http://www.cqc.state.ny.us/fclehr.htm Parents' Perspective on Facilitated Communication by Sue Lehr ファシリテーテッド・コミュニケーションへの両親たちの視点 Sue Lehr  「重度障害を持ったお子さんにファシリテーテッド・コミュニケーションを用いてコミュニケーションを行わせるということは、どういうことでしょうか?」あるジャーナリストがこの質問をある母親に投げると、彼女はこう答えたのだった。「それは、もう一度子供を授かるようなことです」。そして彼女は、彼女の娘がちょうど8歳の時、自分自身について、自分が好きな事や嫌いな事について、そして自分にとって人生とはどのようなものであるかを母親に説明を始めたときのことを語り始めるのだった。  それまでの8年間、自閉症と診断されたこの小児は、食事や快適さについてのごく基礎的な要求を表すコミュニケーションを行うために、初歩的な身振りといくつかの音声を使っていた。今ではしかしながら、ファシリテーテッド・コミュニケーションを使うことにより(文末引用文献参照)、彼女は彼女の母親へ「彼女の髪を短くしてほしい」「友達がほしい」「母親に自分が精神遅滞ではないと知ってほしい」と告げることが出来る。この母親がもう一度子供を授かるようなことだと感じるのは当然である。ある意味において、彼女は自分の定義によりもう一度子供を授かったのである。しかしながら評論家の表現によれば、彼女は障害児の親ほぼ全ての典型なのだ。彼女は奇跡の療法を待ち望み、彼女の子供が「普通」「治癒した」「回復した」ものと見なすことを可能にするような僥倖を探していた。  親たちが信じているものは偶然の力なのか?それとも彼らは何か別のことを考えているのか?彼らはファシリテーテッド・コミュニケーション自体とそれが彼らの子供たちに及ぼす影響を本当に考えているのか?過去5年間、コミュニケーション方法の一部としてファシリテーションを組織的に使用している家族たちの集団(両親、兄弟姉妹、里親)及びその友人たちと、私は交流を続けてきた。それに加え、電話や手紙や人づてで世界中の親たちが、彼らの経験を私に伝えてきてもいる。自閉症と診断された私の子供が、16歳の時からファシリテートを始めているということを彼らは知っているので、彼らは私にコンタクトしたのだ。子供がファシリテーションを通じたコミュニケーションを始めた時に何が起きたのかを、親たちの視点からより深く十分に理解するため、私は6家族と継続的に接触し、ほぼ一年に渡り彼らとの間で踏み込んだインタビューを行った。この研究からの大きな発見のいくつかを、この文章に記すことにする。 彼らの子供への考え方の変化  おそらくもっとも劇的な発見の一つは、彼らの子供について理解してきたことに対して疑問を持ち始めたことだろう。自らの子供の障害について多くのことを知っていると彼らは十分に認めていたのだが、人間としての我が子についてほとんど何も知らなかったことを、彼らは次第に理解したのだった。20年以上を発達障害施設で過ごしている男性を子供に持つある母親は、彼女の子供が夕食のハムが好きではないと記したとき、くすくすと笑った。ハムは彼の好物の一つだと考えていたので、彼が自宅に帰るときに彼女はしばしばハムを用意していたのだった。別の機会に、彼女の息子が車の運転を学びたいと言ったとき、彼女は面食らってしまった。彼が自分で運転が出来ると考えているのかどうかを彼女が彼に訪ねると、彼はこうタイプしたのだった。うん、でも運転なんて少しもしたくないけどね。  また別のある親は、彼女の末娘Jillが姉のヨーロッパ旅行中の安全を気に掛けているとタイプした手紙を読んで、気を失いそうになった。Jillは姉がいなくなることを寂しがるという点について母親はわかっていたが、Jillに姉を心配する能力があること、まして姉の行き先を理解していたなど思いもつかないことだった。また別の機会に別のファシリテーターの補助を受け、Jillは彼女にとって脳性麻痺であることはどういうことかについてエッセイをタイプした。私が話そうとするとき、理解することは辛いことです…それは辛いことです。彼女の母親は、彼女の視点から障碍を考えたことは一度もなかった。また別の母親はこう要約した。「ファシリテートできること、彼が言おうとすることを真に理解することはまさにすばらしいことです。私はそこから常に学び続けているのです」。 彼らの子供への話し方と接し方の変化  彼らの子供について彼らがより多くを学ぶにつれ、彼らの子供への話し方、話す内容及びその時期を変える必要があることを認識するようになった。ほとんどの親たちは、彼らの子供が赤ん坊のようなものであるとして話しかけていた事に気が付いた。また、彼らは今いる人々について話をするとき、しばしば子供がそこにいないかのように振る舞っていたことにも気が付いた。「私は彼をまるで家具のひとつのように扱っていたと思います」とある親は語った。実際に親たちがそのほか気が付いたのは、彼らの子供に本当に話しかけることはごくまれだったということで、特にそれは普通の事、たとえば週末の予定であったり、今日の出来事であったり、社会の出来事であった。それらの慣れ親しんだパターンを変えることは難しいが、親たちは挑戦しようとしている。なぜなら、親たちは彼らの息子や娘についての新しい事実をもっと発見し続けることができると信じており、この可能性に捕らわれてしまうからだ。もちろん時には、親たちは学ぶものが気に入らないこともある。ある夫婦は、彼らの息子が生活する発達障害施設が彼らの息子に行うケアに満足し、かつ彼もそこを彼の家として好んでいると信じていた。「地獄」という彼の施設の記述に対して、彼らは面食らった。 機会における変化  彼らの息子や娘はもはや、以前に比べ能力があり、知的であり、出来ることが増え、自分一人もしくは他者の介助により理解力を持ったことで、新しい経験につながる新しい機会を手にするようになった。養護学級での全ての教育を終了したある男子青年は、高校で通常学級の歴史の授業を受けるために彼の母親と担当教師を説き伏せた。彼はその他の授業について、そして卒業後にしたいことについても計画を練っていた。人生のほとんどを発達障害施設で過ごしてきたこの男子青年は、地域の施設に移ることもできた。しかしそれでも彼はまだ幸せではなかった。彼は両親とともに住みたいと思っていて、それは以前なら不可能だと考えられていた。彼に必要な補助のあれこれを自分の両親が理解する手助けを彼は行うことができ、両親の補助で彼は家へ帰った。何年もの間家庭教師を受けていたまた別の女子青年は、健常者の高校へ入学することができ、友達ができはじめた。これらの機会はやがて訪れたのかもしれない。しかし両親たちの視点から見れば、ファシリテーションを通じて彼らの子供たちが要望や好き嫌いを意志表示することが出来たからこそ、子供たちの夢を叶える手助けはより容易だったのだ。 要約と結論  ファシリテーテッド・コミュニケーションは両親たちに新たな子供、もはや障害が彼ら自身であることの核心ではない子供を授ける。両親たちは新たな理由とこれまでとは異なる方法を持って、彼らの子供たちを理解するようになり、理解しようと学び、そして愛し始めている。彼らは彼らの子供たちを、学習能力があり、新たなことを成し遂げられるものとして見るようになっている。彼らは彼らの子供たちが新たな経験に興味を持つのを目の当たりにしており、彼らが自らの決定を行うのに参加する機会を見ている。それらの新しい機会により、新しい期待や高まる情熱がいくつか訪れているが、それらのいくつかは実現されるし、いくつかは実現されないだろう。これらの両親たちにとって今や現実とは、彼らが彼らの子供たちの言葉や意見から与えられる、肯定的な経験や期待により形成されるのだ。疑いなく、これにより全ての人々が新たなジレンマや挑戦を与えられるが、しかし、ある親が言うように「私は戻ることなど出来ない、ええ、以前そうだった状況には」。 文末引用文献 Biklen, D. "Communication unbound: Autism and praxis." Harvard Educational Review, 60, (1990), 291-314. Crossley, R. Unexpected communication attainments by persons diagnosed as autistic and intellectually impaired. Paper presented at the meeting of the International Society for Augmentative and Alternative Communication, Los Angeles, CA, October, 1988.