10.闇 遙香が消えた。 大学に入学するために山梨から東京へ出てきて、 西国分寺のアパートから通学していた。 卒業後は、外国語教材の販売会社に勤め、 主に事務の仕事をしていた。 会社が池袋にある関係で東上線の東長崎に移り住み、6年たっていた。 美恵子が仕事の帰りに寄ってみたが、 遙香のマンションは空室になっていたという。              ☆ 聡美は、遙香が心配だったが、今、それ以上に不安になっている ことがある。 ストラティスからの手紙が来ないことだ。 出産後、国際電話したときに、心から喜んでいた彼の事を 信頼しているが、今、独りで乳飲み子の世話をしていると、 どうしても、その子の将来を案じてしまうのだ。 2ヶ月の間に、彼からの手紙は、1通だった。 聡美とストラティスは、英語でやりとりしてきた。 手紙は英語で書かれている。 内容は、道場の後輩のこと、学校の 生徒の事、美実の事に集中していた。 けれども、手書きの手紙にこだわっていた彼らしくないワープロの 文字だった。 ストラティスは、クラシックな文体で手紙を 書くのが好きで、新宿のアドホックまでペンや便せんを買いに出向く ほどだった。 その彼が活字でエアメールを送ってくるのは、めずらし いことだ。 「忙しいんじゃないの? 就職活動でもしてるのよ」 母は、全てを前向きに捉えるように勧めるが、聡美の心は、決して 穏やかではなかった。 「こういうの、きっかけにして、恋人同士って新しい人生に向かって いったりするんだろうなあ。 ただ、姉さんの場合、美実が 生まれてしまったことが・・・」康平はそう言いかけて、口をつぐんだ。 姉は、険しい視線を彼に送っており、それ以上言ったら何が飛んで くるかわからないと感じ取ったからだ。 「土日には家にいるから、美実を見ててあげる。 聡美、映画を 見てくるとか、買い物をしてくるとかしたほうがいいわ」 母は、家にいる間は孫を抱いたり、寝かしつけたりして、聡美の 心身をきづかっていた。  聡美は、こぼれそうになる涙を押さえていた。 「お母さん、ありがとう。 私は大丈夫よ」 上目遣いに笑いながら、答えた。 「姉貴、俺も及ばずながら、協力するよ」 康平が、遅れ気味に調子よく笑いながら、手のひらを差し出し、 聡美の5本指を求めた。 「この、お調子者が」 内心は、弟の優しさを聡美も感じている。 康平の手のひらを力を込めて叩き返した。                 夜、家族で食事を終えた後、茶をすすりながらテレビを 見ていると、ちょうど歌合戦のステージに飛び込んできたのは アメリカ人男性と日本人女性のカップルだった。 夫婦は、6歳を頭に3人の子供を連れていて、ジョンソンと名乗った。 男はマーティンといい、妻の顔のアップには、美代子ジョンソンという 文字が添えられている。 始めは、何気なく見ていた父や母も少しずつ 表情を変え、横になっていた父は起きあがってテーブルのリモコンを 手にすると、チャンネルを変えてしまった。 「野球の点数が気になるからなあ」 そう言って、何も見なかったかのように、ジャイアンツに声援を 送っている。  聡美も何も言わず、リンゴに手を伸ばした。 そんなさりげない家族の思いやりに、なんだか力が湧いた。                ☆ そんな夜、美恵子から電話を受ける。 「遙香がね、海外へ出かけたって、遙香の実家へ電話したら」 「え、海外、どこ?」 「ん、分からない。 ご実家のお母さんも知らないって。」 「実家、美恵子、知ってたんだ・・」 「違うよ、前に桃を送ってもらったことがあったの。その時の 送り状の差出人の住所、写しておいたから」 「そう・・」前向きになりかけた聡美の頭の中に、何の根拠も 無い映像が浮かんで消えた。  ・・遙香がギリシャへ・・ そんな結びつき方をしてしまったのだ。 ストラティスの音信が途絶えていることは美恵子には告げなかった。 「ハンサムなカレシと外国へ行ったのかなあ・・・やっぱり女友達 よりも恋人なのかな、引っ越すなら一言ほしいよね・・・」 美恵子は、淡々と喋っていたが、それ以上何も聡美の心の奥に響か なかった。 その夜、聡美は、おぼつかない勉強したてのギリシャ語で国際電話を 試みた。ストラティスの実家の電話に出たのは女の声だった。たぶん、 彼の母親だろう。 美実が生まれて電話したときに、聞いた覚えのある 声だった。 聡美は、Ime Satomi, SATOMI. と何度も自分の名前を繰り返す。 自分の息子の嫁の名前ぐらいは分かるはずだ。 「THa iTHela na  miliso ston Stratis.」  (ストラティスと話したいのですが) ところが、その声はいつまでも喋っていて、誰にも替わろうとせず、 聡美も一方的に話しかけたものの、相手の返答が理解できなかった。 仕方が無いので、Signomi. (ごめんなさい) と何度も言って、 切ってしまった。  とても、無力で情けなく感じた。  (つづく)



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