往復書簡 ‘03年2月〜3月
投稿時間:03/02/05(Wed) 00:43
投稿者名:たけどん
タイトル:ガンプラでドッキリ
ほえほえ、何でしょうか「最近、部屋の本がたまってきたので整理をしよう」と、
年末に思い立ったのを、先週末から始めたんですけど、(読み流すな〜)
三日かかって、ようやく捨てる本をまとめました。
まあ、年末の大掃除の続きなんですが、ようやく完了しそうです。
しかーし、本を捨てるのってツライツライ。いるかどうか確かめる、とか
言って、読み始めちまったり、そのうち読むかも・・とか、思い出が・・とか。
要らない本のウチでもマアマアきれいな本は「ブックオフ」に「売ってしまえ!」
ということに決めたんですが、持っていくのがめんどくせい、とか。
オークションで売ろ、でもデジカメがねーし、今時写真なしじゃ信用されねーとか。
送料と手間がやだ、だったらやっぱりブックオフだとか・・。
そんな具合で、なかなか作業完了に至らず、困りました。
本の処分って、なかなか踏ん切りが付かないものですな。
そんな折、ブックオフをのぞいてみると、なんと「捨てる! 技術」という本が
売っておるではないですか。しかもお値段が100円。
「おう! これは今のおいらに必携の書」とばかりに購入した・・って、
本、処分するってのに、また本買ってどうする。 <うっかりっ!!> (薄々感づいてたけど、バカ?)
その本を読んだら、アラ不思議。あっという間に100冊以上の雑誌、文庫、
単行本がビニルテープに縛られてしまったのでした。
「いやあ〜、コレ読んだらね、あれよあれよという間に部屋が片づくは、
咳は止まるは、かたこり、捻挫、腰痛までスッキリですよお。ドびっくり!」 (たけどんさん 7歳 遣隋使)
・・・そんなわけ、ないがな。
ま、100冊ぐらい処分したのは事実だし、本に書いてあることも参考にはなりました。
「3年間使わなかったもの」は、無くても構わない。
「その内に使うかも」「とりあえず、置いとこう」は厳禁、それが役に立つことはまずない。
「中身を見ないで捨てる」
その通りだっ、と読んでるときは思うんだけど、実際、本の山を前にすると・・・
できないだコレがあ〜。「今回は見逃してやる」ってのが結構あったです。
まずいよな、自分をコントロールできてないよな〜。流されてるな〜感傷に。
<自分の部屋のものを見たら、「コレ、処分できるんじゃん?」という視点を
持つようにする>っていうのはイイかもしれない、画期的大名案と思いましたね。
そうでなくても、もー使いもしないもので部屋のスペースが浸食されてるのは、厳然たる事実なのだ!
模型も(ムリなつなげ方)作り始めると、部屋のスペースを喰うのだ。
作りかけのプラモが、広げた新聞紙の上に塗料や筆、ペーパー(後述)とともに
置かれて、その完成まで部屋の中で新聞紙見開き大のスペースを占領し続けるのだ。
邪魔だから早く完成させたい気持ちと、各作業の終了点の「見極め」とのせめぎ合い
(これでOK,と判断するのは自分なので)なのですわ。
今回の「基礎用語」
「キット」 プラモデルのことを別名「インジェクション・キット」とも言う。
インジェクションとは「注入、注射」。上下に遭わせたベリリウム合金製の型に高温高圧で
スチロール樹脂を射出し形成することからこう呼ぶが、単にキット(プラキット)とも言う。
一般の子どもなどは使わない言い方。
「ランナー」 パーツが枝に付いている果実とすれば、枝に当たるプラ製の枠。
パーツはランナーにくっついた形でパッケージングされている。
形成時、射出された樹脂が型の中でパーツまで回り込むための道であるが、
形成後は、結果的に各パーツを一塊り(グループ)にまとめる役目をする。
同色系のパーツを1つのランナーにまとめるなど設計時のレイアウトも重要
キットを買ってきて、箱開けてニンマリ・・・で終わる人も結構いるのですな。
これを「積んどくモデラー」といい。キットは「押入のこやし」と化してしまいます。
時折、箱を取り出し中を開けては、ビニールも破っていないランナーを取り出して
「ニヤリ・・」・・・これだけ。
そして興味は、次に発売されるアイテムへと移っていく〜。「次、何が出るんだ?」
そーゆーやつに限って(かどうかはシランが)ヒトの作ったものに対しての批判が
強烈だったりしないか? 塗装がどうだの、バランスが悪いの、何もしてないの・・。
「ぐたぐだゆわんと、自分の力で一個でも完成させてみれ〜!」
そんなのは放っておいて、箱開けましょう。
組み立て説明書開いて、ビニールを破いて、ニッパーでパーツを切り離し、いよいよ
組み立てます。まずは「仮組み」。
最近は、接着剤を使わなくても組立が可能だし、色別に「パーツ分割」されているので、
塗装をしなくても、その上に付属のシールなどを貼れば、
そこそこカッコ良いガンダムの完成品となる段取りになっております。
「すぃくわぁ〜すぃいい〜っ!」(しかし)
それではつまらん「うっとり」できない! (?_?)
組み上がったキットを見て、または模型誌などの作例などを参考にするなどして、
改造、変更する部分を考えます。(自分の技量、スキルとも相談ね)
簡単に言うと「も、少し足が長い(または短い)ほうがいいな」みたいな
頭部、胴体、四肢の大きさ、バランスの具合など、また可動部分の構造、位置など
(おいらは結構妥協する箇所です) 自分の持つ対象アイテムのイメージとキットと
の相違点などを全体的に捉えておくのですな。
キットの完成体が、なんだか「ぼ〜っと突っ立っている案山子」のような感じなので、
コレを「力強い立ちポーズ」にするにはどこをどう変えればイイのか、という漠然とした
ことも起こります。
こういう時の改造部分の見極め、どこをどう、いじれば
何がどう変わるのか、が分かるには、慣れがないと結構大変(散々、失敗している)。
それに結構、細かい作業の積み重ねが、後になって「まとまってキいてくる」ということもあるのですな。
とりあえず、そんなこんなを考えながら <・・うっとり> (きもちわるっ!)
ここでおいらは、「イメージがまとまらないで」そのまんまほったらかしになることが多い。
とりあえず「うっとり」したので満足したらしい。一応組み上がったモノは目の前にあるし、
そこそこカッコいいし、なにか思いつくか、気が向くまで・・・。
「基礎用語」その2
「ペーパー」 耐水ペーパーのこと。紙ヤスリなのだが、水をつけながら作業することで
目詰まりを防ぎ、ある程度、長時間の使用が可能になっている。
番手で目の細かさが決まっており、番数の大きいほど目が細かい。
プラモ製作で使用するものは600番〜1200番くらい。
1000番以上は仕上げ用と考えてよい。
小さく切って、平らな木片などに巻いたりして使う
(ペーパーだけでこすると均一な平面が出ない、凸凹が出たりするため)。
「パテ」 数種あるが、基本作業に使用するのが「プラパテ」
「プラパテ」は灰色のクリーム状で、有機溶剤が抜ける(揮発)と硬化し、
ペーパー掛け(が可能になる。
キットに塗りつける、盛りつけるなどしてパーツ表面の傷、段差を埋めるもの。
ペーパーの600番で大まかに削り、1000番くらいまでかけて仕上げる。
他にも「エポキシパテ」「ポリエステルパテ」などの(造形用パテ)がある。
「ヒケ」 キットパーツはスチロール樹脂(プラスティック)なので、型に射出された後、
冷却されるとき、「パーツの収縮」は避けられない。
そのため、肉やせによる歪みなどが起こる。(ほとんど分からないし、組み立て上問題はない)
肉厚にすると冷却時の収縮率が大きくなるため、大きい(厚みのある)パーツ
形成時などは肉抜き穴などが設けられる。
パッと見では分からなくても下地剤を吹いて、軽くペーパー掛けをすると
凹んだ部分に下地剤が残りヒケが分かる (完成した後に気づくことも あっ!) <うっかりっ!>
「サーフェーサー」(サフ)
缶スプレーに入った下地剤。内容物はプラパテと同じ。
噴霧するとパーツが灰色となり、キズ、へこみなどを発見しやすくなる。
ヒケの発見、塗装の前などに使用。光の透過を無くし、
均一な下地面(色も)を作る(この意味は後述)、塗料の定着を良くするために使用する。
「厚吹きはだめよ。大きなキズは消せないよ」
目が疲れて、もう何が書いてあるのかわかんない。読むのもヤ、になってるでしょう。
でも、ここを乗り越えればあとはラク(になる・・?)。
やる気になったら、組み上げたキットをバラバラにします。
今度は、表面処理などを行いながら、塗装直前の状態まで、今度は「プラ用接着剤」を
使用して組み上げていきます。
接着したパーツは、最低丸一日以上はいじらないようにします。
すると、接着剤で溶けた部分が完全に同化して金ヤスリなどをかけても大丈夫なほどの強度になります。
米粒大のプラ片の接着でも完全硬化すれば、取れたりすることはありません。
瞬間接着剤は細かいパーツの処理にはいいのですが、ヤスリ掛けする部分などには使えません。
瞬接は、引っ張り強度は強いのですが、ショックに弱く、落としたりすると取れたりしてしまいます。
これは接着部分が、プラ同士が溶かされ同化して固まったのではなく、
隙間に入った接着剤が水分を吸収して固化してくっついているだけなので、衝撃に弱いためです。
表面処理
最低限のパーツを接着したら、各パーツのヒケの部分にパテを盛り、パーツの接合部分にパテを塗り、
パテが硬化した後、ペーパーを掛け、接合ラインを消していきます。(1回で消えないことも多い
その時は、再びパテを盛り、硬化後またペーパー掛け、その後1000番くらいで仕上げ)
これを全パーツに対して行う(のが理想)。本当にしんどい地味な作業です。
でもメンドイからと、ここをイイカゲンにしておくと後で泣くことになります。(T^T)
キットは、子どもさんも対象となっているので、ST(セフティ・トイ)の関係上
尖っているなど、ケガをしやすいパーツ(ガンダムのアンテナなど)は安全な、尖端部の丸い
形状になっていたりしますし、エッジも立っていない(面と辺がピシッと出ていない)ので
その処理もしておきます。(プラ板貼ったり、削ったり、作り直したり)
現在のキットは塗装の手間も考慮して設計されているので、非常にラクになりました。
最後にサフ(サーフェーサー)を吹いて、キズなどを見つけたらパテ盛り、ペーパー掛け。
ペーパーをかけた部分は灰色が剥がれるので、もう一度サフ吹きで全体を灰色一色に・・・。
(・・・イヤになりません?)
・・・好きじゃないと、やってられませんよね。
それから塗装して完成、となるわけです。んが、
・・なんで、そこまでやるのか?
折角、接着剤も塗装も不要で完成できるハズのキットを、なぜ灰色一色にしたりするのか?
ここまでは基本的な工作を(結構、はしょって)語っただけで、何も言いたいことは
言っていないのだ。これで完成したのはボックス、説明書に載っている写真の
完成品ガンプラでしかない。
ま、これはこれでその作業は十分、たのくるしい! (充実感がある)
それは、1分の1の「18センチ、ガンダムプラモデル」ではあっても、
18メートル(設定)実物を、100分の1にスケールダウンした「ガンダム」ではないからだ。
「でも、ガンダムなんて、実物ないじゃん!」
そーなのだ・・・ではどうするのか?
「ここからが、おいらが言いたい本題だ・・・・」 <・・うっとり!>
これ以上、聞いたこと無い用語聞かされても、訳わかんないだろうな、
っていうか、ココまで読んだヒト、いるかな? 「ギクッ!」 <うっかりっ!>
「・・・つづく、かも」 (やっぱりバカ?)
投稿時間:03/02/06(Thu) 04:24
投稿者名:ビケ♪こと管理人
Eメール:
URL :
タイトル:お肌の・・・
サーフェーサーが欲しい・・・
プラモデルが好きな人は、そこまでやるのか〜!
私の知らなかった世界です!
基礎用語解説があるから、初心者でも安心!(私はド素人)
・・・でも考えてみたら楽器の練習も、地味〜〜〜〜な
作業の繰り返しだったりします。たのくるしい、っていう表現、
とってもよくわかります。
このお話、これからが、たけどんさんの本領発揮の予感。
どんな、「私の知らない世界」が展開されるか、
ひそかに楽しみにしてます。
投稿時間:03/02/09(Sun) 21:56
投稿者名:たけどん
Eメール:
URL :
タイトル:あなたの「知りたくもない」世界
好き・好き・大好き??
う〜ん、プラモ好きなのかな〜?めんどくさいだけなんだけどな〜。
そう言われるとわからない。「チーズとか好きだよね」とか言われる
んですけど、自分ではそう思っていない「なんで?」と聞くと、
「チーズなんとか、とかよく買うじゃん」って言われるけど、
それがすっごくおいしいとか、これさえあえれば、とか思ったことない。
プラモデルもそう、バッハも「好きでしょ?」って言われると何だか
違和感がある。そう「好き」って言葉に。なんでだ?
おいらの場合、その対象を追いかけてるのって、なんだか「飢餓感」みたい
なものが関係しているような気がする。とりあえず手に入ったもので満足した、
とか、「これ(バッハとかガンダム)なら何でも許せる」なんて思ったことない。
端から見ると、追っかけてる姿が「好き」「マニア」みたいに見えるのかも
しれないけど、「何でもかんでも集めよう」とも思っていない。
<「フーガの技法」だけは別だ! >
「めんどくせい」よりも、「つくりてえ」がちょっぴり勝っている状態でしょうか?
(74437709 対 74437712ぐらいで・・・)
プラモなんて、自分の性格的には一番向かない趣味だと思っとります。
「せっかち、完璧主義のつもりが、いい加減」
子どもの頃のおいらなら、思うようにいかなかったり、一度失敗したらその時点で
「このキット、たたき壊しているな ふっ・・(^^;)」と思うことが何度もありますな。
その点は多少、大人になったか? (他人の釜のメシを食ってきたからな)
こういう自分の中の下劣さとの戦いですな、人生は。
おいらの場合、「負けるもんかあ〜」がモチベーションかも。
相手は、自分と「まっき〜」(おいらが勝手につけた別称。小学校中学を通じて、
版画や絵の作業が<丁寧>で、異様にうまかった、生徒会副会長のこと。
今でもプラモ製作にくじけそうになるたびに、おいらの中で、坊ちゃん刈りに
ランドセルしょったヤツが高笑いしていやがるのだ。
「あははは・・ボクを超えてごらんごらんらんらんん・・(^-^)v」) だ。 (−−#)けっ!
基本は「見せない・分からせない」(しらないっ、おしえない、語らないっ)
そ、サーフェーサーはファンデーションと同じですね。
下地づくりです。塗装は下地の色によって発色が左右されます。
つまり、黒や紺などは隠蔽力(下地の色を隠す力)が強いので、下地の色に
あまり影響を受けませんが、白、黄色、オレンジなど「明度の高い色」は
隠蔽力が弱いので、下地が濃い色だと、いくら塗り重ねても、鮮やかな発色が生まれないのです。
ですからうまく発色させるためにサーフェーサーの上にさらに白を塗り(おいらはしない)、
その上に目的の色を乗せることもあります。
基本工作のポイントは、「気づかせない」こと。
パーツの長さや太さを変えたり、接着面を消したりした「作業のあと」が見た目に
分からないようになった時点が、作業の完了の見極めのポイントです。
これが、なかなか手間どる作業でして〜。
平らな装甲面、滑らかな塗装面、あざやかな艶など、子どもなんか完成品見ても
「は〜、カックイー」「きれ〜」くらいしか思わないかもしんない。
実際に作ったことがある者だけが分かることがあ、あるんじゃい。
その華やかな「上もの」を乗せるために、しっかりした下地を作るのに掛かった苦労・・ありますよね?
きれいな色を、きれいに塗り、発色させるために、
どれだけの手間が、その下地づくりに掛かっていることか・・・。
きょうの基本用語
「ラッカー系塗料」一般的にエアブラシ等で塗装する。
溶剤は有機系(シンナー)。塗膜が強く、乾燥が早い。
「エアブラシ」 コンプレッサー、ボンベなど圧縮空気を利用して
塗料を噴射して塗装する。塗装する範囲を絞って細くしたり、
広くしたりが自在。これを使うと、塗装による表現の幅がグッと広がる。
「アクリル系塗料」一般に水性塗料といわれる。ラッカー系に比べると塗膜
(擦れなどに対する耐久性)は弱い、
乾燥にも時間が掛かる。筆洗いには水を使えるのという利点もある。
「エナメル系塗料」有機系。乾燥は遅く、その溶剤はプラスチックを侵す(もろくする)
ので多量には使えない。
主に墨入れ(後述)ウェザリング(同)に使用する。
「墨入れ」 塗装完了後、エナメル塗料を薄め、モールド(ここでは、装甲板の分割線、
メンテナンス・ハッチ、アクセスパネルなどパーツ上に凹溝で表現されている線のこと)
に流し込み半乾きの状態で、はみでた部分を溶剤を含んだ綿棒などでふき取ると、
下地の塗料は溶けないため、溝にだけ塗料が残り、キッチリとしたパネルライン、
装甲分割線が表現されるという技法。
エナメル溶剤では、本塗装のラッカー塗料やアクリル塗料は溶けないことを
利用したもの。
「ウェザリング」 汚し塗装。錆、塗装の剥がれ、黒ずみ 土ぼこりなど、
兵器、車両などを使い込んだ状態を表現する塗装。
主なものに「ドライブラシ」(例えば、筆にエナメルの「銀」を付け、
その筆先をティッシュなどで拭き、ほどんど乾いた状態の筆先を
パーツの角などに何度もこすりつける(たたく)。
すると使い込んだために上の塗装がけずれて
下地の金属が顔を出したような表現が出来る)「ウォッシング(省略)」などがある。
・・・うう、目がチカチカして何が書いてあるんだか、わかんない。
現在のガンプラは多色形成、つまり設定画の色設定にほぼ準じる形でパーツ分割
がなされており、塗装をしなくても完成できるのは前にも述べたとおりです。
しかし、プラスチックは光を透過する(スケスケという意味ではない)ので、
形成色(プラ自体に最初から着色されている色)だけでは、
素材の質感(プラ)がすぐにわかってしまい、
完成品の安っぽさを、いやが上にも盛り上げてしまいます。(サーフェーサーは光の透過を無くする)
素材を金属っぽく。「いかにもアニメキャラ」でなくて、兵器なのだ、という演出のために
塗装が不可欠になるわけです、な。(だから奥深くて、ムズカシイとも言える。塗装が
マズイと、そこまで注意深く仕上げても、大量減点ですな)
色も単純ではない。「ガンダムは白」だ、と言っても色々な「白」があるですう〜。
青みがかった白、黄色っぽい白 パールホワイト、チタニウム系ホワイト・・。
さまざまな色を選んで、ほんの少しだけ基本色の中に落として、イメージの色を作ります(何度も失敗)。
(むかしはガンダムなんて原色だけじゃん、簡単じゃん、赤なんてどれも同じ赤
じゃん、と色をナメておりましたな)
基本の色が決まったとしても、同一の装甲面でも中央部と、周辺部で影の付き方
が違う、そこで色のグラデーション(階調)を何段階かに付けていきます(おいらはしない、できない)。
(周辺部、角を際だたせるために暗めに、中心部は光が当たるので明るめに、
ハイライトを入れるとか、その逆とか)
模型は立体なのだから、影など付けなくてもいいんじゃ・・と思うかもしれませんが
実際には大きさによる影の濃さが、大きなものを離れた位置から見たときの影のおちかた
濃さとは違うので、それを塗装で表現してやると、びっくりするくらいに「リアル」になるのです。
そのためにエアブラシが強力な武器になるのですが・・・「おいらは、持ってない」。
エアブラシでラッカー塗装したら、部屋がシンナー臭くなるし、専用の換気設備もないし、
そんなんで、もっぱらアクリルで筆塗り、と缶スプレーだけ。あとはパステルを「茶こし」で
削って、筆で擦り付けてグラデーション(っていうかシャドー)を付ける・・けど、
エアブラシのようにうまくはいかないし、何より、手に持つと色が落ちる・・・。
そこでその上からクリアーコート
(無色の仕上げ剤、艶を整える缶スプレー、光沢・半光沢・艶消しがある)を吹く。
筆塗りは、濃いと(ビンに入ったままの塗料は濃いめになっている)筆ムラが出やすいし、
かと言って、塗料を薄め過ぎると、乾燥は遅くなるし、表面張力の関係で、パーツの
端に塗料がたまってそのまま盛り上がった感じで乾くし、
乾燥が遅いからホコリが付いてそのまま乾いたり、乾いたと思って持つと、指紋が
ベッタリついちまって。「あーもお〜〜〜っ!!」 の繰り返し。・・・・また乾燥
するのを待って1200番くらいのペーパーでこすって、も〜1度塗り直しだあ。
(まったくおいらむきの趣味ではない)
嗚呼、「本題」の前にこんなに書いてまった・・・。
本題は、ここまでを基本の工作として踏まえたうえで、この上にどのように
「オリジナリティみたいなもの」を付加していくのか。アンド、実物がないものは
何をやってもイイのか? (趣味だからいいのだが・・・)
「説得力がある」作品とはどんなものか?
・・・てなことを今回、まとめにしようと思っていたのでさあ。
文の構成がなってねー、行き当たりばったりで書くからだ。
大失敗。
ビケ♪さんも、もういい加減アキレはてて、目が痛いはず。
ええいっ! 「泣きの、もう一回」宣言だ〜。結論先送り攻撃だ〜。
興味のない話これだけ読ませて、次回が大したことなかったら、
笑うに笑えないっ! (泣け)。
あまつさえ、そんなことをしている間に
「オリヴィエ・ラトリー、オルガン・リサイタル」の当日を迎え、
そこでおいらと友人は、これまでのコンサートでは、未だかつて体験したことの
なかったことを体験したよ、なのであった。
それは・・・その謎は、近日公開!! (アオるね〜)
投稿時間:03/02/15(Sat) 01:43
投稿者名:ビケ♪
Eメール:
URL :
タイトル:大変そうな事なのは・・・
よーくわかりました。
でも、自分に向いてないと思いつつやってしまうのは
魅力があるからなのでしょう?
そこいらへんのところが、聞きたいですね〜。
なにがそんなに大変な作業に駆り立てるのか。うん。
オリヴィエ・ラトリーのお話も、楽しみですし。
全然関係ないですが、今年は確定申告をしなくてすむので、
この時期、楽だわ〜
投稿時間:03/02/17(Mon) 00:40
投稿者名:たけどん
Eメール:
URL :
タイトル:somethig
for everyone
「何」がそんなにたいへんな作業をさせるの、か?
子どもの頃、プラモデルを買ってもらっても色を塗ることも知らなかったし、
(クレヨン塗ったこともあった)
パーツの「継ぎ目を消す」なんてこと、それが出来ることも、その方法も知りませんでした。
パッケージの完成写真にはパーツの継ぎ目がなくて、それはきっと「うまく接着
すればこうなるんだ・・・」ぐらいに考えてましたけど、結局うまくなんて行かなかった。
その方法が分かった後でも、ちょちょいのちょいで出来る簡単なものではありませんでしたけれども。
1カ所2カ所なら、丁寧な作業も出来るでしょうが、一個の作品を完全な形で仕上げるには
半端な集中力と持続力では出来ないのです。
長い時間をかけてひとつの作品を仕上げたときの喜び、子どもの頃、どうやったらいいのか
分からなかったパーツを接着した部分の継ぎ目を、自分の力で、分からないように消せた。
出来上がった作品を見ていると、「じぃ〜ん・・・」これですな。
他にも去年の夏から取り組んでいたことが最近目処(めど)が立ちまして。
それは、「バタフライで100メートル泳ぐ」ってやつでしてな。
ビート板につかまってのドルフィンキックの練習から始めて約半年。
本買って読んだり、ひとに教えを請うたり、教えたり(先生はいない)、
テレビの一流選手の泳法をジ〜ッと見たり、停めたり、コマ送りしたり、巻き戻したり・・・。
本に書いてあることが、全然できない、っていうか、
そのようには体が動いてくれないのです。
アタマでは分かってるつもりでも。
(本ののように動いてるつもりでも、端から見るとそうなっていなかったんだろーな、きっと)
結局、自分で練習方法考えたりしたんですけど、恥ずかしかった〜。
きっと、「プールでわけのわかんないことしてるヤツがいる」って思われてたな、きっと。
ドルフィンキックに1か月、体のうねりで進めるようになるまで2か月、
上半身の腕の回転と体の飛び出し、それにキックのタイミングをシンクロさせる練習・・・。
25メートルをイメージ通りに泳げるようになるまで3か月以上かかりました。
(実際には、50メートルバタフライは中学の水泳検定の時、
泳いだことはあったけど、後半は半分溺れているみたいで全然、カッコ良くなかった)
しかし、とりあえず泳げるようになってから、最大の難関がありました。
50メートル泳げるようになるのに必要なのは「要らない力を抜くこと」・・と
分かるまで一か月。(400メートル走るのに、100メートルの走法ではもちませんよね
・・と簡単に言うけど、アタマで分かってても出来ないのだよん)
まだまだ力が入っていて50メートルが精一杯ですが、あーでもない、こーでもないと
考え、試している今が一番面白いのかも、と思っています。
バタフライを身につけて(まだだ)思ったのですが、新しい泳法が、他の泳ぎの動きにも
フィードバックされるんですよね、気が付かないうちに。今まで使っていなかった
筋肉を動かすことを神経が覚えたのか、クロールは肩の回し方、水のつかみ方、
ブレストでも体のうねり、が違って来るんですよ。結果的にこれまでより、
楽に速く泳げるようになるんですな。
それに慣れてくると、例えば同じタイミングでやってるつもりのストロークの1秒間が、
長く感じるようになるので、いろいろな動きを試す余裕が出来てくる。
つまり、初心者ドライバーは右折するときでも、あれしてこれして、で
手一杯だけれど、慣れてくると、同じ動作が余裕を持って出来る(体の方が動作を覚えて、
自然に動いてくれるので、意識の方は自分の動作を見つめる時間ができる)、
というような感覚でしょうか。
・・・ふしぎっていうか、おもしろいですね。
〜〜っていう具合に「おいらにゃ無理さ」と思っていたことが
「出来たときのよろこび」を知っちゃったからでしょうね。
・・・これはちょっと、お金で買えるものなんかでは得られない快感(悦び)・・・・なのですな〜。
おいら絵も描かないし、詩とか小説も書かないし、ギターなんかも、もう天袋の奥で
取り出せない状態だし。何か形に残る作品みたいなものを作る、っていうような趣味は、
前に買って(今でもたまに買いたくなる)おいて、ほっといたプラモデルくらいなんですよ、結局。
そして、何とか完成したヤツを、棚の上や本棚の中に飾っておいて眺めてやる。
しばらくすると、前に作ったヤツに自分の技術の未熟さを感じるようになるんです。
作ってるときは、めんどくさくて「これくらいでイイや」って表面処理や、仕上げなんかを
なおざりにしたした部分が、気になってくるんですな。
もちろん雑誌の作例など、他の人の作品に刺激を受けるということもありますよね。
実を言うと、右腕の表面処理が終わって、左腕の作業に取りかかると、もうそこでも
やっている「作業の質」がさっきと違う。作業が調子に乗ってきたのか、
前の右腕の処理の不完全さに気づいて(それでイイと思っていたから、終わったはずなのに)、
もう1度右腕に戻る、なんて時もあるですよ。
(ノってるときはね。面倒なんで、そのまま進むかどうかも葛藤があるな〜)
作品を残せる趣味のいいところは、作ったときの自分の技量の跡が残せて、しかも
後からさらに改良を加えることが出来る、ってところだと思っています。満足するまで(しないけど)。
でも、公開する類のものって、恥ずかしいかな・・・昔の自分を見るのって猛烈に・・。
詰まるところ、そんな感じでおいらでもモノを作ったことがあることを
芸術の再現、再創造という作業に従事しておられるビケ♪さんとの共通項だと、
「無理やりに」見立てて、なんか書こ・・・と思ったんでしょうな。
こんなとこでどうでしょうか? あ、魅力について書いてない・・・。
ま、それは次回ってことで。
それでは次回、いよいよプラモ編の最終章といきましょ〜。(おい、一回多いぞ!)
投稿時間:03/02/23(Sun) 14:06
投稿者名:ビケ♪
Eメール:
URL :
タイトル:いくつになってもね!
今まで出来なかったこと、出来るとも思っていなかったことが
出来るようになることは、本当にうれしいですね!私は最近、
高速道路に一人で乗れるようになったこと、これは!ほんとに
うれしかったですね!うれしくて、はしゃぎまくって、日本の友達に
メールなどをしていたら、「そんなのできて当たり前。」
みたいに言った人もいたけど、それでも、
私はうれしいから、いいんです!
たけどんさんのおっしゃるように、過去の自分は、振り返りたくないですね。
自分の過去の録音など、こっぱずかしくて聴きたくないデス。
何十回に一回くらいは、何度も聴きたいくらいのいい演奏、
っていうのも出来るのですが、
そんな演奏でも、少し時間を置いて聴いてみると、
いろいろ注文をつけたくなる。
この次は、ここはこういう風に、もっとこんな風に弾きたいな、って
言うのが、どんどんでてきます。
演奏は、日々変化しています。前進と後退を繰り返しながら、でも
長いスパンで見ると、少しずつ前進してく。
そうでなければいけないと思うから、毎日地味〜な練習もしています。
昨日よりも今日、1つでもいいから、出来ることが増えていること、
特に、落ち込んでどうしようもない時は、これを実践すると、
いつの間にか、立ち直れてたりもします。
出来なかったことが出来るようになる喜び、
これを知らない人は、不幸かもしれませんね。
投稿時間:03/03/02(Sun) 10:46
投稿者名:ワタセケイコ
Eメール:[email protected]
URL :http://www.keller.co.jp/
タイトル:私の知らなかった世界
ピケ♪さま、こんにちは。(^-^)
東京はいよいよ春、春嵐、春一番、花粉症。
それでも暖かいとうれしいものです。
最近、私はこれまでに全然知らなかったふたつの世界を聴きました。
それは、(たけどん様もいらっっしゃったらしい)、
オリヴィエ・ラトリーのオルガン。
それから、ニコラウ・デ・フィゲイレドのチェンバロ。
どちらのコンサートも、何も知らない初心者なので
入門編と思って聴きに行き、ところが
どうも「この道の天才を聴いてしまった」ようです。
目も眩むような鮮やかさ、
自由奔放な溢れる音楽、
深く静謐な音楽・・・
ほとんど呆然として聴き入りました。
まことに幸せな音楽体験でした。
いまだに、
すごいもの、聴いちゃったなあ。
コレと同じ感動を味わうには、
いったいこれからどうすればいいんだ〜!
というような混乱の中に、おります。
投稿時間:03/03/03(Mon) 04:31
投稿者名:ビケ♪
Eメール:
URL :
タイトル:うわ、羨ましいです!
ケイコさん、こんにちは!
私、本当に羨ましいです。フィゲイレドのチェンバロは、
実はまだ聞いていないのです。そして、私ってチェンバロを弾いている
くせに、よそ様のコンサートで、ケイコさんがおっしゃるほどの
「感動」味わったことってあったかしら?というのが正直なところ。
もちろん師匠(グレン・ウィルソン)がレッスンの度に聴かせて
くれた演奏は、それはそれは凄かったですが、そのときはそれよりも、
そこから盗めるものはすべて盗んでやる〜〜みたいな気合が先立って、
「感動」するというのとはちょっと違ったかも。もったいなかった・・・
5月に、Southeastern Historical Keyboad Sosietyの定例会に
行く予定です。そこで、アメリカ在住のたくさんのチェンバリストにも
会えると思います。演奏やレクチャーが、3日間びっしりです。
そのなかで、目標に出来るような演奏や、本当に心動かされる演奏に
出会えればいいし、私も何か発表できる機会が得られたら
もっとうれしいな、と思っています。
ここのところ、至近距離で演奏を聴いていただくことが多く、
聴いてくださる方の反応がダイレクトに伝わってきます。
こういう経験の中で学ぶことはとても多いです。
今までの私は、「いかに正しく、きれいに演奏するか」をメインに考えていたと
思うのですね。それに加えて、「本当に伝わるものは何か」を、
今まで以上に、真剣に考えるようになりました。これが一番大事なことの
はずなのに、多くのチェンバリストがそう思っていると思いますが、
その前にクリアしなくてはいけないことが
たくさんあるような気がしていて・・・(歴史的な正しさ、など)
ケイコさん、本当に良かったですね・・・
またお話、お聞かせください!!!
投稿時間:03/03/11(Tue) 21:32
投稿者名:たけどん
Eメール:
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タイトル:オリヴェエの罠
オルガンは癒しの楽器
だ〜ぅもおぅ、おせわさまで〜す。(え、新聞ならいりませんよ)
そんなこといわず、ワシントンポストですよお (アメリカでは新聞は宅配しないっけ)。
「とんぽす」のコンサート評って、皮肉、当てこすり、アイロニーが
すげえっすよ。それが分かっている読者さんにとっては、
音楽なんぞ分からなくても充分に楽しめる読み物となってますよ〜。
「バーンスタインの指揮ぶりは、オーバーアクションが過ぎて、
指揮台上で飛び上がったと思うと、再び降りてくるまで20秒ほどかかった・・・」とか、
「小沢せーじが曲が山場にくるといつも泣きだすのは、
レニー(バンスタのこと)影響だ。そんでもって昨夜も大泣き」とか、
めりけんジョーク(?)のほーこです。わらえますよ〜っ!
音楽評論ってよりも、音楽時評に名を借りた「じょーく・むじーくコラム」?
そのためには演奏はとんでもないほうが、おいしい?
よく知らないですけど、まともに誉めた記事ってあるんですかね?
ワタセケイコさんもオリヴィエ・ラトリーのリサイタルをお聴きになった由(よし)、
ワタセさんのホームページへも、ごそごそ、おじゃまさせていただきました。
「すみだトリニティーホール」でお聴きになったのですね。
初めてのオルガン演奏、素晴らしい体験をなされたようで、よかったですね。
(さて、たけどんはどうだったのかな・・・?)
新潟市音楽文化会館「りゅーとぴあ」のオルガンの整音が終った後の、
最初のコンサート「オリヴィエ・ラトリー・オルガンリサイタル」
友人がある日言った。「わしはオルガンが聴きたいのだ」
おいら:「りゅーとぴあには、行ったことがないのか?」
友:「何度かある。が、オルガンの音は聴いたことがない。でも実物を見ては、いる
このオリヴィエ・ラトリーとやらのリサイタルへ行こう」
お:「う、それはプログラム的にどうか? お勧めは出来かねる」
友:「かまわん。これにする」
お:「それならそうしよう。それにいいものがある」
友:「餃子のタダ券か? それはよいものだ。きまり!」
お:「おいらの<ぼろろん号>ではきついので、あんた車出して」
近頃「バロックもなかなかじゃん」と、朝のFMでやってる放送をテープに録り、
車で聴き始めるという快挙を成し遂げた友人は新潟で7人目(くらいの)古楽ファンに
なりつつある。が、まだまだあまい。声楽がいまいち苦手だからだ。(大きなお世話)
そんな彼がオルガンを聴きたいというのだが、今回のラトリーのプログラムは
フランス中心。しかも近代の作曲家も含まれており、おいらは危惧を感じていたのだった。
バッハ、ボエリ、まー、フランクまでの前半はまだしも、
ギルマン、ヴィエルヌ、ラトリーの即興演奏、が後半・・・あぶない。
近現代などのオルガン曲は「さっぱ、わけわかんない(おいらがだ)」曲が多いからだ。
少し早めの夕食をとってから会場へ向かうことにする。
夕食は「らーめん」。情報誌で見た、うまそうな(写真がそこに載ってる)ラーメン屋に直行だ。
しかも「餃子一人前タダ券」付きだ。 (なぜ、らーめんばなしがここに?)
そのラーメンは、種別的には「和歌山ラーメン」というものらしい。
和歌山のラーメンとはどのようなものか? ビケ♪さんはラーメンが好きなのか?
さまざまな疑問が浮かんでくるネ。
5時前頃、現場到着。「ほ、すいている」
和歌山のラーメンとはどのようなものなのか?
「こってりラーメン、普通と大盛りね」(大盛りはおいら)と同時に
「ぎょーざひと皿むりょー券」を店員に差しだし「これもね、使えるよね?」
来た・・・置かれたどんぶりを見る。和歌山のラーメンって
「醤油とんこつ」の茶色スープに、「細麺」なのか〜! 万能ネギのこい緑が目にいたい。
細麺は、九州のとんこつの方がもっと、コシがあるけど悪くはない。
こってりしてるわ、こりゃ・・。「ズズッ・・・」スープをすする。
・・・この感じは、横浜の「家」系(知ってる人は知ってる)のようなヘビーさだ
というのは、これらのスープは共通した特徴がある。それは・・・。
おいらは中太のしこしこ麺が好みだが、まあいいや「ずぞぞぞ〜」。
でもスープとチャーシューが抜群に相性がいい。
スープ絡めて一緒に食べると「こりゃ、んまいっ!」
「ごはんもってこい!」って言いたいくらい、こいつで何杯もいけそう。
「どーも、ごっそさん!」とお金払って店を出る。
車に乗って会場へ向かう。あと30分くらいで開場時間「ちょうどい・・!」
き、きた。こ、これがあの「のうこう、こってりスープ」の効用だ。
食べてしばらく経ってから、胃の当たりに「づんっ!!」とくる(重くなる)のだ。
普通盛りでも、い、いかったかも・・な。
会場に入ると、入場の前にはお約束の「トイレ」。
「わし(友)も」と2人でエントランスホールにあるお手水(ちょうず)へ。
いつも見かける光景なのだが女子トイレは、もう列ができている。
「あー、大変だ」と思いつつ、男子の方へ入ろうとしたその時!
ささー、と横から来た婦女子がおいらたちの先に「男子(だんしだっ!)トイレ」にお入りになりやがった。
「あらららら・・」と思いつつも、その後に続く形でおいらたちも中へ。
東京にいたとき、東名のサービスエリアのトイレなんかで、おばさんたちに「乱入」
された経験はあるが、コンサートホールでは初めてだったな。
おいらたちは個室に入った方には何も言わず、黙って用だけ足してそこを出た。
「てーしたどきょーだ」が、会場内に入ればほかにもトイレは・・・。
まー、いろいろ事情状況はあるわな・・・緊急事態だったんだろな。
でも、もし、反対においらがそれやったら、ご婦人方に
ぼっこぼこにされて、御用になってるね(^o^)。 (十字架につけろ! 十字架につけろ!ってか?)
会場内の「入り」は満席時の半分ほど、全席は売り出さなかったらしい。
おいらたちの席は正面オルガンに向かって右側、
ワインヤード型なので、オルガンを12時の位置とすると、3時から4時の位置。
ま、前でも後ろでもなくほぼ中央ほどの席。
高さ的にはコンソール(演奏台)と同じくらい。
下のアリーナ席の方が自然(?)のようにも思えるが、どうなのか?
高さ的に同じでも、中央正面の席ではなんだかオルガンから離れすぎているような
感じがするし、難しいところだ。とりあえず、今回はこの位置で聴いてみたかった。
プログラムはバッハの「たたたた〜ららたらたらたら・・・たらたらたらたっ、たあ〜」(なんじゃい?)
「プレリュードとフーガト長調BWV541」から始まる。いきなりノリノリ。
お客がまだ暖まっていないうちからこれかー。おいら、たちまち火だるま(?)。
でもこれも悪くないか、快調な滑り出し(演奏者は)。
残響が「左から来る〜」。パイプの咆哮が右から聞こえてきて、そのあとひだりに残り火〜!
「しまった失敗席か?」でもほかにどこがよかったってんだ?
中央正面は、ちょっと楽器から離れすぎの感じがして、
まるでテレビ画面で観てるような感じなんだよな〜。
じゃ、アリーナ席がよかったてのか?
本来、教会なんかだと、オルガンは上の方に設置されてたりして
上から音が降り注ぎ、カテドラル全体が響き渉り、音の伽藍と化す・・・。
いかにも「天の声」っていう役割にぴったりの配置なんだろうけど。
コンサートホールでは・・・特にCDなんかでしかオルガンを聴いたことがない
人間には、どこで聴いてもどうもしっくりこない感じがする。
コンサートホールではオルガンを聴くベストポジションは観客席にはないのだ。
強いて言えば、アリーナ席の上、オルガン正面の空中ってことになるか?
CDなんかだとそういうポジションで音がフォーカスされているからな。
実際上はこれもありえないポジショニングなわけで、それに慣れ切っちゃってる
っていうか、それしか聴いたことがないからな。
それが当たり前だと思いこんでると、そうなるかな。
誇張された味の人工甘味料に慣れすぎて、天然の味が分かんない状態かも。
ヨーロッパの教会でなんて聴いたことないから分かんないけど。
等分平均律調律のパイプの響きがどうだのこうだの以前の問題だな。経験不足!
ここのオルガンはグレンツィング(スペイン)製の69ストップの楽器。
それにしても日本海側には、
1つおきというのは面白い。
(新潟にあるってことは山形と富山にはない。秋田、石川にはあるが
青森にはないってこと。また福井、京都、兵庫まであって、また
その先は1県おきになる。もっともどの県でも教会等にはあるだろうけれども)
オルガン設置がバブル期の産物だと考えると、この先設置されるのは難しいかな。
この楽器でバッハとかと近代フランスのオルガン曲をやるのかあ・・・?
ま、できるからやるんだろう。
「プレリュードとフーガ」が終わったよ・・・えっ?
引き続き、「オルゲル・ビュヒライン」って、お辞儀しないの??
そのまま3曲演奏。終わってそのまま足元ごそごそ・・・
えっ! そのままボエリ?「ドゥニゾの聖歌より4曲」・・・
おなじく、そのまま「トッカーたろたんちょ・・・」・・・。
・・・・「あ、フランクの旋律だ」聞き覚えのあるフィナーレ。
盛り上がる、盛り上がる。ぼーぜんとしたおいらを後目に。
万雷の拍手拍手! おいらも拍手拍手! 何度かラトリーを呼び戻したあと、
会場が明るくなる。「ここで、15分間の休憩を・・・」のアナウンス。
友人の顔を見て、おいらは言った。「おいら、ねてた」
友人も、おいらに言った。 「わしも、ねてた」
(そのとき三度目のニワトリが鳴いた・・・。おいらたちは、外へ出ると、身もだえして泣いた・・・)
あのヘビーな、らーめんのせいなのか・・・?
・・・おいらたちは、癒されたのか・・・・
<緊迫の(?)後半に続く!>
投稿時間:03/03/12(Wed) 00:04
投稿者名:ビケ♪
Eメール:
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タイトル:らーめんは・・・
高山に行った時の、しょうゆ味の細麺が忘れられませんね〜!
あちこちに食べ歩きに出かけるほどではないけれど、
好きです。都内の某ラーメン屋に、並んで入ったりもしました。
(でもそこのは、あまり印象に残っていない・・・)
家ではもっぱら「中華三昧」。
でも、なんで、ひとつ2ドル75セントもするの〜?
贅沢した気になっちゃうじゃない。たかがインスタントで。
サッポロ一番「ビーフ味」なんか、59セントとかで売ってるのに!
でも、Japの口には合わないよ。アメリカ人の好みの味なのか?
ラーメンじゃなかった、ラトリーのお話でしたね!
ケイコさんの書き込みからも、どんなに凄い演奏だったかと、
想像するだけでうずうずしていました。
たけどんさんのレポートで、ますます・・・
いきなり出だしから、飛ばしまくり、あっという間に休憩に・・・
その間の記憶が多少飛んでいたとしても、
私も癒されてみたいです。パイプオルガンのその迫力で!
オルガンのコンサートほど、聴く位置によって聴こえてくる
サウンドが左右されるものはないですよね。
でも、本当に凄い演奏っていうのは、ホールの響きや、
残響のバランスの悪さ、そんなものは、ふっとばします。
演奏のパワーだけで、ぐいぐい聴き手を引っ張り、振り回すものだ
と思います。私は、ベニス・バロック・オーケストラで、
それを感じました。ケネディーセンターの「シアター」は、
ぜーんぜんバロック向きのホールじゃないけれど、
そんなこと、5秒で忘れましたから。
ラトリーレポート後半、楽しみです〜!
(おっと、このまえのレスをする前に、こっちを先に書いてしまった・・・)
PS
> 音楽評論ってよりも、音楽時評に名を借りた「じょーく・むじーくコラム」?
> そのためには演奏はとんでもないほうが、おいしい?
> よく知らないですけど、まともに誉めた記事ってあるんですかね?
ありますよ。私が読んだ今までのものは、
例えばロンドンシンフォニーは絶賛だったし、良くも悪くも
ない場合も、その演奏の特徴が客観的に述べられていたりします。
そうか〜、これから、とんぽすの批評は、ジョーク・コラムの
つもりで、存分に楽しませてもらうことにしようっと。
投稿時間:03/03/21(Fri) 22:25
投稿者名:たけどん
Eメール:
URL :
タイトル:オリヴィエの技(のつもりが・・)
友:戦闘が始まりましたな。戦争について書くのか?
お:いや、とりあえずこのお話を終わらせないとね。
戦争が始まるとカーナビが調子よくない?
友:なんで?
お:カーナビってさ、GPSの電波使ってんじゃん。
あれ、軍事用だからさ、まあカーナビ用に電波使ってるのって
許可はしてなんだけど、お目こぼしみたいなもんなんだよな。
友:だから、どうなんのさ。
お:普段はプロテクトがかかってんのよ。だから誤差が出るように
なってんの。それが戦闘が始まると、プロテクトが解除される
わけ、そんでもって今まで走っていないところ表示していた
ようなカーナビが「ピタッ」と正確になるわけ。
それで戦闘開始が分かるって話。
友:へ〜、でもカーナビなんて付けてたっけ?
お:ないよ。
では、後半再開せり〜。
友:「む〜、してやられた。癒されてしまったあ〜」
お:「くっ、なかなかやるな!ラトリー」
友:「こってり、なんか食うからじゃ!」
お:「だいたい、会場内が真っ暗というのがイカン」
友:「演奏者だけにスポットライト当てて、オリヴィエだけが映える、という
演出もワカランではないがな。」
お:「それならもっと映える虹色のライティングにせんかい〜っ。
お陰でプログラムは読めんは、途中であいさつもせんから
観客には拍手するという節目もない、今何演奏してんだか
わからなかった客も多いのではないか? よけい眠気をさそったな」
友:「プログラムは、よ〜く目を懲らせば、読めた」
お:「あ〜、そ。」
友:「それにしても前回の<三度目のニワトリ>というのは何だ?」
お:「ああ、ありゃ、<ニワトリが鳴くまでに三度、イエスを拒否した>っての
をマチガエた」
友:「あ、そういうことね。ツメ、甘いな」
お:「・・・・」
何時からか、消防法が改正されて上演中の非常灯の点灯をしなくても
良くなったんだかなんなんだがで、ラトリー以外は、うっすらプロが
読めるかなというぐらい真っ暗状態。しかも途中拍手なしで、休憩まで
ぶっ飛ばしたラトリー。
くそ、無理矢理おいらひとりでも拍手してやりゃよかったかな。
いくらオルガンの大音響とはいえ、同じ刺激を受け続けたおいらたちは
腹の皮が突っ張っていたせいもあって、目の皮がたるむにまかせ、あまつさえ
おいらは上を向いて、口まで開けていたのだ。(開けたまでは記憶がある)
こんなのは初めてだ。かつて、あちこちで寝ているお客が散見された、
ローレンス・キングのハープコンサートでさえ、あの心地よい夢の世界へ
誘うようなバロックハープの調べですら、眠るなどということはなかったのにだ。
開演時間まで会場内をふらついていると、
「ここで聴けないかな、こんだけ空いてるんだしさ」と楽器の真っ正面
後方の席を指して友人が言った。ここはおいら聴いたことあるし、
ここはここで、不満は出るんだよな。
席に戻ると、空いていたはずのおいらの隣の席に、おねいさんが座ってる。
んん? これでおいらたちのいる列は左端からずっと隙間なしにうまった
・・・って、おい! おまえらは子供か!? 前の列ガラガラじゃん、
その前列も。なんでこの列だけ言われた通り(買った番号の通り)に、
ここだけ一列びっしりうまって座ってなきゃいかんのじゃ?
おまけに独りで聴きに来ていた兄さん!なんでこの列の右端にくっついて座る?
おまいさんのとなりはズッと空いてるやんけ!と思った途端,
場内が暗くなり、立ち上がって移動する気も失せ、コートを前の席の背もたれ
(誰もいない列の)にかけて座った。 (なんでクロークを利用しないのかね〜?)
懸案の後半部のプログラムは、意に反して「意外と聴かせるじゃん」
あなどれん、フランス人。ギルマンのオルガンソナタ第1番終楽章、
ヴィエルヌの幻想小品集から「月の光」「鬼火」「トッカータ」
これが「のーどるだむの腕」なのか?・・・得意種目かもな。
これに比べると前半部はなにか、メリハリがなかったな。
もっとも後半部のような曲目だけならべても、お客は敬遠するわな。
やっぱりバッハとかバロックのオルガン曲を入れないとな〜。
でも本当にやりたかった(ホントのところは知らないが)
のはこっちのほうだったのかもね。
こういうプロの組み方をしてくれると、おいたたちのような
「にわかオルガン聴き」たちもレパートリーが増えるってモンです。
CD買うときのストライクゾーンが、ちょと、広がりますかな。
でも、CDで聴くと意外と、どおってことない曲だったりするよ(真剣に聴いてない)
ホールでのライヴではずいぶんと曲の感じから
なにから違うものだからなあ〜。ライヴの方が、こちらも集中して聴く
姿勢になってるからねえ。(口開けて寝てたくせに!)
音栓の選び方とか、いろいろ言うべきことはあるんだろうけれど、
なにせ、だいぶ前のことなので記憶がいまひとつ・・・てへへ。
大体の印象しか残ってまへんのさ。
バッハから(居眠りを挟んで)フランクまで、音の大蛇がうねり続けていた
ような感じ、ふむ。っていうか、「息継ぎ」どころが分かんなかった。
だから、色彩は豊かで、ダイナミックな演奏なんだけど、演奏者の呼吸が
計れないので、自分の呼吸と合わせられない(速すぎるってのとは違う)。
演奏者は一曲終わっても、向こうを向いたまま、足下でなんか操作してるしね。
おいらは音楽の誕生(再生)に立ち会うのを、もうあきらめちゃって
そして、演奏に置いてかれて、響いてくる音響に身を任せるだけ。
後は音の大蛇がうねっているだけの感じになってしまった。
(・・って、わかりにくいな?)
その上、一曲ごとのお辞儀、拍手、というお決まりのセレモニーもないから
なおさらに聴いている方は、音楽が立ち上がるその場に直面しているにも
かかわらず、「ちょっと他人事」(この音楽の当事者ではない)のように
感じてしまったのではないかな〜? あ〜、拍手というのはきっと
ただの決まり事だからしてる、ってだけじゃないんだな。(居眠りの言い訳か?)
一曲ごとに挨拶をしないのが通例なのか、あの日何か事情があったのかは知らないし
それが重大というわけでもない。
もう大分経っているので正確でもないだろうし、
ラトリー氏にはすまないんだけれど、こんな風に感じた。
「うた」ではない、器楽曲なんだけれども、「息継ぎ」が感じられないと
特にライヴでは、きつい(?)のではないかな〜?と。
人間は本1ページさえも、一度には認識できないのだから、
あるていどの「纏まり」を作ってもらわないと・・・。
音が鳴り響いているときだけが「音楽」なのではないっていうか、
うまく言えないんだけれども「間」も、また何かを語っているんじゃないかなと。
(ぐっと止めるとか、切るとか、単純なことじゃなくて〜?)
たとえば、ヨーロッパのバイクのデザインで優れている点という話で
エンジン部分のパーツ、その一つひとつの重なり合いが何とも言えず
美しいのは、単にパーツのデザインが優れている、だけなのではなくて、
そのパーツによって切り取られる「空間」まで考えてデザインされているからだって話。
(ホントかどうかは知らない)
それは、「パーツ自身」と、パーツによって切り取られた「隙間」との
「空間構成」の見事さなのだ。
それをバイク自体(パーツの形状ばっか)見つめて、具体的なカタチのほう
だけを追いかけてると、その美しさの秘密には永遠に気付かない、という
仕組みになってたりして。
「ルビンの盃」みたいに一方が他方の図柄の「地」となってしまうので、
一度に、両方一緒に認識することはできないけれども、双方ともちゃんと
意味を持っていて、初めから両方ともそこにある。
なんだか分かんないけど、人間は、それをなんとなく感じることは、できている。
でも感じてはいるんだけど、これは「盃」だって決め込んだ頭で見つめてたら、
そこにちゃんとあるハズの「向かい合ってる顔」には、永遠に気が付かないっていうか・・?
(・・とか理屈みたいなものをつけてみたが、変?)
パーツのデザインだけにきゅうきゅうとしていては、日本はヨーロッパにはかてん。
(なんのはなしぢゃ・・?)
最後の「即興演奏」はおみごと。即興であんなふうに演奏できるモン
なのかな〜、すごいや〜。(←こども)
主題は書類封筒に入れられて、彼の元に運ばれ、その場で開けられる。
(まるでマジックショーみてえ)
演奏された主題は「・・・ハアルノオガワハ サラサラユクヨ〜♪」
会場から思わず笑いがこぼれる。
だが、演奏が始まるともう笑いなどない。主題は前後に分けられ
「ハアルノ、ハアルノ、ハアルノ・・」と次々と新たな声部に現れていく・・・。
「ハアルノ・・」ようやく「ハアルノオガワハ、ハアルノオガワハ・・」
調も変わっていくのでもう原型の歌の印象はなくなってしまう。
「・・・はるの小川が、どないしたちゅーねんんっ!!」
と言いたくなるのも無理はない(おいらが)。が、ラトリーの所為ではないし、
彼はちっとも悪くない。
日本人なら誰でも知っている童謡をテーマにして即興曲を演奏するのは
良いサービスかもしれないが、おいらたちは「ハアルノ・・」という旋律を
聴くと自然に頭の中で「・・小川はサラサラ行くよ」と歌ってしまうのだ。
ところが演奏はそうは進行しない。「アラ・・?」
当然だけれどもこれは彼には不利だ(でもおいらが勝つわけではない)。
もっともこれに不満を言うお客もいなかっただろうけど。
演奏はすごかったし・・・ね。
その国の誰もが知っている旋律を素材にするときはもうすこし
配慮があればな〜とか思ったけど、そこまで言うこともないかな。
それよりも、ふと「問題だぜ」と思いついたのは、全く関係ないけど
外国の演奏家が日本の民謡や童謡を演奏したCDを聴くとき、
あまりに配慮、心配りがない、と思うことが多い(目立つだけ?)ように感じること。
(ラトリーには関係ないですな)
「あんた〜、日本のココロ、なにもわかっちゃねーよ!」みたいな演奏ですのさ。
「無理言っているよ」と言うかも知れないケド「ウケ狙い」だけのアルバム残す
ほうがカッコ悪いと思うけどな。(そうは言ってもね〜。お仕事だし)
最も、そんなこと言うんなら、外国の音楽聴いて分かったふうのおいらの
方こそ、「まるで分かっちゃいねー」のかもしれないしな。(あるあるある〜っ!)
ここには「クラシック音楽は高尚で、ポピュラーは低俗」という話と
「ある民族の音楽は他民族には演奏し得ない」というお話が関係してくるような
気がしないでもない。
藍川由美氏(この人の、しんどい手仕事を厭わない、研究態度には敬意を表する)
の「演歌のススメ」って本の中で、古賀メロディーをウィーンで録音するシーンが
冒頭に出てくるんですけど。(この人のCD一枚だけ持ってる)
藍川氏がまず《愛の小窓》(日本的なコブシのきいた歌)を歌う。すると、
ウィーン・シュランメル・アンサンブルのメンバーが
「このメロディーはどこにアクセントが来るんですか?」と訊いてきた、と
いうのですな。
藍川氏によれば、「日本のクラシック畑の演奏家だとこうはいかない・・・」と。
「えーっ?! 古賀メロディーですかぁ?」
今まで高尚なクラシック音楽を学んできた自分に古賀メロなんか・・・。
『ところがクラシック音楽に精通し、さまざまな民族音楽を弁別する能力を
持った彼等の場合は違っていた。(中略)それぞれの音楽に相応しい演奏を
心がけている彼等だからこそ出てくる、核心を突いた質問だった』
(藍川由美『演歌のススメ』)
そこで藍川氏は『日本の伝統音楽は仏教声明の影響を受けており、
和音に重きが置かれず、主に単旋律に装飾を付ける形で発達してきた』
『コブシの多用される曲には〈ユリ〉〈ソリ〉〈スカシ〉〈マワス〉といった
声明の旋律型が発見される』
『たとえば〈マワス〉という旋律型は、音が一つだけ下がるときは下がった音
を強く押し出すように演奏し、一音ずつ連続して下がる場合にはアクセント
を付けないで滑らかに演奏する』と彼らに説明します。
「いつもですか?」「はい・・」
はたしてアクセントの位置を変えただけで、彼等の演奏は一変した。
「日本の音楽は面白い」と無邪気に新しい発見を喜ぶ彼らを見て、
『音楽をやって来て本当に良かった』と書いておられます。
初期の古賀メロディーが「ジプシー短音階」を使っていたとか、かなり
革新的な手法、異民族の音階などを使用していたりする話も出てきますが
それはまた、別のお話。
なんか、示唆的・・・?
その国の民族音楽を他国の演奏団体とかが演奏する場合も多いと思うけど
たんなるサービスにとどまらない演奏する側にも楽しいやり方ってありそう
な気がしません? サービス演奏だからって、悪いとは思わないけれども。
お:「後半よかったよね」
友:「聴き応えがあったよね」
お:「オルガンもバッハ、バロックだけじゃないね。不明でした」
本当は、「箱モノ」行政の延長線上に、地方のオルガン導入があり、
せっかく導入された楽器が生かされていない、という話。
お笑いで済まない「東京芸術劇場」の故障ばっかりの、回らない
「くるくる」ガルニエ・オルガンと助教授の陰謀、って話まで
いきたかったんですけど(あれ、ビケ♪さん聴いたことあります?)
戦争が始まるは、おいらのマックのOS9入れてたボリュームが起動し
なくなるは(これには往生した。ネット、メールはOSX(テン)で
起動してやってましたけど。マックユーザーでないと分からないかな)
システムディスクからも起動しないし、ハードの故障ならしょうがない。
本当に修理に出そうかと思ったほど。
三日悩んで、どうしようもなかった。ダメ元でネットの救急箱の掲示板で
皆さんの知恵を頼ろうと、もう一度症状を再現確認しようとメモしながら、
あれこれケーブルハズしたり、ハードドライブのマスターとスレイブ
入れ替えたりしてたら、「CD-ROMから起動した・・・ほっ!」
それからの復旧は手間だけの問題でしたけどね。
こんな風に「トラブル本」にも載ってない症状に何度も出くわし、
それを克服することでパソコン使いは大きくなるのねん!
友:「全く関係ない話になってるぞ。全然、話盛り上がってないしさ」
お:「今回も尻切れトンボじゃわい。今回はいろいろあれり、で。
ラトリー、ぶっとんじゃった。次回は『宮廷サロンコンサート』編か
戦争か?それとも ラーメン話かな。大迷惑、混乱編だ〜。何見てんだよ?」
友:「あほを、ひとつ・・・」
投稿時間:03/03/23(Sun) 11:34
投稿者名:ビケ♪
Eメール:
URL :
タイトル:オリヴィエの罠?
ラトリー完結編、ありがとうございました。
フランスものの方が良かったのですか〜。
オルガニストの親友から聞いた話ですが、日本のオルガン界では、
まず、バッハ。バッハを弾かずに、近現代ばかり弾く人は、
「分かりやすいものばかり弾く人(派手さで聴衆を惹きつけるだけの人)」と、
けなされたりするらしいのです。
人ぞれぞれ、得意分野があって当然で、
例えば近代フランスしか弾かない人でも、それで聴く人の心を
グラグラ揺さぶれれば、それでいいと思うのですが・・・
聴衆の方も、チェンバロを聴く人と同じくらい、まだまだ育っていなくて、
オルガンといえば、「トッカータとフーガニ短調」になっちゃう人が
大多数の現状。そこで、おそらく、ラトリーも、日本の招聘元エージェントから
「バッハ、入れてくださいませんか〜?」と、頼まれたのだと思います。
そこら辺は、ケイコさん、どう思われますか?(いきなり振ってごめんなさい!)
> バッハから(居眠りを挟んで)フランクまで、音の大蛇がうねり続けていた
> ような感じ、ふむ。っていうか、「息継ぎ」どころが分かんなかった。
> だから、色彩は豊かで、ダイナミックな演奏なんだけど、演奏者の呼吸が
> 計れないので、自分の呼吸と合わせられない(速すぎるってのとは違う)。
息を使わない器楽奏者が、夢中になると陥りやすい現象ですね・・・
でも、ラトリーほどの方だから、推進力でどんどん持っていく・・・
というのは、作戦だったのでしょうか?
でも、すくなくとも、たけどんさんは呼吸困難に陥ったわけですから、
あまりいい作戦ではなかったようですね。
> おいらは音楽の誕生(再生)に立ち会うのを、もうあきらめちゃって
> そして、演奏に置いてかれて、響いてくる音響に身を任せるだけ。
> 後は音の大蛇がうねっているだけの感じになってしまった。
> (・・って、わかりにくいな?)
わかります。昨日のナショ響のコンサートが、まさにそういう風でした。
プロコフィエフで。
なにせ、普段チェンバロを相手にしてますから、100人近くで奏でる、
それも、聴く人の呼吸とか、音楽自らが求める息遣いや流れとか、
そういうものが微妙に食い違ったまま、大音響を連続して聴くのは、
限界があるように思います。
> あ〜、拍手というのはきっと
> ただの決まり事だからしてる、ってだけじゃないんだな。(居眠りの言い訳か?)
拍手も聴き手にとって、とても大事な事なんだ、参加していることを
表現する手段なのだな、と気がつきました。
ちょっとはずれますが、楽章ごとにパチパチしちゃうアメリカの聴衆は、
参加したがりーが多いってことかな。自分の意見を示さずにはいられない。
なんとなく、そういう性格の人たちだというのは分かります。
演歌のお話で・・・
> 『ところがクラシック音楽に精通し、さまざまな民族音楽を弁別する能力を
> 持った彼等の場合は違っていた。(中略)それぞれの音楽に相応しい演奏を
> 心がけている彼等だからこそ出てくる、核心を突いた質問だった』
> (藍川由美『演歌のススメ』)
彼らのようになりたいです。
ジャンルを超えて、共通の、心を打つ要素を見つけ出したいですね。
> 「くるくる」ガルニエ・オルガンと助教授の陰謀、って話まで
> いきたかったんですけど(あれ、ビケ♪さん聴いたことあります?)
実名を挙げた、本が出版されているようですね・・・
まだ読んでいませんが。。。
私は、音楽を言葉で表現するの、下手だし、あきらめちゃってますけど、
たけどんさんに、このように書いていただくと、私までコンサートに
参加している追体験が出来て、楽しませていただきました。
いつか絶対、生聴くぞ〜!
ありがとうございました!!!
投稿時間:03/02/24(Mon) 00:21
投稿者名:たけどん
Eメール:
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タイトル:破裂の人形
もし自分の作った「作品」が他の人の賛同を得ることができたなら、
こんなにうれしいことはないですよね。
プラモなんか「模型コンクール」か、雑誌投稿なんでしょうけど。(賞賛されたいっ!)
そのうちなんか出そうかな・・・。
初心の頃は日々、どんどん技術的に進歩して、面白いように
うまくなっていくのが実感できます。でもある程度のところまでくると、
「ぱったり・・」進歩が止まったように感じることがあり、
今以上に進歩するにはこれまで以上に訓練しなくてはならない。
これは、「音波の周波数に対する聴覚の特性」と同じで80ヘルツの音と180ヘルツ
の音を聞き比べると誰でもたちまち違いが分かるのに、15キロヘルツと
15.1キロヘルツの違いは判別し難い。双方とも差は同じ100ヘルツなのにです。
人間の技量の進歩もそれと同じように、関数で上達の様子を表すと、
直線の正比例のグラフではなく、対数とか、関数をつかったものになりそうですな。
上達すればするほど、それ以上の向上のためにはいままで以上の奮闘努力が必要になるのでしょうか。
そこまでいくと、一般人には違いが分からなくても、本人や同じ技量の者には理解できる
「ソイツとコイツとじゃ、大違いなんだゼ! ベイベー」状態も起こりえますな。
「まったく、違いなんてわっかんない」というパンピー(一般ぴーぷる)には
作品の上っ面の仕上げでもほめておればよい・・・と。(みょ〜に侮蔑的、特権的発言)
ガンプラの出来が非常によくなった、ということは書きましたね。
それはユーザーにとっては非常に良いことであります。そんなに苦労しなくても
カックイ〜ガンダムが手にはいるわけですからね。
そんな状況で、オリジナリティーとやらを付加しようなどと考えると、もーたいへん。
なんで? 買ったモノどう料理しようと、そんなの個人の勝手じゃん。
それは、その通り、なんですけど・・・。
んん、例えばこんな風に考えていただけたらば。
プラモデルキットを楽譜、完成した作品を演奏された音楽と思っていただいて(失礼だし、イヤだ)
作品を楽譜に記譜するには一定のルールがありましょう?
勝手に「おれ記号」などを設定しても、楽譜を読む第三者には理解できないのですから。
作品を楽譜上に再構成する際には共通のルールに則って、記譜されるはず。
そこでは、楽譜に記載された音符という形にする過程においての、妥協と「書かれざるモノ」
の存在は不可避でしょう。
(たとえ「おれ記号」を認め、作曲家の意図がほぼ全面的に記譜が可能だったとしても、
複雑怪奇な、他人に読めない楽譜になんの一般性、存在理由がありましょう? プラキットも
不特定多数を対象とするマスプロダクツである以上、複雑、煩雑なものは不可となります)
楽譜に書かれた音符を音楽に再現するためには、また一定のルールに則って行われる
はず、そこには楽譜自体の、そしてその「書かれた音楽のスタイル」がルールとして存在する。
それに書かれた音符は、音楽に復元されるわけですが、
楽譜に記譜された通りに演奏しても、作曲家の意図を十全に再現したということには
ならない。(これがただランナーから切り離して、説明書の通りに組み立てた状態ですね)
設計者(作者)の意図の再現、それが可能かどうかは別としても、「おいらが買ったんだから、
煮て食おうと、焼いて食おうと勝手」という行為は、個人で楽しむなどの他は、
法律で禁止されているわけではないが、・・・そーは、いかないのだ(おいら的に)。
キットの「出来が良くなった」ということは、キット自体に使われている「語法」が
昔に比べてより鮮明になったと言っても良いのかもしれない。
つまり、ヘタに手を加えると、「体と頭はフランス語なのに、腕は英語、足はスワヒリ語」と
いう事態(全体から漂う、違和感)が起こりかねないのだ。
これは、実機のある模型(戦車とか、飛行機とか)を作った経験のない人には
実感しづらいことだろうとは思います。
昔は「何いってんだかわかんないけど英語風」という位の認識しか、メーカーも、
ユーザーも持っていなかったので、それにエスニックふうの味付けをしても違和感を
誰も持たなかった(実機ふうの識別番号や、コーションマーク、パネルライン表現など)
ばかりかアクセントとさえ理解されたかもしれない。
「かっこい〜ホンモノみてえ〜」
「最強のガンダム」なんだから大砲を4本付けたり、増加装甲を付けたり、羽なんかもいいよね・・・
外国語なんてわからん人間(おいらみてーな)にとっては、フランス語も、
えげれす語も、イタリヤン語でも区別できませんもんね。とにかく(欧米の)
外来語ならなんでも「かっこええ〜」
(しるぶぷれ〜、yep!)
実機を持たないアニメモデルというものが「いかに奇形」か、ということを実感していないから
こういうことにも気がつかない。
キット自体が明確な言語を使っているならば、それに変更を加えるには、その使用されている
言語に対する知識はもちろん、自分の使う言語とキットの持つそれとの「語法のすりあわせ」が
必要になるのではないだろうか? (そういうことに無頓着な人には関係がないことだが。もちろん
おいらも無頓着派だけど、めんどくさがりなので余計な改造はしないだけ)
アニメの設定画に書かれている情報量などは、模型で再現するには量的に少ないので、
設定通りの模型では、物足りないと考える人も多い。
(地味な部分の設定にこだわっても効果が少ないし、大変だし)
オリジナル、リアリティということを考えるひとは、何らかをプラスしなくてはいけないのだが・・・。
「汚しかけて、機体型式番号シール、ドカンと貼って、パネルラインなんかスジ彫りしまっくたら・・リアル?」
パッと見、ていうか、素人目には確かに「リアルっぽい」かな。
ところがドッコイ・・・「型式番号って、機密事項じゃん。それ、デカデカと貼るか?」とか
「機体の前面に、そんなに装甲の分割ライン入れるか? 前からタマとかビームが
どっかんどんかんくるのに、メンテナンス性だけを重視したそんな機体には乗りたくないよな」とか、
「削って、銀色塗ったらリアル? そんなに簡単に装甲板の角って削れないよ。
一年戦争当時の最高素材を使ったハズの装甲が削れる理由を教えてくれよ〜」とか、
今までリアルだと思っていた技法が、ミリタリーモデラーに言わせれば、ちゃんちゃら
おかしい冗談話(兵器としてはそんなのありえねー)になってしまうのですな。
おいらたちが今まで思ってきた、「戦闘ダメージだの、リアルだの、迫力だの」の正体は、
素人目には理解しやすいが、実際にはあり得ない、アニメモデルだから(見る人間の側に
模型の知識も、リアルを追求しようという姿勢すらもないから)こそ説得力を持っていた
薄っぺらい「こけおどし」に過ぎないのだということを思い知らされるのですわ・・・。
本気で、模型というモノに取り組んでいる人たちがいるのだ(マジでだ)。
彼らの知識と技量、それらを追求しようという努力と、
なにより「発想の豊かさ」(ちょっと分かりにくいかもしれないが、知識に裏付けられた
イマジネーションの豊かさ)には驚かされっぱなしだ。(それを模倣するのは、少しラクだ)
「コレはこういう状況下での使用を想定して設計されているマシンだから、この部分のパーツは
『砂よけ』に違いないから、こういうディテール・アップを・・」などなど、
「カッコイイからコレ付けよ」ではなく、論理的な裏付けから導き出されたモデリング、
それこそがキットのパーツ形状から、アイテムの設定から、設計者の意図を正確につかみ取り、
さらにそれに相応しい、省略された部分の「実体(モデル)としての再構成」を可能にする。
この正しい知識と技術の重奏が、オリジナルの改変、追加に対しても「オレ流」で終わらない、
幅広く訴える「説得力」を生み出すのだ。 (変人の思いつきもけっこう魅力的だったりもするが)
ユーザーの裾の広がりと、質の低下
かつて、ガンプラがブームの時、スケールモデラーがシーンに参入したことにより
スケールモデルに由来するテクニック、スキルが、キャラクターモデルリングのスキル
を、一気に底上げしてしまったことがありました。
表面処理の方法、塗装による表現の幅の広さ(設定通りに塗るだけが塗装ではないことなど)
使い込みによる塗装の剥がれ、サビ、黒ずみ、ダメージ表現、などなど。
また、複数のキットを使用した「情景モデル」(ジオラマ:ダイオラマとも)で大胆にクラッシュした
ザク(腕や足が吹っ飛んで中の機器などが見えていた)を見たときには
「くわっ! すっげえ〜」などと興奮したものでした。
当時は各キットの完成度が低く、各ユーザーのガンダムに対する肥大化したイメージを
投影するにはあまりにも、あまりな「デキ」だった。
しかし、それ故に各モデラーの腕の見せ所、振るいどころがあったのでありましたな。
「ここんを所をこうするとカッコエエ」、というような定番工作などもありました。
ところが、今日のようにキット自体のデキが良くなり過ぎてしまい、しかも塗装も
接着剤も不要で完成できる、という状態・・・イイのか悪いのか (イイに決まってるじゃん)。
今日ではもうメーカー側の方がユーザーのレベルを超えてしまっている状態なのかもしれない。
それは良いことなのだろうか? (今、現在はね)
昔のキットと比べると現在のキットのデキは格段に良くなっている。
ほとんど文句もないくらいだと言っても良い(あくまで一般的にだ)。
しかしそれが、実は問題なのだ。
ユーザーがメーカーの「後をくっついていっている」状態は必ず、棋界の先細りを生む。なぜか?
メーカー側は自分のたちの技術の粋を盛り込んだ製品を世に世り出す。が、
ユーザーがそれを受け入れない、理解していない(売れない)、と判断したときには、
それを葬り去ってしまうのだ。
たとえそれが優れたものであり、この先さらに広がる展開の可能性を持ったものであったとしても、だ。
まだその先へと進化すべきものが、退化していく「兆し」なのだ。
指の各関節が全部稼働する60分の1ガンダムの「過剰さ」の意味を、メーカーがユーザーを追い越して
しまっているこの状態を、ユーザー自身、危機感を持って見ているだろうか?
どんなに新技術を盛り込んで世に問うても、「すご〜い」の一言で済まし、タダの
いちアイテムとして消費されている状態は非常に危うい。
お先真っ暗を指し示しているのかもしれないのだ。
過去のガンプラブームではスケールモデラーの参入もあって、一気にユーザー側の目や
スキルが向上した。しかし、その後ユーザーは成長していないように見える。
次々に世代交代していくユーザーを考えれば設定される対象年齢の低下に伴う新たな技術
の投入(多色形成、スナップ・フィット=接着剤不要)なども不可避、あるいは画期的な技術かもしれない。
ユーザー側の「成長」なくして、今のメーカー側のキット製作技術の過剰さを理解は出来ないのだ。
そしてユーザーに理解されないものはメーカーは葬る。(コストとの兼ね合いもあるから当然)
それはプラモシーン全体の退行につながる危険性もあるのだ。
多くのユーザーが理解し、それを求めたときに初めてメーカーは動く。
ガンプラの進化の過程はその道筋をたどってきているはずだ。これまでは・・・。
趣味なんだから、なにやっても「アリ」なのは当然。誰にも非難されるいわれはない。
その時「タイムリー」なアイテムを一気に大量販売して、その次へ。
裾野が広いからこそ、頂上が高くなるのか?
頂上が高いから、裾野が広がるのか?
「誰にも分かりやすい程度、のスタイル」のみが残る、なんてことになったら寂しすぎる。
昔は考えられなかった「1万円」を超えるプラモデルが実現したのは、
ユーザーの理解と支持があったからこそではなかっただろうか。
ただ、ユーザーの数だけではなく、ユーザー側の理解力と成長こそが、活性化の必要条件なのだす。
・・・昨日、ようやく買ってから10年近く立つキット
「エルガイム・マーク・」(2,500円)を一応「完成」させたのだす。(いつ、組立始めたかは覚えていない)
去年末まで(一応、仮組みと一部塗装はしてた)ほっておいて、
年内には完成・・予定が2月末までかかったっす。
「今までの最高作」と思っていた(出来たとき)のですが、ゼータ・ガンダムと並べたら
「仕上がりのシャープさ」で負けている、と思い知りましたが。
(全身筆塗りのせいで厚ぼったくなりがち。ゼータは、基本色が缶スプレー塗装)
ずいぶん昔のキットなので、ほぼ全身にプロポーションの改修、改造が
必要で、めんどうだったですね。
とくに飛行形態へ変形する機構とプロポの両立をさせたかったのですが、
そのギミック(仕組み)が思いつかず何年もほっぽっておりました。
んが、ようやく一応の完成にたどり着きました。(知らない人には、なんの話だか〜)
塗装に関しては、もう一度しばらくしてから改修するつもりです・・・。あ〜あ。
でーも「かっくいい〜っ!!」と、暫し・・・うっとり・・しておきたい。 (アタマが破裂してるな)
ええ〜と、まとまったかな。
こんな話、やめときゃよかったかな? 長くなりすぎたよ、な、でも、まだ語り足りなかったような。
こんだけ、長いの書けるのも「雪の日も嵐の日も、毎日続けてる、タイピング練習」のおかげだ〜。
(読む方は大迷惑だ!)
「オリヴィエ・ラトリー」は、<あ、軽く>いきたいですね。 (もー、忘れかけてんじゃないの?)
投稿時間:03/03/03(Mon) 04:09
投稿者名:ビケ♪
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タイトル:いろいろ考えさせられました。
> おいらたちが今まで思ってきた、「戦闘ダメージだの、リアルだの、迫力だの」の正体は、
> 素人目には理解しやすいが、実際にはあり得ない、アニメモデルだから(見る人間の側に
> 模型の知識も、リアルを追求しようという姿勢すらもないから)こそ説得力を持っていた
> 薄っぺらい「こけおどし」に過ぎないのだということを思い知らされるのですわ・・・。
例えば、バッハの音楽に、フランスの装飾音を入れてみたり、
みたいなことって、ありがちなことではあることだと思います。
実際にバッハがフランスの装飾を、この曲に関しては
(またはこのジャンルに関しては)取り入れた、などということを
調べた上でだったら良いのですが、なんとなく合いそうだから、とか、
きれいだから、とか、背景の知識なしになされていること、
意外に多いと思います。
ある制約の中で(決まりごとの中で、私達の場合は、作曲者が
求めたことに忠実であるべき、という)
自分の美を追求するのが、古典であり、そういう意味では
プラモデルは、古典の再現芸術に似ているかもしれませんね。
今、宿題で、華道のことについて調べてます。
これも、形に様々な制約がありながら、いかに美しく(美しいって
いうのは、あくまで主観的ですから、常に「自分にとって」
という概念が含まれています)生けるか、が面白いのではないか、
と思います。私は華道の経験がないので、このことについては、
想像でしかありませんが。
プラモデルの奥の深さについて、よく理解できました。
とても意外な世界が展開されて、目が点です。
じっくり読んでいたら、レス遅くなりました。ごめんなさい!
次回は何かな・・・???
投稿時間:03/03/06(Thu) 21:54
投稿者名:たけどん
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タイトル:天からくるもの
もし、あの時・・どこかの誰かが、博物館から「チェンバロ」を引っぱり出そう
などと考えなかったなら、彼らは、過去の時代の家具調度品として扱われたまま、
今でも、ガラスの向こう側に時たま訪れる見学者の、さして関心もない視界の一隅を
かすめるだけ、であり続けただろう・・・。
ドルメッチ、ランドフスカがいなかったら古楽器でバッハを演奏するなど
好事家のなぐさみ、としか思われなかっただろう (当時はそう思われていたらしい)。
もし彼らが、それまで常識とされていたモダン楽器によるバッハ演奏にたいして
何の疑問も持たず、あるいは、それに異議を唱えることを芸術の発展に対する反動、後退
であると考え、自分の考えを現実化することをあきらめていたとしたら・・・。
・・・古楽器による演奏が世間的に認知されている現在の状況は、<僥倖>にすぎなかったのだろうか?
こんかいの「プラモデル編」は再現芸術に対するおいらなりの
演奏家の態度についての理解の仕方を書こうかな、と思ったモノでした。
ぶっちゃけていうとプラモについての記述は単なる前置き(あれだけ書いてか?)っていうか
「破裂の人形」を書くための布石(プラモを作るってことも、突き詰めると結構
大変なのさ、ということを理解してもらうためと、基礎的な用語を分かってもらうため、
そして普段、完成しても誰からもほめられない鬱憤晴らし)だったわけなのですが、
あまりうまくいかなかった・・・か?
コレを読んだ友人には「余りよくわからなかった」と言われました。(ToT)
はっきり言うと、こんかいのカキコは、ビケ♪さん(を筆頭に、モノを作ることに
何らかの意志を持ったことのある人)が対象であり、ビケ♪さんならお解りいただける
と思ってました。
でもって、その他の人には分かりにくいだろな〜というのは予想済みだったのだ!
自分に興味のないことをグダグダ書かれた文章を、すみまで読んでもらおうなどと
考えるには、それを書くヤツの熱意と、文章力(これが大きい)がポイント。
自分で読み返してみると、詳しく書いたつもりが、まだ言葉足らず、
しかも表現がヘタなので理解しにくいという部分あり、もう少し簡潔に表現
できなかったと思うところありで・・・
力量(文章力)の点では駄作だったろうけれど、ビケ♪さんなら熱意
(いっぱい書いたこと)の点を買ってくれる(隅まで読んでくれる)に違いない、
と踏んでいた、のさ。
そしてきっと「裏の真意」っていうか、今回のカキコに何か
「ひっかかるもの」を感じるはず、と。
ビケ♪さんにはお解りいただけたようなので、(友人に対してはともかく)
とりあえずは成功かな。(ひで〜やつだ)
前回までのカキコは、キャラクターモデルにおいて「実物がないから、何をやるのもアリ」
ということに対して批判でありました。これは、そのまま音楽においても
「昔はどんな風に演奏されていたのか、真実は誰も知らないのだから、
そんなことを追求してみても現代の我々に感動をもたらすとは限らない。
よってゲンダイ人の趣味に合うように自由に改変し演奏するのは芸術として、アリ」
ということに対する批判となります。
「正解」は誰にも分からないし、提示することも不可能でしょう。でも、さまざまな方法で
「正解に近い解答」、または「正解に近づくこと」は可能なはず。
プラモの話は、その為の正しい道筋、方法論というのも存在するはずだ、という視点でありました。
「正解がナイ、だから何をやってもOK」というのは・・・
「正解がないんだからまちがってない、まちがいでないのだから正しい」
こんな論法を展開してたら見えたはずの正解さえ見失ってしまう。
「まちがいではないから」ではなく「こういう理由で正しいから」と主張すべきだ。
実はこういうことを曖昧なままにしておいて、一番楽をするのは専門誌のモデラーだ。
なにしろどんなものを作っても「まちがいではない」のだ。
これがプロの仕事としていかにヌルい環境かがわかるだろう・・・。(ModelGraphix vol.182より)
なんか、「ぐっ・・」と来ません? (こないことを祈ってまふ)
でもそれだけですべてが済むならなら、今回のレス(ラトリーの回を飛ばして)はしなかったっす。
歴史に埋もれてしまった「正解」を探し求める。<それだけが芸術の方法であるわけではない>。
今回のお話は、「プラモ話」を、良く分かんないけど、最後まで読んでしまった人を、
さらに混乱させるためのもの・・・・ビケ♪さんにとっては、十分
お分かりのこと(おまいなんぞに言われるまでもなーい)だと思います。
(ヨタ話)
ただ今の時代、あまりにも「個性だの感性だの」の価値がバブルのように膨らんで
ネコも杓子も、大したもの持ってるわけでもねーヤツらが「好き勝手」やってることが
アーティストだからだの、天才だののたまって、インフレを起こしていることへ
のカウンターの意味もあったのですな。
薄っぺらい、はやりモノなど「あっ」と言う間に古びてしまうことすら
気づかない、っていうか、それよりもさらに新しいモノを作り出していくことに
こそ価値があるなんて・・・粗製濫造以外の何ものでもないのではないでしょうかね?
ま、売れりゃそれがすべてなんでしょうけども。
お客さんも「次の新譜はなに?」という姿勢が身に付いているようで・・・。
もっともきゃつらのディスクが売れてくれるおかげで、「税金対策部署」「名誉部署」の
各メーカーのクラシックCD部門もやっていけるわけだから、若手アーティストに
は、がむばってもらいたい。演歌もね(むかっ!節操がねぇ〜)。
そのクラシック部門で最も冷や飯食いで、窓際族の「古楽部門」は
おんぶにだっこで君たちに期待しているのだあ〜。
(ヨタ話おわり)
でも、実際問題、演奏家でも音楽学者でもないないおいらが
演奏とかについて語るなんで無理な話ではありますな・・・。
グレン・グールド(作家でテレビ演出家、詩人で俳優でたまにピアノを弾く)のバッハ
演奏史的には、きっと間違っているのだろうけれども、ずっとこの先も
聴かれ続けていくのでしょう。一般的な規則から逸脱したモノのみが「普遍」に
到達できる、というパラドックスの、ひとつのみごとな典型かもしれません。
なんだかとっても「変なヤツ」。何考えてたんだか、未だによく分からない。
現在残っているアーカイブの中での言動が、本心なのかどうかも不明。
コンサートドロップアウトは腕の故障が原因だった、という説がある(姿勢悪すぎ)。
グスタフ・レオンハルト(鍵盤楽器奏者)
古楽演奏のためには、当時の生活習慣、文化状況、作曲家自身に対する
理解、知識も有益なのではないだろか?
「バッハはどんな人だったと思いますか?」と聞かれたレオンハルトは、
「会ったことないし、死んでるし、そんなことには興味はない」と言ったとか。
バッハの音楽には興味があるけど、その他のことは、ってことでしょうか。
(でもアンタ、17世紀とかの城に住んで、当時の家具とかに囲まれてるじゃん?)
上記の二人は特別なのでしょう。時代状況を切り開く力を持った人間というのは
そうはいない。でも新たな時代を作るのは天才だけでは不可能なのだ。多くの模倣者
追随者があってこそ、新しいパラダイム像(過去のものも)が定着し、固定されていくのでしょう。
しかし「時代の標準」はスタティック(静的)ではありえない。
常にダイナミック(動的)なもの。人間の体と同じ。端から見たら昨日と同じように
見えても「恒常性」と「変化」が常にせめぎあっているのでしょうな。
「華道」なんか「恒常性」ばっからしいですぜ。・・・たけどん妹(華道師範より上、だっけな)語る。
「あらゆる演奏は編曲だが、抽象構造に色を付けるということではない。
元のものは存在しない。バッハが演奏したものは、かれのやり方にすぎない。
音色は非常大切だ。それは楽器と演奏者によるから・・・」
「演奏は成り行きであり、完成品の繰り返しや解釈ではない。演奏するとき、まず
することは聴こうとし、自由な遊びをひきおこすことだ・・・」
「演奏者は、バッハが作曲するのと同じ態度で演奏する。起こっていることに
注意をはらい、しかも劇的効果のために音の動きをコントロールしてはならない。
これは自己表現をあらかじめ排除する。それは、作曲家・演奏者・聴き手がひとつの
ものである完全に統合された音楽的状況にたいへん近づく。
演奏することは、ききとる、ことなのだ」
「聴衆はそこに参加し、音楽がひとりでに立ち上がるのを見守る。
音楽会やリサイタルは演奏者のただのみせびらかしではない。
聴衆も消極的に聴くだけではない。
かれらの音楽への心づかいこそが、それをひとりでに呼び起こすものなのだ」
(以上 高橋悠治 「失敗者としてのバッハ」より)
はあ〜。音楽って難しいんですねえ〜。
書かれてあることの真偽は、ビケ♪さんに判断をお任せしますけど、
もう一つ、これはどうなんでしょう? ビケ♪さん、どう思われます?
「彼(バッハ)の使った構造はかれのような心を受け止めるのに適していなかったことだ・・・
フーガ形式でやらなかったら成功したかもしれないこともある。
バッハのフーガは、フーガになろうとしているリチェルカーレで、音楽が主題を離れると
はるかに生き生きして自由な遊びに入っていく。ほかの調子でまた主題が表れるのは、
そのあとで新しいエピソードをはじめるための口実といえるくらいだ」
(以上 同)
ええっと、次は「オリヴィエ・らとりー編」だ。 なんとか、まとめないとな・・・「山場がな〜?」。
投稿時間:03/03/12(Wed) 01:27
投稿者名:ビケ♪
Eメール:
URL :
タイトル:裾野の広がりは・・・
一つ大事な論点を見逃していたような気がしました。
前回の記事からですが。
>ユーザーの裾の広がりと、質の低下
・・・・
>今日ではもうメーカー側の方がユーザーのレベルを超えてしまって
>いる状態なのかもしれない。
>それは良いことなのだろうか?
・・・・
>ユーザーがメーカーの「後をくっついていっている」状態は必ず、
>棋界の先細りを生む。なぜか?
>メーカー側は自分のたちの技術の粋を盛り込んだ製品を世に世り出す。が、
>ユーザーがそれを受け入れない、理解していない(売れない)、と判断したときには、
>それを葬り去ってしまうのだ。
>たとえそれが優れたものであり、この先さらに広がる展開の可能性
>を持ったものであったとしても、だ。
>まだその先へと進化すべきものが、退化していく「兆し」なのだ。
資本主義の、売れなければダメ、というシステム中では、
本当に質のいいものが育ちにくいか、画一化されやすい傾向がありますよね。
だから、売れるものをつくる部署と、
売れないけどこれは!と思うものを作る部署、双方で
バランスをとる、というのは、
少数の人しか求めない、本当に質のいいものが衰退してしまうのを
防ぐ、賢い方法だと思います。
ポップスの世界で、新譜を求める傾向は、
ある意味では、健全な音楽のあり方でもあると思います。
♪ ♪ ♪ ♪ ♪
> 「彼(バッハ)の使った構造はかれのような心を受け止めるのに適していなかったことだ・・・
> フーガ形式でやらなかったら成功したかもしれないこともある。
> バッハのフーガは、フーガになろうとしているリチェルカーレで、音楽が主題を離れると
> はるかに生き生きして自由な遊びに入っていく。ほかの調子でまた主題が表れるのは、
> そのあとで新しいエピソードをはじめるための口実といえるくらいだ」
「フーガになろうとしているリチェルカーレ」というのは
良く分からないけど、そのあとの記述は、そういう見方も
できるかな、と思います。
音楽それ自体は、決して語られうるものではなく、
ある音楽家の、音楽に対する見方は、語られうるものだと思います。
高橋さんの記述は、そういったものの一つであろうと思います。
自分の音楽は、自分の中にしかなく、聴き手となった時にも、
演奏者から与えられるだけのものではない。
たけどんさんには、お分かりですよね。
最近話題にしている、アーノンクールの演奏は、
ただ、与えられるのを待っている大多数の聴き手にとっては
その良さの何分の一も分からなかったかもしれない。
「ひとりでに音楽が立ち上がるのを見守る」という表現は、
「自分の心の中にある音楽(言葉にできないなにか)」が
今まさに、目の前で繰り広げられている「演奏」を通して呼び起こされる、
ということを言おうとしているのでしょうが、
ほら、いくら言葉を重ねたって、ぜんぜん説得力がない。
当たり前です。
音楽の力や魅力を知りたいなら、体験するしか、方法がないからです。
そして、一度それを体験したら、繰り返し体験せずにはいられないものでもあります。
言葉で表現できないしする必要もない。それが音楽なのだと思います。
投稿時間:03/03/22(Sat) 09:22
投稿者名:ワタセケイコ
Eメール:[email protected]
URL :http://www.keller.co.jp/
タイトル:オリヴィエ・ラトリーがくれたもの
ピケ♪さん、こんにちは。
戦争が始まって、私の掲示板でも、
あ〜だこ〜だ書いてみたりしていますが、
無力感にやられて
なんか昨日は一日、PCの前でダラダラ過ごしてしまいました。
たけどん様の圧倒的な文章に圧倒されつつ、
私のなかに、
オリヴィエ・ラトリーが灯してくれた、小さいろうそくの炎みたいな《音楽》が残っています、
とお伝えしたかったのでした。
フランクの作品の中の、
ほとんど静寂のなかに溶けていってしまいそうなピアニシモ、
それを、耳だけじゃなくて、全身の肌も、髪の毛も、
オルガンに向けて集中させて聴いたのでした。
自然とそうなってしまったのです。
むろん、演奏がたいそう良かったせいなのですが。
オルガンは奏者が音色を選ぶのだそうですが、
これ以外に、この作品が求めている音色はあり得まい、
と思われる天上の音色、
その美しさと、一瞬なりとも共にあったことは、
至福の体験でした。
コンサートのあの現場でなければけっしてわからない体験。
それを文章にするちからは、残念ながらないのですけれども。
ああ、今日生きていて良かった、と思われる時間を、
幸せなことに音楽を仕事にしているおかげで
いくつも持つことができています。
録音ではけっして得られない、体験しなければ・・・とおっしゃるピケ♪様の言葉にうなずきつつ。
コンサートから一ヶ月あまり過ぎて、
オリヴェエ・ラトリーが私に残してくれた「音楽」は、
鳴り渡るフォルテシモではなく、
闊達で自在な超絶技巧でもなく、
手のひらに暖めながらそっと持っていたいような、
ピアニシモの世界でした。
どうも、そのへんに自分の目指すところ、最も好きな領域、
目指すコンサートがありそうです。
声高な戦争反対を叫ぶ方法が、
自分には合わないと感じるように・・・。
それでも、年齢のせいでしょうか、危機感が大きいせいでしょうか、
自分の仕事と、どう関わりあいを持たせるか、
ぼんやりとですが、考えていかなければと思っています。
プロデューサー協会というものがあって、
来年、五周年記念に
《究極のコンサート》というものを
試みることになっています。
試案は私が用意することになりました。
さて・・・。
PS オリヴェエ・ラトリーが、すみだトリフォニーホールでのラストの即興に「花」(春のうららの隅田川・・・)のメロディをテーマに選んだことは、私には、たいへん興ざめなコトでした。責任者出て来い(笑)、と云っちゃいたいくらいです。
ホール側からの提案ではなかったとか。
そうすると、招聘元のマネージャーかな。
投稿時間:03/03/23(Sun) 20:46
投稿者名:たけどん
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タイトル:オリヴィエ・ラトリー、隠れたもの(←強引)
ワタセさん、ビケ♪さん、こんにちは。(なんだ、なんだ?)
途中で居眠りこいてた とーへんぼく2人とは違い。
ラトリーの演奏から、大変素晴らしい贈り物を受け取ったよう
ですね。
> オリヴィエ・ラトリーが灯してくれた、小さいろうそくの炎みたいな《音楽》が残っています、
> とお伝えしたかったのでした。
びゅーりほ〜。おいらも、ホントは、こーゆー風なことが書きたいのだ!
(へそ曲がりにはムリだ)
> それを、耳だけじゃなくて、全身の肌も、髪の毛も、
> オルガンに向けて集中させて聴いたのでした。
> 自然とそうなってしまったのです。
し、しまたっ! おいらはその時、夢ん中、だったのだなっ。
OH〜!! なんてこったいっ! こんな節穴の目は(耳じゃないのか?)、
くりぬいて銀紙でもはっとけっ! じーざす。
・・・いきなり、おちゃらけてしまいましたが、実演に対して
ワタセさんや、友人のように新鮮な気持ち、ワクワク、ドキドキ
みたいな気持ちが、「最近なかったよな〜」と自戒してしまいました。
会場に行く前から「これは、こんなもんじゃん?」みたいな気分で
コンサートに臨んでいたような・・・。
たぶん、居眠りしていなくても、ワタセさんがラトリーから受け
取った贈り物は、多分、おいらには受け取ることはできなかった
でしょう。
聴衆であること、演奏者が一方的に観客にサービスを提供するか
のような気分でいたこと、「音楽が誕生する場、に居合わせる」こと
の歓、自らがそれに参加していることの自覚がないのであ
れば、何ゆえ「生演奏」の感動など味わえましょうか?
音楽が「時間的素材の芸術」であるということは、繰り返し
何度も同じ演奏が再現できるものではない、というのを根源的に
包含しているはず、おいらたちはCDの演奏に慣れすぎ、気に入った
演奏は何度でも繰り返し聴ける環境にあるために、コンサートも
その延長だ、くらいにしか考えていなかったのではあるまいと洗面器。(こら〜っ!)
たとえ演奏者が、同じ曲目でコンサート・ツアーしているのだと
しても、その会場にいる観客が、その曲を良く知っているにしても
「音楽は今」その時、その場で誕生するのだ。 (何度も何度でも)
ワタセさんのカキコは、おざなりにしてきたコンサートに対する
考え方を見直す、良いきっかけを与えてくれました。どうもありがとう!
(でも、きっとカキコの方は、これからもおかしなままだと思う)
世阿弥の「風姿花伝」をもう一度読もうかな・・・。
もってたけど、どこか行っちゃったな? (あ、図書館で借りよ〜)
責任者出て来い(笑)、と云っちゃいたいくらいです。
> ホール側からの提案ではなかったとか。
> そうすると、招聘元のマネージャーかな。
あ、な〜る・・。演奏者の一存で「プロ」を決められるというもの
でもないんですね。ふむふむ。
事情を知らないおいらには、「オリヴィエのサービス演奏」くらい
にしか考えていなかったけど、なるほど。
おいら的には「春の小川」(題、こうでしたっけ)にしろ「春」にしろ、
最後まで一通り演奏してもらいたかった。
それなりの音栓選んでくれて、最後まで通して<唱って>くれたら、
たとえ単旋律、単純な片手演奏でも、「お〜っ」「じ〜ん」と来た
ような気がしますけど、どうでしょう?
ビケ♪さんのようにプロの演奏家ではないから、素材の料理法の
巧拙はわからないから、おいらはこう考えるんですけど。
観客が良く知っている慣れ親しんだ「唄」を扱うのだから、
いや「だからこそ」最後まで通して演奏する。
それがお客、テーマとして使う「唄」に対して、単なる「素材」として
扱っているのではない「と感じさせる」心遣いにもなるのではないか?
そのうえでなら、テーマ切り刻んでも、上を下への大騒動でも
「なんでも好きにおしっ!」みたいな・・・(どうか?)。
う〜む、ホールに招聘元に、かあー。
オリヴィエの演奏する姿が、遠くに感じたのは、おいらの方が
距離をとっていたからだけではないような気もするなー。
安直なサービス、「受け」を狙ったと言い切りたくはないけど、
想像力の貧困さを感じる。そんなんではお客はちっとも悦ばない。
どころか、安っぽい愛想笑いなんかお客にするべきじゃないと思う。
「童謡」を扱った事、にではなくて、その「扱い方」が安直で、
サービスというのは、「だれもが良く知ってる唄」をテーマとして
使う、までで、それを西洋の音楽に(ここまで言うのは実際、酷だが)
なんのすり合わせもなく組み入れて、西洋のやり方で「唄」を単なる
素材として処理してしまった。
これでは、その唄に慣れ親しんで来たものとして、何とも「なんとも
いいようがねえ〜」気分になるのは当たり前ではなかろうか?
「日本の皆さんならこのテーマ、ご存じだろ?」と聞こえ
かねないようなやり方だったってこと。
テーマが提示されその後は、おいらたち素人は、置いてけぼり、
くっちまったような気持ちになるよ。
それだったら、片手の単旋律で「しっとり」唄をうたってくれた
ほうが心にグッと・・・こないかな?
これの責任(があるのか)をラトリーにすべて帰すことはできない
ような気がする。
「・・こうすればお客が悦ぶだろ」くらいに考えているホールだか、
招聘元だかの発想力の貧困さを責めてい・・・・って、
もう、これくらいで、いい加減にします。
投稿時間:03/03/23(Sun) 11:55
投稿者名:ビケ♪
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タイトル:やはり、素晴らしかったんですね!
ケイコさま
いいですね〜!もう、絶対絶対行きたくなってしまった。
ラトリーのコンサート。
DCには、・・・来ないだろうなぁ・・・NYならまだしも・・・
ときどき、ムジクケラーのHPも、ひそかに訪れています。
このような状況に、音楽は何ができるのか・・・
やはり、私たちにとっては、美しいものを作り続けること、
それしか出来ないように思います。
音楽そのものでなく、音楽がなされる環境や、
その効果を「利用」して・・・
ということになるのは、いやなのです。(ロシアの作曲家が
昔、共産主義のプロパガンダに利用されたように)。
ケイコさんがコンサートの様子を表現してくださったのを読んで、
またまた、すごさが分かりました。
> プロデューサー協会というものがあって、
> 来年、五周年記念に
> 《究極のコンサート》というものを
> 試みることになっています。
> 試案は私が用意することになりました。
> さて・・・。
とっても楽しみです!何が飛び出すのでしょうね!!!
> PS オリヴェエ・ラトリーが、すみだトリフォニーホールでのラストの即興に「花」(春のうららの隅田川・・・)のメロディをテーマに選んだことは、私には、たいへん興ざめなコトでした。責任者出て来い(笑)、と云っちゃいたいくらいです。
> ホール側からの提案ではなかったとか。
> そうすると、招聘元のマネージャーかな。
実は、前からケイコさんに伺ってみたかったことがあるのですが、
コンサート・ビジネスというのは、産業革命で、一般市民が
経済力を持つようになり、音楽が大衆化したから
成り立つようになったのですよね。美術でも音楽でも、
分かりやすくないと受け入れられなくなった。
私は、ケイコさんの、音楽や文学や、芸術一般に対する高い審美眼を、とても尊敬しております。
しかし、音楽をプロデュースなさるお立場で、本当に自分が「良い」
と信じるものが、必ずしも、多くの人に受け入れられない、ということを
体験されたこと、おありになるのではないでしょうか?
そういった場合、ご自身の中で、どういう風に折り合いをつけられるので
しょうか。
アンコールの即興演奏の件も、たけどんさんがいらした回も、
日本のメロディーだったそうです。
ケイコさんなら、絶対に選ばない(私はどちらかというと、テーマは
どうでもよくて、料理の仕方=即興の仕方に興味があるので、
それほ嫌悪感を覚えなかったかもしれません)日本のメロディー、
もしかして、識者である招聘元のマネージャーも、いやだったかも
しれないけれど、おそらく、大多数の、オルガン通ではない聴衆のことを
考えてとった措置ですよね。
その辺のところを、おきかせ頂ければ幸いです。
お時間のあるときに、よろしくお願いいたします。
投稿時間:03/03/24(Mon) 21:04
投稿者名:ワタセケイコ
Eメール:[email protected]
URL :http://www.keller.co.jp/
タイトル:クラシックって・・・
ピケ♪さん、たけどんさん、こんにちは。
演奏についても、作品についても、
受け止め方ってほんとさまざまですね。
自分と同感!って云ってもらえると嬉しいものですが、
まったく違う反応も、それはそれで面白い。
一面的ではありえないのが音楽だし、ライブですよね。
さて、ご質問を私なりに、考えてみますね、書き込みながら・・・。
>音楽をプロデュースなさるお立場で、本当に自分が「良い」
> と信じるものが、必ずしも、多くの人に受け入れられない、ということを
> 体験されたこと、おありになるのではないでしょうか?
1)ご質問の文中、「受け入れられない」という言葉を中心に考えると。
実は・・・コンサートにおいては、これが、経験ないんです。
具体的にお客様からNGを出された、ってことがない。
逆に、私が「ダメダこりゃあ」と思っているものに万雷の拍手が起こったりしたことはあります。
これは、理由がはっきりしています。
演奏がダメでも、クラシックというのは曲に救われる部分が、非常に大きい。
クラシックとは、古典という意味だけじゃなくて、
クラスファイって単語があったような気がするんだけど、
クラス分け、選別されて生き抜いてきた音楽作品なわけです。
多少退屈な演奏であっても、ミスがあっても、
ゆるされる範囲が広い。懐がひろいんでしょうね。
現代音楽はちがいますよ、
まだ、実験段階だから、演奏がものすごく良くないとダメです。
演奏が良すぎて曲のつたなさがカバーされていることすらあります。
2)しかし、ご質問の中の「多数」を中心に考えると。
「受け入れられない」のは日常、常にそれはもう。
だって、ビジネスとして成立してないですもん、まだ。
> そういった場合、ご自身の中で、どういう風に折り合いをつけられ
>るのでしょうか。
気にしないです。
音楽とは信仰みたいなものである、と思っています。
あるいは、私はもしかすると飢えているのです。
もっと聴きたい、もっとあちらの世界に行きたい、というような。
業が深い、という言葉がありますが、
欲があるのです。
欲望は、人によって千差万別。
私の差し出したお皿がノーサンキューという人がいてもあたりまえかな、と。
しかし、独り占めしてもしょうがないのが音楽。
私は、私を満たしてくれた音楽を、
ムダかもしれない、
その人には必要ないのかもしれない、
でも、人生変わるかもしれない、
聴いてみませんか・・・って云い続ける役割らしいです。
なんだかはぐらかしているみたいでごめんなさい、
そういうつもりではないんだけれど・・・。
私が、なんだか、即興での《日本のメロディ》問題でカチンときているのは、
たけどん氏も指摘されているように、
この選択をした人が、
ホントに心の底から、「これはいい選択なんだ!」と確信犯的にやった企画ではない、そのいい加減さが透けて見えるからです。
全員に良いと思ってもらえるわけはありません。
だけど、制作側が「まあ、こんなところでいいだろう」と思って仕事していたら、救われないのは演奏家。
だって、彼らはすっごくがんばっちゃう人種ですから。
親しみを持ってもらおう、というのはまあ、OK.
でも、音楽そのものにクチを出すなら、制作者はある覚悟を持たないと。
日本のメロディを使うなんて、あまりに安直過ぎて。
そこがアタマにくる。
どんなに異質のものであっても、
いえ、異質であるからこそ、
なのに感じてしまう、通じてしまう「美」が音楽だと思うのです。
ごくごく短いメロディの一滴が大河となる即興、
最初の一滴は、透明で、意味など持たないちょっとした音のカタマリでいいと思うのです。
ほら、子供向け、っていうの、
アレも、「まあ、このぐらいの曲でいいだろう」って、
考えられていない「手加減」があるでしょう、
あれもホント余計なお世話だと思うんだなあ。
子供に失礼です。
すご〜く時間を短くして、
ものすごい演奏をバッと聴かせてあげればいいんだと思うんです。
ほんとのクラシックの、一番良い演奏家の、
すっごくいいところをね。
私もかなりいい加減な人間ですが、
世の中にひとつぐらい真剣に向き合うものがほしい、
それが「音楽」なんですね。
つい、アツクなっちゃいますね。
投稿時間:03/03/24(Mon) 21:34
投稿者名:ワタセケイコ
Eメール:[email protected]
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タイトル:サントリーでもね
実は、オリヴィエ・ラトリーの前の週、
サントリーホールに《オルガン三銃士》と題された
三人のオルガニストの競演を聴きに行っていて、
そこでも、
即興のメロディは、「早春賦」だったんですよ。
このときの三銃士は、
私には演奏としては全然楽しめなかったのですが、
残念ながら....
でも、サントリーホールのオルガンは
どうも、やっぱり楽器の鳴りがとてもいいんですね。
空気の振動、はじめてのオルガン体験を肌で楽しんできた、そんなかんじでした。
しかし・・・即興のテーマが早春賦とは、
とがっかりしたわけです。
オルガンのイメージもガタオチ、と思ったくらい。
そしたら、
三銃士の三十倍ぐらいすばらしいのではないかと思われるラトリー、
(ノートルダム寺院の正オルガニストなんですよね、彼って)
そのラトリーにも、まったく同じコトをさせている。
その見識のなさに、
唖然としたのでした。
投稿時間:03/03/25(Tue) 01:13
投稿者名:ビケ♪
Eメール:
URL :
タイトル:Re:
サントリーでもね
ケイコさん、
とても丁寧に、お答えいただきまして、ありがとうございました。
コンサートの制作者がみんな、ケイコさんのように
ハングリーで、情熱を傾けられる方だったら、
もっとコンサートに足を運び、「人生を変えてしまう」ような
ものを見つけられる人が増えるのに・・・
クラシックが、「クラスィファイ」された音楽であるというのは、
私にとっては、新たな見方でした。
いかに、(現代音楽を含めない)クラシックにしか
目が向いていなかったかの証拠ですね。
考えてみたら、私、ケイコさんの一押しの現代音楽の
コンサートに、まだ行っていませんでした。
しばらくは予定が立ちませんが、今度帰国する時には、
エアリエルのHPでチェックしてから、帰ります!
本当にありがとうございました。
投稿時間:03/03/25(Tue) 20:28
投稿者名:ワタセケイコ
Eメール:[email protected]
URL :http://www.keller.co.jp/
タイトル:一日経ってみると。。。
ピケ♪さん
一日経って自分の文章を読んでみるとハズカシ〜!
ピケ♪さんの質問へのお答えに全然なっていませんね。
すいません。
お給料が保証されているのに、
安全路線から一歩も踏み出すことなく、
それどころか、しばしば、お砂糖でも振り掛けるように、
本来の良さを妨げるみたいな、
「わかりやすくするための」味付けを施してしまう。
そのひとつが、アレかな、日本のメロディかな、と感じたのです。
本心から『良い』と思ってもいないコンサートを提供している人たちがいる・・・ということが、私は非常に残念なんですね。
オタクって云われることが、そんなにイヤなのかなあ。
いわゆる売れセンしか売れない、
わかりやすいものしか売れない、
そういう日本の音楽界の状況が残念です。
まだ価値がわからない実験的な現代音楽は、
本当に寒い状況です。
そのうち、きっと面白いことやりますから、
待っててくださいネ。
イチオシ、の現代のコンサート・・・ううむ、今は無い、です。
サックスの雲井さんが異分野への挑戦を開始しました。
詳しくは、エアリエルのHPへどうぞ。(^^)
投稿時間:03/03/26(Wed) 12:52
投稿者名:ビケ♪
Eメール:
URL :
タイトル:そんなことないですよ!
> ピケ♪さんの質問へのお答えに全然なっていませんね。
そんなことないです。音楽制作者の方々にも、きっといろいろな
タイプの方がいらっしゃると思いますが、
私は、ケイコさんがどういう風に
思っていらっしゃるかな〜、って、それが伺いたかったのです。
ケイコさんの意見を聞いてると、なんだか元気が出てきます!
> いわゆる売れセンしか売れない、
> わかりやすいものしか売れない、
> そういう日本の音楽界の状況が残念です。
そうですよね。
どうしたらその状況を、変えていけるのでしょうね・・・
ワシントンDCの状況は、それにすこし近いかもしれません。
プログラム、メジャーな曲ばかり、ということがしばしばです。
これから先、ちょこちょこと、ワシントンDCを脱出します!
5月には鍵盤楽器協会の学会に、6月にはボストンの古楽祭に
行って来ます。帰ってきたら、ご報告したいと思います!
> そのうち、きっと面白いことやりますから、
> 待っててくださいネ。
はい!楽しみにしています!
> サックスの雲井さんが異分野への挑戦を開始しました。
> 詳しくは、エアリエルのHPへどうぞ。(^^)
それは見に行かなくては!
ありがとうございました!またいらしてくださいませ〜!!!