国際サバイバル道場
還暦過ぎのジジイから一言
国際サバイバル道場ゲストブックへの書き込み /元パラグアイ開拓の大先輩の体験談より
(1)
還暦過ぎのジジイですが、40年前にパラグワイに移住して、現在はアメリカのカリフォルニアに住んでいます、私の経験からいくらお題目を唱えても、実行しなくては何もならないと思います、それには先ず私が卒業した農大拓殖科の標語「ゴリラのごとく、たくましくーー!野獣の様な生活力を持てーー!」これに尽きると今でも思っています、それは今までの実践と経験で悟り、今も自分で食べる有機野菜は夏の間は自給しています、ナイフ一本有れば鹿、豚、ウサギなども簡単に肉に卸してしまいます、米、トウモロコシ、マンジョーカなども土地さえあれば自分で栽培します。
そんな人間ですが今でも残念の思っているのは、冒険家と言われた、植村直己氏です、アコンカグワに単独登山してブエノスにいた頃を知っていますが、その時に彼のやり方ではいつか遭難か、事故死するだろうと思いました。そして、私がアメリカに根を下ろし、家族で安住の土地と定めてカリフォルニアで生活始めて、彼はマッキンレーで遭難しました。私はその時に残念な気持ちでした。
その直ぐ後、近所の大口径ライフル射撃場で会った休暇中のアメリカ軍人が話してくれましたが、彼はアラスカのレーダー基地で仕事をしていて、彼の遭難の経緯を詳しく知っていて、「いくら単独登頂をしても遭難して死ぬ事は失敗だーー!そんなことを誉める日本人の気持ちが知れないーー、アラスカで勤務して任務をやり遂げても凍傷や怪我をして任務を遂行してもそれはアメリカ軍隊では不名誉な任務遂行と非難される」と彼が話した事は今でも心に残っています。
人はそれぞれですが、私は3人も子供にも恵まれ、今は全部育ってしまい、残りの人生を淡々と生きています、今までの人生も悔いがない、幸せな人生と思っています、今も毎日5〜7kmは歩き、虫歯一本も無い健康体を維持して、畑で汗を流して、生きる楽しさ、幸せを信じる神に感謝して過ごしています。
(2)
私が現在感じる事は、38%以下に下がった穀物自給率を考えると、日本国がこれから生き残る道を考えると、教育と人口増加のこの2つしかないと思います。
40年前でしたら日本の余剰人口対策として、移住の道は有る程度は有効でしたが、しかしサバイバルの国としての道を探す時は、やはり教育の他は有りません、
土地も無く、資源もなく、人口減少では100年の先は日本国は現在の半分の人口と成り果てて、アジアでは人口最貧国と転落して、活力としての国の力が無くなると思います、
一番良き例は百年も前にパラグワイが起した3国戦争で国の男性の殆どが戦死あるいは、捕虜となって国が南米では最下位となってしまった経歴が有ります、歴史が残した教訓は忘れてはいけません、単に生き残ると言う事は一人の人間の力だけでは何も出来ません、いくら格闘技や空手、柔道など出来てもそれは単に一人の人間の力です、武器を持てば、か弱き女性でもその様な人間を簡単に倒す事が出来ます。
現代は昔からしたら比較にならないほどの攻撃的な武器が有ります、その様な考えですると、集団=国民で国をこれから日本を百年の後も残すと言う事が一番大事と思う様になりました。
教育を成して、国を豊かにして、穀物生産と備蓄、資源の開発特に深海開発と新エネルギーを世界で先駆けて開発して、化石製品に頼らないエネルギー政策を取らないと、日本国が稼ぎ出す25%以上の外貨を原油に、25%以上を資源(鉄鉱石、天然資源、木、パルプ等)の輸入に支払っています、新しき研究と開発をする教育が無ければ日本の明日は無いと思います、現在のサバイバルは教育と思います、教育無くして日本など有るべき所無しと思う所存です。
(3)
1976年、サンパウロからペルー国境の町を経由して夜間飛行でマナオスからアマゾン河の河口の町、ベレンに飛んだ時、アマゾンのジャングルがえんえんと燃え盛っていました。それが飛行機の窓から見えていましたので、山焼きのすさまじい様子を見る事が出来ました。
それからアルゼンチンでもその頃はかなりの勢いでジャングルが開発されて木材、パルプ、牧畜用地などになっていました。 1時間トラックで走っても煙が空を覆っていました。それは全部人間がこの地球を破壊していたのです、
排気ガス、オゾン層の破壊、スモッグ公害、1977年にロサンゼルスで飛行機から着陸する時、幾重のスモッグの厚い層を突き抜けて降りて行ったのには驚愕しました。その頃はまだカリフォルニアではスモッグ規制が無かったのです、
しかし今では、後進国と言われる開発途上国での森林破壊は木材の切り出しだけでは有りません、毎日に炊飯での煮たきに使用する為に切られる森林です、アフリカのエチオピアではその燃料に使用する物がなくて、道路のアスファルトをはがして燃料に使用していました。
貴方が考えー、思いー、思考する原点の視野は心豊かな郷土愛の緑です、しかし現実はもっと危険で化石燃料の大量使用、車社会のスモッグの大気汚染、後進国での森林伐採山焼きでの大気汚染、それをつぶさに見て来ました。
砂糖きびの収穫する前に茂った葉は燃やされて処理され、砂糖きびの茎だけにして収穫します、その燃やす煙は100キロも離れた所からも見る事が有りました。
天を覆う様な煙でしたーー、それが毎年繰り返されます、その収穫に墨人形で真っ黒で働く人達の姿を見て、炎天下の重労働を昔はアフリカから連れてこられた奴隷がしていました。
私はそれを見てから砂糖を使う事に心痛み、30年近くコーヒーやお茶などに砂糖を使用するのを止めています、沢山使用さえれるソーダー類も一切飲みません、個人的な心の反抗です。
アマゾンでの森林乱伐の一番はジャンブルを切り開いて牧草地として開発して、牛を育てて、一番の需要があるフアーストフードのハンバーガーミートにされるからです、アメリカや、ヨーロッパなど、勿論の事に日本も含まれます、大量に買いつけています、
私の同級生はそれを覚り、今はアマゾンの植林運動に生涯をかけて運動しています、それまで彼はジャンブルを伐採して牧草地として肉牛を生産していたからです、私は自分の信条として、抵抗としてファースト.フードのハンバーガーは食べません、ハンバーガーを作る時は七面鳥の肉で豆腐を混ぜて作ります、その肉も自然放し飼いの鳥肉を使用しています、
私が思い考えてーー、心の信条としている、緑と空の青さはーー、反骨と言われても、このかけがいのない地球を、こよなく愛するからですーー、貴方も私が見た空を見れば、少しは私を解かってくれると信じていますーー、年取ったインジオが言った言葉はーー、「地球は誰の物でもない、皆のものーー、子供に残す物ーー」
(4)
私の南米生活もかれこれ40年もの前になります、時間が経つのが早いので、ふと〜!思い出す事が時代的にどこで有ったか戸惑う事が有ります、しかしーー、自分の心の画像にしっかりと焼きついた景色は迷う事無く思い浮かべる事が出来ます。
ある晴れた日でした。直ぐ前の日に雨が少し降りまして、空には雲一つ無くて、青と言うより 、濃紺の感じがする空の色でした。
近くには一番近いと言っても180キロ離れた所に小さな精油所が有るだけで、工場は同じく190キロぐらい離れた精糖工場が有りましたが、季節的に稼動していません、砂糖きびの収穫時期だけでした。
インジオが薪にする木々を取りに行く小道を伝って歩いていました。持っているものは水筒と、ズボンのベルトに差した拳銃だけで、いつものインジオ老人の案内で歩いていましたが、彼の話しを聞きながらゆっくりと歩いていると、一部何も生えていない所に出て来たら、そこに大きな木が一本だけ立っていましたので話しを聞くと「オンブー」と言う木だそうでした。別名、水木と言われて、どんな山火事でも必ず残る木でした。その地域はインジオが薪にして、ほとんど伐採してしまったそうで、残った木が薪にならないオンブーの木だけ残っていました。
少し小高い斜面を登ると、パットーー!と開けた頂上に出て、地平線まで広がる、広大なジャングルが目に飛びこんで来ました。そこから見る空の色の素晴らしさーー、色鮮やかさーー、 現在の空からするとあの時の空の色は、人生で一番綺麗な素晴らしい空の色でした。
現在は晴れても白味掛かった青空です、抜けるような濃紺のどんな青色でも染める事が出来ない色と思いました。遠くは黒味掛かった色彩で空があくまで澄んでいると言う感じでしたが、 空に感動したのはその時が初めてでした。遠くのジャングルのかなたに、一本の煙が真っ直ぐに、真っ直ぐに、立ち上っていました。
あそこには誰か住んで居るのだと、風も無いその空に、人恋しく誰かを呼ぶ様に、立ち上っていました。何百キロと言う広い広大な面積に、地球と言う丸みさえ感じる広大なジャングルが広がっていました。側でインジオが腰を下ろして、黙って空を見上げていました。「昔は毎日がこんな空だったーーー!、」「今では雨上がりしか見られないーー」
人間と馬しか歩けない道で、誰もこの土地を荒らす人は居なかったそうです、40年もの前に見た空が恋しくて時々思い出す事が有ります、空が毎年毎年ーー、汚くなって行くみたいです。 私の人生も、時間も、全てが過去に流れてーー、年取った人生の様に、空も汚くなっていったと思います、それにしては早過ぎると思いますーー、
(5)
環境破壊は自己の欲望の集積が集団となり、そして社会となって破壊を推し進めています、 64年にアマンバイ農協に行った時、アメリカ人のジョンソン氏に、キャピタンバードで 会いました。彼が林間(モンテ、カフェー)栽培を考えてコーヒーを栽培していた頃です、
それから、名前を忘れてしまいましたが、砂糖の代わりとなる甘味植物をインジオから栽培 を習って試験栽培していました。その頃65歳近い、独身のアメリカ人が残りの生涯を掛け、 その様な事をしている事に感銘を受けた事が有ります。
現在、私も「持続的循環型消費社会」を実行して生きています、履いている靴は36年前に新婚旅行に履いて行った物です、背広もその時着たのが一着有るきりです、現在栽培している野菜の種も殆ど自分で採取しています、
生きると言う事を、自分の力で行なっています、世界市場統一化はこれからの環境破壊と、 人口増加、自然災害などの総体的は対応の為に必要悪と解釈しています、これからは 一か国の対応と農業生産とでは世界の食料需給のバランスは保てません、私みたいな人間が 10億人居れば別ですがーー!
(6)
私が思うに、戦前の宮崎県に文人が中心で開いた「新しき村」の精神、理念など、それに通じる、ブラジルの弓場農場などの相対性など、芸術と文化的行動と実践が調和する理想の社会を目指して生活していた沢山の人は、人生、一度の生涯の時間を疑問も無く、それに打ち込み精神も根気も持続出来る人は少ないものです、この件の講義は当時1961年頃に農大の杉野忠夫教授が講義の中で総体的な輪郭から、組織細部の分派行動までを聞いた事が有ります、
農業はあくまで、自然との対話でしか動かす事は出来ません、私はそれを悟り、自覚して、 その様な集団や、それを信じる人々とは行動を共には、いたしませんでした。
今でもそれは間違いなかった事と思っています、私の様に精神的、肉体的、社会的にも根本を学び、自分で実践と行動とを生涯のライフ、ワークとして、毎日が勉強と研鑚の場とすると、おのずから道が見えて来るものです、
現在の生活は淡々としたもので、私は毎朝、豆乳に大豆の黄粉を混ぜて飲み、野菜サラダとパン一切れか、サツマイモを食して、それに果物を少し食べて仕事に出ます、一日仕事をして健康を信ずる神に感謝して毎日を力一杯仕事して、帰宅して自分の有機野菜の手入れをして、夕食とするような平凡な毎日です、しかし満ち足りた人生と感じています。これからは貴方のような方が実践と行動を持って、多くの人の模範となって貰いたいと思う所存です、
(7)
現在の日本は将来は、この世界に生き残れるか、私は疑問を抱く様になりました。
アメリカの穀物戦略と、オイルなどや鉱物など、天然資源戦略、それに付随する様に、 新しく問題化した、名ずけて『蔬菜戦略』です、これは中国政府が日本を食料戦略の一貫 として、蔬菜の輸出を図り、日本の近郊蔬菜栽培を窮地に落とし入れ、価格破壊と日本での 生産農家を栽培経営をなり立たない価格に追い込んで、パテントを取った植物特許を盗み 同じくコピーした種子で生産して、日本市場を食い荒らしています、これでは日本の将来は 他国の食料生産の手に委ねられてしまいます、一度生産を中止した農地をもとの蔬菜栽培の 農地に戻す事は、時間と費用が掛ります、一度、専業農家の専門家を無くすと、中々元に戻る 事は難しい事などです、すでに幾多の野菜は輸入制限などの処置が行なわれています、
ただ安いと言うだけで、安易に国内産野菜を排除して行けば、最後は自分の首を絞める事は 火を見るよりあきらかです、アメリカ産の大豆にしても、国内消費の95%はアメリカ産を 輸入して使用しています、これが輸入中止となっただけで、日本の食生活が45%近くの 落ち込みとなる事は専門家の言うまでも有りません、生き残る為には国民の意識改革の教育 がなければなりません。1960年代は日本でも75%近くの食料自給率が有ったのです、 フランスは現在でもその75%を維持しています、それだけ有れば自国の国民を飢えさせる 事は有りません、他国の穀物戦略などの影響も余り有りません、日本は他のヨーロッパ諸国 と比べて自国の穀物戦略貯蔵が有りません、スイスなどは二ヵ年は他国の援助無しで持ち堪え られます、そして国内の国民が平均して、一ヵ年は自分の家で何らかの形で貯蔵しています、 それは長年の政治と国際環境から学んだ事なのです、しかし日本は戦略貯蔵は一部鉱物資源 のみで、穀物は海外でのサイロなど委託の貯蔵で日本国内では余り有りません、
生きると言う事、生き残ると言う事、これから日本国を持続させ繁栄させる事は何かーー! それは教育と言う意識改革の一番の前提が有って始めて、行なはれえる事と思います、
農大の創立者が言った事は『農学栄えて、農村廃る』、その言葉どうり、理論では有りません、実行と実践を持って、それを活かす事です、それが無ければ日本の先は無いと思います、
一部の農業の経験も無い、無知、無能の現実を見ない、高級官僚が立案する日本農業の将来は 不安と危険ととが入り混じった、混迷の道が有ると思います、昔の移住事業団が一部の警察 官僚の天下りの場であった様に、移住事業がドミニカ移住の失敗、パラグワイ移住の誤算など 遠因としてあるのです、私も1964年、パラグワイの移住地の墓地で子供の墓標の多い事に 心痛み、アスンションの日本大使館で訪ねた折に係官に話すと、現下に『今は移住が始まった ばかりだからーー!』と返事が返り、憤激した覚えが有ります、それより25年前の戦前、 ラ.コルメナに移住地が開かれていたからです、その時官僚の心などは、戦後の外地などから の引き上げ者の棄民的な移住政策の心ではなかったかと、思ったくらいですーー、
実際にクワを持ち、斧を振るってジャングルを開拓した人々を数には数えては居ません、 生産物の販路も無い事は、生活を維持する、農業経営さえ出来ない事です、現金収入を得る 為に、パラグワイでエンカルの町を日本人が野菜を籠に入れて一軒、一軒訪ねて売り歩いて いたのを見た事が有ります、売り上げた僅かなお金で、帰りに生活必用品を買って帰宅して いたのを見ています、生きると言う事は、家族を養う事は、将来を切り開く事は全てが 自分の力で、やり遂げられなければならないのですーーーー!。
その根本は日本の教育と思います。
(8)
パラグワイの移住では、最初のラ.コルメナの移住者で移住前は熊本の阿蘇の麓で農業を していました、隈部友吉氏が日本に訪問され、南米に戻られる船の中で知り合いまして、 長い船中で色々な話しを聞く事が出来ました。
彼は永い間ぺールに移住して、かなりの語学が出来、子供達も男が四名とペールーで育った 長男は語学も堪能で、移住地では一番の篤農家でしたが、やはり良く知った南米情勢を 分析して、長男を先ずアルゼンチンに先発として行かせて、それから家族が全員で移住して 行きました。
その詳しい細部に渡った過程を聞く事が出来、私のその後の情勢分析とそれ以降の時間を無駄 にする事が無かったので感謝しています、人生の大半を南米の移住に捧げた彼の考えは やはり場所が違えども、人生の幸福、ゆとりの有る将来、家族の繁栄、どれも一度限りの 人生を考えて、真剣に考えていました。細い身体でどこに情熱が秘められて居るかと思う 感じでした。
それから、満州開拓団長をされ戦後1964年当時55歳で定年退職されて、パラグワイに 家族で移住されて行かれた吉崎千秋先生の話しも、心残る理論と実践を両立させた行動で 今でも思い出します、満州から敗戦で引き上げて来る時、極限の飢餓状態での人間の行動を 話してくださった事は、生涯忘れる事は有りません、家族で数個のジャガイモを食べる時に 先生は『中の身は自分が食べて、皮を子供に食べさせた、自分が生きなければ家族が死ぬと感じ、先ず極限状態では誰か率先して引きずって行く人間が必要であるーー!』
私はその言葉を今でも忘れることは出来ません、生き残ると言う事は、生きると言う事は、 率先して、それを見極めて実行出来る勇気と、体力と根気と情熱が必要と感じました。 私が教えを受けた人で、生涯の指導者はやはり、前京都大学助教授、のち農大教授で農学博士、杉野忠夫先生です、満州開拓に理想の夢を掛け、戦後は農民道場を富山の山奥で開き、多くの農民指導者を育てました。
請われて農大教授となられてからは、若い青年達に理想の農業を指導され、何時も長靴と腰手ぬぐいでのいでたちで、農家のおじさんと言う感じでしたが、理念とする心は多くの若者の共感を呼び、その中の一人が私であります、71名の卒業した中で半分が海外に出かけて、また残りが関連する仕事についた事は、特筆にかすと思います、そのくらいのカリマス性が有ったと思います、杉野先生に共感する多くの人が居て、行動して、その理論を実践して広めて、維持している事は、これも特筆にかすと思います、
先生の理念はひとつの形や、体系では有りません、またひとつの理想郷を作ると言う小さな 形態では有りません、総括して、多くの宣教師的な行動する若者を実践を持ってあらゆる所 にぶつけられる人間を輩出したのです、パラグワイのイグワス移住地も後輩が移住して居ると思います、その同期の仲間も今年に入って、カナダで一人、ブラジルのアマゾンで一人が亡くなっています、寂しい限りですーー!
(9)
ドイツ系の『メノニ−タ』がドイツ系二世、ネストロエン氏がパラグワイ大統領時代チャコ地方で綿の栽培を始めた頃に、たしか1960年の前後と思います、
エンカルや、アスンションなどで、売春婦を駆り集めて綿摘みに駆り出した話しを聞いた事が有ります。詳しい事は知りませんが、宗教と政治が結託すると恐ろしいと感じた事が有ります、これはアメリカのユタ州に本山が有る、モルモン教も一部、町と市と、州の政治を動かしています。一般的なアメリカの生活形態からはかけ離れた、一夫多妻なども現在でも残しているモルモン教徒が居ます、
現代の社会からすると、受け入れられない形態も有ります。でも私が感心して、実行して、成果を挙げたのは、パラグワイで見た、メノニータが実行していた、子供のドイツ語教育で毎日、本の1ページを読んで書かないと、夕食を子供に与えないのを見て、それと、子供達が上手ドイツ語を話して、読み書きが出来るのに驚き、『これだ〜!』と心に感じまして、アメリカに永住してから、三人の子供に同じ様な事を6ヵ年続けさせました。
結果は大成功で、長男は同時通訳のレベルで、後の二人も現在でも日本語を話して、家の中での会話は全て日本語で行なっています、二度ほど夕食をストを起して食べさせませんでした。『アメリカまで来て、何で日本語を勉強しなくてはならないか?』とーー、
しかし大人になって、『有り難うーー、日本語を教えてくれて、』と感謝してくれました。 現在は三人の子供は全部育ってしまい家には居ません、寂しくなりましたが、子供がアメリカと言う大地に根を降ろして育って行くのが良く分かります。
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