由に
なってしまっている状態、つまり実際には、何の証明もなされていないのだが、
その論理の悩ましさ(?)の故に、おいらたち一般人(そんなにアタマがよくナイ奴ら)
には大人気の思考法、擬似証明法(?)ではありますな。
「長く存在していたものがよいモノだというなら、王様やお殿様がいた時代、
それが人類にとって最高の政治形態だとでも、キミは言うのかね?」
「ふん! そうはいわんが、古いモノがすべて役に立たたずで、
新しいモノがすべて素晴らしい、とも言えんぞい!」
お:「すいませ〜ん。このソフトのマック版ってないですかあ?」
店:「あ? マック? マック版・・・? アップルって会社、
まだあったんすか? もうやめたと思ってた。ぷっ!(笑)」
お:「・・・・!」
店:「マックなんて、ありゃパソコンじゃなくて、何かの冗談でしょ! (爆)
本物のコンピュータ買いなさいよ。世界中ほとんどウインドウズっすよぉ?」
お:「じょーとーじゃね〜か〜。 表へでなっ!」
こんな話が、なんかどっかであったな・・・・(T-T)(T-T)(T-T)
おいらは、マック「狂信者」ではないので、ここではウィンドウズの悪口は差し控え
させていただく。 (・・・とりあえず、今日のとこはなぁ〜〜〜(−−#))
う、おとくいの脱線話だ。 ま、タマゴでも回して落ち着け。
リコーダーという楽器は、現在、音楽の初等教育の中で、ハーモニカに
続いて触れるもの(でしょ?)。
全ての生徒が比較的容易に演奏できる、という点から見れば、ドイツ式
リコーダー(ジャーマン式運指法)の方が、目的に合致しているでしょう。
「バロック式」の方が楽器としての可能性が高い、音楽の演奏においては
こちらのほうが、より演奏の深さと喜びをえられる・・・などはお役所に
とってみれば、「た・わ・ご・と」。
日本においては、より深い音楽への理解共感など、学校の音楽教育には
過分なものである。とされるでしょうか。
「そんだけ音楽やりたいんだったら、大学入ってから存分におやんなさい。
現時点の学校音楽教育に不備な点があるとは言えない」などと言われるのがオチ。
なんにせよ、子どもたちに教えらる「音楽」を自分たちの国、民族の
文化遺産であると考える欧州の人々とは、力の入れ方、考え方も違うって
ことなのでしょうか。
振り返ってみても、日本って国は自国の文化に対する教育も「おざなり」
な気もしますねー。そんな国において他国の文化である「音楽」教育を
より良くしていこうなどと「お役所」が考えるワケがないわな。
それぞれの子どもたちの「個性」を伸ばすってことよりも「全体の平均点」を上げる
こと。
社会に出てから使える「有能な部品」を大量に生産するってのが義務教育の
本道でしょうからね。それから見りゃ「ゆとり教育」なんてのは世間の風潮
に「愛想笑い」をしただけの、一貫性を欠く、全くのちぐはく改革と言えましょうか。
だからこそ、それを「変えていこう」という人間の力が必須である、
ということでしょ。ま、バロック式が禁止されているわけではない
のだから音楽を大切に思っている学校なり、先生なりに出会ったら
さあ大変・・・、っていうか、それも縁なのでしょうな。(;O;)
〜 縁あって大切なモノと巡り会っても、あんたが何もしなければ、
すぐに手の指の間からすり抜けていってしまんだよ。
素晴らしい人間と出会っても、出来事でもモノでも・・・ほっといたら
どんなものでもたやすく「思いで」に変わっちゃうんだ。〜
「ホントに大事だと思うんなら、つらくてもゼッタイ手を離しちゃダメだよー!!」
・・・??? おいら? むかし小学生の頃、母親の実家で、
ラジオから流れていたヴィヴァルディの「調和の幻想」
を聴いてしまったおかけで、今はひとさまのホームページの掲示板に、
えらそーに、長くてはた迷惑なカキコをしてるぜィ ・・・おかげさんでな!
「あんとき、心の深いとこで、なんかハジけたのをおいらは聞いたのさ」
〜ああ・・「おんたま」が舌のうえでとろけていくぜ〜〜
今回の参考文献 (っていうかネタ本)
『リコーダー復興史の秘密』 (安達弘潮 著)
『古学の復活』 (ハリー・ハスケル 著)
タイトル:「オリヴィエの罠」
オルガンは癒しの楽器
だ〜ぅもおぅ、おせわさまで〜す。(え、新聞ならいりませんよ)
そんなこといわず、ワシントンポストですよお (アメリカでは新聞は宅配しないっけ)。
「とんぽす」のコンサート評って、皮肉、当てこすり、アイロニーが
すげえっすよ。それが分かっている読者さんにとっては、
音楽なんぞ分からなくても充分に楽しめる読み物となってますよ〜。
「バーンスタインの指揮ぶりは、オーバーアクションが過ぎて、
指揮台上で飛び上がったと思うと、再び降りてくるまで20秒ほどかかった・・・」とか、
「小沢せーじが曲が山場にくるといつも泣きだすのは、
レニー(バンスタのこと)影響だ。そんでもって昨夜も大泣き」とか、
めりけんジョーク(?)のほーこです。わらえますよ〜っ!
音楽評論ってよりも、音楽時評に名を借りた「じょーく・むじーくコラム」?
そのためには演奏はとんでもないほうが、おいしい?
よく知らないですけど、まともに誉めた記事ってあるんですかね?
ワタセケイコさんもオリヴィエ・ラトリーのリサイタルをお聴きになった由(よし)、
ワタセさんのホームページへも、ごそごそ、おじゃまさせていただきました。
「すみだトリニティーホール」でお聴きになったのですね。
初めてのオルガン演奏、素晴らしい体験をなされたようで、よかったですね。
(さて、たけどんはどうだったのかな・・・?)
新潟市音楽文化会館「りゅーとぴあ」のオルガンの整音が終った後の、
最初のコンサート「オリヴィエ・ラトリー・オルガンリサイタル」
友人がある日言った。「わしはオルガンが聴きたいのだ」
おいら:「りゅーとぴあには、行ったことがないのか?」
友:「何度かある。が、オルガンの音は聴いたことがない。でも実物を見ては、いる
このオリヴィエ・ラトリーとやらのリサイタルへ行こう」
お:「う、それはプログラム的にどうか? お勧めは出来かねる」
友:「かまわん。これにする」
お:「それならそうしよう。それにいいものがある」
友:「餃子のタダ券か? それはよいものだ。きまり!」
お:「おいらの<ぼろろん号>ではきついので、あんた車出して」
近頃「バロックもなかなかじゃん」と、朝のFMでやってる放送をテープに録り、
車で聴き始めるという快挙を成し遂げた友人は新潟で7人目(くらいの)古楽ファンに
なりつつある。が、まだまだあまい。声楽がいまいち苦手だからだ。(大きなお世話)
そんな彼がオルガンを聴きたいというのだが、今回のラトリーのプログラムは
フランス中心。しかも近代の作曲家も含まれており、おいらは危惧を感じていたのだっ
た。
バッハ、ボエリ、まー、フランクまでの前半はまだしも、
ギルマン、ヴィエルヌ、ラトリーの即興演奏、が後半・・・あぶない。
近現代などのオルガン曲は「さっぱ、わけわかんない(おいらがだ)」曲が多いからだ。
少し早めの夕食をとってから会場へ向かうことにする。
夕食は「らーめん」。情報誌で見た、うまそうな(写真がそこに載ってる)ラーメン屋
に直行だ。
しかも「餃子一人前タダ券」付きだ。 (なぜ、らーめんばなしがここに?)
そのラーメンは、種別的には「和歌山ラーメン」というものらしい。
和歌山のラーメンとはどのようなものか? ビケ♪さんはラーメンが好きなのか?
さまざまな疑問が浮かんでくるネ。
5時前頃、現場到着。「ほ、すいている」
和歌山のラーメンとはどのようなものなのか?
「こってりラーメン、普通と大盛りね」(大盛りはおいら)と同時に
「ぎょーざひと皿むりょー券」を店員に差しだし「これもね、使えるよね?」
来た・・・置かれたどんぶりを見る。和歌山のラーメンって
「醤油とんこつ」の茶色スープに、「細麺」なのか〜! 万能ネギのこい緑が目にい
たい。
細麺は、九州のとんこつの方がもっと、コシがあるけど悪くはない。
こってりしてるわ、こりゃ・・。「ズズッ・・・」スープをすする。
・・・この感じは、横浜の「家」系(知ってる人は知ってる)のようなヘビーさだ
というのは、これらのスープは共通した特徴がある。それは・・・。
おいらは中太のしこしこ麺が好みだが、まあいいや「ずぞぞぞ〜」。
でもスープとチャーシューが抜群に相性がいい。
スープ絡めて一緒に食べると「こりゃ、んまいっ!」
「ごはんもってこい!」って言いたいくらい、こいつで何杯もいけそう。
「どーも、ごっそさん!」とお金払って店を出る。
車に乗って会場へ向かう。あと30分くらいで開場時間「ちょうどい・・!」
き、きた。こ、これがあの「のうこう、こってりスープ」の効用だ。
食べてしばらく経ってから、胃の当たりに「づんっ!!」とくる(重くなる)のだ。
普通盛りでも、い、いかったかも・・な。
会場に入ると、入場の前にはお約束の「トイレ」。
「わし(友)も」と2人でエントランスホールにあるお手水(ちょうず)へ。
いつも見かける光景なのだが女子トイレは、もう列ができている。
「あー、大変だ」と思いつつ、男子の方へ入ろうとしたその時!
ささー、と横から来た婦女子がおいらたちの先に「男子(だんしだっ!)トイレ」にお
入りになりやがった。
「あらららら・・」と思いつつも、その後に続く形でおいらたちも中へ。
東京にいたとき、東名のサービスエリアのトイレなんかで、おばさんたちに「乱入」
された経験はあるが、コンサートホールでは初めてだったな。
おいらたちは個室に入った方には何も言わず、黙って用だけ足してそこを出た。
「てーしたどきょーだ」が、会場内に入ればほかにもトイレは・・・。
まー、いろいろ事情状況はあるわな・・・緊急事態だったんだろな。
でも、もし、反対においらがそれやったら、ご婦人方に
ぼっこぼこにされて、御用になってるね(^o^)。 (十字架につけろ! 十字架につけ
ろ!ってか?)
会場内の「入り」は満席時の半分ほど、全席は売り出さなかったらしい。
おいらたちの席は正面オルガンに向かって右側、
ワインヤード型なので、オルガンを12時の位置とすると、3時から4時の位置。
ま、前でも後ろでもなくほぼ中央ほどの席。
高さ的にはコンソール(演奏台)と同じくらい。
下のアリーナ席の方が自然(?)のようにも思えるが、どうなのか?
高さ的に同じでも、中央正面の席ではなんだかオルガンから離れすぎているような
感じがするし、難しいところだ。とりあえず、今回はこの位置で聴いてみたかった。
プログラムはバッハの「たたたた〜ららたらたらたら・・・たらたらたらたっ、たあ
〜」(なんじゃい?)
「プレリュードとフーガト長調BWV541」から始まる。いきなりノリノリ。
お客がまだ暖まっていないうちからこれかー。おいら、たちまち火だるま(?)。
でもこれも悪くないか、快調な滑り出し(演奏者は)。
残響が「左から来る〜」。パイプの咆哮が右から聞こえてきて、そのあとひだりに残
り火〜!
「しまった失敗席か?」でもほかにどこがよかったってんだ?
中央正面は、ちょっと楽器から離れすぎの感じがして、
まるでテレビ画面で観てるような感じなんだよな〜。
じゃ、アリーナ席がよかったてのか?
本来、教会なんかだと、オルガンは上の方に設置されてたりして
上から音が降り注ぎ、カテドラル全体が響き渉り、音の伽藍と化す・・・。
いかにも「天の声」っていう役割にぴったりの配置なんだろうけど。
コンサートホールでは・・・特にCDなんかでしかオルガンを聴いたことがない
人間には、どこで聴いてもどうもしっくりこない感じがする。
コンサートホールではオルガンを聴くベストポジションは観客席にはないのだ。
強いて言えば、アリーナ席の上、オルガン正面の空中ってことになるか?
CDなんかだとそういうポジションで音がフォーカスされているからな。
実際上はこれもありえないポジショニングなわけで、それに慣れ切っちゃってる
っていうか、それしか聴いたことがないからな。
それが当たり前だと思いこんでると、そうなるかな。
誇張された味の人工甘味料に慣れすぎて、天然の味が分かんない状態かも。
ヨーロッパの教会でなんて聴いたことないから分かんないけど。
等分平均律調律のパイプの響きがどうだのこうだの以前の問題だな。経験不足!
ここのオルガンはグレンツィング(スペイン)製の69ストップの楽器。
それにしても日本海側には、
1つおきというのは面白い。
(新潟にあるってことは山形と富山にはない。秋田、石川にはあるが
青森にはないってこと。また福井、京都、兵庫まであって、また
その先は1県おきになる。もっともどの県でも教会等にはあるだろうけれども)
オルガン設置がバブル期の産物だと考えると、この先設置されるのは難しいかな。
この楽器でバッハとかと近代フランスのオルガン曲をやるのかあ・・・?
ま、できるからやるんだろう。
「プレリュードとフーガ」が終わったよ・・・えっ?
引き続き、「オルゲル・ビュヒライン」って、お辞儀しないの??
そのまま3曲演奏。終わってそのまま足元ごそごそ・・・
えっ! そのままボエリ?「ドゥニゾの聖歌より4曲」・・・
おなじく、そのまま「トッカーたろたんちょ・・・」・・・。
・・・・「あ、フランクの旋律だ」聞き覚えのあるフィナーレ。
盛り上がる、盛り上がる。ぼーぜんとしたおいらを後目に。
万雷の拍手拍手! おいらも拍手拍手! 何度かラトリーを呼び戻したあと、
会場が明るくなる。「ここで、15分間の休憩を・・・」のアナウンス。
友人の顔を見て、おいらは言った。「おいら、ねてた」
友人も、おいらに言った。 「わしも、ねてた」
(そのとき三度目のニワトリが鳴いた・・・。おいらたちは、外へ出ると、身もだえ
して泣いた・・・)
あのヘビーな、らーめんのせいなのか・・・?
・・・おいらたちは、癒されたのか・・・・
<緊迫の(?)後半に続く!>
それでは、ラトリー編の後編です。
友:戦闘が始まりましたな。戦争について書くのか?
お:いや、とりあえずこのお話を終わらせないとね。
戦争が始まるとカーナビが調子よくない?
友:なんで?
お:カーナビってさ、GPSの電波使ってんじゃん。
あれ、軍事用だからさ、まあカーナビ用に電波使ってるのって
許可はしてなんだけど、お目こぼしみたいなもんなんだよな。
友:だから、どうなんのさ。
お:普段はプロテクトがかかってんのよ。だから誤差が出るように
なってんの。それが戦闘が始まると、プロテクトが解除される
わけ、そんでもって今まで走っていないところ表示していた
ようなカーナビが「ピタッ」と正確になるわけ。
それで戦闘開始が分かるって話。
友:へ〜、でもカーナビなんて付けてたっけ?
お:ないよ。
では、後半再開せり〜。
友:「む〜、してやられた。癒されてしまったあ〜」
お:「くっ、なかなかやるな!ラトリー」
友:「こってり、なんか食うからじゃ!」
お:「だいたい、会場内が真っ暗というのがイカン」
友:「演奏者だけにスポットライト当てて、オリヴィエだけが映える、
という演出もワカランではないがな。」
お:「それならもっと映える虹色のライティングにせんかい〜っ。
お陰でプログラムは読めんは、途中であいさつもせんから
観客には拍手するという節目もない、今何演奏してんだか
わからなかった客も多いのではないか? よけい眠気をさそったな」
友:「プログラムは、よ〜く目を懲らせば、読めた」
お:「あ〜、そ。」
友:「それにしても前回の<三度目のニワトリ>というのは何だ?」
お:「ああ、ありゃ、<ニワトリが鳴くまでに三度、イエスを拒否した>
ってのをマチガエた」
友:「あ、そういうことね。ツメ、甘いな」
お:「・・・・」
何時からか、消防法が改正されて上演中の非常灯の点灯をしなくても
良くなったんだかなんなんだがで、ラトリー以外は、うっすらプロが
読めるかなというぐらい真っ暗状態。しかも途中拍手なしで、休憩まで
ぶっ飛ばしたラトリー。
くそ、無理矢理おいらひとりでも拍手してやりゃよかったかな。
いくらオルガンの大音響とはいえ、同じ刺激を受け続けたおいらたちは
腹の皮が突っ張っていたせいもあって、目の皮がたるむにまかせ、あまつさえ
おいらは上を向いて、口まで開けていたのだ。(開けたまでは記憶がある)
こんなのは初めてだ。かつて、あちこちで寝ているお客が散見された、
ローレンス・キングのハープコンサートでさえ、あの心地よい夢の世界へ
誘うようなバロックハープの調べですら、眠るなどということはなかったのにだ。
開演時間まで会場内をふらついていると、
「ここで聴けないかな、こんだけ空いてるんだしさ」と楽器の真っ正面
後方の席を指して友人が言った。ここはおいら聴いたことあるし、
ここはここで、不満は出るんだよな。
席に戻ると、空いていたはずのおいらの隣の席に、おねいさんが座ってる。
んん? これでおいらたちのいる列は左端からずっと隙間なしにうまった
・・・って、おい! おまえらは子供か!? 前の列ガラガラじゃん、
その前列も。なんでこの列だけ言われた通り(買った番号の通り)に、
ここだけ一列びっしりうまって座ってなきゃいかんのじゃ?
おまけに独りで聴きに来ていた兄さん!なんでこの列の右端にくっついて座る?
おまいさんのとなりはズッと空いてるやんけ!と思った途端,
場内が暗くなり、立ち上がって移動する気も失せ、コートを前の席の背もたれ
(誰もいない列の)にかけて座った。 (なんでクロークを利用しないのかね〜?)
懸案の後半部のプログラムは、意に反して「意外と聴かせるじゃん」
あなどれん、フランス人。ギルマンのオルガンソナタ第1番終楽章、
ヴィエルヌの幻想小品集から「月の光」「鬼火」「トッカータ」
これが「のーどるだむの腕」なのか?・・・得意種目かもな。
これに比べると前半部はなにか、メリハリがなかったな。
もっとも後半部のような曲目だけならべても、お客は敬遠するわな。
やっぱりバッハとかバロックのオルガン曲を入れないとな〜。
でも本当にやりたかった(ホントのところは知らないが)
のはこっちのほうだったのかもね。
こういうプロの組み方をしてくれると、おいたたちのような
「にわかオルガン聴き」たちもレパートリーが増えるってモンです。
CD買うときのストライクゾーンが、ちょと、広がりますかな。
でも、CDで聴くと意外と、どおってことない曲だったりするよ
(真剣に聴いてない)
ホールでのライヴではずいぶんと曲の感じから
なにから違うものだからなあ〜。ライヴの方が、こちらも集中して聴く
姿勢になってるからねえ。(口開けて寝てたくせに!)
音栓の選び方とか、いろいろ言うべきことはあるんだろうけれど、
なにせ、だいぶ前のことなので記憶がいまひとつ・・・てへへ。
大体の印象しか残ってまへんのさ。
バッハから(居眠りを挟んで)フランクまで、音の大蛇がうねり続けていた
ような感じ、ふむ。っていうか、「息継ぎ」どころが分かんなかった。
だから、色彩は豊かで、ダイナミックな演奏なんだけど、演奏者の呼吸が
計れないので、自分の呼吸と合わせられない(速すぎるってのとは違う)。
演奏者は一曲終わっても、向こうを向いたまま、足下でなんか操作してるしね。
おいらは音楽の誕生(再生)に立ち会うのを、もうあきらめちゃって
そして、演奏に置いてかれて、響いてくる音響に身を任せるだけ。
後は音の大蛇がうねっているだけの感じになってしまった。
(・・って、わかりにくいな?)
その上、一曲ごとのお辞儀、拍手、というお決まりのセレモニーもないから
なおさらに聴いている方は、音楽が立ち上がるその場に直面しているにも
かかわらず、「ちょっと他人事」(この音楽の当事者ではない)のように
感じてしまったのではないかな〜? あ〜、拍手というのはきっと
ただの決まり事だからしてる、ってだけじゃないんだな。
(居眠りの言い訳か?)
一曲ごとに挨拶をしないのが通例なのか、あの日何か事情があった
のかは知らないしそれが重大というわけでもない。
もう大分経っているので正確でもないだろうし、
ラトリー氏にはすまないんだけれど、こんな風に感じた。
「うた」ではない、器楽曲なんだけれども、「息継ぎ」が感じられないと
特にライヴでは、きつい(?)のではないかな〜?と。
人間は本1ページさえも、一度には認識できないのだから、
あるていどの「纏まり」を作ってもらわないと・・・。
音が鳴り響いているときだけが「音楽」なのではないっていうか、
うまく言えないんだけれども「間」も、また何かを語っているんじゃないかなと。
(ぐっと止めるとか、切るとか、単純なことじゃなくて〜?)
たとえば、ヨーロッパのバイクのデザインで優れている点という話で
エンジン部分のパーツ、その一つひとつの重なり合いが何とも言えず
美しいのは、単にパーツのデザインが優れている、だけなのではなくて、
そのパーツによって切り取られる「空間」まで考えてデザインされているからだって話。
(ホントかどうかは知らない)
それは、「パーツ自身」と、パーツによって切り取られた「隙間」との
「空間構成」の見事さなのだ。
それをバイク自体(パーツの形状ばっか)見つめて、具体的なカタチのほう
だけを追いかけてると、その美しさの秘密には永遠に気付かない、という
仕組みになってたりして。
「ルビンの盃」みたいに一方が他方の図柄の「地」となってしまうので、
一度に、両方一緒に認識することはできないけれども、双方ともちゃんと
意味を持っていて、初めから両方ともそこにある。
なんだか分かんないけど、人間は、それをなんとなく感じることは、できている。
でも感じてはいるんだけど、これは「盃」だって決め込んだ頭で見つめてたら、
そこにちゃんとあるハズの「向かい合ってる顔」には、永遠に気が付かないっていうか・・?
(・・とか理屈みたいなものをつけてみたが、変?)
パーツのデザインだけにきゅうきゅうとしていては、日本はヨーロッパにはかてん。
(なんのはなしぢゃ・・?)
最後の「即興演奏」はおみごと。即興であんなふうに演奏できるモン
なのかな〜、すごいや〜。(←こども)
主題は書類封筒に入れられて、彼の元に運ばれ、その場で開けられる。
(まるでマジックショーみてえ)
演奏された主題は「・・・ハアルノオガワハ サラサラユクヨ〜♪」
会場から思わず笑いがこぼれる。
だが、演奏が始まるともう笑いなどない。主題は前後に分けられ
「ハアルノ、ハアルノ、ハアルノ・・」と次々と新たな声部に現れていく・・・。
「ハアルノ・・」ようやく「ハアルノオガワハ、ハアルノオガワハ・・」
調も変わっていくのでもう原型の歌の印象はなくなってしまう。
「・・・はるの小川が、どないしたちゅーねんんっ!!」
と言いたくなるのも無理はない(おいらが)。が、ラトリーの所為ではないし、
彼はちっとも悪くない。
日本人なら誰でも知っている童謡をテーマにして即興曲を演奏するのは
良いサービスかもしれないが、おいらたちは「ハアルノ・・」という旋律を
聴くと自然に頭の中で「・・小川はサラサラ行くよ」と歌ってしまうのだ。
ところが演奏はそうは進行しない。「アラ・・?」
当然だけれどもこれは彼には不利だ(でもおいらが勝つわけではない)。
もっともこれに不満を言うお客もいなかっただろうけど。
演奏はすごかったし・・・ね。
その国の誰もが知っている旋律を素材にするときはもうすこし
配慮があればな〜とか思ったけど、そこまで言うこともないかな。
それよりも、ふと「問題だぜ」と思いついたのは、全く関係ないけど
外国の演奏家が日本の民謡や童謡を演奏したCDを聴くとき、
あまりに配慮、心配りがない、と思うことが多い(目立つだけ?)ように感じること。
(ラトリーには関係ないですな)
「あんた〜、日本のココロ、なにもわかっちゃねーよ!」みたいな演奏ですのさ。
「無理言っているよ」と言うかも知れないケド「ウケ狙い」だけのアルバム残す
ほうがカッコ悪いと思うけどな。(そうは言ってもね〜。お仕事だし)
最も、そんなこと言うんなら、外国の音楽聴いて分かったふうのおいらの
方こそ、「まるで分かっちゃいねー」のかもしれないしな。(あるあるある〜っ!)
ここには「クラシック音楽は高尚で、ポピュラーは低俗」という話と
「ある民族の音楽は他民族には演奏し得ない」というお話が関係してくるような
気がしないでもない。
藍川由美氏(この人の、しんどい手仕事を厭わない、研究態度には敬意を表する)
の「演歌のススメ」って本の中で、古賀メロディーをウィーンで録音するシーンが
冒頭に出てくるんですけど。(この人のCD一枚だけ持ってる)
藍川氏がまず《愛の小窓》(日本的なコブシのきいた歌)を歌う。すると、
ウィーン・シュランメル・アンサンブルのメンバーが
「このメロディーはどこにアクセントが来るんですか?」と訊いてきた、と
いうのですな。
藍川氏によれば、「日本のクラシック畑の演奏家だとこうはいかない・・・」と。
「えーっ?! 古賀メロディーですかぁ?」
今まで高尚なクラシック音楽を学んできた自分に古賀メロなんか・・・。
『ところがクラシック音楽に精通し、さまざまな民族音楽を弁別する能力を
持った彼等の場合は違っていた。(中略)それぞれの音楽に相応しい演奏を
心がけている彼等だからこそ出てくる、核心を突いた質問だった』
(藍川由美『演歌のススメ』)
そこで藍川氏は『日本の伝統音楽は仏教声明の影響を受けており、
和音に重きが置かれず、主に単旋律に装飾を付ける形で発達してきた』
『コブシの多用される曲には〈ユリ〉〈ソリ〉〈スカシ〉〈マワス〉といった
声明の旋律型が発見される』
『たとえば〈マワス〉という旋律型は、音が一つだけ下がるときは下がった音
を強く押し出すように演奏し、一音ずつ連続して下がる場合にはアクセント
を付けないで滑らかに演奏する』と彼らに説明します。
「いつもですか?」「はい・・」
はたしてアクセントの位置を変えただけで、彼等の演奏は一変した。
「日本の音楽は面白い」と無邪気に新しい発見を喜ぶ彼らを見て、
『音楽をやって来て本当に良かった』と書いておられます。
初期の古賀メロディーが「ジプシー短音階」を使っていたとか、かなり
革新的な手法、異民族の音階などを使用していたりする話も出てきますが
それはまた、別のお話。
なんか、示唆的・・・?
その国の民族音楽を他国の演奏団体とかが演奏する場合も多いと思うけど
たんなるサービスにとどまらない演奏する側にも楽しいやり方ってありそう
な気がしません? サービス演奏だからって、悪いとは思わないけれども。
お:「後半よかったよね」
友:「聴き応えがあったよね」
お:「オルガンもバッハ、バロックだけじゃないね。不明でした」
本当は、「箱モノ」行政の延長線上に、地方のオルガン導入があり、
せっかく導入された楽器が生かされていない、という話。
お笑いで済まない「東京芸術劇場」の故障ばっかりの、回らない
「くるくる」ガルニエ・オルガンと助教授の陰謀、って話まで
いきたかったんですけど(あれ、ビケ♪さん聴いたことあります?)
戦争が始まるは、おいらのマックのOS9入れてたボリュームが起動し
なくなるは(これには往生した。ネット、メールはOSX(テン)で
起動してやってましたけど。マックユーザーでないと分からないかな)
システムディスクからも起動しないし、ハードの故障ならしょうがない。
本当に修理に出そうかと思ったほど。
三日悩んで、どうしようもなかった。ダメ元でネットの救急箱の掲示板で
皆さんの知恵を頼ろうと、もう一度症状を再現確認しようとメモしながら、
あれこれケーブルハズしたり、ハードドライブのマスターとスレイブ
入れ替えたりしてたら、「CD-ROMから起動した・・・ほっ!」
それからの復旧は手間だけの問題でしたけどね。
こんな風に「トラブル本」にも載ってない症状に何度も出くわし、
それを克服することでパソコン使いは大きくなるのねん!
友:「全く関係ない話になってるぞ。全然、話盛り上がってないしさ」
お:「今回も尻切れトンボじゃわい。今回はいろいろあれり、で。
ラトリー、ぶっとんじゃった。次回は『宮廷サロンコンサート』編か
戦争か?それとも ラーメン話かな。大迷惑、混乱編だ〜。何見てんだよ?」
友:「あほを、ひとつ・・・」
タイトル:「高き御空より我は来たれり」
「ウィーンからの風〜」
ミヒャエル・ラドゥレスク・オルガンコンサート(なんだなんだ!?)
ドイツ式リコーダー番組の途中ですが、臨時ニュースです。
たけどんが、性懲りもなく、前非を悔いることもなしに、
またもやオルガンを聴きに出かけましたとさ。
報道部では急遽、番組を変更してその顛末をお届けすることにいたしますさ。
いや〜、一週間も二週間もおくと忘れるんでね〜
そんなわけで、報道特別番組「たけどんにウィーンからの風(ひょ〜)」
こんどはよー、真っ正面で聴くぜ〜!
一階アリーナ席だぜい! チケットセンターに、てる〜(tel)!
た:「もしも〜し、5月11日のオルガンコンサートのチケット、
ありますか?」
ち:「はい、ございます。」
た:「あの〜、一階席お願い、いたしたい・・」
ち:「お客様には、御二階の席をお勧めしておりますが・・・」
た:「いーえ、一階席がいいです」
ち:「それでは、後ろの方のお席をご用意いたします。前の方ですと、
楽器を見上げるような形になりますので・・・」
た:「そーですか。それならそーしてくださいまし」
ち:「真ん中ほどの席で?」
た:「真ん中!よしっ・・・」
証券会社のおすすめ銘柄など買うべきではない。
証券会社はおいらのような小口の客になど有益な情報はくれない。
所詮、大口しか眼中にない・・・みたいな。
というわけだが何だか、お客の希望にけちをつけたいのか、
本当にオススメなのか分からないが、二階席はもう経験済みなので
一階がいいのだ。
一階席は、全14列、566人収容、アリーナ全体が前に向かって傾斜しており
後方の席だと、楽器の位置はちょっと上目遣いで見られる高さになる。
12列目「ベストかもよ」。
7列目から前の席は誰も座っていない。ということは一階席は
半分の席、280人分だけ売り出したのだな?
二階席は半分から後ろ方向は、ほぼ満席。
三階席は、左右を見げてもガラガラ、誰もない(実は最後方にはいた)。
一階席も(売り出した席の)七割ほどが埋まっているが、
おいらたち(友人も一緒)の両隣は一席づつ空いているくらい、
ちょうどいい感じの入りだね。
オルガンからもさほど遠いという感じはしない。演奏者のペダルさばきも
見えようってもんさ。(それが後においらに笑いをもたらし・・そうになる)
午後四時からの開演まで、もうすこ・・・っておいっ!
いちばん前の席の、ど真ん中に二人、座ったじゃんかぁ〜!
彼らの周りには人っ子独り、いない。約280人座れる座席空間
(一階席の前半分はガラガラなので)ににたった二人。
「目立ってるぜ〜」。きっと、チケット買う時になんだかんだ言われ
たんだろうけど「押し通した」のかもしれないな?・・というと友人は、
「ホールの人じゃねえの?」
「あ?・・そういうこと、もあるのかい、な」
開演ですよ〜。ラトリーの時のように真っ暗にはならない。
パンフレットが楽々読めるくらいの照明は残っている。
ラドゥレスク氏入場。コンソールが一層明るくなり、氏にスポットライトが。
助手は、ホール専属オルガニストの和田さんかな。
サブタイトル「スペインとドイツのオルガン音楽」
プログラムは、前半アラウホ2曲、カバニーリュス3曲、ブクステフーデ3曲。
後半はバッハのみの3曲、で構成されとる。
前半、後半とも約1時間で間に20分の休憩を挟んで、総計2時間半の予定。
さ〜、たけんどんたちは、この長丁場を、はたして乗り切れるのか?
(それとも、やはり前回の二の舞か〜?)
アラウホの「第6旋法によるティエント第3番」から始まる。
モラーレス作曲の「バタリア」に基づく・・・と書いてあるけど、
聴いたことのある旋律、これは・・・クレマン・ジャヌカンの
シャンソン「La Guerre」(戦い)で出てくる旋律だ〜。
モラーレスって、ゲレーロとかと同じスペインの人だっけ?
売れた(っていうか)有名な旋律なんだろうな。
次は「第4旋法による・・」って、「旋法」なんかわかんないっ!
こいつらの曲はみんなそう!「第○旋法による」がはずせない。
きっと会場中のみんなが「半狂乱状態」に違いない!
「旋法って何かしら、こまったわ〜」とか、
「旋法ってしろモンが、しっぽりわっかんねえんだよあにきーっ!」みたいな。
素人に突然「旋法」ときた日にゃ、いきなり後ろからどんきのよーなもので
殴られたり、バールのよーなものでこじ開けられたりした気分だぜ〜。
ほんと困るよなっ! (おまえに困るよ)
ここの「グレンツィング」もスペイン製の楽器だから
アラウホやカバニーリュスと相性がいい、とは単純にはいえんはな。
「第5旋法によるバターリャのティエント」なんか、水平トランペット管のみ
の演奏で個性的で分かりやすいけど、レコードなんかで個性的な楽器の
リードストップの印象が強いので、その演奏にくらべると、なんか優等生的。
演奏がスムーズでなめらかなほど、そう思えてくる。
っていうか、曲自体になじみがないから、曲の構造も分からないし、
峻別が出来ないからなんだろうけどね。
ブクステフーデのコラール幻想曲「いざ喜べ、愛するキリスト者よ、共に」
こ、これは・・・なんだ?
次から次へと新たな手法が繰り出されてくるゾ。
まだまだまだまだ・・・。ひとつふたつの変化に驚いていると
「はあっはっはあーっ!まだまだこんなものでないぞお」という
ブクステフーデの「半笑い」の顔が見えるようだ。(半笑い?)
ラドゥレスクの左腕がスッと伸びたかと思うと、
「からころからころしゃんしゃんしゃん・・・」
ついにツィンベル・シュテルンまで回したか〜。
様々な技巧の集大成のよう、コラールの扱い方、音楽の構造的にも楽器の面でも。
だけどぉ・・・。
「パッサカリアニ短調」は、う〜ん、バッハのパッサカリアをおいたちは
知っているだけに、ちとつらい。
バッハのパッサカリアに比べると「習作」という感じがしちゃうんだな。
コラール幻想曲でもそうなんだけど、技巧の見本みたいで、
バッハのような、曲全体を貫いているもの、統一感がいまいち感じられない。
だから散漫な感じがするし、訴求力という点でもバッハの作った同様の曲とは
勝負にならない感じ、決して出来が悪い曲ということではないのだがなー。
興味深い曲ではあるけれどね。
「プレルディウム(プレリュードと解釈してもいいかな)ト短調」
トッカータとフーガじゃん、これ。
トッカータ、フーガ、フーガ、トッカータか。
これは、いいや。こういう厳格な曲は上手いなー、さすがだなー。
みじんも揺らぎっていうか迷いがないのね。
鍋島元子さんの「平均率クラヴィーア第一巻」のプレリュードを
聴いた時みたい。同じ音型の繰り返しのようなのに、単調ではない。
流れがうねりを生じて、まさに音楽が活きてる。
そして音の流れが強固な意志で統一されていて、
その推進力に「迷いがない」ことが気持ちいいくらいに分かるんだ。
そうすると聴いている方は、安心して音楽に身を委ねられるっていうか、
心を開いて音楽が訴えているものを受け容れられるようになるってもんさ。
前の列に、結構ご年配のご夫婦がおられたんだけれど、
「プレルディウムト短調の」最後の部分に来た時、奥さんの方が
すっと、両手を顔の前で合わせたんだ。・・・拝んだのか?
いや、もしかすると、女性がよくやる(か?)口の前で手を合わせて
「あらあらあらま〜」ってやつかもしれないが・・・。
なんかその気持ち、分かったような気がっていうか、共感するな(後述)。
その隣のだんなはんは、しっかり寝てるようだったけどね。
「ここで20分間の休憩を・・・」というわけで、そとそと。
「いや〜、通奏低音がわしを引きずり込もうとしたな」
「そりゃ、オルゲル・プンクトで、バッソ・オスティナートが・・」
とりあえず、眠らなかったトーヘンボクどもが、よく知りもしない
専門用語をまきちらしている。
こういうやつら(おいらたち)殺すにゃ刃物はいらない。
「旋法ってなに?」と聞けばよい〜。
「いや、娘が留学したウィーンで・・」とか自慢げに言っているおやじにゃ、
その後ろに回って「突然ひざカックン」してやりてえっ!
しかし、いっぱい入ったよなあ。年齢も千差万別、老若男女がごっちゃまぜだ。
コーヒーに列をなしてるぜ〜。200円だぜ〜。かみコップでだぜ〜。
げっ、ワイン呑んではる〜(400円)。黒いドレスを着た妙齢の女性が、
まだ日も堕ちていないのにい。スカしてるぜー。
いや、色々だな。おいらたちみたいにジャンパーに綿パンにスニーカー
のやつもいれば、コンサートだか、デートだか目一杯カッコ、キめてる
人もいるし。
・・・おまえら全員前向いて並べ! 全員「ひざカックン」じゃ〜っ!
「おい、何かのも」・・・おいらたち二人は、
スカした連中を尻目にカウンターの脇にあったピッカピカの
冷水器のボタンを押して、めいっっぱい水道水(タダ)を堪能してやったゼ。
・・・し、しまった。一回で終わらせるつもりが、また余計なこと
書きすぎて、前後編になっちまった・・・というわけで、
リコーダー編も控えてるので、今回はビケ♪さんのレスを
待たずに後編に突入・・の予定ですが、どうなるかは、ワからナ〜いですな。
(は〜、後編につづく)
タイトル:「高き御空より我は来たれり2」
ビケ♪さんに、速攻でレスされてひまいました。
こんな、ごちゃごちゃグズグズのカキコにご返事いただけるだけでも
「おおきに・・・」ですのに。
間があくということは、ビケ♪さんの、良く読み込んたうえで
レスしようということ、人間性の現れなのだと理解いたします。
こちらも遅くなっても「ちい〜とも」気にしませんし、
お互い、書ける時に書くということで、いきましょ〜よ。
というわけで早めに書いちめえってわけだったんですが、あれですな。
記憶が鮮明な内に書いとこうと思ったんですけど、なんか
やっぱ、しばらく寝かせておかないと味わいのある文章が出て
きませんですな。(いつもは味わい、出てるってゆーのか、あ〜ん?)
といって、寝かせっぱなしだと、ディテール忘れますしね。
難しいところです。おいらの頭の中に残ってる記憶、印象中心で書いて
おりますので、結構間違い、勘違いも多いかも?(あ、プログラムもあった)
メモでも取らんとアカンかも(そこまではね〜)。
た:「しかしさ、演奏台の椅子さ。正面で見て初めて気がついたんだけど、
横長で座るところの下に横木が走ってるじゃん」
ゆ:「だからなに?」
た:「けっこう幅広のさ。ラドゥレスクの燕尾服のしっぽが下に垂れてる
じゃん。でさ、ちょうどふくらはぎの部分を横木が隠しちゃうわけ、
でも、黒い足首から下は見えるんだよな」
ゆ:「んで?」
た:「だからさ、隠されたふくらはぎが、横木の木の色で遠目に見ると
肌色に見えてさ。まるで・・・結婚式の朝、礼服の上着と靴下
だけ履いて、ズボン履いてない状態のお父さんがさ。そのまま
オルガン弾いてるように見えた」
ゆ:「だーっはははははあ〜っ!」
・・・不謹慎なーーーっ!!
会場中をふらついていた時には気付かなかったが
別の友人が家族連れでこのコンサートを聴きに来ていたらしい。
彼はコンサートの前に行われたレクチャーにも参加していたという。
席は三階の最後列席。三階席も真正面の後ろは売り出していたんだね。
むこうも、ひょっとしたら「おいら」がいるんじゃないかと思っていたとか。
おねーちゃんが、ピアノやってるからな。情操教育に熱心でよい。
今度「ふじコへみんグ」だかいう(しらない)ピアノ弾きのコンサート聴きに
行きたいと言っていたが、おいら的にはお勧めしない。
それだったら、インマゼールのフォルテピアノの方がタメに
なると思うな。ま、あくまでおいらの個人的な見解だけども。
子どものころから、本物とまがい物、ごちゃまぜの環境にいると
ものの正偽の違いが分からなくなる(かもよ)。
子どもには出来るだけ「ホンモノ」を与えたいですわよねえ〜(にんぎょの久月)
(これは次のリコーダー話にも関連してくるんだけど。
え? 別に、ふじこ某がニセモンだとは言ってねーぜい)
席に戻る時、それとなく一階席の最前列に陣取った2人を見た。
「どーも、一般人みたいだね」「・・ああ」
なんか、ちょっとうらやましくなった。「あの席、面白かったかも・・」
う〜ん、ま水平トランペットは頭の上を越えて行ったかも知れないが
最前列でライトアップされて銀色に輝くオルガンを見上げながら聴く、
っていうの、イイかも?
音響的には疑問だけどね。
あ、後半のバッハは、5曲でした。
「トッカータ・アダージョ、フーガハ長調」、「ソナタ第3番ニ短調」
「コラール・パルティータ『恵み深きイエスを迎えよ』」、
「バビロン河のほとりで」、「前奏曲とフーガ変ホ長調」
「トッカータ・アダージョ・・」はアダージョが、リュックヴェルク
(=本体〔ハウプトヴェルク〕から分離された小オルガン、
ココでは演奏台の両脇に分けられて立ってる、
パイプの並んでる、左右2つのハコ。もとは
演奏者の背面に位置し、会衆からは演奏者が
見えないようになっていた。背負うからリュック?)による演奏。
ただでさえ、前後の楽章とアダージョでは性格が正反対なのだが、さらに、
前後のトッカータ、フーガが、大オルガン(ハウプトヴェルク)による演奏、
アダージョがリュックヴェルク(ポジティフ)ということで、
音響の対比を狙ったんだろうけど、みんな分かっただろかいな?
「(トリオ)ソナタ第3番」では真ん中のアダージョが安定を欠いてた。
え? ゆっくりな楽章で何カ所かふらつく箇所があったけど? ミスかな?
3楽章目のヴィヴァーチェになると安定を取り戻したって感じ。
アクションの問題かも? メカニカルじゃない、ニューマチックや電気式
を使ったものだと弁開閉の後れがあったり、微妙なタッチの表現ができないとか
聞いたことがあるけど・・。ゆっくりな楽章でそれが起きたということは、
ミスじゃなくて、そっちの問題だったのかもね?
コラール・パルティータ「恵み深きイエスを迎えよ」BWV768
「バビロン河のほとりで」BWV653b
BWV768は今回のコンサートでのまさに圧巻。さいこ〜。
これとブクステフーデの「プレルディウム ト短調」だけで、おいら満足。来て良かった!
「バビロン河」のプロの解説に「二重ペダル奏法」って書いてあったけど、
なんのこっちゃい?と思っていた。あ〜、全5声部のうち、マニュアル3声で
なんとペダルに2声部をもたせるってことなんだ〜! どびっくり。
コラール・パルティータはみんなバッハが若い時の作品だとか。
彼はがんこで融通の利かないっていわれるけど、若い頃から真面目だった
っていうか、なんか自分の使命みたいなものを自覚してるってところがあった
のかな。なんかBWV768が若い時の作品だって・・・すでになんだか
技巧におぼれてとかいう若さみたいなものが、ない。
もう作品を貫く意思がすでにこの曲には厳然としてある(ように思う)。
ブクステフーデが「あれもできる、こんなのもできるよ〜ん」(失礼なっ)
と演繹的に広げていく感じだとすれば、バッハは「あれもこれも使えるが、
すべてはひとつの目的のために」という帰納的な感じがする。(違うかも〜)
様々な変奏に果てにたどり着く、最後の全開オルガンによる第11変奏・・・
「効いたぜ〜!」
ブクステフーデの時、思わず手を合わせた(どういう気持ちだったか知らないけど)
女性の気持ちがわかるな。まったく信仰心のないおいらでもね。
もしここで演奏者が立ち上がって振り返り、皆に呼びかけたとしたら、
全員が一斉に・・・
彼は「天から降りてきた何かの化身」と思うかも?
・・・なんて考えた。
現在は演奏者がアーティストとして扱われ、演奏スタイルなども
パフォーマンスとして鑑賞の価値があるから、このホールでも演奏台が
見えるよう、リュックヴェルクは2分割されて演奏台の左右に分かれて
配置されているけれど・・・。
昔、そのリュックヴェルクなどで演奏者が会衆の目からは隠されていたのも
宜(むべ)なるかなだなあと、勝手に想像してしまった。(別の理由かも?)
「オルガニスト如きが、必要以上の関心を会衆から持たれるのは良くない」
みたいな?
「前奏曲とフーガ変ホ長調」
このフーガが三重フーガでそれでもって「三位一体」で、イギリスでは
「聖アンのフーガ」って呼ばれている? なんで?
主要主題から第一副主題、第二副主題が導き出されているって、ラドゥレスク
の演奏聴いて初めて分かった(気付いていなかった)。しかも主要主題が
第一、第二の副主題と結合される時、「性格」が変わっているっていうこと。
これは、リズム、フレージングじゃなくて、
アーティキュレーション(音の切り方、滑舌)?
これがオルガニストの力量なのか・・・。
あ〜、アラウホ、カバリーニェスを鑑賞できる耳を持ってなかったことが
つくづく残念。
拍手拍手、あり? 引っ込まない。リュックヴェルクの陰に入ったまま。
あ、出てきた。おじぎ、おじぎ、拍手拍手。
リュックの陰へ・・・出た。おじぎ拍手・・・あ退場した。
え? アンコールなし?
これで終わりか? あ、電気ついた。それ出口へ急げ。
いや〜、アンコールなしは初めてだな。
なんだかな〜?
しかも、ラトリーの時と同じく
いさかじゅうぞう・・・(こらーっ)。
またまた曲の切れ目に挨拶なしの、ぶっ続け演奏だったのだよ。
素人にはホント、不親切。なんとかしろ〜い。アンケートに書きたかったけど
早く車のところに行かないと会場から出るのが大変になるので割愛した。が、
誰か、書いてくれていることを期待したい。
馴染みのない曲に、切れ目も分からないとなると、
安心して聴いていられないだよな。
「ソナタ第3番」と書かれてあっただけじゃ、それが3楽章の
トリオソナタだなんて素人の誰に分かる?
プログラム見てたって、いきおい、曲の数え間違いをするのは必定である。
そして、曲のタイトルも分からない、プロのどこ演奏してんのか・・・
もう、いいや・・・で集中力も途切れる・・・
こんなんでイイの? ホントに何とかしろよ〜と言いたいっ!
たくさんの人たちにオルガン聴いてもらいたいんじゃないの?
最初はオルガンめずらしくて、あるいは有名アーティストで
CFバンバン打ってお客が集まっても、リピーターを育てない、
我慢して聴くコンサートばかりやって、どうするよ?!
オルガン音楽がよく分かっている聴衆ばっかりじゃないんだぞ!
なかには子ども連れもいるんだ(おいらの友人みたいに)。
前半中約1時間(分別が多少あるとはいえ)子どもにジッとしてろ、っていうのか?
拍手くらいさせて、区切りメリハリをつける事くらい、しろーい。
オルガン演奏会では一般的なことなのか?
たとえ、演奏者が「イヤじゃん。ダメじゃん」と言ったとしてもだ〜。
・・・とまあ、ここまでは、主に主催者側に対するご要望でした。
おいらは「お、おーとなだよ〜」我慢もちゃんとデキるよ〜。
あ、また余計なことで字数増やしちまったい!
前回のオリヴィエ・ラトリーの時に、即興演奏について
「どうぜ、三つの主題、どれを選んでも事前に準備してたのさ」
くらいに考えていたんだけど、実はそれは大間違いで、
ありゃ大サービスだったんだって、今は思っています。
「即興演奏はオルガン演奏の最高のものだ」と書いてある本を読みましたのだ。
(また図書館から借りて)
即興演奏は、「演奏する楽器の最高能力を引き出して、その場所で聴いている
聴衆が美しいと感動するように、適切な作品を<創作>しながら聴かせること」
なんだそうな。(適切な作品を・・という部分に対しては、今でも疑問だ)
というこは<会場ごとに>演奏する曲の形態は違ってくるわけで、
レジストレーションからなにから、その楽器ならではの音、
ホールで聴ける最高の音を聴かせる、というのが趣旨になるわけですな。
その為には、はどの楽器でも演奏できる一般の曲よりも、それらの特長を
引き出せる曲を創作し、演奏する。これが即興演奏の意義なのでしょうな。
そのために演奏家は作曲家としてのあらゆる勉強をする必要があって、
しか〜も、「豊かな音楽的才能にも恵まれていなければ・・・」ああああ。
「オルガン演奏のみならず、他の楽器との合奏、声楽的な訓練、
さらにオーケストラや合唱の指揮にも優れている必要が・・・・」!
「毎日八時間十時間は勉強したこと・・・」「まさに強靱な体力と
精神力と、鋭敏な頭脳とを要する仕事です・・・」って、はあ〜。
本来、即興演奏は教会において実用的なものであり、
音楽会における即興演奏は「見せ物的」であるという批判も一部にはあるようですが、
なんにせよ、「即興演奏」の意義も知らず、最初から「色メガネ」で
見ていたおいら、そして、安易な「テーマ」設定をした主催者側、
よくわかんなかっただろう聴衆にとって、
「残念、おしーことしたよな〜!」と今では思っています。
う〜、急ごしらえ(?)で書いたので、記憶違いや間違っていることも多々あるかも。
文のつながり、打ち間違いなどご容赦下さいまし。
レスの方は、ごゆっくりどうぞ〜。
では、また。
タイトル:「掌(たなごころ)の上の命」
まったくのローカル話、なんですけど。
6月14日(土曜)に、J2アルビレックス新潟vsサガン鳥栖
の試合を見に行く予定を立てていたんですな。
チケットは一月前くらいに入手していて「雨が降らなきゃいいな」とは思って
いたんだけど、やっぱ予報は「雨」。時期的に梅雨の最中だしねえ・・・。
その二日くらい前にちょっと離れた市のプールが(確かおいらの記憶では)
プール開きになってるはずなので「いってみよ〜!」と思って、
車を走らせたのですな。
おいらの住んでいる街にも屋内プールはあるし隣市にもあるんですけど
なんで、その離れた市のプールなのかというと・・・
「五〇メートルの室内プールで、しかも<タダ>無料」なのですな。(ヤッぱり)
その街に行くには何通りかのルートがあって、おいらはその日、
街を縦断して流れている川を上流へ遡って、峠(というほどのものではない)を
越えていくルートを選んだ(なんとなく)わけですな。
川を上流方向に遡って、人家が途切れた辺りのところに架かっている橋を渡ると、
道が上り坂になっていて、ここから峠の始まりなわけですよ。
橋を渡って、ぐーっと緩い坂道を上っていくと、昔スキー場だった公園があって、
そのすぐ先に路側帯がぐーっと広がっていて、バスの停留所(だったかな)
みたいな場所がある。
そのもうちょっと先からは、下りになっているんですな。
橋からそこまで車なら10分もかからないくらいですから大した難所ではない。
その橋をを車で渡りながら「あー、お茶のみて」と感じたので、
自販機でお茶を買おうと、当然思いますわな。
ぐんぐん坂を上って元スキー場を過ぎると、バス停みたいな場所に
ドリンクの自販機がおいてある場所がある。
そこは昔は売店だったのだろうが、今はもう閉めちゃってて、
建物は残っているけれど動いているのは前に置いてある自動販売機だけ。
そこはおいらの進行方向に向かって、右側にあるわけです。
そう交通量が多い道ではないので(大型ダンプやすっとばしている車もいるが)、
ウインカーを出してバス停(のような所)の丁度、自販機の前の当たりに車を止めて
ドアを開け降りようとした、その時。
「にゃあ〜・・・」という猫の声が耳に入ったのですな。
「ぎくぅ?」と思って窓の外を見ると建物の方から一匹の猫が、ててててて・・・
と歩いてくる。そしておいらの車のドアの近くに来ると「ぴた」と止まり、
おいらの方を見上げて「にゃあ・・にゃあ・・にゃあ・・にゃあ・・・(と続く)」。
しばらく、おいらその猫を見たまま、猫もおいらを見たまま鳴き続け、という状態。
おいら猫きらいなんだよ〜。子どもの頃引っ掻かれたことがあってさ〜。
その時おいら、半ズボンだったし「すねとかふくらはぎ引っ掻かれたかなわん!」
と反射的にに思って、車降りようかどうしようか迷ってたわけだ。
で、おいらがドア開けても逃げる素振りも見せない。ただジッとおいらの方を見て
「にゃあ・にゃあ・にゃあ・・」と鳴き続けてる。
「け飛ばしてお茶買うか? ここ過ぎるとだいぶ先まで店はないんだよな」
とか思いながら辺りを見回してみると、なんと!
建物右端の外壁の下端と基礎のすき間から・・「子どもがいたのか・・・」
小さな子猫の顔が、そのすき間からいくつか見え隠れしている。
何匹いるのかはっきり分からない。顔を見せたり、もぐったり・・。
「にゃあ・・にゃあ・・にゃあ・・」
「・・・あ〜、エサが、ほしかったのだな。 そうか・・」
だが何もない。プールへ行く途中だからお菓子なんかもないし、第一お菓子なんか
食わない。ここは峠の頂上だし街へ戻るのも、先へ進んで店のあるところまででも
同じくらい結構距離がある。何か買ってここまで戻るには2、30分はかかる。
おいらはウインカーを上げると鳴いている猫の方を振り向かずに
車を発車させた。「かかわったら、それだけ帰りが遅くなるぜ」
だが、実はまだ迷っていた。
10分ほど車を走らせてとある交差点で決心を決め、そこをコンビニ
のある方向へ曲がって店の駐車場に車を入れた。「猫って、何食うんだろ?」
イカフライ・・・はだめだ。たしか猫はイカが食えないはず。
ねこ缶は「高い」。おいらは「チーズ鱈」と「甘栗むきました」とかいう
のを買うと、もと来た道を戻っていきましたとさ。
あの場所に再び車を停めると、やはり親猫が鳴きながら近づいてきた。
おいらは車から降りて「チーズ鱈」の袋を取り出した。
親猫は立ち止まっておいらのすることを見ている。
袋を破って広げ、そのまま地面の上に置いた。すると、親猫が近づいて
食べ始めた。・・・って「まず、オマエからかいっ!!」
「腹が減ってたんだな」
すると、ちびどもが建物のすきまから出てきて、こちらへ近づこうとしている。
一匹が親の所まで来て一緒に食べ始めた。しかしあとのやつらは来ようとしない。
「おいらがいるからだな」そう気づくとおいらは、むき栗の袋を開いて下に置いて
車に乗り込み、車の窓からその様子を見ていた。
出てきた出てきた。3匹、4匹、5匹だ。どいつもこいつも小さくて
おいらの両手の上に、ちょこんと載りそうなくらいの大きさなんだ。
4匹のちびが親猫といっしょに夢中になって食べているのに、一匹だけ
建物の壁でむずかったり遊んだりして来ないヤツがいる。
そいつは他のヤツらが親と同じトラなのに、
そいつだけちょっと色が黒っぽいんだ。
おいらは10秒ほどその様子を見たあと、その場所を走り去った。
「ぷーるだ〜。ただのぷーるだー! 50めーとるだ〜!」
その後、20分ほど走って目的のプールに着いた。 〜入り口に張り紙。
「当プールは6月22日からの開始となります」・・・
うっそおぉ〜んっ!! 確か去年来たときは、5月の下旬から開始だったじゃあんっ!
「おいらここまで何しに来たのよ〜!」
帰りは、来たときの峠の方を通らずに別の道で帰った。
あの猫たちがどうなったのかは知らない。きっと何度か同じようなことを
して、そのうちの何人かからエサをもらったことがあったのだろう。
おいらは良いことをしたとも思っていない。
おいらは猫好きではないし、
動物好きですらない(かもしれない) 。
ただエサをほしがる親の真剣な姿(に見えた)、それにあの時は動かされただけだ。
そのあとの事はおいらは関知しない。
でもあの橋を渡ってからあの場所までに2カ所、自販機がある場所が
あるんだよね。どうしてあの場所で買おうと思ったのか・・?
呼ばれた・・・? 違う。「あそこが一番、車が停めやすいからだ」。
14日は朝から曇り。「降るかね〜?」
午後2時からのキックオフ。新潟市内で昼飯食って1時過ぎにスタジアムへ
着く。すでに駐車場はかなり埋まっている。
「こりゃ帰りに駐車場から出るだけでも大変だ」
確か友人たちが来たときには駐車場から出るだけで1時間くらいかかったという。
その車の中で先日の猫たちの話をしていた。
車を降りてスタジアムの方へ歩いた。5分から10分は歩く。「晴れたね」
「おお、青空の中で猫の親子が笑ってるじゃん。ひょっとしたら
氏神サマの化身だったかもよ?」
「そーね。はははは」氏神サマのよーなローカルな神様が
かなり離れた
ま〜、気は心だ。
トレーナーを脱いでTシャツになるくらい、暑かった。
ところがゲーム前半終了の頃になると雲が出てきたんだな。
ゲームは1-0で鳥栖(とす)がリード。
ハーフタイムでチアリーダーズのパフォーマンスがある。
結構スタンド近くの席なのだが、フィールド中央での演技。
やはり離れているのででビジョンに映っている映像で楽しんだ(えへへ)。
これは全員が自分の演技に自信を持っていないとできないな。
だれかが「これだけいるんだから、私がちょっとくらい手を抜いても・・」なんて
考えていたら一発で分かっちゃう。流れ(シークエンス・ダンス)はまるわかりなの!
(そんな人いなかったけどね)
タイムの終盤に、5,6人のチアリーダーが、大きなハタ持って、トラック一周したの
さ。
これには「ほおお〜」と正直おどろいた。
なんでって?・・・ あなた、大きな旗竿もったまま400メートル走れる?
(おいらは出来るよ、きっと)
ノンストップでよ。先頭を走っていたおねいさん。
ほかのメンバーぶっちぎっちゃって
最後スピード落としてた。たいしたもんだ。
相当鍛えてるよ、ありゃ。
しかしサポーターってスタジアムの現場で見ると、
同じ色でうごめいていてなんか「異様な生きモン」みたいだよな。ホント。
ゲームは後半で1点返して同点。さらにフリーキックを決め2点。これで逆転だ。
終了の10分前になったので席を離れ、出口のドア近くで終了を待つ。
ここのほうが上から俯瞰で見られるからゲームの動きがよく分かるな、かえって。
「勝ったっ! 2-1」ホイッスルと共においらたちは、出口から駐車場へダッシュ。
もうすでに試合終了前から動き始めていた人は大勢いたね。
時々早歩きになりながら、車のある場所へ着いて乗り込む。
すでに多くの車が動き始めていて、整理員が誘導している。
出口へ向かう流れは、駐車場中央一本、それが先で左右に分かれて2カ所の出口へ
むかう。そこに、あちこちから枝分かれした川のように、車が中央で合流して
出口へ向かおうとするし、それを縦断するようにスタジアムからでてくる人と
交差するしでもう大変。
「あ、雨」車に乗って1,2分もしたら、雨が降り始めた。
この駐車場の車が全部はけるには1,2時間はかかるな。
おいらたちは20分ほどで駐車場からでることができた。「ま、早い方だろな」
雨は止む気配はない、通り雨ではないようだ。
「助かったね」駐車場出口にある交差点の信号待ちをしながら、まだ車に乗り込もう
と
して走っている人や、出口への列に並んでいる車を見ながら「ふ〜」。ホントだね。
べつに、猫たちが天気にしてくれた、と思っているわけでも、
動物にやさしくしよう、とか言いたいわけでもない。
ただヤツらとは、あの日あの時<縁があった>のだ、くらいには思っているってだけだ。
「縁はだいじにしよー」ってか?
神様でも仏サマでも、まーいてもいいかもしれない、っていうか
「世の中、ワカラナイことってあるよな」ていうことでしょうな。
でも、ご親切にも、その原理とやらを説明してくださろうという人々には
「もし神様ってのいたとしても、その神ってのがナンで、アンタのゆー神様なんだ
よ」とか
「ナニを根拠に『この本に書いてあるとーり』なんだよ」とかツっこんで生きてい
きたい!
そんな<アリガタイ>ものには、カネはださんぞ〜。
車運転してても、「今日は、ナンカ違う」とか「へんだ」と思うことはある。
車の流れなのか、おいら自身の感覚なのかワカラナイが。
他にもなぜこの道を選んだのか? 今日に限って。とかは、ままある話。
おいらは意外と、そういうのを大切にしたりする。「今日は一層注意しろ」ってね。
そーゆー自分のセンスをばかばかしーで片づけなかったりするよーな、意外に小心者
だ。
でも、おいらは車にお守りとか一切付けていない。自分自身も持たない。
(でも墓参りにはいく!)
む〜。おいらの場合、自分のアタマの理屈で出した結論より、「え、なんとなく選ん
じゃった」
というときの方が結果的にヨカッタ、ということがある(多いということではない)と
は
なんとなく、感じているのだけれども・・・。
まだ夏前だし、ふしぎワールドなお話はしないどこ。
タイトル:「晴れても、曇っても」
音楽の花束vol.12 「ああ、私はこんなに傷ついて」
バロック音楽の扉を開いた音楽家たち〜2〜
なるほど、なるほど。
リュートストップとハープストップは別物であって、
構造的に多重の機構を持つことになるリュートストップ
を備えている楽器はそう多くはない、ということですね。
すると、あの本の記述の意味するところというのは、きっと
「リュートストップとハープストップを混同している本、あるいは人がいる。
または、その機能を取り違えている記述を見受けることがある」
ということなのでしょうか。
プロの演奏家の間では、ちょっと考えられないことなのでしょうが。
(確かに、その文章は「ハープストップの機能」に関しての部分でした)
リュートストップの効用については、何となく分かる気がします。
おいらもギターを弾いていたので、サウンドホールよりもよりブリッジ(駒)に
近い部分を弾くと張りのある金属的な音(ギターの場合)になり、ブリッジから
離れるほどマイルド(?)に変化していくので
弦をはじく位置により、音響が変化することは実感しています、のだ。
かく言うおいらも、その「ハープストップの機能」をリュートストップ
のそれだと思っていたのだから驚きだっ!
きっと、こういう細かい誤った知識をたくさん持っているくせして
<うんちくたれたがりの素人>・・・それが「だけどん」の正体なのだ。(見切った!)
おいらがそう思ったのも、
確か本で「弦をフェルトで押さえることによって、
響きを押さえリュートのような音響を・・・」って記述を読んでよりこの方、だし。
(その犯人本は『音楽を聴くオーディオ再生』だったネ)
ビケ♪さんに教えていただくまで、それをそのまま
これがリュートストップの意味だと今の今まで信じてきたのだ〜。
本当だ! どうしてくれるんだ? 失われた時間を返せ〜。
返すなら利子付けろ〜。高利回りでよーっ! ハァハぁはァ・・・・(←あほ)
曇った天気もおいらは嫌いではない。
開場まで1時間ほどあったので記念館の庭園を散策してみる。
中国風の石造りの門があり、所々にこれまた中国風の東屋がある。
その先には
諸橋轍次(昔、漢字の辞典を作った偉い人)の生家が復元されて残されている。
昔の家って、こんなだったよな。
間取りが狭いよね。それに暗いし。
天井も低くて、これじゃ討ち入りするのも大変だ。刀ふりまわせないぜ。
もっとも庶民の民家に討ち入りもないか。いやわからんぞ。
第2次大戦当時(だっけな)でさえ、日本兵の平均身長は150センチほどだったし
米兵も160センチは無かった、と何かに書いてあったのを思い出した。
そんなに昔の人は小さかったんかいな? (←資料確認はナシ)
外は肌寒くもないが?かい日差しもない。
古い造りの民家と曇った天気が、
おいらの心象風景をモノクロームに変えていく。
ふと、むか〜し昔のころに一瞬、回帰するかのようだ。
人工の滝や川のほとりを周り、再び記念館のそばの広場に戻ると
コンサートの開場となるホールが見える。
ガラス張りのホールの中でリハを行っているのが見えた。
リコーダーの音が外まで漏れ聞こえてくる。
(「涙のパヴァーヌ」のように聞こえた)
「う〜、たまらねえ・・」
今日の空模様にリコーダーの音はピッタリだ。
薄曇りの空に、山や川の風景を背景に漏れでてくる
笛の音は、
どこか、輪郭のぼやけてしまった昔の記憶に似て
おいらの中に封じ込められて忘れてしまっていた
はずの「何か・・」を呼び起こそうとするかのようだ。
「なんかいーよな、この感じ」
「ほんとな・・」
友人もこのシチュエーションが気に入ったようだ。だが、
おいらと友人は、そのまま立ち止まらずに建物の方へと向かう。
(・・・だって、開場時間がせまっているんだもん、なのであった)
今回、観客数は5,60人ほどらしい。いつものようにホールの3分の2も使って
ぎっしりイスを並べてはいない。ホールを横長に使って扇状にイスを並べている
「それ、まん中の一番前!」
ポジティブ・オルガンとイタリアンタイプの一段鍵盤のチェンバロが
静かにたたずんでいる。おいらはもう真ん前どまんなかだ。
「さむくねーか?」友人が聞いてきた。
ちょっと空調が入っている。
今日は天気も良くないし見るとお客さんの中には長袖の人もいる。
「別に・・?」
おいらはそんな中で、半袖のシャツになんと半ズボンとゆー格好だったのだ。
「・・・ういている?」
別に、鍛え抜いた<ふくらはぎ>を見せびらかしたくて、
薄ら寒い中やせがまんしているのではない。
6月になったらおいらはこのスタイルなんだよん。ふつーに。
〜拍手〜 目黒館長の挨拶、は割愛して演奏者の入場〜。
リコーダーの古橋潤一さん、チェロの西沢央子(なかこ)さん、
オルガンの能登伊津子さん。登場。
女性方はドレス姿、男性の古橋さんは・・・黒のずほんに、
真っ赤しゃつ(襟の辺りは黒)。
コーディネート力(ちから)、まけた。
古橋さんは、ちょっと長めの髪を後ろでまとめ、口ひげあり。
西沢さんは、ちょっと大柄で黒のシックなドレスがよく似合っている。
能登さんは、小柄な愛らしい方でおいら、
こわきに抱えて、もって帰れそう (←はしって)。
西沢さんもおぶってならイケそうだ! (←不埒な犯罪者がここにっ!)
さて、最近カキコが長いという苦情が(局地的に)寄せられましたので、今回は
この辺でおわりですたい。日も射さない薄曇りの空、ガラス越しの
山と庭園の緑を背景として、いったいどのような音楽が饗されるのであろうか・・・。
「う〜、あんまり音楽のこと表現するの得意じゃないよねー。実際わかってないし」
でも、きっと次回には、愛と笑いの明日がある、にきまってる!
♪〜 Clear or coudy sweet as
April show'ing,
Smooth or frownig so is her face to me〜〜とくらぁ〜。
(つづく・・・)
タイトル:「この道を通る者」
ふー。夏休みですか。そうですか。は〜。
そろそろ梅雨も明けるようで、ビケ♪さん夫妻もあっという間に
欧州へ、か。ばけーしょんですな。おいらはバタバタしてますぜい。
ルネッサンスからバロックへの変わり目の音楽家たち
彼らに夏休みはあったのか? 主人にくっついてバカンスしてたかな?
いや〜、やっとおいらんとこにも「ADSL」が入りましたでな。
「いまごろ 」ってか? おいらんとこは複数台のパソコンを
ネットにつなぐ必要があるので、家の中で「ネットワーク」を
組む必要があって「ブロードバンド・ルータ」てゆー
しろもんがいるのですな。
だからよけーにお金がかかるわけ。
しかも「無線LAN(ローカル・エリア・ネットワーク)」組めないとダメダメ。
タイプは8M。なんで12とか24Mにしなかったかって?
8Mまでなら無料期間が3か月だけと、12,24Mは
無料期間が2か月だったからだよ〜ん。
導入して不満なら、後から替えればイイや、って。
もちろん、無料期間はたっぷり使ってからだよん。
それと携帯電話が、しんだ。液晶がナニも表示しなくなったのだ。
ほかの電話機能は大丈夫なのだが、なにしろメモリーが呼び出せない。
呼び出してもナニも表示されないから役に立たない。
今時、カメラはおろか、メールもできないような古い機種だったが
せめて次世代のCDMA方式に切り替わってからと思って、
だましだまし使っていたのに。
大体今の携帯はなんだ!
ふざけるな。なにがデジカメだ。メールだ!
電話は電話できりゃそれでいんんだっ! なにが「家族割り」だ!
子どもに携帯持たせるな。自分で払えるようになってからもつがよいのだ。
どいつもこいつも、道ばたで、路上で、自転車上で、おまけに大人まで
クルマ上で・・・。それよりも電話本来の機能(通信速度、音質の改善など)の
改良を急ぐべきだ。なにが「びっくりした?」だ。
一体メーカーはなにやってんだ! ・・・でも不況だしな。
それに一度持ったら、もう離せないだろな。
(ケイタイはアヘンだ!)
えー、このデジカメの映像データ、マックに転送するには・・・(おいっ!!)
さて、つづきなのだが・・・
バルトロメオ・デ・セルマ「2声のカンツォン第4番」
ジョバンニ・ピッキ「2声のカンツォン第2番」
う〜、しまった。あんまり間が開きすぎて曲、忘れてる。
コメントできね。
フランチェスコ・ロニョーニ
「『ああ、私はこんなに傷ついて』によるデミニューション」
これが今回のコンサートのタイトルになった曲なのだ。
原曲はかの有名なパレストリーナ様の主題による。が、
原曲そのものをおいらは知らない。
有名な旋律(歌モノが多い?)を素材にしての作曲というのがこの時代、多いね。
当時、どころかバロック後期においても、「著作権」という概念すら
生まれるには、未だ時を待たねばならない。
・・・いわんやバロック初期においておや。
ウッチェリーニ「『チャッコーナ』のテーマによるアリア第4番」
ロッシ 「『ロマネスカ』のテーマによるソナタ第3番」
カステッロ 「2声のソナタ第4番」
うひょお、聞いたこともない作曲家の作品が続きますな。
カステッロくらいはどこかで聞いたような気がしないでもない〜くらい。
テレビドラマで言えば「原作付き」の作品。
和歌で言うと「本歌どり」。(ちょと違う?)
「アリア」も「ソナタ」も、同じモンだな。違いがないんじゃん?
カステッロのソナタは本来ヴァイオリン2本の曲をファゴットとチェロ用に
編曲したのだそうな。この編成でやってみたら「いける!」と思ったのだとか。
ふるいファゴットは長さが1メートルほどで、けっこう持ち運びに便利。
「なかで管が曲がって入っているんですよ。ですから
見た目よりは長い管の楽器なわけです」
それにしてもリコーダーの古橋さんは「弁が立つ」のう。
笑いまでとっておる。
ひょっとして桐朋学園大では「MC」教える講座があるのかね?
今日はイタリアン(チェンバロ)が、音がクリアで、
すっごくいい響きを出している。
何度かこの場所で同じ楽器を聴いているはずなんだけれども、
こんな響きは初めてだ。
なんだろ? 聴衆の数かな? 楽器の置かれた位置かな?
おいらとイタリアンとの距離かな(いつもよりグッと近い)?
それとも天気かな?(湿度とか・・・)
休憩を挟んで、
「これまでみなさんに馴染みのない曲ばかりでしたので、ここらで
グリーンスリーヴスのテーマによる変奏曲といきましょう」
いきいきとしたリコーダー音色の表情が次々と
変化していく様が眼前で繰り広げられるね。
ノリノリ〜。テーマがポピュラーなこともあって
非常に馴染みやすくていいな。
それぞれチェロ、オルガンがメインとなる曲も演奏されたよ。
バッサーノの『「別れの時には」によるデミニューション』
チェロの西沢自らの解説付き。
これまで演奏された曲は、おいらの感じ的には、っていうか、
旋律の形(なのかな)的にガンバの担当パートでは?
とも感じたんだけれども、「ガンバだと低音の支えが弱い感じがするよね」
という友人の言葉があって。む〜、そうかもね。チェロがベターなのかな?
んで・・・・デミニューションって、なに?
意外とヨカッタのがオルガンのためのアラウホによる
「ソプラノの分割ストップによる第2旋法のティエント」(たいこ付き)
すると古橋さんが「彼女は、皆さんの前でお話をすると
鼻から心臓が飛び出すというクセがあるので・・・」
と代わって曲や楽器の解説したわけだ。
この太鼓がヨカッタのだ〜。古橋さんの演奏なのだが、
けっこうぞんざいなようでいて、微妙な表情をつけているのね。
そうそう、間近で見てて気がついたんだけど、
リコーダーのフィンガリングも、穴から微妙に指をずらしたり
動かしたり、穴のないところをたたいたりとか(これはクセ?)
よくわかるね。
それぞれがメインとなる曲を含めて全10曲の演奏でした。
みなさんが演奏したCDとか、演奏した曲の楽譜とかも売っていた。
よゆー(おいらのさいふ的に)あったなら、
購入していきたいところでありました。
コンサートの途中で「グリーンスリーヴスの歌詞
についてお知りになりたい方は終了後におたずねください・・」
という話が古橋さんからあって、
笑いをとってたんだけれど、おいらは「話の流れで言ったのな」
くらいに思ってた・・・
ところが、終了間際に「楽器などでお尋ねになりたい方は、この後どうぞ」って。
古橋さん、西沢さんがそれぞれのお客さんの質問なんかに答えてくれたのですわ。
(あり? 能登さんがいた記憶がない。だ、だれかにお持ち帰りされたな〜!)
おいらたちもさっそくオルガンのそばに詰め寄ったわけだ。
すぐ脇にあるテーブルの上には演奏に使った
ルネッサンスタイプのリコーダーが2本、置いてあった。
指穴を見て驚いた。
ガッコで使っていた笛の「指穴」は、
5ミリくらいの厚さの管に上から旋盤で「ちぃ〜ん」と穴を開けたような
指穴で、穴の横を見ると管の厚みがもろわかりてな安づくり。
ところが「ホンモノ」は穴の裏側の周囲が薄く削りこまれていて、
管の厚みなど分からないようになっているんですな。
きっとこの辺が
微妙な指使いによる音色のコントロールを可能にする秘密なのかも
しれまへんな。
古橋さんはポジティブのストップを操作してオルガンの音色の違いなどを
説明してくれた。
「ほおぉ?」と思ったのは一番低い音から、上の方の音5鍵くらいまで
なんか糸が鍵盤に結びつけられていて、下に伸びている。
「なんだろ?」と思って糸の伸びた先をみると・・・
板きれでつくられた「即席ペダル」に繋がってる。
おう、これはこれは・・・「手作りふうですてき」
「へええ〜」取り囲むおいらたちにむかって古橋さんが
「楽器にお触りになりたければ、どうぞ。
カンタンに壊れるモノではないですから・・・」
「ええええ〜〜〜?!」調子に乗ったおいらたちはリコーダーにさわったり
「ぴー、ぽー」とか鍵盤押したり、
チェンバロの鍵盤押したりグリッサンドしたり
やりたいほうだい(でもないが)させていただき
存外の幸せを味わいました〜 (^^)V。
こういう風な演奏者と聴衆のふれ合いのできる形の演奏会は大変に
ありがたいし、この時代の音楽に興味を持つ者としては
うれしいことだし、
音楽に対して親近感もいっそう持てるってもんですな。
でもこの時代の音楽って、言ってみればかなり特殊な、
ある地域、時代の限定的な文化ですよね。
それに対してシンパシーを持つとか、理解できるっていうのはかなり
難しいようにも感じるのですな、実際のところ。(してるじゃん?)
正味な話、知らない聴いたことのない曲に対しては、演奏がどうだとか
言えるレベルにはおいらはない。
「好きか、関心が湧かないか」くらい?
ざっくり言っちゃえば、クラシック音楽、西洋音楽自体、
異文化のもののはずなんだけれど、
もう日本は西洋化とかいうものをしちゃって、
ずいぶん経つらしいし、学校なんかでも好きかどうかは別にして
何かしらクラシック音楽は聴いたことあるだろうから。
モダンオーケストラの響きとか、ピアノの音色
にかんしては親近感は感じても、違和感というものは感じないすよね。
でもこれってその音楽の背景にある西洋文明とか文化とかを理解していると
いうこととは、どこか違いますわな? っていうか、
その文化だがを理解しないと
西洋音楽は理解できないモノなのか?ってことですわ。
(たとえばおいらはキリスト教の信仰についてなんて
ほとんど知らないけれど、受難曲とか聴いたりしてる)。
あれ? 話が複雑になりそう・・・? まとめらんないかも。
考えてみればベートーヴェンとかモーツァルトなんかよりも
古楽っていうのは、一般性(普遍的な理解)を持たれないもの
のような気もする。
というのは日本の文化に置き換えて考えてみれば、
お茶とかお華、歌舞伎や能狂言を好む西洋人と
同じような位置においらたちはいるのだろうか?
(めずらすぃってことね)
ま、西洋文化と日本文化の世界における広がり方、影響力の
大きさの違いは歴然としているので、
同一には語ることはできないことは承知の上で、
ムリに分かりやすくするための比較ですけれども。
イメージ的には、能や狂言を好む欧米人に近い気がするけれどもどうでしょう?
彼らに比べれば(そういう人がいるとして)、対象となる文化に対する
理解の度合いは歴然と違うでしょうけれども。(おいらは浅いしね)
違う・・・。
音楽は確かに「何かを語ろう(伝えよう)としている」ものなんだ、って気はする。
でも、これは「言語化する以前の意識」みたいなものかも。
確かに、音楽には文法語法もちゃんとあるでしょうけど、でも
言っている単語の意味が分かんなくても、「怒ってんな」とか
「悲しーのだな」とかは抑揚やリズムで分かるっしょ?
そーゆーのって、振り返って人間の言語(行為)を見てみても
けっこう「普遍的」じゃないすかね。
大ざっぱすぎる、って言われるのは分かってますけど・・・。
受け取った印象が言葉にできないからって
何を言っているのか分からなかったというのは、違うよね。
確かに、何かが「伝わった」ということはあるから。
(あ〜、音楽を言葉にしようってのが、そもムリめな話かあ)
音楽の形式の違い、特色を知らなくても、
古い音楽からでも何かを受け取ることもある。
それは古楽器のもつ音色、ひびきだったのかもしれない。
旋律に何かを感じたのかもしれない。
〜 だからってカンタンに「音楽は世界の共通語」など
という言葉に賛同はしないけれども(断じて)〜
そうじゃなくて、そんな、音楽を学問のようにとらえるんじゃなくて!
ポイントは、古い時代の音楽が持つ「今日性」ともいうべきものなんだ。
今、現在においてその音楽が演奏されることに「価値あり」と
おいらたちが考えていること、そのことだ。
その音楽の背景にある文化も時代環境も二義的な意味しか持たない
「ただこの音楽、楽器の響きがすきなんだ」そういう人たちが
コンサートに来ていたはずだ。
とくに音楽史、宗教文化など知らなくても、おいら以上に、演奏された曲を
「わかった」人はたくさんいた、はずなのだ。
演奏者の方々が、コンサートに来てくれたお客さんと
触れあおうとする姿、触れたこともない楽器に
思いもかけず触れることさえできたお客さんたちの喜び、
コンサートを企画した周囲の人たち、
その姿が見えるから、
コンサートが終わった後も想いが余韻となって心に残るのだ。
それらも含めて、音楽は「人間の業」であるということなのじゃん?
今も昔も変わらず、
人間が生きて感情を持ち、こころを揺さぶられ
傷つき、それでもなお生きていこうとする魂の具象化、
それが音楽であり、
音楽を奏で、また聴く意味なのかもしれぬわい〜?
文化や宗教や時代の違いを超えて、その一瞬だけあるいはひととき、
その音楽を生み出したモノと何かを共有することができるのかもね。
場所も時間も違うけれども、「同じ道」を通っている・・・
♪〜この道を通る者で、ため息を付かない者は幸せだ。
ため息をつかにないで済んだ者は幸せだ。
高貴な女よ、姿を見せておくれ。
・・・でないと私は死んでしまう 〜♪
この通りに住む美女(だろ)に恋した男は多い。
彼女に心を奪われたある男は、
苦悩の日々を送るのに疲れ、自ら命を絶とうとする・・・
〜彼女を知らない者、彼女に心を奪われない者は幸せだ〜
では、彼は彼女を知らない方が良かったと考えているのだろうか?
否! 断じて否である。こんな古い歌でも・・・・しょーがねーよな男って。
〜〜内容がうすいぶん、少々「ふくらし粉」入れてみました〜〜 陳謝。