11.台風の目 9月下旬。最後の土曜日の朝。 聡美は、早朝から物音で目が覚めた。 眠りが浅かったせいもある。 どこかから飛んできた段ボール箱の断片が庭のあちこちにぶつかっている。 2日前から台風警報が出ていた。 関東甲信越地方は、昼頃から雨足が強くなり、今夜一晩中雨が 降り続けるという。 「こんな天気の中、行くの?」 「うん、 この一週間ずっと気になって眠れないから。  美実のこと、悪いけど、 お願いね、お母さん」 「きをつけるのよ」                             ☆ 立川で乗り換えた特急あずさは、昼過ぎに小淵沢に到着する。 さらに目的の駅へは、各駅に乗り5分ほどだった。 タクシーに乗り、森林豊かな地帯を走り抜けていくと、 大粒の雨が降り出した。  「いつもは、この辺は眺めがいいんですよー。 お客さんも  こんな日に出かけられるなんて、よほどの急用なんでしょう?」 運転手は、ハンドルを握りながら時折ルームミラーを覗き込んでいる。 「あのー、この番地なんですけど、分かりますか?」 聡美は、電話で美恵子から聞いて写し取ったメモを見せた。 「あー、その町なら、この道なりに30分くらい行ったところで  すよ。 何て言うお宅なんです?」 「岡島・・っていうんですけど、分かりますか?」 「え、岡島?」ルームミラーに映った運転手の目が一瞬けわしく 聡美を睨む。 それから、暫く運転手は何も言わなかった。 聡美は、慌ただしく水を掃き出すワイパーの間から前方を眺めていた。  「あんた、岡島さんの親戚なの?」ようやく口を開いた運転手は、 とても、ぶっきらぼうだった。  「いいえ、娘さんの同級生で・・」運転手は、遙香の実家を知っている 様子だ。その態度の豹変ぶりよりも、むしろ、そこへたどり着けるという 安堵感の方が先立った。 「岡島の家の娘、今どこにいるんだい?」 「どこって・・」 「借金の取り立てで大変だろう?」 「借金?」 「アンタも友達なら、随分、金を用立ててやったんじゃないの?」 「え?」聡美には、事情が一切、わからない。 「岡島さん・・って、遙香っていう名前の娘さんのいる家ですよ?」 「そうそう、 長女が確かそんな名前だったかな、あそこの家は、  金が無いのに、子供ばっかり6人もいてなあ。 その遙香って  いう娘が随分と金策に走ったらしいね・・・ほら、親父さんが婆さん  を刺してから、商売が成り立たなくなっただろう?」 「お父様がお婆さまを、刺した・・んですか?」 「え?」運転手は不思議そうに聡美の顔を振り返った。 「アンタ、もしかして、何にも知らないの? 友達なんだろう」 「あの、それはいつ頃の話ですか?」 「たしか・・・8年くらい前だったかなあ」 知らなかった。  そういえば、大学3年の頃、遙香はやたらと美恵子に金を借りていたようだ。  「酒屋の旦那なのにアル中で、ろくに店にも出ずに、奥で酒ばかり食  らってたよ。 長女の遙香っていうのが、大学に行きながら夜は  働いて、仕送りしてたんだってなー。 4つ下の妹さんなんかは、  それで高校に出してもらったそうだよ。」 遙香は、大学時代は同好会にも出ていたし、帰りには一緒に買い食いも した。 他愛のない話をし、普通に帰宅していたように見えた。 夜に仕事をしていたことは、知らなかった。 「近所じゃ子供達は評判が良かったよ。 もう3人目まで大学を出てる  ってな。 遙香っていうのが、随分と生活を切りつめて弟妹たちに、金を  送ってきたみたいでさ。 でも、せいぜい、4〜5万の仕送りだった  ろう。 おふくろさんの目が弱ってきて、パートも無理だから、やっぱり  店の新装開店しか無いだろうって、長女が、去年辺りから、また夜も  働きだしたらしいよ。 でもな、あの事件の後はもう滅茶苦茶だったん  じゃないか? 普通の神経の娘なら自殺も考えたくなるだろう」  「事件?」 ルームミラーに映った運転手の表情は呆れていた。  「本当になんにも知らないんだな。 東京の人っていうのは冷たい  って聞くけど、遙香さんも東京じゃ本当の友達に出逢えてなかったの   じゃないか」    そうかもしれない、聡美はうつむいた。  「放火だよ。今年の4月さ。新聞にも出ていたな。親父さんが、今度は  隣町の工場に火付けしたんだ。 その弁償額が半端じゃなくて、  今じゃ、家族全員がその負債を抱えてるってわけだよ」 そんな話を聞いているうちに、タクシーは止まった。 運転手が「見ろ」と合図した顎の先には、古びた酒屋の看板がある。 『岡島酒店』 その白いペンキが、あちこち剥がれて、文字が途切れている。 聡美は、バッグから折り畳みのレインコートを出して、袖に手を通した。 運転手に礼を言い、運賃を多めに払って、 「すこし、待っていてもらえますか」 そう伝えてタクシーを降りた。 雨足が強くなっている。暴風が辺りの木々を揺らして、ゴーゴーと 唸り声をあげている。                       ☆ 店の戸には板が何枚もうちつけられているが、たぶん台風のためでは ないのだろう。  古い木造家屋の外装は、板がところどころ持ち上がっている。それが 風に煽られて、大きな音を立てていた。 割られたガラス窓の内側から ベニヤ板が無造作に打ち付けられている。 裏に回ると色褪せた朱色のドアがある。 横にチャイムのボタンを見つけ たが、すぐ上のところで線が切れている。 聡美は、ドアをノックした。 誰も出てくる様子がない。 ドアに鍵がかけられている。 何度かノック しつづけたが、やはり誰も出てこなかった。 「誰も住んでるわけないか。 この家、差し押さえられてるんだ」 諦めて通りの様子を窺うと、まだタクシーのエンジン音が聞こえる。折り返し あのタクシーに乗って駅まで戻るしかない・・そう思って歩き出したときに 車は出ていってしまった。 「え、どうして?」 聡美は、足を失った。周りに隣接する家もない。 しかたなく今、車で来た方向に戻るように歩き出した。 向かい風でなかなか思うように進めない。 レインコートのフードの紐を絞っても、雨はあいている隙間に容赦なく 入り込んでくる。まるで滝の中を歩いているように雨も風も勢いを 増していた。 公衆電話も見あたらず、車も一台も通らなくなった。 アスファルトの道路も、ところどころ、水たまりと化し、靴を 脱いで裸足でバシャバシャと入っていくしかない。 そうして30分ほど歩いた頃、さきほど乗ったタクシーが後方からやってきた。  聡美のその姿に気づいているはずだろう。手を振ってみたが、ずぶぬれの客を 乗せる気が無いのだろうか、嘲笑するように追い越していくだけだった。  「何よ、東京の人間は冷たいって! アンタだって自分の事しか考えて  ないくせに! 金、返せー」 聡美は、わけが分からなくなって怒鳴っていた。 もうレインコートの内側もずぶぬれになっている。 こんな姿で駅に着いたとしても、果たして汽車に乗れるだろうか。 思わず自分のやっていることがおかしくなってしまった。 とぼとぼと歩きながら、遙香の事を考えていた。 ごく普通に学生生活を送っていた。 勉強もちゃんとしていた。 逆に潰れそうになるほどの問題を抱えていた から学校生活や友達を大切にしていたのかもしれない。 同好会に出席して、美恵子や聡美とカラオケを歌いにも行った。 帰宅した後、今度は夜の町で働いていたなんて想像できなかった。 自分で稼いだお金の殆どを家族に送っていたのだろう。 父親によって次々と巻き起こされる不祥事に、不安で将来の希望 も絶たれそうになったこともあったのだろう。 悩み事の一切を隠していたと思うとせつない。  なにも気づいてやれなかったことを悔いていた。   それにしても、普段生活している自分の町とここは本当に地続きなのだ ろうか、風と雨の音しか聞こえない。まるで異次元の中をさまようようだ。 遙香の心を吹き抜ける嵐には及ばないのだろうか。 「遙香ー、どこにいるのぉ」 (つづく)



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